今朝8時台だけど、
17年前は激震からまだ2時間余り、
寒い日だったけれど、
夢中で実家の倒れた柱にうずくまっていた母を連れ出し、
戦災後のような街をなんとかじぐざぐで進んで
甲子園の義父を倒れかけの家から連れ出して、
大阪府にある職場に直行した。
今考えるとすごい早業で、
交通停滞直前のことだった。
兵庫県から大阪府に入るとそこはまるで別の世界のようだった。
うちでは死者はなく
いずれも全壊と心の重症が残った。
職場ではさいわい高齢入居者250人は無事で
でもすべての住戸のなかはめちゃくちゃだった。
でも365日24時間サービスの有料老人ホームは
いちばん安全な場所だとそのとき自負したし、
今もその考えは変わらない。
1.17で
無数の悲劇からいろいろな新しい関係も生まれ、
だれもが大なり小なり関係した。
今17年が経過して、
そのとき生きていた人も震災で人生が変わり
寿命も変わってしまった。
傷跡は表面から深部へといまも生きている。
こんなことがあっていいのかと思った1.17だったけど、
3.11はその2 倍以上の悲惨さだし、
そのうえに
原発のせいで半わが国の半永久的障害になった。
二度あることは三度以上はあるという時代に生きているのだ。
僕が今書いているこの部屋は
もちろんめちゃめちゃだったけど、
大工さんが修復して見かけは回復した。
この部屋の前にあるシュロの木の深い根が
この部屋を守ったらしい。

