全926件 (926件中 1-50件目)
今日(日本は8日、アメリカは7日)は太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃の70周年でした。若い方には遠い歴史かも知れませんが、その年に生まれ、その歴史と共に生きて来た70歳の私には深い思い入れがあります。今日はロサンゼルス時間の午前10時55分、私は妻と一緒にあるアメリカ人のお墓にお参りしました。それはハワイ時間では午前7時55分、最初の日本の爆撃機による爆弾が投下された時間です。お参りした人の名前はエディー・ブルックスと言います。2006年の5月に87歳で亡くなりました。彼は真珠湾攻撃のアメリカ側の英雄でした。真珠湾攻撃の有名な写真に燃え盛る戦艦ウェスト・バージニアに救助に向かう5人の救助隊の姿があります。救助船の一番後ろに立っているのがエディです。ホノルルのアリゾナメモリアルを訪れると当日の記録映画が上映されていますが、そこにもエディの姿があります。エディは海軍のボクシング・チャンピオンで、前日土曜日の午後には戦艦アリゾナの乗組員たちにボクシングのコーチをしていました。その後、シャワーを浴び、夕食をご馳走になり、映画を観ました(映画のタイトルを聞きましたが、彼は思い出せませんでした)。アリゾナの艦長に「エディ、君の船の艦長に連絡して置くから、今日はアリゾナで過ごし、明日も皆にコーチして呉れよ」と依頼されました。しかしボクシングはチャンピオンでも海軍のクラスではまだ若い下っ端の水兵だった彼は恐縮して遠慮し、自分の所属する船(アラゴン)に戻りました。翌日午前7時55分、アラゴンで朝食を取っていた彼は大きな爆発音で甲板に飛び出しました。見上げる空にはうんかのごとく日の丸を両翼に付けた日本の飛行機が飛び回り、爆弾や魚雷を発射していました。一波の攻撃が終るとすぐに彼はウェストバージニアの乗組員の救助に向かいました。ウェストバージニアの上で零戦の機関銃攻撃を受けました。その一発が左の足のかかとに当たりましたが、何と言う幸運か、ゴムの部分に当たり負傷は免れました。しかし彼はアリゾナのボクシング仲間や艦長、そして同じ故郷の親友を一夜にして失いました。アリゾナは三日間燃え続けたそうです。四日目に鎮火した後、彼は大半が海中に沈んだアリゾナを訪問しました。彼はその時に日本軍が落とした800キロ爆弾の破片を拾いました。その破片と、彼をウェストバージニア上で撃ってきた機関銃の弾を、親しい仲間を失った悲しみや日本軍への恨みを忘れないように、ずっと60年余り大切に持っていました。2004年のことですが、私が父の潜水艦がボルネオ沖で沈めたオランダの潜水艦の乗組員家族や、父の潜水艦をマラッカ海峡で沈めたイギリスの潜水艦の艦長の家族と和解し、友情を結んでいることを地元の新聞に掲載された記事で知りました。元敵同士だった日英蘭三家族の友情の物語を知ったエディは私に電話して来て、私にその爆弾の破片と機関銃弾を貰って欲しいと言いました。彼もその時85歳、死も遠くないと感じ、悲しみや恨みも昇華して死にたかったのかも知れません。その後、お互いの住まいが近いこともあって、彼の死までの2年間、本当に親しい交流が続きました。今日の墓参りには花と一緒にその爆弾の破片と機関銃弾も備えて祈りました。今日は雲ひとつない青空でした。心地良い太陽の光でした。彼の眠る墓からはロサンゼルス港やロングビーチ港が見えます。それはハワイに続き、更に彼が戦ったガダルカナルなど、広い太平洋に続いています。彼の霊の安からんことを祈り、この太平洋がいつまでも平和な海であるよう祈りました。日米は今は緊密な友好関係にありますが、またぞろアメリカと中国の間には経済や軍事面などで対立関係や懸念も浮かび始めています。母国日本の平和と安寧を祈り、私の思いを日本への提案として書きました。浅学非才も省みず、失礼や恥ずかしさも省みず、多くの方にお送りしています。もし宜しければ下記のサイトよりお読み頂ければ、嬉しく思います。私は一見問題山積の日本ですが、実は今こそあらたな躍進と豊かさの機会が訪れていると感じています。(終り)https://docs.google.com/document/d/1-TMbCkQBA62vD6F9Q_ljNJBJzM8Y6yizzcPMe2XjyAE/edit
2011.12.08
コメント(0)
カナダからメールが届きました。大学の後輩のM君です。ロサンゼルス地域では一昨日強風が吹き荒れ、一部には家が倒壊したり、大木が走行中の車に倒れて来たりとかなりの被害がありました。そのテレビ報道を見て、私の家は大丈夫だったかと聞き合わせて来たメールでした。ロサンゼルスと言ってもかなり広大で、我が家の一帯からはるか北の方で、我が家には何の被害もありませんでした。テレビ報道は被害のあったところだけを集めて映します。被害のないところは全く映しませんから、ついつい離れていると心配してしまいます。M君はもう43年前になりますが、突然私のロサンゼルスのアパートに飛び込んで来ました。カナダでの農業移民に応募し、裸一貫でモントリオールに飛ぶ途中でした。何やら日本で心から愛していた人に振られ、全てを捨てて新天地に移住したのでした。その時、23歳だったでしょうか。何年かの農業研修の後、モントリオールの田舎の方で養豚業を始め、懸命に働き、かなりの成功をしました。知人の紹介で知りあった日本人女性を日本から呼び寄せ、結婚し、その後は二人でがんばりました。子供も生まれ、現在では孫も三人います。しかし、四年ほど前に豚肉の価格が急落し、豚農園一本に集中していた彼は大変な窮地に陥りました。毎月のエサ代よりも販売価格が下回り、赤字の時が続きました。このままでは一家路頭に迷うことになると思い、思い切り、養豚業に見切りを付け、広大な豚農園も売り飛ばしました。そのお金で農地を借り、小麦や大豆やとうもろこしの栽培を始めました。子供達の手伝いも得て、夫婦が心を一つにして頑張りました。今日のメールにはいずれも今年は大豊作で、所得税の支払いが心配だと言っていました。「所得税を心配するなど、嬉しい悲鳴だよ。こちらは年金生活でショボショボしているのに」と返事に書きました。しかし、人生いろいろですね。失恋がきっかけとなり、誰一人知る人のないカナダに飛び込み、彼ももう60代後半になっています。今日は私は屋根に昇り、屋根の下のトイの剥げたペンキを塗っていた時に、「ところでM君は今頃どうしているのかな。彼も裸一貫カナダに飛び込み、よう頑張ったな」と思っていたところなので、シンクロニシティと言うか、以心伝心と言うか、パソコンを開けて吃驚した一日でした。(終り)
2011.12.04
コメント(0)
今日の午後はサンタモニカの試写室で開催されたあるドキュメンタリー映画の試写会に招待を受け、参加しました。映画のタイトルは「MIS - Human Secret Weapon」と言います。前回米陸軍史上最強と言われた442日系人部隊のドキュメンタリーを制作したすずきじゅんいち監督の最新作です。MISはMilitary Intelligence Serviceの略で、太平洋戦争で米軍の情報機関として活躍した日系米人部隊の名前です。太平洋の戦場に約3千人の日系二世兵士が送られ、日本軍の無線連絡を傍受したり、捕虜になった日本兵の尋問などに当たりました。彼らの活躍のお陰で太平洋戦争は二年早く終ったとすら言われていますが、米国陸軍は彼らの存在を長く秘密にして来ました。それほど米軍に取っては貴重で有益で、そして余り知られたくない情報機関だったのです。日本の敗戦後には占領軍の一員として、占領軍と日本政府との話し合いの通訳などにも約3千人のMISが当たりました。ある意味では日本の戦後の復興を円滑にした縁の力持ちの役割も担いました。その一方で親や先祖の母国である日本に敵対した米国生まれの二世としての苦悩や複雑な感情もあったようです。映画は素晴らしい出来でした。欧州戦線で華やかに壮烈に戦闘成果を上げた442部隊の映画と違い、隠密裏に行動したMISの映画を飽きさせず長時間楽しませるのは難しいだろうと思っていたのですが、私の懸念は全くの杞憂でした。心に迫る証言者達の話の間に貴重な写真や記録映画が挿入され、最後まで感動の時間でした。親兄弟は敵性外人として不法にも収容所に入れられている中で、米国に忠誠を示すべく、あえて親の母国である日本と戦った人々の記録です。中には兄弟四人が二人は米国兵として二人は日本兵として戦った家族などもありました。証言者達が一応に言った言葉は「戦争ほど残酷なものはない。決して二度とすべきではない」でした。この映画の日本での公開は来年6月頃になりそうですが、是非ご覧になる事をお勧めします。それまでは下記の英文サイトでさわりは観れるかも知れません。http://www.mis-film.comすずきさんはこの映画を昨年夏に一時生死が危ぶまれる大きな交通事故を起こした後、痛む身体を押さえながら撮影を続けていました。今日の試写会の後で体調を聞きましたが、今でもリハビリが続いているそうです。彼の根性と言うか、ねばりと言うか、使命感にも心から感服した今日の試写会でした。(終り)
2011.12.02
コメント(0)
ニューヨーク・タイムズの電子版を読んでいたら、アメリカで給食制度がある学校区で子供のランチ代補助を申請する親が急激に増えているという記事がありました。州によっては、学校区の制度が違い、子供達は親に作ってもらったサンドウィッチなどをブラウンバッグ(茶色の紙袋)などに入れて持って行く学校もあるのですが、給食制度のある学校では補助制度を設けています。全額補助もあれば、6割補助もあります。その全額補助を受ける子供達の数が5年前の1千8百万人から今年は2千百万人に増えたそうです。17パーセントの増加だそうです。その理由は経済不況です。親が失職し、子供の給食代も払えないとして補助申請が増えているそうです。アメリカには貧困層の数もかなりあり、以前から生活援助としてフードスタンプと呼ばれる食料援助などがあり、当然そのような家庭の子供は学校でも給食費の全額負担を受けています。しかし最近では従来の中間層の家庭の子供が親の失業のために給食補助を受けているそうです。ミネソタ州では住宅建設不況のために木材業界が不振で解雇者が増えたり、フロリダ州では観光業が不振でホテルやレストランで働いていた人々が職を失っているそうです。4人家族で年収2万9千ドル以下の家族の子供であれば全額補助、4万1千ドル以下であれば6割補助だそうです。日本では子供の給食代を滞納している親がモンスター・ペアレントの一種としてテレビなどで取り上げられていましたが、ずるいのではなく、中には家計が苦しいためと言うのもありそうです。アメリカでも日本でもそして欧州でも従来の中間層が親の失業のために、貧困層に落ちているようです。その一方で一部の富裕層は過去20年間でその資産を増やしたといわれています。今もアメリカ各地で経済格差のあまりの大きさに反撥する人々のデモが続いています。やはり何としてでも失業率を減らす必要があります。しかし、そのためにはどうしたら良いのでしょうか。リーマンショックが諸悪の根源のようですが、単に金融界の暴走だけでなく、従来の「産業社会」から現在の「ネットワーク社会」への移行、縦型垂直社会から横型水平社会への変換に伴う混乱と痛みかなとも感じます。環境問題や原発問題なども含め、資本主義のあり方そのものにも大胆な時代的変換が必要なのかなと思います。それが何なのかはまだはっきりしませんが、少なくともそれは商業主義や物優先ではないのは間違いありません。思いやりや助け合いと言った、一見経済生活とは関係ないような価値観を追及するところに見付かるのではないかなと思います。(終り)
2011.12.01
コメント(0)
米国の大統領選挙は一年以上続く長丁場の戦いで、時にはまるで超長距離の競馬を見ているような感じになります。現在は共和党の候補者同士の激しいトップ争いが続いています。一時急速に追い上げてきた黒人のハーマン・ケインさんでしたが、女性スキャンダルのため、脱落しそうです。現在まで5人の女性が彼に昔セクハラを受けたと名乗り出て、彼は必死に否定していましたが、大分追い込まれています。今日のテレビのニュースではそのうちの一人との不倫スキャンダルが出て来ました。「単なる友達だ」と説明していた女性と奥さんのグロリア・ケインさんに隠れて13年間も付き合いがあったことが明らかになり、奥さんが大いに怒っていると伝えていました。今日のCNNのニュースでは「性的なつながりはなかった」と弁解していましたが、奥さんに隠れて13年間も付き合い、生活費を援助し、一緒に旅行したこともあることが判明した現在ではその弁解は虚ろに聞こえます。恐らく近日中に候補者撤退となる気配が大です。保守派の代表だった彼が脱落すると、共和党の保守層はギングリッチ元下院議長の支持に回り、俄然彼の人気が上昇します。現在本命視されているマサチューセッツ知事のロムニーさんを凌ぐ勢いです。その変化をいち早く察したのか、テレビ取材に対し、ギングリッチさんは「自分も完全な人間ではない」と切り出し、自分の過去の不倫騒ぎがまた再燃しないように防衛線を張っています。ギングリッチさんは現在の奥さんは三人目で、極めて今は家族安定のようですが、彼女と知り合ったのはギングリッチさんが二人目の女性と結婚している時でした。その際に彼の不倫騒ぎがマスコミにばれて、結局彼は二人目の女性とは離婚し、それからしばらくして現在の奥さんと再婚したそうです。大統領選挙は長期に渡るだけに、過去の歴史や記録がとことん洗われます。お互いに候補者同士の叩き合いもあれば、マスコミによる暴露もあります。それにしても、女性スキャンダルで沈んでいく政治家の数の多さに驚きます。政治家を志す者は女性スキャンダルを起こさない覚悟を候補者になる何十年も前から持たなきゃいけないようです。(終り)
2011.11.29
コメント(0)
私はかなりスカイプを利用させて頂いています。何せ無料でいつでも世界中とテレビ会議が出来るのですから有り難いものです。仕事の上でも仲間との打ち合わせや私的にも友人・知人との情報交換や歓談に使っています。昨日の土曜日も鹿児島県の沖永良部にお住まいの89歳の東さんというおじいさんご夫妻と歓談を楽しみました。東さんの弟さんと私の父親が同じ潜水艦で戦死した繋がりで、6年前には一緒にマラッカ海峡で海上慰霊祭を一緒に行ったことがあります。東さんは元小中高の教師で、今でもいろんなことに関心をお持ちになり、現在は息子さんに教えて貰ってイーメールなどもなさいます。さすがにスカイプ会議だけは息子さんの手伝いが必要のようですが。沖永良部は鹿児島市から飛行機や船で通いますが、人口1万5千人ほどの南の島です。農業や漁業が中心で、サトウキビから作る黒砂糖やオキエラブ・ユリの名前で知られる百合の花の栽培なども良い収入源になっているようです。西郷隆盛が藩主島津久光の怒りを買い、流された島としても知られています。西郷さんはある時は雨嵐が吹きつけ、ある時は灼熱の太陽が直接焦がす獄舎の中で筆舌に尽くせないほどの苦難の時を過ごしたそうです。しかしその苦労の中から有名な「敬天愛人」の思想に辿り着いたとも言われています。東さんは西郷南洲翁の遺徳を継承する地元の会のメンバーでもあります。週に三日はディケアセンターで10数名の仲間と歓談し、それ以外は子供達と話したり、イーメールをしたり、そしてたまには私とスカイプ雑談をしたりの生活のようですが、とてもお元気です。終戦の日からずっと現在まで毎日かかさず日記を書き続けていらっしゃるそうです。もう66年以上になります。凄いものですね。(終り)
2011.11.28
コメント(0)
感謝祭の四日連休で久し振りにノンビリしています。昨日はいつものように七面鳥ディナーでした。今日もまだ食べ残した七面鳥が銀色のアルミフォイルに包まれてダイニング・テーブルの上に鎮座しています。スタッフィングやヤムやクランベリージュースやコーンやポテトサラダなどもプラスチックのボックスに入れられ、丸で空母(七面鳥)の後ろに並ぶ駆逐艦隊みたいな感じです。妻はいつも20ポンドの大きな七面鳥を焼くのですが、いつも一日では食べ切れず、二日、三日と掛かります。妻や息子は七面鳥の肉が好きで、ターキーサンドイッチにしたり、サラダに入れたりと楽しんでいます。七面鳥の肉は白身が多く、脂身が少ないので、ダイエットには良いそうです。チキンよりは少し淡白な味です。私も渡米してから三・四年はその大味なところとわずかな特徴ある匂いが苦手でした。独身時代、会社の社長の家で毎年ご馳走になりましたが、お付き合いで、少し食べる感じでした。しかし数年経ってからは味が楽しめるようになり、今ではサンクスギビング・デーやクリスマスには喜んで食べています。私の妻の七面鳥料理はとても美味しく、焼き過ぎず、ジューシーな感じで皆に人気があります。サンクスギビング・ディナーにはいつも準備されるパンプキン・パイも甘くて美味しいです。糖尿の私にはあまり良くないのですが、それでも食べます。アメリカでは毎年感謝祭に4千6百万羽の七面鳥が殺されるそうです。因みにアメリカの人口は3億2千万人近くです。七面鳥にとっては感謝祭はとんでもない災難の日ですね。1621年にイギリスからプリマスに上陸し、殖民地を開いた開拓者達が地元のインディアンと共に感謝祭を祝ったことから始まったようです。今日では感謝祭には欠かせない料理となりました。我が家のテーブルの上の4千6百万分の一の七面鳥に感謝の気持ちで手を合わせました。(終り)
2011.11.26
コメント(1)
大阪にNPO法人スマイルスタイルという組織があり、代表理事を務めているのは塩山諒さんという27歳の若者だそうです。ネットを通じて若者に呼びかけ、大阪市内の繁華街や公園などで夜ゴミひろいのイベントなどを行ったりしているそうです。それ以外にも若者たちの夢を集めるイベントなど若者らしい面白いイベントを楽しみながら企画・実行しているようです。その団体が主催して大阪の北区で「100人のニート」を集めての集いを行ったそうです。ニート自身がいかにそこから脱却するかを話し合ったそうです。私はアサヒドットコムの今日の記事で読んだのですが、タイトルには「100人のニート文殊の知恵」とありました。記事には二人のニートのコメントが紹介されていました。私はその集いでどのようなコメントが出、どのような意見や提案が出たのか、もっと知りたいと思い、スマイルスタイルと塩山代表理事のことをネットで調べて見ました。スマイルスタイルのスタッフによるブログを見つけました。なかなかに楽しく面白いブログです。見知らぬ若者たちがオフやオンラインで出会い、ボランティア活動を行っているようです。ゴミ拾いで知り合った若者二人が結婚し、それをゴミ拾い仲間が祝うユニークな結婚式もあったようです。二人の幸せと、それを祝う仲間達のかもし出す楽しい雰囲気がこちらにも伝わる感じでした。婚活パーティにうつつを抜かすより、このような社会のために役立つボランティア活動に参加する方がより良い相手に出会えるのかも知れません。もう一つ嬉しかったのはりそな銀行や大阪商工会議所などがこのNPO法人とコラボしていろんなイベントを実行していることです。私は「絆」こそ、個人や社会が必要とするものだと感じているのですが、このように企業とNPOがその枠を越えての絆、そして世代を越えた絆作りが大切だと思っているので、このコラボもとても嬉しいニュースでした。ついつい年寄りの私たちは「今どきの若者は根性がない」とか「自分勝手でひ弱だ」とか悪口を言うのですが、なかなかどうして、新しい社会状況の中で彼らなりの発想と行動で、面白いことをやっているようです。悪口の言いぱなしでなく、彼らと一緒に何か行動するのも必要かと思います。私は塩山代表に声援のメッセージを送りました。因みに彼らのブログのサイトは下記です。http://blog.zaq.ne.jp/smilestyle/若者たちが希望を持って頑張れることがとても大切だと私は思っており、「ニート」や「ひきこもり」の若者が自分達で立ち上がるこのような行動がそのきっかけになると信じています。(終り)
2011.11.24
コメント(1)
先週忙しかったもう一つの理由は私と妻が心から尊敬するある空手家を彼のサンタアナ市にある道場に訪ねたからです。サンタアナ市はオレンジカウンティにあり、我が家からは約1時間ほどの運転距離です。名前を出村文夫さんと言い、道場の名前は玄武館と言います。出村先生は知る人ぞ知る有名人です。ブルース・リーにヌンチャクを指導した師匠でもあり、ハリウッド映画の「カラテキッド」で主役のパットモリタさんの吹き替えを務めたりしています。ショーン・コネリーはじめ多くのハリウッド映画スターのアクション指導なども行っています。10日ほど前もチャック・ノリスに依頼されて彼が主催したラスベガスでのイベントにも友情参加していました。弟子の中にはショーコスギさんや生島ひろしさんなどもいます。武道を通じて米国に貢献したとして、クリントン大統領やブッシュ大統領、オバマ大統領などからも表彰状を贈られています。しかし私と妻が彼を尊敬するのは彼のそんな有名人との繋がりではありません。空手を通じて日本の武道の心と誇りをアメリカを中心として世界の人々に伝えたいと願う彼の気持と、その実績です。一年半前に聞いた数字ですが、彼のお弟子さんはアメリカのみならず世界30数ヶ国に2万5千人おり、その孫弟子まで含めると6万人位になるそうです。現在ではその数字はもっと増えているでしょう。空手道場の運営は世界どこでも経営的に必ずしも楽ではないそうで、出村先生はいわゆるフランチャイズ料金を取りません。世界中の道場運営者はそのお金の心配がないために、各国で極めて健全で安定した運営を行うことが出来、そして安心して指導にあたることが出来るそうです。もし出村先生が一人10ドルのフランチャイズ料金でも徴収すれば、すぐに60万ドルです。簡単にお金持ちになれますが、それを彼はしません。それだけに彼のサンタアナの道場も過去40数年間変らない極めてオンボロな道場です。見かねた弟子達が最近も入り口の門や道場の壁などを率先して直したそうです。数多くの弟子の中には大工さんや左官屋さんなどありとあらゆる職業の人がいるそうです。一昨日もオレンジ郡で検察官をやっている弟子の依頼で、検事や警察官を2百名ほど集めて日本の武道の心について話をしたそうです。私はあまり人を羨まない方なのですが、出村先生の生き方だけは本当に羨ましいです。1960年代に三度も日本の空手選手権で優勝した出村先生ですが、1965年にアメリカに渡り、好きな道をひたすら邁進して来ました。現在ではアメリカを中心に、世界30数ヶ国に彼を慕う弟子がおり、いつも順繰りに先生の訪問を待ち構えています。行くと大歓迎だそうです。また出村先生は独身で、あまり財産もなさそうですが、お金はほとんど必要ないと言っています。スーパーマーケットの経営者である弟子が常に食料品や果物などを届けてくれ、着るものなどもお店を経営する弟子が時折届けてくれるそうです。最近も先生の家に日本式のお風呂を作って贈りたいと、何人かの建築や内装をなりわいとする弟子がわいわい言いながら工事を進めているそうです。出村先生は現在72歳で今年6月に脳出血で倒れたそうですが、医者をしている弟子が手術し、現在はリハビリもうまく行き、歩いています。私たちが訪問している間も老若男女のアメリカ人が次々に先生に挨拶に来ていました。道場に入る前と出る前は日本式に深々と頭を下げ、先生とそして対話している私と妻にも極めて丁寧な挨拶です。また出村先生が弟子達に注ぐ目も優しいです。中には以前は手の付けられないような暴れ者だった男の子などもいるそうですが、今は目を輝かしながら嬉々として練習に励んでいました。昔家が貧乏で空手の授業代を払えなかった子供には道場の掃除をさせ、無料で学ばせたそうです。それから18年が経ち、その子供はオレンジカウンティで一番大きい高層ビルの窓拭き会社の社長になっています。現在では800人を雇っているそうです。そのような話が出村先生の周りには一杯あります。私と妻が心から尊敬する理由です。彼は「お世話になったアメリカのために今後も日本人として武道を通じて恩返しがしたい」と言っています。彼こそ、日米友好と共に日本人としての誇りをアメリカ人に伝えている人だと思います。そしてお金や財産ではなく、人間関係や心の喜びや生き甲斐という点で、最高に豊かな人だと感じています。(終り)
2011.11.23
コメント(0)
先週はやけに忙しい一週間でした。ブログを書く時間もありませんでした。今日からやっと落ち着き、妻のお供で買い物に行き、たった今、戻ったばかりです。いつもは食料品の買出しはもっぱら妻が行ってくれており、私が行くことは少ないのですが、今日の買い物は今週木曜日の感謝祭のディナーの準備で、冷凍した七面鳥が重いので、私の出番となりました。我が家はいつも20ポンドの大きな七面鳥を焼きます。今日から三日掛けて、ゆっくりと自然に解凍するのが美味しく焼くコツだそうです。忙しい理由の一つは突然のオランダからの来客でした。インテルの関係の会議に参加すべくカリフォルニアを訪れていた女性が帰国前に一日時間が出来たとのことで、急に電話が入りました。クレア・ブーンストラという36歳の女性です。夕食を一緒にしようとのことで、彼女が帰国前の一泊だけ予約したLA空港近くのホテルに行きました。ところがあいにくそのホテルの近くで大掛かりな電気工事が行われており、騒音が大きいでした。部屋も綺麗ではあるが、エアコンの音が煩いとのことで、急遽我が家に一泊することになりました。ところが我が家にある四つの寝室は塞がっています。一つはコンピューター・ルームになっており、私たち夫婦のマスターベッドルームの他に居候中の息子や妻の弟が二つの寝室を占拠中です。結局、ゲストルームのフロアーにマットレスと布団を敷いて寝ることになりました。クレアはオランダで注目されている起業家です。天下のインテルから多額の投資を受けた有望企業の共同創業者です。そんな彼女をフロアーに寝かすなどは誠に失礼なことですが、彼女はそれでも良いと言いました。なるべく私たちと長く一緒に過ごしたい希望もあったようです。彼女の写真と彼女の会社Layarの情報は下記のサイトにあります。とても美人で魅力的な女性経営者です。http://www.layar.com/company/founders/彼女は私の親しいオランダ人女性、カチャ・ブーンストラの娘です。2004年にオランダのカチャの家とアイルランドのお城で会いました。今度が三度目の出会いです。2004年の8月にアイルランドのお城(オーランモア城)で会った時にはまだ起業前でしたが、私の息子やクレアの妹や弟たちと一緒に寝袋で過ごしたことがありました。あの時の寝袋よりはうんと我が家のフロアーのマットレスと布団の方が快適です。クレアは大学生時代にはグライダー部のキャプテンをしたり、戦死した祖父の潜水艦を探してボルネオ沖で潜水したりと、極めて活発で元気な女性です。因みに彼女の祖父が乗っていたオランダ潜水艦を沈めたのが私の父親が乗っていた潜水艦でした。つまり彼女の家族と私の家族は第二次世界大戦中の仇同士なのです。クレアは私の息子と彼女の会社の仕事の内容などを話していました。私の息子もウェブのデザインやプログラミングをなりわいとしており、二人の話は盛り上がっていました。これから将来が大いに期待されているAugumented Realityという技術分野の話のようですが、技術に疎い私にはもう一つ付いていけません。楽しそうに話す二人を見ながら、私は一種の感慨に耽っていました。もし二人が仕事の上で協力して行うようになれば、その発端は今から70年も前に祖父同士が殺し合ったからです。世の中には本当に不思議な出会いもあるものですね。(終り)
2011.11.22
コメント(0)
昨日の雨が上がり、今日の日曜日は穏やかな秋の陽射しの気持ち良い一日でした。昼過ぎに妻の妹の家族が全員7人で久し振りに訪問して呉れ、楽しい時を過ごしました。妻の妹はベルギー人の男性と結婚して30数年になり、二人の間には二人の娘がいます。マキとケーシーと言いますが、二人とも結婚し、マキには7歳の息子と2歳の娘がいます。ケーシーもウィスコンシン州から来たスエーデン系アメリカ人と昨年結婚し、まだ子供はいません。今日の集いのプリンセスは2歳のミヤでした。かなりちゃんとした会話のやり取りが出来るようになっており、そのかわいらしさはひとしおでした。先週はスカイプで彼女ともお喋りしていたのですが、やはり直接会うと彼女の成長振りが実感されます。今日の彼女の課題は我が家の1歳2ヶ月になる犬(モチと言います)との出会いでした。マルティーズとプードルの混血で、身体は小さいのですが、最初の内はミヤも怖がり、母親の陰に隠れていましたが、帰る頃にはエサを上げたり、頭を撫ぜたりと仲良くなっていました。先月猫に手を引っ掛かれて、少し動物嫌いになっていたようですが、今日のモチとの交流で、少しは良くなったかなと思います。今から30年ほど前、マキが我が家で犬を怖がっていたことがありました。その時も妻がうまく取り持って、最後には親しくなりました。歴史は繰り返すと言うか、母親のマキも娘のミヤも我が家で同じ経験をしたようです。夜には日本からの来客がありました。稲塚秀孝という方で私たち夫婦の7年来の友人です。ドキュメンタリー映画の監督・プロデューサーで、最近の作品には「二重被爆 語り部山口つとむの遺言」があります。今回UCLAなどで上映会が開かれるので、昨日ロサンゼルスにお見えになりました。現在は福島での原発被害に遭った人々の取材を続けていらっしゃいます。来年には完成するようですが、相馬市に滞在しながら飯館村などに住む人々との対話を通じて、人類と原子力の問題を探りたいとのことです。現地の事情を詳しく聞くことが出来て、あらためで目に見えない放射能の問題の深刻さを実感しました。(終り)
2011.11.14
コメント(0)
先ほど「ほのぼのと懐かしい気分」と書いたのですが、ふと「ほのぼの」とは英語ではどういうかなと疑問を持ちました。ネットの和英辞書でひいたら「dimly」と出て来ました。ほのぼのと朝があけるさまの描写には正しいですが、人間の気持ちの表現としては違います。いろいろ調べて見ましたが、適切な英語の語彙は見つかりません。自動翻訳で「ほのぼのと懐かしい」と入れたら「It is nostalgic dimly」と全く変な翻訳が出て来ました。こんな英語では通じません。日本の国語辞典には「ほのぼの」の描写として朝が明ける様と人間の感情と二つありますが、英語の「dimly」には後者の意味はないようです。国語辞典には「ほのぼの」は「ほんのりとあたたかい」とあります。ほのぼのとした気持ちを英語で表すとしたら「heartwarming」という言葉になるかなーと思いますが、やはりそこには「ほんのり」としたニュアンスは入りにくい感じです。やはり感情表現がはっきりしている民族と、少し押さえがちな私たち日本人との違いなのでしょうか? それにしても日本語には「ほのぼの」だの「ほんのり」だの、あえやかな細かい感情を表現する言葉が多いですね。長年自然と共生する中で育った日本民族の感性なのでしょうか。(終り)
2011.11.12
コメント(0)
先週リトルトーキョーの図書館で妻が借りた漫画の中の一冊に「サザエさん」がありました。長谷川町子さんが描いたサザエさんは沢山ありますが、これは「よりぬきサザエさん No.3」です。私もちょっと覗いてみました。サザエさんの漫画は私が子供の頃からあったように思いますが、当時の日本の日々の生活の様が磯野家を中心にして描かれています。その中の一つにワカメとカツオが大声で歌をうたっている四コマ漫画がありました。最初の一コマ目で二人は「あいちゃんはたろうのヨメにぃなる~」と楽しそうです。二コマ目でお母さんが「そんなウタうたっちゃいけません!」とおっかない顔で叱りつけています。三コマ目でカツオが「どうしていけないの?」とワカメに聞き、ワカメは「きっとなまえがいけないのよ、お父さんとお母さんのなまえにすればいい」と答えます。そして最後の四コマ目ではワカメとカツオは今度はさらに声を張り上げて「舟ちゃんは波平のよめにぃなる~」とうたいながら外に出掛け、お母さんは赤い顔をしている漫画です。そう言えば、そんな歌がありました。ちょっとネットで調べてみたら昭和31年(1956年)鈴木三重子の歌で大ヒットしたとあります。作詞は原俊雄、作曲は村沢良介です。ネットは便利ですね、歌声の映像まで観れました。歌の題は「愛ちゃんはお嫁に」と言い、次のような歌詞です。「さようなら さようなら 今日限り 愛ちゃんは太郎の嫁になる 俺らのこころを知りながら でしゃばりお米に手を引かれ 愛ちゃんは太郎の嫁になる」当時私も15歳でしたが、ラジオから流れるこの歌を聞いた記憶があります。もちろんワカメとカツオはその歌の内容などには無頓着で、何度も耳に聞きなれた歌を再現しただけでしょうが、お母さんに叱られてしまいました。今日の子ども達はもっともっとオシャマになっていますが、当時はこれ位の歌でも大人は子供に禁止していたのでしょうね。大人顔負けにテレビや舞台で歌い踊る今日の子供達と比べ、時代の変化を感じます。物の値段やまだテレビがない時代の状況など、とても懐かしさを覚えます。磯野家の人々や近所や街中の人々の生活も、やはり時代は今よりもうんとゆっくり流れていたのでしょう。テレビが出来たり、携帯電話が出来たり、快適に便利にはなったものの、あの時代の伸びやかさは失われたようです。サザエさんの漫画を読みながら、ほのぼのとした懐かしい気分になりました。(終り)
2011.11.12
コメント(0)
今日は今さっきまでCNBCで報道された共和党大統領候補8人の討論会に聞き入っていました。討論会場はミシガン州にあるオークランド大学の講堂です。2時間の短い時間の間に8人の候補者がパネリストから次々に質問を受けるので、候補者も要領良く自分の言いたいポイントを纏めて話さなければなりません。高度の受け答え能力、討議能力が求められます。こうしながら米国の政治家は国民の目にさらされ、磨かれて行きます。今日の討論では今まで急速にロムニーさん(マサチューセッツ州知事)を追い上げて来ていたペリーさん(テキサス州知事)が大きく失敗しました。「政府支出を大幅にカットし、小さな政府を実現する。そのために三つの省は廃止する」と威勢良く主張したまでは良かったのですが、パネリストの一人に廃止する部署を聞かれて、「商務省、教育省」を上げた後、三つ目が出て来ませんでした。一瞬視聴者が彼の信念や頭脳に関する疑問を持ちました。現在ロムニーさんと並んで人気のある黒人のケインさん(レストラン業で成功した実業家)は十年以上も前のセクハラ疑惑がこの10日位連日メディアで報道されているのですが、その割りには今日の討論会ではうまくかわした感じでした。なるべくその話題に引きずり込まれないように彼が主張し、メディアの注目を得ている税制改革案と経済回復案について熱弁をふるいました。今日は大いに健闘した感じです。ケインさんは法人税と所得税を一律9%に下げ、その代わりに新しく9%の連邦消費税を新設する税制改革案で注目を浴びています。現在米国の法人税は最大35%で、所得税は所得額により10%から35%まであります。(米国では現在各州が小売税を徴収しています)彼はそのプランを「999プラン」と呼んでいますが、その実効性にはいくらか疑問ありです。それだと中間層が結局より大きな負担を負うことになると批判されています。私の素人意見ではテキサス出身のポウル連邦議員と元中国大使のハンツマンさんは今日は弱かったなー、その点ただ紅一点のバックマンさん(ミネソタ州選出下院議員)は受け答えがシャープで頭が良さそうだなー、古株の政治家ギングリッチさんが案外これから人気が出るかも知れないなーとか、いろいろ楽しみました。今日のCNBCのテーマは「Your Money, Your Vote」というものだったので、主には経済問題(経済上昇、雇用率向上、税制改革)が話し合われました。一つ驚いたのは多くの候補者が中国に対する悪口や批判を語ったことです。元中国大使のハンツマンさんはさすがに慎重な意見でしたが、共和党候補者の中国批判の激しさには驚きました。中国はドルに対する元の価値を人工的にコントロールし、米国産の製品の中国への輸出を制限しているとか、知的所有権の問題とか、中国によるサイバー攻撃とかまで候補者達は口々に述べていました。バックマンさんは「米国は毎年巨額な金利を中国に払い、そのお金が中国の軍の経費を支えている。米国は中国からの借金の額を減らすべきであり、そのためにも小さな政府にして、政府の経費を抑えるべきだ」と言っていました。一昔前は日本が貿易不均衡だとして叩かれたものですが、現在ではそれは叩く対象は日本から中国に移っています。(喜んでよいのか、悲しんでよいのか)やはりこれから30年ほどは米国と中国の政府交渉は年々厳しくなるだろうなと感じました。短い討論コンテストの中ではじっくり自分の意見を披露出来ず、いきおい元気の良い、短い言葉になるのだろうと思いますが、米国の政治家、特に大統領でも目指そうと言う人には、アジアの事情をもっと一生懸命勉強して欲しいなと感じました。これからまだまだ何回も共和党候補者たちの激しい戦いが続きます。その内に一人、そしてまた一人と落ちて行くでしょう。(終り)
2011.11.10
コメント(0)
今日フリーウェイを走りながらラジオを聴いていたら、米国における肥満症患者の増加とそれがもたらす影響について識者達が語っていました。米国では人口の33.8パーセントの人が肥満症だそうです。肥満症とは単なる肥満ではなく、病理学的に対処を必要としている程の肥満を言うそうです。それにしても大変な数字です。確かに米国では太った人を多く見かけます。日本の相撲取りもびっくりするような体型の人は珍しくありません。日本からの訪問客が驚くのはレストランで出される料理の量の多さです。大きな皿からこぼれるほどの量です。野菜サラダなども時には馬にでも食べさすのかと思うほどの量です。これでは肥満になるのは無理ないと思います。米国人の好む料理は肉やジャガイモ、揚げたチキン、バターにチーズ、そしてピザやスパゲッティなどです。また食事の後には必ずデザートが欠かせません。このデザートが甘いチョコレートやクリームなどをふんだんに使ったものが多いのです。これでは太るのは当たり前です。それに米国は車社会です。買い物に行くのも、遊びに出掛けるのも、すべて車です。家のガレージから目的地まで、そしてまた戻るまで、歩く距離は極めてわずかです。その点では日本での公共交通網を使う生活の方が遥かに健康的です。日本人は知らぬ間に毎日沢山の距離を歩いています。駅の階段の昇り下りなども自然に運動の役割をして呉れています。いま米国政府は肥満症を治そうと一生懸命努力しています。まずは子供からと、学校に置かれていたソフトドリンクのベンディング・マシンを撤去しました。子供達の糖分の取り過ぎを止める為です。また全米のファーストフード・チェーンに肥満の原因になる油の使用を止めるように指示したり、ダイエット促進キャンペーンを行っています。日本人は太っている人が少ないのはきっとその食生活のせいだろうとして、日本食も注目されています。肉食を少なくして、白身の魚や大豆製品をなるべく食するようにとのキャンペーンもなされています。そのお陰で現在米国ではスシや刺身やソバやトーフが人気を呼んでいます。日本のお茶も大分飲まれ始めています。肥満症は多くの健康障害を引き起こし、それが医療費の高騰をもたらし、国家的にも大きな経済的損失だとして、より健康的な米国人を作るべく、政府の呼びかけに応じて、全米の都市で肥満症解消を目指すNPOなどが生まれています。歩くことや運動すること、食事療法を行うことなどを地域で指導・促進しています。健康な国民を作ることは医療費を下げると共に、国全体の幸せを増します。国民が健康であれば、社会にも多く貢献出来ます。肥満はありとあらゆる病気のもととなるので、米国のみならず、世界中で努力すべきテーマなのかも知れません。(終り)
2011.11.08
コメント(0)
今日は私が関与しているオフィスの引越しをしました。「盛和塾」という中小企業の経営者達が集う練成塾のオフィスです。十人余りが参加して行ったので、わずか二時間余りで終わりました。主には机や椅子、本箱に冷蔵庫、パソコン、プリンター、コピーマシンなどのオフィス機器でしたが、今までのビルの二階から一階へ運び出し、次には新しいビルの二階に持ち上げるので、少し苦労がありました。今までのビルにはエレベーターが使えたので、何とかなったのですが、移転先には外付けの階段があるだけで、ドアーや廊下の幅も広くなく、大きな机や冷蔵庫などを入れるのに苦労しました。もっとも私が70歳で一番高齢者だったので、皆が気を遣ってくれ、重たいものは何も持たせてくれず、30代、40代の塾生が頑張ってくれました。今日の引越しの中で一つ感じたことがありました。それは引越し用の大型トラックを運転していたホセというメキシコ人運転手のことです。狭い階段や狭いドアーや廊下をうまく通すのに苦労している私たちを見かねて彼が手伝ってくれました。実にうまいのです。まるで居合い抜きの名人が自分の手より長い刀を鞘から抜き、戻すように、大きい机や冷蔵庫を斜めにしたり、立てたりしながら、狭い幅をなんなく通しました。最後は皆で彼の上手さに拍手で感謝しました。昔80年代から90年代に掛けて私はメキシコでの日系工場の手伝いをしたことがあります。今日ホセさんを見て、当時に感じたメキシコの技術者や労働者のことを思い出しました。600人程働いていたその工場には日本の本社から数名の若い技術者が来ていました。工専や技大で勉強した優秀な技術者達です。ところが機械が故障すると、なんのかんのと言ってすぐに直せないのです。その理由を聞いたら、取り替える部品がないとか、工具がないと言うのです。日本から合う部品や工具を取り寄せるのに何日も時間のロスがありました。ところがメキシコの技術者はそれを見て、色んな工夫をして、ちゃんとした部品や工具がなくても、何とか機械を修理してしまうのです。私は日本の技術者の方がメキシコの技術者より最先端の技術を学び、優れていると思っていたのですが、マニュアルに無い問題などが発生した時の処理にはメキシコの技術者の方が機転や工夫が利くことを実感しました。今日の若い技術者はその用途用途にぴったり合った部品や工具がないと直せなくなっているのです。メキシコ人労働者の中には、それこそカナズチ一つあれば何でも直してしまうようなベテランもいました。あまりに工具や機械が便利になると、それがないと何も出来ないという状態になりますが、メキシコなどではまだまだ工夫が生きています。昔の日本の技術者は今のメキシコの技術者たちと同じようでした。一般人でもちゃんとした工具がなくても、工夫して物作りや修理をこなしたものです。現代の日本はあまりにも便利になり、その用途用途に特化した優れた工具や製品が出来ています。それだけに昔物がない時代に多くあった工夫や知恵が少なくなったように思います。今日では料理でもその種類に合ったいろいろな料理器具があります。昔は鍋一つでいろいろこなしたものでした。余りにも便利になると、その半面で工夫する知恵が失われるのかなと感じています。ひょっとしたら教育にも同じようなことが言えるかも知れません。勉強馬鹿、知識馬鹿と言うか、根本的な生き抜くための知恵や強さが逆に失われるのかも知れないと思っています。(終り)
2011.11.07
コメント(0)
今日の土曜日は午後から妻に誘われ一緒にリトルトーキョーにある図書館に行きました。図書館は我が家の近くにも二・三ヶ所あるのですが、妻は日本の漫画や絵本を借りたいとのことで、日本語の図書も多いリトルトーキョーまで足を伸ばしました。ロサンゼルス市の図書館は何十ヶ所もあり、借りたところと返すところは別々でも良いので、とても便利です。返却はリトルトーキョーまで行かなくても、近くの図書館で返却出来ます。妻は子供向けの長編の絵入りファンタージー物語を執筆中で、時折物語の展開に迷うと、頭を休める目的と、ひょっとしたらヒントが得られるかも知れないとして、色んな漫画や絵本を読んでいます。図書館では一人一回に付き、10冊まで借りられます。今日は私の図書カードも使い、20冊も借りて来ました。三週間まで借りられ、もし必要ならば、もう一回三週間の延長が可能です。延長手続きは簡単にインターネットで出来ます。帰りは夕方になりましたが、陽が落ちると大分気温が落ち、晩秋の気配でした。夏時間も明日の日曜日の午前2時で終わります。パソコンや携帯電話などは自動的に冬時間へ移行してくれますが、家中のアナログの時計は全部、今夜寝る前に一時間針を戻す必要があります。夏時間の間は日本とロサンゼルスの時間差は16時間ですが、明日からは17時間になります。日本でこちらの時間を知るには冬時間の間は日本の時間に7を足し、1日を引くば良いです。例えば日本の11月11日の午前11時はロサンゼルス時間の11月10日の18時(午後6時)となります。明日は午前9時から関与する事務所の引越しがあるのですが、今夜うっかり時計を直さずにいると、一人だけ約束の時間から1時間も早く行き過ぎてしまいます。まー遅れるよりはましでしょうが。春に冬時間(標準時間)から夏時間に移行する際にはうっかりして1時間遅れてしまう場合も多々あります。特に飛行機に乗る際などには注意が必要です。冬時間(標準時間)に入ると、日の暮れがうんと早くなった感じで、午後5時に仕事を終えてオフィスを出ると、もうとっぷり日は暮れ、夜のとばりが広がり始めています。夏の間は午後8時位まで明るくて、ゴルフの打ちっぱなしなども出来るのですが。日の暮れの早さと共に、気温も下がり始め、感謝祭、そしてクリスマスと何かと慌しい気分になる季節です。(終り)
2011.11.06
コメント(1)
昨日米国時間の2日、ワシントンの連邦議会で、第二次世界大戦中に欧州での激戦や太平洋地域での情報収集などで活躍した日系人部隊に対する「議会金メダル」の授与式が行われた。「議会金メダル」は「大統領自由勲章」と並ぶ米国の最高勲章である。米陸軍の第100歩兵大隊と第442連隊、軍情報機関「MIS」の元兵士ら1万9千人に対して与えられた。アメリカ国民全体を代表して議会が授与する感謝の表明である。連邦議会の会場には上院議長や下院議長以下数多くの議員が参加し、米国陸軍でもっとも栄誉に輝く日系兵士達に対して賞賛と感謝の言葉を述べた。いつもは激しい党間の争いも消え、民主党議員、共和党議員のいずれもが一致して日系兵士の勇敢さ、愛国心、犠牲心を称えた。数多くの議員達の前で80代、90代の老兵士達は誇りと喜びの表情で立っていた。過去にも兵士達の多くはその勇敢さと功績に対して数多くの名誉勲章やシルバースター勲章を与えられていたが、今度は部隊全体に対して与えられた勲章である。極めて特例である。親や兄弟が米国市民でありながら、収容所に入れられながらも、米国人としての国への忠誠と日本人民族としての誇りのために戦った彼らの心情を思うと、胸が詰まる。彼らの犠牲と貢献のお陰で、戦後日本人に対する偏見は大いに改められ、その恩恵を戦後に渡米して来た私たち日本人も享受している。442部隊に関しては映画なども制作され、かなり知られているが、「MIS]に付いてはあまり知られていない。米軍は戦争が終った後も長い間、国防秘密として、その存在を明らかにして来なかった。「MIS]はMilitary Intelligence Serviceの略で主に太平洋戦線での日本軍の通信傍受などに従事した。6千人近い日系兵士が所属した。彼らの多くは戦後の米軍による日本での占領行政にも活躍した。現在私の友人で442部隊のドキュメンタリー映画を製作したすずきじゅんいち監督が「MIS」の映画も製作中である。来年春に公開される予定である。今は高齢化した彼らだが、現在の生存者は3千5百人ほどだと言う。今年に入って370人が亡くなったらしい。彼らはいずれも85歳以上である。日本生まれの両親のもとで生まれ、太平洋戦争という激動の歴史の中で米国人として命を賭けて戦った彼らも静かに消えつつある。昨日の授賞式は後世に残る輝きを彼らに与えるものだった。(終り)
2011.11.04
コメント(0)
国連の発表では10月31日で世界の人口は70億人になったと推定されるそうです。この前まで60億と覚えていたのですが、凄いですね。貴方も私もその70億人の1人です。その中で日本の人口は少しずつ減りつつあるようです。1億2千万余りでしょうか。それでも世界第10位と言いますから、けっこう世界の中では日本も人口大国の1つなんですよね。何と言っても人口大国は中国とインドです。それぞれ13億や12億を超えていますが、その内にはインドが中国の人口を超えるようです。因みにアメリカは3億ちょっとで3位です。その後にはインドネシア、ブラジル、パキスタン、ナイジェリア、ロシア、バングラデッシュと続き、そして日本です。日本の後にはメキシコ、フィリピンが1億以上組です。欧米や日本の豊かな生活様式が中国やインドにも波及し、広がりつつあります。それはありとあらゆる資源の消費拡大を意味します。かと言って彼らに今までの貧しい生活をしなさいと言うことは出来ません。石油にしろ、食料にしろ、水にしろ、一国主義でなく、世界が一緒になって、その問題の対処にあたらなければなりません。その消費の過程で起きる環境保護も大きな課題です。世界の人々の知恵と工夫が求められています。新しい技術が必要です。その点において、日本には色んな分野で世界に貢献出来る可能性があります。日本の知恵と工夫、技術を積極的に世界で活かすことで、世界に喜ばれると共に、輸出に頼らざるを得ない日本にとっても新たな収入源になり得ます。技術開発・生産・販売と一貫したシステムが求められています。日本に取り、大きな役割と機会が生まれているように感じます。(終り)
2011.10.31
コメント(0)
今日、土曜日の午後、裏庭の芝生の上にゴザを敷き、秋晴れの陽射しを受けながら、「野田佳彦首相所信表明演説」全文をじっくり読みました。内容は判り易く、納得出来るものでした。7項目ありました。最初は「はじめに」2は「被災地の復興を大きく加速するために」、3は「原発事故の一日も早い収束のために」4は「日本経済を建て直すために」、5は「責任ある復興を実現するために」6は「確かな外交・安全保障のために」そして最後は「結びにー確かな希望を抱くために」でした。冒頭に「私たち政治家の覚悟と器量が問われています」と述べ、「国家国民のための大仕事を共に成し遂げようではありませんか」と第179回国会に参加した全議員に呼び掛けているのも良いでした。しかし問題は実行と成果です。この所信表明演説を聞いた国会議員の一人一人が本当に覚悟を決めてくれたでしょうか。東日本大震災の復興のために少なくとも5年間で20兆円近くが必要だそうです。またそれ以外にも上記の目的を果たすために、巨額の資金が必要のようです。その財源は究極のところ税金と借金です。日本の毎年の国家予算は赤字財政で、毎年国債という借金で支えられています。それは長年の間に積み上がり、国や地方を合わせると一千兆円を越えるそうです。首相の演説の中には「今日生まれた子供1人の背中には、既に700万円を超える借金があります」とありました。それは借金の総額を国の人口で割ったもので、もし仮に勤労者数が人口1億2千万人余りの半分だとしたら、勤労者1人あたりの数字は1,400万円になります。日本の勤労者はそれだけの借金を知らないところで負わされているのです。もし1、400万円も借金を抱えていたら、心配と不安で眠れないはずですが、直接自分には関係ないと考えているから、無責任に無頓着でいられる訳です。ギリシャみたいになって初めて、その苦しみを実感することになるのでしょう。政治家達は国民が無頓着なことをいい事に国民に十分説な明もせず、借金を増やして来ました。その政治家を選んだのは国民ですし、彼らの税金や借金の使い方に目を配らなかったのも国民です。今のような状態が続くと、税金は上がり、借金は増えて行くでしょう。野田首相の演説全文を読みながら感じたことは、税金にしろ、借金にしろ、国家支出として使われるお金の効果です。政治家が決定する段階でもそのお金を使う各省庁間での争いがありますが、各省庁ごとの予算が決定した後が問題です。もちろん各省庁のお役人は獲得した予算をそれぞれの目的のために使う訳ですが、お役人はビジネスマンや商売人ではありません。なかなか上手なお金の使い方が出来ないのです。例えば経済産業省がベンチャービジネス振興や中小企業支援のための予算で実際にどれだけの成果・実績を上げられているか。使われたお金とそれで得られた効果のバランスシートは開示されません。各省庁の周りにはそれぞれの目的で準備された予算をうまく掠め取ろうとする悪い商売人達もいます。彼らは担当のお役人に取り入り、確実に補助金が得られるような申請方法を聞き出し、まんまと返さなくて良い補助金を合法的にせしめます。もちろん全てがそのような悪徳商売人や研究者や福祉団体ではありません。しかし一部にはそのような間違った税金や借金の使われ方があるのは事実です。また仮に正当に与えられた補助金でも、それにより、実際に目的を達成する実績や成果が上がったのかを厳しく分析・審査・報告するシステムもありません。出した後はもっともらしい作文の報告書で終わりです。税金と借金をもとに一度予算が組まれ、各省庁にお金が流れると、表面的な収支報告のみで、その後が十分にフォローされていないのです。もし補助金として支出されたのなら、その支出が誰に対して行われ、そしてどのような成果が上がったのか、国民がいつでも見れるような報告書が作成・開示されるべきです。そのような努力を重ねる中からビジネスに疎いお役人も効果の上がるお金の使い方を学んで行くことでしょう。またそれを見た国民から素晴らしい知恵やアイデアも提供されるかも知れません。官民が一緒になって貴重な税金や借金を使って、始めて、首相の言う「希望づくり」に?がるだろうと思います。(終り)
2011.10.30
コメント(2)
今日は午後5時からテレビの前に座り込み、ワールドシリーズの最終戦を見ていました。昨日の第6戦は歴史に残る逆転・逆転のゲームでセントルイス・カージナルスが勝ち、3勝3敗のタイとし、今日の7戦目に向かいました。今日のゲームも熱戦でしたが、結局は6対2でカージナルスが勝ち、今年のワールドチャンピオンとなりました。午後8時半まで3時間半、ソファに座りっ放しだったものですから、少しお尻が痛くなりました。7戦を戦ったテキサス・レンジャーズでしたが、昨日は本当に後一つストライクを取れば勝利と言う局面をタッチの差で逃し、そして今日結局負けてしまいました。最終の勝利を手にすることの難しさを見た思いでした。それに比べ、まさかカージナルスがワールドチャンピオンにになるとは野球ファンの誰もがシーズン最後まで想像していませんでした。しかしあたかも「なでしこジャパン」のように厳しい戦いをぎりぎりのところで勝利し、最後の栄冠を得ました。昨日も今日もカージナルスの地元の球場での試合だったので熱烈なファンの後押しもあったのでしょう。もっともカージナルスは昔から強いチームとしての伝統を持っています。ワールドチャンピオンに一番多くなったのはニューヨーク・ヤンキースの27回ですが、二番目はカージナルスの11回です。最後にチャンピオンになったのは2006年でした。5年ぶりのワールドチャンピオンだけに花火が上がり、観客は熱狂しました。最後はベンチには入れませんでしたが、上原選手や建山選手も、もしレンジャーズが今日勝てばワールドチャンピオン指輪を貰えたでしょうが、残念でした。レンジャーズの先発投手のマット・ハミルトン投手のグローブには黄色い字で大きくMIZUNOとありました。日本製を使っているようです。これで今年の野球シーズンは終り、いよいよフットボール・シーズンがたけなわとなります。また熱戦に一喜一憂する事になりそうです。(終わり)
2011.10.29
コメント(0)
昨日オランダから電話が入りました。カチャ・ブーンストラという69歳の女性からです。「アキ、オランダ国防省が正式発表したから、もう話してもいいわよ」との内容でした。実は今月初めに彼女のお父さんが乗っていたオランダ潜水艦がボルネオ沖で70年ぶりで発見されたのですが、オランダ海軍による確認を経て、今週の国防省発表となりました。10月4日にオーストラリアとシンガポールのダイバーが地元の漁師の情報に基づいて潜ったところ、50メートルの海底に二つに割れて沈んでいた潜水艦が見つかりました。潜水艦の名前はK-XVI(K-16)と言います。カチャのお父さんは機関士官として乗っており、35名の戦友と共に戦死しました。ダイバーからその事実をメールで知らされたカチャは驚きましたが、すぐにオランダ海軍や遺族会に報告すると共に私にも教えていました。しかし「最終的にその真偽が確認されるまでは誰にも話さないで欲しい」と頼まれていたのです。カチャは新婚3ヶ月だった25歳の父親が戦死した7ヶ月後にインドネシアのジャワで生まれました。K-XVIをボルネオ沖で沈めたのが私の父が機関長として乗っていた日本帝国海軍潜水艦、伊166(当時は伊66と呼ばれていた)でした。1941年の12月25日、クリスマスの日のことです。それは日本の潜水艦が敵国の艦船を撃沈した日本海軍の歴史で初めての戦果でした。ひょんな奇跡のような偶然で2003年11月にオランダで出会ったカチャと私はそれ以来、父親同士は敵同士で殺しあったにもかかわらず、和解を果たし、深い友情で結ばれて来ました。カチャは何度も父親を求めてボルネオ沖の探索を行いましたが、今までは見つかりませんでした。それが今回見知らぬダイバーのお陰で見つかったのです。彼女をはじめ、K-XVI乗組員の家族にとっては70年ぶりでやっと第二次世界大戦が終るのかも知れません。「とても平和的な気持ちで、そして発見の喜びと感謝で受け止めた」とカチャは言っています。今週はオランダのテレビや新聞の取材陣に押しかけられ、大変な忙しさのようです。「すぐにも父と会うためにボルネオに行きたいが、すでにモンスーン時期に入っており南シナ海は荒れるので、来年の4月か5月に行きたい」とカチャは言っています。正確な沈没地点は伏されています。36名の勇士が眠る海の墓として、静かに眠れるように、オランダ国防省は発表していませんが、ボルネオのクッチン沖です。カチャは「次にはアキのお父さんの潜水艦が発見されると良いね」と電話先で言っていました。私の父は、1944年7月17日にマラッカ海峡沖でイギリスの潜水艦テレマカスに撃沈され、87名の戦友と共に海の墓となった伊166の中で今も眠っています。こちらの方も70年後の2014年までには発見されるでしょうか? (終り)
2011.10.28
コメント(1)
オバマ大統領の決定で、クリスマスまでにはイラクにいる米軍兵士たちはアメリカに戻ってくるそうです。大使館を護衛する海兵隊員160名ほどは通常通り残るようですが、これで8年間以上に渡るアメリカ軍のイラク駐在が終わりを告げます。その間にのべ100万人以上の若者がイラクの地を踏み、その内の4,400人以上が戦死しました。重傷者の数は3万2千人を越えるそうです。イラクの人々の死傷者数字は明らかにされていませんが、大変なものでしょう。因みにアフガニスタンには現在9万5千人の兵士が駐在しています。それらの撤退プランもオバマ大統領は進めています。ブッシュ大統領の2003年3月のサダム・フセインへの最後通告を映りの悪いミクロネシアのトラック島のホテルのテレビで聞き、グアムのヒルトンホテルでアメリカ軍のミサイル攻撃を受けて燃え上がるバクダッドの町の映像を観たのを昨日のごとくに思い出しますが、あれから8年余りが過ぎました。イラク戦争のために費やされた経費は3兆ドルとも言われ、退役兵士たちに対する年金などを含めると4兆ドルにも上がるのではと推定されています。その陰で今日はCNNで悲しい映像を観ました。ロサンゼルスにはイラクで戦った兵士たちでホームレスになっている若者が8千人もいると言うのです。それらの多くはPTSDなど戦争による心理的・精神的障害から帰還後に苦しい生活を強いられている若者たちです。アメリカ政府は帰還兵に対するPTSD治療や住宅提供などいろんな支援プログラムを提供しているのですが、それらは十分ではないようです。まだ若い年齢ながら、経済不況の中で就職先も見つからず、路頭に迷う者も少なくないようで、彼らはホームレスとなり、不安な日々を過ごしているようです。帰還兵を世話する機関などは予算の中から月千ドルほどの援助をしているそうですが、その情報は路上生活でテレビも観ない人には伝わらず、現状では8千人のホームレスの内、2千人ほどしか援助を受けていないそうです。このような現状をイラク戦争を決定し、命令したブッシュ元大統領は恐らく知らないのでしょう。仮に知ったとしても、予算その他の理由で抜本的な解決策は提供出来ないのかも知れません。テレビではことある毎に「若者の愛国心を称え、国のために命を賭した若者への感謝」を大声で語りながら、その一方ではこのような現実に無頓着です。ブッシュさんに限らず、そして日米を問わず、往々にして政治家には忙しさのせいもあるのでしょうが、無責任な態度が見受けられます。やはり戦争はすべきではないと思います。その点、リビアに関してはオバマ大統領はアメリカの兵士を送らず、NATO軍の一員としてイギリスやフランス軍と共に空爆に徹しました。もしイラクも同じような形で行っていたら、若者を100万人も送り出す必要はなく、戦費も大幅に節約出来たでしょう。そのお金を国内の産業発展や経済支援助に使っていれば、恐らく現在の不況ももう少し穏やかだったろうと思います。またそれらのお金をイラクやアフガニスタンの国民のための援助に回せば、より平和的な関係が実現出来たかも知れません。ブッシュ元大統領の8年前の決定がなければと思うことしきりです。(終り)
2011.10.24
コメント(0)
今日は長い間リビアのカダフィ大佐死亡のニュースを見ていました。CNNから始まり、ABC,CBS,NBC,FOXと各チャンネルの報道を観続けていたものですから妻に呆れられてしまいました。いつかこの日は来るだろうと思っていましたが、それが今日でした。映像に映し出されるカダフィ大佐の様子を観て、独裁者の最後の哀れさを感じています。NATOによる爆撃で傷付いた後、古い排水溝の中に隠れているところを引き出され、上半身裸の姿で顔は左半分血染めになった姿が哀れでした。彼に反抗して立ち上がった民衆を「ネズミ共」と蔑んでいましたが、排水溝の中に隠れた彼こそネズミのように思われました。民衆に引き回され、こづかれる彼の姿には過去の威厳も傲慢さもありませんでした。イラクのサダム・フセインも地下の狭い場所に隠れているところを捕まりました。そして最後は絞首刑になりました。いずれの国でも独裁者の終わりは悲しいものです。私はルーマニアのブカレストを訪ねたことがありますが、1989年にチャウシェスク大統領夫妻が処刑された場所を見ました。彼らはリビアに亡命しようとルーマニアを抜け出す寸前に捕まり、処刑されました。処刑は1989年の12月25日、クリスマスの日でした。処刑され、地面に捨て置かれた二人の姿の映像は世界中に報道され、いまでもそのシーンが目に浮かびます。42年間の独裁で多くの人々の憎しみを得ていたのでしょう。今日のニュースでインタビューを受けた人々は全てが「素晴らしい日だ。喜ぶべき日だ」と語っていました。誰一人としてそれ以外の言葉を発する人はいませんでした。多分公共的なテレビの前では話せないのでしょうが、独裁者とは言え、カダフィ大佐の最後の姿は人間として哀れで悲しいものでした。独裁者がいなくなったことへの喜びと共に、やはり一人の人間の死に対しては、もう少し惻隠の情があっても良いのではないかと思いました。それにしても独裁が長く続くと、じょじょに周りが見えなくなり、イエスマンの側近だけに囲まれ、民衆の心と離れて行くようです。カダフィ大佐もまだ半年ほど前であれば、民衆と殺しあうことなく、無事に国外亡命も出来たのかも知れません。しかし対決、弾圧の道を突っ走り、最後は今日の形になりました。「自分は最後までリビアの地に留まり、最後の弾丸の一発まで戦う」と言っていた彼ですから、その点では自分の言葉を守ったことになりますが、それでも彼の最後の姿は哀れで悲しいものでした。(終り)
2011.10.21
コメント(0)
今日カリフォルニア時間の10月19日(水曜日)、午前10時からクパチーノにあるアップル本社で同社創業者のジョブズさんを惜しむ式典が開催されました。10月5日に亡くなってから今日が二週間目です。式典は「Celebration of Steve Job's Life」と名付けられていました。彼の死を悲しむ追悼式ではなく、彼の一生を祝う祝賀会です。同社での模様はウェブカムで世界中に300以上あるアップル・ストアーに配信され、従業員は1時間半程ストアーを閉め、本社での社員と一緒にその祝賀式に参加しました。実は先週日曜日にはスタンフォード大学でもジョブズさんを追悼する会が開かれました。同大学内にある教会で開かれた集いにはビル・クリントン元大統領や、オラクル創業者のラリー・エリソン、マイクロソフト創業者のビル・ゲーツ、デルコンピューター創業者のマイケル・デルさんなどパソコン時代の覇者たちが全員顔を揃え、ジョブズさんを偲びました。会場にはフォークソングの有名な歌手で、一時ジョブズさんと付き合っていたジョーン・バエズさんの姿もあったそうです。昨日はオバマ大統領の本のことを書きましたが、ふとオバマさんとジョブズさんの一つの共通点を思い出しました。それは二人とも父親が海外からの留学生だったことです。オバマさんの実父はケニアからの留学生でした。ジョブズさんの実父はシリアからの留学生でした。いずれも白人のアメリカ人女学生と恋に落ち、その結果、オバマさんとジョブズさんが生まれました。しかし二人とも父親との縁は薄かったようです。ジョブズさんは母親とも縁は薄く、当時大学院の学生だった母親はジョブズさんが生まれてすぐに彼を里子に出しました。オバマさんのお父さんもジョブズさんのお父さんも頭の良い優秀な人だったようです。オバマさんのお父さんは米国で博士号を取り、後にケニアに戻ってケニア政府のために活躍しますが、後には部族の違う政敵のために、苦しい時期もあったようです。ジョブズさんのお父さんも博士号を取り、政治学者になりました。その後、いくつかの職を渡り、現在は80歳でネバダ州のリノにお住まいだそうですが、ジョブズさんとは彼の生前一度も会うことはなかったそうです。オバマさんとジョブズさん、二人とも素晴らしいアメリカ人ですが、それは海外からの留学生とアメリカ人女性との出会いで生まれました。日本の留学生とアメリカ人女性との出会いからも将来大統領や優れた起業家が生まれて欲しいものです。(終り)
2011.10.20
コメント(1)
日大で国際メディア論を教えている友人が「マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝」という本を送ってくれました。1994年にオバマさんがハーバード・ロースクール時代に書いた本です。同大学の「ハーバード・ローレビュー」という雑誌の編集長として始めて黒人の彼が選ばれたことが当時話題になり出版社からアプローチがあり、執筆した本です。その時はあまり売れなかったらしいですが、10年後の2004年にその本が再出版されると、イリノイ州の上院議員から連邦政府の上院議員として民主党の若きホープとして人々の注目が集まりだしていただけに、かなり売れたそうです。その2004年版の日本語訳が2007年に日本でダイヤモンド社から出版されました。私の友人が送ってきてくれたのはその本です。帯には「全米100万部超ベストセラー 黒人初のアメリカ大統領を目指す男 バラク・オバマ回想録」とあります。日本の新聞や雑誌やテレビは時折アメリカでの売り上げや人気を誇大に宣伝する傾向がありますが、彼がヒラリー・クリントンさんを破り、民主党の大統領候補になってからは、確かに多くの人が読んだのは間違いないようです。今回読んで見て、彼の家族や人生について赤裸々に描写されていることに驚きました。これはまだ若い学生の時に書いたものだけに、ここまで人種を巡る葛藤や自分の人生で遭遇したいろんな社会の矛盾などに関して正直に書けたのだろうと思います。2004年に再出版する時にも問題が起きることも覚悟してオリジナルのまま出したそうです。恐らく大統領になった後であれば、もう少し穏やかにあいまいに書いたのかも知れません。特にケニアに妻と二人の子供がありながら、アメリカ留学中にオバマさんの母親になる人と結婚したケニア人の父のことに関してはここまで赤裸々には書かなかったかも知れません。オバマさんの母親はその後はインドネシア人の人と結婚し、オバマさんもインドネシアで暮らしました。しかしインドネシアの生活も長くは続かず、彼は母親と共にハワイに戻り、白人である母親の両親と共に育ちました。10歳の時にハワイを訪れた実父と短い期間会いますが、実父はまたケニアに戻ります。そしてケニアでは彼を追ってきた別な白人の女性と結婚し、二人の子供をもうけます。その間には最初のケニア人の妻とも付き合い、更に三人の子供をもうけたそうです。イスラム教の影響かも知れませんが、そこらへんはかなりおおまかです。オバマさんの兄弟姉妹は同じ母親から妹が一人、腹違いで別なアメリカ人女性から二人、ケニア人女性から五人と合計八人の兄弟姉妹がいたことになります。オバマさんはケニアを訪れ、一時はケニア政府でも重要な地位になった実父が、その後出身部族が違う政敵の迫害を受け、政治的・社会的に苦境に落ちた背景などを学びます。そして腹違いの兄弟姉妹たちとも会います。この著書を読んで、ケニア人の父と白人の母から生まれたオバマさんの心の葛藤の深さを知ると共に、ハワイやインドネシアでの生活やケニアでの父を求める旅などでの経験が彼を思慮深く、そして精神的に強くしただろうなと思いました。アメリカ初の黒人大統領として全米はもちろん世界が驚き、多くの人がその変化を喜びました。あれから三年、政治的にはオバマさんも苦労が続いています。オバマさんは来年11月の再選を目指して、今週も激戦が予想されるノースカロライナ州の三日間バス旅行に出掛けています。共和党やティーパーティ運動者から叩かれ続けているオバマさんですが、この本を読むと、過去の試練に耐えた彼の強さが実感され、恐らく彼はあらゆる困難にも自分の信念を貫き通すのではとの期待感が高まります。それにしても今更ながら世界最強の国アメリカのトップに黒人がなった事実の意味の大きさを感じます。昨日はたまたまテレビではりー・ベラフォンテのドキュメンタリーを放送していました。世界的な有名な歌手として知られただけでなく、彼は人種差別や貧困の問題などに敢然として戦った運動家としての貢献も知られています。マーティン・ルーサー・キングや南アフリカの初代黒人大統領となったネルソン・マンデラさんなどと共に問題解決を訴え続けて来ました。人種差別という人類の大きな問題はまだ完全に解決してはいませんが、オバマさんがアメリカの大統領になったことはその大きな第一歩だったと感じました。(終り)
2011.10.19
コメント(0)
今日10月16日は母の44年目の命日でした。私の母は私の渡米の翌年1967年に肝臓癌のために亡くなりました。54歳でした。当時はアメリカから日本に旅するのは今みたいに旅券と航空券さえあれば良いという簡単な時代ではありませんでした。予防注射証明書が必要でした。天然痘とコレラです。天然痘の予防注射証明書は3年間有効でしたから、比較的楽だったのですが、コレラは有効期間が6ヶ月間だけでした。おまけにコレラの予防注射は中一週間をおいて二回の注射が必要でした。コレラの予防注射証明書は切れており、日本へ戻るためには最低でも一週間待たなければいけませんでした。おまけにセーリング・パーミットと呼ばれる納税済み証明書を連邦政府から入手しないと外国人は出国出来ない決まりでした。その入手にも一両日から二・三日掛かりました。コレラの予防注射とセーリング・パーミットが仮に準備出来た場合でもロサンゼルスから羽田(また成田は出来ていませんでした)へ、そして羽田から鹿児島へ飛ぶのにも東京一泊が必要でした。そんなこんなで母の葬儀には私は戻れず、結局翌年の初盆に戻り、母への親不孝を詫びました。国際電話も?がるのに半日掛かる時代でした。?がっても海底ケーブルの通信状態が悪いと、ザーザーと雑音が入り、聞こえにくいでした。その割りに値段は馬鹿高いでした。現代の自由にいつでも即時に携帯電話で?がる時代とは格段の差がありました。今では映像だって簡単にやり取りできます。44年の時の流れを感じるものの、母への懐かしい思いは逆に若い頃よりも年取った今の方が募ります。何の親孝行も出来なかったとの思いをあらたにします。中学生の時に母が再婚し、それに反対していた私はその後は拗ね、母への反撥の思いを持ちました。成長してからは母の思いも理解出来、また自分が結婚し、父となった後は更に、母への理解と感謝の思いは強まりました。しかしその時には母はもうこの世にいませんでした。今朝は妻と一緒に我が家の仏壇(極めて簡単なものです)に線香を上げ、母の冥福を祈り、感謝の思いを届けました。(終り)
2011.10.17
コメント(0)
今日10月15日の土曜日、「ウオール街占拠」デモはアメリカ国内のみならず世界中に拡大しました。ニューヨークではウォール街からマンハッタン中心部へ、アメリカ国内では100以上の都市でデモが行われました。世界中でも1,500以上の都市でデモが行われたようです。東京でも行われました。ニューヨークではシティバンクを占拠した20名余りの人が逮捕されました。その他の地でも逮捕騒ぎは起きたようです。しかし平和的な行動が呼び掛けられ、一般的には暴力的な行動はなく、デモ隊と警察の衝突も少なかったようです。下記のサイトにはニューヨークのシティバンクの騒ぎの模様を伝える短いビデオがあります。http://occupywallst.org/私の知人で東京在住の平川克美さんという人が「株式会社という病」という本を文藝文庫から出版しました。彼とは以前に「ビジネスカフェ」という日本のベンチャー企業を東京やシリコンバレーやロサンゼルスで支援するコンサルティング会社を一緒に運営していたことがあります。今日たまたま文藝春秋の十一月特別号を読んでいたら、その508ページに「自著を語る 会社は自らを相対化できない」として彼の著書と彼のことが紹介されていました。「企業の不祥事は一部の質の悪い企業経営者やその関係者が企業倫理を踏み外して起きた」と単純に捉えるのではなく、利潤の最大化という企業目的が一般の社会倫理と倒立するという事実がその根本原因であると捉えるべきであると言うのです。経営者も社員もおうおうにして自社の利潤を最大化したいという会社の強い要請の中で、公正、正直といった一般社会理念ではなく会社内の掟に従わざると得ないのが現実であると指摘するのです。確かに企業は、そして多くの組織は、その共同体を守るために、多少の嘘や不正を行う時があります。その行為はその共同体の中では良いとされますが、それが一般社会の倫理とは倒立する訳です。現在ウォール街から始まったデモもそのような株主資本主義の中で大企業がおうおうにして持つ性格を糾弾しているのかも知れません。大企業はその大きな資本力を使い、自分たちに都合の良い法律を作るべく議会でのロビーイングを強化しています。株主は自分たちの利益を拡大するために、経営陣に四半期ごとの株価の上昇を求めます。そのために、経営陣は一旦不況となれば、すぐにレイオフを行ったり、生産を労働賃金の安い海外に移したりします。それは法律でも許された行為であり、一般社会倫理から逸脱した行為ではありません。しかし、それは確実に雇用を減らし、失業者を増やし、経済格差を拡大します。今起きているデモが求めているものは大企業の株主たちのあくなき利益拡大の動きにチェックを入れることなのかも知れません。自由経済が主張され、規制緩和が進み、グローバル経済が広まった中で起きたリーマン・ショック。それこそ多くの金銭的欲望が暴走した結果でした。それらのシステムに変化を起こすのは至難の業のように思われます。しかし行き過ぎた物質主義、拝金主義、経済成長至上主義の見直しを今回のデモは求める大きな動きの始まりかも知れません。一回の動きで変るとは思えませんが、二度、三度とこのような波が広がる中で、それは気が付いてみると、大きな革命に育つのかも知れません。(終り)
2011.10.16
コメント(0)
今日は久し振りにのんびり出来るはずだったのですが、急に連絡が入り、オレンジカウンティのアーバイン市でのミーティングに行くはめになりました。我が家から一時間ほど掛かるので、午後1時半からの開始に合わせ、昼ごはんをかき込んでフリーウェイに乗りました。帰りは交通事故がらみの渋滞に引っ掛かり、家に戻り着いたのは午後6時過ぎでした。ちょっと疲れました。おまけに今日は昨日に引き続き、暑い一日でした。華氏の71度か72度、摂氏でいうと33度位でしょうか。明日は一挙に摂氏23度位に落ちるそうですから、通常の秋の気候に戻るようです。私の関与している会社で大阪から工具千台を輸入するのですが、最近日米間の輸入手続などが厳しくなっているのに驚きました。テロ対策のための手段とのことで、日本からアメリカへ輸入する船便などにはISF(Importer Security Filing)という書類を事前にアメリカの税関に提出しておかなければ、日本から船済み出来ないそうです。製造者、販売者、輸出者、輸入者、購入者、その商品の内容、生産地、コンテナ詰めした場所など、ありとあらゆる情報を書き込み提出することが義務付けられています。日本への出張から一昨日戻って来た人は日本で生まれ、アメリカで帰化手続きをした人ですが、アメリカ国籍所有者の証明としてアメリカ政府発行のパスポートを持っているにも関わらず、帰国の際、ロサンゼルス空港で、いつどこで帰化手続きをしたのかとか、結婚している相手はアメリカ国籍を持っているかとか、こと細かに聞かれて驚いたと言っていました。しょっちゅう、日米を往復している人ですが、こんな経験は今度が初めてと言っていました。それにしてもテロ対策のためと称し、実に多くの手続きが増えています。アメリカだけでなく、日本でも飛行機に乗る際には厳重な検査が行われています。あれが世界中の空港で毎日行われている訳です。なんと大きな出費と手間と不便さでしょうか。もし同時多発テロが起きていなければ、そしてその原因となったアメリカとアルカイダの戦いがなければ、そしてまたその遠因となるイスラエルとパレスチナの紛争がなければ、世界はもっと穏やかで平和なのかも知れません。アメリカを中心としたヨーロッパなどキリスト教国とアラブを中心としたイスラム教国との間に関係が悪くなれば、世界はもっと不便にそして危なくなるでしょう。まずはイスラエルとパレスチナの長年の問題を解決し、そして宗教間の相互理解や協力を進めることが、時間は掛かろうとも、根本的に重要な事だと思います。大阪の中小メーカーが生産した極めて優れた技術工具のロングビーチ港へ輸入する件に携わり、上記の思いを新たにしながら、渋滞のため一時間のところが二時間も掛かったフリーウェイを帰途に向かった一日でした。(終り)
2011.10.14
コメント(2)
今宵は満月です。たった今、ある夕食会から戻ってきました。ここのところ何だか忙しい日が続き、しばらくブログもサボっていたなと思い、パソコンに向かっています。先週はアナハイムでマイクロソフト社によるビジネスセミナーがあり、日本から参加した長年の友人と彼の同行者二人の社長さんと一緒でした。昨夜は日大で「国際メディア論」を教えている友人からの依頼で、スカイプで彼の教室と私の自宅を結び、対談をしました。スティーブン・ジョブズさんの死に因み、彼の生涯やアメリカのIT産業と日本企業の関係、更には現在ウォール街から始まり全米中に広がっているデモに付いてなど話しました。そんなこんなでブログも少し間があいてしまいました。今日は暑い一日でした。昨日までの涼しさが信じられないほどで、華氏91度まで上がりました。まるで夏が戻ったようでした。明日も暑くなりそうです。今年はいわゆるインディアン・サマーと呼ばれる通常は9月に一週間から10日ほど来る暑さがなかっただけに、ここ二・三日の暑さが遅ればせのインディアン・サマーかも知れません。現在夜の11時20分ですが、今は大分涼しくなり、夜空の満月が煌々と輝いています。明日は久し振りにゆっくり出来そうです。書斎の掃除と整理をし、ついでに夏の服の整理など晩秋から冬に備えての衣替えの準備などをしようと思っています。今日の夕食会は私の郷里鹿児島からのビジネスマンたちと一緒でした。鹿児島の焼酎やお茶など鹿児島特産の食品を生産している中小企業の経営者達が共同で「さつまブランド」としてアメリカを中心に海外マーケティングしようとの事で、意見を求められました。私はどちらかと言うとエレクトロニクス分野などハイテク商品分野が中心だったので、今回はこちらで日本食品のマーケティングに長年の経験を持つ人と、こちらのスーパーマーケットでバイヤーをやっている人などと一緒の夕食会でした。最近は青森県など色んな県がアメリカ市場進出に熱心です。背景にはアメリカに置ける日本食ブームがあるようです。今宵の満月は東京でも鹿児島でも見れるでしょう。同時にスカイプや航空機のお陰で、日米間の距離も大いに短くなり、時差こそあれ、同じ月を眺めるような感覚で、日本もアメリカも物理的にも意識的に大分近くなったようです。(終り)
2011.10.13
コメント(0)
膵臓癌が肝臓に転移し、亡くなった友人のMさんの葬儀から10日ほどが経ち、いくらか静かな気持ちになっていたら、同じ病気でアップル社創業者のスティーブ・ジョブズさんが亡くなりました。もっとも私の友人は膵臓癌発見から死まで11ヶ月でしたが、ジョブズさんの場合は7年でした。膵臓癌は癌の中でもなかなか難しい癌だそうですが、ジョブズさんの膵臓癌は幸いにして手術が可能な場所にあったようです。ジョブズさんの膵臓癌発見は2004年でした。手術がうまく行き、元気になったジョブズさんは翌年2005年にスタンフォード大学の卒業式に招待され、卒業生に向かってスピーチを行いました。とても素晴らしいスピーチで、伝説のスピーチと言われています。そこで癌についても述べています。しかしその後、肝臓に移転しましたが、それも肝臓移植で生き延びました。しかし、どのような高度の医学も彼の命を救うことは出来なかったようです。今日も私は彼の伝説のスピーチを聞きなおしました。日本でも以前にNHKで放送されたそうですし、ユーチューブにもいろいろ投稿されているので、皆様、すでにご存知の方も多いと思います。彼はスピーチで三つの話をしていますが、三番目のテーマは「死」です。彼が死んでしまった今、その部分を聞くと、彼の言葉の一つ一つが心に深く沁みます。彼の言葉はスタンフォード大学の卒業生のみならず、生きている私たち全てへの遺言のように聞こえます。もしよければ下記のユーチューブサイトの映像をごらんになって下さい。いろいろサイトがありますが、日本語の字幕がとても判り易く出来ている点で良いかと思います。二つのサイトに分かれており、一つ目もとても良いですが、特に二つ目の「三番目の物語」が印象的です。一つの時代を築いた人からの真摯な遺言です。(終り)http://www.youtube.com/watch?v=DE8HrWmnLwA&NR=1http://www.youtube.com/watch?v=54pPcsDEc6M&feature=related
2011.10.08
コメント(0)
三週間ほど前の9月17日にニューヨークのロウワーマンハッタンで始まったデモの動きを注目しています。「アンチ・ウォール街」として始まったデモが今も続いています。先週土曜日には700人余りの逮捕者が出たりして、現在一挙に全米各都市に波及しています。私の住んでいるロサンゼルスでも市役所前の広場に泊りこんでデモしている人たちもいます。その広がりはシカゴからピッツバーグからシカゴからソールトレークからサンフランシスコへと、それぞれの都市で自主的なデモとなっています。若者や失業者、労働組合関係者などが中心になっているようです。「アラブの春」の動きと同じように、フェースブック、ツイッター、グーグル・グループなどを通じて急速に波及しています。ボストンから以前始まった「ティー・パーティ」の動きはどちらかと言うと共和党系、保守系の市民の動きで、大きな政府や財政赤字、増税などに反対する、政治的な動きでした。しかし今回のデモは共和党、民主党の違いではなく、行き過ぎた資本主義、物質主義、金融界や政治に対するもっと根本かつ社会的な動きのようです。金融界や大企業の強欲や高い失業率を是正出来ない政府や政治家、富の不平等などに対する怒りがそのエネルギーになっているようです。映画監督のマイケル・モーアや女優のスーザン・サランドンなどもニューヨークのデモには参加していました。すでに各地でのデモの状況を伝えるサイト(http://www.occupytogether.org)なども生まれています。まだ始まったばかりで今後どのような形になるのか判りません。昔60年代のベトナム反戦運動みたいな盛り上がりを見せて行くのか、それとも収束するのか、これから注目して行きたいと思います。金融不安や経済不況、失業率の増加、富の偏在などはアメリカだけでなく欧州にもあります。その点では日本も決して部外者ではいられないかも知れません。(終り)
2011.10.05
コメント(0)
1966年10月1日と2011年10月1日、この45年の間の日本社会とアメリカ社会の変化を思い起こしています。日本の生活水準が急速にアメリカのそれに近づくと共に、日本社会における一種の「アメリカ化」と言うものが起きたように感じています。それはひょっとしたら「アメリカ化」というよりは社会の物質的豊かさが達成される過程で生じる「物質的豊かさ化」と言うものかも知れません。渡米した頃、一つ気付いた事があります。それはテレビのコマーシャルでシャンプーとか口臭を消すものとか、部屋やトイレの匂いを消すものとか、抗菌剤とか、ありとあらゆる匂いを身辺から消し去るような商品が花盛りだったことです。「この国は人間の身体や部屋から匂いをなくそうとしているのか」とその状況に一種の異常さを感じたものです。しかし最近の日本のテレビを見ていると化粧品や消臭剤や抗菌剤の宣伝で一杯です。一つだけまだ追いついていないなと思うことがあります。それは歯の矯正です。アメリカでは中学生の頃、多くの子供は歯の矯正をします。特に女の子は家がよっぽど貧乏でない限り、高額の費用を払ってでも歯の矯正を受けます。それだけにアメリカの人々は歯並びが綺麗な人が多いです。その点、日本ではテレビに出演するようなタレントや歌手などでも歯並びの悪い人が通用しています。その内に日本でも歯の矯正が行われるようになるでしょうか。生活にお金が掛かるようになると、問題も発生します。日本がまだ物質的に貧乏だった頃には皆少しまだ余裕があったように思います。しかし私が渡米した60年代、アメリカ社会にはすでに物に追われる状況がありました。便利で、快適で、カッコ良い商品がどんどん生産され消費される中で、人々はクレジットカードで次々に物を買い、一種の新製品飢餓状況に陥っていました。借金しながら物を買う時代が始まりました。そこから貧富の差も大きくなり、人々の間から気持ちの余裕も失われて行きました。日本もそれに続きました。人並みの物質的生活を維持するためにアメリカでも家庭にいた女性が外に出て働き出したのは60年代からです。その結果、離婚が増えました。また経済的に恵まれ、郊外の新築の住宅で主婦生活を楽しんでいたはずの女性たちの間でも、訪ねて来るセールスマンや修理工などとの間の不倫の増加などが社会問題となりメディアに取り上げられた時代もありました。日々の生活に追われる女性、暇を持て余す女性、いずれもにとっても厳しい状況でした。もちろん外に出て活躍を始めた女性たちの社会への貢献は大きいものがあります。今後は男女の差無く、共同して良い社会を実現するための努力は続くでしょう。しかし、いずれにしろ離婚が増えた事により、子供の情操教育の点で問題も増えたようです。日本でも「学級崩壊」が話題になった事がありますが、その30年前にアメリカでは「暴力教室」が起きていました。日本でも今は三組に一組離婚するそうですが、アメリカでは二組に一組です。私が日本の将来に付いて一番懸念しているのは日本でも話題になっている「児童虐待」です。アメリカでも核家庭や離婚などが多くなった後、「児童虐待」の数も増えました。その結果が極めて残虐な犯罪の増加です。子供の頃に深い傷を受けた人は反社会的になり、大人になってから反社会的凶悪犯罪を起こすケースが少なくないようです。日本でも昔は考えられなかったバラバラ殺人事件や連続殺人事件、無目的殺人などが起きています。その傾向はこれからも増大するでしょう。その連鎖をストップするために、日本は「児童虐待」が起きないよう、心のこもった万全な支援策を講じ、実行するべきだと感じています。一人の凶悪犯罪者が生まれると、それに対する社会的コストは単に金銭的なものではなく、精神的、社会的安心感などの点で極めて大きいものです。子供の段階でそのような犯罪者を生まないように、健全な社会人に育てることが最も大切だと感じています。日本の変化として素晴らしい点もあります。それはボランティア精神の向上です。淡路・神戸大地震や日本海石油流出事件、そして今回の東日本大震災などにおいて発揮された日本でのボランティア活動は世界でも高く評価されました。しかし何と言ってもボランティア精神が日常の生活で極めて普通に発揮されているのはアメリカです。キリスト教の「博愛主義」も根本にあるのでしょうが、アメリカ人のボランティア精神は実に見事なものです。アメリカが日本社会から学んだものもあります。それは日本の協調の精神であり、物作りにおいても細部まで心を配る美意識です。最近では日本の文化もアメリカの人々に多大の影響を及ぼしています。スシやトーフ、サケなどからマンガやアニメ、ファッション、カラテ、ジュードーなど多くのアメリカ人が日常的に楽しんでいます。精神的にもアメリカ人はベトナム戦争やイラク戦争などの挫折を経て、以前よりは大分大人になった感じがします。45年前に比べると、日本社会とアメリカ社会はうんと近づきました。それは単なる距離だけではありません。今ではノンストップで日米間を飛べるようになり、航空料金も私が渡米した頃に比べると、はるかに安くなりました。また電話やメールやスカイプなどでコミュニケーションも隣の家の距離と変らなくなりました。人や物や金が行き来する量も絶大なものです。相互理解はまだまだ十分ではないと思いますが、それでもうんと良くなりました。過去40年余り、私は名古屋市や千葉県柏市などから姉妹都市のロサンゼルスやトーランス市を訪れる高校生たちと毎年会って来ました。昔と違い、最近の日本の高校生の感覚とアメリカの高校生の感覚とは殆ど同じように感じています。好きな音楽や映画、ファッション、食事なども共通しています。また日本政府のはからいでJETプログラムとして日本に滞在したアメリカの若者たちにより、日本の社会の様子が理解され、アメリカで宣伝されています。最近日本では中国やインドなどに目が行き、少しアメリカへの関心が落ちているように感じています。しかしアメリカは常に未知に向かって挑戦し、新しい創造を実現する力を世界のどこよりも持った国です。私たちはまだまだアメリカから学び、それを日本の強みとするべき点が少なくないと感じています。またアメリカももっと謙虚に日本始め世界の歴史や文化、地理、現状などを真摯に学ぶべきだと思っています。今年の12月は真珠湾攻撃から70周年目です。戦争を記憶する人々の数も少なくなっています。大半の国民は戦後に生まれた人々です。そろそろ日本の地理や風土、歴史、文化、価値観の中から生まれた日本独自の生き方や政治・外交が生まれる時ではないかと思います。自分の頭で考え、自分の責任で行動し、アメリカのみならず世界のために役立つような国になるべきだと思います。それこそが日本の本当の強みを活かす道だろうと思います。(終り)
2011.10.02
コメント(0)
この45年の間にアメリカと日本、更には両国の関係にはどのような変化があったかなーと考えています。まず頭に思いつくのは経済的豊かさです。1960年代アメリカは輝いていました。ベトナム戦争を戦いながらもアメリカ国内には豊かな生活が続いていました。日本ではやっと東名高速道路に名神高速道路が?がった頃には、アメリカ中を縦横に走り回る高速道路がすでにありました。しかし今日では日本も北海道から九州まで高速道路網が完成しています。新幹線もあります。家庭の中においてはまだ自家用車が持てない日本から来た私の目には一家に二台も三台も自家用車があるアメリカの生活は驚きでした。しかし今日では日本でも自家用車は何ら珍しくありません。また家庭の中には大型の冷蔵庫に冷凍庫、サラ洗い機に、24時間いつでもふんだんに出るお湯の設備、エアコン、24時間放送のカラーテレビ、全てが夢のようでした。しかし日本も今日ではその規模の違いはあれ、ほぼ同じように豊かになりました。スポーツに映画にセックス、いわゆる3Sですが、この点でもかなり日本はアメリカと並ぶようになりました。また給料の面での日本の躍進は凄まじいです。最もアメリカとの対比においてですが。1966年の私の手取り1万8千円は現在では20万円以上になっているのではないでしょうか。仮に最低に見積もったとしても10倍にはなっているでしょう。仮に18万円としましょう。これなら私の渡米時のアメリカの金額と変らないように見えますが、ドル換算だと違います。仮に計算しやすいように1ドル80円としても日本の18万円は今日では2千2百ドルになります。これは同じような年齢や職業比較して、アメリカと日本は給与水準においてほぼ同じとなります。私が感じた1966年の給料8倍の驚きや喜びはここにはありません。色んな点で見ても、日本はこの45年間に物質的豊かさという点ではアメリカと同じか、ひょっとしたらそれ以上になったのかも知れません。しかし惜しむらくは住居です。日本の国土の25倍もの広さに日本のわずか二倍の国民が住んでいる訳ですから、国民一人当たりの広さの違いはどうしようもありません。土地の広さ、庭の広さ、家の広さ、場合によってはプール付きというアメリカの家の豊かさだけは45年経過した現在でも変化はないようです。しかし総合的に見て、私は日本人の平均的庶民の生活は安全で豊かなものだと感じています。もう少し都会一極集中でなく、分散して生活出来るようになれば、住宅条件も良くなるだろうと思うのですが。社会的・精神的な変化を言うと、敗戦以来ずっと自信がなかった日本人は驚異的な経済発展により自信を付け、同時に第二次世界大戦以後、冷戦構造の中で、自由陣営側のリーダーとして自信に溢れていたアメリカはベトナム戦争で傷付き、また冷戦終了でソ連以下の共産陣営に勝利した喜びで一国大国の地位を喜んでいましたが、ブッシュ大統領のアフガン戦争に続くイラク戦争でまた失敗しました。戦争に投入した若い兵士たちの命や巨額の戦費、そして世界からの批判の目はアメリカの威信を傷付け、国民も苦悩しました。その結果が現在の経済不況です。日本も70年代から80年代に掛けては経済的成功から傲慢になりました。「もうアメリカに学ぶものはない」と豪語し、「日本のお金でアメリカを何度も買える」と嘯きました。しかしそれはバブルが与えた大きな錯覚でした。その間にアメリカは工業社会から情報社会へと移りつつありました。日本が勝利したと言っていた半導体産業も、それは大量生産されるメモリーの分野で、もっと大切なコアの半導体はインテルにがっちり押さえられていました。今日ではそのメモリー分野ですら、日本は韓国や台湾などに敗北しつつあります。今日の世界的企業を振り返って下さい。マイクロソフト、アップル、ヤフー、グーグル、ユーチューブ、フェイスブック、ツィッター、アマゾン、イーベイ、いずれもアメリカ企業です。情報産業です。日本で成功しているミクシーや楽天なども残念ながら世界には広がっていません。日本国内が主です。中国への展開は期待出来ますが、もっともっと日本の企業はアメリカ企業に負けないように世界市場を狙って欲しいものです。諸悪の根源は日本市場が中途半端に大きく、日本国内でシェアーを押さえるだけでかなり大きなビジネスになることです。国が小さいイスラエルやアイルランド、それに韓国なども積極的に世界市場に進出しています。その点では日本のパソコン界を席巻したNEC、携帯分野を席巻したドコモなどの責任は大きいと思います。どうせ日本市場でトップになるのなら、やはり世界市場でもトップを狙う意気込みと根性が欲しいものです。英語力が言い訳にされる時がありますが、そんな事を言っていても始まりません。それならば一生懸命英語も勉強して、世界市場に飛び込む事です。アメリカの変化、日本の変化をもう少し話すつもりでしたが、少しそれました。また明日はもっと卑近な社会的現象の変化について書いて見たいと思います。(終り)
2011.10.01
コメント(0)
1966年10月1日にロサンゼルスに着いて、最初の驚きは給料でした。日本を出る時の私のそれまでの給料は手取り1万8千円でした。当時の1ドル360円換算だとわずか50ドルです。今から思えば信じられない位の安さですが、それが大学卒の給料で、そして不思議な事に何とかそれで京都で生活出来ていました。たまには仲間と飲んだりすることも出来ました。住まいは清水寺近くの陶器屋さんの二階の下宿でした。それがアメリカでの給料はグロスで500ドル、手取りで400ドルになったのです。太平洋を越えたら、わずか一日で手取りが8倍になりました。日本の本社の社長の給料も10万円ほどでしたから、私の給料はそれ以上でした。おまけにそれまで日本では半ドンながら土曜日も働いていたのに、こちらでは週休二日制のため、休みでした。もっとも実際の仕事は超忙しく土・日も休日出勤するほどでしたが、それでも休みは休みです。金曜の夜は深夜過ぎ(こちらは午前2時までバーは開いています)まで飲み、また土曜日の夜も同じです。月曜からの仕事には少し支障が出ますが、それでもこちらが望めば三晩続けて日曜日の夜もOKです。当時は酔っ払い運転もあまり厳しくありませんでした。ほろ酔い気分で火照った頬を開け放した窓から入る風で冷やしつつ、「矢でも鉄砲でももってこい!」なんて気持ちでフリーウェイを帰宅したものです。給料も休日も極めてワンダフルなアメリカ生活だったのですが、英語には泣かされました。日本では京都外大の学生の頃から春・夏の観光シーズンは外人観光客案内のアルバイトをしていました。京都では1964年の東京オリンピックに備え、ガイドの国家試験を通った人たちだけでは到底足りないとの判断で、「スチューデント・ガイド」のシステムが臨時的に認められ、多くの学生がアルバイトしていました。私もその一人でした。京都市内のホテルから伊丹空港への見送りとか市内観光の案内から始まり、外人旅行客に付き添い日本中を旅行したり、その内にはグループを引率しての案内などをしていました。神戸に寄航したアメリカ第七艦隊所属の空母レキシントンの士官たちを京都や奈良や宝塚などにバスで案内したり、スイスの国立銀行総裁夫妻の案内をしたり、色んな思い出があります。しかし今から振り返ると下手な私の英語で、まあー皆さん、良く我慢して呉れたものだと思います。しかし、そんなこんなである程度英語は出来ると思ってロサンゼルスに来たのですが、これが大変でした。まずオフィスがあるビルの駐車場の黒人の警備員の英語が判りません。彼は南部出身で、かなりのなまりがありました。やはり一番困ったのは電話交換手です。早口でなかなか付いていけません。ランチタイムに近くのレストランに行きましたが、メニューの内容があまり理解出来ず、またウェイトレスが説明する今日のスペシャル・メニューが判りません。それでも何とか食べ終えた時に「ベルがいるか」と聞かれました。ベルとは鐘です。「何でこんなところでお寺の鐘の話をするのか」と先輩に言ったら、「それは勘定のことだ」と言います。私の英語では勘定を欲しい時は「チェック、プリーズ」と言うのだと記憶していたのですが、こちらでは「Bill」と言い、その発音も「ビル」ではなく「ベル」に近いと言うのです。一事が万事でした。私の英語への自信は仕事初日にして大きく崩れました。日本で私と出会った心優しい訪問客の皆さんは、私でも判るように簡単な英語でゆっくりと喋って呉れていたのだと気付いてももう後の祭りでした。先輩達は流暢な英語で受け答えするだけでなく、顧客と話しながら同時にタイプで英文を書いています。私には神業に見えました。その後も英語だけでなく、交通事故を起こしたり、いろんな問題や失敗もあったのですが、不思議なもので、一年、二年と経つうちに、気が付いて見たら、私も受話器を右肩と右顎の間に挟み商談しながら、両手は忙しくタイプ(当時は活字がボール式のIBMのタイプライターでした)していました。人間は慣れるものですね。しかし長い間、当時働いていたビルの前を通ると、苦労の時期を思い出しました。当時は電子メールはもちろん、ファックスさへ無く、本社や外国との連絡はテレタイプでした。まず文章をタイプしてテープを作成し、それをテレタイプに掛けて、発信するのですが、ちょっとでもタイプを打ち間違えると、また最初からやり直しです。時間だけがいたずらに経ち、たった一通の連絡を送れないフラストや悔しさが募りました。また当時は国際電話がまだ未発達でなかなか?がらないのです。二・三時間待ち、半日待ちはしょっちゅうでした。現在のいつでもどこでも瞬時に?がる携帯電話などは本当にミラクルです。苦労話を続けるとキリがありません。今日はこれで終わります。明日は私が感じている、この45年間のアメリカと日本の変化に付いて述べてみたいと思います。いよいよ明日30日は私のアメリカ滞在45年の最終日で、明後日10月1日からは滞在46周年目が始まります。明日の夜は妻と息子がささやかながら、滞在45年を祝って、ご馳走して呉れるそうです。(終り)
2011.09.30
コメント(0)
今月が終るとアメリカ生活が45年になります。1966年10月1日に渡米してから早くも45年の年月が経とうとしています。年月の速さには驚きます。初めてアメリカの土を踏んだ日のことは今も鮮明に記憶しています。羽田からまずシアトルに飛びました。当時はまだロサンゼルスまで無着陸で飛べる航空機はありませんでした。ホノルル経由が関の山で、中には羽田からグアム、ミッドウェイ、ホノルルと三回も給油しなければいけない位でした。その点ではノースウェスト航空の羽田からシアトルへ飛ぶ便は新鋭機でした。10時間程でシアトル空港に着くと、ターミナルの外に出て、ローマ法王がするように大地に接吻こそしませんでしたが、両手で土に触れ、「あー、これがアメリカの大地か」と呟きました。そしてまたターミナル内に戻り、レストランでコカコーラを頼みました。スモール・ミニ・ラージとあったので、ラージを頼みましたが、大き過ぎて飲み残しました。「アメリカ人は馬かよ!」と呟きました。トイレに入りました。右見ても左見ても全員アメリカ人でした。「あー、さすがアメリカだな」と呟きました。まるでツブヤキ・アキラでした。ウェスターン航空に乗り換え、目的地のロサンゼルスに向かいました。2時間余りの飛行距離です。機内で一人キョロキョロ窓の外などを覗いていたら、若い金髪女性が話し掛けて来ました。同航空会社に働く、非番のスチュワーデスでした。日本にも行った事があり、それで私に話し掛けてくれたようです。シアトルに住んでいるのだが、ロサンゼルスに住んでいるボーイフレンドに会いに行く途中だと言いました。「へー、航空会社勤務で格安で飛べるとは言え、北海道から鹿児島までの距離を飛んでデートとは!」とちょっと驚きました。ロサンゼルス空港に着くと、会社の副社長や先輩駐在員、合計4人が出迎えてくれました。美人のアメリカ人女性と一緒に表に出てきたので、先輩たちに「やけに手の早い、元気な奴が来たな」と誤解されました。副社長は二世の日系アメリカ人でした。彼の両親がリトル・トーキョーでレストランを経営しているとのことで、空港からそこに直行しました。まず最初に大きなステーキが出ました。私は当時ビフテキと呼んでいましたが、日本ではあまりお目に掛かりませんでした。大皿から更にこぼれそうな大きなビフテキでした。まだ25歳で若かったのでそのビフテキを平らげたら、「イカ豆腐」というちょっと日本では聞かない料理が出ました。子イカを豆腐と甘辛く煮付けたもので、なかなかに美味しいでした。白い御飯つきでした。刺身も出ました。「アメリカではこんなに沢山食べるのかなー」と空港での馬サイズのコカコーラを思い出しながら、一生懸命食べました。その精か私は大飯位の習慣が付いてしまいました。後で先輩たちに話したら、「お前はバカか、あれは特別に歓迎の意味で沢山出されたのだ」と笑われました。思い出を語れば話はつきません。若さのいたりで、仕事でもプライベートでもいろんな失敗もしました。今はどれも懐かしい思い出です。70歳ジジイの思い出話などは面白くないだろうと思いますが、今日から二・三回、呟かせて下さい。お付き合いのほど、お願い致します。(終り)
2011.09.29
コメント(2)
昨夜の葬儀がとても素晴らしく、愛情に溢れていただけに、それまで悲しく淋しいばかりだった気持ちが大分軽くなり、ひょっとしたら死者と生者の間の壁は思ったより低いのではと感じました。確かにMさんは死に、肉体は冷たくなり、今日には骨となったのですが、彼女の明るい笑顔と彼女の心はいまも近くにあるような感じがしています。今までは「死ねばお終いよ。死者と生者の間の溝やギャップは大きく、生と死は断絶している」と思っていました。しかしその考えに疑問を持ち出したのは私が3歳の時に戦死した父を求める旅を2003年に始めてからです。父が今も沈んでいるマラッカ海峡を訪れ、父の思いや愛情を感じ始めた頃です。その頃亡くなった高校時代のサッカー仲間で親友だったG君の存在も、彼が生きていた時以上に身近に感じるようになりました。彼の生前は郷里の鹿児島に住んでいる彼と会うのは数年に一度だったのですが、彼の死後は彼の存在をいつでも感じることが出来るようになりました。朝仏壇で祈る時、週末の昼過ぎ庭の草花に水を上げている時など、父や親友の存在を感じることが出来ます。吹く風の中に、それに揺れる木々の動きの中に、そして明るい陽射しの中に感じます。錯覚だと言われれば、そうかも知れません。しかし私にとっては極めて実体のある感覚なのです。その存在を感じるたびに、何となくほっとし、嬉しくなります。これからはひょっとしたらMさんもその仲間に入るかも知れません。迷信、錯覚などと笑われるかも知れません。しかし例えば100年前にジェット機で空を飛ぶことや携帯電話で世界のどこかにいる人と話したり出来ることを話したら、同じように笑われ、信じて貰えなかったでしょう。最近、いろんな物理学上での発見が続いています。まだ完全に実証はされていませんが、光より早いニュートリノの存在は長年近代物理学の基礎だったアインシュタインの相対性理論を越え、新しい宇宙意識と現代科学の見直しを迫るかも知れません。この地球上には重力や電磁力など四つの種類の力が作用しているそうです。ところが最近、五番目の力もあるのではないかと、研究が進んでいます。もしそれが証明されたら、ここでも今までの私たちの知識は修正を求められます。現在では非科学的だと一笑されている死後の魂の存在や、それと生者の魂とのコミュニケーションも、100年後には今日のジェット機や携帯電話と同じように極めて一般的な常識となっているのかも知れません。そんなことを思わせた昨夜のMさんの葬儀でした。そんな事を思っていたら、亡くなった父や母や姉や娘や祖父・祖母たちに加え、伯父・叔父、伯母・叔母などの顔を久し振りに思い出しました。子供の頃から青年時代まで、色々お世話になったなーと今更ながら感謝の思いを持ちました。思い出してくれる人がいる限り、死者は生き続けるのかも知れません。歴史上の人たちでさえ、その著書などで彼らの心を感じることも出来るのですから。(終り)
2011.09.27
コメント(0)
今日の日曜日、午後6時から近くの日系のキリスト教会で友人のMさんの葬儀が行われました。献花のお手伝いをして欲しいとのことで妻と私は早めに会場に行きました。木曜日に亡くなってから、十分な告知時間もなかったのにも拘わらずMさんの人柄を表し、会場は満員の人でした。花が好きだった彼女を知っている人が多いせいか、祭壇も両脇もいっぱいの花でした。特に祭壇に置かれた花は彼女の親しい友人で花屋さんを営む夫婦が心を込めてデザインし飾りつけただけにとても素晴らしいものでした。教会の日本人牧師さんのお話も良かったですが、生前の彼女を知る人々のスピーチも心に沁みました。四人の男女がそれぞれの今までの彼女とのお付き合いの中での体験を語りました。彼女が通っていた教会の仲間を代表し、彼女のホームドクターでもあった先生の挨拶も心を打ちました。昨年の10月に「時折お腹が痛む」とのことで診察したら、肝臓の調子が悪く、念のために癌の専門医でCTスキャンを撮ってみたら、膵臓に癌があり、それが肝臓にも転移していたそうです。手術は無理で、抗癌剤治療と化学療法しかないとのことで、それを続けていたそうです。最初の診断では余命6ヶ月程度だったそうですが、治療の成果が上がったのか、お医者さんが吃驚するくらい癌が小さくなり、当人も喜んでいました。しかし今年春から悪化し、また治療に専念する日々が続きました。そしてまた良くなっていました。しかし三週間ほど前に肝臓にバクテリア感染し、治療で身体の免疫力が弱まっていたために、急激に弱まり、ついに死に至ったそうです。ホームドクターのO先生は敬虔なクリスチャンであり、またホスピスの分野でも経験の豊かな方なので、Mさんに取っては身体的のみならず精神的にもとても救いになったようです。他の友人たちのスピーチも心がこもり、会場の参列者の涙を誘いました。Mさんは本当に人に優しく、愛情深い人でした。常に明るく笑顔の人でした。多くの人々が彼女の笑顔について印象深く話していました。葬儀の後、彼女と親しかった人々が一緒に夕食を共にしました。私が「木曜日彼女の死を聞いてからここ三日ほど悲しい思いが続いていたが、今日の葬儀で皆のスピーチを聞き、今にも笑い出しそうな彼女の穏やかな表情を見ていたら、悲しみが何となく明るいものに変った」と言ったら、多くの人が同意しました。葬儀に良い葬儀、悪い葬儀なんてものはないのかも知れませんが、今日の葬儀は本当に良い葬儀でした。もちろんもう話すことも出来ない悲しさや淋しさはありますが、多くの人々の胸に彼女が残した明るい笑顔のおかげで、何となく、楽しいと言っては語弊がありますが、そう言いたくなるような素晴らしい葬儀でした。陰々滅々とした雰囲気は全く無く、心に静けさと感謝と明るさを感じさせる葬儀でした。やはり葬儀にも死者の人柄が出るのかなと思いました。確かに彼女は亡くなりましたが、これからも身近にいるような思いがします。娘さんに「お母さんはいつも一緒にいらっしゃいますよ」と言ったら、彼女も胸に触りながら「Yes, I feel her here too」と言いました。笑顔でした。もちろんしばらくしたら、母親を失った悲しみはじわりと彼女の胸を浸すでしょうが、きっと娘さんは母の魂を感じながら、元気に生きていくだろうなと感じました。64歳、まだまだ元気で生きられた年齢です。しかし彼女の笑顔を見ているうちに、少し早かったとは言え、彼女なりに十分頑張り、多くの親しい友人を持ち、とても幸せな人生だったのかなと感じました。私も3歳の時に失った父を求めて調査の旅を行い、実感として父の存在を感じるようになりました。まだ科学的には解明されていませんが、愛する者同士の間には生と死を越えて通じるような何かがあるのかなと感じています。きっとMさんの心も愛する娘さんやそして多くの友人たちとコミュニケート出来るのかも知れないなと思いながら、家路を辿りました。(終り)
2011.09.26
コメント(0)
歌心などとんとない私ですが、こちらに住む知人が秋分にことよせ、三つの古歌を送ってきてくれました。一つは良く知られた「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる」です。古今和歌集にある藤原敏行という人の歌だそうです。いつまでも残暑が消えないと思っていたら、いつのまにか季節は変っていた驚きと喜びが詠われているのかもしれません。更に秋が進むと、「奥山に もみじ踏み分け なく鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」となるのでしょうか。これも同じ古今和歌集の中の猿丸太夫という人の歌だそうです。忙しい現代の中では平安時代の人々の自然と共生する生活の中で生まれた豊かな感受性や繊細な美意識は遠くなりました。しかしたまにこんな歌を聞くと、しばしの間、季節の移ろいに目や耳を澄ませる思いになります。知人によると、日本の秋を詠った歌として彼が最も優れたものと感じているのは、万葉集にある額田王の次の歌だそうです。この女性は天智、天武、二人の天皇に懸想された、容貌も心も美しい人だったようです。わびしさ、さびしさ、余情、品格のすべてが31音の中に込められているとして、彼は絶賛しています。「君待つと わが恋いおれば わが宿の すだれ動かし 秋の風吹く」確かに夜風が冷たく感じられるようになりました。パソコンの手を休めて、少し開いてた窓を閉めました。明日はMさんの葬儀です。きっと明日は一段と秋の気配を感じるかも知れません。(終り)
2011.09.25
コメント(0)
今日の金曜日はあまり仕事をする気になりませんでした。昨日の友人のMさんの死が頭を離れませんでした。かと言って、ずっと朝から夜までそのことを考え続けた訳ではありません。ただ、別なことをしている時も心はそちらに傾斜している感じでした。明後日の日曜日の午後6時から近くの教会で告別式が行われます。ちょっと前まで生きていた人が今はもういない。その変化を受け止めきれていません。いくつかの仕事のメールの返事をしたり、読書をしたり、この春から続けている三冊目の本の執筆をしたりしたのですが、脈絡もなく突然カレーライスを作ろうと思いました。料理は全く妻任せで、とんと疎い私ですが、カレーライスは私が作れるわずかばかりのメニューの一つです。心を込めてジャガイモやタマネギやニンジンを切り、時間を掛けてゆっくりとビーフ・カレーを作りました。我ながら良い味になりました。そう言えばMさんとも一緒に何度かカレーライスを食べたなーと思いました。今日私は二杯もお代わりして食べましたが、Mさんはもう食べられないのかなーと思いました。せめてカレーの匂いくらいは彼女のもとに届くと良いのですが。やはり生きていて美味しく食べられるのが良いなーと思いました。生きていると苦労や辛いこともあるけれど、やはり生きていると色んな楽しみも味わえます。それがたかがカレーライスの味であろうとも。Mさんと親しくしていた仲間達の間で彼女の死を悲しみ、追悼するメールが飛び交っています。彼女の冥福を祈ると共に、彼女の分も元気に長生きし頑張ろうと語り合っています。早かれ遅かれ私たち全員も彼女の後を追うことになるのは間違いありません。それまでは生きていることに感謝し、謙虚に、前向きにシコシコと生きるしかないようです。明日の土曜日は裏庭に小さな野菜畑を作りたいという妻の手伝いをする積りです。(終り)
2011.09.24
コメント(5)
今週はまた駆け回る忙しい日々だったので、今日は一日ゆっくりする積りでした。たまっていたメールなどを処理した後は裏庭にゴザを敷き、寝っころがって本を読みました。先週日本へ帰国する知人が大量に本の整理をしたので、古い本を数冊貰いました。その中の一冊に梶原一明さんの著書で「本田宗一郎 男の幸福論」という本がありました。1985年にPHP文庫から出版された文庫本です。内容もですが、表紙の本田さんの笑顔に引き付けられました。これ以上はない最高の笑顔です。私もこんな笑顔が出来ると良いなと思いました。これから5年生きるか10年生きるか判りませんが、死ぬまでにはこんな笑顔で過ごせるようになりたいと思いました。本の内容の面白さ、それは本田宗一郎さんと藤沢武夫さんの素晴らしい生き様そのものですが、とても良い気分で過ごしました。そこに突然悲しいニュースが飛び込んで来ました。友人の女性Mさんの死です。膵臓癌を病んでいたのですが、放射線治療や化学療法の成果と彼女自身の前向きで明るい性格のために、奇跡的に癌細胞が縮小し、とても元気になっていました。ところが4週間ほど前に細菌感染し、急激に体力が低下していました。やはり身体の抵抗力が弱まっていたせいでしょう。先週の水曜日には弱々しい声で私の携帯に伝言が残っており、その声の弱さとゼーゼー吐く息にあまり時間は残っていないと感じさせられました。病院には入らず自宅で絶対安静の日々でした。しかし今朝午前6時30分息を引き取ったそうです。そのニュースが入ってきたのは午後一番でした。それからずっと彼女のことを考えています。彼女のさまざまな表情が頭に浮かんでいます。私よりは6歳若いですが、広告代理店を経営していました。このブログを書いている私の頭の中には、本田宗一郎さんの底抜けに明るい本物の笑顔と友人のMさんの女性らしい優しく朗らかで明るい素直な笑顔が浮かんでいます。本田さんが亡くなったのは1991年でもう20年も前になるのですね。それでも写真の笑顔は今でも生き生きとしています。Mさんの笑顔もこれからもずっと私の記憶の中で生き生きと存在し続けるようです。でもやはり悲しいなー、寂しいなー。先ほど妻と二人で線香に火を付け、Mさんの冥福を祈りました。(終り)
2011.09.23
コメント(0)
今日一日も膵臓癌の末期のために体力が落ちている友人の女性のことを思い、祈りながら過ごしました。夕方になりリトルトーキョーのレストランで開かれた「一旗会」というビジネスマン達の集いに久し振りに参加しました。もう十数年毎月続いているロサンゼルス周辺でビジネスを行っている中小・零細企業の社長さんの集いです。発足時は私もまだ若く熱心に参加していたのですが、ここ数年は足が遠のいていました。現在アメリカ人の仲間と行っている会社が南の方のアーバイン市にあるもので、どちらかと言うと、北東の位置にあるリトルトーキョーやロサンゼルスダウンタウンより南のオレンジカウンティに行く機会が多くなったからです。昼間のリトルトーキョーはそれでも日系社会の会合などで訪れる機会はあったのですが、夜のリトルトーキョーにはあまりご縁がありませんでした。今夕は週末の土曜日ということもあって、リトルトーキョーは賑わっていました。断然若者が多く、それも日本人、日系人ではなく色んな人種で一杯でした。アメリカの若者にとって、最近はリトルトーキョーは飛行機に乗らずに行けるミニジャパンみたいな感じになっているようです。それに合わせ、レストランなども若者向きのファッショナブルな店が増えています。ロックやジャズのカフェなどもあり、長い列でした。レストランなども日本食を提供していても、若者向きのメニューになっているようでした。リトルトーキョーの中にジャパニーズ・ヴィレッジというショッピング・モールがあるのですが、そこにある店もサンリオのキティちゃん関連グッズを売っていたり、日本調のギフト商品を売っていたりしています。日本人や日系人対象ではなく明らかに一般のアメリカ人を顧客対象にした店構えであり品揃えです。歩く人々も非日系の人が多いでした。最近リトルトーキョーとロングビーチやパサデナなどロサンゼルスの周辺都市を結ぶ地下鉄が完成したこともあって、若者達が気軽にリトルトーキョーへ遊びに来れるようになったのもその背景の一つですし、またリトルトーキョー地域に出来たコンドの住民も非日系人住民が多くなったのもこの変貌の理由のようです。昼間はまだ日系のおじいちゃん、おばあちゃんの姿も多いリトルトーキョーですが、夜は完全に若者達の遊び場に変貌しています。リトルトーキョーのビジネス発展という観点で言えば、これらの変化は望ましいことですが、一世紀以上に渡って在米日本人の心のふるさととしてリトルトーキョーに集った日本人、日系人にとっては少し淋しい変化かも知れません。おじいちゃん、おばあちゃんはもう夜は出掛けないでしょうから、それで良いのかも知れませんが、彼らがまだ生ある内は日本語で懐かしい日本の情緒を楽しめる場所はちゃんと確保して上げたいなと感じました。しかし時の流れは非情です。その内に彼らも亡くなり、リトルトーキョーも時代に合わせた変貌を続けるのでしょう。ジャパニーズ・ヴィレッジには英語が飛び交っていました。シャブシャブ・レストランや焼肉レストラン、ラーメン店には慣れた手つきでお箸を使うアメリカ人の若者達の姿がありました。皆楽しそうでした。(終り)
2011.09.18
コメント(0)
9月2日に書いて以来、2週間程ご無沙汰しました。超忙しい日々でした。取っ掛かりのプロジェクトの最終段階と日本からの来客9名が重なりました。まるで観光ガイドか通訳みたいに南へ北へ西へと走り回る日々が続きました。ラグナニゲルにあるリッツカールトンホテル、ゲティ美術館、ハリウッド、サンタモニカ、マリブと久し振りに訪れました。日本円が強くなったせいでもないでしょうが、最近は日本からの訪問客が増えています。今から27年前に15歳で渡米し、私の家から高校・短大と通った現在37歳の女性が来ました。現在は英国系の化粧品会社で社長秘書として働いているそうで、久し振りの休暇でロサンゼルスを訪れました。35歳の女性も来ました。彼女もこちらの大学で美容学を勉強し、一年間のインターンの後、カリフォルニア州の美容師ライセンスを取り、日本に帰りました。日本でも三年間の修行の後に国家試験を受け、日本での資格も取りました。日米両方の資格がある利点を生かし、現在では東京在住の各国大使館からのお客様が多いようです。こちらに企業進出を考えている社長さんも来ました。現在日本の不況の中でも業績が良いそうで、会社運営が順調な時に将来の準備をしておきたいとのことでした。まだ若い社長さんですが、堅実でしっかりした考えを持つ経営者でした。中国やインドなど新興経済国に目が行きがちですが、技術革新とか新しいトレンドは依然としてアメリカから生まれるとして、次に伸びるビジネスの種を見極めたいとのことでした。一昨日は大阪と福岡からの二人の中小企業経営者と会いました。稲盛和夫さんを塾長とする中小企業経営者の練成塾である「盛和塾」の塾生です。「心を高め、経営を伸ばす」のモットーを地道に実現し、素晴らしい経営成果を上げているお二人でした。経営成果もですが、お二人の波瀾万丈の人生航路に深い感銘を受けました。「誰にも負けない努力をする」、「謙虚にして驕らず」、「毎日の反省」など日々のたゆまぬ実践が確かな成果に結びついていました。現在進行中のプロジェクトでアーバインと大阪の間でのやりとりを纏め、日本からの来客に会う間にも色んな出来事がありました。その中で一番今心にあるのは今日飛び込んで来たニュースです。こちらで親しくしているある女性の病気悪化の知らせです。膵臓癌を病みながらも気丈に明るく治療に努力していたのですが、急に悪化したようです。まだ五十代の女性ですが、奇跡的な回復を祈るしかありません。食欲もなく、電話にも出れないという彼女のことを思いながら、この文を書いています。彼女への思いがしばらくサボっていたこのブログを再開させるきっかけになりました。(終り)
2011.09.17
コメント(0)
毎年夏になると日本から色んな若者がやって来ます。単なる観光目的もあれば、研修旅行や留学などさまざまです。友人・知人からの依頼もあれば、姉妹都市交流や大学からの依頼などです。たまには県が主催して高校生や大学生をカリフォルニアに送る「21世紀の国際人養成プログラム」などと言うのもあります。今年も多くの若者との出会いがありました。9月に入り、やっと落ち着きました。昨日の9月1日が最後でした。昨日会ったのは千葉県柏市在住のIさんという20歳の女性でした。大学3年生で英米比較文化学科英語コミュニケーションコース専攻だそうです。大学の海外研修制度に応募し、書類審査、面接を経て、大学から研究資金として奨学金30万円を貰って訪米したそうです。彼女の研究テーマは「日系アメリカ人の歴史と71回続いている二世週日本人祭りの将来」だそうで、この夏4週間こちらでホームステイしながら、二世週日本人祭りのボランティアをしながら研究を続けていたようです。たまたま彼女が千葉県柏市在住ということで、昨日の一日、同市と30年余り姉妹都市交流を行っているトーランス市の案内を私がしました。ホームステイ先の方に車で連れてきて貰った彼女とトーランス市役所前で会い、1973年2月に姉妹提携してからすでに38年になる親善・友好交流の歴史を説明しました。その後、近くにあるパロスベルデス高校に案内しました。同校で進学・キャリアー指導を担当している日系三世の女性が現在トーランス姉妹都市委員会の委員長だからです。訪ねた時間が昼食時に掛かっていたので、1500人の高校生が教室を離れ、ブラスバンドの練習などそれぞれの部活を行っていました。夏休みが終り、学校が始まったのが一昨日だったそうで、久し振りに顔を合わした彼らも日焼けし、元気な賑わいがあちこちにありました。今週末から高校対抗のフットボールの試合も始まるそうで、20名ほどのチアガール達も熱心に練習していました。青春そのものでした。Iさんに取ってもアメリカの高校を訪問するのは初めての経験だったそうで、興味深そうにいろいろ質問していました。この高校はカリフォルニアの中でも比較的裕福な家庭が多い住宅地にある関係か、大学への進学率は98パーセントだそうです。普通は50パーセント以下でしょうか。近くにある日系人の子弟も多く通うパロスベルデス・ペニンシュラ高校と並び、カリフォルニア州内でも生徒の成績も良く、進学率の高い有名校の一つです。Iさんはアメリカの高校生の自由闊達な雰囲気や明るさに圧倒されたと言っていました。先生に聞くと、「アメリカの高校の常としてドラッグの問題などもないわけではない」と言っていましたが、本当に青春を謳歌している感じに見えました。個々の学生に話を聞けば、それなりに皆、成長過程の悩みや苦しみはあるのかも知れませんが。私より半世紀以上も若い彼らです。Iさんがこちらに来て驚いた事の一つはカリフォルニアの広大さであり、ロサンゼルスの広さだそうです。ダウンタウンやベバリーヒルズやサンタモニカなどみんな比較的近くにあり電車かバスで簡単に行けるかなと思っていたら、飛んでもなかったそうです。車がないとにっちもさっちも行かない現状に驚いたと言っていました。カリフォルニア一州だけでも日本全土の広さより更に一割大きいのですから。次に驚いたのはコミュニティの絆、人と人との?がりの強さと、子供から大人までボランティア精神が広く浸透している事実だそうです。日系社会の温かさに包まれ、それまでの人見知りする性格を克服し、「勇気を出してやってみれば、何でも出来るんじゃないかと思えるようになった」と語っていました。彼女は9月5日に4週間の滞在を終えて日本に戻ります。多くの新しい友人や第二の家族となったホームステイ先の人々と再会し、また二世週日本人祭りに再度ボランティア出来るよう、来年の夏は今度は自費でロサンゼルスに戻って来るそうです。他の若者達の夏と同じように、Iさんにとっても素晴らしい学びと成長の夏だったようです。(終り)
2011.09.02
コメント(0)
野田佳彦さんが第9代目の民主党代表に選出されました。第一回目の投票では小沢陣営と鳩山陣営の支援を受けた海江田万里さんが143票、野田さんが102票、前原誠司さんが74票で二位でしたが、一位と二位の決選投票では野田さんが勝利しました。野田さんが215票、海江田さんが177票でした。やはり海江田さんの後ろに控える小沢さんの影響の強さを懸念し、二頭政治になりかねない恐れが今回の結果となったのでしょうか?今回の選出を受け、野田さんは第95代目の日本国首相になります。野田さんの勝利のニュースを聞いて私の頭に浮かんだのは松下幸之助さんのことでした。彼は今から32年前の1979年に神奈川県の茅ヶ崎に「松下政経塾」を始めました。野田さんはその第1期生です。当時のお金で私財70億円を塾の運営資金として拠出し、始まりました。塾の目的は「21世紀理想の日本を実現する」ことでした。そのために「諸理念・方策の探求と、それを推進していく人材への育成」を行うことでした。その公益財団法人の設立が発表された時、実は私も真剣にサラリーマンを辞めて塾生に応募したいと思いました。しかし年齢制限(22歳から35歳)に引っ掛かりました。当時私は38歳でおまけに結婚し、息子が一人おり、ロサンゼルスで働いていました。自分が参加出来なかっただけに、卒業生のその後の活躍には大いに関心を持っていました。今までに多くの国会議員や地方議員が生まれました。3期の樽床伸二さん、4期の原口一男さん、5期の高市早苗さん、8期の玄葉光一郎さん、前原誠司さんなど、衆議院で活躍する卒業生も少なくありません。今回民主党代表戦に向けてはは野田さん、樽床さん、前原さんなどの名前も出ていたことを考えると、早かれ遅かれ松下政経塾卒業生が首相になる可能性は近づいていたようです。野田さんは早稲田大学の政経学部を卒業した後、松下政経塾で学んだそうですが、若い頃は立花隆さんに憧れ、ジャーナリストになることを目指していた時期もあるそうです。今回の民主党代表候補の中では政治手腕、人格的に一番安定した人かなと感じます。管代表の人気を引き継ぐ形で来年9月の代表戦までとのことですが、また一年ぽっきりの首相では外国からも呆れられてしまいます。是非長期に頑張って欲しいものです。未曾有の東日本大震災で国難とも言える現在、政争に引きづられるのではなく、新しい首相のもと、全ての政治家、全ての官僚が一丸となって国民のために汗を流す国になって欲しいと思います。そのためには私たち一般国民も汗と知恵を絞る必要があります。願わくば、今度の野田さんの首相就任が松下幸之助さんが32年前に願った「21世紀理想の日本」を実現する方向への一歩となればと切に祈ります。(終り)
2011.08.30
コメント(0)
今日土曜日のカリフォルニアの午後は輝くような夏の陽射しです。静かにそよ風が吹き、これ以上の快適さはない感じです。しかしテレビは東海岸の自然の脅威を伝え続けています。大型ハリケーン「アイリーン」がもたらしつつある強風や大雨、洪水などを放送しています。ノースカロライナ、バージニア、メリーランド、デラウェア、ペンシルバニア、ニュージャージー、ニューヨーク、ニューイングランドなどの各州は各知事が陣頭指揮を取り、災害に備えています。カリブ海からフロリダやジョージア、サウスカロライナなどはハリケーンの通り道で、毎年この時期には大嵐を経験します。しかし通常はそのまま大西洋上に抜けて行くのですが、今回のアイリーンはそのまま北上し、ニュージャージーやニューヨーク州なども圏内に入れるようです。現在ニューヨークのタイムズ・スクエアーの映像などを写していますが、いつもならニューヨーカーのみならず世界中からの観光客で賑わう場所も、すっかり無人の状況です。ニューヨーク市はその市の歴史始まって以来という地下鉄などの公共交通機関の全面ストップを行いました。月曜日朝まで続くそうです。空港も閉鎖されています。160万人の市民に対して、なるべく外出せずに自宅で大風、大雨、洪水に備えるようにブルーンバーグ市長が繰り返し呼びかけています。市の中で低地に住む人々に対しては、緊急避難するように命じています。37万人程が避難するようです。日本では台風には番号で呼びますが、アメリカでは女性の名前で呼びます。アルファベット順ですから、アイリーン(Irene)は今年9番目のハリケーンということになります。荒れ狂う大西洋の波を見ていると、自然の力の強大さを感じます。すでに死者も出ているようです。倒れてきた大木に潰されたり、信号機が風で倒れ、それに叩かれて死んだりです。風力は現在では時速80マイル(128キロ)で必ずしも最強ではないそうですが、その範囲が直径470キロに及ぶ広さが今回のハリケーンの脅威だそうです。ハリケーンに対する各州知事のテレビを通じての対応を見ていると、やはりそこにリーダーシップを感じます。やはり州知事は権限と予算を持っています。日本の知事さんとはそこらへんがかなり違うようです。日本はやはり中央集権制度が強過ぎ、各都道府県の知事さんが持つ権限と予算が十分ではありません。その点連邦政府制度のアメリカでは州が一つの国のようなものであり、知事さんの自主判断でかなりのことが出来ます。東日本大震災においても中央が何事も決定し、地方に法的な権限や必要なお金がないという制度的な問題が明らかになりました。そこにはスピードと現場判断が疎かになります。このような点でも中央集権から地域への権限と予算の譲渡は必要なのかも知れません。またこの際に首相公選への道を真剣に検討し、一部の政治家たちにより国のトップが決められるのではなく、国民全体が参画出来る制度にするべきではないかと感じています。これからも起きるであろう自然の脅威に対しては国民の多くに支持される強い基盤を持った首相や、地域を良く知る権限と予算を持った知事さんや市町村の存在が必要だとの思います。(終り)追記 たった今、ニューヨーク市長のブルーンバーグさんが再度ニューヨーク市内の低地に住む人々に自宅を離れ、市が設置した避難場所への退避を呼びかけています。他人の意見や政府の要望に従順に従わない、良く言えば自主独立、悪く言えば自分勝手な人が多いニューヨークならではの状況かなと思います。後数時間でニューヨークは台風圏内に入ります。
2011.08.28
コメント(0)
アップル社の最高経営責任者のスチーブン・ジョブズさんがその職を退くことを発表しました。会長職や取締役はそのまま継続するようですが、やはり健康状態が望ましくないのでしょう。2004年に膵臓癌の手術を行い、2009年には肝臓移植をしていました。今年1月になって再入院していましたが、やはり治療に専念する道を選択したのでしょう。一時的ではありましたが、エクソン・モビールを抜いて時価資産額がアメリカ一の企業となったのも一つの区切りだったのかも知れません。一つの時代の変化を感じます。私がアップルという変った社名を初めて耳にしたのは1980年のことでした。「凄いベンチャー企業が暮に株式公開する。その会社の名前はアップルだ」ということでした。現在の社名はApple Inc.ですが、当時の社名はApple Computers, Inc.でした。スチーブン・ジョブズさんとスチーブン・ウオズニックさんの二人が会社を始めたのは1976年の4月1日でしたが、法人化したのは1977年の1月3日でした。アップルの名前はスチーブン・ジョブズさんが昔オレゴン州のリンゴ農園で働いた経験からだとか、アルファベットの順番で、当時シリコンバレーで有名だったアタリ社より電話帳などで前に来るからとの理由などが噂されました。確かにAppleの方がAtariより先に来ます。株式公開が1980年12月12日でしたが、大評判を呼び、高値が付きました。その公開により300人以上の百万長者が生まれたと騒がれました。私など当時は株になど関心はなく、またあっても金もなかったですが、私の知っていたあるアメリカ人はもともと補聴器の販売をやっていたそうですが、アップル・コンピューター社の最初の商品Apple 1やApple 2などを販売する会社に模様替えし、大いに儲かりました。その後の同社の躍進は皆様のご存知の通りです。1980年代はアメリカでもベンチャー企業花盛りでしたが、パソコン業界でのアップル、バイオ業界でのアムジェンが二大スターでした。しかしその後、公開企業となり、多くの投資会社や企業が株主として参画する中で、再興経営責任者として株主たちは大手企業ペプシコーラの社長をアップル社の最高経営責任者とし、その後、会社内の権力闘争でスチーブン・ジョブズさんは1985年に自分の作った会社を追い出されます。その間にアップル社は会社創造時期の情熱や輝きが消えました。そして1996年にまたジョブズさんが復帰しました。それからは音楽業界でiPod,携帯電話業界でiPhone,そしてエンターティンメント業界でiPadと時代を切り開く新機軸の商品を開発し、世に出して来ました。現在までの数字で、世界中で3億1千4百万台のiPod,1億2千9百万台のiPhone,2千9百万台のiPadが販売されたそうです。驚異的な数字です。私はジョブズさんがアップル社を追い出された後、設立したネクスト社で彼と一緒に働いた日本人ビジネスマンの方を良く知っているのですが、彼の話によると、ジョブズさんの美的センスは素晴らしく、アップル社の商品がデザイン的に優れているのは彼の厳しいまでの美意識だそうです。ジョブズさんの一番好きな色は黒で、彼は会社でもいつも黒のTシャツを好んで着ていたそうです。ネクスト社は必ずしも成功とは言えませんでしたが、彼はアニメ映画などのCGに優れた技術を発揮したピクサー社で大成功しました。その成功がアップル社の最高経営者への復帰の原動力となったのかも知れません。彼の常に先を見通す時代感覚や創造力は有名でしたが、彼のコミュニュケーション能力も素晴らしいでした。スタンフォード大学の卒業式での彼のスピーチなどは実に感動的です。彼はまだ56歳です。元気であれば、もっともっと活躍出来るでしょう。今回の引退はその点で誠に残念なニュースです。一つの時代の終わりを感じます。願わくば、奇跡が起こり、彼の病状が良くなると嬉しいのですが。(終り)
2011.08.27
コメント(2)
島田紳助さんは私の好きな芸能人の一人でした。最初にテレビで彼のことを知ったのは確かテレビ朝日で田原総一朗さんが討論ホストを務めた「サンデープロジェクト」で島田紳助さんが司会者を務めたときでした。政治・経済の話題が中心で少し固いテーマもお笑いタレントとして知られた島田紳助さんが汗かきながらも司会したことで、きっと若者たちにも同番組への関心を持たせたのではないかと思いました。その後も妻が近くの日系DVDレンタルショップで借りてくる日本テレビの「行列のできる法律相談所」やTBSの「紳助社長 プロデュース大作戦」なども楽しんでいました。出演する若手芸能人たちが時折視聴者に対してよりは司会者の島田紳助さんに対して、気に入られようと必死に努力している姿が一見媚びているように見えて、少し違和感を感じるときはありましたが、島田紳助さんの軽妙で面白い話術にはいつも感心し、楽しんでいました。「プロデュース大作戦」の最近の番組で、鈴鹿8時間耐久レースに参加した映像などでは島田紳助さんの若者を引っ張る指導力みたいなものを感じ、とても貴重な能力だと感じたばかりでした。ところがその彼が突然芸能界引退を表明しました。暴力団関係者との交遊を認め、その社会的責任を取るために、急遽引退ということのようです。それにしても驚きました。テレビ局関係者や彼の冠番組のレギュラー出演者たちにも寝耳に水の表明だったことでしょう。十数年前の関西テレビでの彼の冠番組「紳助の人間マンダラ」での発言で右翼に攻撃され、街宣車に押しかけられというトラブルが発生し、その問題解決に山口組のナンバー4にあたる幹部が関与したことが始まりのようです。その幹部が2005年に競売入札妨害事件で大阪府警に逮捕された際に、島田紳助さんからその幹部に送られた直筆の手紙や幹部と同席した写真などが警察の家宅捜査で押収されていたようです。またその幹部が紳助さんの経営する大阪市内のバーを訪れ、高額の飲酒をしてくれたことに対する感謝のメールなども、見つかったそうです。それは上記の右翼とのトラブルの際に彼と幹部を結びつけてくれた元ボクシング世界チャンピオンの携帯電話に残っていたそうです。これらはいずれも新聞報道からの情報です。この携帯電話はこの元ボクシングチャンピオンが恐喝未遂罪で2007年に逮捕された際に押収されたものだそうです。何故今頃になって警察に押収されていた手紙やメールの記録などが出て来るのか、何故また一挙に引退表明にまでなったのか、まだまだ十分に明らかにされていない事実があるのではと感じます。これからいろいろ出てくるかも知れません。しかし私にはまだまだ元気な55歳でテレビ界から消えざるを得ない彼の能力を惜しむ気持ちがあります。確かにテレビという大きな力を背景にしてではありましたが、彼の若者への影響力などは大きいでした。彼も色んな人生経験を通じ、本音で語り、情にも厚く、そして発想力や創造力もあったのではと思います。確かにテレビ局の番組担当者なども視聴率を取れる彼の司会力に甘え、少し番組が私物化される傾向を感じさせる点もありました。しかし私は上記の鈴鹿8時間耐久レース番組の企画や若者を感動させる番組などを作れる点を考えると、このまま消え去るのは誠にもったいないと感じています。各テレビ局でユニークな番組を持ち、視聴率向上の点からテレビ番組制作者から期待され、また事業家としても成功していた高額所得者の彼のどこに弱点があったなのかなと考えます。やはりそれは有名になり、成功の階段を上がる中で彼自身が気づかないところで、少しずつ謙虚さを失って行ったのかなと想像します。「謙虚にして驕らず」これこそが成功した人に最も大切なことであり、同時に最も難しいことです。まだ55歳、元気もあり、発想力や指導力もある彼です。一度日本を離れ、アメリカの西部の雄大な自然の中で英気を養って欲しいものです。グランドキャニオンやモニュメントバレーやヨセミテなどを訪ねると、チマチマした物に囚われなくなります。大自然の中で人間の弱小さを実感すると共に、謙虚さと感謝が自然に感じられます。真の意味で彼がまた一皮向けるならば、素晴らしい人材になりうると私は感じています。まだまだこれから頑張って欲しいものです。(終り)
2011.08.25
コメント(0)
こちらのテレビではリビアの首都トリポリがカダフィ反対派により殆どの地域が制圧され、カダフィ政権は実質的に終ったと伝えています。またシリア情勢等も伝えています。イラクのフセイン大統領逮捕から始まり、アラブ諸国での政治的変化が続いています。この裏にはイスラエルやアメリカの意図が隠れているのでしょうか。それとも長年同じトップに牛耳られて来た体制への民衆の自発的な行動の表れなのでしょうか。恐らく後者だと思うのですが。また島田紳助さんの突然の引退宣言のニュースも入って来ました。多くの冠番組を持った司会者だっただけにテレビ局も対応に大童でしょう。ヤクザさんとの付き合いがとんなものだったのかは判りませんが、その内にまた内容が明らかになるでしょう。私は彼の軽妙な司会や笑いの感性にとても好意を持っていたのですが。これで終ることなく、彼の才能を活かして、世のため人のため生きる道が生まれることを願っています。彼の例とは違いますが、甲子園の高校野球で準優勝した青森県の光星学院野球部の生徒三人の飲酒が明らかになり、祝賀ムードで一杯だった青森県が一挙に変ったというニュースもありました。三人の行為の影響は彼ら三人にとどまらず、大きく広がりそうです。若さゆえの軽率さと社会のルールの厳しさとの断層を感じます。厳しさを教えると同時に、またメディアによる行き過ぎがないようにも望みたいです。私にとって更なるショックは竹脇無我さんの死のニュースでした。彼の若い頃の森繁久弥さんなどとの出演のイメージが頭にあります。まだ67歳だったそうです。私より3歳若いです。自分より若い人の死は悲しいと同時に、自分も決して死から遠くないことを思わされます。そんな年齢になったことをいやおうなく認識さされます。人間誰でも早かれ遅かれ死ぬのですから、バタバタすることもないとは思いますが、何となく気持ちの良い感じではありません。明るく気持ち良い感じだった彼の冥福を祈りたいと思います。(終り)
2011.08.24
コメント(0)
昨日の月曜日は大いに疲れた一日でした。とても長い一日でした。家に帰りついたのは午後11時半でした。疲れたけれど、とても達成感を感じた一日でした。ビジネスでの達成感です。今年二月始めからある大阪の会社と私が関与するオレンジ・カウンティにある会社との業務提携話を進めていたのですが、大阪から社長さんがお見えになり、昨日北米に置ける独占販売権契約の調印にめでたく漕ぎつけました。大阪にある従業員30人、年商9億円という小さな会社ですが、優れたニッチの技術を持ったメーカーです。日本には匠の技というか、世界に冠たる職人技があります。惜しむらくは彼らが作り上げた商品を国内においてすら十分にマーケティングする能力を持たないところが多いことです。ましてや海外マーケティングとなると、ノウハウ、人材、資金など殆ど持ち合わせていません。今回のビジネス案件はニッチで優れたある商品を北米市場で販売するための話し合いでした。物作りに優れた人々とアメリカでのマーケティングに優れた人々とを結びつける試みでした。日米の会社では企業文化が違います。ビジネス習慣が違います。大企業同士であれば、グローバルビジネスに習熟した同士、その違いは少ないです。しかし中小企業同士ではかなりの違いがあります。北米市場に合う商品に作り変える交渉や商標登録の問題の了解などにもそれなりの時間が掛かりましたが、やはり独占販売権の契約書の内容に関してのやりとりがかなりのエネルギーを必要としました。法律用語と一般人の使う用語とは同じ言葉でも意味合いが違います。ましてや一方は日本語で、片方は英語での主張を繰り返しますから、両者に納得の行く言葉を捜すのも楽ではありません。また内容に関しても「北米市場」の中にはカナダとメキシコ、アメリカだが、グアムやプエルトリコは入るのか、入らないのかとか、将来ドル・円の為替交換率がどの程度変更したらどうするのかなど話し始めれば切りがありません。また弁護士とは常に将来の最悪の状態を想定して、そのために漏れ落ちのない文章を入れようとします。社長同士ならもっと簡単に済むところが、両方の弁護士さんの指摘が入り、調整に手間取ります。いずれにしろ、わずか6回(通常は10回、15回と書き直す)の契約案の書き直しで、思ったより簡単に纏まりました。2月の最初の時点から、両社長さんの相互信頼を醸成するような努力も効を奏したようです。両者とも満足の表情で署名しました。その後、契約をしくし、夕食を共にし、今後の相互協力を誓い合い、別れました。大阪からの社長さんを宿舎まで私が送りました。お父さんと叔父さんが63年前に創業した会社を引き継いだ二代目社長さんですが、とても闊達で気持ちの良い55歳の社長さんでした。帰り道、405フリーウェイを走っていたら、大きな花火が上がりました。ディズニーランドの閉園前に毎晩上げられる花火です。とても綺麗でした。大阪の社長さん曰く、「まるで今日の契約調印を祝ってくれる祝賀花火のようですね」ととてもご機嫌でした。しかし契約調印は始まりです。高校や大学の卒業が社会人としての始まりであり、結婚が家庭を築く始まりであるように、ビジネスもこれからが始まりです。調印に漕ぎつけてもちゃんと商品が売れない限り、私にも一銭の収入もありません。半年余りの努力もくたびれ損で終わります。しかし仮にお金が入って来なくても、時間とエネルギーのロスとなったとしても、昨日の達成感はとても心地良いものでした。久し振りに感じたビジネスの達成感でした。2003年から海に眠る父を求める旅を続けている間、終ったと思ったら、また新しい驚くような出会いや出来事が続き、ビジネスは疎かになっていました。妻は「貴方ももう70歳になり、残りの人生もそう長くないのだから、ビジネスはもう止めて、すこしでも人々の励ましになるような本の取材・執筆に集中したら」とビジネス反対なのですが、今日感じた達成感、満足感はなかなか忘れ難い感じです。両窓を開け、夜で涼しくなり、昼間の混雑が嘘のように消えたフリーウェイを家路に辿りながら、心地良い夜気を両頬に感じ、久し振りのビジネス達成感を味わいました。(終り)
2011.08.23
コメント(0)
全926件 (926件中 1-50件目)