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御影堂門を境内の南西側から眺めた景色から始めます。 門に南から近づいて行きます。門の南側に入母屋造りの建物が見えます。 こちらは御影堂門の北側にある同形の建物の部分です。上掲の写真と見比べていただくと、扉のある位置が左(北側)になっています。板壁で花頭窓が設けられ、欄間は花狭間になっています。柱は礎盤の上にのり、柱の上端はやや丸みを持った粽状にしてあります。禅宗様の様式が取り入れられているのでしょうか。 この建物は、御影堂門の2階、楼上に上がるための階段を覆うための建物です。「山廊(さんろう)」と称されます。 これは北端の境内側控柱と本柱の間で、内側を撮った景色です。貫の下側は腰板が張られ、上は花狭間窓となっています。 こちらは、南端の境内側で外側を撮っています。 花狭間窓 比較的単純な図形の繰り返しが美しい幾何学模様を生み出しています。中央の柱と貫との交点部分は、牡丹の花をデザイン化しているように思います。寺紋との関係でしょうか。間違っているかもしれませんが、私の印象です。 花狭間窓の周囲の錺金具には唐草文が線刻されています。 境内側の控柱下部の錺金具に打ち出された獅子も眺めてみましょう。 上掲の獅子(西側) 北側 南側 これらの錺金具の獅子像の上にも牡丹の花が打ち出されています。 それでは、御影堂門の屋根を眺めましょう。入母屋造り本瓦葺きの屋根です。 大棟の獅子口は「東本願寺慶長撞鐘」の記事で補足として取り上げた獅子口と同じ意匠のようです。漆喰を使っているところは阿弥陀堂門の細見で取り上げた獅子口と同じです。錺金具には唐草文様が使われ、拝みの個所には「東六条八藤紋」が使われています。(資料1)その下の懸魚は「三ツ花懸魚」の形式のようです。(資料2)懸魚の中央部にも上記紋章が使われています。 破風には青海波文が薄く刻まれ、錺金具の中央には上記と同じ紋章が使われています。その両側は菊花が意匠化されたもののようです。脇懸魚は懸魚と同形です。 唐草文の意匠 稚児棟の獅子口も当然ながら同形です。軒丸瓦の先端面には「本願寺」の文字が陽刻されています。 尾棰の先端部は錺金具で覆われ、先端面には上記の紋章が使われています。 初層の屋根も同様です。 山廊の屋根も眺めましょう。 棟の獅子口は勿論同形です。 拝みの個所の錺金具は同じ形式ですが、懸魚は蕪懸魚のスタイルで、懸漁には紋章が使われていません。 脇懸魚は同様に蕪懸魚です。脇懸魚の上の破風に使われている錺金具を写真で観察していてその意匠に違いがあることに気づきました。以下は写真から部分図を切り出しました。対比してみてください。 御影堂門 屋根の破風の錺金具 山廊 屋根の破風の錺金具 この意匠のバリエーションがおもしろい。細見の楽しみどころでもあります。これなどは、発注者の詳細な仕様要望によるものなのでしょうか。あるいは、細部についてはこの錺金具を制作する匠の創意工夫によるものなのでしょうか。 御影堂門の北側にあるもう一つの山廊の北面破風部分を撮った景色です。 御影堂門前で南を眺めて 烏丸通の北方向を眺めて御影堂門を後に、東本願寺前の烏丸通の紅葉を眺めつつ、JR京都駅に向かいました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 大谷家 :ウィキペディア2) 『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社 補遺東本願寺 真宗大谷派 ホーム-ページ錺師 :「若林佛具製作所」森本錺金具資料館 :「森本錺金具製作所」匠のまちを歩く 川島利之さん(錺師) :「文化探訪」下町に息づく伝統の技 錺師3/6 YouTube下町に息づく伝統の技 錺師4/6 YouTube下町に息づく伝統の技 錺師2/6 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.31
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阿弥陀堂門前から眺めた御影堂門。入母屋造り本瓦葺きの楼門であることがわかります。改めて御影堂門を細見してみました。そのご紹介です。 門前の南側、北側からまず外観を眺めましょう。本柱に対して控柱が前後に4本ずつあり、八脚門の形式です。三間一戸が古来から一般的な形式なのですが、この御影堂門は三間三戸の形式になっています。門の両側に2階楼上への山廊が設けてあり、二層門の形式です。 正面楼上には、「真宗本廟」の扁額が掲げてあります。唐草文様の錺金具が輝いています。 門から正面に御影堂が見えます。 境内には堀が巡らされています。堀に架けられた石橋を渡って門の傍に歩みます。 控柱の頭貫は彫りは深いですが簡略な文様です。蟇股も木鼻もごくシンプルな造形です。 頭貫の上に台輪が設けてあるのが目に止まりました。 門の内に佇み、中央部の本柱を見上げると、天井部分が金網で防護されているので、少し見づらくて残念ですが、龍が彫り込まれています。 龍の眼は彩色し描かれているように見えますが、定かではありません。 南側の門扉上部の欄間彫刻です。波濤文様が彫られているようです。 先に触れておきます。門を通り抜けて、境内側から見上げますと、背面にも龍が彫刻されています。こちらには金色の波打つ龍の髭が目に止まります。さて、もう一度門扉より外側に戻ります。 八脚門の控柱の一部の細見です。やはり注目は錺金具です。四脚門形式の阿弥陀堂門の控柱との違いは、丸柱が使われていることです。礎盤があり、丸柱の下部が錺金具で防護されていることと、意匠造形は異なりますが獅子像が打ち出されている点は同じです。 反時計回りに東西南北の方位にそれぞれ異なる姿態の獅子像が造形されています。各控柱の獅子像を見比べていくのが一つの楽しみです。現地でじっくりダイナミックな獅子像のどこがどう違うかを観察してみてください。 ズームアップしてみますと、京都タワーの展望台部分が金網の先に見えます。 北端の幣軸個所の装飾彫刻 中央部の幣軸の装飾彫刻本柱錺金具の獅子像 幣軸の部分には、菊の花がレリーフされています。よく見ると微妙に変化変転しています。 3個所ある門扉は桟唐戸の形式です。これらは北と中央の門扉です。上部から眺めていきましょう。 寺紋(本願寺抱き牡丹紋) 扉の強度を増すことを兼ねた金具は機能本位の質実な造形です。レリーフされている草花は何でしょうか。私にはわかりません。 門扉の閂は角柱がきっちりと金属板で補強されています。かなりの強度アップとなるでしょうね。 境内側の梁の一つです。草花文様の繊細な装飾彫刻が施されています。 境内の北西側から眺めた御影堂門の全景です。京都タワーとの距離感がわかることでしょう。 南西方向に目を転じると、御影堂があります。 東本願寺境内全景図次回、境内から眺めた御影堂門を続けます。補遺東本願寺 真宗大谷派 ホームページ東本願寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.30
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東本願寺の阿弥陀堂門を入ると、右斜め前方にこの鐘楼が新たに建立されていることに気づきました。今回はこちらも細見しましたので、別項としてご紹介します。しかし、少し様子が違います。 近づいてみますと、梵鐘が吊り下げられているのではなく、台座を設けてその上に置かれているのです。背後に見えるお堂が阿弥陀堂です。 この鐘楼の南側に、この境内案合図が設置されています。つまり、梵鐘が展示(設置)されているのは この「お買物広場」の建物の南側になります。 鐘楼の傍に、この案内板が設置されていて、「東本願寺慶長撞鐘(つきかね)」というタイトルでこの撞鐘について説明されています。 柱の傍に、新しい案内板の設置以前から使われていたと思われるもう一つの案合文も併設されています。これらを参照資料にして、撞鐘を細見していきましょう。 案内板の右上の写真説明からこの撞鐘の姿図を切り出しました。教如上人は、慶長7年(1602)、徳川家康から京都烏丸六条に寺地の寄進を得ました。慶長9年(1604)9月の御影堂造営に合わせてこの撞鐘を鋳造したそうです。この撞鐘の大きさは総高256cm、口径156cm。総重量は3,800kg。尚、写真図版は以下の細見個所のうち銘文のある個所を説明していますので省略します。 「池の間」に「慶長九 甲 辰 暦」、「五月廿八日」という銘文(陰刻)があります。この撞鐘が鋳造された日付です。つまり、慶長9年(1604)5月28日。 縦帯の下部に「大工大坂淨徳」という銘文(陰刻)が見えます。この撞鐘を制作したのは鋳物師(いもじ)の大工淨徳です。余談です。「大工」という語句を手許の辞書で引いてみました。『広辞苑』(初版)には、次のとおり説明されています。 (1) 木工寮または太宰府に属し、諸種の営作に従事した職。 (2) 工匠(たくみ)の棟梁。番匠。 (3) 主として木造家屋などを建てる職人。こだくみ。きのたくみ。このみちのたくみ。 木工。また、明治時代に出版された大槻文彦編纂の『言海』という辞書には、 (1) 工匠(タクミ)ノ棟梁。(番匠バンショウの條、見合ハスベシ) (2) 今、専ラ、大工コタクミノ通称。木工。と説明があります。今ではもっぱら木造建築の職人さんを大工と称しますが、かつては「工匠」という概念が広かったということですね。金属の鋳造をする鋳物師と称される人々の棟梁も「大工」と称されていたのです。元に戻ります。 「飛天図」が描かれた「池の間」に「信淨院」の銘文(陽鋳文字)があります。信淨院とは教如上人のことです。つまり、教如上人の発願、発注により鋳造された撞鐘ということになります。この撞鐘は境内地南東の鐘楼に、慶長9年(1604)6月6日に吊り下げられたと言います。撞き初めはその翌日、6月7日だったとか。 「信淨院」の銘文がある「池の間」の「右向飛天図」 「右向鳳凰図」 「左向飛天図」 5月28日の銘文がある池の間の図です。 「左向鳳凰図」 下部中央に「本願寺」の銘文(陽鋳文字)があります。 撮る位置を少しだけ移動して・・・・。 撞座 八葉素弁蓮華文です。 下帯の文様。唐草文様が陽鋳されています。 この案内文の説明で、上記と重複しない個所を転記してご紹介します。関心を抱かれた形は実物の撞鐘を見て、現地で案内文を再読していただく一層興味が湧くかもしれません。「竜頭の方向が撞座に直交する古式の洪鐘(こうしょう)である。」 (池の間に目が集中し、竜頭の写真を撮り忘れました。残念! 以前に一度撮ってはいます。)「慶長末年以前の鐘としては、①京都方広寺の鐘、②奈良東大寺の鐘、③山形羽黒山出羽三山神社の鐘、④鎌倉五山円覚寺の鐘についで5番目の大きさを誇る。」「池の間四区には、飛天と鳳凰図が浮き出されており、乳の間には一区五段五列で、上帯にも二個ずつ四箇所に乳が配列され、全部で百八煩悩を現している。」「大坂の鋳物師は、鐘銘に見る限り慶長6(1601)年を初見とし、難波別院(大谷本願寺)の鐘銘に『大工我孫子杉本/藤原朝臣仏善左衛門尉家次』とあるように、元来、摂津国住吉郡我孫子の住で、天正11(1583)年、秀吉の大坂築城を契機に、我孫子から移住したものとされる。」「飛天図については、韓国の鐘に類例がみられるが、多くは正面を向き両足を屈した図像であり、斜め横方向へ飛翔する本撞鐘の天人とは異なる。また、飛天図は、和韓混淆の鐘にもみられるが、その形象や衣文表現などに相違する点がある。鳳凰図についても、韓国の鐘には池の間にあらわす例は見出せず、東本願寺慶長撞鐘の特徴を示すものである。」末尾に、この撞鐘が2016年2月16日付で、真宗大谷派宗宝第36号に指定された旨の一文が記されています。 序でに、北側の建物周辺のご紹介をしておきましょう。一つは入母屋造りの屋根です。切妻の破風部分には三ツ花懸魚が使われています。特徴的なのは、切妻部分の個所は全体が漆喰で塗り固められていると思われることです。外観の美と併せて防火対策が意識されているということでしょうか。 大棟の端には獅子口が見えます。阿弥陀堂門の唐破風上の獅子口と基本は同じです。しかし、全体が一体化した形で制作された瓦のように見えます。足元の造形は波濤文ですがかなりダイアミックな意匠になっている感じです。 稚児棟の個所にも獅子口が使われていますが、こちらには足元(鰭)が略されています。経の巻と軒丸瓦は共に三つ巴文様ですが、形状の表現が異なります。 大瓶束と蟇股が同じレベルで並んでいるのに興味を持ちました。蟇股が下部構造に、上部構造に大瓶束が使われるというのが良く見かける形式ですので。 この建物と東側の築地塀の間の細長い空間をふと見ると、石庭風の庭に作庭されています。東本願寺を今までに幾度か訪れていますが、ここは初めて気づきました。まだまだ見過ごしている個所がありそうです。これで東本願寺慶長撞鐘についてのご紹介を終わります。[付記]2017年3月~4月にスポット探訪として「東本願寺細見」記を拙ブログでご紹介しています。そのときこの撞鐘は境内の一隅に仮置きで展示されていました。その時に傍にあったのが、上掲の簡易な説明文でした。今、この撞鐘にとっての正式な居場所がここに設けられたということです。スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -2 阿弥陀堂・鐘楼(新調梵鐘)・東本願寺撞鐘(梵鐘)この記事で当時の状況をご覧いただけます。ご覧いただきありがとうございます。こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.29
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先月中旬に京都駅前に用事があって出かけた時、久しぶりに東本願寺の境内に入りました。以前に東本願寺の探訪記をご紹介しています。今回はまず阿弥陀堂門を対象にして細見してみました。左は烏丸通の西側歩道を北に歩み、東本願寺東面の築地塀を囲む堀端の景色を眺めたところです。御影堂門の屋根が一段高く遠方に見えます。右は御影堂門の南にある「阿弥陀堂門」に近づいた場所で眺めた景色です。 境内の西南寄りから眺めた阿弥陀堂門の全景です。 境内側から阿弥陀堂門に立ち、東を眺めた景色です。それでは、阿弥陀堂門の細部をゆっくり観察いたしましょう。 屋根の棟瓦には、半円弧の瓦が組み合わされて、リズミカルさを加えています。コードが見えるのは避雷針用のコードでしょうか。軒丸瓦の正面には一般的な三つ巴紋が見えます。 唐破風の屋根に獅子口が見えます。経の巻の正面には三つ巴がレリーフされていて、綾筋は2本。その下には葵形様の文様が見えます。両側の足元(鰭)は波濤文です。本堂に使われている獅子口と同じです。 屋根は檜皮葺き。兎毛通の個所には五七桐の紋章が錺金具にレリーフされています。 脇懸魚の上部、破風の錺金具にも同様に五七桐の紋章がレリーフされています。 屋根の内側、頭貫から上部は鳥害除けの金網で覆われていて、彫刻の状態が見づらくなっています。蟇股の造形はシンプルな意匠です。 正面(東面)の木鼻は草花文で、側面(南北方向)には獅子が彫刻されています。 門は四脚門の形式です。門扉の本柱の前後に計4本の控柱が立つ形式です。 本柱と控柱の間の欄間には花狭間窓が嵌め込まれています。 貫の釘隠しの錺金具 桟唐戸形式の門扉には、様々な文様や紋章が見られます。 上部に花狭間。その下に菊花紋の狭間があり、さらに下には五七桐の紋章が取り付けてあります。 桟を飾る錺金具の表面には、咲き誇る菊花が線刻されています。 本柱は円柱でその下部を覆う錺金具。風水からの防護機能を兼ねているのでしょう。禅宗様建築で使われる礎盤がここにも使われています。錺金具には躍動的な獅子像が打ち出されています。 門扉の幣軸にも錺金具が要所に取り付けてあります。幣軸の下部を覆う錺金具には菱柄の中に図案化した菊様の文様が線刻されています。上部の意匠も同様です。 控柱は角柱です。こちらも柱の下部は錺金具で覆われていて、柱に併せて礎盤も角形です。 東面 南面 西面 北面それぞれの面には、様々な動きをする獅子が打ち出されています。 門傍築地塀の張り出し部分の正面 築地塀屋根の鬼板と飾り瓦。軒丸瓦の正面には「本願寺」の文字が陽刻されています。 合掌部の錺金具 蕪懸魚の形式 蟇股には菊の花の透かし彫りが施されています。 こんなところで、阿弥陀堂門の細見を終わります。この阿弥陀堂門もまた、境内への出入口、通過点として素通りするだけではもったいない。ちょっと立ち止まって、ゆっくり眺めてみるといろいろな発見に繋がり、楽しめます。お試しください。ご覧いただきありがとうございます。補遺東本願寺 真宗大谷派 ホームページ東本願寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 一覧表スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか 5回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか 6回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.28
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今月初旬に、堀川通西側の西本願寺に対面する形で通りの東側に位置する龍谷ミュージアムに行ってきました。11月21日から前期展示が始まった企画展「ほとけと神々大集合」を鑑賞するためです。このタイトルがおもしろいので出かけた次第です。サブ・タイトルは「岡山 宗教美術の名宝」となっていました。この副題を意識せずに出かけたことになります。 展示会場は3階のフロアー全体だけ。入口傍にこのコーナーが設置してありました。会場を示すとともに、記念撮影用も兼ねているのでしょう。 左は入場チケットの半券。右は鑑賞後に購入した図録です。古代には「吉備国(きびのくに)」と呼ばれた岡山という地域限定で宗教美術を一堂に集めた展示でした。なぜそれができたのか。岡山県立博物館が改修工事を行われることになったことから、龍谷ミュージアムで同博物館の所蔵品や寄託品の一部を預かることになったそうです。そこで、この機会に「密教美術と、神仏習合に伴う垂迹美術をテーマに」した企画展開催の運びとなったと言います。吉備国は古代において大陸との交通の要衝地にあり、出雲国、大和国に匹敵する力をもつ地域だったようです。奈良時代の報恩大師と香川出身の弘法大師空海らがさかんに活動した地域だったそうで、その結果真言宗・天台宗という密教系寺院が数多く建立され、密教美術が伝来し、優品が製作され信仰されたと言います。(資料1)一方、『日本書紀』の巻五・崇神天皇9年9月9日の条によれば、吉備津彦は四道将軍の一人に任命され、西海の征討を指示されます。冬10月22日に出発し、11年夏4月28日には、四道将軍からそれぞれ赴いた地方の敵を平らげたという報告がなされたと記述されています。つまり、吉備津彦が平定した地域が吉備国となるのでしょう。その吉備津彦を祀る霊廟が吉備津神社であり、また吉備の中山の北東麓に吉備津彦神社があります。(資料2,3)吉備津神社、吉備津彦神社や美作国の中山神社(一宮)・高野神社(二宮)などの由緒の古い神社では、仏教思想の流入以降に神仏習合が生まれ、垂迹美術が生み出されてきたと言います。(資料1)この企画展は、岡山という地域に凝集された宗教美術の名品・優品を身近に鑑賞できるというまたとない機会になりました。まさに密教美術・垂迹美術の作品の大集合と言えます。ワンフロアーだけでの展示です。会場で入手した「出品目録」の一覧表によると、件数番号では48、第26番は小枝番号が5つありますので、総件数では52です。前期・後期で10件の入れ替えがあり、他に巻き替えや前・後での差し替えが予定されています。実質的な展示数でみても、比較的ゆったりとした展示空間になっています。鑑賞日とその時間帯だけでみると、数人見かけただけで、ほぼ専有的に静かな中で鑑賞できてラッキーでした。会場は2章構成になっています。「第1章 密教美術」はさらに3つのセクションから構成され、まずは「密教の世界観」です。その世界観を示す「両界曼荼羅」の展示から始まります。胎蔵界・金剛界の大きな両図が複数件並べて展示されています。 これは冒頭の入口に掲示された企画展案内パネルから部分拡大し切り出したものです。寶光寺藏の胎蔵界曼荼羅(重文)の一番中心になる「中台八葉院」から抽出された部分図です。この図には次のような位置関係で大日如来を中心に菩薩や如来が描かれています。(資料4) 東方 宝幢如来 弥勒菩薩 普賢菩薩北方 天鼓雷音如来 大日如来 開敷華如来 南方 観自在菩薩 文珠菩薩 無量寿如来 西方展示された両界曼荼羅は、当然のことですが様式は同じです。しかし、対比的に眺めると描き方の違いなどから興味が増します。「描表装(かきびょうそう)」という手法を使ったものが展示されています。前期はそれを使わない通例表装の本山寺の両界曼荼羅と併せて3件出ています。後期は「描表装」手法を使った両界曼荼羅だけの2件に入れ替わる予定です。 図録の表紙を部分拡大して引用します。「密教のほとけたち」のセクションでは、上掲写真の中央で一際大きい集賢作「木造宝冠阿弥陀如来坐像」(岡山県立博物館蔵)がやはりハイライトの一つでしょう。吉備津神社の社僧寺の一つ青蓮寺伝来の仏像で、常行堂の本尊だったそうです。阿弥陀仏の宝冠像は私にはめずらしくて印象に残る仏像となりました。大きいと言っても像高82.3cm、鎌倉時代、1329年の作だそうです。(資料1) こちらはチケット半券の部分図です。番号1は「木造聖観音坐像」(明徳寺藏)、番号5は「木造薬師如来坐像」(明光寺蔵)でいずれも平安時代後期の作。通期展示です。前者は総高40.5cm、後者は像高44.0cmです。(資料1)ここに展示の重文の不動明王像と愛染明王像はそれぞれが前期・後期で入れ替えになる予定です。 部分図として切り出したこれらの像は伝増吽筆「十二天像」(重文・長福寺藏)のうちの二幅です。左は月天、右は伊舍那天。展示は六天ずつ前期・後期に入れ替えて展示のようでした。十二天全部を一堂に見ることができなかったのがちょっと残念です。まあ、展示ではよくあることですが。「三千仏図」(長法寺藏)は、蓮華座に坐す中尊の周囲に小仏がびっしりと描き込まれている図です。その根気のいる描画作業に圧倒される思いです。小仏を描く忍耐力は相当のものと思います。第1章の最後は「弘法大師と密教寺院」のセクションで、持宝院藏の「弘法大師像(善通寺御影)」が展示され、3件の銅製五鈷鈴や五鈷杵、岡山市の西大寺藏「西大寺縁起」が5点併せて展示されています。一般的な弘法大師像に釈迦如来の影向する場面が描き加えられた御影を「善通寺御影」と呼ぶそうです。南北朝~室町時代の作だとか。「西大寺縁起」は、永正本・寬文本・延宝本・貞享本・享保本と描かれた時代が異なるものが一緒に展示されています。場面描写法が時代により異なり、対比的に眺めるとこれもおもしろいものです。「第2章 神仏習合の美術」も3つのセクションで構成されています。最初のセクションは「神々とほとけの姿」です。仏教の流布・浸透に対して、神々の世界も具象性を持つ神像として造形するということが要望されていったのでしょう。 これは平安時代後期の「木造男神坐像」(宇南寺蔵)です。図録によると、寺伝では本堂の北約150mのところにあった八幡宮の御神体だと伝わっているそうです。この像の側面と背面には梵字が散らし書きされていて、今でもその文字が読める状態です。神像に後記された梵字、まさに神仏習合です。 平安時代後期の作で通期展示の「木造女神坐像」(県指定重文)です。吉備津神社の神官家に伝わる女神像と言います。もとは彩色され、截金文様も施されていたそうです。 こちらも通期展示で、南北朝時代、1370年の定忍作で「木造童形神(文珠大明神)坐像」(摩賀多神社藏)。この像は左手に経巻を持っています。その姿から本地仏は文珠菩薩と考えられています。美豆良(みずら)を結った姿から私は聖徳太子を連想してしまいました。次は「神仏習合の神とほとけ」というセクションで、ここには「高野四社明神像」(持宝院蔵)や「地蔵菩薩像(僧形八幡神影向図)」(捧澤寺蔵、前期のみ)が図像として展示されていました。ほかに平安時代後期作の「銅板線刻蔵王権現鏡像」(岡山県立博物館蔵)が展示されています。その裏面は釈迦如来が線刻された鏡像になっているというもの。鎌倉時代の銅製の「毘沙門天像懸仏」も展示されています。最後のセクションは「神への祈り」です。 平安時代後期に作られた「木造獅子」(高野神社蔵)です。針葉樹林材の一木造りだそうです。他に木造の面や獅子頭が展示されています。2階に降りると、「仏教の思想と文化 -インドから日本へー」というシリーズ展が併設展示されています。龍谷大学の所蔵品を主体にしつつ、一部諸寺院や伊賀市等からの出展で構成されていました。こちらも二部構成になっています。シリーズ展の構成だけご紹介します。 第1部 アジアの仏教 第1章 仏教とは 第2章 釈尊の教えとその継承 第3章 大乗仏教とガンダーラ・西域 第4章 中国の仏教 第2部 日本の仏教 第1章 仏教伝来 第2章 国家と仏教尚、「ほとけの世界」と題して、7点の展示があります。ほとんど一人でという感じで鑑賞するというひとときを過ごせました。私にとってはラッキーでした。 その後、地下歩道路を使い堀川通の西側に。 御影堂門から西本願寺境内に入ってみました。 境内の銀杏の木の景色を眺めるのが目的でした。 いよいよ冬の訪れです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 図録『ほとけと神々大集合 岡山 宗教美術の名宝』 2020 発行 龍谷大学龍谷ミュージアム、朝日新聞社、京都新聞2) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p126-1293) 吉備津彦命 :ウィキペディア4) 中台八葉院 :ウィキペディア補遺伝説の報恩大師 郷土史研究家 山田良三氏 :「宗教新聞」祝・報恩大師生誕1300年! :「紀行歴史遊学」曼荼羅の教え :「ようこそ、こんごういんへ!」(真言宗豊山派金剛院公式サイト)四、両界曼荼羅 :「尾道・浄土寺」両界曼荼羅 :ウィキペディア両界曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2020.12.19
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書院等建物から庭を拝見した後、再び本堂に戻るために屋根付きわたり廊下を戻ります。戻る時に、廊下から西方向を眺めた景色です。右前方に見える入母屋造り瓦屋根の建物はたぶん元三大師堂だと思います。この紅葉は11月6日の状態です。 廊下の反対側、東に目を転じますと、書院側の建物があり、手水鉢が置かれています。手水鉢の右縁には、軒丸瓦の正面部分「真如堂」と陽刻された部分が載せてあります。傍の石には、なぜか白い狸の陶製像が置かれています。ユーモラスでおもしろい。 東側は、渡り廊下に沿って、生垣が設けられ、こんな境内が広がっています。白亜の築地塀のところに門が見えます。たぶんあの門が涅槃の庭に入る門だと思います。 本堂の北側面本堂の四方に外縁に上る階段が設けてありますが、本堂正面以外は閉鎖されています。 北側階段のところの手挟、蟇股、木鼻の彫刻を外縁から眺めたとことです。です。木鼻の象の頭の上に大斗が直に載っています。庭園の拝見に向かう時は、本堂北面の開口扉から外縁に出て、東端から渡り廊下に降りて書院等の建物側に行きました。帰路は本堂の東面から南面の外縁を進み、順路に指定された本堂正面の開口扉から堂内に戻ります。 本堂の東面外縁は高欄付きで、花頭窓が設けてあります。屋根(庇)は二手先の木組みで支えられています。 本堂から眺めた東側境内に建つ「万霊堂」が正面に見えます。その斜め右奥に「経蔵」があります。 東側外縁から真西方向に三重塔が見えます。 南東角で屋根裏を見上げて。この木組の景色を見るのが好きです。 本堂の東面を南から眺めた景色。屋根が見える北端部は渡り廊下とつながる場所。 本堂の南面本堂に戻り、正面から退出します。 正面には、「真如堂」の扁額が掲げてあります。 今回は、正面の向拝の柱、左側に「十夜大法要」、右側に「特別公開 観経曼荼羅」の木札が掛けてありました。入手したリーフレットによれば、真如堂の年間行事として、11月中は観経曼荼羅公開が行われるそうです。これに合わせて、庭園の特別公開が行われていたのだと思います。(資料1)また、浄土系のお寺では「お十夜」法要がおこなわれますが、この十夜法要の発祥地は不断念仏の道場であるこの真如堂だそうです。慈覚大師が招来した「引声念仏」を伝承する念仏の寺でもあります。(資料1)『無量寿経』には「ここにおいて善を修すること、十日十夜すれば、他方諸仏の国土において、善を為すこと千歳するに勝れたり」と記されているそうです。これにより十日十夜にわたって特定の期間行う念仏会が「十夜会」と称されています。(資料2)調べてみて、次のことを知りました。”この法要は『真如堂縁起』によると、一五世紀前半伊勢守貞国が願を立て真如堂に三日三夜参籠して出家することを志したが、最後の日の明け方、僧の夢告によって思いとどまった。翌日瑞夢のように兄貞経が失脚して貞国が家督を継ぎ、その後大いに繁栄した。このことが将軍足利義教に聞こえ、その命により三日に続いて七日七夜の念仏を修行したことが起源である。なお、貞国の真如堂参籠は、その直前に刊行された向阿証賢『三部仮名鈔』の影響と考えられる。その後、鎌倉光明寺九世祐崇は、明応四年(一四九五)後土御門天皇に召されて、宮中で『阿弥陀経』の講義をし、念仏の利益として上記の経文の事を講じ、また真如堂の式衆を率いて引声阿弥陀経ならびに引声念仏法要の導師を勤めた。それ以来勅許により十夜法要が光明寺で行われるようになった。” (資料2)前回触れませんでしたが、特別公開の庭園を拝見する受付を済ませた後、本堂の仏間に吊り下げられた大きな「観経曼荼羅図」を拝見しました。観無量寿経に基づいて製作された曼荼羅図としては、「当麻曼荼羅図」が有名です。真如堂の観経曼荼羅もまた、観無量寿経に基づく曼荼羅図です。 本堂屋根の人物像飾り瓦と鬼瓦。人物像が何者かは不詳。魔除けの神なのでしょうね。 本殿の全景です。本堂は境内の中央に西面して建っています。七間四面、単層で総欅(けやき)、入母屋造り屋根で本瓦葺です。現在の本堂は享保年間(1716-1736)に再建されたものです。(資料3) 以前に真如堂をご紹介していますので、本堂前に立つ駒札の掲載にとどめます。この後、本堂周辺だけ少し散策しました。既にご紹介していることと、あまり重複しない形で、落ち穂拾い的に補足ご紹介を少し続けます。 上掲の本堂正面に置かれた石灯籠です。 宝珠と請花の間が帯状にくびれています。前に訪れた時には観察していなかったのでしょう。ちょっと珍しい気がします。それと、火袋は六面体ですが正面と背面を除き、隣り合う二面はご覧の線刻が施されているだけのシンプルさです。連子窓・菱格子窓のイメージ図なのでしょうか。これもめずらしいのかなと思います。 中台の格狭間部分も線刻だけのもの。蓮弁は同形の繰り返しパターンではなく、弁の大きさが大きく異なる形で造形されています。反花は同形の繰り返しパターンですが、反りをあまり加えず平坦な造形にしてあります。全体としてあまりみかけたことのない石灯籠で私には、おもしろい発見でした。 紅葉が一段と深まる前の紅葉です。宝篋印塔が各所にあります。 三重塔の南方向に、「縣井観世音」の扁額を掛けたお堂があります。「金銅製、五寸ばかりの如意輪観音坐像を安置する。もと京都御所御苑内にある縣井より出現された霊仏とつたえる」(資料3)とのことです。 正面の格子戸にこの案内文が掲示してあります。「縣井」は御所三名水の一つだそうです。かつては、この井戸のそばに「縣宮」という社があったそうです。縣宮と縣井のエピソードがいくつか説明されています。なかなか興味深い例示です。 三重塔の東側に位置する手水舎を縣井観音側から撮った景色です。部分的な紅葉が素敵でした。 阿弥陀如来露仏は以前にご紹介してはいますが、今回撮ってみたかったのはこの像の背面です。正面の石造蓮華座の正面の蓮弁に「木食正禅」その下に「造立」と陰刻されています。ブロンズ製の仏像背面にさらに詳しく説明文があるということを探訪記をまとめる上で少し調べる作業をしていて、あるブログ記事でこのことを知ったのです。(資料4)この時の探訪では、阿弥陀如来坐像の背面を意識せず、背後に並ぶ石仏群に心が向いていました。 頭光背の指示軸部に「木食正禅造立」と陽刻されている左右に銘文が陽刻されています。この銘文を自分の目で確認したかったのです。忘れずにこの機会を活用できました。右側に「寒夜三十日念佛修行例年墓回り成就廻向佛併書寫大乗妙典血經一部御内服納之」と帰され、左側には「享保四巳亥歳八月十五日 弟子 蓮入 朋真 願真」とあります。弟子とともに行った修行が成就し、この像を建立されたということなのでしょう。木食正禅養阿上人は、念仏信仰に生き「市の聖」として、病人や民衆を救う社会事業に奔走されたそうです。功徳日参りを3年3ヶ月続けるとご利益があるとして「洛陽六阿弥陀巡り」を発案された僧だと言います。(資料5)洛陽六阿弥陀とは、一番真如堂、二番永観堂、三番清水寺阿弥陀堂、四番安祥院、五番安養寺、六番誓願寺の阿弥陀仏をいうとのことです。(資料6,7) 阿弥陀如来露仏の背後には、石仏群があります。この少し東に歩むと、数多くの石仏を集めた別の一画があります。以前にご紹介しています。さらにその東に進むと、道標が設置してあり、黒谷道の方向を示しています。この道は歩いていません。 黒谷道は南の方向に向かう道です。いずれまた、再訪する機会を得たときは、この道を散策してみたいと思います。左側の築地塀が気になり、少し南へ歩いて行くと、右の写真の黒い門扉があります。扉の上部連子窓部分に、「随縁の庭」で目にした紋章が見えます。三井家の墓所のようです。先に見た仏堂の蟇股の紋章、この大きな墓所。たぶん江戸時代以来豪商三井家は真如堂の大檀越ということなのでしょうね。勿論、それ以前からなのかもしれませんが・・・・。こんなところで、思いつきから最後に立ち寄った真如堂での未訪個所探訪が終わりました。体験的に位置関係がつかめたところで、真如堂総門⇒迎称寺⇒東参道⇒大元宮⇒日降坂⇒山蔭神社⇒吉田神社表参道⇒東一条通⇒川端通⇒京阪電車出町柳駅という経路を辿ることにしました。これで今回のご紹介を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 「真如堂」リーフレット 拝観の折り受付でいただいたリーフレット 2) 十夜会 :「web版 新纂浄土宗大辞典」3)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂4) 木食正禅上人と阿弥陀如来露仏 - 境内霊譚奇談集Ⅸ :「苦沙彌の雑文集」5) 阿弥陀如来露仏 :「真如堂」6) 初六阿弥陀めぐり :「京都観光Navi」7) 洛陽六阿弥陀めぐり :「京都通百科事典」補遺真如堂 ホームページ真如堂 観経曼荼羅特別公開 :「デジスタイル京都」浄土曼荼羅図 :「MIHO MUSEUM」観経曼荼羅 :「コトバンク」観経変相 :「コトバンク」木食上人 :「コトバンク」木食養阿 :ウィキペディア木食正禅と洛陽六阿弥陀めぐり :「Club Fame」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -8 竹中稲荷社・天満宮・山頂休憩広場・三角点ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -9 吉田神社 (1) 神竜社・菓祖神社・本宮・若宮社・神楽岡社ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -10 吉田神社 (2) 山蔭神社・今宮社・表参道の鳥居ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -11 吉田神社 (3) 南参道・三社社・大元宮・東北院ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 真如堂(真正極楽寺) -1 三重塔・鎌倉地蔵尊・千躰地蔵尊堂・新長谷寺ほか 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.12
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木々の頂上に三重塔の相輪が突き出ています。真如堂には数回来ているのですが未だ本堂の拝観はしていませんでしたので、本堂を拝観できればと思い今回の探訪の最後として、真如堂の境内に足を向けました。真如堂という通称でしか呼びませんが、正式には「鈴聲山真正極楽寺」と称し天台宗のお寺です。真如堂については既に拙ブログで探訪記をご紹介しています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。表参道から表門を入り、道が幾通りにも分岐するところで、未訪だった右折して南に向かう参道をまず歩いて見ました。塔頭が並んでいます。 南側のお寺の表門まで行きますと、山門の左斜め前に「去来の寺」と刻した石標が立っています。 左斜め後ろ、築地塀の前に句碑が建立されています。 忌につどふ去来の寺の栗の飯 月史「昭和46年7月10日 去来忌」と左下に刻まれています。俳人小林月史が詠んだ句です。 門の左側に駒札があり、「俳人向井去来」についての案内文が貼ってあります。嵯峨野にある去来の「洛柿舎」が有名ですが、字は元淵で、義焉子と名乗り、洛柿舎・去来とも称したと、冒頭の略歴の中に記されています。芭蕉に師事し、蕉門十哲の一人と言われた俳人で、俳諧奉行とも呼ばれたそうです。真如堂が向井家の菩提寺で、「向井家の墓地に埋葬された。・・・没後130年頃まで去来の墓は現忍できたが、その後墓地整理によって失われたようで、今、供養塔が建っている」(駒札より)とか。去来に関心が集中し見落としたのですが、山門の右側にもう一つ句碑が建立されています。お寺の全景写真にその場所が見えます。鈴鹿野風呂の句です。(資料1) 宝永元年九月の露の滋かりけむ0964, 0965山門まえから拝見した境内。正面に宝形造りのお堂が見えます。「覚圓院」の扁額が掲げてあります。0967 右側門寄りにある石灯籠0970参道の分岐点まで戻り、鎌倉地蔵や多宝塔に近い方の参道から本堂に向かいます。0972本堂の正面扉が開いていました。本堂内を参拝しました。本尊は慈覚大師円仁作と伝わる阿弥陀如来。「うなずきの弥陀」とも呼ばれているそうです。向かって左には不動明王、右には千手千眼観世音菩薩が安置されています。本堂に入ると、庭園の特別公開をしているとのことでしたので、この機会にと受付を経由して拝見してきました。 本堂から渡り廊下を通り、建物内の廊下を辿って最初に拝見したのが「涅槃の庭」です。「北(向かって左)を頭にしたお釈迦さまが入寂され、その回りを弟子たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が表現されています」(資料2)ところからのネーミングのようです。1988年、曽根三郎氏による作庭。東方向に見える大文字山(如意ヶ嶽)を借景にしています。建物の東面と南面の庭が枯山水の庭として白砂の流れでつながっています。 廊下にこの案内パネルが置かれていました。「涅槃について」の具体的な説明が中心です。では、庭を眺めて参りましょう。 北端に手水鉢が置かれていて、島の回りを砂紋が波紋を広げています。 正面の奥に入寂された釈迦が表象され、その回りを嘆き悲しむ弟子たちが囲んでいるのでしょう。苔蒸した島と小岩の島が作る砂紋は集まって南北の流れになっています。 横たわる釈迦から目を遠方に向けると、如意ヶ嶽の左大文字が見えます。 南の方向への砂紋の流れは、 西方向へと転じ、ゆったりと彎曲した流れる川の如く続きます。彼岸へ踏み渡る飛石が置かれています。 砂の川岸に石灯籠が佇んでいます。 火袋の一面には菩薩像らしき立像のレリーフが見えます。 作者不明ながら、加茂町の「燈明寺石灯籠」の本歌取りとされる石灯籠だそうです。昭和60年(1985)1月に新町三井家から寄贈されたものだとか。 石灯籠は広い陸地の東端に一隅に立ち、西の方を眺めると、西端寄りには、蹲踞(つくばい)が置かれています。 建物の南面の庭を西側から眺めた全景です。 南の庭の南端は白亜の築地塀が築かれ、この庭へ入る門があります。ここが「涅槃の庭」の起点でもあります。仏法の悟り(門)を開かれた釈迦が入滅されるまでの道程がこの庭のストーリーなのかもしれません。この後、廊下を半ばまで戻り、四条派の画家鈴木松年(1848~1918)がダイナミックな松の木を水墨画として襖に描いた「松の間」を拝見し、座敷の先の庭に進みます。係の方に教えていただき、気づいたことが2つありました。一つは鈴木松年の描いたこの障壁画の松の木の特徴です。松ぼっくりが描かれているのです。襖絵に松ぼっくりを描いたのは見た記憶がありません。松の姿に見とれていて、私は気づかなかった! この2つめの庭は、松の間側の座敷から眺める庭であるとともに、庭の向こうに位置する仏堂の前庭でもあります。この仏堂の蟇股が2つめの気づきです。係の方に蟇股にご注目と言われて意識的に眺めてみました。蟇股の中央に、三井家家紋が付けられているのです。 この庭はごくモダンな感覚の作庭です。日本庭園の既成観念から超脱しています。「三井家家紋、四つ目に因んでデザインされました」(資料2)とのことです。 「随縁の庭」と名付けられています。2010年、重森千青(しげもりちさを)氏による作庭。説明パネルの冒頭に、”「随縁」とは「随縁真如」の略で、「真理が縁に従って種々の相を生じること」、つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せることをいう仏教の言葉”と説明しています。この庭は、四つ目の家紋をモチーフにして、主な材料のほとんどを境内にあったものを再利用して、それらの相互の縁を組み合わせたそうです。その随縁がそれぞれの形として具現化されているということなのでしょう。また、仏殿前にある木々(槙・桧・コバノガマズミ)は作庭前から同所にあったものだそうです。 廊下を順路に従って進むと、また趣の異なる庭が目に入ります。3つめの庭です。 こちらは茶室への露地になるようです。 光悦垣風の垣が外露地と内露地の境になっています。 東屋様の待合 茶室への庭を拝見した後、本堂に戻ります。 その際に見たのがこの坪庭です。次回がこの探訪シリーズの最後です。本堂の外縁を巡って眺めた景色ほかをご紹介します。つづく参照資料1) 鈴鹿野風呂・丸山海道・佳子(1):「日本の文学碑」(坂口明生)2) 「真如堂」リーフレット 拝観の折り受付でいただいたリーフレット 補遺向井去来 :「コトバンク」向井去来 :ウィキペディア向井去来の俳句 30選 -俳諧奉行- :「ジャパノート」落柿舎 向井去来遺跡 ホームページ第3回日本庭園協会賞 曽根三郎 :「日本庭園協会」曽根三郎(曽根造園)の庭園 :「おにわさん」重森千青 プロフィール(有)重森庭園設計研究室 ホームページ露地 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -8 竹中稲荷社・天満宮・山頂休憩広場・三角点ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -9 吉田神社 (1) 神竜社・菓祖神社・本宮・若宮社・神楽岡社ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -10 吉田神社 (2) 山蔭神社・今宮社・表参道の鳥居ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -11 吉田神社 (3) 南参道・三社社・大元宮・東北院ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・洛東 真如堂(真正極楽寺) -1 三重塔・鎌倉地蔵尊・千躰地蔵尊堂・新長谷寺ほか 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.11
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吉田神社の表参道の一ノ鳥居の前の道路を南に進みます。鳥居の南側は吉田上大路町です。その南が吉田中大路町で、この両町内の間に東西方向の道路があります。 この道を東に進むと、南参道の石段道が見えます。これがこちらの一之鳥居です。鳥居の前の石灯籠の竿には「御寶前」と陰刻されています。 表参道よりも少し勾配が急な石段道です。 石段を登り切った先で、まず目に止まったのが石の鳥居と石柵で囲われたこの社です。鳥居前の石灯籠は左右スタイルの異なる石灯籠でともに宝珠が欠損となっています。 「三社社」(青色の丸を付けたところ)です。 祭神は六柱を祀ってあるそうです。その神徳で区分してみますと、 海の神:多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)・狭依毘売命(さよりひめのみこと) 多岐津毘売命(たぎつひめのみこと) 山の神:金山毘古命(かなやまひこのみこと)・金山毘売命(かなやまひめのみこと) 知識の神:菅原神(すがはらのかみ)由緒は、「初め吉田家の邸内に鎮祭してあったのを、仁孝天皇の御代弘化元年(西暦1844年)現在の地に遷座されました。明治5年、吉田神社末社に定められた社です。」とのこと。(資料1)本殿の左に上掲の石板が設置されています。同主旨が記されています。 参道の北側には一対の石灯籠が立ち、その先が広場になっていて、北西方向に左写真の手水舎が見えます。 二ノ鳥居 鳥居の西側に「斎場所大元宮」の社号碑が立っています。傍の石灯籠の竿には「斎場所常夜燈」と刻されています。その右に斎場所大元宮が重要文化財に指定登録されていることと。桃山時代慶長6年(1601)に建立されたことが記されています。 鳥居のすぐ傍(左)に立つ石灯籠ですが、火袋と対比すると中台に厚みがあり、竿も太めのように感じます。中台の格狭間には三葉葵(徳川)の紋章がレリーフされています。竿の正面には、正徳元年九月吉日という日付と「献燈御灯籠二基」という文字が刻まれています。 鳥居を通り抜けて眺めた正面の景色です。正面に茅葺き屋根の中門があり、その両側は連子窓のついた回廊が瑞垣となっています。中門前の石段脇に石灯籠が並び、向かって左側に駒札が立っています。まずは中門前に進みましょう。 中門は四脚門の形式で、白壁・朱塗りの門です。扉は開けてありますが、門に板柵が設けてあります。大元宮は正月3日間と節分祭、並びに毎月1日に限り「内院特別拝観」(拝観無料)できるそうです。(資料1) 中門から拝見すると、正面に本殿があります。慶長6年(1601)に建築された建物です。「平面八角の円堂に六角の後房を付し、屋根は入母屋造り、茅葺き、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠、前後に勝男木(かつおぎ)を置く。この千木は前は内削(うちそぎ)、後は外削(そとそぎ)になり、また勝男木は丸材三個重ねが三組、後は角材二個を合わせたのが二組という複雑な構造をしている」(資料2)という極めて珍しい神社建築です。 この大元宮(本殿)には、天神地祇八百神(あまつかみくにつかみやおよろずのかみ)が祀られているそうです。「吉田神道の教義により宇宙軸を現す太元宮は、始まりの神(虚無太元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る」(資料1)とのこと。 正面の入母屋造り屋根の三角形・合掌部には、この額が掲げてあります。 太元宮(本殿)の後方の左右に東神明社(内宮:天照皇大神)、西神明社(外宮:豊宇氣比売神)が祀られています。デジカメでズームアップしますと、西神明社の屋根と正面の扉が、大元宮の向こうに一部分垣間見えます。(資料1,2)尚、かつては太元宮の後方、東西神明社の間に、「八神殿」があったそうです。これは「天正18年(1590)には天皇守護のため宮中の神祇官に祀られていた八神殿」を遷したもので、慶長14年(1609)から明治4年(1971)まで、朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行したそうです。現在は八神殿址となっています。(資料2,駒札) 大元宮を包むかのように建てられ東西二棟の建物に、諸神社つまり延喜式内神3132座が奉祀されているそうです。(資料1,2,駒札) 大元宮は後宇多天皇(1274~1287)が卜部兼邦に命じて勧請せしめられたといわれ、もとは神職の卜部(吉田)家邸内にあったそうです。吉田神道(唯一神道)を創設した吉田兼倶(かねとも)が文明16年(1484)にその大元宮を山上のこの地に移建し、吉田神道の根本殿堂としたと言います。「吉田神道」は「密教・儒教・陰陽道・道教などの諸宗教、諸思想を統合しようとした」と言います。(駒札より)それ故、唯一神道とも称されたのでしょう。 中門前から内宮を拝見した後、この境内地で目に止まったのがこの石灯籠です。笠とのバランスでみると宝珠部分がちょっと大きめという感じです。基礎の下の石に変則的な形のものが使われているのも興味深いところです。意識的に使われているのでしょうか。 しかし、傍近くから見上げると大きさがさほど気にならないからちょっとおもしろい。そして、火袋にまず目が向きました。 一面に老神と鹿の半丸彫り像、隣接面に花狭間窓・草花文様 同様に一面に老神と狛犬の半丸彫り像、隣接面に花狭間窓・獅子像 あとの相対する二面は全面に窓が開いた状態で、火袋の燈火作業に必須な面と言えます。火袋越しの景色を見るのもおもしろい。 中台の各面には十二支が一面に2つずつ厚肉彫りで彫刻されています。これで大元宮境内地を出て、二ノ鳥居前を東方向に散策してみることにしました。道の繋がり具合を知りたかったのです。事前に地図を詳細に確認していればわかったことでしょうが、個人探訪はいつものように、思いつき的アドホックな探訪行動が多いので詳しくは調べてはいませんでした。事後に手許の一書に掲載の挿画を見ると、この後辿る道は「東参道」と位置づけられています。その前に、一点触れておきます。大元宮境内の手水舎を上掲しています。手水舎の手前の道は右方向に下っていく道です。上記の挿画には、「日降坂」という名称が参道の途中に記されています。(資料2)この参道沿いに降って行きますと、前回ご紹介した「山蔭神社」の傍を通り過ぎ、吉田神社に至る参道となります。つまり、吉田神社本宮~山蔭神社~斎場所大元宮とそれぞれの間を参拝往来できる最短の参道になります。今回の探訪では、結果的に帰路にこの参道を歩くことになりました。それでは東参道を進みましょう。道は少し上りになります。 上って行くと、左(北)側に、「紅もゆる歌碑道」ど刻された道標が立っています。冒頭の案内図に黄緑色の丸を追記したその左に、イラストとともに「三高歌碑」と明記されています。吉田山公園内の歌碑への散策路入口になります。(省略しますが、傍に「吉田山緑地(都市公園)」のイラスト地図が設置されています。) さらに道沿いに進むと、「宗忠神社」の石鳥居が右側にあります。鳥居の右手前に句碑らしきものがあります。一部苔蒸していることもあり、私には判読できません。この鳥居から参道を進むと、既にご紹介した宗忠神社境内にある白山神社に至ります。この東参道の先は右に宗忠神社の勅使門、左に竹中稲荷神社の鳥居がある地点に至り、そこから東方向に降る坂道になります。既にご紹介している坂道です。これで、吉田神社境内域、吉田山公園、宗忠神社という地域が体験的に繋がりました。「後一条天皇菩提樹院陵」の生垣を左(北)側にして、坂道を降ってみました。 北方向への石畳道を挟み陵墓域の東側に築地塀がありその先に門が見えます。築地塀の南西角手前に「大辨財天女」と刻された石標が立っています。また、門の右側にも石標があり、近づいてみますと「雲水山東北院」と刻されています。 門から眺めると正面に本堂が見えます。境内を拝見しました。 本堂の手前、西側に「雲水井」があります。草花樹木が繁り寂れた雰囲気すら感じさせます。 本堂手許の書によりますと、辨財天像を本尊とし、毘沙門天像・大黒天像を脇侍に安置しているとのこと。角の石標と結びつきました。他に藤原道長像があると言います。(資料2)現在は時宗聞名寺に属する寺で、室町末期の永禄2年(1559)、一遍上人の遺弟(弥阿弥陀仏)により、天台宗から時宗に改められ、元禄6年(1693)に現在地に移建したそうです。(資料2) 本堂の東北側に書院があります。その間に駒札が立っています。まずこの樹木は「軒端の梅」と称されています。右の駒札に記されています。謡曲「東北」に出てくる和泉式部遺愛の梅に因んで植えられたものだそうです。(資料2) 東側にあるもう一つの門の傍に立つ駒札「東北院と軒端の梅」を載せておきます。東北院の由緒は深く、それに絡んで謡曲「東北」に因む文学遺跡としてこの東北院が知られているそうです。私はこの探訪で初めて知りました。その東北院の由緒の深さを説明しているのが、 この駒札「東北院縁起」です。史実としてわかることを少し整理してみます。藤原道長は阿弥陀堂を建立し無量寿院と称したのを契機に伽藍を築き始め、治安2年(1022)に金堂、五大堂の落成にともなって「法成寺」と改称しました。(資料3)一条天皇(在位:986~1011)の中宮上東門院(藤原彰子)の発願により、後一条天皇(在位:1016~1036)の時代に、法成寺内に常行堂が創建されます。この常行堂が法成寺内の東北にあったことから東北院という寺名になったと言います。その後、法成寺とともに、火災での焼失・再建が場所を変えつつ繰り返されます。藤原氏の衰微とともに寺運が傾き、1300年代に法成寺が廃絶となります。(資料2,3)そして、上記のとおり、室町末期の再興に繋がっていくようです。紫式部は「東北院の渡殿を見てよみ侍りける」という詞書を付して 影見ても憂きわが涙落ちそひてかごとがましき滝の音かな 続後撰集・巻16・雑歌上と詠んでいます。法成寺内にあった時は、善美を尽くしたお寺だったのでしょう。和泉式部はその晩年を東北院内の一隅の小御堂に住し、軒端の梅を愛でたと言います。中京区新京極にある誠心院はこの小御堂の後身と伝えられています。誠心院境内には和泉式部塔が建立されています。(資料2) 東北院の東隣りは「極楽寺」で、ここも時宗のお寺で聞名寺に属するそうです。 本堂この寺も初めは惠心僧都が一条堀川に創建した天台宗の寺で、建治2年(1202)一遍上人の再興により時宗に。足利義満が深く帰依したと言います。天正年間の移転、火災に類焼となることを経て、翌元禄6年(1693)に現在地に移ったそうです。現在のお堂はその後の再建によるもの。左側の門柱に木札が掛けてあります。本尊は勝敵毘沙門天立像、脇侍に蛭子(えびす)・大黒天像が安置されています。今回拝見はしていません。(資料2) 本堂の東側には等身大でしょうかブロンズの地蔵菩薩立像が安置されています。たぶん水子地蔵尊なのでしょう。三方に地蔵石仏を祀る雛壇が設けてあります。水子あるいは幼くして亡くなった子供の供養が行われているのでしょう。 極楽寺の東隣りは「大興寺」です。霊芝山と号する臨済宗東福寺派のお寺です。鎌倉時代の建久年間(1190-1199)に後鳥羽天皇の勅願により、西陣芝薬師町に建立された天台宗のお寺が始まりで、応仁の乱で荒廃したと言います。その後、禅宗に改め寺町一条に再建されましたが、火災で類焼に遭い、翌元禄6年に現在地に移転したそうです。本尊は薬師如来像で、門前石段の右側に石標が立っていますが、旧地に因み俗に「芝薬師」と呼ばれるそうです。本尊の傍には関羽像が安置されていると言います。この像は足利尊氏が元国より迎えて戦勝祈願をした像とつたえられるとか。(資料2)石段の上には「松本愚山先生墓」という石標が立っています。 大興寺の東隣りには、門前右側に「洛東九番 萩の霊場 迎称寺(こうしょうじ)」と刻された寺号標が立っています。初めは寺町一条にあった天台寺院だそうでうが、嘉暦3年(1328)に時宗の一鎮上人により時宗に改められ、一条道場と称したと言います。この寺も元禄5年(1692)12月の火災で類焼し、同様に現在地に移転したそうです。本堂には本尊阿弥陀如来像、脇壇に不空羂索観音像、一遍上人像などが安置されているとか。(資料2)迎称寺の門前はT字路になっていて、南方向への道があります。この南への道が黒谷に至ります。つまり、迎称寺前から南へと右折して最初の辻に歩むと、東が真如堂(真正極楽寺)で、西が宗忠神社なのです。ぐるりと一周巡ってきたことになります。私にとってこうなるのは想定外でした。勿論、最後として、真如堂の境内を訪れてみました。つづく参照資料1) 吉田神社 ホームページ2) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p145-1473) 法成寺 :「コトバンク」補遺京都の社-神仏道三教の習合をみる- 菅原信海 :「京都市文化観光資源保護財団」吉田神道 :「コトバンク」吉田神社 :「京都神社庁」吉田兼倶と吉田神道・斎場所(第2部 技術・呪術・信仰) :「国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ」吉田兼倶 :ウィキペディア吉田兼倶 :「コトバンク」時宗 :ウィキペディア時宗 時宗宗務所 ホームページ曲目解説 東北 :「銕仙会 ~能と狂言~」能楽 東北 (とうぼく) 観世元正 :YouTube東北院 :「KYOTO design」京都萩の名所案内 京都四季折々 :「ぼちぼちいこか」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -8 竹中稲荷社・天満宮・山頂休憩広場・三角点ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -9 吉田神社 (1) 神竜社・菓祖神社・本宮・若宮社・神楽岡社ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -10 吉田神社 (2) 山蔭神社・今宮社・表参道の鳥居ほか へ
2020.12.10
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この吉田神社案内図が設置されている場所から南の方角を眺めると、上りの坂道と鳥居が見えます。茶色の丸を付けた境内社・山蔭社がある方向です。この参道(坂道)を上って行きしょう。すると、参道の途中で西側に神社が見えます。 「山蔭神社」は南面しています。社号標碑の右側に坂道があります。一の鳥居には「山蔭神社」の扁額が掛けてあります。 祭神は藤原山蔭。奈良春日の大神を勧請して吉田神社を創祀した人物を祀っているそうです。また、相殿として恵比須神を祀っていると言います。興味深いことは、藤原山蔭が「あらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり、古来包丁の祖、料理飲食の祖神」として崇敬されているという点です。料理飲食の神という位置づけです。手許の一書には、「山蔭は割烹に長じ、庖丁の術に妙をえていたといわれ」と説明しています。(資料1)この神社は、昭和32年に吉田神社が鎮座1100年を迎えたことを機に、全国料理関係者の協賛により、昭和34年に創建されたと駒札に記されています。この参道、案内図にイラスト図のある「大元宮」への道です。ここで一旦引き返し、本宮境内地から表参道の入口までの探訪に移ります。大元宮には案内図にある南参道からアプローチしてみたかったのです。山蔭神社への参道の近くには、歌碑や句碑が道の東側に建立されています。今後、数が増えるかも知れませんね。参道を下る時に撮ってみました。 歌碑 私には判読できません 鈴鹿野風呂(1887-1971)の句碑です。 「神丘に 啼く鶯の 﨟たけて」明治生まれ、高浜虚子に師事し「ホトトギス」の同人で大正・昭和に活躍した俳人。「京鹿子」を創刊し、主宰したそうです。(資料2)かつて「神麓居」と称され、多くの俳人・雅客が訪れたという住居が、現在「野風呂記念館」となっています。左京区吉田中大路町8に所在します。(資料3) 私は未訪です。後で左の写真を観察していて気づいたのですが、左の小さな石標が何だろうと拡大して見ると、「今宮社址」と刻されています。かつてはこのあたりに社があったということでしょうか。 平井乙麿の歌碑です。 「枝うつり ほがらに呼ばふ 小鳥らと 詣でに来つれ 神います丘」平井乙麿は岡山県で結成された短歌結社「水甕」の幹部同人で選者だったそうです。(資料4)余談です。調べて見ますと、洛北・大原にある勝林院にも乙麿の歌碑が建立されています。(資料5,6) 「苔の上(へ)をまろぶがごとく流れゆく 呂律(ろりつ)の里の阿弥陀の聲明(しょうみょう)」また、延暦寺横川秘法館前にも、昭和47年(1972)5月に歌碑が建立されています。(資料7) 「大比叡の横川の夜あけみ仏の夢にかげひくもヽ鳥のこゑ」 表参道の石段道の南側に緩やかな車道があります。車の往来がないのでこの車道を下りました。 車道を下りきると、この朱塗り鳥居の傍に出ます。表参道の「二ノ鳥居」です。明神鳥居の形式です。ただし、島木の両端が正面から見ると斜めではなく垂直になっています。鳥居と石段の起点の間、北側に石鳥居が見えます。 石鳥居に「今宮社」の扁額が掲げてあります。明神鳥居の形式です。こちらの島木の両端は斜めになっています。 拝殿は入母屋造り、銅板葺の屋根です。鳥居の傍に石灯籠が献燈されています。 狛犬像 本殿は正面に石鳥居が設けられ、屋根付き石柵の瑞垣で囲まれています。 本殿 「今宮大神」の扁額と正面の扉祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)、大雷神(おおいかづちのかみ)、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。末社の一つです。駒札に由緒が記されています。「鎮座の年代は不詳。順徳天皇健保3年(西暦1215)吉田小社註進状の内にその名既に明かで、光格天皇、文化3年(西暦1816)現地に造営され、木瓜(きゅうり)大明神と称し吉田町の産土神である。」(駒札転記)本殿は一間社流れ造り銅板葺きの形式です。頭貫と木鼻の彫刻意匠はシンプルですが、朱塗りに黒い線描がメリハリを見せています。 蟇股の前面に青獅子像と雲形が丸彫りされ鮮やかに彩色されています。近年に本殿が修復されたのでしょうか。上掲の写真でわかりますが、本殿の北東側に神庫があります。 この今宮神社で興味深いものの一つがこの駒札に記された「今宮社四神石」です。 玄武(亀)石(西北隅) 朱雀石(内陣にありとか:東北隅) 白虎石(西南隅) 青龍石(東南隅)方位を守る霊石と伝えられているそうです。 狛犬像(西)の西側に、スタイルは同類型ですが微妙なところで異なる石灯籠が並んでいます。 二ノ鳥居の左斜め前方に比較的大きな手水舎があります。 手水鉢の左側は井戸でしょう。この水は井戸の水がたぶんポンプで汲み上げられているのでしょうね。 手水舎の北側に、鹿島鳥居形式に額束がつき「祖霊社」の扁額を掲げた社があります。「祖霊社」の社号碑が立っています。「宗教法人太元講社社員の祖先の各霊位を奉祀」する社だそうです。(駒札より) 「太元講社の歩み」という表題の銘板碑大きな神社を探訪するとよく祖霊社が祀られているのを目にします。いままであまりその理由を考えていなかったのですが、この説明文を読み、創建経緯が理解できました。明治新政府の混迷した宗教政策への対策から始まったそうです。 拝殿 本殿 二ノ鳥居までは幅の広い砂利敷きの参道が真っ直ぐに東へのびています。 一ノ鳥居に近づく手前、参道の中央に大きな八角形を基本にした石灯籠が据えてあります。基本的に参道は中央を歩くのではなく端よりに歩くということなのでしょうね。中央は神の通り道。 宝珠と請花は普通の形です。笠は蕨手はなく自然に垂れた形で端面を見せています。火袋は四角窓と中央に円窓を穿った面が交互になっています。中台はよくみかける造形です。 竿には節が刻まれていて、両端と合わせて珠文帯がレリーフされています。基礎には蓮弁の反花が刻まれ、その下部の各面は連子窓風に造形されています。 吉田神社一ノ鳥居全景。この鳥居の島木の両端も斜めになっています。 ここにある石灯籠は神前灯籠の形式で、竿の部分が曲線を描いています。正面に「吉田社」と刻されています。鳥居に向かって右側には「吉田神社」の大きな社号碑が立っています。社号碑の上部には藤の紋章が神紋としてレリーフされています。オーソドックスには、この一ノ鳥居から表参道を歩み参拝するわけですが、今回は変則的な形で境内を巡ってきました。「大元宮」はオーソドックスに、案内図に記載の南参道から訪れることになります。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p140-1482) 鈴鹿野風呂 :「コトバンク」3) 第11回 野風呂記念館企画展のお知らせ :「関西現代俳句協会」4) 水甕津山支社 :「岡山文化情報」5) 勝林院(しょうりんいん) :「京都もよう」6) 「勝林院」(しょうりんいん) :GOOブログ7) 平井乙磨歌碑(坂本本町) :「大津のかんきょう宝箱」補遺吉田神社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -8 竹中稲荷社・天満宮・山頂休憩広場・三角点ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -9 吉田神社 (1) 神竜社・菓祖神社・本宮・若宮社・神楽岡社ほか へ
2020.12.09
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道標に従って吉田神社の方向に山道を下っていきます。 最初に神社境内で見つけた案内図をご紹介します。境内での位置関係をご理解いただくために加筆した拡大図です。 山道を下って、最初に目に止まった境内社がここです。マゼンタ色の丸をつけたところです。 前回の竹中稲荷社境内にあった天満宮と同じ形式の小社です。境内案内図によると「神竜社」です。境内末社の一つで、祭神は神竜大明神(吉田兼倶)です。「永正8年(1511)77歳で没し、同10年鎮祭され、後奈良天皇より神竜大明神の号を賜った」(資料1)と言います。「建物は一間社、流見世棚造り、室町末期風の細部をもっているが、文禄3年(1594)造替のものとみられる」(資料1)とのことです。 すぐ近くに「菓祖神社」があります。鳥居に神社名の扁額が掛けてあります。赤い丸を追記した場所にあります。 鳥居の前に奉納されている狛犬像です。 本殿は朱色に塗られた板塀の瑞垣で囲われています。 昭和32年(1957)11月、京都菓子業界が菓祖神社創建奉賛会を結成し、田道間守命(たじまもりのみこと)・林浄因命(はやしじょういんのみこと)を勧請して創祀された神社です。(駒札、資料1)「田道間守命は第11代垂仁天皇の命を受け常世の国の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を日本にもたらした。 林浄因命は初めて餡入りの饅頭を作り広めた。 古来、二神は菓子の祖神(おやがみ)として、また、広く文化の神として崇められる。」(駒札の由緒より転記)駒札には「詮議により菓子関係功労物故者の霊を遂次相殿神として奉斎」と尚書きしてあります。 『日本書紀』巻六・垂仁天皇には、「三年春三月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)がきた」という記載があります。そして、一説にはという記述の最後に次のことが記されています。「天日槍は但馬国の出石の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすけ)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守を生んだという。」(資料2)こんな系譜で登場しています。そして、田道間守は、「九十年春二月一日、天皇は田道間守に命じて、常世国に遣わして、『非時の香菓』を求められた。いま橘というのはこれである」と記されています。その続きに、10年後に田道間守は常世の国から非時の香菓を持ち帰ってきたときには既に前年に天皇が崩御していたということが記されています。田道間守は「天皇の陵におまいりし、泣きさけんで死んだ」(資料2)と。垂仁天皇の実在性が定かではないという見方もあるようですので、このエピソードも神話・説話の世界につながるものなのかもしれません。一方、林浄因は実在した人のようです。「宋の高名な文人林和靖の子孫で,1349年に中国留学から帰朝した禅僧竜山徳見(りゆうざんとくけん)に伴われて来日,塩瀬姓を名のって奈良に住み,まんじゅうを製して業とした。」(資料3)奈良饅頭の発祥です。現在の奈良市林小路町に住み、饅頭作りをしたという伝承があります。奈良市やすらぎ通り沿いに林浄因を祭神とする林神社が創建されています。(資料4) 鳥居の手前の参道に献燈されている一対の石灯籠。火袋の一面には鹿が肉厚で彫刻されています。中台の格狭間は曲線の文様が凹型に刻み込まれているおですが、その凹型部分の図形が火袋のところには凸型の浮き彫りになっています。ちょっとおもしろい。 参道を下ると、ここが菓祖神社の入口になり、社号碑の傍に上記した駒札が立っています。 道路を下っていくと、「吉田神社案内図」が設置されています。 北方向に、吉田神社の朱塗りの鳥居と社殿が見えます。鳥居の手前右側に見える入母屋造りの屋根の建物は「着到殿」です。 本殿に向かう途中に、坐した鹿の銅像が置かれています。(黒丸を追記したところ)鹿は口に巻物を咥えています。神鹿という位置づけになるのでしょう。 その近くに「さざれ石」が設置してあります。岐阜県の春日村の山中にあった石だそうです。 火炉の場所 火炉の先にある朱塗りの鳥居をくぐります。鳥居には「吉田社 本宮」の扁額が掲げてあります。 舞殿舞殿を迂回して、本殿の正面に進みましょう。 瑞垣と中門のほぼ全景です。 中門前 長押のところに張られた太い注連縄 中門から本殿を拝見すると、一間社、朱塗春日造りで屋根は桧皮葺きの社が4棟横並びに並んでいます。奈良の春日大社を模して建てられたものだそうです。祭神は建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いわいぬしのみこと)・天之子八根命(あまのこやねのみこと)・比売神(ひめかみ)の四神を祀っています。社伝によれば、清和天皇の貞観元年(859)4月に、中納言藤原山蔭が奈良・春日の四神を神楽岡の西南(吉田二本松町)に藤原一族の氏神社として勧請したのが始まりだそうです。一条天皇(986~1011)の時代に官祭に格上げ(987)され、臨時の幣帛が奉られ(991)たのち、永保元年(1081)に朝廷から特別の奉幣を受ける「二十二社」に列したと言います。藤原道長は当社を氏神社、法成寺を氏寺としたそうです。文明16年(1484)の兵火により罹災し、現在の地に遷るに至ったと言います。一条天皇の時代に、社務は卜部氏(後の吉田氏)が補せられ子孫世襲となります。室町時代の中頃、吉田兼倶(かねとも)が出て、吉田神道(唯一神道)を大成するに及んで大きく変貌していきます。神道界に大きな権威を振るっていくようになります。(資料1、駒札) 藤原兼家の女、詮子(東三条院)が円融天皇の女御となり、一条天皇を生み母后となります。一条天皇はすぐに思いださなくても、中宮定子に仕えた清少納言、中宮彰子に仕えた紫式部の名を出せばスッと時代感覚がつながることでしょう。一条天皇の時に伊勢他十六社に奉幣する制度ができ、それが十九社奉幣(991)となり、11世紀に二十二社になるのです。(資料1,5)それでは境内を巡ってみましょう。 中門の柱の錺金具が美しい。 中門手前の石灯籠 東側の瑞垣の前方には絵馬所が設けてあります。その傍に井戸があります。 絵馬所の南側で舞殿の東側には、切妻造りの屋根の「直会(なおらい)殿」があります。その名称から祭の儀式が終わった後に使われる場所だと思います。各地の日本酒有名ブランドの菰樽が奉納されています。西側に目を転じていきますと、 瑞垣の西端には、「神饌所」があります。傍の樹木の剪定がちょっとおもしろいですね。 屋根の獅子口には三つ巴文様がレリーフされています。拝みには猪の目懸魚が使われています。 神饌所の西南側には「社務所」(黄色の丸のところ)があります。 朱塗りの鳥居とその両側に木柵で一種の境界を設けられた本宮境内内を拝見しましたので、それより南の境内地を巡ります。 社務所の南側には「行事所」があり、その西側の建物は「参集殿」です。 お神籤の札を結ぶところは2個所です。 さざれ石の置かれた傍に上段の境内地への石段があり、「若宮社」(紫色の丸を付けたところ)が祀られています。石段を上ったところが拝所で、その先が 若宮社の社殿です。一間社、春日造り。屋根はかつて桧皮葺だったそうです(資料1)が、現在は銅板葺きに変わっています。祭神は天忍雲根命(あめのおしねのみこと)。駒札には「天忍雲根命は本宮第三殿の祭神天之子八根命の御子で水徳神である。初め本宮第二殿第三殿の間に祭られてあったのを後醍醐天皇延元元年吉田兼煕社殿を造営し、後光明天皇慶安元年(西暦1648年)此処に遷座」と由緒が記されています。つまり南北朝時代に社殿が造営されていたのを、江戸時代第三代将軍徳川家光の晩期に天皇だった後光明の時代に遷座したということになります。社殿の周り三方に築地塀が設けてあることからも、その位置づけが窺えます。 上段の境内地に北方向へ参道が続いています。 参道から見下ろした景色。手前が「着到殿」、西に見えるのが「行事所」その背後が「参集殿」です。 こちらは摂社の「神楽岡社」です。空色の丸をつけたところです。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・タカオカミノカミです。駒札には「鎮座の年代は詳でないが延喜式に霹靂神神楽岡に坐すと記してあり、神楽岡地主神、又雷除け神として崇敬厚く同町の氏神である」と由緒が記されています。 瑞垣傍の石灯籠 スタイルの異なる石灯籠が並んで献燈されています。 こちらにも参道(石段)が設けてあります。この石段の左側(北側)に直会殿が位置します。ここで一望できる境内域は、これで大凡拝見・探訪したことになります。上掲の案内図では茶色の丸のところが残っています。次回はそこから始めます。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p140-1482) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p138,p150-1513) 林浄因 世界大百科事典 :「コトバンク」4) 奈良饅頭 :「文化史総合演習 成果報告」(奈良女子大学大学院人間文化研究科)5) 『続 京都史跡事典』 石田孝喜著 新人物往来社補遺垂仁天皇 :ウィキペディア垂仁天皇 :「ジャパンナレッジ」一条天皇 :ウィキペディア一条天皇 :「コトバンク」二十二社 :ウィキペディア二十二社とは :「神社人」吉田兼倶 :ウィキペディア吉田兼倶 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -8 竹中稲荷社・天満宮・山頂休憩広場・三角点ほか へ
2020.12.08
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宗忠神社の勅使門が面する道路の反対側(北側)には、朱色の鳥居が見え、「竹中稲荷大神」の扁額が掲げてあります。事前に地図を確認していた訳ではないので、この神社があることを知りませんでした。目の前ですので探訪してみることに。 狛犬像の代わりに勿論狐像です。 参道を北へ。 社務所と思える建物が参道の途中、東側にあります。無人のようでした。参道の途中の掲示に、吉田神社の名が見えました。帰宅後手許の書を調べると、吉田神社の境外末社です。「その鎮座由緒をあきらかにしないが、江戸後期頃には遊山と信仰を兼ねて参詣するものが多く、社運は次第に発展し」たそうです。「当社は古墳またはそれに類いする遺跡を神社化したものであろう」とも説明しています。(資料1) 小ぶりな手水鉢が参道脇に。 その先に、これも瑞垣になるのでしょうか、あるいは結界に・・・・。板塀が参道の両側に設けられ、入口に一対の狐像が配されています。 通り過ぎると正面に拝殿、その先に社殿が見えます。 屋根の獅子口の経の巻には三つ巴の文様がレリーフされています。屋根は入母屋造りの銅板葺きです。拝みには猪の目懸魚が使われています。拝殿の正面にも「竹中稲荷大神」の扁額が掛けてあります。 拝殿の前で両側に石畳の参道が分岐しますが、高めの基壇上に設置した石灯籠が一対奉納されています。石灯籠の棹は角錐形です。基礎の反花と中台の下部は蓮弁が彫られ、棹の正面には常夜燈と刻されています。 本殿前の拝所には、「竹中稲荷社」の扁額が掛けられ、拝所には赤色の提灯が沢山吊り下げてあり、提灯には稲荷大明神と墨書されています。 本殿には「竹中稲荷大神」の扁額が掛けてあります。頭貫はシンプルな造形ですが、蟇股には白狐が飛び出すような形で丸彫りされています。こんな姿の蟇股は初めて見ました。 本殿は一間社流れ造り銅板葺きです。脇障子には装飾がなく簡素です。逆に蟇股が目立ちます。 竹中稲荷社の本殿に向かって左側に、「天満宮」が鎮座します。 小社ですが、一間社流れ造り銅板葺きと形式は同じです。 駒札によれば、竹中稲荷社は明治5年に吉田神社の末社に指定されたと記されています。また、天満宮は嘉永5年(1852)に信徒の請願により智積院山内より卜部良芳が現地に遷座したことと、こちらも明治5年に吉田大社の末社になったと記されています。吉田神社と吉田大社の使い分けがあるのでしょうか。私には不明です。拝殿の右側の参道を巡ってみます。 最初に、若竹大神と刻された神号碑と石鳥居の設けられた小社が目に止まり、 その先に2つの小社が南面して並んでいます。その右側の参道を北に歩むと、 参道の左右に○○大明神形式の神号碑が見え始めます。 参道の突き当たりも同様です。左方向に巡ると、 竹中稲荷社本殿の背後になります。 このあたり一帯には小社や各種神号碑が数多く建立されています。伏見稲荷大社の背後にみられるお塚を連想しました。同種の信仰心によるものかと思います。境内を巡っていると、西方向への道があります。西は吉田神社のある方向ですので、その道を歩いてみることにしました。 「霊元法皇御幸址」と刻された碑が目に止まりました。霊元天皇は第112代で1663~1687に皇位にあった天皇です。第4代将軍徳川家綱、第5代将軍徳川綱吉の時代に跨がる時期です。石碑には、御幸の年月日が刻されていて、享保10年・15年・16年と記されていますので、第8代将軍徳川吉宗の時代です。 (資料2) 樹木越しに、洛北一帯が遠望できます。道なりに進むと、 「茂庵」と記された扁額を掲げた建物の傍に出ました。神楽岡(吉田山)山頂近くにあるカフェ&お茶室です。木造建物に風趣があり感じが良い・・・・。 建物の側面の踏み石を歩み、振り返って撮った建物の景色です。 お店の入口近くにこの「茂庵周辺マップ」が掲示してあり、参考になりました。 茂庵の近くに、山頂休憩広場への道標がありますので、ちょっと足を延ばして立ち寄ってみることにしました。 東屋があり、傍に「吉田山緑地(都市公園)」のマップが設置されています。 位置関係をわかりやすくするために加筆しました。赤丸がこのマップのある現在地です。方角は左下方向が北になります。現在位置からは丁度東の方向に、如意ヶ嶽の大文字(左大文字)を目前に眺めるという位置関係です。右上端の黒丸が宗忠神社で、マゼンタ色の丸が竹中稲荷社です。青丸を付けた場所が吉田山の頂上、三角点の設置されている地点です。茶色の丸が吉田神社。竹中稲荷社から見れば、茂庵は北方向になり、山頂休憩広場と三角点とを結ぶ道の中間に所在することになります。 東屋の東側は一段低い場所に広場があります。 下に降りて近寄ってみると、方位を示すモニュメントであることがわかりました。 景色をズームアップしますと、左大文字の「大」の字の中心、金尾(かなわ)の部分にある弘法大師堂が見えます。 少し寄り道をしてしまったので、引き返します。 吉田山の三角点です。設置された案内板の右下に埋め込まれた角柱が三等三角点です。 吉田山の標高は105.2m。この先から、いよいよ第三の目的地としていた吉田神社に下っていきます。道標が設置されていますので便利です。 公園のような広場の傍を通り、 吉田神社に向かう坂道を下ります。 下り始めると、「吉田山の里山再生」という案内板が設置してあります。次回は吉田神社を裏側(山頂側)から入って探訪したところをご紹介していきます。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂2) 『歴史探訪に便利な日本史小典』3版 日正社補遺竹中稲荷神社の桜 :「京都の紅葉絶景写真集」茂庵 ホームページ霊元天皇 :ウィキペディア霊元天皇 :「コトバンク」三角点 :ウィキペディア大文字五山の送り火 文化史 :「フィールド・ミュージアム京都」五山送り火 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -7 宗忠神社 へ
2020.12.07
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真如堂前から真っ直ぐ北西方向への道を進んだ突き当たりに「宗忠神社」の大きな石鳥居が石段の先に見えます。石鳥居に向かって右側、生垣の内側に社号碑が立ち、その左に駒札が設置されています。 左側の生垣の内側に、当社の案内板が設置されています。祭神は天照大御神と宗忠大明神と記され、宗忠大明神の脇に黒住宗忠と添え書きがしてあります。境内社として、白山社と忠春社が祀られていることがわかります。道路脇に、「黒住教神楽岡中教会所」と記された木標が立っています。 この宗忠神社を訪ねてみたかった第一目的はこの石鳥居に近づいてすぐに達成できました。 目的はこの一対の狛犬像を実見したかったのです。宗忠神社に陶器製の狛犬像が設置されているというのをある本で知りました。小寺慶昭著『京都狛犬巡り』(ナカニシヤ出版)だったと思います。この神社を知ったのもこの狛犬像が縁でした。逆立ちしている狛犬像というのもめずらしいと思っていたのです。しかし、どの辺りに置かれているかは知りませんでした。探訪後に改めて調べてみてわかったことは、備前焼の狛犬像であることです。岡山県には勿論備前焼の狛犬像が多く見られるそうです。また、石川県金沢市にも多く見られるとのこと。「逆立ちの意味合いはよくわかっていませんが、歓迎の意味を表しているのではないかという説もあります」(資料1)と言います。 間近に見ると、やはり迫力がある狛犬像です。まずは目的を達しましたので、しばし境内を散策・拝見しました。 石鳥居傍の石灯籠 現在の正参道である石段を上ります。 石段を上りきると、石造の鳥居と石造狛犬像があります。こちらは一般的な狛犬像です。 右の狛犬像の右斜め背後に、この手水舎があります。 右斜め前方は一段高くなった境内地になり、拝殿が見えます。 石垣の手前に、「宗忠神御神詠」と題して短歌が記されています。和歌と言うべきなのかもしれません。この宗忠神社は神楽岡(吉田山)の南端の高台に位置します。 この境内地の南端にこの建物があります。この建物は社務所と教会所を兼ねているようです。その向こう側から京都市内を展望できます。京都タワーが遠くですがはっきりと見えます。尚、この建物の南側には祖霊殿と称される納骨殿が建てられていますが写真は撮っていません。 木製灯籠 社殿がある一段高い境内地の東端にある建物祭礼行事があるときに受付所になりそうな建物という印象を持ちました。背景に、第二鳥居が見えます。事後に手許の一書を読むと、「なお当社の第二鳥居は、神明鳥居から島木鳥居へうつる過程を示すものとして、宗忠鳥居の名がある」(資料2)という記述があります。この第二鳥居をきっちり写真に撮っていなかったのが残念です。現在の石造りの鳥居は昭和57年(1982)に再建されたものだそうです。調べてみますと、宗忠神社のホームページに掲載されていますのでご覧下さい。鳥居についての説明も、異なる視点から説明されていますので参考になります。(資料1) 北東側から眺めた拝殿。かなり大きな建物です。 拝殿の北東隅に絵馬所があります。 傍に 駒札が立っています。拝殿のこの位置から前方に見えるのが「神明宮本殿」で、祭神として天照大御神が祀ってあるそうです。その由緒として、「二條関白殿の鎮守神明宮を慶応2年(1866)9月16日当地に御遷座申し上げた。神明宮または上社と申し上げる」(駒札の説明文転記)と記されています。 拝殿は格子天井です。波濤文様の金属製灯籠が吊されています。献燈されたものでしょう。「献」という文字が読み取れます。 神明宮本殿を北東側から撮ってみました。 拝所には赤地に金色の五葉木瓜の紋章が織り上げられた縁飾りの御簾と赤色で山桜の紋章を描いた提灯が掛けてあります。五葉木瓜が神紋です。 こちらが本殿です。拝殿の南の方に歩むと、本殿を正面に拝する位置に長椅子が置かれています。 本殿の祭神が宗忠大明神です。 こちらの駒札と併せて読むと、この神社の由緒が具体的にわかります。要点は次の諸点でしょうか。*安永9年(1780)備前国(現在の岡山県)の今村宮の神主の家に黒住宗忠は生まれた。*文化11年(1814)の冬至の日に霊感を受け、教派神道「黒住教」を創始。教祖となる。*嘉永3年(1856)朝廷から「宗忠大明神」の神号を下賜された。 (付記:教祖黒住宗忠は嘉永3年に没し、直後に神号を下賜されたことになります。資料2)*文久2年(1862)門人の赤木忠春が当地にこの宗忠神社を建立した。*幕末の孝明天皇の時に、朝廷の勅願所となり、崇敬を受けた。インターネットで検索してみますと、「大元 宗忠神社」が岡山県北区にあり、「大住教」の教会(本部)もまた岡山県に所在します。「黒住教は、備前岡山藩の守護神社・今村宮の神官であった黒住宗忠(1780~1850)が、江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道です。幕末三大新宗教に数えられ、神道十三派の草分けです。」(資料3)とのこと。陶器製狛犬像に惹かれて訪れ、教派神道の一端を知る機会になりました。上掲の最初に目に止まった木標との繋がりがわかりました。祭神は実在した人物で、人神ということになりますね。中世の怨霊神とは別の信仰領域での人神という位置づけになるようです。人神という観点では、京都にある建勲神社(織田信長)・豊国神社(豊臣秀吉)や日光東照宮(徳川家康)などとともに、報徳二宮神社(資料4)、乃木神社(資料5)などを連想します。 本殿は屋根の一部しか見えませんが、流れ造りの屋根です。駒札によれば、明治45年(1912)に改築され、拝殿もまた昭和12年(1937)に改築されているそうです。境内地を少し探訪してみましょう。 拝殿の南側に、「忠春社」の扁額を掲げた境内社があります。 祭神は赤木忠春神。上掲駒札からお解りになりますね。教祖・黒住宗忠の高弟で、この神社を建立した人物。美作(岡山県久米郡)の生まれで、京都での布教に献身し、幕末には勤王の大義に寄与したということがこちらの駒札に記されています。駒札の下に、木札が付いています。ここには、赤木忠春は8年間盲目に悩んでいたが、教祖の説教を一度拝聴し即座に開眼したという経験をしたそうです。末尾に「忠春開眼の徳を慕う眼病の人からも信仰を得ている」と記されています。 拝殿の北側には、石柵で囲われた「白山社」が祀られています。祭神は菊理媛尊(くくりひめのみこと 白山比咩大神しらやまひめのおおかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。由緒については、「加賀の国(石川県)霊峰白山を神体山とする白山比咩大神を奉斎する。この土地を鎮護する神として古くからこの土地に御鎮座になっている」(駒札の説明文転記)と記されています。 境内地の北東側に、「神井 赤木忠春神御由来」の石標が立つ井戸の覆屋があります。 この井戸にまつわる由来が掲げてあります。この山上で人夫たちに30尺の深さまで掘らせたが水は一滴も出なかった。赤木忠春は人夫たちに明日の朝来てみなさいと告げたとのこと。その後どうなったかのエピソードが記されています。神徳譚の一つです。 神井覆屋の屋根の鬼板と軒丸瓦。 こちらが創建当初の正参道。上記の勅願所に選定された時、御所からの勅使がこの道を通っていたといいます。「当時を偲び勅使門と呼ばれています」(資料1)これで宗忠神社の探訪を終えました。 宗忠神社から東南方向へ下って行く坂道です。計画的にルートを決めた上での探訪ではなかったので、この道を後に下ることになりました。地図で確認しますと、この坂道の生垣と石柵が見える左側(北側)のエリアが後一条天皇菩提樹院陵でした。この探訪では、宗忠神社の勅使門前の道路を挟んだ反対側(北側)に足を向けました。つづく参照資料1) 京都神楽岡 宗忠神社 ホームページ2)『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p137-1383) 黒住教 ホームページ4) 報徳二宮神社 ホームページ5) 伏見桃山 乃木神社 ホームページ補遺建勲神社 ホームページ豊国神社 ツイッター黒住宗忠 :ウィキペディア黒住宗忠 :「おかやま人物往来」教派神道 :ウィキペディア神道十三派 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -6 聖護院から宗忠神社への道沿いに へ
2020.12.06
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春日上通に戻り、改めて聖護院山門の屋根を眺めます。 棟の瓦積みの組み合わせがリズミカルで美しい。 軒丸瓦は菊の文様がレリーフされています。棟の丸瓦は花弁の数が8つですが、軒丸瓦は16弁です。獅子口も軒丸瓦と同じ文様で統一されています。菊花を彫刻した飾り瓦が見えます。 春日上通に立ち、東を眺めた景色です。道路の先に東山の山並みが見えます。ふと、なぜ上通と呼ぶのだろうと関心を抱きました。手許の地図(資料1)を確認してここまで使ってきたわけですが・・・・・。インターネットで調べてみますと、現在の丸太町通は平安京の春日小路にあたるそうです。春日小路の北に併走する道なので、春日上通と称されるようです。ところが、この春日上通は、南北の東大路通を境にして、東大路通の以西を「春日上通」、以東を「春日北通」とも呼ぶということを知りました。(資料2)つまり、川端通~東大路通の区間を春日上通、東大路通~黒谷さんの区間を春日北通と名称区分するという訳です。聖護院は東大路通の東に位置しますので、この二区分で言えば、「春日北通に立ち」ということになります。まあ、ここは現在の地図表記である春日上通で統一してご紹介を続けます。それでは、宗忠神社を目指して進みましょう。左(北)に積善院凖提堂、右(南)に須賀神社を再び眺めつつ、東に向かいます。 通りの南側に「京都市立錦林小学校北門」が見えます。錦林小学校の東側の南北の通りは「吉田東通」です。吉田東通を北上すれば、東西方向の東一条通に突き当たります。東一条通の北側は京都大学の構内です。突き当たりで右折して東に進めば吉田神社に至ります。このご紹介では別のルートから宗忠神社を経由し、吉田神社に行くことになります。 通りの北側、民家の一隅に地蔵堂が目に止まりました。 春日上通の東端が間近くなってきます。 突き当たりには、黒谷さん、つまり金戒光明寺の高麗門があり、総本山の境内地の周囲に沢山の塔頭が甍を連ねて広大な寺域が形成されています。江戸時代に出版された『都名所図会』には、「紫雲山金戒光明寺黒谷」という見出しで載り、「浄土宗鎮西四ヶ寺の一本寺。元祖円光大師の旧蹟にして、叡山西塔の黒谷をうつして新黒谷と称す」と冒頭に説明しています。黒谷さんと親しみを込めて呼ばれるのはここに由来するのでしょう。(資料3) 門の左の柱には、この金戒光明寺に会津藩主の松平肥後守が京都守護職本陣を置いた旧積であることを示す木札が掲げてあります。門の右斜め前には、「会津藩殉難者墓所」碑が立っています。墓所が境内にあることを示しています。この金戒光明寺は既にご紹介しています。そちらもご覧いただけるとうれしいです。この高麗門の手前の道路傍に2つの石標が立っています。 高麗門を通っていく参道の右側には、この寺が「洛陽第六番観音霊場」であることを示しています。左側には、参道を進めば、境内地に「清和天皇火葬旧址」があることを明示し、一方高麗門の前の道路を北方向に行けば、「後一條天皇陵 陽成天皇陵 参道」であることを示しています。この道標に従い、左折して北方向に向かいます。 高麗門前の北東隅にこの辺りが「風致地区」である掲示板が地図付きで設置されています。 道路は坂道となり、高麗門から少し先には、境内地内の参道への石段が見えます。こちらの参道を道なりに東に行けば、三門の北側に至り、北に向かえば御影堂、そのまま東に進めば、文珠塔に至る道となります。 道路の西側に、地蔵堂が見えます。 格子扉越しに拝見しました。お地蔵さまの化粧法(?)は場所により実にバラエティに富んでいることがわかります。おもしろいものですね。 京都市の都市開発がすすんだ結果なのでしょう。現在はこのあたりも住宅街で、その中を通る道路になっています。そのまま道沿いに進むと、 石柵で囲まれた大きな宝塔形式の石塔が現れます。 石柵のところに「京都大学医学部」と表記されています。宝塔の基礎の格狭間には「安魂」と刻されています。傍の卒塔婆には「解剖体諸精霊追善」という文字が記されています。慰霊塔がここに建立されているのです。 「浄土宗 公安院」の門前を通り過ぎます。金戒光明寺の塔頭の一つです。 地蔵堂が目に止まります。 道路の先には門があります。通り過ぎてから眺めますと、「くろ谷金戒光明寺北門」の木札が掛かっています。 北門を通り過ぎれば、わずかの距離で、東に向かう石畳の参道が見え奥の方に表門が見えます。手間の石灯籠の棹にここが「真如堂」であることを示しています。上記の『都名所図会』には、「鈴声山真正極楽寺真如堂」という見出しで載っています。(資料3)真如堂についても、既にご紹介していますが、後でまた触れたいと思います。取りあえずは、この参道前で左折して、北西に方向を転じます。 真如堂の所在地が浄土寺真如町であるのに対し、道路を隔てて西北に延びるこの道路が通る辺りは、岡崎真如堂前町になります。 西北に進むと、民家の先に陵墓のある空間が現れます。 「陽成天皇神楽岡東陵」と陵墓名を刻した石標が立っています。この陽成天皇陵のさらに北西方向に「後一條天皇菩提樹院陵」が所在します。こちらは吉田神楽岡町になります。この探訪では行程に入れていません。陽成天皇陵前を通過しますと、突き当たりが宗忠神社です。つづく参照資料1) 『でか字まっぷ 京都』 昭文社 2003年5月2) 春日上通 :「通信用語の基礎知識」3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p314,p320補遺春日北通 :「通信用語の基礎知識」浄土宗大本山・くろ谷 金戒光明寺 ホームページ真正極楽寺 真如堂 ホームページ陽成天皇 :ウィキペディア後一条天皇 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -5 聖護院 (3) 書院の庭・坪庭・長屋門ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・左京 金戒光明寺細見 -1 蓮池院(熊谷堂)・御廟・熊谷塔・敦盛塔・蓮池ほか 8回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・洛東 真如堂(真正極楽寺) -1 三重塔・鎌倉地蔵尊・千躰地蔵尊堂・新長谷寺ほか 3回のシリーズでご紹介しています。
2020.12.05
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本堂と書院の間にある庭をさらに異なる位置から眺めてみたいと思います。順路を少し溯り、本堂の北側の外縁から まず庭を眺めてみます。 左に少し見えるのが宸殿で、庭の向こうに書院が見えます。庇のこけら葺きが一部損傷していました。 宸殿の東側の廊下を移動しながら撮った景色です。 書院に近い方から本堂の北面方向を眺めた景色です。これらの写真の中に前回ご紹介した莵の置物がちょこんと置かれています。どこだかおわかりになるでしょうか。 本堂の屋根の鬼瓦 書院の南面は縦の桟で構成された舞良戸(まいらど)で閉ざされています。(資料1)室内を拝見できなかったのが残念です。 宸殿廊下の北東隅に、木槌と「飯擲」と墨書された板が設置されています。「擲」という漢字には、なげうつ、なげる、なぐる、殴打するという意味があります。打擲(ちょうちゃく)という言葉や乾坤一擲(けんこんいってき)という熟語があります。禅宗の法具である「魚鼓(魚板)」と同じような役割を果たす法具でしょう。「魚鼓は食堂・庫裏の軒先などにつるして、木槌で打ちならして告知に用いた。魚は日夜眼をひらいているので、寝を忘れて努力するいましめとした。」(資料2)案内係の女性による宸殿の各間と書院の説明が終わると、順路指示に従った自由拝観になりました。順路の矢印に従い移動することに。全体の配置図がありませんので、どこを通ったのかが曖昧です。この後は、宸殿の背後の廊下から続きの建物の廊下を通り大玄関に戻りました。 坪庭。手水鉢の近く、坪庭の中の島に牛像が置かれています。 前方の渡り廊下の向こう側の庭をズームアップしてみました。 目に止まった板戸。この動物は何? 薄暗い廊下を通り、順路矢印に従って移動。 その先にはこんな坪庭も。 手水鉢には小さな雨蛙の置物が柄杓の傍に。 こんな坪庭もあります。 修行中の風景写真その他で修験道について展示説明されている一室を拝見して大玄関に戻ります。その時目に止まったのがこれです。 この等身大の修験者人形が置かれています。そして説明文が掲げてあります。 大玄関を出て、西隣りの「長屋門」に向かいましょう。 長屋門は門と居住スペースが一体化した建物です。ここでは山門の中に建てられていますから、門としての役割は不要であり、土間、納戸として使用されていたそうです。(資料1) 長屋門を通り抜け、内側から眺めた景色です。 長屋門の内側から北方向を見ると、「聖護院御殿荘」があります。聖護院山内にある一般宿泊施設です。京の旅の立地としては便利かもしれませんね。 長屋門に近いところに、西門があります。 西門が面した通りの西側には、「河道屋養老」があります。 京の老舗・総本家「河道屋」から暖簾分けを許されて1910(明治43)に創業した蕎麦処です。調べてみますと、京町家風の庭園が有名なようです。(資料3) 西門を外の道路から眺めた景色です。今は「御殿荘」への門としての役割が主になっているようです。その表示が出ています。これで、聖護院の拝見を終わりました。この探訪での第2の目的は、吉田神社・宗忠神社を訪れることです。春日上通に戻り、まずは東に進み、目的地をめざします。つづく参照資料1) 『本山修験宗 聖護院門跡』 聖護院門跡 拝観当日購入した冊子2) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p3783) 河道屋養老庭園 :「おにわさん」補遺舞良戸(まいらど) 建築用語集 :「タクミホームズ」舞良戸や帯戸など板戸のすべてがわかる!歴史から種類、選び方まで:「ANTIQUE LOG」聖護院御殿荘/光淳 ホームページ生蕎麦 河道屋養老 :「京料理 京都料理組合」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -4 聖護院 (2) 大玄関・宸殿・庭の砂紋・書院の庭 へ
2020.12.04
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山門を入ると正面にこの「大玄関」が見えます。前回ご紹介した宸殿への入口です。 屋根の獅子口の経の巻の正面と綾筋の下がともに菊の紋がレリーフされていて、足元(鰭ひれ)部分は菊の花と枝葉が飾りとなっています。 唐破風屋根の獅子口も同様ですが足元はごく簡略に菊の葉だけの飾りとなっています。 兎毛通の部分の中央も意匠は異なりますが菊の花の様です。その後には大瓶束の両側に雲形の装飾彫刻がつき笈形様になっています。 虹梁の下の蟇股も雲と波を意匠にした彫刻が施されています。 大玄関の正面に立ち、建物内部を眺めますと、正面に金泥の雲を背景として老松が大きく襖に描かれているのが目に飛び込んできます。桃山障壁画の遺風を残す狩野派画家の作品です。狩野永納と狩野益信筆の襖絵だそうです。(資料1)受付所で拝観手続きを済ませると、宸殿の案内時刻が決めてあるようで、丁度よいタイミングで数名のグループに加わることができました。宸殿内部は、孔雀の間・太公望の間・波の間がまず連なっています。それぞれの間は狩野永納筆による襖絵で統一されています。(資料2)部屋の名称が襖絵の内容のポイントを示しています。「孔雀の間」の構図には、孔雀と牡丹の組み合わせた絵と蘇鉄が描かれています。孔雀明王という仏像があります。「孔雀は他の鳥よりも強く、毒草や毒蛇を食べるといわれることから、あらゆる毒を除く力をもつとされ」(資料3)てきたそうです。「孔雀は、煩悩や災いを食べ尽くして清めてくれる存在として、信仰の対象とされてきました」(資料2)ので、襖絵としてふさわしい題材になるのでしょう。因みに孔雀明王は、病魔退散、病気平癒や延命を願う対象として信仰を集めているそうです。(資料3)「太公望の間」という名称ですが、太公望のエピソードは東面に描かれていて、他の三面はそれぞれ異なる物語を題材にしています。ここは控えの間の一つです。「波の間」は、案内係の女性の説明を聞き、えっと思いました。狩野永納は長谷川等伯の屏風絵「波濤図」を模写して取り入れてここに描いたというのです。狩野永徳と長谷川等伯は競い合う対立的な存在というイメージを持っていましたので、意外でした。認め合うという側面もあったということですね。勿論表現は違うのですが、波の形や岩の配置が酷似しているそうです。長谷川等伯の「波濤図」は永観堂禅林寺が所蔵されているそうです。(資料2) 「波の間」から宸殿の廊下に出ます。廊下は外縁と連なっています。宸殿の南面中央部に前庭に降りる階段が設けてあります。波の間の東側は、かつては聖護院宮が年中行事を執り行う祭礼用の広間だったそうです。この広間を囲む襖には、狩野益信筆「宸殿群鶴図」が描かれています。明治の神仏分離令の影響で廃寺となった末寺の諸仏を安置して、法要を行う道場に変えられています。 ここは撮影禁止ですので、特別公開案内の立て看板に載せられている写真を引用します。現在の「宸殿内陣」の景色です。中央の厨子には役行者銅像(元禄8年、出羽守政常作)が安置され、その前に三宝荒神像(左)、孔雀明王像(右)が脇侍として置かれています。役行者像に向かって左には、蔵王権現像、さらに左は不動明王坐像です。一方、向かって右には二体の不動明王立像が安置されています。宸殿内陣の手前に宸殿外陣があります。この2つを合わせて、「鶴の間」と呼ばれています。上記の通り群鶴図が襖絵として描かれているからでしょう。 宸殿の東側には南北に三間あり、手前から「三の間」「二の間」「上段の間」と呼ばれています。ここは廊下からの撮影がOKでした。 一段高くなっている部屋が「上段の間」です。南の廊下からズームアップで撮っていますので、「二の間」の畳の先に段差の縁がよくわかります。 まずは、畳にご注目。「二の間」の中央部は手前の「三の間」と同じ敷き方です。畳の長辺が東西方向に敷かれていて、畳の目が南北に向いています。その両脇は長辺が南北方向で、畳の目は東西に向いています。中央は通路として使われ、左右は侍者の席として使われるためだそうです。(資料2)まずは「三の間」の襖絵からご紹介します。 「二の間」との境になる襖。「二の間」とは襖四面で仕切られています。「三の間」の北面のうち西端の襖絵です。 北面のうち東端の襖絵 西面 東面 この三の間の四面には九人の仙人が描かれていることから、「九老の間」と称されています。「対面者はこの部屋の下手に座し、許されれば二の間手前まで進めました」(資料2)とのこと。 上掲の写真に全体が写っている「三の間」と「二の間」の境の「欄間」の西端下部です。左下にハート形様の空間が作り込まれています。これは意図的に作られた空間ですという案内係さんの説明が印象に残りました。ネズミが部屋を行き来できるようにわざと作ってあるとか。ネズミが襖をやぶったりしないようにと。おもしろい説明付きでした。 「二の間」の西面の襖絵。この間には四季の花鳥図が描かれています。 「二の間」の南面のうち西端の襖絵 「二の間」の南面のうち東端の襖絵 「上段の間」を東側の廊下から撮ってみました。いただいた資料の説明を転記します。(資料2)「歴代の聖護院の宮や、一時は光格天皇の御座所となった対面所(謁見の間)の雄大な滝と松は主の権勢を象徴するものです。」 「筬(せい)欄間に飾られた『研覃』は後水尾天皇の宸筆で、手入れした農具で耕された畑のように、多様な機縁を受け入れられる柔軟な心を意味します。」(資料2) 室内の釘隠し 廊下側の釘隠し ここにも菊の文様が使われています。宸殿の各部屋の様子から、前庭のご紹介に一旦戻ります。南側の外縁を移動しつつ、異なる立ち位置から眺めてみました。 前庭の西北側、日吉山王社のあるエリアの砂紋です。建物の屋根の下近くは小石を敷き詰めた帯状の小川にしてあります。屋根からの雨だれを受ける形になる位置です。 樹木の周りは同心円の砂紋で描かれ、宸殿寄りは東西に砂紋の帯と平坦な白砂の帯が交互に描かれていて、遠い方には市松模様の砂紋が見えます。 宸殿の階段に近いところで、白砂が平坦に調えられたところに、遊び心の小さな陶製動物が置かれています。犬と猫の置物ですね。 宸殿の前庭(南庭)が白砂のキャンバスになっています。伝統的砂紋を如何に精緻によどみなく見栄え良く描けるかも修行の一環でしょうか。 北東側からの砂紋の景色 宸殿と本堂を繋ぐ屋根付き渡り廊下を進みます。廊下の入口横に、小ぶりな梵鐘が吊ってあります。板蟇股が目に止まりました。また、拝みのところには梅鉢懸魚が使われています。 宸殿から本堂の拝見に移るときに本堂側から眺めた前庭の全景です。 本堂からみればこの前庭は西庭になります。 本堂の廊下から眺めた十三重石塔現在の本堂は昭和40年代に建て替えられたもので、位置や規模は江戸時代のままだそうです。(資料2)堂内の構造は前回ご紹介しています。本堂内は撮影禁止です。拝観のおり受付所でリーフレットをいただきました。そこから一部引用してご紹介します。 本堂中央に本尊の不動明王像(重文)が祀ってあります。平安時代の作で桧の寄せ木造り、創建当初からの本尊だそうです。聖護院は創建以来、3度に渡る全焼と再建、一方で移転を繰り返すという沿革を経ていますが、この不動明王像は度重なる火災から守られてきたのです。「左右には不動明王の忿怒を示すセイタカ童子と、慈悲を示すコンガラ童子がつき従います。」(資料2)光背の迦楼羅炎、セイタカとコンガラの両童子は後補とされているそうです。(資料1) 本尊に向かって右側の厨子に、智証大師円珍の坐像が祀られています。天台宗の五代目座主で三井寺中興の祖。天台寺門派の祖でもあります。三井寺は聖護院を創建した増誉大僧正が修行したお寺です。「康治2年(1143)仏師良成が三井寺唐院にある同大師像を模刻したものといわれ、胎内には大師自筆の経巻や唐から将来した経典などの目録および願文(いずれも重文)が収められている」(資料4)と言います。聖護院で購入した冊子には、「入唐求法総目録、如意輪心中真言、仏舎利等が収められ」とより具体的に説明しています。(資料1)「榧の木を使い当時としては珍しくなりつつあった一本造りの形を採るが衣の一部。腰の一部を別材で補っている。下ぶくれで卵形の頭、広い肩幅の体形は智証大師の尊像の特徴であり、よくその姿を伝えている。」(資料1)と言います。向かって左側には役行者像が祀られています。この像は前鬼後鬼を脇侍として従えている他に、左右に4人ずつ8人の童子、大峰八童子が従っています。役行者の背後には岩塊が彫刻されています。それで、役行者が大峰山で修行されている姿を表していると考えられています。(資料1) 宸殿の東側の廊下を北に進みます。これは振り返った景色です。 本堂の北側には書院との間に広い庭が広がっています。書院からみると南庭になります。 少し立ち位置を変えて庭を眺めた景色です。この書院は宸殿の廊下から外観を拝見しただけでした。こけら葺きの庇などに傷みがでてきたりしてきていて修復の必要もあり拝観できないとのことで残念でした。延宝4年に聖護院が現在地に移転したとき、御所の建物が移築されたと伝えられるとか。(資料1,4)また、数寄屋風書院造の建物で、現在の屋根は瓦葺きですが、当初は庇と同じこけら葺きだったと言います。「後水尾天皇の典侍、藤原(櫛笥)隆子の御所での住居」(資料2)だったとも説明されています。典侍(てんじ)とは、「昔、内侍司(ないしのつかさ)の次官。尚侍(しょうじ)の下。ないしのすけ。すけ。」(日本語大辞典)という女官の位です。 庭に兎や栗鼠の置物がさりげなく・・・・。ここにも遊び心がみられます。次回は、この庭のつづきからご紹介します。参照資料1) 『本山修験宗 聖護院門跡』 聖護院門跡 拝観当日購入した冊子2) 「聖護院 宸殿図解 書院・本堂図解」 拝観時にいただいた説明資料3) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p82-834) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p191-194補遺後水尾天皇 :ウィキペディア智証大師円珍の生涯 :「三井寺」宗祖・智証大師(円珍 814~891年) :「天台寺門宗」本山修験宗 :「宗教情報リサーチセンター」狩野永納 :ウィキペディア狩野永納 :「コトバンク」狩野益信 :ウィキペディア波濤図:長谷川等伯 :「続 壺齋閑話」光格天皇 :ウィキペディア孝明天皇 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -3 聖護院 (1) 表門・宸殿と前庭・本堂ほか へ
2020.12.03
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積善院凖提堂を出て春日上通を西に歩くと、幅の広い石敷道が聖護院の山門まで続いています。道路傍に「近畿三十六不動尊第十八番霊場」碑が立っていて、近くに特別公開の案内看板が設置されていました。この探訪での第一目的はこの特別公開を拝見することにありました。道路に面して駒札が設置されていますが、読みづらくなっていますので、参照しご紹介していくことにします。 山門の左側手前には「聖護院門跡」と記された寺号碑が立ち、さらに手前には「史蹟聖護院旧仮皇居」と刻された碑が立っています。「平安時代の寬治4年(1090)に、白河上皇が紀州(現在の和歌山県)の熊野三山を参詣する際、修験者(山伏)として有名であった増誉大僧正が、先達(案内役)を努めた功績により寺を賜り、聖体護持の意味から聖護院と名付けたという。」(駒札転記)聖護院という名前の由来です。天台宗寺門派の増誉大僧正は「その功により熊野三山の検校職に任ぜられ、修験道本山派の山伏を統轄する」(資料1)に至り、当山派(醍醐三宝院)と修験道を二分する形になります。鎌倉時代に後白河天皇の皇子静恵(じょうえ)法親王が聖護院に入寺し四世門主となり、その後門跡寺院になります。そして世に聖護院門跡、聖護院宮と称されることに。「天明8年(1788)と安政元年(1854)の御所の炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時、仮皇居として使用したため、『聖護院旧仮皇居』として、国の史跡に指定されている。」(駒札より転記)わけです。孝明天皇は皇子祐宮(明治天皇)とともに当院に避難し仮皇居としたそうです。天台宗寺門派に属していた聖護院は昭和21年(1946)に天台宗より離脱し修験宗を樹て、昭和36年(1961)に「本山修験宗」と変更して総本山となりました。(資料2)聖護院門跡が通称となっていますが、明治元年(1868)の神仏分離令が発布された流れの中で権現号・門跡号が廃止されています。明治4年に門跡号廃止という記述もみられます。(資料2,3,4)一方、明治18年4月には門跡号復称が認められ、私称として使用される形で今日に至るようです。京都では門跡寺院が数多くあります。(資料4) 山門の頭貫の中央には、正面と底面に菊の紋章が付けてあります。 門は薬医門の形式です。門扉は実質的で頑丈そうな感じです。 大きな板蟇股が屋根の棟を支えています。 山門を入ると、正面に大樹が見え、その背後に西から長屋門・大玄関・大玄関と宸殿前庭の境となる源氏塀が見えます。特別拝観は大玄関を入り、拝観受付の手続きをします。源氏塀のところの中門が開いていました。当日は最後に巡ったのですが、まずこちらからご紹介します。(ここは拝観手続きなしで自由に拝見できるエリアでした。) 中門を入ると、そこは「宸殿」前の広々とした前庭です。宸殿の東南側には「本殿」があり、西面する本殿の前庭にもなっています。庭一面には白砂が敷き詰められています。 前庭の北西隅、中門を入ったすぐ左側の奥で源氏塀の傍にこの覆屋を設けた社があります。手許の書には、昭和56年(1981)7月に筆者が描いた聖護院全景図が載っています。それにはこの位置にこの社が存在しません。(資料1)後掲の「日吉山王社由緒」碑から平成19年にここに遷座されたことがわかります。 小ぶりな社ですが、観音開きの扉が三つ並んでいます。三間社流れ造りで向拝が付いている形式だと思います。中央が「日吉山王社」、向かって右が「辨財天」、左が「稲荷神社」です。覆屋の桁にそれぞれの扁額が掛けてあります。 向拝の頭貫の両端の木鼻は獅子像が阿吽形で彫刻されています。 頭貫の中央部は蟇股ではなくて、衣裳を纏った猿ではないかと推測する像が丸彫りされています。 その奥側には、木鼻に象が彫られています。右の写真は頭貫に掛けられた吊り灯籠です。 本殿中央の扉です。精緻に線刻された錺金具が光っています。扉には双龍をデザインした錠が掛けられています。右の写真はその部分拡大図です。 石灯籠 逆に、中門を入った右(南)側には、「日吉山王社由緒」を刻した碑が立っています。日吉山王社が旧寺領地に祀られていたので、それが現在、聖護院山王町という地名の由来になっていると言います。また、元の社殿脇には樹齢数百年の榧の御神木が聳えていたそうです。親鸞聖人が聖護院僧侶を訪ねるときに日吉山王社に立ち寄られたとき、聖人の手からこぼれた念珠玉より生じた木と伝承されていたことが併せて記されています。(碑文から判読した大意) 碑の上部に彫られているレリーフ。菊花の中に法螺貝が描かれています。聖護院の宗紋です。 日吉桜の木札 白砂には砂紋が同心円状に描かれ、波紋の広がりをみせている個所があり、猫の置物が石の傍に置かれています。拝観の折り、案内係の女性が住持の遊び心です・・・とか。ちょっと楽しいですね。 中央部は砂熊手で市松模様が描かれています。 この場所は位置関係からみて、「節分会厄除け採燈大護摩供」が行われるときの護摩壇が築かれる場所のようです。(資料5)護摩修行です。”「仏の智慧を火とし、私逹の中にある悪業煩悩を薪と考え、その煩悩を焼き尽くす」のが護摩の作法である”(資料2)そうです。 本堂前に向かうとき、「笈掛石」と刻された碑が目にとまりました。笈とは「修験者などが衣類・食器などを入れて背負う、足の付いた箱」(新明解国語辞典)です。その名称どおり笈を背負ったり、はずしたりするときに使った石ということでしょうか。 本堂前に行く手前、南西側に十三重石塔が建立されています。初層の軸部に四方仏のレリーフが施されています。 西面・南面 南面 東面 北面 回り込んだ北東隅にこの石像がさり気なく置かれています。姿から推測して役行者でしょう。いかめしさはなくて、ほのぼのとしている感じがいいですね。 一隅に雪見灯籠 本堂の柱には「不動堂」の木札が掛けてあります。本堂の階段前まで行くことができます。建物内を拝観すると、本堂が拝観順路に組み込まれています。本堂の正面からみて中央に本尊の不動明王像、向かって左に役行者像、右に智証大師円珍像が安置されています。左端は弥陀壇で、歴代門主その他の位牌、右端は天霊壇で聖護院にゆかりの深い歴代天皇の位牌と阿弥陀如来像が安置されています。(資料6) 本堂前から眺めた砂紋それでは、大玄関から入り、特別公開の建物内部や庭の拝見へと移りましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂2) 『本山修験宗 聖護院門跡』 聖護院門跡 拝観当日購入した冊子3) 聖護院門跡 :「宗教情報リサーチセンター」4) 明治18年4月の門跡号復称について・・・・:「レファレンス協同データベース」5) 聖護院 採燈大護摩供 :「京都を歩くアルバム」6) 「聖護院 宸殿図解 書院・本堂図解」 拝観時にいただいた説明資料補遺聖護院 :ウィキペディア門跡 :「コトバンク」枯山水の砂紋 :「そうだ京都、行こう。」ー聖護院門跡ー 令和二年六月 月例柱源護摩 YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -1 丸太町通を眺めつつ、須賀神社に へ探訪 京都・左京 丸太町からの寺社巡り -2 積善院凖提堂 へ
2020.12.02
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