全26件 (26件中 1-26件目)
1
京博の七条通に面した南門の傍に掲げられた特別展の大型PRパネル(A) 入口傍の南面する壁面を飾る大型PRパネル(B) これはこの特別展「雪舟伝説」のPRチラシの表紙です。二つ折のA4サイズです。 今回の特別展のおもしろいところは、このチラシを広げるとその中央に記された ※「雪舟展」ではありません!という言葉が眼に飛び込んでくることです。特別展のサブタイトルは「-『画聖』の誕生-」で、画聖には「カリスマ」というルビが振られています、本展の展示は、 第1章 雪舟精髄 第2章 学ばれた雪舟 第3章 雪舟の継承 -雲谷派と長谷川派- 第4章 雪舟伝説の始まり -狩野派の果たした役割- 第5章 江戸時代が見た雪舟 第6章 雪舟を語る言葉 第7章 雪舟受容の拡大と多様性という構成になっています。このチラシの見開きページ、なかなか巧みなキャッチフレーズが使われています。チラシと展示構成を対比すると、次の通りです。第1章・第2章 ⇔ これが雪舟だ! <雪舟精髄>には、通期で9点を展示。6点が国宝、3点が重文です。 久しぶりに、「天橋立図」「慧可断臂図」を見ることができました。 <第2章 学ばれた雪舟>のセクションは、1点の入れ替えが前期・後期にありますが、ここも9点で、雪舟筆の絵と伝雪舟筆3点です、大半が重文です。 つまり、最初に雪舟画のエッセンスがドンと展示されています。 雪舟の回顧展ではないのです。まずコレを見よ!これがお手本だという感じ。第3章 ⇔ 雪舟を次ぐのは俺だ!第4章 ⇔ 江戸時代の雪舟評価を確立 ー狩野派の仕事-第5章~第7章 ⇔ みんな雪舟が好きだった室町時代の雪舟がこれほどの影響を与えていたのか!を認識できた特別展でした。ここまでとは考えてもいませんでした。例えば、2010年に「長谷川等伯」展で、等伯が水墨画へ傾倒とその作品を鑑賞しましたが、牧谿・玉澗等の中国画家の作品の影響を受けたという認識で、雪舟の名を書き入れた等伯の作品は等伯の自負心の現れかくらいに受け止めていました。 入場券の半券 平成知新館の手前に設置された特別展の案内パネルここに鶴が二羽並んでいます。入場券には、左が雪舟筆、右が若冲筆と付記されています。上掲のPRチラシの表紙も同様です。チラシには、 雪舟筆「四季花鳥図屏風(右隻)」(重文、室町時代15世紀)が載っていますので、引用します。雪舟筆花鳥画を見るのは私は初めてのような気がします。この屏風絵、六曲一双として左隻とともに展示されています。雪舟は花鳥画も多く描いたそうですが、雪舟真筆と認め得唯一の作品だそうです。現在は京都国立博物館蔵になっています。伊藤若冲は若き頃、伝手を頼り京都の寺々の障壁画を拝見し模写して修練した時期があったそうです。若冲はこの屏風絵を何処かで見たのでしょうか。あるいは他の花鳥画の鶴でしょうか・・・・。この四季花鳥図屏風は、第3章で、雲谷等益筆「四季花鳥図屏風」(六曲一双、江戸時代17世紀、京都・東福寺蔵)の展示にリンクします。雪舟の屏風をモデルにして雲谷等益が描いているのですが、木の枝ぶりや色遣いの違い、一部省略その他で微妙に異なり、独自性が加えられています。模本とは言えない、独自性を加えた写しになっています。雪舟流を継承するという意図は明かです。 雪舟筆「四季山水図巻(山水長巻)」(国宝、文明18年/1486年 毛利博物館蔵)第1章に展示。この図巻長さ16mに及ぶ大作です。展示室の中央に全図巻の写真版が掲示されていて、開催期間中を三期にわけ、3分の1ずつ巻替をする旨が表示されていました。これは第一期展示の部分図です。冒頭の大型パネル(A)にこの図巻が使われています。3分の1を見るだけでも、迫力を感じます。この作品は、まず第3章で、雲谷等益筆「四季山水図巻(山水長巻副本)」(重文、江戸時代17世紀、毛利博物館)の展示にリンクしています。「本作は模写ではあるが、細部描写には少なからず原本との相違点があり、等益自身の作品としての完成度を有する点も見逃せない」(図録の作品解説より)と評されています。雲谷は雪舟のモチーフと筆墨を流派の基礎として継承して行ったそうです。さらに、第5章で、狩野古信筆「雪舟筆四季山水図巻模本」(国宝、江戸時代、享保10年/1725年、毛利博物館蔵)の展示にリンクします。 雪舟筆「秋冬山水図」(国宝、室町時代15世紀、東京国立博物館)雪舟精髄の作品の一つとして展示されています。 これは平成知新館で入手した「京都国立博物館だより」の最新号(2024年4・5・6月号)の表紙です。上段の右は若冲の鶴、左は上掲の「秋冬山水図」の左図・冬の山水図です。下段は、上掲「四季山水図巻(山水長巻)の中のさらに部分図、森閑とした山道を歩む人物と同行する従者の姿が切り出されています。 伝雪舟筆「富士三保清見寺図」(室町時代16世紀、永青文庫蔵)第2章に展示されています。右に海、左の清見寺と山のその向こうに富士山を眺めるこの構図。上掲の京博入口手前の壁面の大型パネルの図はこれです。雪舟の絵に学んだ後世の画家たちは同じビューポイントから風景を描くという形の定番が生まれていきます。第4章の狩野派では、狩野探幽筆「富士山図」(江戸時代、寛文9年/1669年)、狩野山雪筆「富士三保清見寺屏風」(江戸時代17世紀)が展示されています。第7章では、 曽我簫白筆「富士三保図屏風」(六曲一双、江戸時代18世紀、MIHO MUSEUM蔵)さらに簫白筆「富士三保清見寺図」(江戸時代18世紀)、山本探川筆「富士三保清見寺図」(江戸時代18世紀、永青文庫蔵)、鶴亭筆「富士山図」(江戸時代、安永5年/1776年、旧ピーター・ドラッガー 山荘コレクション蔵)が展示されています。加えて、「富士三保松原図」という名称で、桜井雪館筆(江戸時代18世紀)、原在中筆(江戸時代、文政5年/1822年、静岡県立美術館)、狩野永岳筆(江戸時代19世紀、静岡県立美術館蔵)の作品が展示されています。画家達の描いたバリエーションが鑑賞の楽しみになります。 PRチラシよりなんと、「駿州八部富士図」という名称で、司馬江漢までもが同じビューポイントから描いているのです。(江戸時代、寛政元年/1789年)また、司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」(江戸時代、寛政11年/1799年、静岡県立美術館蔵)という作品も出ています。少し角度が変わりますが類似の構図です。 これは平成知新館1階の正面の壁面に設置の記念写真撮影場所を兼ねた大型パネルです。ここには、曽我簫白筆「富士三保清見寺図」の部分図が使われています。第3章には、上掲の雲谷等益の作品の他に、 雲谷等顔筆「山水図襖」(重文、14面のうち4面、桃山時代16~17世紀、京都・黄梅院蔵)が展示されています。ここには、雲谷派と並んで、長谷川等伯の作品が2点展示されています。一つは、等伯筆「山水図襖」(16面のうち8面、桃山時代、慶長4年/1599年、京都・隣華院蔵)です。もう一つが、 「竹林七賢図屏風」(六曲一双、桃山時代、慶長12年/1607年、京都・両足院蔵)です。この屏風には、下段左端の襖に、「自雪舟五代」と記されているのです。この時期より等伯は「雪舟より五代」と自称し始めたと言います。雪舟の後継者であるという自負が現れています。第4章では、江戸時代に狩野派が雪舟の評価を確立する役割を担ったようです。当日購入した図録には、 図録表紙 図録裏表紙狩野探幽筆「山水図屏風」(六曲一双、江戸時代17世紀、京都・長福寺蔵)が使われています。これは探幽が采女と称していた頃の作品で、采女の署名があります。若い時期に探幽が雪舟の筆法を学んでいたということを明らかにする作品だそうです。 チラシよりこちらは屏風(六曲一双)の全体図です。図録表紙の部分は、上掲京博だよりの表紙の中段に部分図として使われています。最後の第7章は<雪舟受容の拡大と多様化>です。上記した作品以外で、このセクションで印象に残った作品を幾つか列挙しておきたいと思います。*酒井抱一筆「雪舟筆金山寺図模本」(江戸時代18~19世紀)をみて、酒井抱一も雪舟から学んでいるのを知りました。*尾形光琳画、尾形乾山作「銹絵山水楼閣図四方火入」(江戸時代18世紀、大和文華館蔵)は初めて見た作品です。その図柄は雪舟のモチーフや描法を継承していることがよくわかります。*葛飾北斎筆「山水図」(江戸時代19世紀)が展示されている。その描法は雪舟の草体山水図に学んだ可能性が指摘されていて、北斎の貪欲な学びの姿勢に一層の興味を抱きました。*狩野芳崖筆「寿老人図」(明治時代19世紀、静岡県立美術館蔵)は、第2章に展示の伝雪舟筆「梅潜寿老図」(重美、室町時代15世紀、東京国立博物館)とモチーフがリンクしていて、時空の隔たりを越えたつながりがおもしろいと感じました。*山口雪渓筆「十六羅漢図」「三十三観音図」(ともに江戸時代17世紀、京都善導寺蔵)の絵そのものは興味深いのですが、雪舟画とどの点でつながるのか、私にはいまひとつわかりません。*勝川春章筆「初宮参図巻」(江戸時代18世紀、似島美術館蔵)という春画巻が展示されていて、部屋の一隅に軸装の箱が描かれている場面が開示されています。その箱に雪舟筆と明記されていて、傍に掛軸が掛けてあるというもの。江戸時代に雪舟が広く知られていたということでしょうか。「みんな雪舟が好きだった」 春画絵巻なので部分絵の開示です。図録を見ると、絵巻全体が部分絵とともに掲載されています。おもしろい。第2章に、伝雪舟筆「琴棋書画図屏風」(六曲一双、重美、室町時代16世紀、永青文庫蔵)が展示されています。長谷川等伯、狩野探幽、山口雪渓それぞれの描いた竹林七賢が展示されていますので、雪舟自身は竹林七賢を描いているのだろうかという関心が残りました。本展には展示がありませんでしたので。 平成知新館を出ると、今秋の特別展予告が目に止まりました。「法然と極楽浄土」です。今年の10月の楽しみが一つできました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*本展のPRチラシ*図録『特別展 雪舟伝説 「画聖」の誕生』 京都国立博物館 2024*「特別展 雪舟伝説」出品一覧・展示替予定表補遺雪舟 :ウィキペディア雪舟、涙で描く 博物館ディクショナリー :「京都国立博物館」雪舟《四季山水図》について 狩野探幽の言葉 :「ARTIZON MUSEUM」雪舟とは何者ゾ?水墨画のスーパースター、その人生と代表作を徹底解説【アート】 :「和楽.web」相国寺と雪舟 :「臨済宗相国寺」雪舟とは 晩年を益田で過ごした「画聖」 :「益田市」雪舟画像 :「文化遺産オンライン」秋冬山水図 雪舟等楊筆 :「文化遺産オンライン」山水長巻 雪舟 :「綴 TSUZURI 文化財未来継承プロジェクト」(Canon)紙本淡彩牧牛図<雪舟筆/(仿李唐)> [牧童] :「山口市」山水図 :「文化遺産オンライン」紙本墨画山水図 雪舟筆 :「文化遺産オンライン」国宝 天橋立図 :「京都国立博物館」雪舟像 (探幽縮図) :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 噴水のあるエリアのツツジ へ観照 京都国立博物館 -2 京博の表門(西門)& 西の庭のツツジと保存物 へ
2024.04.30
コメント(2)
京博の表門(西門)の正面大和大路通に面する形で表門が位置しています。通りから数十m東に入ったところにレンガ造りの門があります。このレンガ造りの門は、現在の明治古都館とセットになり、フランス・ルネサンス様式の洋風建築として建築されました。明治28年(1895)に竣工し、同30年(1897)5月1日に開館式が行われたそうです。設計者は赤坂離宮を設計した片山東熊博士です。(資料1,2) 現在は、向かって右(南)の門柱に、「獨立行政法人 國立文化財機構」、左(北)の門柱に「京都國立博物館」の銘板が掲げてあります。開館当初は帝国京都博物館と称され、明治33年(1900)に京都帝室博物館に改称されました。大正13年(1924)、京都市に下賜され、恩賜京都博物館と呼ばれ、昭和27年(1952)文化財保護法の施行に伴って再び国に移管され、京都国立博物館に改称されたという経緯があります。(資料1)さらに、現在は、「独立行政法人国立文化財機構法」のもとでの京都国立博物館設置という位置づけになっています。(資料3)この法律は、平成12年6月1日の施行です。(資料4) 門扉の意匠明治30年頃の京都では、極めてハイカラな洋風建築の出現だったことでしょう。カルチャーショックの源だったかもしれません。しかし、今では東山の山並みの緑のなかで、レンガ造りの外観がしっくりと融和してしまっています。 北側には「太閤石垣(方広寺の石垣遺構)」があります。そのため、表門のレンガ塀(袖塀)は、南側と比較するとかなり短くなっています。 南側に伸びる袖塀は長い再び構内に戻り、西の庭を巡りました。 ここにもツツジが咲いています。 西の庭には石造物ほか、様々なものが野外保存され、西の庭を飾ってもいます。 室町時代(15世紀)の「不動明王立像」です。怒りを表す恐ろしげな表情と姿で表現されているのは、「慈悲の心のみでは救えないものをはげしい怒りで救うため」(傍の説明文より)と言います。明王は密教特有の尊像です。 別の一隅には、ツツジを背景に、 鎌倉時代(13世紀)の「地蔵菩薩坐像」が鎮座します。地蔵菩薩は、釈迦の寂滅の後、弥勒仏がこの世に現れるまでの仏不在の時代に、衆生を数う役目をもつのが、地蔵菩薩と考えられています。僧侶と同じく頭を丸めて袈裟を着た姿です。弥勒仏が現れるのは、56億7000万年と気が遠くなるような先と考えられています。なんという時間軸のスケールでしょう・・・・。「本像は、現実感のある表情や衣文の気吹くなどに鎌倉時代の特徴がうかがえ、制作は13世紀にさかのぼると考えられる」(傍の説明文より)と言います。東大寺の復興にあたり、中国から石工を招いていた影響が石彫像の流行として現れているとか。日本史の年表を見ますと、「1190 西行没後、重源、東大寺再建」「1195 東大寺再建供養」「1203 運慶・快慶 東大寺金剛力像」という史実の項が記されています。 東大寺大仏殿の前に据えられている国宝「金銅八角灯籠」の実物大複製品が置かれている一隅にもツツジが咲いています。こんな感じで、京博の敷地内にはツツジが見頃です。ここしばらくはツツジの最盛期であることでしょう。それでは、特別展の鑑賞に、平成知新館に向かいます。参照資料1. 建物概要 :「京都国立博物館」2.『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p109-1123. 国立文化財機構について :「独立行政法人国立文化財機構」4. 独立行政法人国立文化財機構法 :「e-GOV法令検索」補遺京都国立博物館 ホームページ片山東熊 :ウィキペディア片山東熊 近代日本人の肖像 :「国立国会図書館」片山東熊の建築・旧東宮御所(現・迎賓館) :「コンドルたちのつくった東京」迎賓館赤坂離宮 朝日の間 :「内閣府」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -1 噴水のあるエリアのツツジ へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「雪舟伝説」 へ
2024.04.29
コメント(0)
4/25に京都国立博物館(以下、京博)に行ってきました。目的は特別展「雪舟伝説」の鑑賞です。ちょうどツツジが咲きそろってきていました。そこで、京博のツツジたよりから始めます。冒頭の景色は、南門を入って平成知新館に向かうアプローチの入口付近から明治古都館を眺めた景色です。 目を北西側に転ずれば、半円に囲む生垣越しに平成知新館とその手前の噴水のあるエリアが見えます。 ツツジが咲きそろっています。 アプローチを進むと、ツツジが花開き、三色模様をなしています。 西の庭(南西)方向を眺めた景色 明治古都館側の芝生にもツツジが同様に。 アプローチの東側前方には、特別展の大型パネルが見えます。ウエルカムのサインでしょう。 南東方向に目を転じます。 平成知新館に近づいてから、噴水のあるエリアを眺めた景色 平成知新館の入口前から噴水のあるエリア沿いの通路を西方向に進みます。 ツツジの生垣傍からの眺め 円形の噴水池の北側から、東方向の眺め。南門から平成知新館に向かう通路より、噴水のあるエリアは一段低くなっていますので、こんな景色になります。 噴水を挟んで南西方向のツツジを眺めた景色 噴水池の東辺から眺めたロダン作「考える人」像です。 京博に行くたびに、その季節の「考える人」像を撮り続けています。飽きることなく・・・・。 噴水のあるエリアの西端側に行きつつ撮った景色この後、京博の表門(西門)の風情に触れたくて、西門を出て、外から京博を眺めてみました。次回は、西門の景色と西の庭を一部ご紹介します。つづく補遺京都国立博物館 ホームページ 建物概要 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 -2 京博の表門(西門)& 西の庭のツツジと保存物 へ観照 京都国立博物館 -3 特別展「雪舟伝説」 へ
2024.04.28
コメント(0)
玄関手前の雨樋に蔓を這わせて伸び上がるジャスミンが一挙に花開いてきています。今朝(4/28)撮りました。 蕾がまだまだ目につく箇所もあり、 かなり花開いている箇所もあります。 ほぼ全体を眺めるとこんな感じ・・・・。満開とまでは言えません。 まさに、小さな白い花の乱舞 一匹の蜂が白い花の辺りを飛び回っていました。スマホ画面での現在(13:10)の天気予報は、 27℃、曇り時々晴れ、最高29℃、最低13℃空を見上げると、朝見られた青空が今は見えません。平穏に時が過ぎていく・・・・・そんな午後。ご覧いただきありがとうございます。
2024.04.28
コメント(0)
<Ⅳ-2 神々と儀礼>のセクションに進みます。冒頭のレリーフは、「トラルテクトリ神のレリーフ」と称されています。玄武岩 高さ73cm、幅58cm アステカ文明 1325~1521年トラルテクトリは「大地の母または主」という意味だそうです。この神は「当時の人々のコスモロジーのなかで二重の役割を担っていた。一つは生殖機能で、植物が育つサイクルの始まり、動物や人間さらには星の誕生に関わるものだった。一方で、貪欲な存在としての側面も持ち合わせており、この神自身の体内から出た生き物の血や死体を貪るのだった。そのため、アステカの宗教では、大地は母の子宮であると同時に、あらゆる生き物の墓でもあった」(図録の解説を一部転記)「アステカの神々は天上界の13層と地下界の9層に住み、暦に応じて地上の万物や天体の動きを支配したといいます。神々は時に多様な神格に分かれたり、融合して唯一の絶対神になったりすると信じられたため、様々な神を祀る神殿が造営されました」(案内パネルから一部転記) 画像処理で色彩補正をしてみました。 「トラロク神の壺」 土器、彩色 高さ35cm、幅32cm アステカ文明 1440~1469年トラロクは「大地を人格化した雨の神」です。「雨神トラロクは太陽神ウィツィロポチトリと共に大神殿に祀られ、多くの祈りや供物、生贄が捧げられた。水を貯える壺にトラロクの神を装飾があり、雨や豊穣の願いが込められたものと考えられる」(傍に掲示の説明文転記) 「テスカトリポカ神の骨壺」 高さ32.9cm、幅17.5cm アステカ文明 1469~1481年テスカトリポカとは、「煙を吐く鏡」という意味だと言います。「不可視で、あらゆる場所に存在する万物の神、創造神であり、槍もしくは2本の矢で射抜かれたときにだけその姿を表した」そうです。(図録の解説を一部転記)壺の内部を調べたところ、部分的に焼かれた男性の骨が納められていました。戦死した指揮官と考えられています。 「ミクトランテクトリ神の骨壺」緑色岩 高さ7cm、幅9cm アステカ文明 1469~1481年ミクトランテクトリは、「死者の世界の主」を意味し、痩せこけた骨のみの姿で表されます。「火打ち石の斧やナイフを持ち、生贄の心臓を抜き出す神でありながら、一方で生を与える役割も併せもつ」そうです。(傍に掲示の説明文転記) 「シウコアトル」 火打ち石、トルコ石、黄鉄鉱 長さ36cm、幅6cm アステカ文明 1325~1521年シウコアトルとは、「火の蛇」という意味だそうです。太陽神ウィツィロポチトリなどの神々が手にする武器だとか。波打った形の固い褐色の火打ち石に彫刻を施したナイフです。 「エエカトル神像」 玄武岩 高さ41.6cm、幅20cm アステカ文明 1325~1521年「風を意味し、生と豊穣を司る神。カワウやペリカン、クイナなどの嘴(クチバシ)の形に似た赤い口が特徴的である」(傍に掲示の説明文転記) 「プルケ神パテカトル像」 玄武岩 高さ36.5cm、幅23cm アステカ文明 1469~1481年「リュウゼツランの発酵酒プルケは、アステカの儀礼で重宝された。パテカトルは、その発酵を促す植物オクパトリを発見した神。プルケは今も、テキーラとメスカルに並ぶメキシコを代表する地酒である」(傍に掲示の説明文転記)テノチティトランの大神殿の下で発見され、月の女神コヨルシャウキの石彫に関連した埋納石室に納められていたとのこと。(図録より) 「アウマドール(香炉)」土器、彩色 長さ63cm、口径22.2cm アステカ文明 1325~1521年丸い椀状の部分が香炉。熱くなった炭を入れ、その上に樹脂を置くことで芳香を放つ白い煙が立ち昇ります。「燃焼を容易にするため、三角形が4つずつ合わさった形の空気穴がほどこされているが、この形は世界の中心と四方を表現している。柄とその先端の部分は、芋虫と蝶を表しており、火の特性である変容する力のシンボルである」(図録の解説を一部転記) 「テポナストリ(木鼓)」 木 長さ20.5cm、幅64cm アステカ文明 1325~1521年横長の太鼓です。「音や振動がよく伝わるよう、上部や下部に銅が使われている。天然ゴムをつけた撥(オルマイトル)を用いて、宗教儀礼や戦闘の場において演奏された」(傍に掲示の説明文転記) 「笛」 土製、彩色 左:長さ18.5cm、幅5.2cm 右:長さ13.2cm、幅4cm アステカ文明 1325~1521年笛はメソアメリカを代表する管楽器のひとつです。 「ウェウェテオトル神の甲羅形土器」 土器、彩色 長さ21.5cm、幅13.5cm アステカ文明 1486~1502年1990年代にメキシコシティの大聖堂で地盤沈下対策工事が行われた時に発見されたと言います。「地下4.3mの建物跡から発見された甲羅形の供物。下の歯を2本突き出す表現は、火の神ウェウェテオトルの特徴と一致する」(傍に掲示の説明文転記)展示室の壁面には、アステカの代表的な神々の図像が描かれています。何とか見られる図像だけ掲載します。うまく撮れなかった図像が1点あります。 テスカトリポカ ケツァルコアトル ウィツィロポチトリ トラルテクトリこのセクションの最後の展示は、小さな金製装飾品でした。ここでもうまく撮れなかったのがあります。本特別展のPRチラシに載る画像を切り出してみました。 これを併用します。図像に付記された英字の順でご紹介します。a 「人の心臓形ペンダント」 高さ2.9cm、幅1.7cm アステカ文明 1486~1502年 b「テスカトリポカ神とウィツィポチトリ神の笏形飾り」 高さ14.8cm、幅3.2cm アステカ文明 1486~1502年 c「トラルテクトリ神形飾り」 高さ8.6cm、幅5.3cm アステカ文明 1486~1502年d 「巻貝形ペンダント」 高さ2.9cm、幅3.3cm アステカ文明 1486~1502年e 「鈴形ペンダント」 高さ2cm、幅0.9cm アステカ文明 1486~1502年 f「耳飾り」 左:高さ8.3cm、幅4.2cm 右:高さ89cm、幅4.2cm アステカ文明 1486~1502年これらの金製品は近年、テンプロ・マヨール(大神殿)の3箇所の埋納石室から出土したもの。「最新発掘成果~金製品一挙公開~」だそうです。「テンプロ・マヨールを中心とする都の『聖域』では、これまで15.5%にあたる1.9ヘクタールの面積が調査されています。近年では68か所の埋納施設から10万点を越える遺物が出土し、特に金製品はメソアメリカでは珍しいものとして注目を集めています」(案内パネルの説明一部転記)古代メキシコ地域の発掘調査・研究は今なお着々と継続されています。新たな発見と古代メキシコの文明がさらに解明されることを期待したいものです。これで、特別展「古代メキシコ」の覚書を兼ねたご紹介を終わります。序でに国立国際美術館で眺めた彫刻2点をご紹介します。 地下2階の平常展示はクローズドでしたが、この作品だけ展示されていました。マーク・マンダース(1968- )作 「乾いた土の頭部」 2015-16傍の小さな掲示を見ずに、作品だけ眺めてそのトリッキーさに惑わされてしまいました。乾いた土頭部の表層が剥がれそうな脆さを感じさせる作品。美しい1/2の頭部。後で掲示文をみると、「ブロンズ、彩色」と明記されていました。おもしろい! 地下1階に戻って、眺めたのがこの彫刻です。ヘンリー・ムーア(1898-1987)作 「ナイフ・エッジ」 1961/76 ブロンズ側面からは眺めなかったのですが、意外と薄くてたいらだとか。刃物の切っ先に似ているところから、このタイトルが付いたと言います。ムーアの作品はそのフォルムに暖かみを感じます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺テンプロ・マヨール :ウィキペディアテンプロ・マヨール :「世界遺産オンラインガイド」Templo Mayor Museum ホームページTemplo Mayor at Tenochtitlan, the Coyolxauhqui Dtone, and an Olmec Mask :「Khan Academy」テスカトリポカ :ウィキペディアケツァルコアトル :ウィキペディアウィツィロポチトリ :ウィキペディアトラルテクトリ :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ
2024.04.27
コメント(2)
<Ⅲ-5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市>のセクションに入ります。 壁面には、チチェン・イツァの「エル・カスティーヨ」と呼ばれるピラミッドの大きな写真パネルが掲示してあります。斜めから撮りました。冒頭の地図では左側に小さな写真が載っています。線をたどると、この都市の中央に位置します。地図・右上の写真:左は「ツォンパントリ」、右は「大球技場」地図・同右下:左は「戦士の神殿」、中央は「金星の基壇」、右は「グラン・セノーテ」9世紀にマヤ文明の中心はユカタン半島の北部に移り、10世紀頃にはチチェン・イツァが、マヤ地域での最大の都市になります。(案内パネルの説明より)近年の考古データから1000~1100年頃に衰退したものと考えられているそうです。 「チチェン・イツァのアトランティス像」 石灰岩 高さ85.5cm、幅47.5cm マヤ文明 900~1100年 「王座の下に置かれた、両手で王座と王を支える人物像。チチェン・イツァでは身なりが異なる複数の像があり、宮廷の様々な人物を表すとみられる」(傍に掲示の説明文転記) 「トゥーラのアトランティス像」 玄武岩、彩色 高さ80cm、幅41cm マヤ文明 900~1100年こちらは、防具を着けた戦士の姿です。同様に王座の支えと考えられています。 「チャクモール像」 石灰岩 高さ94cm、幅105cm マヤ文明 900~1100年「腹の上に皿状のものを持つ石像であり、そこに神への捧げ物を置いたと解釈されている。チチェン・イツァとトゥーラから多く見つかり、両都市の関係を示す。その後、チャクモール像はアステカにも受け継がれた」(傍に掲示の説明文転記)チャクモールという名称は現代の研究者がつけた便宜的な呼び名であり、古代の名前はわかってはいないそうです。「15~16世紀のメキシコ中央部のチャクモールには、心臓の図が彫られたものもあるため、人身供犠の犠牲者から取り出された心臓を置くこともあったと考えられる。800年以前のマヤやメキシコ中央部にはチャクモールやそれに似た像は見つかっていないため、その起源も謎に包まれている」(図録の解説を一部転記)ようです。このチャクモール像の背景は、チチェン・イツァの「戦士の神殿」の大きな写真が壁面になっています。その神殿にチャクモール像が置かれているのが眺められます。 「イクの文字のペンダント」 ヒスイ 高さ16cm、幅18.5cm マヤ文明 600~1000年 壁面には、「グラン・セノーテ」の景色の写真パネルが展示されています。ペンダントは、このグラン・セノーテに投げ込まれていた供物のようです。「ペンダントの中央にマヤ語で風を意味し、かつ人の息、生命力、風の神、雨の神なども象徴するT字型の切り込み(イクの文字)がある」(傍に掲示の説明文転記)作品です。グラン・セノーテ出土の「カエル形装身具」(金銅合金製)、「鈴付き甲羅形ペンダント」(銅と金めっき製)の小品が展示されていましたが、写真がうまく撮れませんでした。 「サンダル」 銅と金めっき 長さ15.4cm、幅8.5cm マヤ文明 1200~1540年 このサンダルも上掲グラン・セノーテからの出土「実用か供物用かは不明だが、人身供犠の生贄が履いていた可能性も考えられる」(傍に掲示の説明文転記)そうです。 「モザイク円盤」 木、トルコ石、貝、サンゴ、黄鉄鉱、粘板岩 直径24.5cm マヤ文明 900~1000年 エル・カスティーヨの古い方のピラミッド内から出土「戦士が腰の後ろに着けた鏡の飾りである・・・・トゥーラの戦士の石像にも表現されており、両都市のつながりを示す」(傍に掲示の説明文転記)最後はいよいよ<アステカ文明>です。<Ⅳ-1 大国への道>というセクションから始まります。その最初に、 「メンドーサ絵文書(複製)」が展示されています。原品 1541年頃 洋紙 高さ35.5cm、幅25cm(閉じた状態)これは、スペインによる征服後の1541年頃、ヨーロッパ製の紙に先住者が記録し、スペイン語の書き込みが付け加えられた文書です。この文書に、テノチティトラン創設の場面が描かれているそうです。「岩に生えたウチワサボテンの上に鷲がとまる図像は、のちに訪れる王国の繁栄と共に、太陽神ウィツィロポチトリを表している」とか。(傍に掲示の説明文転記)そうです。 テノチティトランの案内パネルが掲示されています。 1325年頃、メキシコ盆地にあるテスココ湖に浮かぶ島に、メシーカ人が首都テノチティトランを築きました。やがて人口20万人以上の大都市へと成長したそうです。「メシーカ人は近隣の都市と同盟を結び、1430年頃にはアステカ王国として体制を整えます。征服により現在のメキシコとグアテマラ国境までを版図とし、その広大な領域支配における貢納制が王国の基盤となりました」(傍に掲示の説明文転記)スペイン人の到来と多くの都市がアステカ王国に反発しスペイン人に加担したことにより、1521年アステカ王国は首都が陥落し、滅亡に至ります。 テノティトランには「大神殿(テンブロ・マヨール)」が築かれました。Aのエリアが大神殿で、Bのエリアは「鷲の家」と称されています。 「男性像」 安山岩、貝 高さ62.5cm、幅21cm アステカ文明 1325~1521年「理想的な男性の躯体の美しさや、賢明さなどの倫理的な模範を表す。一般庶民(マセワリ)もしくは神の像であり、本来は布などの素材でできた装束をまとっていたとの説もある」(傍に掲示の説明文転記) 「マスク」と「耳飾り」「マスク」 貝、黒曜石、蛇紋岩 高さ22.5cm、 幅21.5cm テオティワカン文明 200~550年「耳飾り」 緑色岩 左:幅7.2cm 右:幅7.5cm アステカ文明 1469~1481年「テオティワカンの仮面に、メシーカ人が目や歯、耳飾りをつけるなど、手を加えたもの。彼らは過去の文明の遺物を掘り起こし、それらを魔術的な力をもつ聖なるものとみなし、大神殿に奉納していた」(傍に掲示の説明文転記) 展示室の中央に、「鷲の戦士像」が置かれています。一周して全体を眺めることができます。 土製 高さ170cm、幅118cm アステカ文明 1469~1486年上掲の大神殿平面図、鷲の家(B)のエリアの☆印のところから出土したとか。「戦闘や宗教に重要な役割を担った勇敢な軍人である鷲の戦士とみられる像。鷲の頭飾りを被り、羽毛や鈎爪の装束を身に着ける。勇ましく戦死して姿を変えた戦士の魂や、太陽神の姿を表すという説もある」(傍に掲示の説明文転記) 鷹の戦士像の背後の仕切り壁面に設置された大きな写真パネル。これは大神殿(テンブロ・マヨール)内に築かれたツォンパントリ(ドクロの基壇)です。もう一つの壁面にはこの大きな写真パネルが掲示されています。 画像処理を加えてみました。「太陽の石」と称されています。図録には載っていませんので、調べてみますと、「アステカの暦石」と称される事もあるようですが、暦の機能はなく、アステカの宇宙観、時間観、歴史観を表す石彫の造形物だそうです。(資料1)この石彫の造形物、考古学ではテマラカトゥルと呼ばれていて、「生贄の石」だとか。人身供犠の儀式に使われたようです。この石彫の表面から血液反応がみられ、赤と黄色を基調とした色素も発見されているそうです。それでは「Ⅳ-2 神々と儀礼のセクションに進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」20231. 太陽の石 :ウィキペディア補遺チチェン・イツァ :ウィキペディアCHICHEN ITZA :「マヤ遺跡探訪」チチェン・イツァ :「世界遺産オンラインガイド」マヤのピラミッドに科学のメス、謎を解明へ :「NATIONAL GEOGRAPHIC」アントニオ・デ・メンドーサ :ウィキペディアアステカ :ウィキペディアテンプロ・マヨール :ウィキペディアテンプロ・マヨール :「世界遺産オンラインガイド」戦士の神殿 :「4travel.com」【世界遺産】チチェン・イッツァ遺跡は見所満載!観光に役立つ豆知識とは?:「世界トリップ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.26
コメント(0)
「パカル王とみられる男性頭像(複製)」 漆喰 高さ40.8cm、幅20.6cm 原品 マヤ文明 620~683年頃<Ⅲ-4 パカル王と赤の女王 パレンケの黄金時代>のセクションの最初にこの複製頭像が展示されています。原品はパレンケの「碑文の神殿」のパカル王墓内で見つかったそうです。 会場に掲示されたパレンケの神殿配置図では、右に縦に2つ並ぶ建造物写真の上段が「碑文の神殿(パカル王墓)」です。実線をを辿ると位置がわかります。パレンケの最盛期は615~683年のキニチ・ハナーブ・パカル王の治世だそうです。「ジバンチェの侵攻により荒廃したパレンケの王位に12歳でついたパカルが、活発な建築活動にとりかかり、戦争と外交により周辺都市への影響力を取り戻すのは40代以降のことである。王宮の拡大に多くの労力を注ぎ、マヤ地域で最も壮麗な建造物の一つにした」(図録の解説文転記)パカル王は、マヤ人としては高齢の80歳で亡くなったと言います。 「96文字の石板」 石灰岩 高さ59cm、幅135cm マヤ文明 783年783年にキニチ・クック・バフラムの即位20周年を記念して彫られたものだそうです。 この碑文の模写図が掲示してあります。 「パレンケ王朝系譜」のパネルが掲示されています。中央の左の頭像がパカル王、右のマスクが赤の女王。バフラム王は系譜図の最下端です。 「デュペの石板」 石灰岩 高さ41.8cm、幅27.7cm マヤ文明 654年頃パレンケの王宮南部の「地下の建物」の完成を記録した石板で6つの石板の一つ。18世紀半ばにパレンケが発見された後、初期の探検家ギジェルモ・デュペが1807年に持ち帰ったことで、この名があると言います。 「葉の十字の神殿の南わき柱」 石灰岩 高さ174cm、幅34cm マヤ文明 692年「キニチ・カン・バフラムは、父の王墓である碑文の神殿ほか、パレンケの守護神を祀る十字グループと呼ばれる神殿群を築いた。本石彫はそのひとつ、葉の十字の神殿内、祠入り口のわき柱を飾った」(傍に掲示の説明文転記) 「太陽の神殿の北の石板」 石灰岩 高さ123cm、幅90cm マヤ文明 692年「太陽の神殿の祠にあった石板。中央の戦士はパカル王の息子キニチ・カン・バフラムとする説が強い。テオティワカンの嵐の神を表す胸のペンダントなど壮麗な装いは、トニナに勝利した祝いの祭礼における姿と考えられる」(傍に掲示の説明文転記) 「香炉台」 土器、彩色 高さ53cm、幅45cm マヤ文明 680~800年土器の香炉台はパレンケ特有のもので、キニチ・カン・バフラムの代に作られるようになったそうです。「マヤの儀式では、コーバルという木の樹脂から作られた香がさかんに焚かれたが、そのための石や土器で作られた香炉が、神殿や住居の内部やまわりに置かれた」(図録の解説転記)香炉自体が神を表し、この香炉台の人の顔はキニチ・カン・バフラムかもしれないとか。 「香炉台」 土器、彩色 高さ81cm、幅41.5cm マヤ文明 680~800年夜間に地下界に入った太陽の神が描かれていると考えられています。 「香炉台」 土器、彩色 高さ72cm、幅46cm マヤ文明 680~800年こちらは、マヤ神話において重要な役割をもつ鳥の神と考えられるそうです。 「キニチ・アフカルを表す文字」 漆喰 高さ13cm、幅15.5cm マヤ文明 722~742年西暦722年に即位したキニチ・アフカル・モ・ナフブの王名の前半部を示すそうです。ナフブ王はトニナに対して劣勢となったパレンケの栄華を取り戻すために、十字グループと称される神殿群の南に、新たに神殿群を造営したそうです。 「漆喰彫刻」 漆喰 高さ13cm、幅16cm マヤ文明 734年「キニチ・アフカル・モ・ナフブが造営した19号神殿の漆喰彫刻。マヤ神話のトウモロコシ神の子である英雄、フーン・アガウとみられる」(傍に掲示の説明文転記)この特別展のハイライトの一つは「レイナ・ロハ」の発見です。レイナ・ロハとは「赤の女王」という意味で、パカル王の妻、イシュ・ツァクブ・アハウ王妃と推定されています。赤の女王の展示室に行く前に、スクリーンの映像でのプレゼンテーションがあります。 その一つがこれ。「碑文の神殿(パカル王墓)」の西隣りに「13号神殿」があります。王と王妃は隣り合う神殿に埋葬されたのです。 1994年始めに13号神殿の考古学調査が実施されました。一枚岩の石棺の発掘調査で、深紅の辰砂(水銀朱)に覆われ、多くの装飾品を身に着けた女性の遺体が発見されたのです。遺体が辰砂で覆われていたことから、「赤の女王」と呼ばれるようになりました。状況証拠から、パカル王の王妃と考えられています。 そして、遺体に伴う副葬品の研究が進展し、この頭飾りに至るまでの復元が試みられました。 図録のカバー表紙の一つに使われているのが復元された「赤の女王のマスク」「赤の女王の冠」「赤の女王の首飾り」です。「赤の女王」展示室に進みましょう。赤の女王の墓室を模したした展示空間が演出されていましす。 展示室の中央に設置されたガラスケースに石棺内部の当初の状態が復元されています。赤の女王の足元と両側面の三方向から展示品を眺めることができました。 人骨等の研究から復元された赤の女王の生前の顔が頭部側に描かれいます。 「頭飾り」 ヒスイ輝石岩、貝、石灰岩 高さ19cm、幅15cm 「冠」 ヒスイ輝石岩 直径25cm「マスク」 孔雀石、ヒスイ輝石岩、黒曜石 高さ20cm、幅14cm「首飾り」 玉髄 長さ25cm「胸飾り」 ヒスイ輝石岩 高さ36cm、幅46cm 左肩の傍に「貝」が置かれ、その中に「小像」が見えます。「貝」 ウミギクガイの一種であるスポンディルス貝「小像」石灰岩 高さ6cm、幅2.3cm貝は、「原初の世界を想起させるものとして供えられたと考えられ、小像は、肉体が滅びた後でも女王の姿がわかるように、生前の姿をとどめおくためのものであったと思われる」(図録の説明より転記) 「小マスク」 緑玉髄、貝、黒曜石 高さ12.5cm、幅8.4cm左手の指先より少し下方に「小マスク」が置かれています。これは、腰のあたりに置かれた手斧の形をした石灰岩製の3枚の板の「ベルト飾り」とこの「小マスク」を合わせて、「ベルト」を構成するものと考えられています。左手の横に置くことにしたのには何らかの理由があったのでしょうね。石灰岩のベルト飾りは、各、高さ17.5cm、幅6.1cm。 「腕飾り」 緑色岩 各 高さ14.5cm、幅12cmこれは右手の腕飾りを撮りました。左手にも同様に腕飾りを着けています。部分図を撮り忘れたのがあります。左手の臂辺りに「針」が置かれています。 緑色岩 長さ11cm 「針は織り手をつかさどる神とつながりがあり、生殖力、若さ、健康を表すとされる。これらを赤の女王は来世で手に入れたいと願ったのかもしれない」(図録の解説転記)両足には「足首飾り」が着けられています。 ヒスイ 各直径1.5cm 特別展のPRチラシに載る「赤の女王」です。マヤ文明の最後の展示、<Ⅲ-5 チチェン・イツァ マヤ北部の国際都市>に進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺パレンケ :ウィキペディアPALENQUE :「マヤ遺跡探訪」古代都市パレンケと国立公園 :「世界遺産オンラインガイド」Tomb of the Re Queen From Wikippedia, the free wncyclopediaThe Red Queeen and Her Disters: Womenof Powerin Golden Kingdoms :「THE MET」Mystery Queen in the Maya Tomb :「NATIONAL GEOGRAPHIC」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.24
コメント(0)
「書記とみられる女性の土偶」 土製 高さ15.5cm、幅10cm マヤ文明 600~950年右手に文書を携えている表現から、女性の書記と考えられています。 「骨製品」 骨 マヤ文明 600~950年書記の使った筆の柄かと想定されているようです。<Ⅲ-2 マヤ世界に生きた人々>のセクションでは、いろいろな土偶と生活の道具が展示されています。「大規模な農地造成に向かない熱帯のマヤ低地では、都市と周辺部の境界があいまいでした。商業や工芸品制作などの経済活動は、都市の住民のみに集中せず、農民もある程度の石器づくりなどを行なっていたようです。 また、都市に住む上流階級の人々も政治や外交活動だけでなく、儀礼の執り行ないや公共建築の計画など多様な仕事に従事しました。例えばマヤ文字を書き残した書記は、文字の習得のほかにも、天体観測やそれに基づく暦の記録、彩色土器などの美術品の制作や音楽などにも優れていたようです。」(案内パネル転記) 「道化の土偶」 土製 高さ16.5cm、幅9cm マヤ文明 600~950年「太った男」と呼ばれるタイプの土偶。綿入れのような防具を着用していて、都市において儀礼的な格闘を行った道化師と推測されているそうです。 「織物をする女性の土偶」 土製 高さ16.5cm、幅10.3cm マヤ文明 600~950年機織りはマヤの女性にとり重要な仕事であり、女性の社会的地位や誇りと結びついていたと言います。大きな耳飾りと首飾りを着けていることから高位の女性と考えられています。 「紡錘車」 土製 左:直径3.3cm 右:直径2.9cm マヤ文明 年代不明 「紡錘」 木 長さ14.7cm マヤ文明 年代不明「このような紡錘車に木の棒などを通したものに、綿花の先端部をつけ、独楽(コマ)のように回しながら綿を引き延ばして、糸を撚った。・・・・紡錘車は王公貴族の住居からも出土しており、上流階級の女性も長い時間をかけて糸を紡いだと思われる」(図録の説明より) 「鹿狩りの皿」 土器、彩色 高さ10cm、直径31.6cm マヤ文明 600~700年マヤ地域で鹿は最も重要な狩猟対象であり、動物性タンパク源だったと言います。この皿には、周辺に鹿の頭飾りを被り吹き矢で狩猟する様子と、中央に仕留めた鹿を背負って運ぶ狩人が描かれています。「鹿の頭飾りは狩猟の際の偽装のほか、儀礼や戦争の際に支配者層が被ることもあり、何等かの象徴的な意味をもつと考えられる」(傍に掲示の説明文一部転記) 「押型」 土製 高さ9.2cm、幅3.5cm マヤ文明 600~950年 「押型」 土製 左:高さ2.8cm、幅4cm 右:高さ4.6cm、幅4.1cm マヤ文明 年代不明「赤や黒、白などの顔料が付着した例があり、布や皮膚に文様をつけるための道具と考えられるが、印(はんこ)のように紙などに使われた可能性もある」(傍に掲示の説明文転記) 「貴婦人の土偶」 土製、彩色 高さ21.6cm、幅10cm マヤ文明 600~950年マヤ・ブルー色のドレスで、儀礼か宮廷での謁見のための装束と思われるとか。大きな頭飾りを着けている頭部は、トウモロコシの実のように頭蓋変形し、トウモロコシ神に似せたものと考えられるそうです。 「戦士の土偶」 土製 高さ14.9cm、幅10.7cm マヤ文明 600~950年この姿は実戦向きではなく、都市で行われた儀礼的戦闘の闘士、あるいは儀式用の盛装をした戦士を表していると考えられています。 「捕虜かシャーマンの土偶」 土製 高さ28.8cm、幅14.9cm マヤ文明 600~950年帯を巻いた頭飾りは神官を表すとされますが、ヒスイではなく紙帯を耳のピアスの穴に通していることや、左手に巻かれた縄の表現から、高位の戦争捕虜の可能性があると考えられています。 「円筒形土器」 土器、彩色 高さ16.7cm、幅8.6cm マヤ文明 600~850年カカオ飲料に使われた土器。円筒形土器に上からカカオ飲料を徐々に垂らすことで泡立てて飲むことが好まれたそうです。<Ⅲ-3 都市の交流 交易と戦争>のセクションに移ります。「マヤ地域では各地で都市国家が群雄割拠し、盛んな交流が行われました。定期的な儀礼や王の即位の際には他の都市の王や貴族が訪問し、美しい彩色土器などを交換したり、貢物として食料を贈ったりしたようです。また、王朝間で婚姻関係を結ぶことも、重要な外交戦略のひとつでした。 戦争では位の高い人物を捕虜にすることが重視され、多くの場合、捕虜は生贄に捧げられました。マヤ低地南部では、ティカルの王朝と、ジバンチェとカラクムルを拠点とする王朝とが二大強国としてライバル関係にあり、多くの都市がその影響下にあったと考えられています」(案内パネルの転記) 「円筒形土器」 土器、彩色 高さ16cm、幅15.2cm マヤ文明 600~850年カカオの飲料用に使われたと思われる土器。宮殿での外交儀礼の場面が描かれています。動物の頭飾りを被り、体を黒く縫った人物は外交使節を表し、左の方に、出迎える側の人物が鳥の頭羽飾りを被っていると言います。 「道標」石灰岩 高さ30cm、幅11cm マヤ文明 600~800年パレンケの中心部と周辺の町をつなぐ道の開設を記念して建てられた石彫と考えられるもの。 「首飾」 貝、緑色岩 長さ132cm マヤ文明 250~1100年マヤ人は、ヒスイとウミギクカイを特に珍重したそうです。ヒスイはグァテマラ南東部のモタグア川流域でのみ産出され、ウミギクカイは太平洋沿岸で採取されるもの。それらが交易によりもたらされたのです。中央のペンダントはトウモロコシ神を表すそうです。 「神の顔形エキセントリック(両面加工石器)」 チャート 高さ31.7cm、幅26cm マヤ文明 711年頃金属を持たない古典期のマヤの人々は、黒曜石やチャートなどでナイフなどの実用の道具を作り、一方、祭祀具も制作しました。「4つの角にみられる人の顔のような造形は、世界の四隅を守る神の姿か」(傍に掲示の説明文転記) 「アラバスター容器」 アラバスター(トラバーチン) 高さ17.5cm、口径16cm マヤ文明 800~1530年炭酸カルシウムが層状に堆積した半透明のアラバスターで作られた容器。メソアメリカ各地で珍重されたと言います。 「猿の神とカカオの土器蓋」土器、彩色 高さ18.3cm、口径33cm マヤ文明 600~950年猿はカカオの果実が好物だそうです。この土器蓋には、猿の神が表され、首にカカオの実の装飾が見られます。カカオの主産地はメキシコのチアパス州からグァテマラにかけての太平洋岸です。カカオは飲料の他に通貨としても使われたそうです。 「トニナ石彫153」 砂岩 高さ73.5cm 幅55cm マヤ文明 708~721年マヤ地域南西の辺境トニナ出土。捕虜を描いた石彫です。トニナからは捕虜を描いた石彫が特に多く出土するそうです。好戦的傾向が強い地域だったようです。捕虜は服や装飾品を剥がされ、ピアスの穴には紙の帯を通されて縄で縛られました。捕虜は、さらし者にされたの人身供犠に捧げられたり、奴隷にされたりすることが多かったと言います。 「トニナ石彫171」 砂岩 高さ50cm、幅136cm マヤ文明 727年頃球技の場面を描いた石彫。中央のゴムボールの上に、マヤ文字で西暦727年にあたる年が記されているそうです。トニナのアクロポリス、水の宮殿出土。右がカラクルム王、左がトニナの王であり、両国の外交関係を象徴するものと考えられるとのこと。 「トニナ石彫171」に画像処理(色彩補正)を加えてみました。 「書記の石板」 石灰岩 高さ132cm、幅71cm マヤ文明 725年頃「耳に通された紙の帯は捕虜、左手の旗状のものや右手に掛けられた布は、儀式用の装束を表わすと考えられる。儀式を行なう捕虜か、捕虜のような姿で儀式を行なう神官とみられる」(傍に掲示の説明文転記)「書記の石板」という名称は、この人物の右手に持つものが筆のように見えることに由来するそうです。その解釈が適切かどうかは不明とのこと。 「書記の石板」に画像処理(色彩補正)を加えてみました。一隅で次のセクションへのスクリーン・プレゼンテーションが行われています。 <Ⅲ-4 パカル王と赤の女王 パレンケへの黄金時代>のセクションに進みます。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺Maya Civilization From Wikipedia, the free encyclopediaMaya script From Wikipedia, the free encyclopediaトニナ :ウィキペディアTONINA 1 :「マヤ遺跡探訪」TONINA 2 :「マヤ遺跡探訪」カカオ :ウィキペディアグァテマラ共和国 :「外務省」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.23
コメント(0)
昨日(4/22)、小さな庭に薔薇が一輪咲いていました。夜来の雨は、今朝止みかけていました。 薔薇を見ますと、花はうつむいて、 花びらは雨滴をまとっています。手元の本には、薔薇の花言葉がいろいろ出ています。(資料1)「わが心、君のみが知る」「照り映える容色」「愛」「愛らしい」「温かい心」「美」(黄色のばら)「尊敬」(白色のばら) 雨樋に蔓が巻き付いて二階の方に伸び広がっているジャスミンも、昨日咲き始めていました。 部分的に白い花を咲かせています。 4/8時点では、まだこんな感じだったのですが・・・・。 ジャスミンの小さな蕾一つひとつに、今朝は雨滴が留まっています。 一日のことですが、白い花がさらに広がっているように感じます。 ジャスミンの蕾に雨滴がひとやすみ。ジャスミン(Jasmine)は、「神様からの贈り物」という意味のペルシャ語「ヤーサマン(ヤースミーン)」が語源となっているそうです。淡いピンクの蕾から白い花が咲くハゴロモジャスミンは、羽衣伝説の「天の羽衣」をイメージして名前がつけられたとか。ハゴロモジャスミンの花言葉は「誘惑」「官能的な愛」「優しさを集めて」。「あなたは私のもの」という花言葉も。(資料2)手元の本は、「インドでは、恋人からジャスミンを贈られると、髪に編み込み、変わらぬ愛の印とするとか。『愛の花』と呼ばれるのはこのため」と述べ、花言葉を「愛らしさ」と記しています。(資料1) 玄関前の鉢にも、紫色の花、シランが咲き始めています。この和名は紫色の蘭に由来するそうです。この花もちょっとうつむいて・・・・・・。シランの花言葉は、「あなたを忘れない」「楽しい語らい・変わらぬ愛」「苦しむ勇気」だとか。(資料3)ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1. 『366日誕生花の本』 瀧井康勝著 日本ヴォーグ社2. ハゴロモジャスミンはどんな花? 特徴や花言葉、育て方について:「GARDEN STORY」3. シラン 花言葉 :「花言葉・誕生花」(HanaPrime)補遺ジャスミン :ウィキペディアジャスミンとカロライナジャスミン(有毒) :「東京都兼好安全研究センター)ジャスミンの香りと効能・使い方 :「AROMA SOMMELIER アロマソムリエ」シラン :「みんなの趣味の園芸」シラン 生薬の花 :「日本薬学会」テイカカズラ 生薬の花 :「日本薬学会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.23
コメント(0)
それでは、<Ⅲ マヤ 都市国家の興亡>に進みます。いよいよ<マヤ文明>です。冒頭の景色は、<Ⅰ 古代メキシコへのいざない>での、スクリーンによるプレゼンテーションで触れられたマヤ文明におけるパレンケに所在する「碑文の神殿」です。図録カバーの裏表紙にその神殿の部分拡大図が使われています。 「マヤ地域に、碑文や王墓を伴う王朝が明確に成立したのは、1世紀とされます。その後、250年から950年頃にかけて、ピラミッドなどの公共建築、集団祭祀、精緻な暦を特徴とする都市国家が花開きました。 熱帯低地のマヤ都市では食物の長期保存ができず、権力による経済の統制や、強力な軍隊の保有は困難でした。その代わりに、建築活動や集団祭祀による共同体の結びつきを維持することが重要視されました。祭祀空間を築き、暦に沿って祭祀を執り行なうことは、王の重要な役割であり、そうした王の功績を顕彰する碑文の存在が、王権のよりどころでした。 マヤ地域が政治的に統一されることはなく、交易や外交使節の往来などの友好的な交流、時には戦争による覇権争いを通じて、群雄割拠する都市国家が興亡を繰り返しました。」(掲示パネルの案内文転記)<マヤ文明>の展示は、<Ⅲ-1 世界観と知識>のセクションから始まります。 「星の記号の土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径35cm マヤ文明 700~830年頃「中央の十字形と4つの円か成る黒い記号は、金星などの星、尾を引く図像は流星と考えられる。メソアメリカでは、金星は太陽と月と並ぶ重要な星として崇められ、観測の対象とされた」(傍に掲示の説明文転記)マヤの人々は、天体の動きを観測し、精緻な暦を作成。都市の広場での集団祭祀や自然界に存在する聖なる場所で儀礼を行うことは、社会の秩序維持に必要なことと考えていたそうです。「地上から見えない期間を挟んで、明けの明星、宵の明星としての期間からなる金星の周期が584日であることが正確に記録された。 メソアメリカを通して金星は戦争、狩り、破壊などを象徴するものと考えられた。この金星の周期などと対応し、複数の男性神が金星に関連するものとして、マヤや他のメソアメリカの神話で語られる」(図録の解説一部転記)そうです。 「吹き矢を使う狩人の土器」 土器、彩色 高さ7.7cm、直径36.8cm マヤ文明 600~850年体を黒く塗った狩り神、あるいはその姿を真似た狩人を描いているそうです。マヤ人は現代に至るまで、粘土玉を詰めた吹き矢を、鳥を撃つために使ってきたとのこと。吹き矢の狩りは神話上の英雄の行為をなぞるものでもあったのです。 「夜空を描いた土器」 土器、彩色 高さ9cm、直径24.5cm マヤ文明 600~830年半分は中央に月を描いた夜空の様子。あとの半分の文様の意味は不明なのですが、夜行性の鳥の羽かと、推定されています。天体をモチーフにする図柄は多くみられるそうです。 「セイバの土器」 土器、彩色 高さ7cm、直径37.3cm マヤ文明 600~830年セイバは、熱帯雨林の中で高く真っ直ぐにそびえ、白っぽい色の幹をもつ木のことです。人々にとっては神聖な木を意味し、地下世界と地上の世界、天上界をつなぐものと考えられたそうです。 「金星周期と太陽暦を表す石彫」 高さ74cm、幅70.5cm マヤ文明 800~1000年この石彫は、チチェン・イツァの「金星の基壇」と呼ばれる建物を飾っていた彫刻です。「左側が金星、右側が太陽暦の年を表わしており、縦の棒が数字の5を、8つの丸印が8を意味する。584日の金星の周期5回分が、365日の太陽暦の8年分にあたることを示すと考えられる」(傍に掲示の説明文転記)この図のスタイルから、チチェン・イツァの人々が、メキシコ中央部の文化要素を取り入れていたことがわかるといいます。 「トニナ石彫159」 左岩 高さ58cm、幅73cm マヤ文明 799年頃「トニナの王8(名称不詳)に捕らえられたポボイの捕虜が描かれている。碑文には、戦いに長けた王8が多数の捕獲者という称号をもっていたこと、西暦799年に先祖の墓に火を入れる儀式を行なったことなどが記されている」(傍に掲示の説明文転記)マヤ人は、「先祖の墓を開け松明を持って入り、骨や副葬品を取り出したりすることがあった。それは祖先とのつながりを強め、現世の王の権威を確認する意味もあった」(図録より)とのこと。また、中央の捕獲された人物は、「チフの都の者の捕獲者」という称号を持つ高名な戦士だったそうで、マヤの戦争では高名な高位の人を捕虜にすることが重要だったようです。「捕らえられたポモイの人が、衣服を剥がされ、縄で縛られ、ヒスイの耳飾りの代わりに紙の帯を耳に付けられるという、辱められた姿で描かれている」とのこと。(図録より) こちらは次の <Ⅲ-2 マヤに生きた人々> のセクションの始まり。仕切りとなる壁面にこの図が描かれています。この壁面の前に展示されているのが、 「支配者層の土偶」 土製、彩色 高さ21.8cm 幅9.5cm マヤ文明 600~950年「大きな口を開けた蛇の冠を被り、壮麗な服を着て、円形の王座か椅子に座っている。このような豪奢な服装は、大きな祭祀の装いである。王ないしそれに次ぐ高位の男性を表した土偶であろう」(傍に掲示の説明文転記)左手に袋を持っています。コーバルと呼ばれる樹脂を使った香を入れているかもしれないと推定されてうます。(図録より)展示品を見ていると、壁面に映写されていくものがあるのに気づきました。それはマヤ文字の映写でした。 後で少し調べてみますと、左側の部分は点と棒により数字を表しているようです。下に数字が明示されていることと対応しています。マヤ数字は五進法的であると同時に二十進法的な位取り記数法のようです。(資料1)一方、右側の絵文字は「頭字体」(頭または横顔を描いた字体)と称するそうで、これも数字を表しています。頭字体では、13以降は10を表すあご骨がつくそうです。(資料2)マヤ文字解読のための試行錯誤の歴史は古いそうですが、1950年代になって黎明期を迎えたそうです。「旧ソ連の言語学者ユーリ・クロノゾフが、マヤ文字に日本語の仮名のような音節文字が存在することに気づき、またテキストの構造も、ちょうど漢字仮名交じり文のような、表語文字と音節文字の組み合わせである、と見抜いたのである。これによって神秘のマヤ文字の解読は確かな戦略を得た」(図録、p100より)と言います。現在では、「マヤ碑文学」が成立し、マヤ考古学は今、歴史考古学的な段階に入っているとこと。今後ますます、マヤ文明の実態が明らかになっていくようです。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」20231, マヤ数字 :ウィキペディア2. マヤ暦 :「地球ことば村」補遺マヤ文明 :ウィキペディア謎に彩られた古代文明・マヤ文明 :「THE PLANET」(Nikon)マヤ文字の神秘 :「モリサワ」マヤ文明の数字(マヤ数字)を生成する :「Qiita」マヤ文字 :ウィキペディアユーリー・クノロゾフ :ウィキペディアチチェン・イッツァ :ウィキペディアチチェン イッツァの魅力!見どころや歴史などを解説 :「NEWT」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.22
コメント(0)
朝、雨が降り始める前に撮りました。小さな庭に、ツツジが咲き始めました。 ツツジの左側の方に、3種の花が咲いています。画像検索で調べてみました。 ツルニチニチソウ チロリアンランプがこの2箇所だけに咲いています。ウィキペディアでは、ウキツリボクという名称で項目があり、園芸においてはチロリアンランプとも呼ばれると説明されています。 1本だけ咲いているこの花、イングリッシュ・ブルーベルのように思えます。花はどうして咲く時期がわかるのでしょう。素朴な疑問です。ご覧いただきありがとうございます。補遺ツルニチニチソウ :「みんなの趣味の園芸」アブチロン・チロリアンランプ :「川崎市総合教育センター」ウキツリボク :ウィキペディアイングリッシュ・ブルーベル :ウィキペディアイングリッシュ・ブルーベル :「After Gardening」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.21
コメント(2)
入口近くに展示のこの「鳥形土器」がまず目を惹きつけました。土器に奇妙な装飾片が付いています。発掘者は「奇妙なアヒル」と命名したそうです。ナルホドと感じます。 土器、貝、緑色岩 高さ24.5cm、幅35cm テオティワカン文明 250~550年城塞の西に位置する住居址内で発見された埋葬体の副葬品多くの貝製品と共に出土しており、メキシコ湾との交易を行う貝商人が住んでいた可能性を示唆するそうです。<Ⅱ-4 都市の広がりと多様性>と題した案内パネルと図録の解説によりますと、発掘調査により蓄積された考古学データからいくつかの事項が明らかになります。要点は次のとおり。*西暦200年頃までに三大ピラミッド、死者の大通りなど中心部が計画的に整備された。*その後、周辺部に多くは石造の集合住宅が建設された。その数は2000ほど。*窓がなく、多くの部屋の漆喰の壁に極彩色の壁画を飾るグループの住居群と、 都市の境界地区の壁画のない質素な住居群に住む集団との社会階層差が存在した。*土器、黒曜石、貝製品などを作る専門家集団の工房跡が発見されている。*オアハカやマヤなどからの移民集団居住区が発見されている。*国家に従事する戦士の存在。軍事力と国家統率力の強い多機能な国際都市だった。 「嵐の神の壁画」 土漆喰、鉱物顔料 高さ48cm、幅91cm テオティワカン文明 350~550年嵐の神が、トウモロコシを入れた籠を背負い、右手にトウモロコシを持ち、それを人々に与えている場面あるいは、トウモロコシの儀礼場面の描写と考えられているそうです。「口からの吹き出しは、言葉、歌、または儀礼の呪文と思われる」とか。テオティワカンの多くの建物-住居群、公共建造物、儀礼施設-が赤を中心とした多彩色の壁画で飾られ、都市空間を彩っていたそうです。 「嵐の神の屋根飾り」 土製、彩色 高さ69.5cm、幅55cm テオティワカン文明 250~550年大半の住民は、中央の中庭とそれを囲む四方の部屋というアパートメント式住居施設に住んでいました。中庭に面した四方の部屋の上部に、屋根飾りが設置されていたそうです。展示の屋根飾りは、頭飾りを被り、両手をかざした嵐の神を象っています。アステカ文明で「トラロク神」と呼ばれた嵐の神は、雨と農耕を司ったそうです。 「香炉」 土器、彩色 高さ57.9cm、幅40.4cm テオティワカン文明 350~550年香炉は、香を焚くくびれた胴部を持つ本体と、装飾片で飾られた蓋からなる土製の香炉台セットです。「本作は、鷲と蝶の図柄を中心に、矢と盾、鏡など戦士の装具がちりばめられ、死んだ戦士の鎮魂の儀式に使われたと思われる」(図録の解説より部分転記)装飾片は型造りで大量生産、香炉台は目的に応じて組み合わせを変えるという方法がとられたようです。 「香炉」 土器、彩色 高さ67.4cm、幅44cm テオティワカン文明 350~550年「香炉の多くは住居から出土し、祖先を祀る儀礼に用いられた。香炉を制作する工房跡が発見されており、国家が生産を管理していたとみられる」(展示品傍の案内転記)香炉台の工房跡は、城塞の北区で発見されているそうです。 蓋の中央部を切り出し、明るく画像処理してみました。「本作の中心となるメッセージを構成する蓋の中央にはマスクを貼りつけ、頭部には死んだ魂のメタファーである蝶や鷲、花、羽毛などで飾られた頭飾りを模し、向かって左側に弓矢の束と鏡、右側には盾と鏡、また胴部には『年の束(暦のサイクル)』と呼ばれる符号片が5つ並ぶ。死んだ戦士を弔う道具だったと考えられる」 (図録の解説より部分転記) 「マスク」 石灰岩、貝、黄鉄鉱 高さ17.5cm、幅15.8cm テオティワカン文明 350~550年テオティワカンのマスクは世界中の博物館などで550点ほど見つかっているそうです。このマスクは都市中心地区の工芸家区域で出土した数少ない事例の一つ。一部未完成か。制作直後で未使用のまま遺棄された可能性があるマスクだとか。「テオティワカンの特徴的な眼孔、鼻、口元の丁寧な加工がみられ、頬には象嵌予定であったと思われるくぼみがあり、使用痕のない耳と頭部の小穴はつなげて使用する意図を示唆している」(図録の解説より部分転記) 「盾を持つ小像」 土製、彩色 高さ14.8cm、幅17.9cm テオティワカン文明 450~550年テオティワカンの土偶は戦士像が圧倒的に多いそうです。しかし、副葬品としては出土しないとか。子どもの玩具だったかもしれないと言います。なお、本作は像の背面に支え棒がつけ加えてあるので、飾り用の可能性も考えられるそうです。 「人形骨壺」 土器、緑色岩、彩色 高さ34cm、幅21.2cm サポテカ文明 450~550年移民住民の地区で出土したもので、サポテカ族の制作品の特徴を示すことから、テオティワカンに持ち込まれたものが出土したと考えられているそうです。「おそらくテオティワカン住民と交雑したサポテカ血縁集団のリーダー、もしくは神格化した先祖、神を表わしたと推測される」(図録の解説より部分転記) 「三足土器」 土器、漆喰、鉱物顔料 高さ15cm、幅16.4cm テオティワカン文明 450~550年「典型的なテオティワカン様式の三足土器。心臓を抉られた生贄と、その心臓を挿したナイフを手に持つ神官もしくは戦士が描かれる。生贄儀礼は古代国家の最大の関心事であった」(展示品傍の案内転記) 「鏡の裏」 土製 直径26.5cm テオティワカン文明 450~550年黄鉄鉱の鏡の裏に貼り付けられた土製の円盤に描かれた図像です。羽を広げた鷲と円盤の中央に盾と、交差した投槍器が併せて描かれています。テオティワカンで初めて認識される歴史的人物を描いている可能性があるそうです。「マヤ文字解読によると、マヤ低地の中心センター、ティカル地域で記録されたテオティワカン王は『投槍フクロウ』と命名され、378年の『侵入』といわれるティカル征服を企て、のちに自身の息子をティカル王につけたと解釈されている」(図録の解説より部分転記)とのこと。この後、第Ⅲ部の<マヤ文明>のセクションに移ります。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺テオティワカン :ウィキペディアアトラトル :ウィキペディアアボリジニ文化体験 アトラトルを使った槍投げ − Spear Throwing at Rainforestation Nature Parkサポテカ文明 :ウィキペディア古代メキシコの都市形成史:世界の知的体系化と物質化 研究成果報告:「KAKEN」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.20
コメント(0)
第Ⅱ部はテオティワカン文明です。<Ⅱ テオティワカン 神々の都>というタイトルになっています。テオティワカン文明は、「前100年頃、メキシコ中央高原の海抜2,300mほどの盆地に興り、後550年頃まで栄え」、「約25K㎡の都市空間に、最大10万人ほどが住んでいたとされます。その民族、使われていた原語や文字などはわかっておらず、謎の多い文明です」(案内パネルより)テオティワカンは一大宗教都市だったと考えられているそうです。それ故、<神々の都>なのでしょう。この地図を部分拡大します。 死者の大通り(④)の北端に「月のピラミッド」(①)があり、この死者の大通りに面して、東側には「太陽のピラミッド」(②)と「羽毛の蛇ピラミッド」(③)が並んでいます。当時の人々の世界観がこの都市の中心地区に表れています。死者の大通りを中軸に建造物が整然と配置されているのです。「近年の調査により、最盛期にはメソアメリカのほぼ全域に影響力をもった国際都市であり、各地から人や物が集まる、活発な多民族国家の都であったことが明らかになりつつあります」(案内パネルより)第Ⅱ部の始まりは、<Ⅱ-1 太陽のピラミッド>です。 太陽のピラミッドこのセクションでは、壁面全体を使いこのピラミッドの景観写真パネルが設けてあります。観光客とピラミッドのスケール比を考慮しながら、写真パネルを眺めると迫力を感じます。「太陽のピラミッド」は、死者の大通りに面し、日没の方向にむいて建てられ、高さ64m。西暦200年頃の建設で、その後に増築されています。テオティワカンで最大の建造物。地下にトンネルがあり、最奥に王墓があったと推定され、王墓の上に建てられた神殿と考えられているようです。 真っ先にコレ! 「死者のディスク石彫(セキチョウ)」安山岩 赤い彩色痕 テオティワカン文明 300~550年1964年の発掘調査により、太陽のピラミッドの正面の「太陽の広場」から出土。中央の頭蓋骨は口から舌を出し、鼻の開いた穴にはナイフが差してあったとみられています。頭蓋骨の周辺には光が放射状に放たれるようなモチーフの装飾ディスクが彫り込まれています。メソアメリカでは日没は死、日の出は再生を意味するものとされました。地平線に沈んだ(死んだ)夜の太陽を象徴すると解釈されているそうです。 「マスク」緑色岩、黄鉄鉱 高さ10.8cm、幅11.2cm テオティワカン文明 150~250年ピラミッドの中心付近で出土。テオティワカンで確認されている最古のマスクだとか。瞳に黄鉄鉱が使われています。王墓に捧げられた奉納品と考えられるとか。 「頭飾りとペンダントを着けた小立像」 緑色岩 高さ16.2cm、幅5.1cm テオティワカン文明 150~250年この像、かつては耳飾りも着けていたとみられています。 「小立像」 緑色岩、貝、黄鉄鉱 高さ25.9cm、幅7.4cm テオティワカン文明 150~250年この二種の立像は、ピラミッドの中心付近で出土。儀礼品セットの中心付近に倒れた状態だったと言います。実在の高貴な人物、あるいは生贄となった人物を表すか? 同定するデータに欠けるそうです。 「火の老神石彫」 安山岩、彩色 高さ60cm、幅66cm テオティワカン文明 450~550年頭の上に火鉢を載せています。2012年に太陽のピラミッドの頂上部から出土。頂上部での火に関わる儀式で使われたとみられるそうです。同神の石彫は多くは住居群でみつかるとか。本作は最大で、通常使われない顔料も残っていたといいます。 太陽のピラミッドと死者の大通りの景観写真パネルがもう一つの壁面に展示されています。大型写真パネルは会場の雰囲気を大いに高めます。<Ⅱ 月のピラミッド>のセクションに進みます。月のピラミッドは地図の①のところです。太陽のピラミッドに続き、2番目に大きなピラミッド。「発掘調査により、このピラミッドは西暦100年頃に建設され、その後約50年おきに、一回り大きなものへと、6回の増築が行われたことが明らかになっています。増築時には生贄が豪華な副葬品とともに捧げられていて、その数は37人に及びます」(案内パネルより)付近での出土品から、このピラミッドが月や水などを象徴していたと考えられることから、この名称がついたようです。 月のピラミッドの前には、「月の広場」を囲む形で、小、中型の神殿ピラミッドが対称的に設置されています。月のピラミッドの頂点は、背後にそびえる聖なる山の頂上と重なる様に設計されていると言います。 「耳飾りを着けた女性立像」ヒズイ輝石岩、黄鉄鉱、貝 高さ30.6cm、幅11.4cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土 「首飾り」貝 長さ49cm、幅64.5cm(マウント) テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土 「立像」 黒曜石 高さ49.8cm、幅12.4cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓2出土月のピラミッドの埋葬墓2からは、両手を後ろで縛られた生贄1体とピューマやオオカミ、ヘビやワシなどの動物と、上掲3点他の副葬品が出土したのです。 「モザイク立像」蛇紋岩、ヒスイ輝石岩、貝、黄鉄鉱 テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓6出土 上:「蛇形エキセントリック(両面加工石器)」 黒曜石 高さ39cm、幅7cm下:「ナイフ形エキセントリック(両面加工石器)」 黒曜石 高さ45.6cm、幅8cmテオティワカン文明 200~250年 埋葬墓6出土蛇形は羽毛の蛇神、ナイフ形は嵐の神が持つ稲妻を示すと言います。 「錐(キリ)」ヒスイ輝石岩 上:長さ11cm、下:長さ9.6cm テオティワカン文明 200~250年 月のピラミッド 埋葬墓6出土「埋葬墓6の生贄2体の肩に刺さった状態で発見された。王や高位の神官が行う『放血』という自己犠牲の儀式を示すものか。素材のヒスイはグァテマラから運ばれたもの」(説明文転記)埋葬墓6からは、生贄12体が出土。上掲の副葬品は墓の中心部から出土したそうです。 「小坐像」 緑色岩 高さ6.1cm、幅3.5cm テオティワカン文明 250~300年 月のピラミッド 埋葬墓3出土 この墓には、異なった装飾品を着けた男性の生贄4体が並行に並べられていたそうです。「中央二人の陰部近くに、他の奉納品と共に置かれていた。・・・・神官を示す逆T字形の頭飾りと、取り外し式の耳飾りを着け、高貴な人物にのみ許される胡座の坐像は、生贄犠牲者に関わる王族メンバーを表しているのかもしれない」(図録説明より)とか。 「耳飾り、首飾り、ペンダント」ヒスイ輝石岩 テオティワカン文明 300~350年 耳飾り:(左)幅7.8cm、(右)7.5cm 首飾り:長さ47.5cm ペンダント:高さ4.5cm、幅10.8cm 月のピラミッド 埋葬墓5出土 埋葬墓5では、生贄3体が胡座の姿勢で発見されました。中央の中心人物がこの装飾品セットを身に着けていたそうです。展示品の説明文には、「3人の被葬者はテオティワカンの拡張期に争ったマヤの生贄だった可能性がある」とのこと。図録によると、このような装飾品セットは、マヤ圏ではマヤ王権のシンボルとして出土するそうです。<Ⅱ-3 羽毛の蛇ピラミッド>のセクションに進みます。 死者の大通りの南端で、通りに面して、一辺約400mの大儀式場「城塞」があり、その中心神殿が「羽毛の蛇のピラミッド」です。この大儀式場には都市の住民10万人を収容可能な規模だそうです。 このピラミッドの写真パネルに見える正面階段の両側の基壇部分がさらに拡大され展示室壁面を飾っています。壁面を飾る石彫の実物がこの写真パネルの前に展示されています。その一つが、 「シパクトリ神の頭飾り石彫」 安山岩、漆喰 高さ82cm、幅145cm テオティワカン文明 200~250年「シパクトリ」は時(暦)の始まりを象徴する創造神です。 「羽毛の蛇神石彫」 安山岩、漆喰 高さ61cm、長さ185cm テオティワカン文明 200~250年「羽毛の蛇神は天上界を治める太陽を、明けの明星として導く金星のシンボルであり、地上界においては民を治める聖なる王権の象徴とされる。羽毛の蛇ピラミッドは聖なる王権を誇示し、羽毛の蛇神により授与される戴冠式を表すメソアメリカの最初のモニュメントだった」そうです。 「指令棒(采配)」 木 長さ56.5cm、幅8.2cm テオティワカン文明 200~250年権力の象徴である羽毛の蛇神の頭部が彫られています。 「鼻飾り」緑色岩 上:高さ7.1cm、幅6.5cm 下:高さ6.5cm、幅7.8cm テオティワカン文明 200~250年上は、「ガラガエヘビの尻尾を象ったもので、高位の戦士か神官の象徴」下は、「シパクトリ神の頭飾りに付随するモチーフで、権力を象徴」 地下トンネルを描き加えたピラミッド図のパネルが展示されています。2003年には、羽毛の蛇神ピラミド下に地下トンネルが偶然発見されたと言います。地下トンネルの長さは103m、入口は垂直の穴で深さ15mに及び、水平にピラミッドの中心に向かっているそうです。内部が既に盗掘されていて、本来の機能は不明だとか。このトンネルの最奥部に王墓を備えていた可能性が高いそうです。 「立像」 緑色岩、黄鉄鉱 高さ50.5cm、幅20.5cm テオティワカン文明 200~250年 「立像」 緑色岩、黄鉄鉱 高さ36.5cm、幅14.8cm テオティワカン文明 200~250年この男性像は荷物を背負っている姿だったそうです。 「トランペット」 貝 高さ20.5cm、幅39.5cm テオティワカン文明 150~250年投槍器を持った人物が描かれています。 「トランペット」 貝 高さ23cm、幅40.5cm テオティワカン文明 150~250年ワニに似た神が描かれています。これらは、巻貝の先端を切り取り、吹き口とした楽器です。修験者が携えるホラ貝を連想しました。これらトランペットに描かれた図は、マヤ様式の図像に類似しているそうで、遠隔地との交流があった証拠になります。 「嵐の神の土器」 土器 高さ28.5cm、幅21cm テオティワカン文明 150~250年農業に欠かせない雨を司る嵐の神はテオティワカンでは最も重要な神のひとつです。水差し容器です。 「椀」 土器、漆喰、彩色 高さ10.8cm、口径43cm テオティワカン文明 200~250年「オレンジ色で、表面がよく磨かれた薄い容器は、テオティワカン南のブエブラ地域で生産され、市場での交換のために持ち込まれた」(展示説明を転記)上掲の立像から椀までの展示品は地下トンネルの最奥部から出土したものといいます。テオティワカン文明の展示の最後は、<Ⅱ-4 都市の広がりと多様性>というセクションです。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺古代都市テオティカワカン-太陽と月のピラミッドがそびえる神々の都市:「世界遺産ガイド」 テオティワカン :ウィキペディア太陽のピラミッド :ウィキペディア月のピラミッド :ウィキペディア月のピラミッド、太陽のピラミッド、死者の通り :「富山国際大学」太陽と月のピラミッド、テオティワカン 地球が見える2007年 :「JAXA」2993点の太陽のピラミッド :「gettyimages」 435点の月のピラミッド :「gettyimages」1191点の羽毛の蛇のピラミッド :「gettyimages」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -1 いざない へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.19
コメント(0)
大阪中之島美術館で「モネ -連作の情景」を鑑賞した後、久しぶりに美術館をハシゴしました。南隣りにある国立国際美術館で開催中の特別展「古代メキシコ」を続きに鑑賞してきました(4月12日)。 受付カウンターの近くのバナーエスカレーターで地下3階の会場まで下ります。 入口手前のバナー 入場券の半券共通に現れているものが古代メキシコで栄えた諸文明のシンボルになっています。 髑髏は「死のディスク石彫」と称され、<テオティワカン文明> 仮面は「赤の女王のマスク・冠・首飾り」と称され、<マヤ文明> 人物は「鷲の戦士像」と称され、<アステカ文明> 図録の表紙これは当日購入した図録のカバー表紙です。今回の図録のおもしろい点は、図録のカバーは、上掲の3つのシンボルのどれかを選択できるようになっています。私は、マヤ文明のマスクを選びました。 図録の裏表紙ここには、マヤ文明で築かれた「碑文の神殿(パカル王墓)」の景色が使われています。他のシンボルの図録裏表紙が何かは確かめていません。各文明の遺跡かなと想像していますが・・・。今回の図録、もう一つ今までの展覧会図録と異なる興味深い特徴があります。普通、図録の表紙は背の部分に展覧会の名称が記されています。今回はカバー表紙の背の部分には特別展の名称が記されているのですが、これを外すと、図録本体の背の部分は図録のページが綴じられた状態がそのまま見える形になっているのです。綴じ目がみえる形なので、図録の見開きページを完全に開ききることができる形になっています。見開きの2ページに跨がる写真は全体が見やすくなる利点があることに気づきました。さて、この特別展は全体が次の4部で構成されています。 Ⅰ 古代メキシコへのいざない Ⅱ テオティワカン 神々の都 Ⅲ マヤ 都市国家の興亡 Ⅳ アステカ テノチティトランの大神殿Ⅱ以下ではさらに展示内容がいくつかのセクションに区分されていきます。この特別展のうれしいいことは、会場内作品の撮影OKとなっていたことです。後で見ますと撮影に失敗した作品もありましたので、それらを除いたご紹介になります。展示会場の雰囲気などもご紹介できれば・・・・と思っています。それでは、「古代メキシコへのいざない」から始めましょう。 第Ⅰ部の案内パネルには案内文にこんな地図が付されています。今から13,000年以上前に、狩猟採集民がシベリアからアメリカ大陸に渡り、長い放浪を経て大陸を南下し、メキシコに到達しました。数千年かけてこの地の生態系に適応し農耕を基盤にした定住生活を営むように変化したそうです。そして多くの民族集団が形成されました。前1500年前にメキシコ湾岸部に興ったのが<オルメカ文明>。ほぼ同時期に、メキシコ中央高原やオアハカ地域にも中核的な集落が生まれ、都市が形成されていきます。<テオティワカン>、<マヤ>、<アステカ>はメキシコの古代都市文明の代表的な存在となるのです。地図の①はメキシコ湾岸部、②はメキシコ中央高原、③はオアハカ地域、④はマヤ低地、⑤はマヤ高地、⑥はメキシコ西部、⑦は太平洋南部地域、⑧はメソアメリカ南東部です。メソアメリカとは、「メキシコの大部分と中央アメリカのグァテマラ、ベリーズ、エルサルバドルおよびホンジュラス、ニカラグァ、コスタリカの一部を指す」領域で、16世紀のスペイン侵攻までは、この地域に様々な古代文明が栄えた文化史的領域を意味します。第Ⅰ部は、メソアメリカ最古の文明である<オルメカ文明>の出土品展示から始まります。 「オルメカ様式の石偶」 ヒスイ 高さ8.4cm、幅5.6cm 前1000~前400年小さな石偶です。「人とジャガーの特徴を併せもつとされる幼児の像」で、宗教的観念を表すものと考えられているそうです。 「マスク」土製・彩色 高さ9.6cm、幅16.9cm テオティワカン文明 350~550年テオティカワンの香炉台を飾った型づくりのマスク。鼻飾りと円形耳飾りが目立ちます。神官あるいは戦士を表すとか。 「貴人の土偶」土製・彩色 高さ27.2cm、幅10.5cm マヤ文明 600~950年この青色はマヤ・ブルーと呼ばれ、植物から採ったインディゴ(藍)とパルゴルスカイトという粘土を混ぜた顔料が使われています。ユカタン半島西岸のハイナ島は墓地として使われ、写実的な土偶が墓の副葬品として多く出土しているそうです。 「装飾ドクロ」 高さ15cm、幅14cm アステカ文明 1469~1481年「死者の世界の主」であるミクトランテクトリ神を表していると言います。「頭蓋骨を胴体から切り離し、前頭に毛を挿し込み。目のくぼみに貝殻と黄鉄鉱を嵌めたマスク」で、歯には生前に装飾的な加工が審美的な理由から施されていて、この頭蓋骨は20~30歳の成人男性のものとか。 展示の途中に、各文明が築いたピラミッド、神殿、王と王妃の墓などの壮大なモニュメントをスクリーン映像でプレゼンテーションする箇所があります。以降のセクションで、これらの景色が巨大な壁面パネルとして再登場します。展示会場の雰囲気を盛り上げる環境装飾になっています。それはちょっとした現地見学疑似体験となる大きさです。 「ジャガーの土器」 土器 マヤ文明 600~950年 高さ24.8cm、幅23.1cm ジャガーの頭部を象っています。ジャガーはアメリカ大陸では食物連鎖の頂点に位置するそうです。「メソアメリカでは、ジャガーは王や戦士の権威の象徴であり、神秘的な力をもつものとして崇拝された」「その一方、ジャガーは神への生贄として捧げられたり、その美しい毛皮のために狩られたりすることもあった」そうです。マヤ低地などの熱帯雨林がジャガーの主な生息域です。 「フクロウの土器」土器・彩色 マヤ文明 250~600年 高さ17.5cm、幅25.2cm 容器の蓋にフクロウの頭部が表されています。墓の副葬品。メソアメリカ全域に多様なフクロウが生息すると言います。「フクロウは、死者を予言する地下世界の使者と考えられた」 「クモザルの容器」アラバスター(トラバーチン)、黒曜石 高さ25cm、幅14.5cm 中央ベラクルス 950~1521年クモザルはメソアメリカの低地部に生息。「マヤ神話における猿は、神による創造の過程で、人間が作られる以前に、喋ったり神を崇めたりすることのできない失敗作として生まれ、森にととどまることになったとされる」マヤの神話で、クモザルは道化やいたずら者として表されているそうです。クモザルの目に黒曜石が嵌め込まれています。 「チコメコアトル神の火鉢(複製)」 土器・彩色 アステカ文明 1325~1521年メキシコ中央部の農民が最も崇拝した、熟したトウモロコシの女神で、その名は「7つ蛇」の意味だそうです。香炉です。手にはトウモロコシを二重にした形のセンマイトルという笏(シャク)を握っています。頭飾りは神殿の形をしていて巨大です。アマカリと呼ばれる飾りだそうです。 「メタテ(石皿)とマノ(石棒)」 玄武岩 テオティワカン文明 250~550年石皿:長さ27.6cm、幅18.1cm 石棒:長さ28cm、幅5.6cmトウモロコシの実を細かく挽き、すりつぶすための石皿と石棒です。現在も、トルティーヤを作るために同様の道具が使われているとのこと。 「暦の文字」 漆喰 高さ19cm、幅31cm マヤ文明 647年頃 パレンケの「パカル王が築いた『忘れられた神殿』の柱を飾った碑文の一部」で、「左側の数字が10、右側の文字が暦の20年の単位であるカトゥンを表わす」そうで、西暦647年3月5日にあたるそうです。これはそれぞれの数字関連する神の顔で表していると言います。 「夜空の石板」 安山岩 高さ54.5cm、幅29.2cm アステカ文明 1325~1521年 メキシコシティ出土「夜空を主題とする浮き彫りの石板。両脇には金星と星、中央にはワシと兵士が表されている。戦争や生贄で亡くなった兵士の魂は、太陽と共に天球上を旅しなければならなかった」 チェチェン・イツアにある「大球技場」の景色が壁面に掲げてあり、 「球技をする人の土偶」 土製・彩色 高さ12.7cm、幅12.4cm マヤ文明 600~950年帽子を被り、厚い防具を着け球技をする人の土偶です。主に腰を使って大きなゴムボールを打つ球技だそうで、王公貴族が重視したと言います。球技は戦争や人身供犠とも関連したそうです。 「ユーゴ(球技用防具)」 石 中央ベラクルス 600~950年腰につける防具。石製のものが実際に使われたのかは不明。石製は祭祀具で、実用品は木や革製という説もあるとか。 「ゴムボール」 ゴム 直径20.7cm マヨ族・現代のものゴムの木の樹液と熱帯朝顔の樹液を混ぜて作った中が空洞ではないボールです。腰で打ち合う球技の他に、グローヴやステックを用いるものなど様々で、球技場の形も異なるそうです。スポーツとしてだけでなく、人身供犠を伴う宗教儀礼や外交使節を迎える儀式として古くから行われてきたという説明パネルも掲示してあります。「人身供犠(ジンシンクギ)」については、次の説明パネルが掲示されています。「人間を生贄にする古代メキシコの慣習は『万物は神々の犠牲により存続しており、自らも他者のために犠牲を払うべき』という倫理観に基づくものでした。斬首や慎蔵の剥奪などの残虐な手法は、国家の覇権の誇示にも利用されました」 「シペ・トテック神の頭像」 玄武岩 高さ15cm、幅13cm アステカ文明 1325~1521年シペ・トテックとは「皮を剥がれた我らが主」という意味だそうです。「生贄となった人間の皮を身にまとった男性として表され」、「戦争とも関連づけられ、アステカの王たちは、戦争時はこの神に扮した」とか。 「テクバトル(儀礼用ナイフ)」 チャート、黒曜石 アステカ文明 1502~1520年左:高さ19.3cm、幅8cm 右:高さ12.8cm、幅5.8cm黒曜石は目を表していて、擬人化したものとみられるとか。 「歯状ナイフ」 チャート 長さ39cm、幅6.9cm アステカ文明 1469~1481年これらは生贄用のチャート製ナイフですが、埋納石室から出土したもので、使われた痕跡はなく儀礼用です。古代メキシコの様々な文明をいざないとして紹介した後、いよいよ各文明の展示セクションに導かれていきます。最初は、テオティワカン文明です。つづく参照資料*特別展会場に掲示のパネルや説明文*図録「特別展 古代メキシコ -マヤ、アステカ、テオティカワン」2023補遺メソアメリカ :ウィキペディアオルメカ :ウィキペディアチョコレートの始まり(メソアメリカ文明) :「日本チョコレート・ココア協会」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -2 テオティワカン(1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -3 テオティワカン(2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -4 マヤ (1) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -5 マヤ (2) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -6 マヤ (3) へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -7 マヤ(4) & アステカ(1)へ観照 大阪・国立国際美術館 特別展「古代メキシコ」 -8 アステカ(2)へ
2024.04.18
コメント(0)
総門を入ると、右側に「放生池」があります。参道を進み、右折すると「三門」前に至ります。その三門の前に放生池があります。総門を入り、すぐ右に進めば、放生池の西辺です。池をはさみ、東に三門が見えます。北西隅に見えるのが、下段の石碑です。「水廊 山□放光」(第2字私には判読できません) 日曜日(4/14)に東宇治図書館に行った続きに、萬福寺の放生池に立ち寄りました。池の西辺、築地塀沿いに咲く桜は既に葉桜になりつつあります。なごりの桜をしばし眺めてきました。来訪者はちらほらで、静かでした。 池の西辺から三門を眺めても、桜の木々が少しなごりを留めるくらいです。 池の西辺と築地塀との間に設けられた小川の流れ 池の南辺に回り込み、北を眺めた景色。左端に総門が見えます。白壁の建物は「看門寮」という木札が掛けられた建物です。その名称から想像すると、門衛所という意味合いでしょうか。この建物の背後の左端手前に見えるのが、上掲の石碑です。咲く桜はわずかに・・・。黄檗霊園のある丘陵地が背景となっています。ツツジの咲く時期が良い所です。 池の東辺から西方向の眺め 池の東辺を南側から眺めて。桜、さくら、なごり惜し。 三門は三間三戸、重層の楼門造りです(重文)。 大棟の中央に火焔付宝珠 降棟の鬼瓦 稚児棟の鬼瓦 二層目の正面に隠元禅師の書による「黄檗山」の扁額が掲げられ、一層目の中央の扉の上部に隠元書「萬福寺」の扁額が掲げてあります。 三門前から総門へ戻る参道の曲がり角あたり。こちらが本来の参道です。ご注目いただきたいのは、平石を敷き詰めた参道ではありません。正方形の平石が菱形に敷かれてていて、両側を角柱状の石が一列に敷き詰められています。「石條」(せきじょう)と称するそうです。この形式は、龍の背の鱗をモチーフにしたデザイン。萬福寺の伽藍全体が龍をモチーフにした形でもあるそうです。石條(参道)は龍の体の一部。総門の外側、道路を挟んだ西側には、「龍目井」が二つあります。龍の左右の目に喩えられた井戸です。 総門を入った後の参道に戻って目に止まったのが、この「石條」の左(北)側に咲き誇る1本の木です。 八重桜が満開に近く、咲き誇っていました。この放生池の周辺では紅一点という感じになりつつあるところです。時をずらして花開くのはいいですね。華やかさがよみがえります。 なごりの桜から満開の頃を想像するだけで終わらずに、咲き誇る八重桜を楽しめたのがラッキーでした。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*境内散策 :「萬福寺」補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページヤエザクラ :ウィキペディア八重桜の種類図鑑 :「Green Snap STORE」 牡丹桜との違いや品種ごとの違いや香り、開花時期は?(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺の桜 -1 墓地と駐車場の桜 3回のシリーズでご紹介 2023年4月スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 14回のシリーズでご紹介 2022年1月探訪 宇治市 黄檗山萬福寺とその周辺を巡る -1 宇治川岸から萬福寺総門前 7回のシリーズでご紹介 2022年4月探訪 宇治 黄檗山萬福寺 -1 霊園のツツジ、北向地蔵尊、宝蔵国師開山塔と諸石塔 2回のシリーズでご紹介 2021年5月
2024.04.17
コメント(2)
昨年初めて大阪中之島美術館を訪れた時は、京阪電車中之島線の「渡辺橋」駅で下車して美術館に向かう際、この位置と視点から美術館の建物を眺めるということがありませんでした。 建物の手前まで真っ直ぐに行き、この階段傍の美術館名表示を見て、階段を上がって建物の広場の傍に置かれた ヤノベケンジ作「シップス・キャット(ミューズ)を眺め、芝生の広場の野外展示を眺めて、美術館の入口に向かいました。そのため、この広場に続く館内のフロアーを1階と錯覚してしまったのです。実は2階です。今回は広場に野外展示はなく、芝生が広がるだけでした。 展覧会場へはエスカレーターで一気にあがります。ただし、2階から4階へはこの真っ直ぐなエレベーターで4階まで吹抜の空間を上昇します。4階で5階へのエレベータに乗り換えです。この吹抜空間がビルとしては実に開放感があって良い。ゆったりと、ゆとりの空間という感じです。 5階の展示室を巡って、出口から出ますと、4階への緩やかな階段があります。この階段から見えるのがこれです。 4階と5階の一部が吹抜の空間になっていて、この巨大な像が4階のフロアーに置かれています。ヤノベケンジ作「ジャイアント・トらやん」全長約7mあるそうです。北加賀屋にあるMASKから2022年冬、開館前にこちらに引っ越した作品です。(資料1)4階から2階へは降りのエスカレータで一気に下へ。 2階の一隅に、モネ展の大きな案内パネルが設置されていました。 2023.11.24エスカレータの設置された吹抜の空間は、1階への幅の広い階段が設置されたエリアに連なり、そこはさらに1階までの吹抜の空間になっています。 2階の東側の通路を南に進みます。建物の南東角、ガラス壁面越しに眺めた景色。ここ、かなり広いスペースになっています。「多目的スペース」として位置づけられています。 振り返ってみた2階フロアーの景色。正面に見える立方体の反対側(北面)にエレベーターが設置されています。 南側のガラスウォールに近づいて、国立国際美術館と大阪市立科学館を眺めた景色余談ですが、2023年11月に初めて訪れた時には、 仮設の個展ギャラリーとして利用されていました。 2023.11.24吹抜空間に戻り、1階への階段を下ります。 1階の中央部の西側に「ホール」が設けてあります。壁面にHALLの表示。まずは南に進みましょう。 バリー・フラナガン作「ボウラー」(1990年)というブロンズ像が置かれています。 通路の先は、1階の南の出入口です。左(東)側は、ショップエリアです。後でご紹介。 それでは、逆に北方向に進みましょう。 1階の北側の出入口 北の出入口から外に出ますと、すぐ右(東)側には、堂島川に架かる田簔橋に向かう道路への通路になっています。 左(西)側は駐車場です。この駐車場の上が、芝生の広場になっているのです。美術館の正面側からみれば、外観の一見は階段で丘に上がれば芝生の広場があるという景観に見えます。 建物の東側に出てみました。 美術館の東側の道路傍から眺めると建物の1階東面はこんな景色です。北と南のショップエリアの間に、東側の出入口があります。 南のショップエリアは、「HAY OSAKA」というデンマーク系インテリアプロダクトブランドのお店。 1階の東側、歩道に面して手前(北側)のショップエリアは、カフェレストラン「ミュゼカラト」があります。2階のエリアに連接する歩道橋からテラス席を撮ってみました。併せて、美術館の東側面の景観がおわかりいただけるでしょう。 歩道橋を渡辺橋駅の方向(東)に渡って、道路の東側から撮った景色 1本の桜の木が満開でした。「モネ -連作の情景」を鑑賞し美術館内を巡ってみた後、展覧会のハシゴをしました。国立国際美術館で開催の特別展「古代メキシコ」に立ち寄りました。次回はこちらをご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*施設案内 :「大阪中之島美術館」1. 【開館まで残り15日!】 :「大阪中之島美術館」補遺大阪中之島美術館 ホームページYANOBE KENJI ホームページMASK [MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA] ホームページ (おおさか創造千鳥財団)バリー・フラナガン :ウィキペディアThe Estate of BARRY FLANAGAN ホームページ(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -1 「モネ -連作の情景」 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照&探訪 大阪中之島美術館・特別展「生誕270年 長沢芦雪」-1 外観と芝生広場 3回のシリーズでご紹介
2024.04.16
コメント(0)
先週の金曜日(4/12)に大阪中之島美術館に出かけてきました。「モネ -連作の情景」を鑑賞するために。 展覧会は5階の展示室。2階から一直線のエスカレーターで一気に上ります。 これはモネの展覧会のPRチラシ。2つ折のA4サイズ。掲載の絵を後で引用します。 前売り券を事前に購入していました。上掲チラシの表紙と同じ絵が使われています。この絵は、「3章 テーマへの集中」と題するセクションに展示されている「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」(1883年、メトロポリタン美術館蔵)と題する絵です。チラシの絵は原画と比べると右側が少しカットされています。入場券ではさらに右側がカットされた絵になっています。波が激しく湧き立ち、トンネル状の岩に砕け散り、岩の内側に光が当たっている様子のポイントを感じるのに支障はありません。この絵では、岩の上部がカットされた構図です。一方、この絵の右隣りには、同じ場所がトンネル状の岩の上部を描きこみ、横方向を更にカットした縦長の構図で描かれた「エトルタのラ・マンヌポルト」(1886年、メトロポリタン美術館蔵)が展示されていました。一方、「ラ・マンヌポルト(エトルタ)」の左側には、「アヴァルの門」(1886年、島根県立美術館蔵)と題する同じエトルタの近くで描かれた絵が展示されています。これもひとつの連作なのかもしれません。展示は5章構成になっています。 一部の絵について撮影OKでした。 1章 印象派以前のモネ 2章 印象派の画家、モネ 3章 テーマへの集中 4章 連作の画家、モネ 5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭<1章 印象派以前のモネ>画塾で学んだモネは他の画家と同様に、サロン(官展)に入選して成功することを目標としていました。1865年に2点の海景画が入選しデビューを果たしたと言います。このセクションには、印象派としての絵を本格的に描き出す以前の初期作品が展示されています。 PRチラシから引用「昼食」(1868-69年、シュテーデル美術館蔵)と題するこの絵はサロンに落選した作品だそうです。伝統的な手法による絵だなと思います。1章に展示されている作品の中では一番サイズが大きい絵(231.5×151.5cm)です。展示されていた風景画には明るさを感じました。<2章 印象派の画家、モネ> 1870年代~80年代にモネはパリ北西のアルジャントゥイユで暮らしはじめ、セーヌ川流域を拠点に、各地を訪れて絵を描いたそうです。 PRチラシから引用この「モネのアトリエ舟」(1874年、クレラー=ミュラー美術館蔵)と、その隣りに「アトリエ舟」(1876年、ヌシャルテル美術歴史博物館蔵)が並べて展示されています。前者はアルジャントゥイユで描かれた作品です。このセクションでは、「ヴェトゥイユ」(1880年頃、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)、「ヴェトゥイユの春」(1880年、ボイマンス・ファン・ペーニンゲン美術館蔵)、「ヴェルノンの眺め」(1886年、クライスラー美術館蔵)が印象に残りました。<3章 テーマへの集中>最初にノルマンディー地方のエトルタで描いた作品に触れました。このセクションには、同じノルマンディー地方のブールヴィルで描いた作品が5点、その中にブールヴィルの断崖と海を描いた作品が4点展示されています。モネは「人影のない海岸など原初的な自然の風景を好んで描いた」(図録説明より)そうです。同じ風景の遠景あるいは近景を描き、太陽の光が生み出す断崖の変化、空の色や雲の変化、海の波の変化と印象をモネの目に映った情景として様々に描いています。中でも「プールヴィルの崖、朝」(1897年、福田美術館蔵)はまさに印象的風景という作品です。 PRチラシから引用これはイタリアのリゾート地、避寒地のボルディゲラで描かれた「ヴェンティミーリアの眺め」(1884年、グラスゴー・ライフ・ミュージアム蔵)です。この地で描かれた作品ではこの1点だけが展示されています。モネはパリとは違う地中海の明るい色彩や輝く太陽の光の違いなどを描くのに苦労したとか。モネはそのことをジヴェルニーで待つアリスに書き送っているそうです。(図録の解説より)<4章 連作の画家、モネ>1883年春、モネは42歳の時にセーヌ川流域のジヴェルニーに移り住みます。そこはヴェトゥイユの下流に位置します。このジヴェルニーがモネの終の棲家となります。積みわらはジヴェルニーの秋の風物詩。この積みわらの景色がモネにとって体系的に「連作」の手法を実現する契機となったと言います。(図録の解説より) 「ジヴェルニーの積みわら」(1884年、ポーラ美術館蔵) 「積みわら、雪の効果」(1891年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)この2点はチラシからの引用です。積みわらの作品は4点展示されています。1884年の作品が当初のもので。積みわらの光景をそのまま描いていますが、陽光を受けて変化する積みわらの光と影の描写が連作として変化していき、抽象化された積みわらに行き着きます。4点の展示ですが、作品の変貌が味わえます。 これは当日購入した図録の裏表紙です。「チャリング・クロス橋、テムズ川」(1903年、リヨン美術館蔵)の部分図が使われています。この隣には連作として「テムズ川のチャリング・クロス橋」(1903年、吉野石膏コレクション蔵)が展示されています。尚、図録の解説によれば、チャリング・クロス橋の連作は34点が知られているそうです。このセクションには、 撮影OKの箇所があります。ウォータールー橋を描いた連作の展示箇所です。 「ウォータールー橋、曇り」(1900年、ヒューレイン・ギャラリー蔵) 「ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー) 「ウォータールー橋、ロンドン、日没」(1904年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)この連作も積みわらと同様に、ウォータールー橋の風景という要素はどんどん捨象されていき、日没の橋そのものの光と印象に絞りこまれていきます。<5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭> このセクションの最後の展示室は出口の手前で、多角形の広場風になっていて、特定の作品を除き撮影OKです。展示室両側を部分的に撮ってみました。 「芍薬」(1887年、ジュネーヴ美術歴史博物館蔵) 「睡蓮」(1897-98年頃、ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵) この作品の部分図が、購入した図録の表紙に使われています。CLAUDE MONETの文字が表紙に均等に配され、右下に展覧会のタイトルが小さな押さえとなっていますPRチラシの表紙の一面にもこの部分図が使われています。 「睡蓮」(1907年、石橋財団アーティゾン美術館蔵) 「睡蓮」(1914-17年、群馬県立近代美術館蔵) 「睡蓮、柳の反影」(1916-19年、北九州市立美術館蔵) 「睡蓮の池」(1918年頃、ハッソ・プラットナー・コレクション蔵) 「藤の習作」(1919-20年、ドゥルー美術歴史博物館蔵)モネは、ジヴェルニーの自宅敷地に、「花の庭」と「水の庭」を整備し、「水の庭」で睡蓮を栽培し、1890年代後半からは300点もの<睡蓮>に取り組んだそうです。「池には日本風の太鼓橋を架けて藤棚をのせ、アヤメやカキツバタを植えた」(図録の解説より)のです。上掲の作品はこの庭の草花の絵ですね。ジヴェルニーの庭、訪れてみたいなあ・・・・・・。1840年パリ生まれのクロード・モネは、1926年、ジヴェルニーで86歳の生涯を閉じました。「今日、モネは印象主義の創始者として、また抽象美術の祖としても国際的に功績が認められている」(図録の解説より)展覧会場を出た後、この美術館そのものに目を向けてみることに・・・・。初めてこの美術館を訪れた時に、錯覚していたことや見落としていたことがあったからです。展覧会の続きに、この美術館の再探訪をしてみました。つづく補遺クロード・モネ :ウィキペディアClaude Monet From Wikipedia, the free encyclopediaクロード・モネとは? :「This is Media」 代表作「睡蓮」などの有名絵画と生涯を分かりやすく解説!クロード・モネ :「美術手帖」Claude Monet (1840ー1926) :「THE MET」(The Metropolitan Museum of Art)印象・日の出 :ウィキペディアコレクション クロード・モネ :「ポーラ美術館」睡蓮 クロード・モネ :「国立西洋美術館」GIVERNY:ジヴェルニー、モネの庭園 :「O'bon Paris」ジヴェルニー :「BonNoyage.jp」ジヴェルニー :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪中之島美術館 -2 館内を巡る & 外観 へ
2024.04.15
コメント(0)
今朝、玄関へのアプローチの傍のプランターにポピーが咲いていることに気づきました。9282 この品種、ガーデニング用のシャーレーポピーだそうです。花言葉は「いたわり」「思いやり」「恋の予感」「陽気で優しい」などとか。(資料1) 2024.4.12アザレアは満開になりました。 道路側、南から今朝、小枝を3本切り取り、仏壇への供花にしました。咲き誇っていたアーマンディはもうほとんで枯れてしまいました。小さな庭にも、日々変化が生まれています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.ポピーってどんな花? 色・品種ごとに異なる花言葉や育て方をご紹介 :「GARDEN STORY」補遺ポピーの育て方 :「dinos」ポピーの仲間 :「JATAFF」(農林水産・食品産業技術振興協会)アザレア :「みんなの趣味の園芸」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.13
コメント(0)
伏見桃山陵の南の傾斜地に「乃木神社」があります。最寄りの駅は、JR奈良線「桃山」駅。近鉄京都線の「桃山御陵前」駅がJRの桃山駅から西方向500m位に位置します。一方、伏見桃山陵に一番近いのは京阪電車宇治線「桃山南口」駅だと思います。JR桃山駅からは東方向になります。 神社の門を入ると、参道の左側の桜が満開でした。最近になって、「桜狩」という言葉を知りました。紅葉狩という言葉は以前から知っていたのですが、桜は花見という言葉と直結していますので、それ以上に考えたことがなかったのです。辞書を引くと、「桜」の項に「桜狩」が併記され、「桜の花を観賞して山野を歩くこと」(『新明解国語辞典』三省堂)と説明されています。伏見桃山陵はかつて豊臣秀吉が建てた伏見城のあった山の上にありますので、桜狩と言ってもおかしくはないでしょう。歳時記を調べてみますと、「花見」と同様に「桜狩」も季語として載っていました。 乃木神社は乃木希典を祀る神社。この胸像の台座正面には「学習院長時代の乃木将軍」と刻されています。「乃木希典大将夫妻を神として祀るということ」と題した案内板が門の近くに設置されていますので、正確にはご夫妻が祀られている神社です。1916(大正5)年9月の創建。伏見城(1595~1616)があった頃には、板倉周防守の屋敷跡だったところだそうです。(案内板より)今回は境内の桜を眺めることを主体にしてご紹介します。10日の午後に訪れたとき他の参拝者はなし。境内の静けさと桜を満喫できました。 参道を拝殿向かって歩むと、左側に「長府乃木邸」(旧邸)と傍の桜の木が見えます。室内にかつての様子を再現した家族の塑像が置かれていますが、塑像修復作業中の掲示が出ていました。 拝殿への途中の参道両側に巨大な石灯籠、拝殿手前に狛犬像が設置されています。 拝殿前左側に「乃木の名水 勝水」(御神水)が水を湛えています。龍頭の口が水を注いでいます。ここでも龍に出会いました。 境内の桜を眺めた後、伏見桃山陵に向かいます。神社前の道路を北方向に進めば、御陵内の脇道からメインの参道に入ることができます。 御陵の参道この参道の景色の少し手前、右側に、 駒札「伏見城に使用されていたと思われる石材 宮内庁」が設置され、石材が保存されています。 「明治天皇陵」の正面の景色 この陵内の右側に、1箇所だけ桜の木が見え、満開でした。 後は、御陵正面の少し急な石段参道の途中に桜の木をもう1箇所眺めることができました。 石段参道を下る途中で見上げた桜。乃木神社前の道から御陵内に入らずに、手前で交差する御陵の南側沿いの道路に右折して歩めば、この急な石段参道の入口に行くことができます。石段道を下り、この道路に出て、左折し道沿いに坂道を下ればJR奈良線が見えます。高架下を通り過ぎ、左折して線路沿いの道を進み、山科川に向かいます。 JR奈良線の軌道側壁のコンクリート壁面に、今では埋め込まれているかのように石灯籠が残されています。その傍に「伏見城御舟入址」と題した駒札が設置されています。伏見城を築く為に、宇治川を北に迂回させる大土木工事を行い、宇治川と山科川の合流点に御舟入(河港)が設けられました。この辺りが、その御舟入の北崖になるようです。(駒札より)近くに見える住所表示は伏見区桃山町新町です。この辺りから南に舟入があったのでしょう。今は南方向全域が住宅地になっています。 山科川(上流側)の景色 桜並木の背後は、小栗栖中学校と小栗栖市営住宅がある辺りだと思います。京阪電車とJR両線の「六地蔵」駅の北方向、山科川右岸(西側)沿いに「MOMOテラス」というショッピングセンターがあり、この傍から右岸堤防の上流方向に桜並木があります。そこから、上流側を眺めた景色です。 右岸の下流側の桜を眺めます。対岸に見えるのは「六地蔵総合病院」です。 ショッピングセンターを訪れる人々に慣れているのか、すぐ傍にいても鳩は飛び去ろうとはしません。 右岸の堤防道沿いに下流に向かえば、京阪電車宇治線の六地蔵駅が最寄駅になります。JR奈良線の六地蔵駅は、山科川の橋を渡った先になります。 堤防にはこの黄色い花が咲き始めました。ネットで画像検索してみますと、セイヨウカラシナのようです。(間違っているかもしれません・・・)これで終わります。ご覧いただきありがとうございます。補遺伏見桃山 乃木神社 ホームページ明治天皇伏見桃山陵 :「宮内庁」伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見桃山陵 :ウィキペディア伏見城 :ウィキペディア伏見桃山時代とは :「伏見観光協会」今はなき伏見城の跡を行く :「京都歴史ウォーク」(京都史跡ガイドボランティア協会)山科川 :「AGUA」セイヨウカラシナとは?特徴・見分け方や食用としての食べ方をご紹介! :「BOTANICA」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて探訪 京都・伏見 伏見城址周辺 -2 桃山御陵(明治天皇陵・昭憲皇太后陵)
2024.04.13
コメント(2)
雨上がりの今朝(4/9)撮ったアザレアです。五分咲きを越えたくらいでしょうか。道路から玄関口へのアピローチの角、キンモクセイの木の根元。細長い小さな花壇の南端で、これまでボケの花が咲き誇っていた所です。まだ少し咲くボケの花の上を覆うようにして、アザレアの花が開いています。 集まって花開いている箇所 4/4には、蕾を付けたアザレアが目に止まるくらいの状態でした。 アザレアの下に、ボケが咲いています。 4/6には、花が開き始めました。 4/7に撮りました。 4/8に撮りました。 アザレアの花言葉は、いろいろと数多くあるようですね。(資料1)「あなたに愛されて幸せ」「青春の喜び」「恋の喜び」「満ち足りた心」「節度の愛」「節制」「充足」「禁酒」 2024.4.7玄関の傍の鉢植えにはレインリリーが咲いています。 2024.4.8 レインリリーの花言葉は、「汚れなき愛」「潔白な愛」「期待」だとか。(資料2) 2024.4.8ボケの花がちょっと隠れるように咲いています。健在です。 2024.4.8玄関脇の雨樋に巻きついて伸びているジャスミン。ここ数日で一気に蕾を一杯つけるようになってきました。花の季節が巡ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. アザレアの花言葉 名前の由来 :「花言葉 誕生花」2. レインリリー :「花を楽しむブログ」補遺アザレア :「みんなの趣味の園芸」アザレア :ウィキペディア夏に元気なレインリリーを次々咲かせたい :「みんなの趣味の園芸」ゼフィランサス・ハブランサス(レインリリー)の育て方・栽培方法 :「園芸通信」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.09
コメント(0)
仁王門通沿いの琵琶湖疏水の桜琵琶湖疏水の流れが東から来たり、北に向かって屈折する角から、東方向を撮った景色です。「杉浦能公演 春 百満」を京都観世会館で鑑賞するために、午後出かけてきました。会館に入る前のひととき、桜撮りをしました。琵琶湖疏水(以下、疏水)沿いに眺めた満開の桜をお楽しみください。 少し移動して鉄柵のすぐ傍から疏水を東方向に眺めて。正面に東山の山並みが見えます。朱色の橋は神宮道の「慶流橋」です。 仁王門通側に回り込み、北方向に流れる疏水を桜の花越しに眺めます。「二条橋」が見えています。 岡崎公園の南東角が対岸に。木々のむこうは「みやこめっせ」です。 仁王門通沿いの散策路から眺めた「みやこめっせ」の建物散策路を東に進みます。 「みやこめっせ」の東隣りは「京都国立近代美術館」です。 近代美術館の正面側近くの対岸から眺めた「平安神宮の大鳥居」大鳥居は神宮道にあります。 慶流橋の南詰から眺めた近代美術館傍の桜の並木。遊覧船が運航しています。 西から別の遊覧船がこちらに向かってきます。慶流橋の西側歩道からの眺め。 慶流橋の西側歩道から東側歩道へ横断します。疏水の北側には「京都市京セラ美術館」。疏水の東方向に見える橋は「広道橋」です。 疏水を遡上する遊覧船 大鳥居。14時14分に撮りました。この時点で青空、晴れ! 慶流橋を渡って、近代美術館側(神宮道の西側)に。今、京都国立近代美術館では、特別展「没後100年富岡鉄斎」が開催中です。慶流橋傍にこの案内板が出ています。 対岸の仁王門通の南側にある「有鄰館」が桜の木の向こうに見えます。有鄰館の東隣りが「京都観世会館」です。 仁王門通に戻り、京都観世会館に入る前に「白川」の桜を見にちょっと立ち寄りました。白川は京都市動物園の南で疏水に一旦合流した後、慶流橋の少し西で再び白川に戻ります。 仁王門通の近くの白川では、ここの桜が見事です。 ふと川に目を向けると、思わぬ光景が目に止まりました。 居心地が良さそうですね。さあ、そろそろ行かないと・・・。 白川の右岸(西側)から眺めた大鳥居と桜です。京都・岡崎からの花だよりです。ご覧いただきありがとうございます。補遺みやこめっせ ホームページ京都国立近代美術館 ホームページ藤井斉成会 有鄰館 :「京都ミュージアム探訪」京都観世会館 オフィシャルWebサイト白川(淀川水系) :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2024.04.07
コメント(2)
3/27に車折神社を探訪したときに境内のこの桜が満開でした。桜の木の傍に駒札が建てられていて、「渓仙桜」と記されています。献木された人(冨田渓仙・宮下武一郎・長岡喜十郎)の名前に由来する名称のようです。冨田渓仙は日本画家。富岡鉄斎の日本美術院の同人で、鉄斎に私淑したそうです。鉄斎については既に触れていますが、明治21~26年に車折神社の宮司を勤めています。近代日本画の巨匠の一人です。(資料1) この渓仙桜は、社務所の南、大鳥居の西の位置に咲き誇っていました。今も咲き続けているでしょうか・・・・。 渓仙桜の南側にこの建物があります。 建物の正面に行ってみて、何が展示されているかわかりました。左側に「三船祭」の案内説明が掲示されています。Ah!ソウカ・・・です。嵐山・大堰川での「三船祭」を若い頃に一度だけ見物したことがあります。フィルム・カメラで撮った頃だったのか、デジカメの記録写真ファイルには見つけることができませんでした。当時はこの三船祭をどこが主催しているのか全く意識していなかったことを再認識しました。「昭和御大典を記念して、昭和3年より始められた。 毎年5月第3日曜日に、嵐山の大堰川において、御座船・龍頭船・鷁首船が 平安時代の船遊びを再現する」(説明文転記)昭和御大典とは昭和天皇の即位の大礼のことです。この時の中心儀式である即位礼は昭和3年(1928)11月10日、京都御所で行われました。(資料2) 龍頭 龍頭船の船首に設置されます。 鷁首 鷁首船の船首に設置されます。余談です。 これは、2023.5.24に「風俗博物館」(京都市下京区)の企画展を鑑賞した時に、具現化されていた龍頭船・鷁首船を撮りました。これは船が舞台の形式になっています。 2023.7.17の祇園祭・前祭の山鉾巡行の時に撮った船鉾。鷁が船首を飾っています。三船祭は一に船遊祭とも称されます。宇多上皇が大堰川に舟を浮かべ、詩歌管弦の遊びをされたという故事に因んで創始されたとか。「当日は午後二時から、嵐山渡月橋上の大堰川に御座船以下約30隻が参列し、詩歌・管弦・舞楽の奉納と流扇の神事が約2時間にわたって行われる」(資料3)祭りです。渓仙桜から社務所前を通り過ぎ、境内北側の裏参道に沿った境内社を巡ります。 裏参道の右側に2つの境内社に分岐する参道があります。 「神明神社」参道に近くて側面が見えるのがこの神明神社。祭神は天照大御神。切妻造・平入りで、神明造の形式の小社です。参道の奥に正面が見える境内社は、 「天満天神社(ソラミツアマツカミノヤシロ)」祭神は天満大神。雷除け、農業、園芸の守護神だそうです。 拝所 少し先、参道右側の拝所の傍に「滄海(ソウカイ)神社(弁天神社)」の駒札が立っています。 拝所から先に参道が延び、築地塀で仕切られた先に朱塗りの鳥居と小社が見えます。本殿は春日造の形式です。祭神は、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。文明5年(473)、室町時代の創祠だそうです。「車折神社近隣の寺院(天龍寺の末寺で、室町時代創建)の鎮守神が、廃寺の際、当社に移管された神社である。本来の祭神である、弁才天はインド神話の神で、仏教に取り入れられ『諸天』の一神とされ、智恵・長寿・財宝の神として信仰された。 日本に伝わると七福神の一神とされ、専ら福徳財宝の神として信仰されてきた。 明治時代の宗教政策に副い、日本神話の一神、市杵島姫が祭神とされ、今日に至っている。 因みに、『滄海』とは大海原の意で、渡来した『水の女神・弁才天』を象徴したものである」(案内文転記)駒札によると、社殿は改築され平成19年(2007)12月24日に竣工。大阪市の青井勇氏寄進と記されています。おもしろいのは、右となりに大きな案内板があり、そこには「弁天神社(滄海神社)」と題し、「弁天様(市杵島姫命)を祀る神社。・・・・・」と説明されていることです。弁才天(弁財天)の方が一般的によく知られているからでしょうか。 北門に一番近い所に「地主(ジヌシ)神社」があります。祭神は第52代嵯峨天皇。かつてこの付近に柳鶯寺があり、嵯峨天皇は行幸の折にこの寺で休まれたとか。その縁でこの寺に天皇が祀られたのですが、寺が廃寺となったときに車折神社境内に移されて、地主神社として祀られたと言います。なお、現在の神社は1961年に復興されたとか。(資料4,5)ここの石鳥居は明神鳥居の形式です。拝殿・本殿を拝見し、境内の境内社を一巡しつつ、案内の説明文を読み歩いて、「祈願」のテーマパークという印象を抱きました。「学業成就・試験合格」「約束を違えないこと」「人脈拡大」「金運・財運」「金脈拡大」「芸能・芸術の才」「昇運、運気」「良縁」「才色兼備」「金満美麗」等と、人々が祈願したいテーマに応じてくださる神々が、この神社に一堂に会されている。そんな雰囲気・・・・・です。 北門になる石鳥居から出て、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ここに立つ社号標の文字は富岡鉄斎の筆によるものと言います。(資料1)これで車折神社のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1. 境内案内 :「車折神社」2. 昭和天皇の即位御大典 :「名古屋市博物館」3.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂4. 車折神社(京都市右京区) :「京都風光」5. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」補遺車折神社 ホームページ昭和3(1928)年の御大典の際、京都観光が流行ったと思われるが、その頃の状況や、観光ガイドを見たい。 :「レファレンス協同データベース」冨田溪仙 :ウィキペディア三船祭 船頭だより :「京都・亀岡 保津川下り」[三船祭]水上雅楽に胡蝶の舞、平安貴族の優雅な御船遊び :「まいまい京都」5月の嵯峨嵐山の風物詩~嵯峨祭・三船祭~ :「HOTEL BINARIO」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へ
2024.04.06
コメント(0)
前回ご紹介したこの石鳥居、大鳥居と称するそうです。ここを起点にして、まずはこの大鳥居より南側の境内地を巡ってみます。 大鳥居の南東方向にある「芸能神社」という社号標がまず目を引きます。こんな神社名は初めてです。 石鳥居の南側に駒札が立っています。 この芸能神社は「天宇受売命(アメノウズメノミコト)を芸能・芸術の祖神として祀る」つまり、祭神はアメノウズメです。アメノウズメは『古事記』神代篇基の二に出て来ます。アマテラスがスサノヲの行為に怒って、天の岩屋の戸を開き中に入るとしっかり戸を閉ざして籠もってしまいます。途端に外は闇の世界に!神々は困惑し、相談します。オモヒカネという賢い神がある策略を立てました。「常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせたのじゃ。夜は明けたというわけじゃのう」その上で、諸準備をし、装身具と衣装をまとったアメノウズメに神懸かりを演じさせるのです。「天の岩屋の戸の前に桶を伏せて置いての、その上に立っての、足踏みして音を響かせながら神懸かりしての、二つの乳房を掻き出しての、解いた裳の緒を、秀処(ホト)のあたりまで押し垂らしたのじゃ」「すると、ほのかな庭火に浮かぶウズメの踊りを見ておった八百万の神がみは喜んでの、闇におおわれた高天の原もどよめくばかりの大声に包まれて、神がみは皆、ウズメの踊りに酔いしれてしもうたのじゃった」外のさわぎを聞きつけたアマテラスはあやしいことじゃと思い。戸を細めに開けて、内から声をかけ、少し戸のうちから歩み出てしまいます。「戸のわきに隠れておったアメノタヂカラヲが、そのアマテラスの御手をさっと握って外に引き出したかと思う間もなく、フトダマが、アマテラスの後ろに尻くめ縄(注:しめ縄のこと)を張り渡しての、『ここから内にはお帰りになれませんぞ』と申し上げたのじゃった」 (資料1)ということで、外界には再び明るい光が戻ってくるということになったとか。ここから、アメノウズメが芸能・芸術の祖神になるということでしょう。 朱の玉垣には、様々な名前が記されています、玉垣はプロフェッショナル・アマチュアを問わず、芸能・芸術・技芸の全ジャンルにわたる人々が奉納可能だそうです。 南隣りの石鳥居をくぐると、芸能神社の周囲を巡る玉垣とその続きが見えます。興味のある方は、様々な芸能人、芸術家、家元などの名前を見つけることができることでしょう。ドンドン増えたら・・・・掲載期間は申し込みより2年間と決めてあるとか。ナルホド!(資料2) 拝所からの眺め 拝殿の奥に本殿が見えます。 拝殿の正面には、おもしろい表情の面が奉納されています。この境内の周囲を巡ることができるようなので巡ってみました。 本殿の南側 本殿の北側 左右の脇障子本殿そのものは比較的シンプルな建物です。 芸能神社の南側に石鳥居があります。ここは駐車場と表参道を結ぶ出入口です。 石鳥居の南側に、木製鳥居に「大黒天」の扁額を掲げた「大国主神社」があります。祭神は大国主神。 大国主神社の南側は、稲荷鳥居に「稲荷社」の扁額を掲げた「辰巳稲荷神社」です。祭神は宇迦之御魂神。 表参道の自動車出入口に近いところに「愛宕社」の扁額を掲げた「愛宕神社」があります。ここでは案内板の掲示を見かけませんでした。後で、当社のホームページを参照しますと、この境内社のさらに南に社号柱(社号標)があるのですが、そこまでは表参道を下りませんでした。ここでUターンして、表参道の西側を巡ります。 まず、鳥居に「昇龍」の扁額を掲げた「水神社(龍神様)」があります。 祭神は罔象女神(ミズハノメノカミ)と案内板に記されています。「昔、大堰川がこの近くまで流れていた頃、氾濫を鎮める為に水神様(龍神様)に祈願していたことに由来する神社です」(案内板より) 社の屋根の上に龍が!!! 今年は辰年。ここで龍と出会うことができました。 芸能神社から参道をはさみ西側辺りに、「清少納言社」があります。車折神社の祭神は清原頼業。清少納言は清原氏の同族になります。清少納言の父親が清原元輔ということは前回触れています。一条天皇の中宮定子に仕えた才女で、『枕草子』の著者として有名なのはご存知の通りです。この小社、清少納言にあやかろうという主旨のようです。 大鳥居から南西方向、清少納言社の多分北西側だったと思います。鹿島鳥居形式の木製鳥居に「葵忠社(キチュウシャ)」の扁額が掲げた「葵忠社」があります。福田理兵衛を祀るそうです。福田理兵衛は嵯峨の材木問屋の長男として生まれ、下嵯峨の庄屋、総年寄、村吏として勤め、明治維新の時に、勤王家として活動した人だそうです。家産を傾けてまで長州藩の勤王倒幕運動を支援したと言います。(資料3,4)当神社のホームページの境内案内図には記載されていません。社号標等、見落としがありますが、境内南側のご紹介はこれで終わります。つづく参照資料1.『口語訳 古事記 完全版』 訳・註釈 三浦佑之 文藝春秋 p43-462. 境内案内 :「車折神社」3. 車折神社(くるまざきじんじゃ)(Kurumazaki Jinjya) :「京都通百科事典」4. 福田理兵衛 :ウィキペディア補遺車折神社 ホームページアメノウズメ :ウィキペディア大国主神 :「コトバンク」大黒天 :「コトバンク」ミツハモメ<罔象女神> :「名古屋神社ガイド」車折神社(京都市右京区) :「京都風光」(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -1 まずは神社の社殿へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.05
コメント(0)
嵐山公園亀山地区を探訪した後、JR嵯峨嵐山駅に戻りました。ふと「車折神社」は未訪だったことを思い出し、立ち寄ってみることにしました。嵯峨嵐山駅南口を起点にしますと、南への道路を200mほど下れば、JR線とほぼ平行に走る京福電鉄嵐山本線の嵐電嵯峨駅があります。この駅から東方向へ2駅目が「車折神社」です。駅のすぐ南側に車折神社があります。天龍寺の近くにある嵐電の「嵐山」駅からだと嵐電嵯峨、鹿王院、車折神社と3つ目の駅になります。嵯峨嵐山駅南口からだと、南への道路を下り最初の辻を東方向(左折)に進めば、徒歩900m程の距離です。運動不足の解消を兼ねウォーキングで探訪してきました。 嵐電・車折神社駅のすぐ前にこの石鳥居が見えます。地図で確認しますと、神社は線路の南側道路とさらに南の三条通(府道112号)との間に境内地が位置します。三条通には京阪バス「車折神社前」のバス停があります。石鳥居には「開運招福」の扁額が掲げてあります。この石鳥居、探訪してわかったのですが、この神社の拝殿・本殿などの社殿からみると、北側の背後に位置していて、北門にあたります。本殿は南面しています。まとめとしては、まずは神社の中核である社殿とその周辺からご紹介します。 参道の先にある仕切り塀 参道の右側に、「清めの社」と刻した石標の立てられた小社があります。この鳥居の右側に、「お勧めの参拝手順」として写真入りのパネルが掲示してあります。 少し先に「手水舎」があります。願い事・悩み事のある人は、「手水舎」で、手と口を清め(すすぎ)その後で、「清めの社」を参拝して、悪い運気・因縁を浄化し、心身を清めるという手順だそうです。 手水舎の近くに、東面する石鳥居があり社殿のある境内地への出入口になっています。 神社のご案内石鳥居の傍にこの案内板が設置されています。 手水舎前の参道をはさみ、東側には「社務所」上掲の案内説明文と手許の資料により、当社についてです。「車折」は「くるまざき」と読みます。それはなぜか?上掲案内には「後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌(ミギリ)、この社前において牛車の轅(ナガエ)が折れたので、『車折大明神』の御神号を賜り、『正一位』を贈られます。これ以降、当社を『車折神社』と称することになりました」と記されています。江戸時代に出版された観光ガイドブックともいうべき『都名所図会』には、「車折社 は下嵯峨材木町にあり」と記し、「むかしこの所を車に乗りて行くものあり、忽ち牛倒れ車を折(サ)きしとぞ」と簡略に説明しています。(資料1)現在の所在地表記は、京都市右京区嵯峨朝日町です。 手水舎の南側に石柵で囲われた岩石があります。「車前石」です。上記由緒にある通り、この社の手前にあるこの石の前を通りかかったときに、牛車を引く牛が倒れて、車の轅が折れたという伝承です。石鳥居をくぐり抜け、本殿のある境内に入ります。 拝殿に向かって東側、石鳥居から眺めた回廊部分です。 拝殿手前の拝所 拝殿 奥に本殿が見えます。祭神は、平安時代後期の儒学者明経(ミョウギョウ)博士、清原賴業(キヨハラヨリナリ)です。天武天皇の皇子舎人親王の子孫であり、清原夏野の後裔。平安時代末期1189(文治5)年4月14日に逝去。大外記の職を24年間もつとめ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかったそうです。現在の社地は、もとは清原家の領地であり、ここを頼業の墳墓地とし廟が設けられたそうです。清原一族には、三十六歌仙の一人である清原元輔がいます。元輔の娘が清少納言です。後嵯峨天皇(1242-1246)は後嵯峨上皇(1246-1572)となり院政を行った鎌倉時代の天皇。想像するに、当時は小さな祠が祀ってあることすら知られていない状況だったということなのでしょう。墳墓地が車折神社になったということのようです。(由緒、資料2) 拝殿前の格子天井には、花卉図が描かれています。拝殿の両側に出入口があり、本殿とその背後を巡ることができました。 拝殿の右側の出入口から反時計回りに巡ってみました。左手前が拝殿。 本殿手前の通路脇に狛犬像が置かれています。北門の傍の狛犬と同種の石彫像です。 本殿の東側 本殿の北東角から振り返った景色 本殿の背後には「八百万神社」が祀ってあります。八百万神社という社名は始めて見た気がします。あらあゆる神々を祀るとは気宇壮大です。案内板に興味深い文がありました。「八百万の神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、『人脈拡大』の御利益を授かりましょう」。 本殿の西側にも対となる狛犬像が置かれています。 境内西側には、回廊が伸びています。 吊灯籠 「祈念神石」本殿・拝殿の手前、拝所として祈願する場所の南側に「神石」が盛られています。傍に祈念の仕方の説明板が設置されています。江戸時代には、『都名所図会』にて、次のような一文で、流布されていたようです、「今は遠近の商家売買の価(アタイ)の約を違変なきやうこの社に祈り、小石をとりかへり、家にをさめ、満願のとき件(クダン)の石に倍してこの所に返す」 (資料1)祈念が成就したら、石の倍返し! 倍返しの発想は江戸時代に既にあったんですね。おもしろい。江戸時代も、祈念神石の扱いは社務所を介して行っていたのでしょうか。その点をこの図会は明記していません。余談です。『都名所図会』には、案内文の冒頭に、「五道冥官降臨の地なりとぞ」という一文が記されています。案内文の末尾には、「五道冥官焔魔王宮の庁」という語句も出てきます。清原頼業が死後に冥官になったとされる伝承があったようです。この一文から小野篁を連想してしまいました。五道というのは、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)から修羅を除いた五道です。(資料1)手許の本に「一説に当社は五道冥官社と称し、閻魔王宮の官人が来臨するところ故、商売の取引きに違約なきことを祈誓したのによるとも伝える」と記しています。(資料2)調べてみますと、『山州名跡志』が五道冥官社の名称で当神社を載せています。(資料3,4)富岡鉄斎は、若い頃、車折神社の社司をつとめたことがあり、頼業の業績を顕彰するための「車折神社碑」を明治42年(1909)に建立したとか。(私の思いつきでの探訪では現地未確認)鉄斎は碑文に、「頼業が死後冥官といわれることを不審とし、また後嵯峨天皇御召の車の轅が毀損したのは、祭神の怒りによる旨を記している」と言います。(資料2)再訪する機会があれば碑文を確認してみたいものです。 拝殿前から正面参道方向(南)を眺めた景色神社の裏手から入ってきましたので、社殿の正面側を探訪してみました。参道を南に進み回り込むと、 社殿正面にはこの石鳥居が立ち、社殿側に高さの低い朱塗りの垣と門扉が設けてあります。石鳥居の下には、立入禁止を示す棒が参道を横切る形で設置されています。特定の行事のとき以外の普段は閉じられているようです。 ズームアップしたこの景色の右側に見える石鳥居が普段の出入口。上掲した石鳥居です。 こちら側の狛犬は、北門の石鳥居傍の狛犬とはスタイルが異なり、かなり昔に奉納された狛犬像のようです。 正面の参道を南下すると、この木造鳥居が正面にあります。台輪はありませんが、稚児柱を設けた両部鳥居の形式のようです。このまま南に進むと、三条通に出ます。次回は境内地の社務所より南にある境内社を巡りましょう。つづく参照資料1.『都名所図会 上』 竹村俊則校注 角川文庫 p4342.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p227-2313. 車折神社 日本歴史地名大系 :「コトバンク」4.『山州名跡志 自小倉山 至大江城 九』 pdfファイル20コマ目補遺車折神社 ホームページ清原頼業 :ウィキペディア富岡鉄斎 :ウィキペディア五道 :「コトバンク」五道の冥官 :「コトバンク」山州名跡志. 巻之1-22 / 白慧 撰 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -2 境内南側の境内社巡り へスポット探訪 京都・嵯峨 車折神社 -3 渓仙桜・三船祭・境内北側の境内社巡り へ
2024.04.04
コメント(2)
嵯峨天龍寺にある福田美術館での展覧会を鑑賞した後、ここまで来ているので、嵐山公園の亀山地区を散策し探訪してみることにしました。(2024.3.27 探訪)大堰川沿いの道路を上流方向に進みます。 嵐山吉兆の門の傍の桜が満開でした。この近くから、川岸沿いの道路側に移り上流方向に進みます。結構な数の観光客がこの辺りの川沿いにもいました。 この道路は「東海道自然歩道」の一部に組み込まれているようです。またその手前には、右の石標が立っています。法輪寺は渡月橋を南に渡った先にあるお寺です。京都では「十三詣り」で良く知られたお寺です。拙ブログでも既にご紹介しています。渡月橋は承和年間(834-848)に法輪寺の僧道昌により架橋されたのが始まりと伝承されています。往時は現在の渡月橋よりも100mほど上流側に位置していて、初めは法輪寺橋と称されていたそうです。夢窓国師が天龍寺付近の名勝地を「亀山十境」と題して漢詩を詠んだ中に渡月橋の名が出てくるのが初見と言われています。(資料1) 少し先で、「戸無瀬(トナセ)の滝」と刻した石標が目に止まりました。その裏面には、左側の案内説明板が取り付けてあります。 対岸の景色。右寄りの白い筋のみえるところが戸無瀬の滝。落差約85mの三段で落水する滝です。景勝地嵐山を象徴する名勝になっていました。歌川広重筆「六十余州名所図会 山城 あらし山」にも、嵐山の中腹にこの「戸無瀬の滝」が描かれています。また、鎌倉時代中期に藤原定家の息子の為家が歌を詠んでいます。 雲かかる山の高根の夕立に戸無瀬の滝の音まさるなり 藤原為家 室町時代の初期に、夢窓国師は上記「亀山十境」の詩において、この滝を「三級厳」と位置づけたそうです。現在、滝が見えにくいのは、明治に禁伐となり樹木が覆うようになったことによるとか。令和5年3月に最下部の伐採が行われたそうです。ごく最近ですね。(案内板より) 川沿いの道路をさらに進むと、観光客が減ってきます。先に見えたのがこの石標。公園の入口。 近くに「嵐山公園亀山地区案内図」が設置されていてます。(現在地は右下の赤三角印) この道標も設置されています。こちらの公園を経由して行ける観光スポットです。渡月橋を対岸に渡ると、中ノ島があります(嵯峨中ノ島町)。そこが嵐山公園で、こちらは公園の一部という位置づけのようです。余談ですが、手許の2003年5月発行本のマップには、亀山地区を亀山公園、中ノ島の方を嵐山東公園と明記しています。 公園に入って行きますと、この石標が目に止まりました。上面に「古今集と百人一首」と題する案内文が掲示されています。小倉百人一首と古今集の簡略な説明とその関係が記されています。百人一首には古今集から24首が撰ばれているとあり、その歌碑がこの公園に建立されているようです。歌碑の配置図が併載されています。 山道を登って行くと広々とした斜面に出ます。こんな東屋(休憩所)が中央に見えます。ここまで来ると、観光客はほとんどいません。わずかな人々とすれ違うだけです。東屋の周辺で、幾つかの歌碑が散在して建立されているのを見つけました。歌碑の近くには、歌碑案内の石標も設置されています。ここでは省略。 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 小倉百人一首第7番 安部仲麻呂 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるに 雲のいづこに 月やどるらむ 小倉百人一首第36番 清原深養父 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 小倉百人一首第32番 春道列樹 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 小倉百人一首第33番 紀友則 「小倉百人一首文芸苑 屋外展示施設 案内図」という地図も設置されています。休憩所辺りを散策し、少し離れたところからこの広々とした公園を眺めてみました。パノラマ合成した景色です。もう少しして、桜が咲き誇ると景色が華やかになることでしょう。 この中腹の広々とした斜面の先に分岐点があり、さらに山道が続きます。「頂上展望まで160m」の道標をガイドに、左の山道を登ります。 頂上展望台広場 この展望台からは、対岸の嵐山、保津峡と保津川の全景が見渡せます。 眼下の保津川をズームアップ! 対岸の川沿いに建つ建物は、ネットの地図で確認しますと、「星のや京都」ほかの建物です。所在地は嵐山元録山町。 山の中腹にぽつんと見える建物は「大悲閣」です。その背後に「大悲閣千光寺」の建物群があります。こちらは、嵐山中尾下町です。この大悲閣も拙ブログで既にご紹介しています。展望台沿いの道をさらに進んでみますと、 「嵐山公園はここまでです」という掲示が設置されています。 その先は「小倉山」です。「小倉山山頂」への表示と「小倉山再生プロジェクト 景勝・小倉山を守る会」の」看板が設置されています。これを見て、「小倉池」周辺を探訪して小倉山を登ったときの記憶とリンクしました。こちらも拙ブログに記していたと思います。小倉山の東南部を占める丘陵がこの亀山地区なのです。これで探訪地がリンクしましたので、公園を引き返し、まずは休憩所まで下ることに。この公園の下側エリアを通り抜けたことがあります。その時見過ごしてしまった箇所があったのです。今回はその箇所を確実に訪れたかったのです。 立像の傍に「大正元年十月十」までは判読できる日付の刻された顕彰碑が建立されています。 訪れたかったのはここ! 「角倉了以翁銅像」上掲の石碑により1988年に再建されたことがわかります。なぜ、再建なのか。当初の銅像は戦時中に金属供出により撤去されたのです。 「角倉了以翁の業績」と題する顕彰碑が、角倉了以翁像碑保存会により、昭和63年(1988)5月28日に建立されています。 顕彰碑に記されていますが、角倉了以は、京都に直接関連する事業として 慶長11年(1606) 保津川大堰川の開削を完成 慶長16年(1611) 高瀬川の開削を完成という偉業を為し遂げました。大悲閣千光寺は、保津川を開削し船や筏が通ることの出来る舟運のための工事に協力した人々の菩提を弔うために角倉了以が創建したお寺です。観音の慈悲をたたえて大悲閣と号したと言います。(資料1)角倉了以像から比較的近い場所に、 この詩碑が建立されていることをこの探訪で初めて知りました。 「周恩来総理詩碑」です。1978年10月日中平和友好条約締結を記念し、1979年4月吉日に建立されています。嵐山公園亀山地区は、歴史と文化の一端を学べる公園にもなっていることを再認識しました。 大堰川沿いの道まで戻ってきました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1.『昭和京都名所圖會 4 洛西』 竹村俊則著 駸々堂補遺嵐山と夢窓国師・夢窓疎石 :「京都 Kyoto」ブラタモリ・京都・嵐山(~嵐山はナゼ美しい!?~天龍寺十境) :「京都ヴォヤージュ(Kyotovoyage)京都・亀岡 保津川下り ホームページ 歴史角倉了以 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E5%80%89%E4%BA%86%E4%BB%A5高瀬川 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi22.html大悲閣千光寺 公式HPhttps://daihikaku.jp/周恩来 :ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・洛西 嵐山 法輪寺 -1 法輪寺への道すがらに 3回のシリーズでご紹介スポット探訪 京都・洛西 大悲閣 -1 大悲閣道(渡月小橋~大悲閣入口) 2回のシリーズでご紹介探訪 [再録] 京都・洛西 天龍寺とその界隈 -1 天龍寺の境内(勅使門・中門・法堂ほか) 5回のシリーズでご紹介探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -1 愛宕念仏寺 12回のシリーズでご紹介 No.9で野宮神社、No.10で御髪神社・小倉山/小倉池、No.11で小倉百人一首文芸苑観照 京都・洛中 ふたたび高瀬川沿いに~四条から一之船入まで~
2024.04.02
コメント(0)
2階へ。 GALLERY 2 の出口に近い壁面にこの「栖鳳と弟子たちの相関図」の大きなパネルが掲示してあります。わかりやすいので冒頭にご紹介します。相関図の氏名を、図に対応する形で列挙します。併せてご覧ください。 [栖鳳と弟子たちの相関図] 竹杖会 国画創作協会 戦後も続く 栖鳳イズム 西山翠嶂 西村五雲 土田麦僊 小林竹喬 池田遙邨幸野 竹内楳嶺 栖鳳 上村松園 伊藤小坡 村上華岳 榊原紫峰 徳岡神泉 橋本関雪 広田百豊 入江波光 (野長瀬晩花) 福田平八郎 GALLERY 2 の入口に「第2章 次世代の挑戦と研鑽 -栖鳳の教えを胸に-」が掲示されています。栖鳳の画塾が「竹杖会(チクジョウカイ)」。栖鳳の門下生たちが後年に京都画壇の主要メンバーという状況になっていったそうです。「典雅な西山翠嶂(スイショウ)、優美な上村松園、生物の西村五雲(ゴウン)、韻致(インチ)の橋本関雪(カンセツ)、柔美な伊藤小坡(ショウハ)など」とそれぞれの特色が評されたとか。栖鳳の弟子たちで「国画創作協会」に集った画家たちは、文展に対抗して自分たちの発表の場を持とうとしたと言います。興味深い点は、師の竹内栖鳳は文展の審査員でもあったのです。しかし、栖鳳は彼らを破門することなく、「顧問として関わり、若い弟子たちの果敢な進撃を後方から支援し」「彼らの強い個性を認め、育んだ」と言います。この展示室には、これら弟子たちの作品が、1点あるいは数点ずつ展示されています。1点ずつご紹介します。 「悉達発心図」1900年悉達とはゴータマ・シッタ-ルダ、つまりお釈迦さまのことです。出家の発心を抱き、馬に乗り城を抜け出ようとしているのに、白馬はそれを制止しようとでもしているのでしょうか。1900年の後素青年会展に出品され、優等一等となった作品。西山翠嶂の若き日の力作。翠嶂は栖鳳から継承した写実的描法を得意としたそうです。 「砂丘」1935年 西村五雲作漁師が居ない時に、一羽の鳶(トビ)が魚籠(ビク)に止まっています。魚籠の中の獲物を狙っているのでしょうか。それとも単に一休みなのか。悠然とした感じです。一瞬の一コマ。 「花見図」上村松園作。満期の八重桜の広がりを想像にませるかのようにほんの少し左上に描き、匂やかな娘の頭上には後ろから日傘が差し掛けられています。明るく強い春の陽射し。娘は少しうつむいて、落下した桜の花をふと見つめているのでしょうか。満開の八重桜と華やぎのある娘の姿。この一瞬の華やかさの共存。 「桜狩の図」 伊藤小坡作冒頭の相関図によれば、伊藤小坡にとって、上村松園は憧れの先輩だったそうです。桜狩ですから、これも花見に出かけた一場面。二人の女性のひそひそ話の構図。この構図、松園がしばしば描いた構図でもあるようです。 「梅花佳人図」 橋本関雪作 梅の木の傍に座る美人。この見慣れない服装は、チャイナドレスの原型だそうです。 「春の海辺/秋の郊外」広田百豊(ヒャクホウ)作。日本画に西洋の遠近法を取り込んで己の感性を花開かせた画家だそうです。 百豊は小学校の校長まで経験してから、30代で栖鳳門下に学んだと言います。遅咲きの画家です。 「夏園群芳図」1913年 村上華岳作 画面上部に山百合、下部に薊(アザミ)や千日紅と思われる夏の花々が真っ盛りに咲き誇っています。百合の花弁や葉には、滲(ニジ)みによって表現する「たらし込み」の手法が使われているとか。 「ヴェトイユ風景」1922年 土田麦僊作ヴェトイユでモネが数多くの風景画を描きました。パリから北西に50kmほどの景勝地です。麦僊は1922年4月~8月にこの地に滞在して風景画を制作。印象派以降の西洋画の流れを、日本画の世界に取り込んで、岩絵具で描いたそうです。この展示室では異彩の絵でした。 {臨海の村」1919年入江波光(ハコウ)作。三重県志摩市大王町にある波切という景勝地を描いたそうです。”波光は人物や家屋など「全てのものが渾然とした場面」を描き出そうとしたため、場面の色調が統一され、遠近感を感じさせない作品となっています。”とのこと。おもしろい試みです。 「川口近く」大正時代 小野竹喬(チッキョウ)作切り立つ崖越しにみえる川口の景色。遠近感が良く出ていて、色彩がきれい。この後、同じ2階にある 、PANORAMA GALLERY 3 に進みます。この展示室は、これまでの2つの展示室とは異なり、ガラスケースはなく、壁面に額を掛けただけの展示です。 こんな感じで額装の絵が並んでいます。額にガラスが嵌め込んでありますので、撮った写真のいくつかは室内の窓などが映じてしまったのがあります。反射の影響が少ない絵をご紹介します。 「湯滝見ゆ」昭和40年(1965) 小野竹喬作標高1600mにある奥日光の有名な湯滝を描いた風景画です。湯滝をこの角度で描くには、さらに高い位置まで登ることになったでしょう。竹喬は当時77歳です。健脚だったのでしょうね。 「苅田余情」昭和時代 池田遙邨作稲の刈り入れ後、稲が稲架(はざ)に掛けて天日干ししている秋の情景が描かれています。天日干しの景色を写真や映像で見たことはありますが、実際の景色をみたことがありません。 「鯉」 1956年 徳岡神泉作「神泉といえば鯉」と称されたとか。師の栖鳳の作風とは全く異なり、「対象をひたすらに見つめ、幽玄とすら呼ばれる作風を戦後に展開」した画家だそうです。栖鳳の包摂力と指導力はそれほど大きかったということでしょう。 この展示室に、竹内栖鳳作の「虞美人草」が展示されていました。明治44年(1911)作。この作品に添えられてガイドのタイトルは「虻が際立たせる静寂」です。案内文を全文引用します。「栖鳳が描いているのは、令和の時代には初夏の路傍に群れ咲いているナガミヒナゲシ。ただし、外来種であるこの花が日本に入ってきたのは栖鳳没後の1961年のこと。彼が地中海産のこの花を目にしたのは、1900年に訪れた欧州だったと考えられます。日本画ではかつて画題になったことがない花であっても積極的に取り込み、洗練された作品に仕上げてしまう革新性も、清風の進撃を支えた底力でした」これでこの展覧会のご紹介を終わります。展覧会は4月7日(日)まで、最後の一週間になりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*作品に添えられたガイドの文*「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」展示作品リスト補遺福田美術館 ホームページ西山翠嶂 :ウィキペディア西村五雲 :ウィキペディア上村松園 :ウィキペディア伊藤小坡美術館 ホームページ 伊藤小坡について白沙山荘橋本関雪記念館 ホームページ文展を離れて日本自由画壇の結成に参加し、女性像を中心に自由な表現を試みた広田百豊 :「UAG美術家研究所」国画会絵画部の歴史について :「国展」土田麦僊 平牀 :「京都市京セラ美術館」笠岡市立竹喬美術館 ホームページ 小林竹喬について村上華岳 :ウィキペディア榊原紫峰 :「足立美術館」入江波光 :「国立美術館」コレクション展 2022-冬春 特集「若き日の野長瀬晩花」 :「美術手帖」日本画家・池田 遙邨(いけだ ようそん) :「大阪市北区」徳岡神泉 :ウィキペディア没後50年 福田平八郎 :「大阪中之島美術館」チャイナドレス博物館 旗袍的新故事 ホームページ波切の町並み :「日本遺産 ポータルサイト」ヒナゲシ(虞美人草)湯滝 :「日光市公式観光WEB」天日干し米(天然乾燥米)が美味しい理由 :「budounoki ぶどうの木」ヒナゲシ(虞美人草) :「北海道」ナガミヒナゲシ :ウィキペディア(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -1 福田美術館への往路にて へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -2 福田美術館の建物 へ探訪&観照 京都・嵯峨天龍寺 -3 福田美術館「進撃の巨匠 竹内栖鳳と弟子たち」(1) へ
2024.04.01
コメント(0)
全26件 (26件中 1-26件目)
1