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癒しは確かに心地のいいもの。ですが、魂にとって心地いいのか、エゴにとって心地いいのか、でそれが本当に癒し(後戻りのない道)であるかどうか違ってくると思う。超入門アカシックレコード超入門アカシックレコードは、タイトルのわりに入門以上の内容だったのだがその中で私にとってもっとも必要だった言葉は「誰もが人を救いたいと思っているが相手にとってもっとも必要な言葉は実はおしりを蹴っ飛ばされて目が覚めるような言葉だったりする。だが自分が癒されていなければその大切な言葉を(投影によって)相手に言うことはできない」だった。高次元からのメッセージというものが世の中にはたくさんあるけれど誰もが心地よく感じ、受け入れられやすいものはそれはそれでいいけれどしばらくするとそれはもうわかった!でもその結果が今のこの現状なんだけど?となってくるのだ。もちろん学ぶべきことはいくらでもある。だけどしばらくの間なんかびっくりして目からうろこがばらばら落ちないと受け入れられないような新たなパラダイムシフトに出会わないものかしら…と思っていたら出会ったのが「神の使者」だった。それは確かにすごく受け入れがたくそして後に完璧なまでにすっきりとすべてを解き明かしてくれた。だからもう、捜し求める必要はない。実際のところ、捜し求める必要なんてないしこの世でいくら探し回っても絶対にみつかるものではなかったのだ。そうなってみて、私は否定、ということを怖れなくなった。人はみな、肯定されたい。でもそれはエゴが願っていること。肯定される心地よさはエゴにとって好都合な心地よさだと思う。だけど、いくら肯定されても苦しんでいる心があるに変わりはない。「そのままのあなたでいいんです」というのはある意味真実だけど「ありのままのあなた」というものを人は知らない。今のなんだかわからないあれをたっくさん身に着けてる自分にそのままでいいんです、というには本当のその人が丸見えに見える人の言葉でなければ意味がない。そして間違いなくこの宇宙はこのままでは良くない。すべては選択しなおされ修正される必要があると思う。真実を。エゴの心地よさの中で夢を見ている間は平安にはならない。魂の心地よさを、スピリットの知覚を選択しなおすことなんだと思う。それで私はできればひとさまのおしりを蹴っ飛ばせるセラピストでありたいと切に願う。
2010.01.28
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癒し、からイメージするのは緊張した日常から逸脱してつかの間の平安に浸ること・・・というのが一般的かもしれない。なぐさめ、みたいな結構お手軽なイメージがある。だけど癒しとはもっと明確なものだ。癒しが起こると私たちは悪夢から覚め幻想の壁は打ち砕かれもはやあともどりはできない。・・・なあんていうとまたちょっとおっかない感じもするけど実際にそういうものだと思う。リラクゼーション、というのもまたお手軽なイメージで使われることが多いから深刻な悩みや苦しみを持っている人からみると「そんなもので人生が変わるわけがない」と受け取られがちだと思うけれど(私は、そうでした)リラクセーションは奇跡を受け取るための準備のようなもの。なぜなんでしょう。私たちが本当に幸せであるには私たち人間に創造された心というものを通して世界を知覚しなおす必要があります。私たちが合理的に考える思考、というものも本能の仕組みである攻撃や逃げ、というものも本来の感覚とは違うものです。でも、たとえば幼少の頃、この地球で居心地の良くない思いをして周囲の刺激から身を守ろうとした結果生き延びなければ、という本能の仕組みから私たちは防御のための砦を心に張り巡らせます。そして、オープンにして感じる、ということは居心地が悪くて危険な恐ろしいもの、という観念を身につけます。そして大人になるにしたがってますますこの砦を強固にすることでこの生きにくい世の中を渡っていこうとします。すると、心が感じる、という機能は固いブロックに囲われ私たちの心が本来感じるべき一番大切な愛というものをなかなか感じることができません。私たち人間は愛を感じない限りふしあわせで孤独です。それでどこかに自分を幸せにしてくれる何かを探し求めます。でも、それは、外にはありません。肉体の機能としてついている「本能」というスイッチがいつのまにかあなたの主導権を握っています。そして肉体を通しての知覚が自分自身だと自分に思い込ませます。自分は自分を把握している、もう少しがんばれば完全に自分を支配できコントロールできるのに、と思っています。そして、このままの自分でいてなんとか他のものと同じように愛、も手に入れる方法を探します。仕事やお金や、愛、という感じに。でも、愛だけはどういうわけかその方法ではうまくいきません。それは心にいっぱいくっつけているあれのせいです。そして思考は「あれ」について分析を始めます。そしていつか分析を達成すれば自分は解放される、と信じようとします。でも、それは、エゴのやり方です。癒しは光をあてます。そして文字通り目覚めさせます。リラックスは本来のあなたが目覚めるために思考やエゴというパーソナリティに少しお休みいただくためのものです。ヒプノセラピーで私は感じることが苦手です、とおっしゃる方がみえますが本来の感じる心を取り戻すことがセラピーの目的でもあります。不快なものを感じないようにしていると大切なものも感じられなくなってしまいます。大切なものとはもちろん愛のことです。
2010.01.24
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人の心が作り出す恐れのブロックには限界があるのだ。愛は限りない。というようなことを目の当たりに見せてくれる奇跡のセッションが続いています。癒すのは聖霊であって私たちは互いに思い思いに奇跡を体験する。感謝につきます。昨日は祝福のようにあったかいお天気だったのでビーチへお散歩して日没までお日さまを眺めて過ごしました。うちに帰ってからもベランダに出てごはんを食べ寝るまでいろんな話をして過ごしました。みなさんにもたくさんの奇跡がありますように!
2010.01.21
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クンダリーニレイキを受けてくださった方々からたくさんの嬉しい声をいただく。なかなか言葉では伝えきれない内容なのだけど実際受けてくださった方々もやはり受ける前にいろいろと調べてみてもよくわからないし、不安な要素も多かったけど「なめてました!こんなにすごいと思わなかった!」なんておっしゃってくださる方もいる。本当に、いろいろなことが起こったりできるようになったりするんだけど結局のところ何がすごいかというと世界が変わってしまう、という言葉が当てはまると思う。なんでも好きなものを好きなだけ引き寄せ手に入れることのできる秘密をみんな知りたいかもしれない。私も子供のころ「3つだけなんでも願いがかなうならなにを願う?」という問いにときめきながら考えた答えは「いつでも好きなときに願いがかなう自分になる」だった。その魔法と引き換えにあらゆるエゴの幻想を手放しましょう、と言われたらどうでしょう。というか、実際は手放すことで魔法は働くようになるのです。レイキは人間、という不完全な生き物に魔術を与えてくれるものではありません。私たちが自分はどんな存在だったかということを思い出し完全なる神の通り道として自分を使うときその完全な世界の住人になるということです。その世界がどれだけ自由と解放と安らぎに満ちているのか皆さんの声を聞いていると感じることができます。
2010.01.18
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*写真は我が家前の今日の夕日*私と私のだんなさんと私の妹とだんなさんの弟は生命の贈り物(私たちは神の使者も読んでいるのでこれを赦しの祈りと呼ぶ)をしている。それぞれがなんだかこれはいい、と思って各々がしているので特に示し合わせたわけではない。でもおかげでフィードバックも確認しあえるしなにしろ世界への視野に共通項目があるのでなにかと話が早い。普通なら込み入った話も「投影だね」とか「赦そうね」とかで終わってしまう。で、その分いろんなことに時間を使える。会話もあの人がどうこうとかなんとかじゃなくそれが自分の中のあれを投影してるってことでいいかな、とか(笑)そんな具合。だから出来事を修正したいときはただ自分が気づき赦すというシンプルな方法を採用する。毎日の夫婦の会話やイタリアにいるだんなさんの弟や東京の私の妹と赦しや気づきや宇宙や神について話したり気づいたらみんなで赦しの祈りをやっていたりすると奇跡が起こらないはずがないな、と思う。というよりだんなさんとは生活のほとんどすべてに奇跡を見ている。だんなさんとしみじみともうこれ以上ほしいものってないよね、とか言い合ったりする。それはたぶん過ぎ去るもの、とそうでないもの、をだいぶ明確に区別できるようになってきているからだと思う。そういう生活になってそうでない生活とどう違うかというと「可能」というスペースが圧倒的に広がる、ということだ。狭くて不自由で不可能な世界から無限というスペースで生きることが可能だ。私たち家族がなぜみんなして同時多発的に祈るのかというとたぶんそんな「可能」のスペースを生きたいがためなのではないかと思う。
2010.01.15
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写真は今日の瀬長の夕日です。光があるところに闇は存在できない。だから闇は光を恐れる。しかし光は闇を恐れることはない。光あるところに闇の脅威は存在しないからだ。私たちが無限の存在である所以は私たちが光を選択できるところにある。光を選択するということは闇を拒否することだ。人のエゴの行いを見ているとそれは無間地獄のように果てしない泥沼のように見える。どうにもならない泥沼は私たちが闇を選択したときにだけ有効で悪夢から目覚めることを選択した瞬間に消えうせる。人生は選択の連続だ、という表現がある。それは確かにそうだが本当に重要な選択は光か闇か。光を選択するとそこには自分をゆだね、導かれて生きるという果てしない自由と至福があり闇を選択すると果てしない業の清算がある。明らかにする、とは己の内面に灯りを燈す作業である。暴く、とも、攻撃、とも違う。人との関係において真実を築き互いを鏡として学ぶことは明らかにすることと等しいのだがエゴは暗闇に潜みたがる。闇の中で互いを知覚してもそれにはなんの意味もない。幻想と錯覚、誤解があるのみ。光あれ。と今日も思う。
2010.01.14
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まだまだ、エゴの正体が世間では明らかになってはいない。エゴについて学ぶことは多くの人にとって有意義だと思う。エゴ、とかインナーチャイルドの問題というものが「一部の」未熟な人の特性とか属性だとか思われていてだれそれにはそれがある、みたいなことを言うのがはやってきているみたいだ。「ある人に、私にはインナーチャイルドがいるって言われました、だから、癒しが必要だと思うんです」とおっしゃる方が時々みえる。自分の問題は、インナーチャイルドの問題が大きいみたい、ということまで認識なさっているだけですごいことだと思う。だけど、一体どんな人が「あなたにはある」なんて言うんだろう。うそではないけれど、ちょっと詐欺みたいな話だ。私に言わせればそれは現在の地上の、それに取り組み解消したり浄化、解放していない人のすべてに共通のものだ。かつてそれに大きく影響されていた、もしくは現在影響されている、このどちらかに多くの人は属する。つまり世界の認識自体が大きくずれている。あるいは私と世間はずれている。仕方のないことだけど。心の課題を突き詰めていけば必ず私たちは何者なのか、というところに行き着く。さらに行けば、私たちは肉体なのか、それ以外なのか、となる。最初は肉体を含むそれ以上、みたいな捉え方が易しいけれどどうもそれだと矛盾が生じてくることもわかってくる。私たちがすべての次元の自分を大切しなければならないのは宇宙のすべてを愛し尊敬する、という意味ではそうだけど私たちに内在している(かに見える)エゴ、肉体保持のためのシステムは崇拝されるべきものではない。からだにはからだの言い分がある。からだを手玉に取るにはその言い分にまずは騙されたふりをする。するとそれは手の内を見せてくれる。おさえつければそれはあなたに反発して暴れだし主導権を主張し、あなたを乗っ取ろうとする。インナーチャイルドがあなたの人生の現在の問題に関与しているというのはこのあたりの仕組みから来ている。マインド・トレーニングという本をずっとお勧めしているのはその仕組みと取り組み方の具体例が書いているからだ。私たちは真実を知り生きたいと願う一方からだの属性である恐れに半支配されていて本当の知覚すらままならない状態なのだ。潔く目覚めに向かって進もうとする一方で後ずさりを続ける理由はそれである。だから、遠回りに見えても結局自分で痛い目をみたり絶望しかけたり転んだりするほうが「後退するよりマシ!」ということで結局光にぐんとつ近づくのも事実だ。私は、もしあなたが自分の中にある勇気というものを使うなら自分の中の魔物と戦うことをすべてのまだ取り組んでいない人にお勧めしたい。そして本当にそんなものが幻想なんだ、本当の私はこれだったんだと心底思うまでそれを続けてほしいと思う。正直な話。
2010.01.12
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またもせーふぁうたきへ。何度行ってもいいです。もう6回目くらいかな。もっとかな。帰り道に知念岬公園へ。岬の突端が広場になっていて貸切で凧揚げしている親子がいました。電線もないし周り全部海。パラグライダーが飛び立つところも初めてすぐ近くで見ました。だんなさんがいろいろ尋ねると教えてくれて、スカウトもされました。久高島やコマカ島がすぐ近くに見え向こうには街が見えているのでどこかと思ったらうるま市なんですね。近くてびっくりしました。今日は寒いです。寒い寒いといいつつうちはまだエアコンをつけていないので暖房なしで過ごしています。暖房なしの方も結構いらっしゃるようです。うちも今後どうするかまだちょっと悩み中です。セラピールームはあったかいのでご心配なく^^
2010.01.06
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渡沖から約一年、そして新居へお引越しから1ヶ月。ようやくせっせとした作業もひと段落し無事お正月を迎えることができました。直前までほとんど年末年始の気分ではなかったので普段の業務に明け暮れご挨拶がすっかり間に合わずに大変不義理で失礼ばかりしておりますがどうぞお許しください。そして2010年も、どうぞよろしくお願いいたします。大晦日前日は主人の職場「大きな手」の忘年会でなんだか腰を据えておおまじめな話ばかりさせていただき年内のちからは使い切った感じになりました。昨年はことごとく沖縄の行事らしい行事に行けなかったので元旦は首里城の神事に、と思っていたら午前中で終了、ということを当日の正午過ぎに知り奥武山(おうのやま)公園内の護国神社まで自転車で初詣することに。神社は結構な人出で行列とか、人の間をよけて通るなんて泊の花火以来のことでした。前にうちなんちゅの方が「東京って人がほんとに多いですね。なんのお祭りやってるんだろうと思うとなんでもないんですよね。毎日那覇祭りみたいですよ!」とおっしゃっていてそれ以来人が多いことを那覇祭りみたい、と表現することにしています。行列に並ぶのが苦手な私たち夫婦は東京でしていたように軽くご挨拶だけして参拝は後日にまわしました。それからどうしてもモノレールに乗りたい、とだんなさんが言うので奥武山公園前からゆいレールで儀保へ。首里城まで散歩して到着すると「新春の宴」の最終ステージを見ることができました。舞踊は和の舞踊と微妙に融合していてなつかしい感じがしました。最後に獅子舞があって以前テレビでちらっと見たことがあったのですが毛がもこもこして紫色をしていて動きやストーリーも本土のとは違っていてかわいらしかったです。出演しているお囃子の男の子はちょっとやんちゃな現代っ子っぽくてちょっと照れくささがあるのかあまり一生懸命やらないのですができたらすごい気合でやっていただきたいなと思いました。伝統芸能や武道はやっぱ気合なんですよ。気合あるところに魂が宿る。するともっとみんな楽しくなります。儀保の駅まで戻ると駅には誰一人いなくてでっかい空におっそろしく澄み切った空気。そしてばかでかい夕日。光が海に照り返して那覇の白くて四角い建物がホワイトアウトしてしまいそうでした。今年は、ますます、たくさん祈りたい、というのが抱負です。ホワイトアウトのようなまぶしい閃光をもたらす人になりたいです。
2010.01.01
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