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私のスピリチュアルカウンセリングはいわゆる霊視したり鑑定したり判断するのとは違いまた心理カウンセリングとももちろん違っている。心理カウンセリングの技法はとても重要で勉強して本当に良かったと思っている。その基盤は心理セラピストとして人と向き合うには必須だと思う。けれど心理カウンセリングの技法によって深いレベルでしかも特定の時間内に潜在意識の変容をもたらすことはとても難しいことではないかと感じている。心理カウンセリングではカウンセラーが超越的な受容というレベルに達することで癒しが実現する。自己受容の方法として言葉や問いかけはもちろん重要だが超越的な受容には瞑想がどうしても必要になる。チャクラを開き、意識を高い波動領域に、というような事が本当は必要だ。自己の細部に取り組みエゴを解体しなおかつ高次元の意識レベルで相手に向き合わなければ超越的な受容は難しいだろう。テクニックや心情、情感だけで共感することは本当はできないし浅い部分の共感で人はそう変わるものではない。言葉というのは思考の産物であり悟りや真理を言葉にすることは不可能だ。けれど真理が完全であり実在が至福であるとことがわかれば人には絶対に幸せになる道があることがわかる。私がすることは一つでその人がその道を気づきと共に見つけられるようにその道を見ることを閉ざしているものは何かが見つかるように問いかけることだ。心を開き、チャクラを開き、高い波動レベルでそれに気づくとそれは意識の深いレベルで創造される。潜在意識での対話と言ってもいいと思う。
2011.01.31
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レイキというものがとても具体的なエネルギーでありそのバイブレーションが及ぼす結果というものが本当に明確なものだということを日々のセッションを通して実感させられます。させられ続けています。いわゆる霊感体質のクライアントさんが見えたりすると私には見えないものを見て教えていただけることも多いのですがレイキを始めたとたんに「あれ、男の子がこんなところに」とか「あ、出て行きました」なんてことが起こることもあります。どうしてなんでしょうと聞かれるけれどレイキを受け取ると恐らく自身の波動が高くなりそれまで同じ波長で引き合っていた想念エネルギーから波長に異差が出てはっきりわかるとか離れていくとかいうことが起こるようです。明らかに別の人格の人がしゃべりだして光を流すのやめて!苦しい!と言われたり祈るのやめて!私はもう救われないんだから!と言われることもあります。人にくっついている想念というのは荒いバイブレーションの波動(執着)なのでそのほうが良いとわかっていてもいいほう(光のほう、手放すほう、ゆるすほう)へなかなか行けません。これは肉体を持っている人でもいない人でも同じだと思います。肉体を持たなくなっても、肉体にいたときの傷のショックが癒えないとゆるせない思いで人や場所にくっついてしまうようです。くっつかれている人にも似たエネルギーがあると引き寄せの法則で引き合ってしまいます。何も言わずに心で神の名を呼んだり祈ったりレイキのシンボルやマントラを言うとその、想念の人は「やめて!」と言って苦しがります。それを見ていると、光というものがどういうものなのかエネルギーがどのように作用し合っているのかがとてもよくわかります。かなり恐ろしい怨みのセリフが飛び出したりするのでおそろしくないこともないですが私はそれが人間なのだと思います。誰だって、あまりにひどい目にあったらそうなります。虐げられ、理解や敬いを受けず、愛のない扱いを受けたら或いは大切な人をそんな目に遭わされたら。だからこそ、光に向かって前進することが本当に尊いのだしそれは人間という生き物にとってはそれ以上ない大きなテーマなのだと思います。右の頬を打たれたら左の頬を差し出すという行為がどれほどの愛に満ちたことなのか神へと近づく行為なのか。自分だけの力でできることなんてこの世にはほとんどないけれど神の名を呼び、赦されることを祈るのは地上に光を招き光につながる行為なのだと思います。レイキを実践するにつれこれはレイキなのか、神なのか、と思うことがあります。世間で言われているような手当て療法、健康法とははるかに遠いところまで連れて行かれるのを感じます。神を知るための実践法のひとつと言っていいのではないかと思います。きっと臼井さんも、そう思っていらっしゃることと思います。
2011.01.27
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セラピーやヒーリングはエネルギーの掃除みたいなものだ。エネルギーに重たい波動の想念などがくっつくと人は重荷を背負う。本人が優しく繊細で清らかな人だとしても重たいバイブレーションを放っていると重たい想念はくっついてしまう。重荷にあえいで苦しんでいると3次元の幻想世界を凝視してしまいその世界にどっぷりとはまってしまう。霊的な目が閉じられ霊的なつながりを感じられず孤独な恐れに襲われてしまう。人が目覚めるにはその人に与えられた道がありその人の選ぶ道がある。けれど前進が妨げられているとき重たい波動が掃われると人はひかりを思い出せる。雲が晴れれば太陽はいつもそこにあったのだ、というふうに。
2011.01.26
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今日はだんなさんの34歳の誕生日です。月日の過ぎ去ることの早いこと、と思うにつけ今という時の大切さを痛感します。本当に、この世にいてくれて一緒にいてくれてありがとうという気持ちでいっぱいです。当時から思っていたけれどその頃よりも今はもっとふかーい次元でそう感じます。だんなさんは私にも普段からよくそういうことを言ってくれます。「いてくれるだけでありがたいさ」とか。…時間との戦いに唯一勝てるのは愛だと思います。長さとか量でなく瞬時に満ちるもの。男女の愛だけでなく心底満たされる愛が地上とすべての人にもたらされますように。
2011.01.22
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先日だんなさんがCDが一枚みつからないんだと言って困っていた。あちこち探したけれどみつからない。CDをなくしたことなんてここ数年で1枚しかないこれが2枚目になってしまうかも・・・と言う。だんなさんはDJを趣味でやっているのでかなりの枚数を持っている。うちのクロゼットの一つはだんなさんのDJブースになっている。びっしり詰め込まれたCDやレコードの棚を全部引っ張り出して探したけれどやっぱりみつからないらしい。あきらめかけたところで私が「レイキしてごらんよ。なくし物を探すっていうのあったでしょ。」とひとこと。だんなさんは、レイキでどうしてみつかるのさ、という納得しない感じを醸し出している。私も、絶対とは思っていない。あまり物理的なことのためにレイキを使うことがないので実績も少ない。でも、その物体にレイキをして波長を合わせて引き寄せるというのは理にかなっていると思うのでそのように説明するとだんなさんはなるほど、じゃあ、という感じでレイキを送ったようだ。私はすぐに家事に戻った。ものの1分としないうちにだんなさんが「あった。」と言う。驚いたのは私のほうだ。あれだけ探してたのに。PCのドライブから出てきたそう。「なんでここに入ってるかな~。」とだんなさん。探していなかったところから出てきたわけだから魔法ではないし偶然、と見えなくない。私だってそう思いそうになる。うっかりすると。だけど、波長の法則ってそういう風に働くものだ。人は願いがかなったとたんそれは関係ないところから突然やってきたように思いがちだ。でも、それは化学反応のように正確に起こるべくして起こる。水素も酸素も目に見えないけれど反応するとちゃんと水が生まれる。地上の出来事って本当に法則にのっとっているのだ。
2011.01.20
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人によって様々な幸せの形があることはまったくその通りだと思うし否定を感じない。けれども、肉体の欲求に対しての達成や獲得による喜びはひと時のものであり足るを知ることへは繋がらずにさらに、もっと、まだまだという風に飢えを増長させていくのが普通だ。例えるならその人のお部屋はいろいろなときに手に入れた戦利品でいっぱいだ。その中には既にブームの去った思い出だけのものや今の趣味には全然合わないものまた最近手に入れてとても満足を与えてくれた新顔もある。そして同じくらいたくさんの古いガラクタやもはやいつ、何のためにやってきて何に使うのかさえわからないものもあふれているだろう。これはいいもの、これはよからぬもの、みたいなレッテルを貼って整頓してみたりもするのだがなんだか気分はスッキリしないしいいものが増えていっても時々眺めて満足する以外の時は喜びを感じるのさえ忘れがちだ。忘れていてまた同じ様なものを買ってきてしまったりさえもする。ある時もうこれ以上お部屋に物が入らないことに気づく。欲しい物も思い当たらないし得たところで3日も経てば当たり前になってしまってまた新たな獲得のためにあくせくしていた自分に気づく。ブームが去ったあとのかつての宝物は郷愁以外には特に魅力が感じられないのだがこれを失ってしまったら自分のこれまでの人生が無意味になるようで手放せない。・・・なんだかひどい例えだ。誰もが幸せである方法とはこのお部屋を掃除する、というやり方だ。なんだかんだとレッテルの貼られたかつての宝やガラクタのそのどちらにも執着せずどちらも手放す。片付けると決めて動き出すとお部屋にお日さまが差し込み始め風通しが良くなってくる。居心地がいいことに気づく。お部屋は見通しが良くなり何が機能していて何が不要なのか風通しや日当たりを遮るものがどれなのかもよくわかる。ただそこに最初からあったものだけで快適で幸せで平安になっていることに気づく。このお部屋というのが、例えばわたしだ。
2011.01.07
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スピリチュアルであるということは自分は肉体ではない、無限の存在であると知っているということだ。でも実際にそれを本当に知っている人は少ないだろう。或いは信じたいけれど、確信がない。それで人生をコントロールするために苦闘する。自分はスピリチュアルかどうか、という問いは愛を信じるかどうか、という問いと同じ意味だと私は思う。愛がどれとははっきりと言えなくても人は心で愛というものが存在していることを多かれ少なかれ感じていてその存在を完全否定することは難しいことだと思う。高校生の頃読んだ曽野綾子さんのエッセイで彼女は無神論者だという人に問いかける。「では、あなたの子供が山で遭難して消息不明の時あなたは神に祈らないんですね」という風に。「無神論者だというなら神に祈らないはずです」と。彼女はそんな感じの極論を用いて人の意識の思い込みをひっくり返すことをよくなさる。そういうのがとてもおもしろかった。人は心の底で信じていることを「信じていない」と言ってみたり恐れていることを恐れていない、感じていることを感じないとよく口にする。実際に人は自分の力でどれほどのことができるのだろうと思う。その結果何をもたらすことができるのだろう。我(が)の力は一見パワフルではある。我のパワーというのは我(われ)の意思をもって周囲をコントロールしようと奮闘する。我にとっては周囲の環境、つまり現象がすべてだからだ。でも自分という肉体や周囲を意のままに変えようとするのは本当に生命を消耗させるものだ。自分がスピリットであり愛であると知ると外側の世界は完全に内なるエネルギーの投影だとわかる。外側に愛の欠如を感じるとき内側に愛を妨げる思考がある。その思考は、防衛や攻撃から生まれている。防衛と攻撃は恐れによって発動される。人は恐れから自由にならない限り愛の欠如した状況を作り出し続ける。負のカルマというのはそういうことだ。内なる進化と呼ばれているのは恐れを信頼に変えていくことであり目覚めとは、恐れを幻想と知り真実に還ることだと思う。
2011.01.06
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みなさん、新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。たくさんの方々から、新年のご挨拶のご連絡をいただき本当にありがとうございます。お返事が間に合っていませんが本当に嬉しく拝読させていただきました。新しい年のおくつろぎのひと時に思い出していただきご連絡いただけるとは本当にありがたい幸せです。みなさんのご発展とご多幸を心からお祈りいたします。おかげさまで三が日をめいっぱい満喫させていただきました。三社参りを3日連続で敢行しました。(まったく予定しておらず、3日目の途中で気づきました^^)沖縄八社と言われる神社があるとのことでそのすべてと、去年も参らせていただいた護国神社に詣でました。しかも最終日の昨日は自転車で三社を廻り図らずも感慨深い三が日となりました。ちなみに昨日は波の上宮と安里八幡宮、識名宮の三社で参拝と食事の時間を含めると8時間の旅でした。道を間違えたと思えばざーっと雨が降ったりで偶然にも雨宿りできる場所にいられたりして奇跡的な導きの連続でした。エネルギー満タンで今日からまたセッションを開始いたします。みなさんにもたくさんの奇跡と導きがありますように。
2011.01.04
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