秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2019.09.02
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昭和40年代半ば、国鉄のディスカバージャパンのキャンペーンに歩調をあわせて小柳ルミ子さんの瀬戸の花嫁を始め、叙情的な歌謡曲が流行りました。藍美代子さんのミカンが実る頃もそんなジャンルで印象に残ります。

似たようなというか元祖のみかんの花咲く丘を聴きましたが、はいだしょうこさんの歌が美人で聴かせます。いちど見たら忘れない独特のイラストが気に入ってLINEスタンプ買いました。








20234.16リンク切れにより差し替え。


■参考リンク
Wikipedia:藍美代子
藍美代子(あい みよこ、旧芸名:純エリ子(じゅん えりこ)、本名:宮澤美代子(みやざわ みよこ)、1954年6月20日[1] - )は元歌謡曲、現在ジャズの歌手で、パブスナック経営者でもある。宮城県石巻市出身。
歌謡曲時代
1973年にNET系オーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』で第一回の優勝者となり[3]渡辺プロダクションに所属。同年8月「藍美代子」の芸名で再デビューした。ワーナー・パイオニアよりデビューシングル『ミカンが実る頃/風小僧』を含む7枚のシングル盤、フルアルバム『わたしの四季』、4曲入りミニアルバム『若草の誓い』を発表し、張りのある澄んだ声と優れたテクニックとを駆使した、本格的な歌唱が評価された。

Wikipedia:みかんの花咲く丘
みかんの花咲く丘(みかんのはなさくおか)は、第2次世界大戦の終戦直後に生まれた、日本を代表する童謡の名作の1つとして知られる。1946年8月25日に発表された。作詞は加藤省吾、作曲は海沼實による。レコードは、井口小夜子が吹き込んだ物(1947年7月・キングレコード)と、川田正子が吹き込んだ物(1947年・日本コロムビア)がある。
「戦後生まれの童謡の中では最大のヒット曲」とも称される[1]。

1946年8月25日、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの「二元放送」が行われることになった。放送には当時12歳で人気絶頂の童謡歌手であった川田正子が出演することになっており、作曲家の海沼實が川田が歌う曲の作曲を任されていたが、前日の24日になっても作品は仕上がっていなかった。そこへ音楽の月刊雑誌「ミュージック・ライフ」編集長の加藤省吾が、川田の取材のため、海沼が滞在していた川田宅を訪ねてきた。海沼は加藤に事情を説明し、必要な歌詞の大まかな流れを加藤に説明した上で、その場で作詞するよう加藤に求めた。
加藤はまず主題から検討した。放送の行われる静岡から加藤がまずイメージしたのは、みかんであった[注釈 1]。しかし当時、サトウハチロー作詞の『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしており、みかんの実の方を扱えば加藤の先輩にあたるサトウ・ハチローから「二番煎じ」と嫌味を言われるおそれがあった。8月はみかんは実がなっている季節であったが、あえて実ではなく、花の方を主題とすることに決め、海沼が指示した流れにみかんの花が咲く情景を盛り込む形で、1番と2番にあたる部分を完成させた。3番も作るよう求められた加藤は、自らの体験を元に3番を書き足し、海沼の依頼から約30分で歌詞を完成させた。
原稿を受け取ると海沼はGHQで詞の検閲を受け、検印を受けるとすぐに伊東行きの列車に乗り、列車の中で作曲を始めた。車窓にみかん畑が現れる国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線の宇佐美駅付近でようやく曲が完成した。宿に着くと海沼は川田とともに入浴し、作ったばかりの旋律を口移しで川田に教えた。翌日の放送では川田はまだ歌詞を覚えておらず、海沼が名刺の裏に書いた歌詞を見ながら歌う、という慌ただしさであったが、歌は日本全国に大反響を呼び、『みかんの花咲く丘』は、日本を代表する童謡作品となって、現在にいたるまで広く歌い継がれている。




Wikipedia:はいだしょうこ
はいだ しょうこ(1979年3月25日 - )は、日本の歌手、女優、タレント、声優である。本名、拝田 祥子(はいだ しょうこ)。宝塚歌劇団所属時の芸名は、千琴 ひめか(ちこと ひめか)。歌劇団在団時の愛称は、ショーコ。
東京都出身。宝塚歌劇団84期生。NHK『おかあさんといっしょ』第19代目うたのおねえさん。東宝芸能を経てホリプロ所属。
『おかあさんといっしょ』 うたのおねえさん
その後、2003年4月7日から2008年3月28日までの5年間、NHKの未就園児向け番組『おかあさんといっしょ』の第19代目うたのおねえさんとして活躍した[6]。宝塚歌劇団出身のうたのおねえさんは第8代目の森晴美以来となる歴代2人目。就任時に「たくさんの子供達に自分の名前を覚えてもらいたい」という理由で、芸名を本名のひらがな表記の『はいだしょうこ』に変更した。
人物
特技はバレエ、ジャズダンス。
趣味はミュージカル観劇、ドライブ(助手席専門) 、温泉巡り。
宝塚歌劇団出身の芸能人では数少ない「退団後に宝塚在籍時の芸名を使用していない芸能人」である。宝塚の所属期間が4年間と比較的短く、主役である「トップ」の経験がないこと、宝塚退団後に芸名を(全てひらがな表記ではあるが)本名に戻していること、「おかあさんといっしょ」への出演経験等から、『元・宝塚(タカラジェンヌ)』よりも『元・うたのおねえさん』や『しょうこおねえさん』と呼ばれることの方が圧倒的に多く、最近では宝塚に在籍していたことを知らない人も多い。

「うたのおねえさん」のオーディションは、宝塚歌劇団を退団した直後に童謡歌手時代に共演した女性歌手から、『うたのおねえさんのオーディションが今行われている』と言う話を聞いて受験した。最終選考ではいだを含めて6人残った受験者が控室で次の選考に向けて準備をしている際、ある受験者が課題の歌の歌い方を他の受験者に聞いて回っていた(この時の事に関して「おかあさんといっしょ」卒業後にはいだは民放のTV番組で「審査員の人が最終選考の控室の中にいたらしい」と言う発言をしており、この受験者が実際には審査員で受験者のダミーとして紛れていた可能性を示唆している)[要出典]。当然ながら他の受験者は自分の練習を優先させていたが、はいだだけが自分の練習を止めてその受験者の練習を手伝った。その事がうたのおねえさんとして選ばれる決め手になった[6]。
イラスト
うたのおねえさんを務めていた当時、佐藤弘道からは「子供を黙らせる絵を描かせたら日本一」と評された。さらに両親からも「人前で絵を見せることだけはするな」と釘を刺されていたが、結局仕事上で描かざるを得なくなった[13]。
2006年4月28日には「おかあさんといっしょ」の番組内のコーナー「やぎさんゆうびんリクエスト」において、同番組の当時マスコットキャラクターだった『スプー』の絵を絵描き歌で描くことになり歌いながらスプーの絵を描いたが、はいだが描いたスプーは本来のスプーのデザインとはかけ離れたイラストだった[注 5]。はいだの旧公式ブログのバナーには、この時に描かれた「スプー」のシルエットが用いられていた。[14]
これをきっかけにはいだの絵に注目が集まり、イラスト関連の仕事もこなすようになった。『お茶の間の真実〜もしかして私だけ!?〜』に出演した際は、番組内でスヌーピーの絵を披露した[13]。2008年には、オンラインゲーム会社のジークレストが、自社のキャラクター「ココロ」をはいだに模写させ、そのイラストをゲーム内のアイテムとして配布するキャンペーンを行った。ジークレスト側は「はいださんは主婦層の人気が高く、新しいユーザーの獲得にも寄与できるのでは」としており、はいだのイラストをデザインしたTシャツのプレゼントなども実施した。また、はいだは、ゲーム内のアバターの衣装デザインなども手がけている[15]。





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Last updated  2023.04.16 02:07:07


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