秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2021.02.19
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カテゴリ: グルメ Gourmet


先日オムライスがおいしかったキッチンタマヤさんで、バリエーションのオムハヤシライス、クリームオムライスを試してみました。

オムハヤシライスは、ハヤシのソースにはWikipediaによればトマトも使われているそうで、オリジナルのケチャップソースの甘さを抑えた味に感じます。言ってみれば、お子様ランチでよく見かけたケチャップのオリジナルオムライスが幼少期とすれば、甘さを抑えて味が複雑化したオムハヤシライスは思春期のオムライスといった感じでしょうか。この甘さがポイントで、オムカレーライスはありえないかもしれません。

ちなみにハヤシライスのハヤシの語源が気になって今回調べましたが、結構奥が深くてびっくりしました。人の姓という説もあったりでなかなか面白いです。

オムライスには、ノスタルジーを感じますが、子供の頃食べたお子様ランチにいつも載っていたからのような気がします。還暦を過ぎて原点に還っていく中で、子供時代を思い出して最近むしょうに食べたくなったのかもしれません。言ってみれば、オムライスは男のロマンだ、なのかも。

クリームオムライスもなかなかおいしかったです。チキンライスのみの甘さのオムライスはクリームと調和して別の料理へ踏み出した感じがします。

■参考リンク
Wikipedia:ハヤシライス
ハヤシライスは、薄切り牛肉とタマネギをドミグラスソースやトマトソースなどで煮たものを米飯の上にかけた料理。海外の料理をもとに日本で変化した洋食に分類される。近畿地方ではハイシライスとも呼ばれる[1][2][3]。
地域によっては牛肉を豚肉で代用したり、マッシュルームやその他の具材を加えることもある。カレーライスなどと同様に、即席の固形ルーや温めて米飯にかけるだけで食べることのできるソースが市販されている。
「ハヤシ」の語源


なお、英語で「ハッシュ」 (Hash) と言った場合、ハッシュドポテト系の料理を指す場合と、肉汁のスープ(デミグラスソース)で煮込む料理を指す場合とがある(#発祥も参照)。ルポライターの澁川祐子は、この2つが明治年間に混同され、最終的に米飯に合う煮込み料理としてのハッシュだけがハヤシと呼ばれ、普及していったのではないかと述べている[7]。

その後、大正年間から昭和年間にかけての料理書では「ハヤシライス」の名称が頻出するようになり、「ハッシュドビーフ」の名称は使用されなくなっていったが、1989年にハウス食品が「ハッシュドビーフ」と名付けたルーを販売し、他社もこれに追随したことから、あたかも別の料理であるかのような混乱が新たに生じるようになった[7]。
その他の説
早矢仕有的説
丸善創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)が作った牛肉と野菜のごった煮に由来するとする説。『丸善百年史』に掲載されている説である[8][7]。#発祥も参照。
林某説 (1)
上野精養軒のコックをしていた「林」が、従業員の賄い飯として作ったところ好評であったことから、これをメニューにしたとする説。しかしながら、林という人物が実在していたか定かではなく、信憑性は薄い[7]。
林某説 (2)
明治初年に横浜に在住していた「林」という男が由来であるとする説。林はある洋食屋に行くと「カレー粉抜きのカレーライス」という注文をよくしていた。当初、この料理には名前がなかったので、店員たちはこれを「林さんのカレーライス」、さらに略して「林ライス」と呼ぶようになった。これが他の客にも伝わって評判となり、いつしか他の店でも食べられるようになった、とするもの。自著でこの説を紹介した楳垣は、「面白いが作り話に違いない」とこれを退けている[5]。
早死説
江戸時代以前の日本では、牛肉などの獣肉を食する習慣が無かったことはよく知られている。明治に入ってから洋食文化が流入してくると、洋食料理店などで獣肉を使用した料理が普及し始めた。洋食料理が流入し始めた明治初期の頃には、それまでの食文化の経緯から獣肉を食することに否定的であったため、「獣の肉など食べたら早死にする」[注 3]という噂が立ち、そこから「早死ライス」と呼ばれるようになった、とする説[9]。

上野精養軒のハヤシライス
発祥に関しても諸説あり、定かではない。丸善以外にも複数の店がハヤシライスの元祖を名乗っている。
ハッシュドビーフ説
「ハッシュドビーフ」も参照
イギリス・アメリカの古い料理書に、Hashed beefと命名された牛肉の薄切りを煮込んだ料理が掲載されていることから、これが日本に伝わったものがライスと合わさってできたとする説。

一方、1885年発行の『手軽西洋料理』(クララ・ホイットニー著)、1894年の『獨習西洋料理法』(バツクマスターほか著、八巻文三郎)、1907年の『家庭応用洋食五百種』(赤堀吉松、赤堀峰吉、赤堀菊子著、新橋堂書店)、1909年の『簡易西洋料理弐百種』(白井悦子著、弘道館)などの同時期の料理書には、「Beef Hash」(ビーフハッシュ)や「ハッシュビーフ」、「ビーフ、ハヤシ」などの名前で、牛肉と細かく切ったポテトを炒めて作るハッシュドポテト風の料理が紹介されており、この時代から類似の名称でまったく違う料理が紹介され、混乱があったことをうかがわせる[7]。
早矢仕有的説
丸善創業者の早矢仕有的が考案した、肉と野菜のごった煮にご飯を添えたものが有名となって「ハヤシライス」と称されるようになり、いつしかレストランのメニューにもなったとする説。早矢仕が友人たちに有り合わせの野菜類や肉類を煮込んだ料理を饗応したとも、横浜での勤務医時代に、病院の患者向けの栄養食として考案したとも、丸善に務める丁稚向けの夜食として考案したともされる[7]。1935年発行の『季刊明治文化研究 第五輯』(明治文化研究会)に掲載された『早矢仕有的傳』(蛯原八郎著)ならびに1980年発行の『丸善百年史』にこの説が掲載されている[15]。
ただし、『早矢仕有的傳』においては「話としては是は至極面白いが餘りに面白過ぎる嫌いがないでもない」と指摘し、有的の長男である早矢仕四郎の言葉として、明治初年以来に有的やその友人が通いつめた洋食屋である神田佐久間町の三河屋にて、明治20年(1887年)頃までハッシュ・ビーフが流行っており、この「ハッシュ・ビーフ」が「ハヤシ・ビーフ」にいつの間にか転訛したのだ、と述べられている。また、『丸善百年史』では、「これとライスと合せて称したものが、ハヤシライスの語源に違いない。しかし三河屋も有的が贔屓にした料理屋であるから、間接に関係があるといえば、いえないこともあるまい」と記載されている。
これに対し、早矢仕の子孫である丸家稔は、有的の孫である自身の母が繰り返し語ったハヤシライスと有的の関係や、有的の勤務していた横浜では外国人居留地があって肉類が手に入りやすかったことなどの状況から、自身の医院で病院食として栄養失調患者に治療として食べさせたのが始まりに間違いないと反駁している[16]。
もっとも、これらの資料には早矢仕有的が作った元々の「肉と野菜のごった煮」が、いかなるレシピの料理であったかは説明がなく、早矢仕有的とハヤシライスを直接結びつける資料も見つかっていない[7]。また、三河屋で流行ったという「ハッシュ・ビーフ」についても、肉汁のスープで煮込む系統の料理であったのか、ポテトを使う系統の料理であったのかは不明である。なお、ドミグラスソースが日本に伝来したのは明治30年代(1897年以降)であり、有的が作った料理については醤油か味噌の味つけだったのではないか、と丸善の広報担当者は推測している。また、「早矢仕ライス」の名で丸善のレストランで提供されたハヤシライスも、初期にはトマトベースであったと唱える説も聞かれる[17]。
煉瓦亭説
銀座の老舗洋食店煉瓦亭3代目の木田明利は「日本橋丸善が元祖ではあるが、あれはチャプスイに近い」とし、ドミグラスソースのハヤシライスは自店が元祖であると語っている[18]。
秋山徳蔵・上野精養軒説
元宮内庁大膳課の料理人である渡辺誠は、食文化研究家の小菅桂子の著書において、宮内省大膳寮初代厨司長(戦後は宮内庁大膳課主厨長)であった秋山徳蔵が考案した宮内省版ハヤシライスが元祖であると主張した。秋山の料理は東欧料理のグヤーシュをベースとして創作されたもので[注 4]、これが上野精養軒のコックであった「林」に伝わり、「ハヤシライス」という名で世に広まったという説である。しかしながら、秋山が宮内省に入省したのは1913年のことであり、それより前の1907年3月10日付の朝日新聞に、東京神田の岡島商店の『固形ハヤシライスの種』という商品の広告がすでに掲載されていたことから、この説には信憑性がない[7][19]。

Wikipedia:お子様ランチ
お子様ランチ(おこさまランチ、Child's Meal[1])とは、レストランやデパートの食堂などで子供[2]向けに提供されるメニューのことである。量や嗜好、見た目が子供向けに重視される事が多い。発祥は昭和初期の日本。
「ランチ」と呼ばれているが、ランチタイム以外でも注文できる店がほとんどである。また、年齢制限を設ける場合が多い。
概要
「お子様ランチ」の定義は店毎に異なる。また、類似の物を別の名称で提供している店もある。内容も、子供向けに趣向を凝らした物から単に量を子供向けにした物までさまざまである。一般的に、何点かの料理を1つの皿に盛るように区切られたランチプレートが用いられる。プレートには子供向けのキャラクターが描かれているものや、新幹線や飛行機といった乗り物を模ったものが多い。凝ったものでは、蒸気機関車型のプレートに盛り、煙突部分にドライアイスを仕込む、といった例もある[3]。
店やメニューによっては、注文するに当たり“小学生まで”としている[4]。理由は、子供連れの家族を狙った客寄せの意味が大きく、多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、多くの場合採算割れするためである[5]。しかし、子供が食べきれるように惣菜は多種ながらも少なめに盛り付けてあるため、食が細めの女性や高齢者に好まれることも多く、日本橋三越[6]や上野松坂屋のように例外的に(おもちゃのおまけなしで)注文を受け付ける店もある。
なお、国際線航空便の機内食では、特別食の一つとして、子供向けの食事が用意されており、食器や盛り付けなどに工夫が凝らされている。ただし、一般的な特別食扱いであるため事前に航空会社か旅行会社に申し込む必要がある。
歴史
1930年(昭和5年)12月1日に、東京府東京市日本橋にあった三越の食堂部主任であった安藤太郎が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し発売した[7]。当時は「御子様洋食」と呼称されており、値段は30銭(カレーライスとカツレツの中間の価格帯[8])。世界恐慌の暗い時代でもあり、子供には楽しい気持ちになってもらおうと開発したという[3]。
翌1931年3月には[9]、動物園や花見帰りで子供連れ客が多い上野松坂屋の大食堂がコックのアイデアを元に同じく30銭で「お子様ランチ」の提供を開始[8]。当初は振るわなかったが、英国王太子来日の際の歓迎の旗やグリコのおまけをヒントにメニューに改良を加えたところ好評を博し、この名称とスタイルが全国的に定着することになる[10]。
1960年代、松坂屋が当時人気だったウルトラマンやウルトラ怪獣のおもちゃをおまけに付けたところ、休日には1,300食もの注文を受けるほどの爆発的な人気を得るようになった[8]。当時の価格は大人のランチの半額程度にあたる40 - 60円[8]。
2010年、松坂屋は百貨店への業態転換100周年を記念し、1932年当時のお子様ランチを復刻メニューとして提供した。2014年の改装後から大食堂として営業するファミリーレストランカトレヤが、2018年に開業250周年記念として大人向けのお子様ランチを数量限定で発売した[11]。
料理内容
ご飯は、チキンライス・オムライス・チャーハン・ふりかけご飯といった色鮮やかなものが山形に盛られる場合が多い。そのてっぺんには、登山家が登頂の記念に国旗を立てることに因み、爪楊枝と紙で作られた小さな旗(日章旗など)が立てられることが多い(これらは「国旗爪楊枝」や「フラッグピック」などの名称で製造・販売されているものである)。
おかずには、ハンバーグやエビフライ・唐揚げ・ナポリタン・フライドポテトなど、子供に人気の高い料理が添えられる。
ファミリーレストランなどでは、オレンジジュースや乳酸菌飲料を代表とする飲み物や、プリンやこんにゃくゼリーといったデザートの類、キャラメルやチョコレートなどの菓子、そして小さな玩具(古くはミニカー・吹き上げパイプ・吹き戻し・紙風船など)が、おまけとして付いてくるところもある。





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Last updated  2021.02.24 03:03:24


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