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みなさまいかがお過ごしでしょうか。 今日の雪国は明るい日が差して、(いつもよりは)あたたかいです。 今夜からまた、どさっと降るみたいですが。とほ。 雪や寒さのせいもあり、何となく家にこもりがちになって気持ちが内側に向いてきたので、昨日は車を運転して外に出かけてみた。 いくつかの用事を済ませて、モスバーガー(田舎のモスバーガーは広くてきれいで居心地がいい)と図書館(くまにスキーの本、わたしは大好きな工藤直子の「ともだちは海のにおい」を借りてきた)に行ってきただけなんだけど、心が外に向かってぱっとひらけた感じ。 家にいるのも好きだけれど、やっぱり外に出る時間があるといいなあ。 気持ちがひろびろとして、余裕が出たぶん、くまにもやつあたりしないですむ。家事もはかどる。筆もすすむ。ひとりで車に乗るのに勇気がいるとか、雪道はあぶないとか、急に吹雪いたらこわいとか、ガソリンが高いとか。 言い訳はいくらでもできるけれど、言い訳は言い訳にすぎない。 思い立ったらどこにでもほいほい出かけてゆくお調子者っぷりが身上のわたし、乗り物がメトロから車に変わったくらいでめげてたまるかー! インターネットで調べて、近所に行ってみたい場所もいくつか見つけたので、くまが休みの日に練習付き合ってもらって、ひとりで出かけられるようにしよう。 もちろん、くまに頼めばどこへだって連れていってくれるのだけど、それじゃあだめなのだ。 わたしが自分で行きたい!と決めて、自分で道を調べて、車に乗るこわさを乗り越えて、ひとりで出かけて、自分とのデートを楽しんで帰ってこなければ、意味がない。 アン・モロウ・リンドバーグを気取ってオーストラリアの海辺で考えたこと。 わたしにとって、結婚は「ひとりと同時にふたり」ということなのだと思う。 結婚して、今までそれぞれ別々に営業してきた個人商店を一度たたみ、少し広いお店を構えなおして仕事も効率的に分業したのが今のわたしたちだけれど、だからと言って、わたしがわたしであることまで消えるわけじゃない。 仕事を分業して、それぞれ得意分野を引き受けることで人生は居心地がよくなる。レストランに例えればくまが仕入れと接客、わたしは料理と経理だ。 でも、今までひとりで完結させていた部分の負担が軽くなるからと言って、自分で自分の可能性を狭めてはだめだ。 わたしはたまたま料理と経理が得意だから余分に担当しているだけで、腕まくりして気合いを入れれば仕入れも接客もできる。 ひとりでどこまでも出かけることができるし、いざとなったら外国の人とだってしゃべれる。見知らぬ町にも住める。重い荷物も全部持てる。ややこしい交渉だって、時間はかかるけどちゃんとできる。もちろん、仕事をしてお金を稼ぐことも。…だって、こないだまで全部やっていたんだもの! ひとりでも生きていけるわたしが、それでもふたりを選んだのだということ、忘れないようにしよう。 …なんて、思いながら「暮しの手帖」を開いたら、「しあわせな結婚とは、いつでも離婚できる状態であるけれど、離婚したくないと日々思いながら暮らすことです」と書かれていた。うーむ。その境地にたどり着くにはもう少し時間がかかりそうだ。バランスって難しい。修業、修業。 * 最近つくっておいしかった料理。 コチュジャン風味のぶり大根。 李映林さんの息子、コウケンテツさんのレシピ。ぶりのあらの下ごしらえが苦手で、生臭くなってしまうわたしでも、コチュジャンに唐辛子、ねぎ、にんにくもたっぷり使ったこのぶり大根はおいしくできました。 本家のぶり大根より、調理時間が短いのも魅力。 体がぽっかぽかにあたたまってセーターを脱ぎたくなるくらいなので、暖房費も節約できる。 さむーい夜にぴったり。おすすめです。
2008.01.30
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東京にいるころから少しずつ、少しずつ書きすすめている文章がある。 去年は退職に引っ越しに結婚式…とイベントが満載で、身の回りが慌ただしくなるたびに手が止まるのでちっとも進まなかったのだけど、いよいよ時間もできたので、ちゃんと向き合うことにした。 少し時間を空けると、必ず「わたしには、人さまに読んでいただけるものなど書けないのでは…?」と心細くなる。 大それた野望を語るわたしに、賢い人たちがこれまで授けてくれた現実的なアドバイスが、走馬灯のようによみがえる。 そんなときは、このブログにいただいたたくさんのあたたかい言葉や、大切な人たちからもらった手紙や、尊敬する人たちの本を何度も読み返して、泣きそうになりながらがんばって原稿用紙を広げる。 宿題で作文やレポートを書いていた学生時代とも、仕事で原稿を書いていた記者時代とも、今はちがう。 誰もわたしに文章を書けとは言ってくれないし、たとえ書いても、誰の目にもとまらない可能性は十分にある。 こわい。とても。原稿用紙こわい。パソコンこわい。 でも、存在しない文章は、その価値を判断してもらうことすらできないのだから。 書くのよ、わたし! 無理やり原稿用紙に向かって落書きしたり、ネットサーフィンをして現実逃避をしたりしているうちに、ほんのちょっとだけ晴れ間が見えるような感覚が訪れるときがあって、「あ…」と思う。 どちらが陸かもわからなかった夜の海で、灯台の明かりを見つけたような気持ち。 灯台は次々にあらわれるので、今見えた灯台が最終目的地ではたぶんないのだけれど、少なくとも、今日やるべきことだけはわかった。明日のことはまた、明日考えよう。 まず、誰かのやり方やほかの人が作った枠組みに当てはめようとするのをやめなければ。 自分の周波数は、世界にひとつしかない。 耳を澄ませながら少しずつダイヤルを回して、自分で見つけなくちゃ。 文章を書くことは、海に潜ることに似ている。 集中しているときは、想像したり創造したりしている感覚ではなくて、その世界に身体ごと潜り込み、五感を使って見たり聞いたり触ったりしたことを写生しているような感じがする。 展開される景色や出来事に手や語彙力が追いつかなくて、もどかしい思いをする。 でもこれは潜水と同じで体力を要するし、長時間ぶっ通しで潜ると五感の精度が鈍ってくるので、一定時間潜ったら浮かび上がって呼吸を整え、あらためて潜るのがいいように思う。 たとえば料理をしたり、散歩をしたり、ストレッチをしたり、雪かきしたり(!)、言葉から少し離れてからあらためて潜る。 うまく潜れると、ずーっと潜って海底の景色を眺めていたくなるのだけれど、わたしはまだまだ体力が足りないみたい。 訓練を積めば、ある程度長い時間潜っていられるようになるのかな。 * しばらく机に向かっていたら頭の中がもやもやしてきたので、ヨーガをためす。 最近は、綿本先生のパワーヨーガDVDに合わせてやっていたのだけど、今日は雪かきの後遺症で上半身がばりばりなので、教室に通っていたときやっていたゆっくりめのラージャヨーガのDVDにしてみた。 呼吸のリズム。体のバランス。心身の静寂。体のパーツひとつひとつに順番に話しかけて、ゆるめるべきところはゆるめ、動かすべきところはゆっくり動かしてゆく。 体の調律ですね、これは。寒さでちぢこまり、雪かきでこわばった体の秒針が、順調に動きはじめる。 いい文章を書くには、気持ちを充実させること。気持ちを充実させるには、まず心を安定させること。心を安定させるには、何よりも体を整えること。 せめて走りに行けない冬の間、少しずつでも毎日つづけよう、ヨーガ。
2008.01.26
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すごい雪です。もう笑うしかない。 南の島の日記を清書しながら窓の外に降りしきる雪を眺めていると、あまりのギャップにふしぎな気持ちがしてくる。地球上には、ほんとうにいろんな場所があるなあ! わが家の駐車場は、アパートから少し離れた野ざらしの場所にあって、除雪車もまじめに除雪をしてくれません。 朝、窓から見たら車体が見えないほど雪に埋もれて、小高い丘ですかね、あれは?という具合になっていたので、おじいちゃんの車が雪の重みでつぶれる前に救出すべく、雪かきスコップを持って駐車場へ向かう。 ダウンジャケットに長靴、毛糸の帽子、手袋。雪かきの基本装備です。 家の前でうっかり除雪していない場所に踏み込んでしまい、突然足の付け根まで雪に埋もれる。こんなに積もっていると思わなかった!びっくりして、思わず笑いがこみ上げる。 駐車場へ着くも、雪が深すぎて車にたどり着けず。 とりあえず雪かきのための場所を確保すべく、雪をすくい上げては雪山に投げ上げる。 ぜえぜえ言っていたら、近所の女の人も雪かきにやってきた。 あまりにも果てしない作業なので、顔を見合わせて思わず笑う。 地元の人にとっても、一度にこんなに降るのは珍しいみたい。 「車の前の雪をどけて、動かしてからがーっとやると早いですよ」と教えてもらった。 わたしの2倍くらいの速度で、地面に白い部分も残さず、手際よく作業をして、女の人は去っていった。雪国の女…かっこいい… わたしはと言えば、死闘2時間、全身汗でずぶ濡れになり、腕と肩がぶるぶる震えるほど雪を運んで、何とかそれらしい格好をつけた感じ。 しかし驚いたなあ。車の上に、大げさでなく50センチくらいは積もっていた。 雪を下ろしたら、車が急に小さくなったように見えたもの。 昨日も雪かきはしたのに、ひと晩でこんなことになるなんて。 ぼろぼろの体を引きずって帰宅し、着替えるのももどかしくがぶがぶ水を飲んで、がふがふごはんを食べる。 肉体労働だから、お腹が空くのですね。 つやつやのごはんに納豆。お魚。梅干。おみそ汁。どれも涙が出るほどおいしかった。日本の宝だ! そのままこたつに倒れて眠ってしまい、はっと目覚めたら体のあちこちがぎしぎしと悲鳴を上げている。 でも、まあ、おかげで週末の雪かきが楽になったし、おじいちゃんの車もつぶれずにすんだし、近所の人とお話もできたし、気晴らし…と言うにはちょっとハードだけどいい運動になったし、ごはんもおいしく食べられたし、たまにはいいとしよう。 * 昨日は夜、ねぎと白菜の水炊きを食べた。 干ししいたけと昆布を昼から水に浸しておいたダシを土鍋であたためて、切った野菜とお豆腐を入れて煮るだけ。この間届いたクウネルに載っていて、とてもおいしそうだったのです。 ちょうどゆずの買い置きがあったので、自家製ポン酢にゆず果汁を搾り入れたのと、すりおろしたゆず皮を味噌に混ぜたものと、ゆず果汁を混ぜた塩と、3種類のたれでいただく。 ポン酢って自分で作れるんだ!と作ってみて今さら驚いている次第。しょう油8とお酒2とみりん1を小鍋で沸騰させ、お酢4を加えて冷ましたら完成。市販のよりうんとおいしいです。 せっかくなので、日本酒を熱燗にして、雪国の晩酌。 旬の野菜の甘みにゆずの香りがアクセントになって、しいたけも旨味たっぷりで、思いがけず贅沢な夕食になった。冬の定番になりそうです。
2008.01.25
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ここしばらく雪が少なくていい塩梅だわ、と思っていたら、昨夜から本格的に降り始めました。 天気予報によると、週明けまで降りつづくらしい。 しばらくはおとなしく家の中で過ごそう。 夕食は、「クウネル」で見た白菜とねぎの鍋にしよう、豆腐も入れよう…などと思いながらチャイをいれて飲んでいます。 かぜ、治りました。 かぜをひいていると気持ちも内向きになって、そうしたら、ぴりぴりした空気がくまにも伝染してしまった。これはいかん! もともと、ひとりで時間を過ごすのは得意なほうだけれど、結婚式も新婚旅行も終わり、知り合いのいない雪国の冬にあらためてひとりになってみると、少し寂しいのもほんとう。 ふだんはあまり感じないけれど、体調が悪くなったり、疲れたりすると寂しさのとげがちくちく、内側から胸のあたりを刺しはじめる。 おとといは夜、寝つけなくて、こたつでノートを広げてみた。 「胸の奥まで息が吸えない感じ…」と書いてみてあっと思い、すーっとお腹に息を吸ってふーっと吐いたら少し落ち着いた。 そのまま眠ったら、外の人とたくさん話したり、交流するような夢をみた。夢のほうでもこちら側のわたしに気をつかって、いろいろ助けてくれるつもりらしい。 翌朝、夜明け前に起きて勝手口を開けたら、西の空に満月がぽっかり浮かんでいる。 うっすら白い、透き通るような月で、どきどきしながらじっと見る。 食卓を整えてからもう一度見たら、もう日が昇って、お月さまは影も形もなくなっていた。 * きのうは午前中、ハローワーク。 旅行やら雪やら…でつい足が遠のいていたので、もっと積極的に職探しをするよう励まされた。 待ち時間に就職活動のDVDが流れているのだけど、今回はいつものよりおもしろかった。 鉄工ひとすじに生きてきたお父さんが、会社の倒産で職を失くし、就職活動にまい進するストーリー。 本当に得意なことって、自分では当たり前すぎて、気づいていなかったりするのだよなあ…と思いながら、珍しくしみじみと見た。 心愉しい用事ではなくても、外に出るとやっぱり気分が晴れる。 車の運転はまだ緊張するし、雪道はこわいけれど、晴れた日にはできるだけ外に出かけよう。 帰宅して、お昼ごはんのトーストにレンゲハチミツをかけようと思ったら、押しても引いても逆さにして振っても出てこない。 ふたを開けて中を覗き込んだら、白く結晶化しているのでした。 オーストラリアでわれわれが日差しを満喫している間に、寒さで固まったらしい。 鍋のお風呂に入れて溶かす。 夕方、窓を開けてヨーガをやる。 ちょうど小学生の下校時間で、外は賑やか。 少し時間をかけてていねいにやったら、心のざわざわがだいぶ静かになった。 そうそう。体と心を整えれば、たいていの悩みは解決するのでした。すぐに忘れてしまう。 ひとり暮らしのとき、大量に作って冷凍しては食べていた豆カレーが無性に食べたくて、菊地さんの新しいアルバムをかけながらせっせと玉ねぎを刻む。ジャジーな味わい(?)のカレーになりました。 夕食の後、残りのカレーをジップロックに分けて冷凍庫に放り込みながら、「今日から毎日、なくなるまで豆カレーだからね。いひひ」とくまを脅かしたら、一瞬のためらいののち、「わあい…」と力ない声でつぶやいていた。
2008.01.24
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風邪をひきました。ごほん。週末には熱も少し出たので、雪国はせっかくの晴天なのに、家の中で寝たり起きたり、本を読んだりしてぬくぬく過ごしています。今はお昼に土鍋で炊いたおかゆを食べて、akiko の「ガール・トーク」をBGMに、ショウガレモン紅茶ハチミツ入り、を飲んでいるところ。明日は出かける用事があるので、このまま雪が降らないといいなあ。「考える人」が河合隼雄先生の追悼特集なので、手に入れて大切に読んでいる。巻頭に小川洋子さんとの対談(未発表)が収録されているのを見て、「やられたー!」と思い、すぐに買ってしまった。作家は物語を作り、臨床心理士は人びとの物語作りを手助けするのだそう。自分の経験に照らし合わせて、感服。カウンセリングを受けていた3年間、わたしは自分の物語を探して右往左往、じたばたもがいていた気がする。そして最後の1年間くらいで、河合先生がおっしゃるように、ほとんど道端で拾った宝くじが大当たりするような幸運がどんどん起こり、ばんと視界が開けて、何だかよくわからないけど治ってしまった。幸運はたぶん、急にわたしの身の上にばらばら降ってきたんじゃなく、最初からたくさん道端に落ちていたんだと思う。それを石ころと思うか、自分の物語の1ピースとして大切にとっておくか、違いはそれだけ。2週間、あるいは1ヶ月間に拾い集めた石をテーブルの上に並べて、「これは宝物?それとも石ころ?」とひとつずつ検討する作業が、わたしにとってのカウンセリングだった気がする、いまから思えば。ほかにも河合先生のブックガイドや、立花隆氏との対談や、よしもとばななさんはじめ生前親交のあった方々の追悼文がたくさん掲載されていて、読み応えのある内容。手元にある河合先生の本は読み返し、知らなかった本もこれから読んでみようと思う。 *それにしても北国にいると、体が春を待っているのをわりと切実に感じる。ヒトは光合成をしないけれど、それに近いことはたぶん、目に見えないところで行われているのだろうな。あたたかい日差しを浴びてのびのびと心が広がってゆく、あの感じ。先週、わが家にやってきたユッカ・エレファンティペスと共に、春を待ちわびる。
2008.01.22
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オーストラリアから帰ってきました。荷解きや滞っていた手紙書きや、もろもろの仕事は残っているものの、昨年夏の入籍から始まった結婚にまつわる一連のイベントもこれでおしまい。結婚式や旅行の思い出を宝物に、日常生活の冒険を乗り切ってゆこう。旅の思い出は、例によって下のほうから順々に載せてゆくつもりなので、よろしければ写真とともにご覧ください。 *成田空港から実家に戻り、留守中の郵便物など確認していたら、一枚の葉書が届いていた。元上司の奥さまから、寒中見舞い。昨年の初め、定年を間近に控えて病気がわかってからずっと闘病生活を続けておられた文化的上司さまが、年末、わたしの結婚式の1週間前に亡くなられたのです。亡くなったときに報せは受けていたのだけれど、自分の身の上の慌ただしさにかまけて、「上司さまがいなくなってしまったなんて、嘘だ」という気持ちを宙ぶらりんにしたまま、年を越してしまった。葉書には、葬儀は故人の意志により家族葬で済ませたこと、香典や供花を辞退すること、などがやわらかい文章で簡潔に記され、お世話になった人たちの健康と幸せを祈る言葉で結ばれていた。なんて強いひとだろう、と思った。かけがえのない人を亡くしてたった1ヶ月で、こんなに心のこもった文章をつづることができるなんて。いつか家族の話を聞いたとき、自身について多くを語らなかった上司さまが「あれは強い女だから」と呟いていたことを思い出した。もう一度読み返して、このひとと長い年月を共に過ごした上司さまは、とてもとても幸せだったのだな、と知った。そうしたらもう涙が止まらなくなっていて、葉書をささげ持ったまま、膝頭にまぶたを押しつけて子どもみたいに泣いてしまった。驚いたくまが、「どうしたんだよう」と言ってティッシュの箱と一緒に隣へ来てくれた。文面を見た母は、「誰かが亡くなったことを知らせる寒中見舞いで、こんなに心にしみる文章は読んだことがないね」と言って、白い葉書をそっと胸に当てた。上司さまと過ごした時間、話してくれたこと、声の感じ、果たせなかった約束、それらがいっぺんに胸にこみ上げて、おなかの底から泣く。そうしてようやく、もう会えないんだ、ということが腑に落ちた。上司さまが旅立って、いちばん辛い気持ちでいるはずの奥さまが書いた葉書で、わたしが救われるなんて。何かできることだってあったはずなのに、恥ずかしい。お見舞いに行ったとき、結婚の報告をしたら、顔を輝かせて手を握って喜んでくれた上司さま。大きなあたたかい手だった。一度でいいから、もう一度だけ向かい合ってお酒を飲んでおそばを食べてとりとめのない話をしたいと願うけれど、それは残されたもののわがままだ。感謝の気持ちがあるのなら、あの日誓った通り、いつか上司さまが手に取りたくなるような本を書けるように、毎日一生けんめい生きてゆかなくちゃ。いつまでもめそめそ泣いたりするのは、たぶん上司さまの意にそぐわない。大切なひとが旅立つたび、胸の奥にひとつずつ透明な宝石が増えてゆく。せめてこの宝物を曇らせないように、自分に恥じない生きかたをしよう。さようなら。それからありがとうをたくさん、上司さまに届けてください。雪の神さま、どうか。
2008.01.16
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ケアンズの山側にあるキュランダ村を経由し、さまざまな動物を観察するツアーに参加する。朝から晩まで終日。スケジュールがみっちり詰まっていて、日記をつけるひまもなかった。写真とともに、絵日記ふうにお楽しみください。ルームサービスの朝食。いよいよハネムーンらしくなってきたぜ!量が多すぎて、ちっとも食べられませんでしたとさ。ブーゲンビリアの咲くかわいい駅からキュランダ観光鉄道という観光列車に乗って、キュランダ村まで山を登る。箱根登山鉄道みたいな位置づけですね。原型は昔の金鉱列車だそうで、アメリカの西部開拓時代をほうふつとさせる雰囲気。だんだん山を登ってゆく。このあたりの景色は、「世界の車窓から」のオープニングを10年間飾っていたらしい。キュランダ村に着いて、テーマパークでコアラを抱っこして写真を撮るとき、係の人が「Japaneseが多すぎて、コアラがtoo much workで超心配!なんでこんなにいっぱい(日本人が)いるんだ!」と(英語で)言っていた。日本人って、ヒアリング能力は高いのにあまり積極的に話さないから、英語がわからないと思われている気がしてならない…コアラの体はあたたかく、爪は思いのほか鋭い。彼もワニ園のワニ同様、静かに自分の仕事をこなしていた。知らない人に次々抱きついて写真を撮るなんて、体を売るのと同じくらい大変な仕事だ。わたしにはとてもできない。辛いのか、案外なんとも思っていないのか、彼の表情からはわからなかった。アボリジニのダンスショーを見て(くまはなぜかステージに呼ばれ、一緒に踊っていた)、軍事用水陸両用車に乗り、例によってバーベキューランチを食べ、バスに乗って高さ1メートル以上の巨大アリ塚を見る。アリたちは何十年もかけて木のそばに塚を建設し、地面の下から木の内部に侵入して、木の中身を食べる。空洞になった木は、倒れてしまうこともあるらしい。アボリジニの便秘の薬、セロリの味だと言われてくまは1匹試食していた。彼らはアリの仲間ではなく、わたしがおそれている台所のお客さん、Gの仲間だと聞いて、わたしは遠慮しておいた。車の中から、カンガルーとワライカワセミも見た。カンガルーは、木の間をぴょんぴょん飛び跳ねて逃げてゆく。ほんとうに跳ぶのだなあ、カンガルーは。ワライカワセミは間抜けな名前だが案外たくましく、毒ヘビをつかまえて、木に打ちつけて殺してから食べるらしい。クククカカカ…岩場でワラビーに餌付けをしている様子。カンガルーと同じ有袋類なので、おなかに赤ちゃんがいます。くまがお母さん、わたしが赤ちゃんにえさをあげてみた。ワラビー20匹ほどに、バス2台分の人間が餌付けをしようとするので、ワラビーたちもおなかいっぱい。あまり気乗りしない様子で、それでも多少観光客にサービスしてくれる。ワラビーの舌は、小さくてぬるかった。熱帯雨林に分け入り、カーテンフィグトゥリー、絞め殺しのイチジクの木も見る。イチジクに絞め殺された木が、絶命して隣の木に斜めに倒れかかり、そこからさらにイチジクが地面に向けて根っこを伸ばした結果、巨大なおそろしいカーテンのような姿になっているのです。時間軸が違うだけで、基本的にワニと同じだよなあ…とすぐワニに例えたくなるわたし。夕方、川辺でカモノハシを見る。カモノハシはほとんど目が見えないのだけれど、生物が出すわずかな電流を察知して、泥の中でも獲物をつかまえるらしい。昔読んだ「川べにそよ風」という童話を思い出しながら眺める。昨日のスコールで水量の増えた川を、カモノハシは一生けんめい、流れに逆らって泳いでいた。
2008.01.12
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シャングリラホテル2036号室。20階ではなく2階。午後11時。窓の下あたりから、ハウスみたいな音楽のリズムと、若者の歓声が聞こえる。近くにカジノがあるから、そこから聞こえてくるのかな。ベランダに出てみたけれど、遠い街の灯かりしか見えずよくわからない。くまは眠っている。出かけてみたいが、ひとりでは少しこわい。夕食は、ホテルと同じ建物の中にあるフレンチレストランでコースをいただいた。シェフが全員日本人。フロアスタッフも主に日本人。おいしいものを少しずつ…という素晴らしい日本のフレンチを、心ゆくまで味わう。フランス料理にも、オーストラリアふうと日本ふうは確かにある。前菜も、鴨のサラダも、伊勢えびのメインも、ものすごーくおいしかった。白ワインを1本空けつつ、学生時代のエピソードを順番に披露しあう。夢中になって話していたら、突然のスコール。店のBGMも、くまの声も、何も聞こえないほどじゃーっと降る。店の人がテラスに雨よけの屋根を出したけれど、気休めにもならない。わたしたちはテラス席と室内の境目あたりにいたので、水しぶきもほとんど浴びず、ショウを見るように雨を見る。長年かけて腐った風呂の底が、ある日突然、ぼこっと抜けたみたいに降るのだから、傘も雨がっぱも意味がない。外にいれば濡れないという選択肢はないし、室内にいれば出かけようとは絶対に思わないだろう。抵抗しようという気持ちも起こらない、人間ごときに選択肢もない雨というのは、いっそ気持ちがいいものだな。
2008.01.11
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シャングリラホテル・ザ・マリーナ・ケアンズのプールサイド。午後4時。お昼に着いたときは晴れてあたたかかったのに、少し曇って風が出てきた。わたしはくまの忠告を聞かずにバスタオルを大小2枚とも濡らしてしまったので、水着でいたら冷えてしまうかもしれない。ケアンズも海辺のリゾートだが、グリーン島に比べるとうんと都会でおどろく。車が走り(ひさしぶりに見た)、信号があり、いろいろな店が並んでいる。どこへ行っても日本語が通じるのは相変わらず。ラーメン屋まであるらしい。くまもわたしも、そろそろ日本食がなつかしくなってきた。ホテルの部屋はモダンな感じ。窓から青い空と海が見える。いろいろな施設も立派だけれど、グリーンアイランドリゾートのほうが家庭的なもてなしだった。それと、このホテルは部屋中にアリがいる。グリーン島のほうが虫は多そうなのにな。
2008.01.11
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ケアンズ、港そばのカフェ。午後1時半。グリーン島から船で到着し(帰りの船は全然揺れなかった。船内やホテルで配っていた酔い止めは、ショウガの根?の成分が入ったもので、医薬品ではないらしい。酔い止めの薬は、心理的効果が大きいのだな)、おびただしい量のにんにくが入ったガーリックピザと、アイスクリームを添えたパンケーキを食べたところ。くまはおでこにサングラスを乗せて、甘すぎるカフェラテを持て余している。ホテルのチェックアウトから船の出発まで時間があったので、島のワニ園を見る。生でワニを見るのは、たぶん生まれて初めて。「たぶん」というのは、ひょっとしたら日本の動物園で見たことがあるのかもしれないけれど、ワニというものはたいがい泥水の中に潜ってじっとしているので、運がよくても体の一部分しか見ることができないので。エントランスで、右手首の内側に、チケットがわりのワニスタンプ(緑)を押してもらった。けっこうかわいい。タトゥーシールにして渋谷あたりで売ったら流行るかも。係の人の説明によると、ワニは食虫植物の動物版みたいな感じで、ほとんど動かずに水中で過ごし、獲物が近づいてくると敏感に振動を感じとって「がぶり」とやるらしい。足が遅いから、走って追いかけても間に合わないんだそう。あんなに大きな体をして、全身にあれほど立派なうろこがあるのに!足が遅いなんてショーゲキ的だ。15ドル払い、ワニの赤ちゃんを抱いて写真も撮る。くまが頭のほう、わたしはしっぽのほうを持つ。ワニのしっぽは冷んやりして、硬かった。腹のあたりは少しやわらかいけど、やっぱりうろこにおおわれている。足の裏は猫の肉球みたいにふにふにしている。小さくてもワニなので、口はセロハンテープでぐるぐる巻きにされている。係の人の手に返したあと、お兄さんがテープを外したら、口をぱっくり上下に開けて威嚇していた。やっぱりワニなのだ。小さくても。どんなに人に馴れていても。写真は3枚撮ってもらい、どれもいい写真だったので、5ドル追加して全部CDに焼いてもらう。4歳のワニの赤ちゃん。これから少しずつ成長し、大きければ5メートル以上にもなり、長ければ100歳か120歳まで生きるらしい。彼(彼女?)が100歳になるころ、このワニ園がグリーン島にあるかどうかすら、もはやわからない。いずれにしても、彼は静かに自分の運命を受け入れている様子だった。大人のワニの餌付けも見る。係の人が、鶏の肉を丸ごと釣竿のような棒にぶら下げて、ワニのいる池に向かってそろそろと下ろす。ワニは目にも止まらぬ速さでダイナミックに跳び上がり、鶏を丸呑みにしてふたたび池の中に戻ってゆく。ふつうにカメラを構えていては決定的瞬間を撮れないので、くまは連写機能を使い、30枚くらいワニの写真を撮っていた。(後で妹に新婚旅行の写真を見せたら、「君たちがこれほどワニ好きとは知らなかったよ」と言われた。コアラより、カンガルーよりエメラルドグリーンの海より、ひょっとするとわたしたち夫婦よりも、ワニの写真がいちばん多いのだ)展示スペースの一角に、人食いワニの新聞記事などが貼ってあり、食べられた人の顔や手足を写した写真があった。恐怖にゆがんだ顔。見開かれた両目!「孫の代まで夢に出てきそう…」と思いつつ、こういうときの常で目が離せなくなる。「ほら、いくぞ」とくまが引き離してくれなかったら、もっとずーっと見ていたかも。ワニ園の中にはカメの池もあり、大きなウミガメが3匹、ゆっくり泳いでいた。「俺はカメが好きだなあ」とくま。しみじみと写真を撮っている。カメはときどき、水面に顔を出して、「しゅー」と派手な音を立てて深呼吸する。餌付けショーも穏やかなもので、キャベツの葉を競い合って甲羅がぶつかり合い、「こちん」「ぱしゃん」と音を立てる程度。人食いワニの展示を見た後では、ウミガメが天使のようにみえる。どう考えてもワニより平和な感じがするが、生きるための必死さが変わるはずはないので、体内時計のスピードや食習慣が違うだけ。人間の勝手な印象だな。
2008.01.11
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グリーンアイランドリゾートのレストラン「エメラルズ」。午前8時半。今日でグリーン島ともお別れ。ここの朝ごはんにもすっかり慣れた。バイキングテーブルから、パンとサラダ、ポテト、ベーコンを1枚、フルーツを持ってきて、紅茶かハーブティーと一緒に食べる。白いごはんと梅干し、食べたい…朝一番の船で従業員と観光客がやってくる様子が、レストランの窓から見える。とべない鳥のオスが、メスを追いかけてテラス席の間を走り回っている。いつもの朝。向かい合ってパンケーキを頬張るくまは、3日間でこんがり焼けて黒光りしている。
2008.01.11
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グリーン島のビーチ。夕方5時半。午後いっぱい、浜辺で過ごした。暑くなったら海に入って火照った肌を冷やし、寒くなったら部屋に戻って熱いシャワーを浴びる。眠くなったらデッキチェアで寝てしまう。そうやってずうっと、波の音を聞いていた。耳を澄ますと、波の音は2種類の音で構成されている。ざざーん。砂に水が当たる音。ぶくぶく、ちゃぷちゃぷ。水の砕ける音。合わさるとなつかしい、安心する音になる。おそらく、生まれる前に聞いていた音に似ているんだろう。海からの風にずっと当たっていたので、頭がぼんやりする。 *昼にはステーキをはさんだ巨大ハンバーガーと山盛りのポテトを、プールサイドで食べた。プールでは、飛べない鳥がさかんに水浴びをしている。白い人たちは皆、大人も子どももおじいちゃんも、巨大なハンバーガーとポテトの小山をひとり一皿食べている。われわれはふたり一皿でおなかいっぱいなのに。午後にも一度、シュノーケリングをやった。だいぶコツをつかみ、くまに手をつかんでもらわなくても、ひとりで泳げるようになった。まあ、ライフジャケットを着ているから、溺れるほうが難しいくらいなのだけど。ゴーグルは、目がつり上がるくらいぎゅうっと締め付けると鼻に水が入ってこない。そうして水に入り、ゆっくり足ひれを動かしながら海中に目を凝らす。サンゴ。肌色や紫や茶色。キノコみたいな形のもある。イソギンチャク。にょろにょろが無数に集まったみたいだ。水の底でぐにゃぐにゃ揺れている。一体どうしてこんな形になるんだろう。それから、楕円形の形をした生き物。平たくて、岩の表面に張り付いている。真ん中のところが、息をする口みたいに開いたり閉じたりする。よく見ると、いろんな色のやつがそこら中にいっぱいある。ちょっと気持ち悪い。(後で調べたら、オオシャコガイという貝の「外套膜」なんだそう。手を入れてみなくてよかった…)魚。見回す首が追いつかないほどたくさん。青緑色のでっかい魚。5色の蛍光ペンででたらめに塗りつぶしたみたいに派手な魚。白黒しま模様の中くらいの魚。黄色や青や銀色の小さい魚。背中に黄色いすじのある魚。大きめの魚の口元をつつく小さい魚。魚の気持ちになって一緒に泳ぐ。水族館は、こうやって魚になることの代替手段として都会に存在しているのだな。水面から顔を出したくまが、魚がたくさんいすぎて、きれいを通り越して何だかこわい、と言った。わたしはこわくはなかったけれど、このまま無数の、水の生き物たちと長い時間を過ごしたら、陸の生き物に戻れなくなるような気がした。 *ふたたび、夕方の海。昨日味をしめたサンセットカクテル、今日も飲んでいる。ホテルの人がビーチにテーブルとグラス、シャンパンとスナックを運んで、サーブしてくれるのだ。シャンパン1杯で、ずいぶん酔っぱらった。帽子をかぶり、ときどきシャワーも浴びていたから、昨日みたいなひどい頭痛にはならないけれど。人が少なくなったこの時間の海がいちばん好きだとくまが言う。首と足の長い白い鳥と黒い鳥が、少し離れて波打ち際に並び、じっと海を見ている。魚を探しているのか、物思いにふけっているのか。小鳥たちが夕方の漁を終えて森へ帰っても、二羽の鳥は一定の距離を保ったまま、夕闇の中に佇んでいる。バカンスかな?白い鳥と黒い鳥を見ながら、少し前に読んだ「海からの贈物」を思い出し、夫婦について考える。ふたりであること。ひとりであること。そのバランス。力を抜くところと、意識しつづけるべきところ。この海辺の夕景と一緒に、折に触れて思い出そう。南の島の日没は遅い。時間にして、冬の雪国より2時間くらい。明るい昼間の光が長く続いて、あとはだんだん薄暗くなる。日本の午後みたいな、切ない感じの暮れかたではない。やっぱり幕切れに似ているな。…などと言っている間に黒い鳥はひとりになり、それでもやっぱり海を見ている。お前もサンセットを待っているの?
2008.01.10
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グリーン島のビーチ。正午。デッキチェアに寝そべっている。朝、シュノーケリングに出かけようと水着に着替えたら、突然のスコール。あきらめてベッドに引き返し、本を読む。わたし、田村隆一「詩人のノート」。くまは村上春樹。「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」。日本を出るとき、どの文庫本をトランクに詰めるか、本棚の前であれこれ話し合っていて、「これはどんな物語?」とくまに聞かれた。「それはね…」と説明しようとして、頭のなかが空っぽであることに気づく。村上春樹の小説がわたしは大好きなのに、いつもそうなのだ。読み終わって数日で、登場人物もあらすじもすっかり忘れてしまう。でも、時間も空間も歪むほど夢中になった感じだけはよく覚えていて、「とにかく面白いの!」と強くすすめる。ひとつめの質問に思うような答えが返ってこなかったくま、さらに質問を重ねる。「ハードボイルドってどういう意味?」「それはね…固ゆで卵…」と言ったきり、言葉に詰まるわたし。日本に帰ったら、ちゃんと調べよう。元に戻って、グリーンアイランド。「詩人のノート」を2、3ページ読んだところで、あっという間に眠りに落ちてしまう。この島は、何だかやたらと眠くなる。ぬるい空気のせいだろうか。1時間くらいで雨が小降りになったので、ダイブショップでシュノーケリングの道具を借りて、海へ入る。魚。魚魚。珊瑚珊瑚珊瑚。魚魚魚。今日は吐き気もしないから、休憩を挟みながら何回か潜り、よく眺める。ゴーグルの締め付けがゆるいと、鼻に水が入ってくる。この海の水は、日本のよりしょっぱい気がする。そうこうするうち、晴れてきた。シャワーを浴びて、水着でビーチへ。ビーチの売店でペットボトルの水を買ったら、3ドルもした。ホテルで物を買うと高いのは万国共通。この島にはリゾートホテルが一軒あるきり、あとは何もないので、必要なものはホテルの施設ですべて手に入れなければならない。ビーチは波打ち際が白く、少し向こうが鮮やかな水色。沖へ行くにつれ、藍色っぽくなる。藍色のところは、海底に黒っぽい海藻が生えているのだ。くまはipodを耳に差し込み、デッキチェアに寝そべって目をつむっている。オーストラリアの紫外線は日本の3倍もあるので、みるみる肌が焼けていく。わたしは入念に日焼け止めを塗り、パラソルの下で帽子をかぶって海を見ている。昨日は夜、頭がすごく痛くなったので、日に当たりすぎないように気をつけなければ。ときどき、腰まで水に浸してみる。海水は冷んやりしている。波打ち際に、無数の小魚が群れている。足を近づけるとぱっと散り散りになる。砂の上に打ち上げられてひからびてしまうんじゃないかと心配になるほど、ぎりぎりのところを泳いでいる。島そのものが珊瑚だから、魚にしてみれば、陸地に近寄っているというより、珊瑚のそばの浅瀬を泳いでいる感じだろう。鳥も来る。明け方、日の出を見るためビーチに出てきたときは白いしぎのような鳥が、昼間は例の茶色い飛ばない鳥やかもめ。そう言えば、朝食を外のテーブルで食べようとして、くまがバイキングの皿を置きっぱなしにしたら、大きなソーセージを2本、鳥に持っていかれていた。ボーイも周りのお客さんも、のんびり笑っている。くまはしばらくの間落胆していた。
2008.01.10
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グリーンアイランドリゾート37号室。午後11時半。天気予報では今日も雨だったのだけれど、朝起きたら明るい曇りで、午後には晴れた。船で浮島(ポンツーン)に行き、シュノーケリングを楽しむ。往復の船も浮島もゆらゆら揺れるので、一日中船酔いみたくなっていたのだけど、クラゲよけの青いウェットスーツとライフジャケットを着てゴーグルと足ひれをつけ、2回、海に入った。紫や白や肌色のや、いろんな色の珊瑚が林のように生い茂り、その間を、青や白や黄色やオレンジやそれらのしま模様や、無数の魚がゆうゆうと泳いでいる。水はエメラルドグリーン。マスクをくわえているのも忘れ、「ふわあ、きえい!ふごい!(きれい!すごい!)」と歓声を上げて、口から海水が入ってくる。ぶくぶく。くまが手をつないでいてくれたので、波が高くてもこわくなかった。海に入ると船酔いがひどくなるので、波のせいかな…と思っていたら、間違えて度入りのゴーグルをかけていたのだった。返すとき、係員のお兄さんに教えられた。道理で遠くは見えにくいのに、珊瑚や魚の模様だけ妙によく見えるはずだ!ランチビュッフェがついていたのだけれど、度入りゴーグルのおかげでほとんど手をつけられず、くまが取ってきてくれたフルーツの皿からスイカばかり選んで食べた。妊娠してつわりがきたら、わたしスイカばかり食べるんだろうか。浮島から帰ってきても晴天はつづき、桟橋で写真を撮ったり魚の餌付けを見たり(サメも来た!)、ビーチでサンセットカクテルを飲んだりしながら夕方を過ごす。日帰りの観光客が午後の船で帰ってしまうと、島は全体がプライベートビーチみたいになる。静かな中に、波の音。空が大きい。デッキチェアに横たわって、海を眺めながらシャンパンを飲む。バカンスのお手本みたいなひととき。晴れたら明日も行こう。夕食はホテルのレストラン「エメラルズ」で、サラダと若鶏のローストだけを注文する。昨夜はプールに面したテラス席でコースをいただいたのだが、量が多くてメインを半分も食べられなかった。今日はお昼ごはんをほとんど食べていなくておなかが空いていたし、量もちょうどよかったのでおいしくいただく。アメリカに行ったときも感じたけれど、日本の料理って本当にレベルが高いと思う。あの繊細な味付け。控えめなたたずまい。くまは旅行に来てからいつにも増してやさしく、あれこれ世話を焼いてくれる。英語をしゃべるのも、ウェットスーツを着せたり脱がせたりするのも、荷物を解いたりパッキングしたりするのも、何もかも。おまけにこの島では、英語と同じくらい日本語が通じるので、まったく不便を感じない。わたしは姫になったみたいだ。こんないい思いをするのも人生で最後かもしれないから、よくよく味わっておこう。
2008.01.09
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グリーン島。グリーンアイランドリゾート37号室。午後4時。日本では午後の3時。外はひたすら、雨が降っている。昨夜日本を発ち、7時間かけてケアンズに着いた。そこから船で45分。寝不足と高波でひどい船酔いになる。くまが一生けんめい介抱して、早めに部屋へ入れるよう手配してくれた。シャワーを浴びて昼寝をしたらずいぶんましな心持になった。珊瑚礁でできたこの島は熱帯に位置している。色の濃い、大きな植物が生い茂り、絡みつくようにじっとりとむし暑い。1月は、ちょうど乾季と雨季の境目にあたるので、こうやってときどき大雨が降る。雨がやんだので、散歩がてら外へ出てみる。客席はひとつずつ、コテージのようになっていて、外に面したバルコニーがある。プールが大小ふたつ、ビーチも目の前だ。軽食コーナーへ行き、大きなホットドックとオレンジジュースをふたりで分けていたら、突然のスコール。屋根のあるところで食べていたので、食べながら、バケツをひっくり返したような雨をみる。いっそ気持ちいいほどの降り。水しぶきが上がる。傘をさしても意味がないので、道行く人もあきらめ顔で、ずぶ濡れのまま歩いている。茶色い飛べない鳥(日本の雀か、鳩みたいな感じでたくさんいる。近づくと長い足で走って逃げる)は、慌てて軒下や椅子の下に駆け込み、雨宿りしている。屋久島で教わった「絞め殺しの木」が、おどろおどろしい気根を地面に向かって伸ばしている。若木ははっとするほど濃い緑の葉を空に向かって広げ、今にもにょきにょきと伸びてゆきそうな風情。熱帯の植物は、生命のにおいをぷんぷんまき散らして、少しこわい。オーストラリアという国は―というよりもたぶん、ケアンズという都市は、日本人観光客や留学生がとても多くて、どこへ行っても日本語の案内やメニューがあり、日本人がいる。すれちがう人が日本語を話しているのはしょっちゅう。ホテルのロビーには、「anan」まで置いてあった。妙な感じ。この雨では海にもプールにも行けないので、部屋に引きあげてきてくまは本を読み、わたしは日記をつけている。くまは紅茶をすすり、わたしはカモミールティーを飲む。だらりとしたぬるい空気の中、外にも出られず雨を見ながら部屋で本を読んだり書きものをする。というのは、案外悪くない。一度くらいは、青い空やら海を見たいけれど。それにしてもこの島では、空が曇っていても海が青いのだった。空の色を映しているだけじゃなく、珊瑚があるから青く見えるのかな。
2008.01.08
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今夜から1週間、オーストラリアへ新婚旅行に行ってきます。 グリーン島で青い海をみて、ケアンズでコアラ(たぶん)に会ってくる予定。 北国の冬は長くて寒いので、ひとときでもあたたかい夏の国で過ごせるのは嬉しい。 * 成田空港を経由するついでに、年明けから実家に来ています。 結婚前、離れた場所に暮らしていたから、新幹線に乗るときはいつもひとりだった。 考えてみたら、ふたりで乗るのは初めて。 隣の席が家族だと、こんなに安心する乗りものなのだな、新幹線。 東京はあたたかい。そして光がいっぱい。 友達とごはんを食べるために夕方、銀座で待ち合わせをして、街の明るさにぼうっとなる。 外がこんなに明るいんだもの、夜更けまで眠れないのは当たり前だ。 大きなビルの陰に小さなブロンズの天使がいて、向こうの通りを覗き込んでいる。 長いこと銀座が好きで、頻繁に歩いていたはずなのに、今日初めて気がついた。 そんなつもりはなかったけれど、前より歩くのがゆっくりになったのかも。 夜は両親と4人でごはん。 我が家のよりちょっと熱いお風呂につかりながら、自分の大切な人が、自分にとってかけがえのない人を大事に扱っている様子を見るのは、自分自身が大切にされるよりもっと幸せなのだな、と思う。 * 翌日は、親友と3人で明治神宮に初詣。 大切な人たちの幸せと、今年書かれる予定の小説について祈る。 子供が欲しくてたまらないくまは、まだどこにも発生していない子供のために安産のお守りを買っていた。 さて、どんな年になることやら。 会社勤めを辞めたせいかもしれないけれど、自分の動きや思考がゆっくりになっているのを感じる。 神経質だった事柄にも「まあ、いいか」と思うことが増えた。 鈍くなった部分もあるけれどそれだけではなくて、たとえばある景色を見てその景色について感じたり考えたりする時間はかえって増えたように思う。 * 夕暮れどきの表参道を歩いていてふと、北国にはこういう光がないなあ、と思う。 日が傾いて、街がオレンジ色の光に包まれ、次第に暗くなってゆく境目の時間。 北国の日暮れはもっとあっけない。 さっきまで明るかった空が、ちょっと目を離すともう真っ暗。 舞台の幕が下りてくるみたいに、すとんと夜が来る。 オーストラリアの夕焼けはどんなだろう。 ちゃんと目をひらいて、よくよく見てこよう。
2008.01.07
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明けましておめでとうございます。 北国は、大晦日からしんしんと雪が降り積もっております。 今夜はくまが当直勤務なので、ひとり静かなお正月。 結婚式が終わってから1週間、冬眠するふたごのクマのように、家のあちらこちら(こたつや、ソファや、押入れの奥に掘ったほら穴の中など)でひたすら眠って過ごしたので、家の中の仕事もだいぶたまっている。 パジャマなどをいっせいに洗濯し、家中の窓を開け放して念入りに掃除機をかける。 お風呂は残り湯を洗濯機に移して、床の汚れもごしごし落とす。 新婚旅行から帰ったら、まとめてきちんと掃除をしなくちゃ。 うちの駐車場と、車の上にどんどん積もってゆく雪がどうにも気になるので、その雪かきもする。 踏み固めてしまうと雪はずっしり重くなるので、できるだけ踏まないように、白いきれいなところを雪かきスコップでふわっとすくいとる。 すくっては、芝生へ放り上げる。 ダウンコートと毛糸の帽子の下、たちまち汗だく。 水を吸ってしまった下のほうの雪は、黒く汚れて重い。 腹に力を入れてすくい上げる。 慣れないから、いらない力をたくさん使う。 雪かきの後、首までこたつにもぐって寝ていたら、インターホンが鳴って、「雪見当番」というものが回ってきた。 日がな一日、熱いロシアンティーなど飲みながら、窓の外の雪をじっと眺める。 ときどき窓を開けて手のひらに雪のかけらを受け取り、結晶を注意ぶかく観察する。 今日の雪は、こんぺいとうのかたち。 2Bの鉛筆を削り、ていねいにスケッチする。 「雪見日誌」をつけ終わったら、明日のお当番さんにノートを回す。 …などというお当番なら素敵なのだけれど、雪国の現実はそんなに甘くないのでした。 明日の朝と夕方、アパートの玄関とごみステーションの周りの雪かきをしなければならないみたい。 くまの帰宅は明日の午前中だから、どうやらこれはわたしの仕事。 雪は降り止む気配もないので、明日は朝から重労働になりそうだな。 メールでくまに知らせたら、「雪かきでダイエットだね!」などと呑気なことを言っておられる。 慣れない仕事だから下見をしておこうと思って、日が暮れてから、家の周りをぐるぐる歩いた。 少ない光を雪が照り返すので、外は奇妙にあかるい。 雪が音を吸い込むから、風の音もしない。 遠くから、かすかに踏切の音が聞こえる。 白いかたまりが、際限なくもくもくと空から落ちてくる。 雪のつくる静寂は、雪にしかつくれない静けさなのだな。 * 去年はずいぶんいろんなことがあった。 年の初めに結婚を決めて、それから、会社を辞めることについてずいぶん長い間、頭の中で考えを動かしていた。 結納や結婚式のことで悩んだ時期もあったっけ。 合間にライブ通いをして、いくつかの展覧会をみて、詩を読む愉しみも知った。 仕事の楽しさをひとつずつ獲得して、お酒もずいぶん飲んだなあ。 北国と東京を行ったり来たりして、ああ、そうだ。屋久島にも出かけたっけ。 退職してこちらへ来る直前には、ずいぶん感傷的になって、幸せになることがこわくなったりもした。 就職してから4年半ぶんの総まとめみたいな、濃密な時間だったな。 こちらへ来て、もうすぐ3ヶ月。 最初のころは、夕餉の支度に2時間も3時間もかけていたけれど、だいぶ手早く食卓を整えられるようになった(別の地方では、それを「手抜き」と呼びます)。 懸案だった車の運転も多少は上達し、自分の足で走ることもはじめた。 そして、一大事業だった結婚式もぶじに終わった。 最後の最後まで、ぎゅーっと内容の濃い年であったことだ。 自分で決めて、自分の責任で選ぶ。 ということが、去年のテーマだったような気がする。 最初は人の目がこわくてたまらなかったけど、慣れてしまえば、そんなに難しいことじゃないのだ、たぶん。 今年はどんな年になるだろう。 どこへ運ばれてゆくだろう。 その中でわたしは何を選び、育て、どんな果実を収穫するんだろう。 書くこと、読むことはおこたらず。 変化をおそれず。けれど地に足をつけて。 ていねいに、心穏やかに暮らしを楽しみ。 自分を慈しみ、家族を育てる時だな、2008年は。 それは一見、単調に感じられるかもしれないけれど、長い目で見れば、新芽が光に向かって若葉を広げる成長のとき。 これから大きな木になるための土台をつくるときだ。 …というわけで、今年ものんびりと書いてゆくつもりです。 どうぞ、よろしくお願いいたします。
2008.01.01
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