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1月25日発売の「暮しの手帖 44号」に、昨年投稿した小さな文章を載せていただきました。やわらかい女性の声でお知らせの電話をもらったとき、自分でもちょっと意外なほど嬉しかった。中ほどの「家庭学校」欄、「晴れの日の週末」というタイトルがついています。もし書店で見かけたら、ページをめくってみてください。 いつの間にかずいぶん長く走れるようになったので、ひとりでは行ったことのない工業団地のほうまで、1時間ほどかけて足をのばしてみる。工業団地と言っても、精密機械の組み立てや食料品の工場が多いようで、もくもくと煙を吐く煙突もなければ、大きな音もしない。工場に用のある車しか通らないから、幅の広い道はとても静かで、排気ガスになやまされることもない。工場の周りには、樹を植える決まりになっているのだろう。どの通りにも、背の高い木々がよく手入れされて並んでいる。今朝は、ユリノキの並木道を見つけた。空高くまっすぐに育って、初夏にはチューリップに似た黄緑色の花をつけ、秋には大ぶりの葉を黄金色に染める、ユリノキは姿のいい、西洋の貴婦人みたいな木だ。有名なところでは、上野の東京国立博物館の中庭に立派なユリノキが枝を広げている。(だから国立博物館は「ユリノキの博物館」と呼ばれたりもする)この季節、ユリノキの枝先には、花のかたちをした実が、天を仰いで並んでいる。何とかして中をのぞいてみたいものだと思うが、彼らはたいてい高いところでつんと上を向いているから、その願いが叶うことはない。花びらのような繭の中で、ユリノキの精がぐっすりと眠りこんで、春の夢をみている。人が手間と時間をかけて守り育てた樹のそばにいるのが、とても好き。彼らには、人と一緒に生きている自然だけがもつ、穏やかなたたずまいと包容力がある。原始の森は絶え間ない生命の闘争の場だから、入ってゆくには覚悟と準備がいる。日常の中で心に抱くのは、たとえば工業団地のユリノキのような、ありふれた一本の街路樹がいい。歩くような速さでとことこ走りながら、そんなことを考えた。
2010.01.26
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どさどさと雪が降り積もったり、そうかと思えばあたたかい日がつづいてすっかり融けてしまったり、何だか妙な気候です。完全な冬眠状態ではなくて、ときどき外を走ったりできるから、気が滅入らないのは有難い。穂村弘対談集「どうして書くの?」を読む。歌人の穂村弘が、高橋源一郎や川上弘美、山崎ナオコーラや一青窈など、もの書く人びとと対談しています。対談相手に合わせて、ページの文字数や書体、レイアウトを変えているのが面白い。「そうそう! 川上弘美を書体で表現すると、まさにこんな雰囲気!」と中身を読みはじめる前から楽しい。何と言っても密度が濃いのは、高橋源一郎との対談。近代と比べて現代の短歌が負けているのは、「感情の濃度」が違うから、というくだりにむむむと唸る。竹西寛子との対談は、よく手入れされた日本庭園を眺めるよう。『古今集』の、「四季の歌全部が贈答歌」という竹西氏の言葉には背すじがびりびりした。宇宙からの呼びかけに、古代の歌人が歌で答えたのだと。川上弘美の「書くっていう事が単純に編み物をするという感じの…」という発言も、後からじわじわ効いてきた。そうか、川上弘美にとって、書くことは編み物だったのか。穂村弘は、聞き手としての能力がすごく高い。二言三言、言葉を交わしただけですっと相手にチューニングを合わせて(もちろん、事前の入念な準備があってのことだと思うけれど)、うなずきながら本質に近づいてゆくさまは、すごくためになる。鋭利なカミソリを持っていなくとも、知識と理論で過剰に武装しなくても、「よく聴く」ことができれば豊かな会話ができる、という好例だと思う。フィールドも、年代も言語感覚も異なる作家たちとの対談集だから、基本的には一話完結の短編集を読むような感じなのだが、その中でも、穂村弘はくり返し、現代の「死」の希薄さ、ということを言っている。感情が薄くなり、死のリアリティーがなくなってきた時代に、言葉で表現をするということ。その困難と最前線で向き合っているからこそ、穂村弘は作家たちに問いかけずにはいられないんだろうと思う。あなたは、どうして書くの?
2010.01.24
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寒中お見舞い申し上げます。寒い日がつづきますが、皆さま、いかがお過ごしですか。年末から年明けにかけ、外に出て人と会う機会が多かったので、ここ数日は家にこもり、窓の雪を眺めつつこたつで書きものなどしています。 *夕方、ごはんを作りながらテレビを見ていたら、時計台のねじを巻く職人さんのことを取り上げていた。九十年前に建てられた、煉瓦造りの旧県庁のてっぺんに、その時計台はある。5日に一度、柱と梁が複雑に入り組んだ屋根裏の通路を通って時計台の内側へ入り、職人さんはねじを巻き上げる。時計職人以外、ほとんど誰の目にも触れることがないはずのその仕掛けは、実用的なだけじゃなく、芸術品のように美しい。ねじを巻く職人さんの横顔には、手から手へ受け継がれてきた道具を扱う人の誇りと輝きがあって、何だか泣きそうになってしまった。百年残ってゆくものが、わたしの周りにいくつあるだろう。百年後の人に手わたすつもりで、つむいだり暮らしたりすることを、今年は意識してみようと思う。 *車で長距離を移動するとき、いつもは音楽を聴くのだが、先週末はくまの発案で、図書館のCDブックを借りた。夏目漱石「坊っちゃん」(新潮社)。誰かに物語を読み聞かせてもらうなんて、考えてみたら、大人になってからは初めてかもしれない。俳優さんが、よく通る声で、ゆったりと読み上げる小説の世界は、目で活字を追いかけるのとは違う、ふくよかな広がりがある。言葉のひとつずつが際だって、文体が体に染み込んでくるよう。それにしても、「坊っちゃん」がこんなに笑える小説だったなんて!文章の「リズム」って、小説にとってほんとに大切な要素なんだなー。活字で読んでいるときには気づかなかった、新しい魅力。サービスエリアで車を停めても、続きを聞きたくて、なかなか車から降りることができないほど。車を運転しているときだけじゃなく、台所に立っているときや、走っているときにも本を「読む」ことができるのは嬉しい。CDブック、冬の新しい愉しみになりそうです。
2010.01.15
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