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ポール・オースター「幻影の書」を読む。圧巻。いったんページをめくりはじめたらもう止まらない。読んでいる間じゅう、一文字たりとも読みのがしたくない気持ちと、早くページをめくって先を知りたい思いがせめぎあう。本読みにとって至福のとき。いちばんの魅力は、もちろんストーリーのおもしろさ。人生のなかばで、すべてではないが自分の大部分を失った男が、ある無声映画俳優に魅せられたことから、物語が動きだす。男の執筆する本がある出会いをもたらし、男は自覚しないまま、人生をその手にとり戻す旅をつづけることになる。最初の一行から最後の一行まで、一分の隙も感じさせない構成。伏せられていたカードが次々とひっくり返るようなラストシーンにもため息が出る。大胆なストーリー展開を支えているのが、細部の精緻な描写。その積み重ねがあるから、肝心な場面で、違和感なく感情移入することができる。ときどきすべりこむ非現実的な領域が、またはっとするほど生々しいのだ。生と死の境、自分と他者の境界があいまいになる瞬間。「小説中映画」とでも呼びたいような、無声映画の映像と物語を文章で追いかけてゆくシーンも読みごたえがある。さらに柴田元幸の訳文がほんとうにすばらしい!読者が作品世界に没頭することをじゃましないどころか、背中を押して積極的に助けてくれる。ぎりぎりのラインで自分に妥協をゆるさず、最後の最後まで推敲をかさねて、この文体が完成したのだろうなあと思う。翻訳はやっぱり職人芸だ。 *こんなにうまいひとがいるなら、わたしなどが書くべきことはもうこの世界に残っていない。いい小説を読むと、ときどき、そんなふうに感じることがある。でも、「幻影の書」の読後感はちがった。焦りとか羨望を通りこして、「ああ、ほんとうにすばらしいものを読んだなあ」という恍惚感だけが心にのこった。ささやかでも、つましくても、自分にしか書けないことがあると信じて(それがたとえ錯覚にすぎないとしても)、前にすすむしかないのだ、と素直に思えた。それはもしかすると、この小説の登場人物たちが、ほとんど狂気じみた情熱で自分の仕事に没頭してゆくことと何か関係があるかもしれない。与えられた場所でベストを尽くすだけだ、と思わせる力が、オースターの小説にはある。さて。迷っているひまはない。わたしもがんばらなくっちゃ。
2009.01.30
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いつも通らない道を散歩したら、さざんかが咲いていた。中の雄しべが見えないから、まるでバラみたい。さざんかの花びらは、バラのように1枚ずつ、はらはらと散る。いっぽう、椿は花のかたちのまま、ぽとりと落ちる。よく似たふたつの花の、いちばんわかりやすい見分けかたなのだそうな。吉田篤弘「小さな男*静かな声」を読む。百貨店につとめながら、完成することのない百科辞典の執筆にいそしみ、〈ロンリー・ハーツ読書倶楽部〉に参加する「小さな男」。「静かな声」にひそかなファンの多いラジオのパーソナリティ、静香さん。この物語に主人公というものがあるとすれば、そのふたり、ということになる。と、言いきってしまってから、わたしは急に自信がなくなる。もしかして、主人公はラジオ?あるいは静香さんが新しく受けもつことになった日曜深夜のラジオ番組「静かな声」かもしれない。いやいや、「小さな男」と「静かな声」は、直接顔を合わせたことがないわけだから、その意味では、両方に会ったことのあるミヤトウさんが、真の主人公とも言える。ひょっとして、自転車という可能性もある。静香さんの弟が乗り回し、「小さな男」の同僚である小島さんが人生をかけ、ついには「小さな男」自身も乗ることになる自転車こそが、この物語の隠れた主人公…なんだか脱線してきたので、ここらへんで話を戻そう。よいしょ。「ささやかなもの」を積み上げて物語をつくることの、吉田篤弘さんは天才だ。大好きな「それからはスープのことばかり考えて暮らした」や「つむじ風食堂の夜」のころから、その世界観は変わらない。くすくす笑いながら読みすすめて、「目にみえないところで世界はつながっているのだなあ」と心がしんとして、それから最後に、積み上げてきたすべてが頭のなかでぴぴっと化学反応を起こし、背すじがぞくぞくする。「小さな男*静かな声」は、これまでに読んだ吉田篤弘さんの本の中でも、いちばんと言っていいほどラストがいい。もう一度言っておこう。ラストがとてもいい。(ちなみにラストの次にいいのは、「小さな男」が自転車に乗りはじめるくだり)最後の一行を読み終え、静かに背表紙を閉じるころには、確実に心があたたまっている。それが午後なら「紅茶でもいれて空を見ようかね」という気分になるし、夜眠る前なら「いい夢みられそうだ」と思う。書きながら、いま、最後のほうをちょっと読み返してみた。ああ。やっぱりいいなあ。すごくいい。日曜の深夜一時、ラジオをつけると「静かな声」が自転車の魅力を語りはじめる物語の世界に、わたしも暮らしたい。 *ラジオの前のみなさん、こんばんは。「静かな声」です。今夜の一曲めは、バート・バカラック…ではなく、B・J・トーマスの歌う「雨にぬれても」をお聴きください♪
2009.01.28
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早咲きの梅。つぼみにカメラを近づけてピントを合わせていたら、枝先にうぐいす色の鳥がとまった。「あっ」と思ってレンズを向けたら飛んでいってしまった。うぐいすさんうぐいすさん、春はまだですか。まだまだ。まあだだよ。池澤夏樹「世界文学を読みほどく」を読む。2003年、夏休みの終わりの一週間、京都大学文学部でおこなわれた授業の講義録。京大生でもなんでもないわたしが、たった1600円で、自宅の居間にいながら池澤夏樹の講義をじっくり読める。おお、なんという幸福!文学論の講義…というよりも、池澤夏樹の書斎におじゃまして、その書棚をじっくり見せてもらいながら話を聞いているような感じ。とり上げられた10冊のブックリスト。スタンダール「パルムの僧院」トルストイ「アンナ・カレーニナ」ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」メルヴィル「白鯨」ジョイス「ユリシーズ」マン「魔の山」フォークナー「アブサロム、アブサロム!」トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」ガルシア=マルケス「百年の孤独」池澤夏樹「静かな大地」ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」10冊と言わず、もっともっとたくさん、いつまでもお話してください…と感じさせるおもしろさ。この本自体が、「世界文学を読みほどく」というタイトルの小説のようでもある。読んだことのある本は魅力を再発見し、読んだことのない本の章もしっかり楽しめる構成になっている。巻末には、「『百年の孤独』読み解き支援キット」なる付録も。半分も読まずに挫折したガルシア=マルケス、もう一度挑戦してみようかな。
2009.01.27
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ジェネット・ウィンターソン「オレンジだけが果物じゃない」を読む。邦訳は岸本佐知子。「灯台守の話」でも感じたことだが、ウィンターソン×岸本佐知子という組み合わせは、ナタリア・ギンズブルグ×須賀敦子と同じくらい幸福な出会いだと思う。違う文化、違う歴史、違う言語体系で書かれた文章を、これほど魅力的な日本語に置き換えることができるなんて!どんなに精巧なロボットがつくられても、人工知能が発達しても、人間の知恵がなければ成り立たない仕事のひとつが翻訳だと思う。いつか、自動筆記マシーンが小説をつづる日がきても、翻訳を彼らにまかせることはできないはずだ。「オレンジだけが果物じゃない」は、ウィンターソンの自伝的処女作。主人公ジャネットの母は、あるキリスト教宗派の熱狂的な信者だ。そんな母親の英才教育を受けて育ったジャネットは、幼くして説教壇に立つまでになる。教会と家を拠り所に成長してきた彼女の運命は、しかし、初めて恋を知ったことをきっかけに、大きく動きはじめる。ウィンターソンの語り口は軽快で、ユーモアと知的な皮肉に満ちている。一方で、はっとするほどの純粋さや、身を切るような繊細さがのぞくこともある。その想像力は、どんな枠にもとらわれることなく、どこまでも羽ばたいて新しい世界を見せてくれる。ウィンターソンの作品の大きな魅力のひとつが、ストーリーの合間にふと挿しはさまれる異界の物語や寓話だ。現実とファンタジーが混ざりあい、折りかさなって、読む者の心に忘れがたい不思議な余韻を残す。小説の終盤、ウィンターソンは主人公ジャネットにこんなことを語らせている。「わたしはつねづね考えている。人生で何か大事な選択をするたびに、その人の一部はそこにとどまって、選ばれなかったもう一つの人生を生きつづけるのではないか、と。人によっては発する念がとても強く、まったく違うもう一人の自分をさえ創りだす」ここから先はわたしの想像だが、ファンタジーとは絵空事ではなく、この現実に並行して存在する、もうひとつの世界なのではないか。そこには「完璧を求める王子様」や、選ばれなかったもう一人の自分や、魔法つかいだっているかもしれない。長い人生の中では、その世界の存在が救いになることもままある。たとえば密室の通気孔のように。高い天井にあけられた天窓のように。新鮮な空気や朝の光をそこから体に取りこんで、現実に立ち向かっていかねばならないときが。暇つぶしや娯楽としてではない、一種の生命線としてのファンタジーということを、この本を読みながら考えていた。
2009.01.23
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散歩のつづき。冬の花壇に、白や、紫や、赤紫の花がたくさん咲いている。なんの花だろうと気になって、帰ってきてから調べたら、「紫羅欄花(あらせいとう)」というあぶらな科の植物でした。あらせいとう…どこかで聞いたことがあるな。ああ、そうか。詩のことばだ。 *新川和江「わたしを束ねないで」 わたしを束ねないで あらせいとうの花のように 白い葱のように 束ねないでください わたしは稲穂 秋 大地が胸を焦がす 見渡すかぎりの金色の稲穂→ *くり返して読むことで、いつからか、詩のことばがわたしの体にしみこむ。花を見たとき、空が青いときに取り出して、味わうことができる。それはたぶん、とても贅沢なことなのだ。
2009.01.22
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公園を散歩する。二ヶ月前、こんなふうだったユリノキ。木の左がわに写っている背の高い花は、皇帝ダリア。 * 今、ユリノキはこんなふう。実がなっているよなあ、と思うのだけど、後ろにひっくり返るくらい首をそらしても実のかたちがわからない。立派な木だものな。登らないと見えない。帰ってきて、インターネット博士に聞いてみる。銀杏みたいな丸い実かと思っていたら、茶色いチューリップみたいな形をしているのでした。チューリップの花びらを、「しゅっ」と細くした感じ。ばらばらになって、くるくる回りながら落ちてきて、そうして種をまくのだそうです。
2009.01.21
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時計の針が戻りますが、年末、くまと湯西川温泉へ行きました。そのとき写真を撮ったこと、インフルエンザですっかり忘れていたのです。ひさしぶりにカメラをたしかめて「あっ」と思いました。それがこの雪景色。 *湯西川は、鬼怒川のさらに奥。鬼怒川温泉駅を過ぎると、急に雪が降ってくる。降りはじめの雪だから、まだ木のかたちが雪に埋もれていなくて、枯れ木に白い花が咲いたようで綺麗。雪が降ってしまうと、外気は刺すように冷たいが、身にしみるように寒くはない。露天風呂のお湯は熱く、ちらつく雪がひんやりして気持ちいい。夕食までのあいだ、浴衣に着替え、囲炉裏を模した窓辺のテーブルにほおづえをついて、ぼーっと雪をみる。窓が川に面しているから、とても見晴らしがいいのだ。灰色の雲がたれこめて、あっという間にあたりが暗くなる。でも、積もった雪があるから日が落ちても明るい。雪の結晶が、すくない光を反射させるからだろうか。雪は、日々の暮らしの中にあると大変なものだけれど、こうして別の場所で、あらためてみると何だかほっとする。わたしはやっぱり雪が好き。雪はいつだってなつかしい。
2009.01.20
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ナタリア・ギンズブルグ「ある家族の会話」を読む。訳者の須賀敦子さんをして「羨望と感嘆のいりまじった一種の焦燥感をさえおぼえた」と言わしめるこのイタリアの私小説は、ひと癖もふた癖もあるナタリアの父親と、彼が愛した山歩きの描写で幕を開ける。「なんというロバだ、おまえは!」と家族を怒鳴りつける父親におどろき、その父がこよなく愛する山歩きを「悪魔の一味のいっせい休暇」と呼びならわしてなんとか逃れようとするお茶目な母親の姿にくすりと笑っているうち、この風変わりな家族にすっかり愛着がわいている。家族の思い出をたどるこの小説に命を吹きこんでいるのが、タイトルにもなっている家族の「会話」、印象的な言葉たちだ。家族の言葉について、作者はこんなふうに書いている。「私たちは五人兄弟である。いまはそれぞれが離れたところに住んでいる。なかには外国にいるものもある。たがいに文通することもほとんどない。たまに会っても、相手の話をゆっくり聞くこともなく無関心でさえある。けれど、あることばをひとつ、それだけ言えばすべて事足りる。ことばひとつ、言いまわしのひとつで充分なのである。あの遠い昔の言葉、何度も何度も口にした、あの子供のころの言葉で、すべてがもと通りになるのだ。(中略)どこかの洞窟の漆黒の闇の中であろうと、何百万の群集の波の中だろうと、これらのことばや言いまわしのひとつさえあれば、われわれ兄弟はたちまちにして相手がだれだか見破れるはずである」 *時系列で、家族のアルバムをめくるように進むおだやかなこの小説は、しかし、子供たちが成人するころから、その色合いを変えはじめる。舞台となるイタリアでムッソリーニが台頭し、両親が社会主義者だったナタリアの家族も反ファシスト運動に巻き込まれてゆく。父や兄、自身の夫に降りかかる過酷な運命を描くときでさえ、ナタリア・ギンズブルグの筆は揺らぐことがない。簡潔で淡々とした文体がつらぬかれる。抑えた表現だからこそ、行間には深いなつかしさがにじむ。笑いながら読み流していた、遠い日の父の「名言」、何気ない団らんの場面を思い起こさずにはいられなくなる。ああ、そうか。須賀敦子さんの文体によく似ている。翻訳したのが須賀さんだから、というばかりではなく、ギンズブルグと須賀さんには、表現について、もともと通じるものがあるのだと思う。若いころのギンズブルグは「女性的な、感性だけにたよった文章を書くことをなによりも恐れていた」と、須賀さんは解説で述べている。「『男性のように書かねばならない』とたえず自分に言いきかせ」、「できるだけ自分本来の感性から遠い文体で作品を書くことを自らに課した」という。そんな作家が、ふと自分を縛りつけていた鎖を解きはなって、「話しことば」で書き上げたのが「ある家族の会話」だと須賀さんは記す。ギンズブルグは「『男のように書く』というストイックな修業の積み重ねを通して、はじめて文学とよばれるにふさわしい文体ないしは作品を生んだ」のだと。これは想像にすぎないが、異国で若くして夫をうしなった須賀敦子さんも、あるいはギンズブルグと同じように「女性であることに甘んじてはいけない。感性だけにたよって書いてはならない」と自分に言い聞かせた時期があったのではないだろうか。書くことで自立しようと覚悟を決め、自分を律しながら書いてきたその年月にそぎ落とされて、あの端正で静けさに満ちた文体が生まれたのではなかったろうか。 *「ある家族の会話」の終盤、夫のいない不安な一夜を明かしたナタリアと子供のもとに、幼なじみのアドリアーノがたずねてくる場面がある。時代の影が落ちたセピア色のアルバムの中で、そこだけ鮮やかな色がついたようにはっとさせられる場面。例によって、ブログに引用させてもらう文章としてはすこし長いのだけど、およそ45年前にイタリアで初版が出版されたこの本の魅力を伝えることになると信じて、引き写したいと思う。「北にいる、ひょっとしたらもう二度と会えぬかもしれない父母たちのことを考え続けた孤独と恐怖の長い時間の果てに、あの見なれた幼なじみのアドリアーノがあの朝、私の目の前に現れたときの深い安堵の気持を私は生涯忘れないだろう。そして部屋から部屋へ散らかった私たちの衣類や子供たちの靴などを次つぎと背をかがめてひろい歩く、謙虚で慈愛に満ちた、忍耐強い善意にあふれた彼の姿を私は決して忘れることがないだろう」。
2009.01.19
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「空気公団」に出会う。YouTubeで「旅をしませんか」と「夕暮れ電車に飛び乗れ」のPVを見て、ほとんど夢中になってしまった。最初に手に入れる1枚をベストアルバム「空気公団作品集」にするか、それとも昨年末に発売された「メロディ」がいいか、日々うっとりと頭をなやませている。しあわせな時間。
2009.01.19
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身のちぢむような寒さにもかかわらず、2、3日天気がいいとはりきって咲きはじめるヴェランダのカーネーション。ひと月にひとつずつつぼみがほどけて、いまはこの冬3つめの花が満開です。 *インフルエンザで高い熱が出ているあいだ、熱を下げるために抗生物質をのんでいました。6時間以上空けて、1日2粒まで。薬の効きめは5時間ほどで、1日は24時間あるので、高い熱に耐えなければならない時間が、一日の半分くらいはあります。布団と毛布をありったけかぶってがたがた震えながら、「いつもより少し死に近いときの感じ」をじっと観察する。異物を体の外に追い出し、生きのびることに全精力をかたむける体のようす。そのうち、熱にうかされた頭に、今までに見たきれいな景色が、順番にうかんでくる。屋久島の森。グリーン島の海。夜明けの雪景色。夕日にかがやくクジラの尾びれ。クジラの尾びれ?ああ、そうか。クジラの尾びれは、自分の目で見たんじゃない。熱が下がったときにめくった星野道夫さんの本で見たんだ。「森と氷河と鯨」。副題は「ワタリガラスの伝説を求めて」。南東アラスカを旅する中で、いつからか著者の心をとらえるようになったワタリガラスの伝説。はなれた土地で生きる別の部族の人びとが、なぜよく似たワタリガラスの神話を語り伝えているのか。さらに言えばわれわれはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。その大きな問いをひとつの軸に、印象的な写真ととぎすまされた文章でアラスカを切り取ってゆく、息をのむような美しい本だ。「森と氷河と鯨」は1995年から「家庭画報」に連載され、予定回数をあと3回のこしたところで、突然の事件によって終了を余儀なくされた。1996年8月8日、取材のために出かけたカムチャッカ半島で、就寝中のテントをヒグマに襲われ、星野道夫さんはその生涯を閉じる。だからこの本は、アラスカの自然に魅了され、そこに住む人々を愛しつづけた著者の、最後の旅の記録でもある。星野道夫さんの本をひらくと、いつも「もうひとつの世界」の気配をはっきりと感じる。天国とか地獄とか、死後の世界ということとは少しちがう。今、自分が呼吸して、足を着けて歩いているこの地面のつづきに、海をへだてて、鮭がのぼってくる川や、それを食べにやってくる大きなクマや、地鳴りのように移動するカリブーの巨大な群れがあるのだということ。「時間」というものは何種類もあって、日常の自分はそのほんの一種類を生きているにすぎないのだと思うと、気持ちが空へ向かってひらけてゆくのを感じる。どこへでも行けるし、何にでもなれる。心からのぞめば動物にだって、森の木にだって。だから自分はひとりではない。世界に抱かれている。そんなことを思う。そう言えば、この間出た「クウネル」に、幸田文さんの特集があった。その中で娘の玉さんが、文さんの言葉として、こんなふうに話していた。「よくいっていました。おばあさんがただ寝てたってつまらない。病んで動けない時に、じーっと思い出してるだけで気持ちが動くような、目の中にしまっとけるものがあるといいよって」目の中にしまっておけるもの。いつでも眺められる、ひょっとしたらあの世へ行くときにも持っていける宝物。そんな景色や時間を、おばあさんになるまでに、あといくつ集められるだろう。
2009.01.14
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仕切りなおして2009年。あけましておめでとうございます。ようやく体調も落ち着いて、朝、ふつうの時間に起きたり、布団を干したりできるようになりました。熱が下がった後、いつまでも咳がとまらなくて、夜も眠れないほどなので病院へ行ったら、先生が言った。「熱が下がった時点で、インフルエンザのウィルスはもう体内にいないのです。でもね、ウィルスは体の中にいる間に、気管支をめちゃめちゃに傷つけて、それから去るのです。だから咳が抜けないのです」めちゃめちゃ…かわいそうな気管支…こうしている今も、わたしの体の中では、何千、何万、何十万の細胞が大活動して、めちゃめちゃの気管支を修復しているのだろうなあ。と、いうようなことを、「生物と無生物のあいだ」を読んで以来、何かと想像するようになった。そう言えば、初詣で引いたおみくじにも健康のことが書いてあったし、体を大切にすることは今年のテーマになりそう。毎朝起きて、三度の食事をして、すこしは仕事もして、夜になったら眠る。人の営みは、ほんとうは奇跡のようなバランスの上に成り立っているのだと、病気をするたびしみじみ思う。2009年の読み初めは、池澤夏樹「静かな大地」。明治時代の北海道に入植した移民(和人)たちと、アイヌ民族の物語。章ごとに語り手がつぎつぎ移りかわる重層的な文体のおもしろさは、考えてみると、アイヌの民話にも通じる。ひとつの文化、歴史、生活様式、言葉を持って生きてきた人びとが、その誇りを奪われ長く暮らした土地を追われてゆく様を、池澤夏樹はあえてアイヌではなく、和人の兄弟とその周辺を描くことで浮き彫りにしようとする。著者は和人。そして読んでいるわたしも和人だ。和人には、和人の歴史しか語ることができない。アイヌの歴史を語るための言葉を、和人は持っていないから。そのことを自覚して筆をすすめる作家の謙虚さは、そのまま、この大河小説の主人公である三郎、志郎兄弟の生きる姿勢でもある。ふたりは和人の子供でありながら、アイヌの子供と仲良くなり、その家族とも親交を結んでゆく。支配でも隷属でもない、ともに生きる道を探そうとする。物語がはじまって間もなく、兄の三郎が、札幌の農業学校から弟の志郎に書き送る手紙がある。若さと希望、力に満ちた書簡を、そのときは何気なく読んでいるのだけど、小説の後半、「チセを焼く」のあたりまで読みすすめてからもう一度戻って読み返すと、一言一句、胸の張り裂けるような思いがする。小説の最後に添えられた「熊になった少年」という小さな物語を、わたしは初め、別の雑誌の中で読んだ。そのときは、この民話ふうの物語が何を言いあらわそうとしているのか、つかみきれずに首をかしげたのだが、「静かな大地」を読み通した今なら、理屈ではなく、言葉のひとつひとつが深く胸に刺さる。少年は、トゥムンチにはなれなかった。熊にもなりきれなかった。それはなんて悲しく、なんと残酷なことだろう。
2009.01.13
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年明けからインフルエンザにかかっています。熱は下がったのですが、体の衰弱がひどく、長い時間起きていることがむずかしい状態です。(とは言え、枕もとに本を積み上げてときどき読んでいます)年始のご挨拶が行き届かず、いただいたお便りのお返事も遅れてしまってごめんなさい。気長にお待ちいただければありがたいです。biscuit拝
2009.01.09
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