書評日記  パペッティア通信

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Oct 18, 2006
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カテゴリ: 経済
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▼  悪いのは僕だ、ということは分かってる。 でも、しばしば、「これはあんまりではないか」と言いたくなるような事態に、人は遭遇することがあるもんだ。 さぞかし、この書物との出会いは、そんな不条理さに満ち満ちたものであった。 時間と金を返して欲しい。


▼  そうなんだ。 もとはといえば、「立岩真也って、どんなことを言ってるんだろう」「手際よくまとめられた本があれば、とても便利なのにな」と、下心丸出しで、本書に飛びついたのが悪かったにちがいない。 稲葉振一郎氏と立岩真也の対談とくれば、立岩真也が理解できる上に、稲葉氏と立岩氏の、スリリングな対談になるんじゃないか。 「一粒で2度おいしい」。 ええ、胸を躍らせて、飛びつきましたよ、わたしは。 その結果は、言うまでもない。 立岩真也って、結局、何を言っている人なのか、最後まで分からなかったのだ。


▼  とりあえず、気を取り直してまとめてみよう。


▼  稲葉振一郎氏によれば、立岩真也氏とは、「分配する最小国家」「冷たい福祉国家」―――加害の防止と、分配だけをおこなう国家―――を提唱されている方らしい。 稲葉さんは、ケインズ主義的福祉国家の自明性を解体して、干渉国家・管理国家という批判を封じるため、「ケインズ主義的最小国家」=古典的最小国家に金融政策をプラスしただけの国家像を提起する。 一般的に現代では、外部経済を内部化することで、環境問題などに対応していく方向性に対して、「外部」の存在、市場の限界を強調する議論が多かった。 ところが立岩氏は、「所有する能動的な主体」から議論を始めない。 所有の主体は、理論の主人公にとっての他者として現れ、「他者にとっての他者」としてしか形成されない。  私の身体は、自分にとってどうにもならないが故に、私のものだろう 。 逆に、私の身体によって得られたものは、「切り離し」「譲渡」可能であるが故に、誰の者であってもいいのではないか。


▼  人は何かを所有(そして取引)する主体でありながら、同時に、取引されたり所有されたりする手段でもある。 所有を確定して市場を議論する、という方法が採られるものの、そもそも市場が、資産の商品化に見られるように、所有自体を変形させてゆく。 立岩氏の「他者にとっての他者」議論は、所有に止まれば面白いが、ダイナミックな市場に敷衍できないのではないか、「譲渡できるもの」「譲渡できないもの」の区分は、苦しい時は絵に描いたモチにすぎないものではないのか。 その稲葉氏の批判に対して、立岩氏は後者に対して、「譲渡できないもの」を譲渡しなくて済むような基本財が一人一人確保した上で、譲渡したくないものの譲渡を人に求めてはならないという原則でどうしていけないのかと反論するものの、前者には応えていない。 両者は、厚生経済学の基本定理の初期条件が、人は市場で取引に参加する前に「生きている」、取引に参加しなくても生きていける、極めておめでたいものであることに同意する。


▼  しかし、稲葉氏が「市場は所有にフィードバックするため、自給自足に戻れない」を敷衍し、 市場が絶対的な生活水準低下を招く可能性がある、すなわち「底上げしていない」「パレート最適に社会を導いてくれない」(スミス以来、経済学者の前提) ことをシステマティックに言おうとするという議論に、なかなか立岩氏が食らいついてくれない。 格差拡大は、稲葉氏にとっては、市場の前提であるコミュニケーションの透明性を損なうから是認できない。 「分配は平等か、不平等か」ではなく「パレートの意味で良い方向なのか、悪い方向なのか」を問題視する。 タガが必要であるが、どのようなタガをはめるべきかについて、なかなか見えてこない。


▼  「分配のために国家がいる」ということから始まる国家論は、なかなか面白い。 リベラリズムは、個人間の効用・価値観は比較不能であるので共存を大事にしようというと、保守主義者はそのためにも国家の役割は抑制されるべきだという。 しかし「最小国家」では、比較不能な価値の共存が掘り崩されるので、 リベラリストたちは、ロールズを始めとして、「何かを予感しつつ」も折衷主義に走り「ケイパビリティ」「フェアネス」を語らざるをえない


▼  ノージックは、ホッブスなどとは違い、他人の承認の必要がない権利を構想し、権利は歴史的背景によって決まるとして、「歴史原理VS状態原理」の中では、仮想論敵を状態原理に入れていた。 しかし、「局所VS全域」という軸を設定すると、むしろ論敵のほうが「社会の承認」が必要なだけ「局所」的ではないのか。 ノージックの議論は、ロールズの「無知のベール」同様の、圧倒的な普遍主義を前提としなければならないのではないか。  立岩の議論も、ロールズ・ノージック同様の、否、むしろ彼等よりも「他者との関係性」が入っている分だけ、さらに複雑な操作による基礎付けが要求されるような、権利が合意を超越する議論なのではないのか 。 その稲葉氏の誘いに、権利には合意が必要だが合意に回収されない権利がある、と回答。 綜合されているとはいえ、これでは議論が発展しないだろう。


▼  第4章「国家論の禁じ手を破る」では、流行らなくなった「批判理論」「規範理論」について語られるが、どうにもカタルシスが感じられない。 ブルジョア国家論も、マルクス主義的国家論も、共有してきた「道具的国家」像。 それに対して、グラムシのヘゲモニー論が一歩踏み出し、アルチュセール以降、「主体的国家」像がみられ、あまつさえヘーゲル的(?)な「主体的国家」(国家有機体説)像に本家帰りするような傾向さえみられたという。  フーコーの権力論の衝撃は、「めくらましを解除したら真実が現れる」ことの否定、まっさらなものはなにもなく、2次的な産物にすぎないこと を明らかにしたことにある。 フーコーについては、人々の性格・規範でさえ権力に先立たれていて、権力批判の身振りさえ権力に与えられたもの、と、「隘路」として理解した人が多かったが、「権力者がいない」「力の流れで、主体が生み出される」「権力とは事実性にすぎない」「国家と権力は同一ではない」ことを理解していない。 格差・不平等について、自己に責任がなくて不利益を被っている場合、搾取論ではない基礎付けとしては、国家を保険会社として捉え補償するという考えかたになるしかない。 しかし、これでは「責任主体」があいまいになってしまいかねない。そこで本書は唐突に終わる。


▼  嫉妬で分配をもとめて何が悪い。  嫉妬がなければ競争が起きないだろうが !は、鮮烈であった。 アソシエーショニズムは、所詮、企業よりもパフォーマンスが落ちてしまわざるをえない。 ローマーは、遺産相続の禁止以外は資本主義と変わらない社会主義を構想しただけでなく、「搾取」論的不平等論の無効を宣告―――搾取されるほどのものも持たない人のことを考えると余計なものでしかない―――した人物であるという。


▼  この本のレビューを書くため、読み直してみた。 少し理解できたので、怒りが少しはおさまったものの、初めに読んでいる時は、むかついて仕方がなかった。 とにかく、この本の立岩真也の語り口は、紆余曲折を繰り返していて、分かりにくい。 ほとんど、対談で喋ったことが、そのまま原稿化されてしまい、まったく手が入れられていないようなのだ。 そんなバカなことをする奴が、いったいどこにいる!!!!。 いくらなんでも、こんな手抜きを許すわけにはいかない。


▼  たとえば、「譲渡し得ない資産」である「人的資本」などの議論は、いったい、結局、どう引き継がれ、どう合意ができて、どう差異が埋まらないのか。 こんな肝心なことがさっぱり分からない。 稲葉氏と立岩氏の議論が、すれ違いまくって、ちっとも対談の感じがしない。 これに比べれば 『動物化する世界の中で』(集英社新書)の方が、破綻していることが示されている分だけ、遙かにマシ といえるだろう。 どうやら立岩氏は、喋っているうちに、混濁していた思考が整理されてきて、終わりにはそれなりにシャープな議論にまとまる方の様だ。 それはいい。 ただ、いちいち、その全過程が収録されるなんて、ウザイことこの上ない。 読んでいて殺意さえ覚える。 稲葉振一郎氏が立岩真也の議論まで、読者のために丁寧にまとめている努力には、たとえまったく報われなかったにせよ、頭が下がる。 おそらく、この対談。 適切にまとめれば、1/3で済むような、シロモノではないか。 はっきりいって、その方が10倍くらい面白かったにちがいない。


▼  あと、立憲主義の民主主義に対する優越について、ルーマンを持ちだして語ることに、何か意味があったのか……。 そりゃ、人(そして人権)は「社会(行為)システムの外側」=環境にすぎないんだから、当然の前提なんじゃないの?。 その後をあからさまに、「立憲主義を限界づけるのは、民主主義なのか?」……という問題提起をするんだけど、なんか知ってるくせに黙ってるというか、マッチポンプというか、嫌みな感じがしてしまうゾ。


▼  要は、なにごとにも、学問に近道はない、ということか。 稲葉氏部分は、星3つ。立岩氏部分は星1つ半、平均星2つとした。ご寛恕願いたい。



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『動物化する世界の中で』↓



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Last updated  Apr 1, 2007 12:19:00 PM
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