CAPTAINの航海日記

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CAPTAIN @ Re:松本さん(03/17) >松本さんさんへ ???
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CAPTAIN @ Re:昨晩の地震(03/17) >松本さんへ すみません。コメント頂戴…
2011.01.19
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おばかんのさんのブログ

福島県の歴史をある程度把握されている方なら、福島市を中心とする県北部の信達地方が、かつて養蚕や生糸の製造で栄えていたことはご存知かと思います。
そしてそれは、信達地方に、人口や産業、資金の集積をもたらしました。参考として、 パラパラ地図 という、福島県内における市町村の変遷図を紹介しましょう。表中で表示される一番古い時期、1889年4月1日現在の地図を確認すると、福島県全体で21ヶ所しかなかった町制施行地(市制施行地は皆無)のうち、福島、飯坂、桑折、梁川、保原、川俣と実に6ヶ所が、信達地方に集中していたことがわかります。なお、同年時点における福島県内の人口最大都市は21,584人の人口を擁していた県西部・会津地方の若松町であり、福島町は16,629人で後塵を拝していたのですが、会津地方における町制施行地は全体でも若松、喜多方、坂下、猪苗代の4ヶ所に過ぎず、周辺地域を含めれば福島の方が若松よりも栄えていたことが伺えます。
会津の人たちは戊辰戦争の遺恨云々で若松は最大都市であったにも関わらず県庁所在地から外されたと主張しますが、その認識は決して正しいものではなく、むしろ信達地方のスケールが若松近辺のそれを上回っていたからこそ県庁所在地に選ばれたと言えなくもないのです。
ただ、確かに福島は、広大な県を束ねるには北に偏った位置にあり、多くの県民が不便を感じていたのは間違いのない事実です。その結果、1885年には、福島県議会にて県中央部の安積郡(現在の郡山市)に県庁を移転するとの決議がなされます(この辺りの事情については、 K市民さんのブログ で詳しく紹介されています)。
この決議は翌1886年に内務省によって却下される訳ですが、却下の背景として、当時の信達地方が養蚕や生糸の産地であったことが、ひょっとしたら挙げられるかもしれません。当時の生糸は我が国にとって最大の輸出品目であり、外貨獲得源でもありました。時あたかも国家を挙げての殖産興業政策の真っ只中であり、生糸の産地を押さえておくことは、国にとっての最重要課題の一つであったことは想像に難くありません。従って、産地を管理・監督するために、当時は独立した地方公共団体ではなく国家の下部組織であった県庁を、福島に置いておく必要があったのだと考えられるのです。
もし、当時福島県庁が実際に郡山へと移転したとしたら…最悪のケースとして、国家=県の目が届かない所で、生糸を密輸出し私腹を肥やした上で、その資金が反政府組織に回るなどといいった事態が想定されます。当時の福島県は自由民権運動など反政府活動(運動の内容の是非に関わらずそのように表現せざるを得ません)が盛んでしたから、その根を絶つために国家として信達地方を押さえる必要があったと考えられるのです。

農業生産面だけを見ればそのようになるのですが、労働力の側面で言うと、話はちょっと違ってきます。養蚕、生糸関連の産業に従事していた労働力は、結局ダブつくことになるからです。
それをある程度救いあげたのが、1930年代以降の戦時体制を背景として興隆を見せることになる軍需産業でした。
この点では、かつて県庁移転に失敗した郡山市(1924年市制施行)に、軍配が上がることになります。今も市内に残る日東紡や保土谷化学の工場は軍需工場として稼働し、第二次世界大戦に入った1942年には、現在の郡山市内、田村町徳定、田村町金屋、大槻町の3ヶ所に、海軍航空隊の基地が整備されます。そして、1944年には、内務省が策定した軍都整備事業計画において郡山市が軍都に指定されるに至ります。先に紹介したパラパラ地図においてもこの過程が見事に反映されており、富久山(1937年)、大槻、熱海(ともに1940年)、永盛(1943年)と、郡山周辺において町制施行地が激増しています。
また、これとは別の流れとして、県南東部、現在のいわき市を中心に発展した常磐炭田が、労働力を吸収するスポンジとして機能するようになります。1870年代から開発が進められていた常磐炭田は、エネルギー供給源として着実に生産実績を上げていきます。大消費地である首都圏とを結ぶ輸送インフラであった常磐線も、なんと1925年に起点の日暮里からいわき地方の拠点都市・平までの間が複線化されています。郡山、福島など中通りを縦貫する東北本線の複線化は1960年代のことですから、いかに常磐炭田が我が国にとって重要なインフラであったかが推察されます。特に戦時体制下において我が国は深刻なエネルギー不足に陥っていましたから、重要性はより高いものになっていたでしょう。パラパラ地図においてもその過程は反映されており、湯本(1922年)、江名、植田(ともに1923年)、勿来(1925年)と常磐線複線化の前後に町制施行地が激増している他、平の市制施行(1937年)を経て豊間(1940年)、内郷(1942年)も町政施行に踏み切っています。
先に述べたように、明治時代に福島に県庁所在地が置かれた理由は、養蚕、生糸という当時の主要産業が発達していたという背景にありました。ところが、これが衰退し、いずれも国家が必要としている産業をバックに有する郡山及びいわきが勢いを伸ばしていくことになれば、この時点で福島に県庁を置いておく理由は霧消してしかるべきでした。事実、1936年には郡山市で県庁移転運動が展開されたという話も耳にします。が、この運動もまた、成果を挙げることなく収束していったようです。国家のバックアップがあれば、ひょっとしたら県庁移転が実現していたかもしれません。

そして現在、かつて国家を支えた第一次、第二次産業はいずれも衰退し、第三次産業全盛の時代となっています。2005年国勢調査における産業別就業者の比率は、第一次産業9.2%、第二次産業30.9%、第三次産業59.8%となっており、これはまた、全国の傾向(第一次産業4.9%、第二次産業26.6%、第三次産業68.3%)とも似通っています。
そしてその第三次産業の集積状況の指標となる商業年間商品販売額は、2008年のデータによると、県中央部に位置し県内各主要都市とのアクセスも充実している郡山市が1兆4,515億円と、福島市(9,150億円)、いわき市(8,153円)を引き離しての堂々のトップであり、それに歩調を合わせるかのように、都市圏人口も郡山54.8万人、福島40.7万人、いわき36.0万人(いずれも2005年のデータ)と、やはり郡山がトップの地位にあります。
これらのデータから明白に読み取れるように、福島県を代表する産業エリアは郡山市であり、過去の経緯から考えてみても県庁もまた、郡山市に置かれるべきではないかと思われるのです。県庁移転に伴う官民一体の第三次産業浮揚策によって郡山市を更に発展させることが、福島県全体の更なる発展へとダイレクトに繋がるものと確信します。

以上、拙い知識を用いながら説明していきましたが、いかがでしたでしょうか? 感想を、お待ちしております。





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Last updated  2011.01.19 22:16:46
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