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3年ぶりに北海道へ避暑。残暑厳しくて毎日32度〜34度を過ごして疲れ気味ゆえ、2時間飛んだらそこは最高気温23度だった。日中は半袖シャツでも長袖でも爽やかに過ごせる。新千歳空港に降りたが、レンタカーを借りるのに結構時間がかかった。そして天気は、、、雨よ!!!そして、滞在中、毎日雨量が増す予報で、最高気温20度前後と言ってるし、、、さて、午後1時になり、昼食をとる。空港付近で北海道らしいラーメン屋さんを探したら、地元民に人気なお店、観光客には探すのがやや困難な場所。味噌ラーメンの味噌が少し辛いなと思ったが、食後さっぱりで不思議。私はコーンバター味噌ラーメン。夫は背脂味噌ラーメンというラーメンを。北海道はやはり味噌ラーメンが身体が温まっていいのだろうな。観光客の多くは、札幌方面など東に向かう中、逆を走り、ニセコまで。2度目のニセコは、到着したら、少し雨がやんできて、助かったよ。明日からずっと雨らしいけど。もう観光をたくさんするわけでなく、のんびり過ごして帰る予定。空港から2時間弱。コロナ感染の多い地区を避けたつもりだけど、ニセコは若い人たちが多かった。けれど、マスクしていない人多し!!北海道の観光客、どうなんだろー、、
2022.08.30
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終戦記念日。「同期の櫻」という日本酒が、島の唯一の醸造元にある。「同期の櫻」は、軍歌と捉えられていて、海軍兵学校で替え歌として歌われた。実際、構内に桜の木があり、昔々、「あれが歌の桜だよ」と言われたことがあるような気がするが、小学生だったからはっきりは覚えてない。この歌を歌い始めた人は、やはり海軍兵学校を出た少尉の人とかで、映画にもなった「回天」にて散った若者と聞いたことがある。呉市の海軍工廠で伯父が作っていた戦艦大和と違い、山口の海軍工廠で作られていたのは回天、しかし、それは何かということは秘密であったらしい。「戦死したら、靖国神社に」、そこで会おうという悲しい歌詞だよ。終戦記念日、参拝する政治家がニュースになる時代だよ。海軍兵学校を卒業するとすぐ、少尉になる幹部候補生なので、全国から優秀な10代の若者が集まってきていた。が、敗戦に向かう最中、兵学校の学生も海や空に駆り出された。急な指令で、家族に会ってお別れを言えないことが多くて、それは手紙として残されて、現在は一般にも公開されている。島の人たちは、そんなお別れの場を提供してあげるために、部屋を貸したと聞いた。身寄りのない若者のためには、住民みんなで、「千人針」を作ったと祖母が言っていた。私の保育園の大好きな優しい先生は、ご主人が海軍大尉で海で戦死されたと聞いている。島はそんな昔から、今の海上自衛隊術科学校(防衛大卒の幹部候補生のための専門教育)の学生のために、間貸しやアパートをしていることが多い。地元広島出身でなく、休日に寮生活を離れていたい若者が借りている。家賃3千円くらいかな?笑義父は体調を崩す前まで、毎年終戦記念日近くには広島市内の比治山にある慰霊祭に出かけていた。義父の叔父が軍艦乗船で海で戦死している。(住人さん、船舶砲兵部隊将兵慰霊碑かも)その日は帰り道、その参列者と飲んで終電を逃して我が家に泊まっていくことが多かったので、ちょっと迷惑ではあった。というのは、持っているお金を酒に全て使い、タクシーで我が家へ来て、タクシー代も翌日の帰路電車賃も私が払わなければならなかったから。笑あれやこれやと、戦争を知らない私が終戦記念日に思い出すことは、結構あるのだ。
2022.08.15
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夫側の墓参り。車で1時間くらい。やたらに鹿の足跡あり、きっとお供えした花は、夜には鹿に食べられるだろう。お墓20基あるので、たくさんの花が食べられるだろう。毎回お花を差す時に花差しの中から現れる、お墓の守り主。私もどこかの花差しにいると予想しているから、もうびっくりしないよ。笑近くに川もないのに、いったいどこから来て、なぜずっとお墓にいるのかわからない。山の中だから、ヘビや鳥やらいるんだけど、けなげに墓にいる。けど、今回も新鮮な水をたくさん入れたから暑い夏を過ごしやすくなったと思う。笑若くないと思うけど、頑張っておくれ!アマガエルは寿命5〜7年だって!別に水の中に住むわけでなく、陸に住むんだって!帰路、美味しいという評判の料理屋でランチするつもりだったが、お盆を迎えるのに、やはり予約が必要という私のいうことをスルーした夫。行ったら、やはり予約席で満席ではないか!で、別の近くのカフェごはんとなる。
2022.08.11
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8月9日 長崎原爆投下の日デザイナー三宅一生さん死去。三宅一生さん 過去(7年前)のインタビュー記事広島に原爆が投下された70年前の8月6日。僕は小学1年生でした。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さって。びっくりしてね。母のいる自宅は爆心地から2・3キロ。「うちに行きたい」と疎開先の家の人に言ったら、乾パンをたくさん持たせてくれた。ひとりで母を捜しに向かいました。母は半身にやけどを負っていました。(中略)「長男なんだから、安全な田舎に行きなさい」。母は私を見るとすぐに、そう言いました。僕を生き残らせるためでしょう。母は、気の強い、しっかりした人でした。近所の人や親戚からも慕われていました。被爆の影響で、4年生のときに骨膜炎を発症しました。この病気で亡くなる人もいましたが、ペニシリンのおかげで助かりました。看病してくれた母は、僕の病状が良くなって間もなく、亡くなりました。読売新聞海外で活躍されていたデザイナー三宅一生さんは、被爆者であることを語らないままにしたかったのですが、オバマ大統領の影響を受けて、鮮明に覚えているあの日のことを語り始めました。オバマ大統領が平和祈念式典に来広された折には、三宅一生さんデザインの時計が贈られたということでした。三宅一生さんは広島市名誉市民です。県庁にお写真と市長お悔やみ文、供花が飾られているそうです。私からしたら、それはそれはカッコいい大人の人でした。三宅一生さんのご実家は広島駅の近くです。被害も大きかった場所でしょう。怪我をした姿のお母上を、小さな少年が見つけた時の悲しみや辛さはどんなものだったのか想像をこえるでしょう。伯母も母もあまり語らないあの日。「ずっこけ三人組」などの作者、児童書作家、那須正幹さん、もうお亡くなりになりましたが。1945年8月6日、広島市庚午北町(現・西区)の自宅で母親の背中におぶさって3歳で被爆。1949年広島市内小学校入学。クラスの3分の1は被爆して親のない子もいた。中学2年生の時に、一年で同じクラスだった女生徒が原爆被爆による白血病を発症し、死亡した。晩年、上記など被爆の経験をもとに書かれたヒロシマ三部作(ポプラ社2012年発行)は、モデルの女性が実在していました。我が家から遠くもないお好み焼き屋さんが出てきます。児童書には少し難しいところもありますが、ぜひ、大人にも読んでいただきたい本です。何度か涙しました。こうして広島のあの日を知る方々が高齢化して、お亡くなり、あの日を知らない人たちが増えて行くのが、怖いです。
2022.08.10
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8月6日8時15分毎年、街にサイレンが鳴り、1分間の黙祷を促す。テレビでは原爆犠牲者追悼式典で、市長、知事などの宣言文が読み上げられて、子供代表も宣言する。今年はイタリア出身の男の子が選ばれていた。その後、参列者の花が供えられていき、テレビはフェイドアウト。広島に帰って来て3年目の夏。あの日、母は小学生だった。なぜか県北に先生や友人と夏休み(疎開)を過ごしていたので、原爆投下の連絡を受けて3日後に市内に戻ってきた。家族が全員亡くなったり、行方不明になった友人もいる中、家が爆心地から2キロ以上離れた場所にあったため、家族も家もなんとか無事だったが。一番上の姉(伯母)は中学生であの日ボランティアに出かけた。帰って来ない姉を父母(祖父母)は血まなこで探し、三日後にリヤカーに乗せられた姉が帰ってきた。母がいうに、顔も腫れ上がり、火傷も身体中にある姉をよく認識して連れて帰られたかと不思議だったという。その後、治療もなかなか受けられず、寝たままの姉の世話を家族で見たというが、まだ3歳くらいの妹もいて、姉の看護は母がよくみたという。包帯も足らず、サラシや布で火傷や傷に巻くのだが、季節もあり、患部にウジムシがわき、それを箸で取りながら、布を洗って取り替える準備を、長い間、小学生の母がしたのだという。辛かったと母は言った。一命は取りとめたものの、原爆症状で、具合の悪い伯母は、寝たり起きたりしながら体調を戻した。縁があって、海軍工廠で軍艦大和を作っていた技術者の伯父と結婚したが、やはり体調の悪い日が多かった。私の小学生の夏休みは、毎年そんな伯父伯母のうちに1か月近く行って、子供のいない伯父伯母のもと、可愛がられながら、おつかいとかしたように思う。甲状腺ガン、喉頭ガン、肺ガンと悪化した伯母は70歳で亡くなった。よく病気と闘ってきたと思う。友人たちが直爆で亡くなった中、生きてきた伯母は、生前、「なぜあなただけ生きているのか」という友人の親からかけられた言葉を心に潜めながら、「死ぬのはちっとも怖くない.友人が待っているし、心の重りがなくなるから」と語られたと葬儀で弔辞を読まれた。坂道の呉市の伯母の家が忘れられない。歴代リキという雑種犬を飼っていて、毎日夏は散歩の役目をしていた私、伯母の持つアパートにいた同じ歳の女の子と仲良くて、よく公園まで通った。その女の子とはまだ続いていて、東京では一度会った。彼女も家族に苦労させられても明るく、会ったり電話した時には、彼女も可愛がってもらった伯父伯母の話が半分以上となり、懐かしさいっぱいだ。伯母から形見に喪服の着物をもらった私。一度も着たことがない。おばさん、もう、ワンピースにするよ。今日は、そんな伯母の事を思い出す日。来週は母とお墓参りに行く予定。戦後生まれた叔父も昨年亡くなり、毎年お墓参りに行く場所が増えるばかり。
2022.08.06
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湯布院の宿のスタッフさんに聞いて、三日目の湯巡りは、 熊本県平山温泉へ。福岡寄りなので、帰路にはちょうどよい。高速道路を降りて、ひたすら走って、熊本県平山温泉へ。町民の湯「元湯」受付にひとり。入湯料300円。大分も熊本も入湯税含めて300円は安いよね。昼前、誰も入ってないから、ひとりでゆっくり。源泉掛け流しの熱めな湯。一の湯船は高めな源泉で、入れそうにないから、ニの湯船でじわっと温めた。露天風呂もあり。でも全身に強い紫外線を浴びる炎天下で入らなかった。ここには、地元の人が持ち込んだ野菜など販売していた。小さなスイカ600円を買ってみた。さて、ドライブも最終章。高速に再び乗って、福岡県柳川へ。目的はお昼ご飯の、鰻せいろ蒸し。どじょうの柳川鍋もあるけど、どじょうはお留守。蒸してあるから柔らか。ご飯もタレをまぶして炊いている感じ。お堀のそばの店。小舟に乗って65分らしくて、炎天下辛そうだ。山口ー大分ー熊本ー福岡の湯巡りドライブ2泊3日は、思いつきの湯巡りで、慌ただしく脱いだり着たり。それでも楽しかったようで、長距離ドライブも疲れがなく帰宅して機嫌の良い夫だった。俵山温泉、長門湯本温泉、筋湯温泉、湯布院温泉、平山温泉、つぎはどこに行こうかな。
2022.08.01
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