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「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって従った。それからイエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大勢、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大勢いて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(マルコ2:14~17 )収税所とは、少々ワケありの場所。ユダヤ人の同胞からお金を巻き上げ、ローマに納めることによって、私腹を肥やしていたのが取税人たち。そこをたまたま通りかかったイエスさま。一人の人が、収税所の前ですわっている。普通の人なら、ただ、通り過ぎるであろう光景。しかし、イエスさまは、足を止めて、取税人のレビに声をかけていく。なぜ、イエスさまは、彼に目を留めたか。それは、彼が、自らの罪に悩み、救いを求めていた罪人だったから。イエスさまは、このような罪人を決してお見過ごしにならない。さあ、イエスさまと出会ったレビは、救いの良き知らせを聞いたのだろう。その喜びようは、相当のものだったようだ。多くの仲間たちを集め、大ごちそうをふるまった。ところが職業柄、集まってくる友だちは、同業者や宗教的には、厳格とは言えない生活をしている罪人と言われる人々。それを見た厳格なユダヤ教指導者たちの目が光った。なぜ、イエスや弟子たちは、あんな罪人たちと食事をするのか!そんなパリサイ人たちの非難に答えられるイエスさま。「医者は、病人のためにいる」「救い主は罪人のためにきたのだ」と。こんな当たり前のことを私たちは時として忘れてしまう。信仰の世界とはかけ離れた生活をしているような人々を救いから遠い人々だと思い、時には、疎んじたり、軽蔑したり。いつの間にか、パリサイ人になってしまっていないだろうか。丈夫になってしまえば医者はいらない。正しい人になってしまえば、イエスさまはいらないのだ。罪人のまま、弱いまま、イエスさまの前に出ればいい。イエスさまの前で格好をつける必要はない。イエスさまが地上に来られた目的。それは、罪人を招くためだったのから。
2006.05.28
母が天に召されて、二ヶ月になる。そして、明日は、母の記念会がもたれるとか。私は、遠距離になるので、残念ながら参加できない。でも、明日の記念会を前に、母らしいエピソードを一つ紹介したい。それは、父のネフローゼが悪化して、腎不全と診断され、人工透析をはじめたばかりの頃。父が60歳を過ぎたあたりだろうか。父は痩せて、体の弱い人だから、人工透析を長くつづけるなんて無理なんだと、母は、当時新潟に住む私との電話でいつもこぼしていた。そしてある日の夜中、母は、家で布団に入ってから、いてもたってもいられなくなって、病院に向かったという。そして、父の病室にこっそりと入って行き、そのベットのわきに座り込み、一心に祈りだした。途中看護婦さんが、見回りにいらっしゃり、母を見つけ、はじめは驚いたようだが、母の思いをくんで下さり、後で、床に直接座っては寒いだろうにということで、段ボールを持ってきてくださったとか。そして、その晩母は、心おきなく一心に祈り続けたらしい。その後だった・・・。母の執拗な祈りに神さまは応えてくださったのだろう。奇跡が起こった。父は、障害者手帳をもらい、人工透析も10回を数える頃、いい病院があるからと、妹の関係で紹介を受け、転院することになったのだった。そして、なんと、治療の甲斐あって、腎不全と診断された父の腎臓は、再び働き出す!その後、しばらくの入院と、自宅での療養をへて、父は、とうとう完治したのだった!!愛する父のために、信仰を持ち続け、希望の灯火を消さず、祈り続けた母。その愛と信仰は、今でも、私に多くの事を語ってくれる。
2006.05.27
子どもは語学の習得が早いというが、マイマイは、すでに、中国語で独り言。この間も、私に「グァンリンしよ!!」という。何の事かと思ったら、お店屋さんごっご。そういえば、お店に入ると店員さんが、「歓迎光臨(ファイングァンリン)!」って言ってるわ。「光臨」は、「お客様」のことというわけで、私も中国語でレストランに来たお客さんの役をやらされ、時々マイマイに直されたりしている。私の中国語は、教科書の中国語なので、自然な言い回しではないらしい。よし、こうなったらマイマイを相手に中国語会話の練習じゃ!と張り切り出すと、「ママ、もう止めて。日本語でしゃべって!」と言われる・・・。はいはい。分かりましたよ。これからも娘の気まぐれに付き合いながら、中国語で遊ぼっ!!
2006.05.26
日本人学校のお友達の家族が、お父さんのお仕事の関係でお引っ越し。3人のお子さんがいて、小学部の息子、娘が同じクラス。マイマイも幼稚園の同じ組。何かとお世話になった家族です。そして、今日はお母さんたちの送別会。親しくさせていただいていたので、ちょっぴり涙。去って行かれる方が、送別の記念に、タオル地のハンカチをみんなに送るのが、なぜか、恒例。熱い台湾、何よりのプレゼント。そんなハンカチが、もう15枚ぐらいになるだろうか。まだ、二年しか住んでいないのだけれど・・・。小さな学校だから、どうしても関係が密接になる。だから、別れの度に子どもたちは泣く。子どもたちが中学部を卒業するまでに、何度、別れを経験するのだろう。何人のお友達を送り出し、残される寂しさを経験をし、ハンカチは何枚になるのだろう。そのうちに慣れてしまうのだろうか。移動の多い海外の日本人学校。
2006.05.23
「そのとき、ひとりの中風の人が4人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」(新改訳 マルコ2:3~5)今日のテキストになる聖書の箇所は、1節から12節までだったのですが、ちょっと長いので、3節から5節までを抜粋しました。さて、この4人のお友達の熱心さには、頭が下がる。病気の友をイエスさまのところに、かついで連れて行き、どうしてもいやしていただきたいのだというこの勢い!屋根をはがし、穴まで開けて!翻って、自分を省みる。なりふりかまわず、かっこわるくても、人にどう思われようとも、友を愛し、神さまに食い下がったことがあるか。イエスさまは、この4人の友に信仰を見た。そして、その信仰に応えられたのだった。しかし、問題はここから。イエスさまが発した言葉は、「あなたの病気はいやされました。」ではなく、「あなたの罪は赦されました。」だった!エッ?この人の病気は、罪が原因だったの?ついそのように思ってしまう。でも、8節を見ると、「彼らが心の中で理屈を言っているのを・・・見抜いて」とある。イエスさまは、人の心の中を見抜くことができるお方。だとすれば、この病気の人は、実は病い以上に、自分の罪に苦しんでいたと推測できないだろうか。長く病気に苦しむ中で、健康な人をうらやんだり、八つ当たりしたり、自分の罪の性質が浮き彫りにされたとは考えられないだろうか。もし、そうであるなら、たとえ病気が治って体は元気になっても、罪の問題が解決しなければ、この人に本当の幸せはやって来ないのではないだろうか。だからイエスさまはおっしゃった。「あなたの罪は赦された」と。罪の解決。実にイエスさまは、そのために地上に来られた。イエスさまのもとに、どんな問題を持って行ってもいい。健康の問題、経済的な問題、人間関係・・・。しかし、罪の問題こそイエスさまのところに持って行ってほしい。自分で気づく、気づかないに関わらず、人にとってそれは、解決が必要な根本的な問題だから。さて、6節以降、律法学者とイエスさまの問答が始まる。彼らは、イエスさまの「罪を赦権威」を疑ったのだった。しかし、イエスさまには、その権威が確かにある!イエスさまは、それを病人をいやして立ち上がらせる事によって、それよりも難しい人を赦す権威、力が備わっていることを示していく。イエスさまの権威を目の当たりにした人々は、驚き、神さまを賛美したと書かれている。私たちも驚きつつ、イエスさまのもとに自分の罪の問題を持っていき、4人の友だちのように、罪に苦しむ友を、イエスさまのもとに連れて行きたいものです。
2006.05.21
今日は、台中日本人学校の運動会でした。例年のごとく、暑い、熱い、一日でした。今年変わったことといえば、親子競技が増えたこと。そして、選抜リレーが、全校リレーになったこと。全校といっても、130人ぐらいなんですけどね。そして、今年も毎年恒例の『台中音頭』を親、子、先生、みんなで踊りました。歌詞がおもしろいので、紹介しておきますね。1 東シナ海 飛び越えて やってきました 亜熱帯 やしの木揺れる 台湾で 作る思い出 宝物 林さんバスで 朝が来て 交通地獄も 没関係(メイクアンシー) ポポモフォ ダタラナ 何のその ぼくらは小さな地球人 ニイハオ 再見(ツアイジェン) 明天見(ミンテンジェン) 台中音頭でヨヨイのよい 注:没関係は「かまわない」の意味で、ポポモフォ ダタラナは中国語の発音記号で 日本語の「あいうえお」英語の「abcd---」にあたります。明天見は「また明日」の意。2 グリーンスネーク ニシキヘビ 木登りトカゲもこんにちは シャンジャオ 揺れる 丘の上 あがる喚声 水しぶき 焼け付く鉄棒 にぎりしめ 地球くるっと 逆上がり 雪の降らない 台中に 熱い僕らの 汗が降る ニイハオ 再見(ツアイジェン) 明天見(ミンテンジェン) 台中音頭でヨヨイのよい 注:シャンジャオ(香蕉:バナナの意味)3 パパはゴルフで ママテニス 僕らは土曜の模範街 輪投げ パチンコ ぶんぶんぶん 夜店は子供のパラダイス ぎょうざ 肉まん 牛肉麺 味は一流安いんだ 台中よいとこ 一度はおいで ない物以外は みんなある ニイハオ 再見(ツアイジェン) 明天見(ミンテンジェン) 台中音頭でヨヨイのよい
2006.05.20
明日は運動会!灼熱の太陽の下、連日の練習で、子どもたちは、真っ黒に日焼けしています。家での食卓も、最近は運動会に向けてのあれこれで、とてもにぎやか。私も子どもたちにつられて、♪ゴー!ゴー!ゴー!白白白!!♪♪ゴー!ゴー!ゴー!赤赤赤!!♪と、家事をしながらつい鼻歌。明日は、いいお天気になりそう!十分な水分、暑さ対策、日焼け止め、そして6人分のお弁当など、今日は準備に大忙し。明日当日も、今年は親子競技などが加わって、親の出番が、やたら多い。主人と手分けして、5、6つの競技に出場予定。はぁ~。勘弁してよ・・・。今日は早く寝よっ。
2006.05.19
台湾には、外国人労働者がたくさんいる。聞く話によると、タイから海外に出稼ぎに出ている労働者の半数以上は、台湾で働いているという。こちらは主に男性の労働者で、交通や建築関係の現場で働いている。もう片方で気になるのは、フィリピンの女性労働者。これがまた、よく見かける。うちの近くにも、外国人女性労働者の斡旋会社が二つあるのだが、彼らの仕事は、主に家事、子どもの世話、お年寄りの介護、病院の付き添いなど。彼女たちが、車いすのお年寄りを散歩に連れて歩いている姿。子どもの送り迎えをしている姿。奥さんの買い物の荷物持ちなどをしている姿は、よく見かける。タイの労働者たちの劣悪な待遇については、よくこちらのマスコミなどでも取り上げられているし、女性労働者の虐待の話も珍しくはない。台湾は、今や豊かな国。でも、その豊かさを支えているのは、実は、彼ら外国人労働者なのかもしれない。
2006.05.18
語学研修をはじめて、二年になる。途中2ヶ月ちょっとのブランクはあったけど、そんなのいいわけにならない。なかなか、使える中国語になってこないのがもどかしい。もともと、緊張すると、どもるタイプなので、しゃべるとき、緊張しないようになるまでは、まともにしゃべれない。「慣れる」それが、わたしの課題。教会の集会、参加できるものは、なるべく参加。幼稚園のお迎えのとき、他のお母さんたちと立ち話をする。市場に行っても、なるべく屋台の人と話すようにするとか。・・・はぁ。性格を変えないとだめだわぁ。
2006.05.16
きのうは「母の日」でした。教会でも大いに盛り上がり、楽しいプログラム満載でした。中には、着物を着て、日本の民謡を踊るグループも出て来て、かなりうけました。家でも、今日は母の日だからと、みんな何かといろいろ手伝ってくれて、夕飯も作らないですみました。マイマイは幼稚園で覚えた「我愛ママ!」を連発!ママも愛しているよとブチュだけどだけど、母を天に送ったばかりなので、どうしても母のことを思い出します。最近、こんな話を聞いたことがある。生まれたときから、子どもの時期を経て、一定の年齢に達するまでは、「幸せ」をどんどん貯める時期。そして、ある時期が来たら、今度は貯まった「幸せ」を使い始めるらしい。子どもの頃にたくさん「幸せ」を貯めていた人は、その後人生の困難にぶつかっても大丈夫だそうだ。貯金(貯幸?)がたくさんあるから。幸せを貯める場所は家庭。そして、その源泉は母の愛。私に、たくさん幸せを貯めてくれたお母さん。ありがとう。まだしばらく、何とか、やっていけそうだよ。
2006.05.15
「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。『アブラムよ。恐れるな。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。』そこでアブラムは申し上げた。『神、主よ。私に何をお与えになるのでしょうか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。』さらにアブラムは、『ご覧下さい。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。』と申し上げた。すると主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。『その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。』そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:1~6)「恐れるな」とおっしゃる神さまは、唯一私たちの心の思いを知っておられるお方。アブラムの中には、どんな恐れがあったのか。それは、この後のやり取りの中で次第に明らかになる。アブラムには子どもがなかった。それが彼にとっての焦りであり、恐れだったのだ。アブラムは、創世記12章での約束、「あなたを大いなる国民にしよう」との神さまの約束を信じてここまでやってきた。しかし、大いなる国民どころか、いまだに、子どもひとり与えられていない。神さま「報いは大きい」とおっしゃる。けれどもそのことばに食ってかかるかのように、アブラムは、抗議するのだった。そう、忍耐の限界だった。積もり積もった心の中の思いを彼は今、神さまにぶつけようとしている。「報い?あなたが何を下さろうと、子どもを下さらないなら、それらはみな、奴隷のものになるだけではないですか!」原語では「はぎ取られて何もない」とも訳せる強い抗議のことば。そんなアブラムの恐れ、あせりを神さまは、まっすぐに受け止めながら、今度はアブラムの視線を神さまの造られた世界へと移させていく。「さあ、天を見上げなさい」と。本当に苦しくて、悲しいそんな時、私たちは、ともすると、自分のそんな世界がすべてのような気になる。でも、一度、神さまの大きな大きな世界に目を向けるとき、私たちがすべてだと思いこんでいた世界が、自分の恐れや問題が、実はちっぽけなものであると気づくのではないだろうか。「なんだ、こんなちっぽけな事で悩んでいたのか。」と。アブラムは「主を信じた。」目に見える、はっきりとした理由があったわけではない。神さまは、信じるための十分な証拠を見せてはいない。彼は、なぜ信じられたのか。何を信じたのか。神さまご自身を信じた。神さまの造られた世界を見、その愛と大能を見たとき、彼は神さまご自身を信じること、信頼することを知った。そして、この神さまが「私の主」だから、「あなたの子孫を星のように」とのことばも信じられた。この大きな大きな神さまが「私のご主人さま」だと知ったから。そして、たとえ目に見える理由がなくとも、単純に信じる彼の信仰(神への信頼)こそが、神さまの御前で「義」と認められたのだった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:1,2)このみことばを思い出した。私のご主人様は、天地万物を造られた大きな大きなお方。そして私は、このお方に愛されている。この方のもの。だから、大丈夫。恐れや不安、問題の中に埋もれてしまわないように。いつも天を見上げ、この天を造られ、治めておられる、あのお方のことを思いたい。
2006.05.14
マイマイの通う幼稚園では、毎日1時間の英語の時間がある。台湾の幼稚園は、早期教育が盛んなので、これは別に特別なことではない。それはいいのだけれど、幼稚園の子どもみんなに、英語の名前を付けさせるのには驚いた。しかも、これも特別な事ではなく、どこの幼稚園も結構そうみたい。だから、台湾の若者たちも大抵は、イングリッシュネームを持っているからおもしろい。さて、マイマイも英語の名前を付けるよう求められた。マイマイは、アメリカ生まれで、アメリカ国籍も持っているのだけれど、残念ながら、ミドルネームは、つけなかった。実は、後でちょっと後悔。それで、マイマイの名前だが、決まりました!その名は、Amy理由は簡単。いろいろ候補をあげた中で、本人がまともに発音できる名前は、これしかなかったのだ。でも、かわいいでしょ!マイマイのイメージにぴったり!
2006.05.12
「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」(詩篇119:50)今日は、主人の誕生日でした。40歳になりました。家族みんなで食卓を囲み、みことばのカードを主人が読みます。きょうの聖書の言葉は、上記のみことば。最近また、少し体調がすぐれない主人は、みことばを読みながら声を詰まらせる。「パパは、いつも神さまに支えられて、聖書の言葉に慰められて、生かされてきたんだよ。」と語る主人。そして、子どもたちひとりひとりに、「ありがとう。パパの子どもでいてくれて。」私に、「ありがとう。僕と結婚してくれて。」と語る。その後、主人はいつもより少し長いお祈りをして、みんなで楽しい食卓を囲む。今日のメニューは手巻き寿司!ケーキには、大きい40の文字のロウソク。日本語と英語と中国語で「ハッピーバースデー」を歌う。日本語と英語は同じじゃん!との声もあったが、違うんだこれが。英語は「ヘェァピバー(ここで舌を巻き)ス(軽く舌をかむ)ディ・・・・」となる。そして、歌い終わったら、主人がロウソクを消す。パチパチプレゼントは、モスグリーン系の木綿手染めの中国服!それと、みんなで寄せ書きしたバースデーカード!楽しい、お誕生会でした。来月には私も主人の後を追って、○0歳・・・。
2006.05.11
「母親節」とは、「母の日」のこと。台湾の「母親節」は盛大!一ヶ月も前から、カウントダウンをはじめるような勢い。あちこちのポスターやテレビのコマーシャルで、「母親節」のセールを宣伝している。その中でも驚くのは、息子(年の頃は20代ぐらい)が母親の肩の後ろから手を回して、頬を寄せ合っているような画像が珍しくないということ。ゲローッ!なんて思っちゃうのは日本人だけ?聞くところによると、中国人は母親をとても尊敬し、大事にするとか。母親になった今となっては、いい習慣だけどね。うんうん。でも息子が後ろから手をまわしてきたら、逃げるね。私は。「母親節」のセールもすごいらしい。百貨店などもすごく値段が下がるため、この時を目掛けて、ほしいものをリストアップして、買い物に走るとか。あと、レストランも予約がいっぱいで、こちらは、値段がアップするらしい。台湾の「母親節」事情。知れば、知るほど、おもしろい。
2006.05.10
「アブラム家族と甥のロト家族がエジプトを出て、ネゲブというところに住んでいた時のこと、双方の財産、家畜が増えたこともあり、彼らの住む場所が手狭になってきた。そこでアブラムは提案する。別れて住もう。ロトが好きな方の土地を取るようにと。ロトは、迷わず、良く土地の潤っていたヨルダンの低地を選ぶ。そこには、後に神によって滅ぼされることになる乱れたよこしまな町ソドムが近くにあったにもかかわらず。アブラムは、残されたカナンの地に留まり、神からの祝福の約束を受けることになる。」(創世記13:1~18の概要)両家の牧者たちの間に争いが起こったのが、事の発端。双方の家畜が増え、牧草にも限りがあったために起こった衝突だった。ここで注目すべきは、年長者で、自分の権利を主張することもできたであろうアブラムが、それを放棄し、甥のロトに土地を選ばせたということ。裁判やお金で解決することもできたであろう。しかし、アブラムはあえて、信仰的な解決を求める。その結果はどうであったろう。一見当たりくじを引いたのはロトで貧乏くじを引いたのはアブラムに見えた。しかし、神の祝福はアブラムに!大当たりを引いたのは、まさにアブラムの方だった!二人の違いはどこにあったのだろう。ロトは、ヨルダンの低地のいかにも潤った肥えた土地を選んだ。要するに「見た目」に捕らえられてしまったのだ。それに対して、アブラムはどうだったか。約束の地カナンから動こうとはしなかった。神の約束を何よりも大事にしたのだった。私たちは、何を大事にして生きるのか。選択の際、そこがいつも問われていく。そう、人生は何を選ぶかで別れていく。私たちは、朝起きてから夜寝るまで、あらゆる事を選択しながら生きている。朝パンを食べるかごはんを食べるかなどのようにどちらでも大差がないレベルのものがほとんどかもしれない。しかし、人生の中には大事な選択をしなくてはいけないときがある。学校を決めるとき、仕事を選ぶとき、結婚相手を選ぶときなど。その時に何が神さまの喜ばれる道なのか、考えながら選ぶ人になってほしい。見えるものではなく、今は見えないものに目を留めて選んでほしい。「信仰」、それは目に見えない神さまの祝福にかける生き方なのかだから。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~子どもたちに語る主人は、いつになく力が入っていた。これから人生の多くの選択をしていかなければならない子どもたち。信仰の決断をしてほしい。目の前の目に見える事だけを見て、判断してほしくない。何か主に喜ばれることで、主の御旨にかなっていることなのか、祈りつつ決めてほしい。そして、主に祝福された人生を歩んでほしい。上っ面のもろい幸せでなく、本当の幸せをつかんでほしい。本当の大当たりくじを引いてほしい。それが私たち親の心からの願いです。
2006.05.07
昨日の夜は、幼稚園の音楽会。ちなみにこちらの幼稚園の行事は、ほとんど夜のようです。共働きの家庭が多いので、夜でないと来られない保護者の方が多いからでしょう。さて、舞台に立つマイマイは、も・ち・ろ・ん!とっても上手でかわいくて、きゃー!あなたしか目に入らないわ~って感じでしたが、それは、どこの親も同じ!しかもこの国は、日本とはちと違う!自分の感情に素直というか何というか・・・、母親たちは、舞台の前に立ちふさがり、写真を撮るは、ビデオを撮るは・・・。おとなしく後ろに座っていたら、全然舞台が見えない!しかも母親たちは勝手に子どもの席のそばに行き、一緒に座ってるし。私語なんていうレベルではなく、みんな思い思いにおしゃべりしているし。だからそれ以上に大きいヴォリュウムで、ガンガン「音楽会」をする。な、なんじゃ、この無秩序状態は!はじめは驚いてあっけにとられていたが、驚いていも仕方がない。愛しのマイマイを少しでも間近に見るために、私も席を立ち上がり、前の方に出て行って我が子に大きく手を振り応援し、舞台を終えたマイマイのそばに席を陣取ってしまった。はははっ。台湾ママさんには負けていられません。
2006.05.06
いつもどうしようかと悩むことがある。それは、こちらのトイレを使うとき。公共のトイレ、お店などのトイレにも、よくこんな張り紙が・・・。「使った紙は、トイレの中ではなく、外のゴミ箱に!」どうやら、トイレットペーパーが詰まるのを防止するためらしい。でも、だいたいのトイレは、結構水の流れに勢いがあって、問題のなさそうなんだけど。トイレの横のゴミ箱。ふた付きならまだいいんだけど、ふたがないと、ちょっと・・・。臭いだって・・・。張り紙を無視して、紙を流すと、何だか、悪いことをしている気分になるし、かといって、ねぇ~!結局は、トイレの中に入れて、えいっと流すのですが、ちゃんと流れるように、詰まったりしないように、もう、祈りながらなんですよ。ホント。
2006.05.02
「さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。『お心一つで、私はきよくしていただけます。』イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『私の心だ。きよくなれ。』すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。」(マルコ1:40~42)この重い皮膚病については、実は、はっきりとはわからない。ただ、人々から恐れられていた不治の病であることは確か。この病の人が負っていた苦しみは、どのようなものであったか。まず、家族といっしょに住むことはできない。そればかりか、自分の町や村を出て、人里離れた場所で、同じ病の人々と共に過ごさなければなかった。もし人を見かけようものなら、大きな声で「けがれた者!」と叫び、決して人が近づかないようにしなければならないのだ。また、彼らは宗教的にもけがれているとされ、多くの差別を受けていた。彼らの多くは、自分の人生をのろい、生きることに絶望していたといえるだろう。しかし、一つだけ、希望が残されていた。それは、イエスさまにお会いして、いやしていただくこと!彼は、信じていた。イエスさまには、自分をいやす力があると。そう、どんな病も、イエスさまはいやすことがおできになる。イエスさまにそのお気持ちさえあれば!「お心一つで、私はきよくしていただけます。」とは、彼のイエスさまの「お心」にかける気持ちがあらわれている。そんな彼にイエスさまは応えていく。「私の心だ。きよくなれ。」と。その言葉だけで、彼は、いやされたことだろう。今までもイエスさまは、言葉だけで、多くの病める人々をいやしてきた。しかし、この時イエスさまは、手を伸ばして、彼にさわられた。長く差別の中を歩んできた彼にとって、同じ病気を持たない人にさわられたのは、何年ぶりだったか。彼は、ここにイエスさまの「お心」を見た。イエスさまの「愛」「あわれみ」を見たのだった! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~イエスさまは、神の「愛」を具体的に見せて下さった。重い皮膚病の彼に触れることによって。時には、あわれみで涙を流されることによって。私たちの罪の身代わりに、十字架上で裁きをうけることによって。「愛」をいつも見せて下さった。イエスさまが、神でありながら、人となって地上に来て下さった目的の一つは、まさに私たちに愛を見せるためではなかったか。だから、神さまの「力」だけでなく、「愛」を信じたい。今は、苦しくても。前が見えなくても。道が閉ざされているように見えても。神さまには、私たちを助ける「力」があるだけでなく、「愛」がある。「お心」がある。決して無関心ではおられない。最善のこたえを用意していて下さっている。「お心」を信じよう。
2006.05.01
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