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ベルリンフィルは、30年前からずっと聴きたいオケで、10年以上前に一度は、アバドとの大阪公演のチケットを実際に買ったのに(たしかバルコニー席かどこかでしたが)、身内の不幸があって、行けなかった、、、で、それいらい、大阪には来ていない、、、のでした。たしかに余りにも高価、、、でしたが、大阪(まあ行ったのは兵庫でしたが)に来ること自身が稀有なうえ、土日にコンサートをしてくれる、、ということも、「千載一遇」ですし、また、100年以上前からの曲を演奏する「クラシック」とはいえ、「今」は、今しかない、、、ということを、過去の演奏家で、実際に聴けた人、、、、また、聴き逃した人、、、演劇や落語でもおんなじですが、そうした、「ナマ」のまさに「一期一会」を大切にしよう、、、とおもったのでした。で、会場です、、先に書いたとおり、この西宮のホールとは僕は相性がイマイチで、ザ・シンフォニーホールはもちろんのこと、フェスティバルホール(取り壊し決定、、、)と比べても、なにか、まとまりのない響きのような印象はぬぐえません。季節外れの「豪華志向」のデザインではあるのですが、、、いわゆる「側方反射」も、両側の壁面のバルコニー席が3階まで埋まっていることで、豪華な「セミシューボックス」っぽいデザイン(=側方反射が第一次反射として聴こえるのが利点)が活かされてないせいかな、、とも少し思います。いずみホールのように空気の量が足りない、、とか、平土間席が上がっている、、ということはないので、オケが混濁することはないですが。で、今日のベルリン・フィル、、、1曲目もブラームスの1番では、そうしたホールの間尺を、やや探っていて、ブラームスの2番で、ようやく、大体のスケールをつかんだ、、というような印象は正直ありました。ただ、ベルリンの、フィルハーモニザールこそ、天井も高く、響きはかなり拡散しそうなので、このホールのスケール感さえつかんだら、きっと、フィットした演奏をしてくれたであろうことがすこし残念でした。とはいえ、ものすごい演奏でした。オーケストラ、、というものの「意味」が変わってしまうような、、、演奏全体の設計の特徴は、ラトルらしい、メリハリの効いたもの。ブラームスという作曲家は、ちょっと聴きには、メロディアス&ドラマティックな古典的構成をもったロマン派、、、というところなのですが、ヘミオラ(楽譜上は4拍子だが、3拍子に聴こえるとか)や、シンコペーション(拍のオモテのように聴こえるが実はウラ)とか、また、2拍子系と3拍子系が同時に別のパートで鳴ったり、、とか、いろいろ「20世紀」を予感させることをいろいろやっているのですが、そうした「仕掛け」もとてもよく見えてくる解釈でした。それとあわせて、肉体的快感!!フレーズの1点にエネルギーを集中させて、放出する、、、というような、独特のスピード感と「ため」を、「オケ全体」で行ない、それが、また本当にビシっと揃って、集中・放出されるのは、「ベルリンフィルらしい」といってよいでしょう。といっても、アバド以降の、、ですが。ナマでは初めてですから、「らしい」なんていう資格ないんですが。。。それにしても、「音色」というもの(ピッチやフレーズ感や音のスピード感に「音の形」も含んだ「音色」)が、これほどまでに、一体化するときはするのか????と本当に驚きました。もちろん、各々が「対立的」にソロが浮いたりするときなどは、逆に、音に「名刺」がはりつけてあるかのように、オーボエでしたら、アルブレヒト・マイヤーさんそのものの音、クラリネットでしたら、ブランドホーファさんそのものの音、フルートだったら、パユさんの音、、、と、ハッキリとしているのに、(またしかし、それぞれが、その場面場面で、いろんな音量・音色・艶を選んで繰り出してくるわけですが)一体となるべきときには、とくに頻出する、オーボエとフルートでも、「ひとつの楽器」のようでしたし、木管やホルンそれに弦、、、などでも、ピッタリとひとつの音なのです。シュテファン・ドールのホルンソロと安永徹のヴァイオリンソロも、完璧にシンクロした音・音楽でした。あまりにも完璧なので、ヴァイオリンソロの「ヴィブラート」がやや「揺れ」に感じたほど、、、全ての金管群も、いざとなると、完全にひとつの響きで聴こえますし、必要とあらば、随時、オモテに出たり、また、溶け込んだり、、、、と、全ての瞬間が、「偶発的」であったり、「楽器の事情」であったりすることなく、多くの選択肢のなかから選択された音として、出されてくるのです。「融通無碍」という言葉もおもいうかびました。どれも、、、小さい音も、大きい音も、、「限界」や「制約」などの「事情」を感じさせない、、、必要とあらば、どの音量でも再現できますよ、、、そのような「余裕」に充ちた「選択」であることが、本当に実感されます、、、また、あえていうまでもないですが、また、各楽器が美しい、、、こと。。。。今日は、オーボエが「第二の指揮者」というくらいの活躍でした。マイヤーは10年近く前、奈良の山奥の自治体が「やまなみ音楽祭」という室内楽主体のコンサートをやったときに来ていたのを間近でナマで聴いて以来ですが(たぶんBPOに入ってまもなく、、のころと思います)、当然、このスーパーなオケの中心で吹く音・姿はまた別人です(10年たってますしね)。くわしいことはわかりませんが、たとえば、カラヤン時代のコッホなどとくらべると、とても繊細で細身ともいえるデリケートな音色、、、オーボエでもこうした音色の人は、ともすれば、ややピッチがズリ上がって不安定になったりするものなのですが(奏法でしょうか、、、、?)、マイヤーの場合はそうしたことはいっさいありません。(正確に言うと、ブラームスの1番の冒頭だけは、一瞬「そっち」に行きかけた瞬間がありました。リードがやや思ったように冒頭のときはならなかったようです。。。。が、その後、完全に「修正・調整」してきました。すぐ、ソロですからね、、、ブラ1、、、この「復元力」がまたスゴい、、です。)パユのフルートも当然初めてナマで聴きますが、輝かしく出るときは本当に光を放つかごとく、、それも、硬いのから柔らかいのまで、、録音で聴いているよりも、はるかに、「輝度」も「照度」も高いです。でも、よくある「巧そうな、縮緬ビブラート」はありません。むしろ、透明でストレート、、、音質は大分違いますが、フレージングのきれいさ透明さや「清潔さ」は、ニコレを少し思い出しました。ブランドホーファも、倍音の多い、溶け込みやすく、またソリスティックな音色です。こちらはもしかしたら、若いころのライスターとかもこんなんやったんかな、、という系列の音です。 ただし「重たさ」は無い、「アバド時代以降の音」ではあります。本当にきれい。安心して「身を任せられる」音です。弦がメチャ巧い、、のはもういうまでもないことですが、それにしても巧い、、、カラヤン時代の「巧い」とは大分ちがっていて(あくまでも録音ですが、、、)、カラヤン時代は、「筆圧」の高い、分厚い「鳴り」を特徴として、その「分厚い音」なのに、「運動性」(リズム、細かいフレージング、テンポの伸び縮み、表情付け、、、)を余裕で発揮しまくる、、、ところから来る「雄弁さ」が特徴のようにおもいますが、今日のベルリンフィルは、その「分厚さ」「薄さ」そのものを自在に変化させて、それそのものも、音楽の描写の一部にしてしまっています。いざとなったら、管楽器のトゥッティを多い尽くすほどのフォルティッシモも余裕で出せる、、といった感じがあります。また、「対抗配置」やったのですが、上手端、ひな壇の上のコントラバスも、真正面のチェロも、第一ヴァイオリンの奥のヴィオラも、内声が極めて、よくはっきりと聴こえます。しかも、分離しているのではなく、、、また、ラトルらしい、「テンポを追い込むことで、フレーズを分けるとともに、エスクタシーを与える」といったようなところで、急激なテンポアップでも、全ての弦楽器が(1本残らず)、同じテンポ感で、急激に緩急を、全ての音符・休符を音にしつくして、飛ばしたりあいまいになることもなく、完全に弾いてしまいます。音量の幅もしかり、、、繰り返しになりますが、ありとあらゆる「言い訳」や「事情」がまったく感じさせないのです。ですから、指揮者は、このオケとは喜びに充ちた共同作業、、、となるでしょうが、選択肢が無限にあり、どれでもが「可能」なオケに対して、自分が、最適と思う「解」をオケに伝えて、形にしていく、、、ということは、大変な能力が必要なことで、特別なことやと、つくづく思いました。能力がイマイチのオケなら、「コノ箇所は、ホルンが小さくならないから、、」とかまあ小さくしても「小さく吹くのは難しいから」とか、そういったことの「制約」の中からの選択を行うのが、指揮者ですが、このオケの場合、「やろうと思えばなんでもできる」相手に対して、共通の具体的なイメージを伝え納得させ音にする、、という「仕事」はなんと、能力が必要なことか、、改めて想像して思いました。。。
2008.11.30
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とうとう!!!やっと!!なのですが、小ネタ、、ながら、前日にちょっとした出来事がありました。。。土曜日に阪神電車で神戸にアカペラのレッスンに向かっているときに、西宮を過ぎたあたりでふと眼を上げると、「Berliner Philharmoniker」と書いた冊子を持った上品な女性が、、、心臓が凍るほど焦りました、、通常は「上品な女性」に力点が置かれてしかるべきところなのですが、ベルリンフィルの演奏会の日を間違えたのか、、と思ったからでした。というのは、8年ぶりにベルリンフィル、、関西に来てくれたのですが、大阪公演と西宮公演の2公演があり、大好きなザ・シンフォニーホールをとりたかったのですが、コジェナー(ラトルの"今の"奥さん)のリュッケルト・リーダーよりは、ブラームスのシンフォニー2曲を採って、西宮にしてたのでした。で、それは日曜日のはずなのに、、、眼の前に「西宮からベルリンフィルを聴き終えた方」がおられる、、、???で、それこそ「既婚者へのナンパ(左手の薬指に指輪)」と勘違いされたらあかんなあ、、、とおもいながらも、本当に焦って、、「今日は、29日ですよね?」と意味不明の質問にも嫌な顔をせず、、、またすぐお隣のご主人も気さくな良い方で、大阪のコンサートからの帰りで、とてもよかったこと、明日も行きたいほど、、っていうようなことをお話しくださり、ほっとした、、ということがあったのでした。たまたま、そのご夫婦も御影で降りられて、、、僕がまたレッスンに遅刻して向かっていたところでしたので、軽くお礼のあいさつだけしてそのまま脱兎のごとく、、、ではあったのですが、結果的に、気持ちのよい出来事でした(そのご夫婦の感じがとてもよかったので)。それはそうと、、ベルリンフィル、やっと生まれて初めて聴けました!「ひとつの生き物」のようでありながら、全ての細胞が無限の可能性と選択肢を備え、全ての瞬間に、意思により選択した結果を音として、音楽として生み出す。予め見通し見渡しながらも、ありとあらゆる出来事に反応しあう。各楽器や奏者が極めて明確にそれぞれの音や息遣いまでもをナマナマしくうきだたせるかと思えば、ある時はどう聴いても「ひとつの響き」に溶け込んで聞こえる。想像してはいましたが、目の前で実際に体験、いえ、「立ち会う」と、想像をやはり越えていました。兵庫県立芸術ホールはやはりやや音の拡散するホールで、ベルリンフィルも昨日やったザ・シンフォニーホールとの違いにとまどったかもしれません。一曲目と二曲目バランスには違いや問題はなかったですが、ピアニッシモも含めて、二曲目の方が「ホールを鳴らし切った」演奏だったような気がします。僕の耳が慣れた事もあるかもしれませんが。
2008.11.30
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今回のピアニスト、名前を知っていたのは、アブデル・ラーマン・エルバシャ、この人は、デビュー当時、NHKでは「アブデル・ラハマン・エルバシャ」と呼ばれていましたが、デビューから30年(当時はFMだったのでビジュアルは知りませんが)、すっかり落ち着いた貫禄のピアニストになってました。若い頃から、その成熟ぶりに驚嘆の批評が多かったという記憶がありますが(・・すみません、僕自身はFMでちょっと聴いただけですし、正直ピアニストの区別は当時は(今でもですが)つきませんでした)、今回の企画の事実上の発起人・ブレインとのことです。デビュー時はベートーヴェン演奏で評判をとってはった記憶がありますが。ピアニストの差異については、具体的に的確に言及するだけの積み重ねが無いですし、それぞれ聴いた曲も違うので、ただカンタンに思ったこと、、エルバシャは、非常に安定していて(平凡という意味に非ず)、「もっとも分厚い音」の分厚さ(暑苦しい、、に非ず)から、繊細なピアニッシモまでの幅が非常に広かったように思いました。他の人も基本的にそうでしたが、過度に「ロマンティック」になって音楽の外形が崩れる、、というような演奏はなく、折り目正しい中で、かなりのところまで、アグレッシブに、テンポにせよダイナミクスせよ、表現を突き詰めていった演奏だったように思います。さて、このエル・バシャ、僕が聴いた中では、大曲として「幻想曲」を弾いてくれましたが、ご承知のとおり、多くの場面転換があるなかで、たくさんの歌手が出てきて、オペラないし、多くの楽器からなるオーケストラの序曲のようでした。ピアノソロですから、オケと違い、「大編成の曲」「小編成の曲」というような言い方はするはずもないのですが、この「大編成の曲」である「幻想曲」、エル・バシャにとっても、特異なものの1つのようでした。といって、他の「小編成の曲」も、克明で確信に満ちたもの、という印象でしたので、「どっちがよい」とかじゃなく、どれも良いんですが。名前を知っていた人の2人目は、アンヌ・ケフェレック、、この人もデビュー当時、「ブレンデル門下の閨秀、パリジェンヌの若き風!!」みたいな紹介のされ方をしていた人です。ブレンデルが基本、ショパンを弾かない人、、というのも面白いですが、、すっかり、巨匠風の外見になられましたが、上品なご婦人といった雰囲気で、プロポーションはすっきり整っておられます(←体型のこと)。音楽は聴いた感じでは、この人が一番、テンポやリズムを動かす方向の作り方をしていたようにおもいますが、それとて、古めかしいところまでは行っておらず、「人間クサさ」が臭う手前でのレベルであったように思います。この人のピアニッシモはやはりとてもきれいでした。子守歌はこの人でしたが、息をのむほどでした。以前、ナマを聴いたことがあるのは、1人だけ、、児玉桃さん。この人は、なぜか、「たまたま行ったオケのコンサートのソリスト」になってることが多くて、プーランクの2台のための協奏曲は特に印象にのこってるものの、演奏そのものは、「頼みやすいから頼んだ」風にも当時は誤解していたのでした、、が、フランス在住だそうで、、で、まあ正直、ピアニストとして「ちゃんと」聴くのは昨日が初めてでしたが、この人も強力でした!ソナタの3番を弾いてくれたのですが、「こうしてほしい」と思ってるようなイメージどおり、それに、これも他の人とも共通してるものの、テクニック上の不都合やら事情は感じさせない、アグレッシヴな音楽づくりです。それでいて、恣意的な陶酔型のゆらしとかはない、、、美しく強く悲しく明るい熱く冷たい演奏でした。それにしても、協奏曲で聴いたときにはなんとも気づかなかったのですが、これほど、見通しのよい、透明感のある響き、そして、柔らかい音から鋭い音まで幅広い色彩を持っている人とは知りませんでした。他のピアニストは今回初めて名前を知ったのですが、全て、今が盛り(伸び盛り)の活きの良い、それでいて、センスのよい演奏を聞かせてくれました。なぜか、聴いた中では、1曲しか演奏しなかった、ジャン・フレデリック・ヌーブルジェという人は、ご存知「英雄ポロネーズ」を、特に、深刻ぶったり意味ありげにはせず、といって、「アホ」みたいに煽りもせず、ビシバシと等身大で、かつ、元気でクリアな音楽として聞かせてくれました。それにしても、響きがきれいだと、時折の不協和音もふくめて、安心して、響きに身をゆだねる幸福が味わえます。あとの、イド・バル・シャイという人は、これまた、極めてクリアで完璧な演奏をくりひろげるのですが、常に、楽譜は、おいていて、チロチロめくりながら演奏されます。初め、「珍品」の演奏やからかな、、、とも思いましたが、完全に自分のものにしまくってる曲全てでそうしてるので「習慣」なのでしょう。基本的に、「曲に感動している」状態でしたので、ピアニストの特徴を具体的に述べることはあまりできませんが、響きのそれぞれの違いが、眼の前で、あのようにくりひろげられるのに接すること自身、本等に奇跡的な体験でした。惜しむらくは、自分が弾けない、、、のは仕方ないにしても、以前録画した、ルイサダのレッスンあたりを「復習」してから行くと、滋味もさらに増したか、、、と思います。これほどの水準のコンサートが、この廉価で、梅田のど真ん中で、SOLD OUT にならない、、、のが大阪のしんどいところなのかもしれません。まあ、だからこそ、僕も行けたのですが、、、チッコリーニのただ1回だけのあの奇跡的な演奏会(日本国内でもソロは2回だけ、、)ですら、空席が出る、、、ようでは、関西から、コンサートが逃げていってもしかたないかもしれませんね。。。ピアノなんて「ならいごと」の人が多いというだけでも、本来集客しやすいようなものなのに。「ピアノの先生」は「このコンサートはイイよ!!」って言わないんでしょうか、、ちなみに、正直、あんまり「習い事」(=楽しみではなく、評価・勉強)のお客に囲まれるのはツラいのですが、、、(自分の楽しみで習っている人はよいのですが、「習わせる・聴かせる」「習わされている・聴かされている」みたいな雰囲気)2階席、、は、そうした方たちは、どうも避けるようで、よいのかわるいのかしりませんが、空席もそこそこあり(それでも最盛期の第10プログラムは満席に近かったですが)、学童期ギリギリみたいなお客は居なかったのも、正直よかったです。知ってるところだけ、陶酔して、指を動かしまくる(←でもズレてる)人が隣に来たときはちょっとジャマでしたが(これも、視野からはずせば問題ないですし)。。。サンケイホール・ブリーゼ が、運営も含めて、クラシックの小屋に今後なることは、おそらくなくって、「高級感の保持」のために、時折、公演がなされるだけかもしれませんが、今回の企画の実現は本当にすばらしかったです。
2008.11.24
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昨日のコンサート、チッコリーニ以来久々の、、というまでもなく、もともと、それほどたくさん「ピアノ・リサイタル」に行ったことがないのですが、まあ、とにかく、深く印象に残るコンサートでした。ただ、チッコリーニのコンサートとは対照的で、チッコリーニの場合は、アンコールは別とすれば、プログラムは、リストの曲集1つのみ、というもの、こちらは、ショパンの曲を順番に、たくさん、、、長時間に、、でした。3日12公演のうちの、最後の4公演を聞かせてもらえたことになりました。ピアノ・リサイタルには不慣れ、といいつつも、これだけタテ続けに聴くと(ショパンばっかり)「1つ1つの演奏や音をいつくしむ」、、、という姿勢が、やや、薄まるような気もしますが、それでも、「ショパン・マラソン・シャワー」でした。ピアノのナマでは、僕なりに、「こうあってほしい」というのがあって、それは、全てがバランスよく響いて、かつ、ホールの空気全体が、「フォルテ」もさることながら「ピアニッシモ」を、密やかで静かにしかし弱々しくなく、、(←イタリア語で書けば、そのまま「表情記号」になりそう)というようなものです。聴く耳がそのときそのときで違いますから、「絶対評価」ではなく、ただ僕の「体験」としてのなのですが、それらの体験をしたのは、ずっと前に、ザ・シンフォニー・ホールで聴いた「ディーナ・ヨッフェ」のショパンのバラード4曲、そして、また、「ピアノというものの新たな(といっても100年以上前ですが)特性と可能性」をもまざまざとみせつけてくれた先のチッコリーニのコンサート(http://plaza.rakuten.co.jp/classical/diary/200803230000/)でした。オケでの、ありえないようなピアニシモでいえば、昨年聴いた、パーヴォ・ヤルヴィ=ドイツ・カンマーフィルの「悲しいワルツ」、そして、チェリビダッケ=ミュンヘンフィルのシューマンの4番(こちらはしかし「完全なフォルティッシモ」の印象がさらに強い)。今回は、6人のピアニストということで、専門的なことは全くわかりませんが、それぞれに音の出し方・響きが違うような気がします。1曲1曲を論評するほどには、曲そのもののも比較して知ってるわけではないのですが、ただ、6人とも、「難しい曲を上手に」みたいな「習い事レベル」は当然超越した、「音楽」のレベルで、自在に響きを繰り出していました。フォルテもそうですが、特に、ピアニッシモやそこからのデクレッシェンドが息を呑むほど美しかったです。格別にこの印象が強かったのは「子守唄」ですが、バラードの4番でも、幻想曲でも、、これは、「この場」でのナマに触れる以外、絶対に体験できない体験でした。デクレッシェンドといえば、たとえば管楽器であれば、息とアンブシュアを支えながら、息を調節して減らして行き、、、、ということですし、「声」もまあそういうことなんでしょうが、ピアノの場合は(楽器の「ピアノ」)、叩いた複数の音をきれいに減衰させる、、ということで、叩いた瞬間に「あと」が決まる、、のですから、これはものすごい、コントロールだと思います。なにせ、「普段自分が練習している楽器」とはまず絶対に違う楽器・違うコンディションなわけで、いろいろ注文はつけようもあるでしょうが、どのみち「完璧に思い通りのコンディション」にはなるはずもないので(ホールの大きさも残響もどうせ違うし)、ありとあらゆる「耳と筋肉と脳のフィードバック」を要求されるのだろうと思います。昨日などは、6人の強烈な力をもった人たちが続けざまに引き続けるのですから、「調整しなおせる」のは、イスくらいのもの、、、「言い訳」はしようと思えばいくらでもできるでしょうが(人が弾いたあとだから、、とか、調律が自分向きじゃない、、とか)、各人の響きの「違い」やら、また、それぞれのコントロールされまくったピアノッシモからフォルティッシモを聴くと、そうした次元やストレスを、自らの力で「opportunity(←兵庫県知事風に言うと"チャンス"?)」に引き寄せているのだと感じました。限界までのフォルティッシモやピアニッシモ、デクレッシェンドを表現する、ということは、それだけ、「リスク」にも挑戦している、、ということだと思いますから。このプログラム、僕が聴いたのは、先にも書いたとおり、ショパンがマヨルカ島に渡ってから死ぬまで、、大好きなバラードの3番、4番、それにソナタの3番も入っていて大層なごちそうです。また、他の曲もかなりのものは、「何度も聴いたことはあるが、曲名と対応しない」というものも多く、大体において、創作全体に「捨て石」がほとんど無いことも驚嘆すべきことと思います。ショパンといえば、古いリパッティの録音を比較的よく聴いていて、最も多く聴く機会がある録音、、でもあるので(最近そうでもないですが、昔FMで「ハッ!」と思って感動して、後にまとめて最初に買ったのがリパッティだったので)、ついつい、あの特定の演奏(音質込み)がアタマに浮かびそうになるのですが、昨日の体験は、特に、それが「比較」とかにはならず、変な言い方ですが、「今、ここで、生まれている演奏」として、「リパッティがそのときそこでそうしたように」、、今聴いている、、と思える、、というような不思議な感覚でした。これは、ショパンが若い晩年に向かって、死とも向き合いながら、創作と演奏を続けていた軌跡をたqどる、、、ことと、同じく死を覚悟したリパッティの演奏の記憶とが交差する面があったこともあるのかもしれませんし、6人のピアニストの演奏が、「曲」を通じて、ショパン本人(の音楽)と、そして、そのショパンの音楽をずっと再現してきた、これまでの過去からの多くの奏者達と、また、聴き手達と、、その延長の上に、矛盾なく、高い水準で、次へ、、と進んでいくものだったからかもしれません。(←すみません、めっちゃこのあたり、論理的でなく、「印象」でモノを言っています。)とはいえ、作品番号もついていないような珍しいものも演奏され、バッハをまずはスケッチしたかのような習作っぽいものや、一瞬で終わるもの、また、子供の練習曲用?というようなものまで珍しいものも突然はさまるのが、またこのコンサートの特徴でもあります。きっと、ピアニスト自身、「今回、はじめて弾いた!」というものもあっただろうと思います。しかし、素人の耳ではありますが、「とりあえず、音になおしてみました、、私もあんまり知らん曲やから、、」みたいな演奏はなく、すべてが、「私が、皆さんにお届けする、これがこの音楽です」というものになっていましたので、「珍曲コーナー」的な雰囲気は演奏からは感じられません。また、詳しい人には当然のことなのかもしれませんが、いわゆる「子犬のワルツ」を含めた3つワルツが、気力・体力ともに衰えて、明らかに「死」を覚悟していた最晩年のものだとは知って、ショックを受けました。(その頃に書かれた「ギャロップ」という曲が、メッチャ、「子供のための」風です。ドビュッシーあたりがパロディとして書きそうな、、、)時系列で聴くと、バラードと、他の曲の位置関係にせよ、だいたいた「**集」でまとめられがちなポロネーズやワルツやノクターンの位置づけもわかって面白いです。元々、曲名をidentifyできる状態の人ならも、さらにさらに面白さが得られたことでしょう。僕より少し若くして死んだ、若きプロフェッショナルの思いと努力と無念、そして、「可能性」が感じられる気もしたのでした。「生き方」として。 (聴いてる間、そんなに「物語」で感動してたわけでもなく、聴いてる間は音楽そのもの、、を楽しんでたのですが)ほかも、そう思って聴くから、、というのも正直あると思いますが、「全盛期」から、「なんとか力を振り絞って、、」という時期のものまで、楽曲の規模そのものも含めて、本当に「音楽日記」な感じもしました。あと、何を言ってんだか、、、かもしれませんが、皆さんの響きが美しくシャープなので、ショパンが、和音を自在に使い尽くして、とくに「不協和音」がものすごく効果的に使われていることも、強く実感しました。必然性のある「場面」で、色々な「色」の不協和音を自在に使い尽くしている、、、リストのような「点描手法」ではなく、基本、同時に鳴らす和音を主としつつ、、、。また、さらに主観ですが、ピアノの、高音部と低音部、そして、中音域では、かなり「音質」が変わりますが、その「音質」の変化も、充分に使いこなしていて、あたかも、いくつかの楽器からなる1つの楽器 のように、ピアノを使っているかのような気がしました。弾いている人からすれば、「!?ん、左手と右手のことね!?」ってことなのかもしれませんが、両手で高音、両手で低音に移るところも含め、時に、同時に鳴り、あるときは片方の「伴奏」に徹するものの、あるときは、同時に「2重唱」にもなり、またあるときは、交唱のように歌い交わしもし、また、あるときは、「場面転換」で、次の「幕」にしてしまう、、そんな表現の幅をあますことなく、ピアノというものによって伝える、、、という意味で、超言い古された言い方ですが「ピアノの詩人」なんでしょう。ただしこの詩人、物静かに叙情的なことを朗読してるだけではありません。詩人は時に10人くらいが集団演舞したりもする、、そんなパフォーマーであり、コミュニケーターである、、と思いました。
2008.11.24
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改築されたサンケイホールで、ショパンの全ピアノ独奏曲を全曲、複数のフランス系一流ピアニストでやる!というのが今日まであって、金曜土曜は行けませんでしたが、今日は当日券あればぜひ行きたい!!と前々から思っていて、、、でお昼の部から行けました!一回一時間1000~1500円という破格の催しです。ピアノは専門的な事はわかりませんが、入れ替わり立ち代わり現れるピアニストは皆それぞれに響きの世界を完全にホールに作り出します。一流というものが自然に目の前に…僕が聴いてるのは、サンドと出会ったあと28歳以降の作品です。これから後半。晩年と言っても39歳。働き盛りでの病没なんですね。しかし、ナマのホンモノのピアニストの「ピアニッシモ」の響きは筆舌に尽くし堅いです。もちろんそれ以上のダイナミクスの響きが完璧である事、また充分な幅があることは前提なのですが。これはどんなに技術が発達しようとも、「録音」では絶対に体験出来ないものです。思い出したり、想像するよすがにはなりますが…どんな「ポルノグラフィ」も、「行為」そのものには決してならないのに等しいかもしれません。ピアノを習う機会が全くなくって、クラシックも元々オケから入ったから、詳しいワケではないんですが、本当によかったです。ピアノのソロって、落語と似たところがあって、ゴマカシが効かないから、ちょっとムラがあったり、なんかしっくりこないなあ(特にマチガエてなくても、、)ということも結構、体験することもあり、「CDのほうが、曲のよさがちゃんとわかるなあ」と思わされることも、実際、あるんですが、 (それでも、「喝采!!」とかやと、まあ「習い事」の延長だったり、 「おっかけ」だったりするから仕方ないのかもしれないけど、 ちょっと、正直、ツラいものがあります)今日は、そんな「但し書き」は全く不要の、まさに「音楽」だけがそこにある!!でした。まあ、入場料安いコンサートの宿命で、咳や紙めくりが多かったり、「私、ここ練習してる!!」という自慢系の幕合いのしゃべりはともかくとしても、演奏中に、微妙にズレてる「弾きマネ」が視界無いでウロウロしたりされた回があったりはしましたが、まあ、ヒドい!!ほどでもなかったかと、、、思ったより、子供連れは少ない(ほとんどいない)感じでしたが、それはもしかしたら、2階席だったからかもしれません。ピアノ習わせてる親御さんなら、指の見える1階席をとるでしょうから。ということで、ピアノ習ってない者にとっては、2階席(事実上3階くらいの高さやけど)は、結構よかったです。いずみホールほど「お風呂状態」にはならないので、響きが良い悪い、、という感じはなくって、すくなくとも、ピアノの響きを邪魔しないなあ、、と、僕としては、悪くない、、、感じはしました。ピアノやヴァイオリンというと、「習い事の一環での比較」みたいな雰囲気が客席周りにただよったりしてしまうのですが、今日は、そんな「難しい曲をまちがいなく上手に弾く」などというレベルでは当然なく、本当に、自在に音楽があふれ出るという感じでした。 響きでモノを言う、、というのは、全ての音がコントロールされて意図をした上で、その意図どおりに響いているということでもあり、その意図が、抜群のセンスだ、、ということでもあるんでしょう。しかし、今日みたいな演奏を聴くと、「調律師」というものが、ものすごく責任重大で、センスが要って、かつ、演奏者ごとの細かなニーズに対応できる能力が必要であることが、ものすごく実感できます。あれだけ微妙なタッチの弾き分けをしようと思ったら、鍵盤の重さから、ハンマーの反応具合から、「遊び」具合から、響く音量から、本当に「自分の身体のよう」であってほしいと心から願うでしょうし、それを「当然のように」欲することだと思います。(それを、10本の指ともでやってのけているのもすごい)また、今日のように6人の「腕利き」が同じピアノで続けざまに弾く、、というのは、演奏者側から言っても、細かい注文をつけたくなったり、言い訳もしたくなる場面もきっとあるのでしょうが、それを、やりのける、というところも、またスゴいもんです。しかし、これほど安価にしても、空席がチラホラ、、最後の回なんて、2回の後ろの方は、ヨコになって聴けるほど、、、というのは、やっぱり、大阪の限界なのかなあ、、、「習い事」ででも来そうなもんなんですが、、その意味でも2階席の後ろやからかなあ、、とはいえ、SOLDOUTでなかったからこそ、僕も行けたわけですが。。。4時間、超一流のイキの良い名人の演奏を聴いて、4000円、贅沢でした!!!椅子は取り替えてました。で、ケフェレックはかならず、出てきてから、高さを気にして、、、バル=シャイさんは、いつも、会場が(できるだけ)静かになるのを待って、、、、エル・バシャさんは、普通に出てきて、「いつものように」弾き始める、、、といった風、、椅子はしかし、マジで大事でしょうね。ワープロみたいに「力」は関係ないもんですら、高さや姿勢に影響されるくらいですから、、、1センチちがったら、もうメチャクチャ違うやろうなあ、、と素直に思います。しかし、ピアニストって、どうあがいても、また、世界最高!!の至宝!!!とかであっても、「楽器」だけは、その場のもの、、を使わざるをえないんですから、ナーヴァスになる演奏家が居ても(ミケランジェリみたいに)、一概に「変人」ともいえないほど、ものすごい、プレッシャーとストレスあるでしょうね。今日ほどの演奏をしようとする人たちだったら、、、(ただ、まちがわない、、とか、まちがってもガッツポーズ!!みたいな人たちは関係ないけど)ホールも多目的ホールとしては、ピアノを聴くには悪くないかな、、というのが個人的好みとしては思いました。シンフォニーホールだと、1階席の最後列が、案外まだ良いですが(ヨッフェはそこで聴きました、、)、3階まで行くともしかしたら、ピアノ独奏だとボヤけるかもしれませんね。「下手なピアノ」の体験は正直枚挙にいとまがないのでヤメますが、上手だろうと推測される中での最悪の体験は、(↑あくまでも体験です、、グリーモーやいずみホールの悪口ではなく、どちらも好きなので、そのあたりはよろしくです。)いずみホールの最前列で聴いた、エレーヌ・グリモーのラフマニノフでした。僕がラフマニノフに慣れてないだけなのかもしれませんが、ワヤワヤで、「どんな曲か」すらわからないような感じがしました。グリモーがまさかペダルを踏みすぎ、、なんてことはないので、ピアノのフタのせいか、いずみホールのせいか、とか、、、思ったりしてました。(ホンマに、ラフマニノフに僕がなれてなかっただけかもしれないんですが、、、)たまたまなんですが、今日の席が、本当のド真正面、、で、ピアノのフタがこちらに向いている、、という状態だったのもよかったです。
2008.11.23
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