《櫻井ジャーナル》

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2023.04.07
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 ​ フィンランドが4月4日に「NATO(北大西洋条約機構)」へ正式に加盟 ​した。NATOは1949年4月に締結された北大西洋条約に基づいて設立された軍事組織。ソ連の脅威に備えるとされているが、実際はヨーロッパを支配する仕組みであり、1991年12月にソ連が消滅した後、NATOは東へ拡大しはじめ、ロシアに軍事的な圧力を加えてきた。これは新たな「バルバロッサ作戦」と考えることもできる。

 言うまでもなく、バルバロッサ作戦とはドイツ軍が1941年6月に始めたソ連侵攻作戦だ。この時に東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。西からの攻撃をアドルフ・ヒトラーは気にしていなかった。イギリスは攻撃してこないと考えていたかのようだ。侵攻作戦が始まる前月、ヒトラーの忠実な部下だったルドルフ・ヘスが単身飛行機でスコットランドへ渡っている。

 軍事侵攻の準備には半年から1年必要だったろうが、ドイツ軍は1940年9月7日から41年5月11日にかけてロンドンを空襲し、4万人から4万3000名の市民が死亡したというが、イギリスへの軍事侵攻を計画していたようには見えない。空爆の時期はバルバロッサ作戦の準備をしていたであろう時期と重なる。

 バルバロッサ作戦にフィンランド人も参加していた。フィンランド政府が2019年2月に発表した報告書によると、​ ナチスがソ連を攻撃していた1941年から43年にかけての時期、1408名以上のフィンランド人義勇兵が「SS(親衛隊)装甲師団」に所属、ユダヤ人虐殺を含む残虐行為を行っていた ​という。フィンランドの正規軍も1941年にはレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)に近いカレリア地方へ軍事侵攻していた。

 ヨーロッパが世界大戦へ向かって動き始める切っ掛けは1938年9月に調印されたミュンヘン協定だとも言われている。ドイツ、イギリス、フランス、イタリアがミュンヘンに集まってチェコスロバキアのズデーテン地方の帰属問題について討議、ヒトラーの要求通り、チェコスロバキアを無視して同地方をドイツに属させることにしたのだ。

 10月1日からドイツ軍によるズデーテン地方の占領が始まるが、その一方でポーランド軍がチェシン・シレジアへ、またハンガリー軍がカルパティア・ルテニアへ侵攻した。

 ズデーテンがチェコスロバキア領になったのは第1次世界大戦の後。それまではドイツ領で、1930年代には住民の約8割がドイツ系だったという。同じように失った領土があるドイツはそれらを奪い返そうとする可能性がある。

 ソ連とドイツの間にあるポーランドもドイツとの領土問題を抱えていた。ドイツ本国と東プロイセンの間にポーランド領(ポーランド回廊)ができ、東プロイセンは飛び地になっていたのだ。

 しかし、その当時、ドイツとポーランドの関係は悪くない。すでにドイツはソ連への軍事侵攻を計画、ポーランドとの関係を良くしておきたかったとも言われている。

 領土問題を解決するため、ドイツはひとつの案を示した。住民投票を実施してドイツへ回廊を返還する意見が多ければ返還、その際にドイツはポーランドに鉄道やバルト海へ通じる高速道路を渡すというものだ。

 そうした条件で交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになったのだが、姿を現さない。ロンドンへ向かったのである。その日、ロンドンではヒトラーをどうするか決めるため、各国の指導者が集まっていた。そして26日、ポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。その際、イギリス政府はポーランド政府に独立を保証していた。

 同年7月23日にイギリスはソ連に交渉を申し入れるが、交渉が始まったのは8月11日。しかもイギリスは書類に署名できる立場の人間を送り込んでこなかった。

 その際、ソ連のクリメント・ボロシロフ国防相(国防人民委員)とボリス・シャポシニコフ参謀総長は、ポーランドの反対が解決されればドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があるとイギリスやフランスの代表に提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、​ ソ連が提案した部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団。それに対し、イギリスの代表だったレジナルド・ドラクス提督は交渉する権限がないという理由から回答を拒否 ​し、1939年8月23日にソ連とドイツは不可侵条約を結ぶ。

 イギリス政府とポーランド政府の武器調達に関する交渉を見ていたヒトラーはイギリスがポーランドを支援する意志がないと判断、同年9月1日にドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻した。

 チェコスロバキアのケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドは9月3日に宣戦布告するが、ドイツは半年の間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。いわゆる「奇妙な戦争」の期間だ。

 ドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻した直後、イギリスとフランスは爆撃機でソ連のカフカスにある油田地帯を攻撃する計画を立てた。​ パイク作戦 ​だ。1940年3月にはマークを消したイギリスの偵察機がイラクの飛行場を離陸し、バクーやバトゥーミの世紀湯施設を撮影している。イギリス側の目的はソ連を崩壊させることにあったと見られている。

 ソ連は1939年9月にエストニアと、また同年10月にはリトアニアとラトビアと互助条約を結んでいるが、フィンランドには拒否されている。その当時、フィンランドで大きな影響力を持っていたリスト・ヘイッキ・リュティ首相と国防軍のカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム最高司令官の意志だった。

 ​ フィンランドとの条約締結に失敗したソ連は1939年11月に軍事侵攻を決断、フィンランドは2万人の兵士が戦死、領土の11%を失うことになる ​。そこでドイツと軍事的に結びつくことになった。マンネルヘイムは1942年6月、ヒトラーの秘密訪問を受ける。マンネルヘイムの誕生日を祝うためだった。

 フィンランドのエリート社会にはアーリア人主義のカルトが広がっていたが、ドイツでは似た考え方の「トゥーレ協会」が生まれた。協会の名前は北方神話の土地、ウルチマ・トゥーレに由来し、そのシンボルはナチスと同じ鉤十字だ。

 フィンランド空軍が現在でも鉤十字を使っている背景にはヨーロッパのカルトが存在していると言え、ナチスと無関係とは言えない。そうしたことを考慮しなくても、ナチスと連合してソ連軍と戦ったフィンランドの軍隊が今でも鉤十字を使っているのは無神経すぎる。いや、確信犯なのかもしれない。




 イギリスでは19世紀に優生学が誕生している。チャールズ・ダーウィンの従兄弟にあたるフランシス・ゴールトンが創始者で、トーマス・マルサスの『人口論』から影響を受け、「自然淘汰」を主張していた。

 そうした思想の信者にはセシル・ローズも含まれていたが、彼は自身が書いた『信仰告白』の中でアングロ・サクソンを最も優秀な人種だと位置づけ、その領土が広がれば広がるほど人類にとって良いことだと主張している。大英帝国を繁栄させることは自分たちの義務であり、領土の拡大はアングロ・サクソンが増えることを意味するというのだ。(Cecil Rhodes, “Confession of Faith,” 1877)

 イギリスで生まれた優生学はアメリカの支配層へ広まり、イギリス以上に社会へ大きな影響を与えることになる。支援者の中心はカーネギー財団、ロックフェラー財団、そしてマリー・ハリマンで、優生学に基づく法律も作られた。

 マリーは鉄道で有名なE・H・ハリマンの妻だが、ハリマン家は金融の世界でも有名。ハリマン家の銀行で重役を務めていたジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘と結婚したのがプレスコット・ブッシュだ。

 プレスコットはウォーカーの下でブラウン・ブラザーズ・ハリマンやユニオン・バンキング・コーポレーションの重役を務めていたが、いずれもウォール街からナチスへ資金を供給する重要なルートだ。同僚のひとりにW・アベレル・ハリマンがいる。シティやウォール街から資金がドイツへ流れ込んでいる。(Christopher Simpson, "The Splendid Blond Beast," Common Courage, 1995)






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最終更新日  2023.04.07 14:16:22


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