昭和天皇(裕仁)が「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表したのは今から81年前、1945年の8月15日である。その年の9月2日、東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎が降伏文書に調印している。
ポツダム宣言に基づいて戦後日本は始まる。その宣言によると、「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とある。確定している日本の領土は本州、北海道、九州、四国だけで、そのほかは連合国が決めることになっている。その条件を日本は呑んだのだ。
カイロ宣言は1943年11月に開かれたカイロ会議を経て決まった宣言で、「日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」としている。
カイロでの会議にはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、中国の蒋介石総統が出席している。会議がワシントンDCでなくカイロで開かれた理由は、ソ連を訪問していたアメリカのコーデル・ハル国務長官からヨシフ・スターリンがバチェスラフ・モロトフ外相の会談出席に同意したと知らされ、ソ連側が出席しやすい場所としてルーズベルトはカイロを選んだのだ。
しかし、ソ連の代表は出席していない。蒋介石が出席することを知ったスターリンは、日本を刺激してウラジオストクの港を封鎖されることを恐れ、モロトフや軍の代表団の派遣を取りやめたという。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
こうした一連の会談が始まる切っ掛けはソ連へ軍事侵攻したドイツ軍の敗北にある。1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月からソ連軍は反撃、ドイツ軍25万人は完全包囲され、43年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的。そこでアメリカやイギリスは慌てた。
そこでチャーチルとルーズベルトは1943年1月にモロッコのカサブランカで会談、シチリア島とイタリア本土への上陸を決めた。コミュニストの影響力が大きいシチリア島を制圧するため、アメリカ海軍の情報部はマフィアの力を借りることにするが、それ以降、アメリカの情報機関と犯罪組織は強く結びつく。
1943年7月にアメリカ軍とイギリス軍はシチリア島に上陸。ハスキー計画だ。そして9月に米英軍はイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏する。そしてカイロ会談。アメリカとイギリスは、とりあえず形を整えた上でこの会談を設定したのだ。
ちなみに、ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。ノルマンディー上陸作戦でドイツが敗北したというイメージはハリウッド映画が作り出した幻影にすぎない。
日本がアメリカと戦争を始めたのは1941年12月7日にハワイの真珠湾を攻撃した時だと言えるだろうが、その前から中国侵略戦争は行っていた。
1872年に琉球を併合して台湾侵略を準備、74年に台湾へ派兵、75年に江華島へ軍艦を派遣して朝鮮半島に橋頭堡を築き、94年には日清戦争、1904年には日露戦争へと進んだ。こうした侵略はアメリカやイギリスの外交官に煽られてのことだ。自覚していたかどうかはともかく、明治体制はアメリカやイギリスの手先として動いていたのだ。
明治維新で暗躍したジャーディン・マセソンは中国(清)の茶や絹をイギリスへ運び、インドで仕入れたアヘンを中国へ持ち込んむという商売をして大儲けしていた。19世紀に麻薬取引を支配していたのは同社と「東方のロスチャイルド」ことサッスーン家だ。明治維新の黒幕は麻薬業者だったとも言える。
この商売を中国に押し付けたのが第1次アヘン戦争(1839年9月から42年8月)と第2次アヘン戦争(1856年10月から60年10月)。この戦争をビクトリア女王にさせたのは反ロシアで有名な政治家、ヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)にほかならない。2度のアヘン戦争でイギリスは勝利したわけだが、これは海戦でのこと。無陸部を制圧する戦力を持っていなかった。
ジャーディン・マセソンは1859年に長崎へトーマス・グラバーを、横浜へウィリアム・ケズウィックをエージェントとして送り込んだ。歴史物語ではグラバーが有名だが、大物はケズウィック。母方の祖母は同社を創設したひとりであるウィリアム・ジャーディンの姉なのである。
グラバーとケズウィックが来日した1859年にイギリスのラザフォード・オールコック駐日総領事は長州の若者5名をイギリスへ留学させることにする。選ばれたのは井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)だ。
この5名は1863年にロンドンへ向かうが、この時に船の手配をしたのがジャーディン・マセソンにほかならない。1861年に武器商人として独立したグラバーも密航の手助けをしているが、ケズウィックは1862年にジャーディン・マセソンの共同経営者となるために香港へ戻っていた。
長州の若者5名が出向する前の月、つまり1863年5月に長州はアメリカ商船のペンブローク、オランダ通報艦のキャンシャン、オランダ東洋艦隊所属のメデューサを相次いで砲撃。それに対し、6月に入るとアメリカの軍艦ワイオミングが報復攻撃、長州藩の海軍を壊滅させ、さらにフランス海軍のセミラミスとタンクレードも報復攻撃した。この攻撃は長州とイギリスの八百長戦争だったのか、あるいは長州内部に対立があったのかは不明だ。この当時、グラバーは大量の武器弾薬を買い込んでいた、つまり長期戦を予想していた。
日露戦争は1904年2月8日、日本軍が仁川沖と旅順港を奇襲攻撃したところから始まる。その際、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系のクーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。
この戦争について、セオドア・ルーズベルト米大統領は日本が自分たちのために戦っていると語り、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。1910年に日本が韓国を併合した際、アメリカが容認した理由はこの辺にあるだろう。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
関東大震災の復興資金調達の結果、日本の政治や経済をアメリカの巨大金融資本JPモルガンの影響下に入った。そして日本では治安維持法によって思想弾圧が強化され、「満蒙は日本の生命線」と言われるようになった。
1927年5月に日本軍は山東へ派兵する。1928年6月に関東軍は張作霖を爆殺し、31年9月に柳条湖で南満州鉄道を爆破、中国東北部を制圧することになる。いわゆる「満州事変(九一八事変)」の勃発だ。
その後軍事的な緊張が高まり、一触即発の状況になる。そして1937年7月に「盧溝橋事件」が起こった。二・二六事件の結果、米英金融資本に反発していた軍人が粛清されたのはその前年、1936年2月のこと。1939年5月にノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦、関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を続け、敗北した。
1941年6月にドイツ軍はソ連への軍事侵攻を開始する。バルバロッサ作戦だ。その翌月に日本軍は「関東軍特種演習」という名目でソ連への軍事侵攻を目論むのだが、8月に関東軍特種演習の中止が決まり、この年の12月にマレー半島とハワイの真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの戦争が始まった。アメリカとの戦争は日本が行なっていた戦争の一幕にすぎない。
実は、日本が真珠湾を奇襲攻撃する前、イギリスには「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようという案があった(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies,” Macmillan、1988)のだが、ノモンハンでソ連軍に敗北したこともあり、その後に南進、つまり東南アジアへ矛先を向けてイギリスの利権と衝突、この同盟は不可能になった。
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