日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が東京湾内に停泊していたアメリカの戦艦ミズーリで降伏文書に調印したのは昭和天皇(裕仁)がラジオを通じて「ポツダム宣言」の受諾をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に伝えたと「臣民」に発表してから18日後、1945年9月2日のこと。これによって日本の敗北が正式に決まったのだが、この時、すでにアメリカやイギリスはソ連と戦争を始めていた。
ウォール街と対立、反植民地を掲げていたニューディール派のフランクリン・ルーズベルト米大統領は帝国主義者のウィンストン・チャーチル英首相と敵対、むしろソ連のヨシフ・スターリン共産党書記長と親しくしていた。そのルーズベルトは1945年4月12日に急死、その翌月にドイツが降伏すると、チャーチルはソ連に対する奇襲攻撃の作成を合同作戦本部(JPS)に命じた。そして5月22日にアンシンカブル作戦が提出される。




その作戦によると、攻撃を始めるのはその年の7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が実行されなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからだ。拒否した理由のひとつはソ連がまだ降伏していなかった日本と手を組むことを恐れたからだとも言われている。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
原子爆弾の開発も計画を実行に移さなかった理由のひとつかもしれない。1945年7月16日にアメリカはニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験を行い、成功。ハリー・トルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可、26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型原爆が投下され、その3日後に長崎へプルトニウム型原爆が落とされている。
ソ連に対する核攻撃に執着していたチャーチル首相は1941年11月にベンガルで焦土作戦を打ち出した。1939年にノモンハンでソ連軍に惨敗した日本軍が南進に転じたことを受けてのことだ。日本軍の食糧にしないということで、イギリスはサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収し、輸送手段を奪うために漁民の船や自転車を取り上げた。
その作戦を推進中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンに襲われ、農作物が大きな打撃を受け、死傷者が出た。食糧不足は避けられない状態になって飢餓が見通されたのだが、イギリスは米の運び出しを続けた。チャーチル首相は1943年1月、イギリスの食糧と資源の備蓄を強化するため、インド洋で活動していた商船を全て大西洋へ移動させた。(Madhusree Mukerjee, “Churchill’s Secret War,” Basic Books, 2010)
1943年10月には現地の提督からチャーチル首相に対し、政策の継続は大惨事を招くという警告の電報が打たれ、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決したが、それを首相は無視。食糧を送るというルーズベルト大統領の提案も拒否した。
その結果、ベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の人数はベンガル周辺だけでも100万人から300万人に達したと推計されている。
**********************************************
【 Sakurai’s Substack 】
【 櫻井ジャーナル(note) 】