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2010.07.25
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この記事は、(2003年 11月18日)に書いたものです。
日本橋一丁目再開発ビル

 日本橋一丁目再開発ビルと言われても、ピンとこない。

 「ああ、東急百貨店の跡地か」と、しばらくしてわかった。


 アメリカの大手証券会社がメインテナントで、
 平成16年3月に竣工予定だ。

 大学の社会人向け分校もそのビルに入ると聞く。
今現在、ビル名を「これど日本橋として完成しています。。


 東急百貨店日本橋店が、白木屋百貨店を引き継いだのが昭和31年。


 日本橋の住人やお勤めの人には、大変評判が良かった。

 老舗の出店も多く、良いものが安く買えた。

 こう言っちゃなんだが、三越や高島屋ほど混まない店なので、長男が小さ
 い頃、よく屋上に行って遊ばしたものだ。

 中央通りに並ぶ他のデパートに比べると、やはり時代に取り残された感じ
 を、私は持っていた。


 でも、白木屋は、明治19年にいち早く洋服部を作り、「白木屋仕込み」
 として当時流行の最先端を行っていた。

 そんな時代もあったのだが、平成11年1月にその長い歴史を閉じた。


 そもそも、白木屋は、長浜(滋賀県)出身の大村彦太郎が京都で材木商と
 して成功した後、寛文2年(1662)に、今建設中の、日本橋一丁目再


 元が材木商なので、「白木」とあるのも、なるほどと納得。

 延宝元年(1673)創業の三井越後屋と、日本橋の北と南で、大店の呉
 服屋として競い合った。


 当時、白木屋の奉公人は、すべて11~12歳の少年を京都で採用し、一
 人前の商人として教育された。


 字、そろばんなどの稽古をするのだが、

 修行はなかなか辛いもので、毎年十数人入店するうち、三分の一は子供の
 段階で脱落したそうだ。


 しかし、修行を積み、若衆、手代と、勤め上げて後、一軒店を持たせても
 らう。


 白木屋も、19世紀初頭になると、奉公人の数が200人にも及ぶ。

 全部、男!

 飯炊き、洗濯まで全員男!


 店内に女性の奉公人は一人もおらず、えらく殺風景な感じだが、当時の江
 戸店(えどだな=江戸支店)では、これが普通だった。


 確かに三井越後屋も、出店である江戸では、リクルート活動はしなかった。

 理由の一つに、軟らかい口調の京言葉が、客に人気があったとも聞く。


 そんな事情で、店を持つまで、店内に住んでいたわけで、所帯を持つのが
 ずいぶん遅くなる。


 江戸の人口は、女性に対して、極端に男性が多かった原因は、ここにもあ
 った。


 時代別男女比は、

  享保18年(1733)、男性 100 : 女性 57.6 人
  弘化 元年(1844)、男性 100 : 女性 90   人
  慶応 3年(1867)、男性 100 : 女性 99.5 人


 この数字から見ても、江戸の女性は、大事にされたそうだ。


    ─ 参考文献「雑学・大江戸庶民事情」石川英輔、講談社文庫 ─





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最終更新日  2010.07.25 10:00:38
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