全78件 (78件中 1-50件目)
前回 / INDEXに戻る / 次回--------------------------------------------------------------------------------【江戸雑学草子】 第26回2003年12月26日江戸っ子の条件 「江戸っ子」と言う言葉がはじめて世に出たのは、 江戸開府から150年ほど経った、明和8年(1771)に 江戸っ子の わらじをはく らんがしさ (らんがしい=騒がしい) と言う川柳がでたのが最初といわれている。 このころになると、江戸の町も大きくなり、 代を重ねるお家もあり、 また、近郷近在のみならず全国から流入者も増えた。 天保14年(1843)の調査では、他所出身者は 町方人口の、29.8%だったそうで、 つまり、3人に一人は、地方出身者で、 江戸の中心地ほどその割合は高かった。 そう言う中で、自分達のアイデンティティーを明確にするため 「江戸っ子」という言葉が、当然として生まれた。 江戸町人研究者、西山松之助著「江戸っ子」によると、 江戸っ子の条件は、 1)江戸城の鯱(しちほこ)を見て、水道の水で洗いあげる。 江戸城の近くで生まれて、江戸のステータスであった上水を日々利 用する。 2)金ばなれがよい。 金ばなれがよいが、けっして下品に浪費しない。 3)乳母(おんば)日傘(からかさ)での高級な育ち。 上品で育ちがよく。 4)江戸生粋のはえぬき。 先祖代々江戸に住み。 5)「いき」と「はり」を本領とする。 「いき」を心得ている。 私は、神戸生まれだから、江戸っ子じゃないんで、むしろ気楽ですが、 えらく、条件が厳しいですね。 近所を見回して、さて該当者は何人だろう。 ここで、「いき」と「はり」について、もう一講釈。 久鬼周三著『「いき」の構造』によれば、 「いき」というのは、 「垢抜けして張りのある色っぽさ」という美意識で、 「はり」とは、一種の反抗心を示す心の強みのことで、 「意気地」とも言う。 参考文献:「江戸時代館」小学館 ▼↓ご意見、ご質問はこちらから↓▼http://www.kusuri-ya.com/fs/webboard/board.asp?mart_id=yagies&code=yagies_4 --------------------------------------------------------------------------------
2013.07.06
コメント(0)
えーッ、毎度おなじみの落語「百年目」でございます。 えらく真四角な堅物と、世間から見られていた番頭さんがですね、 芸者、幇間(たいこもち)をつれて、向島に花見に行きまして、 酔った勢いで、目隠しさせられちゃって、鬼ごっこなどに興じております。 まるで、京都は島原の遊郭で遊(あす)んだ大石内蔵助って、ぐあいですな。 「さあッ、つかまえた」と、目隠しをとると、 なんと旦那さまー!が目の前にいたってスジで、 つまりは、ここで会ったが百年目って事で、「落ち」になります。
2013.06.27
コメント(0)
1871年3月、パリで起きた民衆蜂起は、政府をパリ市内からベルサイ ユに追い払い、「パリコミューン」という自治政府まで作ってしまった。 それより84年前に起きた、江戸での民衆の蜂起は、いかにも江戸的な パリに比べると異質なものだったようですな。 その民衆の蜂起とは、「打ちこわし」とよばれ、天明のものが一番大がか りなものでしたが、それより五十年前の享保十八年(1733)にも起き、 民衆の幕府にたいする米価政策批判という性格のものだったようです。 当時の町奉行は、あの大岡越前守であり、彼とて米価引き下げ策をなにも 打ち出せなかったのですよ。(大岡政談って作り話ですしね) 「打ちこわし」と呼んだのにはわけがありますので、 まずは、「天明の打ちこわし」のドキュメンタリーをお送りします。 天明七年(1787)年、五月二十日です。 天明三年の大飢饉の影響で、米の価格は急騰しつづけ、江戸の下層市民は 米を口にする事すらできなく、川の土手の草まで食べたと申します。 米の絶対量が少ない上に、米商人が相場の上昇を期待して、売り惜しみを していたことも事実だそうです。 もうこのままだと、餓死してしまうという危機感を、市民が持ち始め、 それが五月二十日の夜に爆発してしまったのです。 深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人の彦四郎ほ か七人が、米商に掛け合って施米(せまい=僧やまずしい人に米をほどこ し与えること)を頼みにいこう、そして断られたら打ちこわしをかけよう と相談しておりました。 その夜、彼らは、深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門 をたたき、施米を要求したのです。 ところが、出てきた手代は 「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、 もうしたところ、 かねての手はずどおり八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、 建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。 ただし、この時、一粒・一品たりとも盗みはしなかった。 打ちこわしただけだから、打ちこわしとわざわざ呼んだのです。 深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも 打ちこわしが起きました。 以後二十四日ごろにいたるまで、昼夜の別なく 「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」 余すところなく、米屋はもちろん、 富商の家々も次々に打ちこわされました。 打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒におよんだそうです。 また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」 という大規模な騒動でした。 確かに郎党を組んで狼藉はしても、極めて礼儀正しいものだったそうで、 盗みはしないし、怪我もさせない。 しかも、途中で休息を取るほど、 落ち着いた統率の取れた集団だったそうです。 これは、その参加者が、ほぼ同じ町内の人で、 しかも打ちこわした先も同町内のお店だったからでしょう。 また、町奉行も騒動に手を持つけられない有り様で、 これがきっかけで、下層民無視の、富商との賄賂政治を行った田沼意次政 権が崩壊したわけです。 打ちこわしは、いわゆる民衆のデモンストレーションであったわけで、 それに対して、幕府は大手門外の四日市に救済小屋を設け、 七歳以上の困窮民一人につき玄米二合五勺、豆二合五勺、銀三匁二分ずつ 与えました。 と、同時に御先手(さきて)十組の市中巡察が始まり、翌二十五日には人心もやや落 ち着きをとりもどし、商家も店を開くようになりました。 打ちこわしの逮捕者で、死罪や遠島に処せられた者はいません。 参加者の罪は軽く、一番重いもので「重敲(じゅうたたき)の上重追放」 でした。 その判決理由は「御府内と申、公儀を恐れざる仕方不届」と将軍のお膝元 の江戸で蜂起した事を強調しています。 あっ、そうそう。この時、鬼平こと長谷川平蔵が、先手組の組頭の一人と して華々しくデビューしました。 もちろん、長谷川平蔵ほどの人をかり出さずとも、 「まぁ、大げさな事」との批判も多くあったようです。 「パリコミューン」は、1週間にわたる市街戦ののち、 2万人以上の死者をだして崩壊しましたから、 つくづく、あちらの方は戦争がお好きだなと思います。 ああ、江戸が、日本が、のほほんとしてよろしゅうございます。
2013.06.24
コメント(0)
浅草の観音様とか、日本橋とか、 落語の噺(はなし)に頻繁に出てくる地名って、 たいがいは現存するビッグなところです。 二つの人情話に、同じ地名が出てきて、 それが、聞いただけでは、まさか実際にあったなんて 想像すら出来ないっていう地名が、それがどっこい、あるんですな。 せんだって話した「文七元結」に登場した長兵衛さんが住んでいたのが、 本所の「達磨(だるま)横丁」 あと一つ「唐茄子(とうなす)屋政談」の 勘当された若旦那が吾妻橋から身投げしようとして助けたのが、 実の叔父でして、 彼は、やはり「達磨横丁」に住み、大家をやっている。 いやね、ネットでふらついていると偶然に「本所達磨横丁」に関した ホームページをみっけた。 なんでも「江戸府内町名俚俗名等切図集覧」という本にその達磨横丁を記 したものがあったそうですな。 そのホームページの記事を読んでも、当時の道は整備され、 今の地図と重ねあわせて見ることが出来ないそうですが、 どうやら、吾妻橋の南にある駒形橋のたもとあたりから、 清澄通りは始まっているのですが、 その東側に平行して走る道がそれだってサ。 はい、はい、安政三年の地図と今の地図を見比べて、 墨田区東駒形1丁目の、どれどれ、 ああ、ここら辺かいなーと、感心しております。 なぜ、達磨横丁というか? まず、googleで「達磨横丁」をキーワードで検索すると、 http://www.google.co.jp/ トップにでてきますから、ごらんになってください。 達磨横丁の写真までございますよ。 では、我が町日本橋檜物町に関する噺がないか探しに行って来ます。
2013.06.23
コメント(0)
日本橋界隈で 何度かオフ会を開催した料亭「ゆかり」が、改装前は料亭の風情が残って いた唯一のお店でした。 仲居さんの接待が売り物で、それこそ料理を箸で口に運ぶだけみたいに、 なんでもまかせっきりでしたね。 一度だけ、町内会の役員忘年会に招かれて食事をしたんですが、 セルフサービスになれている人にとっては、ひつっこいサービスかも知れ ません。 江戸で有名な高級料亭と言えば、まず日本橋は百川(ももかわ)。 室町の浮世小路(うきよこうじ)にあったと言うから、日本橋室町二丁目の 中央通りにそって、確か東レビルと呼ばれてるビルの神田寄りの、 いまじゃビルの裏手の何もない路地って感じのところなんですがね。 なんでも、ペリーが来航したとき、饗応するための料理を担当したそうで ですから、そりゃぁ大したお店で、食器もすべて自前で揃えたそうです。 文化文政時代(1804~30)の百川での会食の様子を、 石川英輔著「大江戸仙境録」で読みました。 いわゆる会席料理ですが、まず、テーブルがない。 すいもの、口取(くちとり=きんとん・かまぼこなどを皿に盛り合わせた もの)、刺身、煮物、酢の物が会席膳にのせられて次々と出てくる。 この当時テーブルを使ったのは長崎だけで、しっぽく料理はテーブルで食 べたンです。 テーブル(ちゃぶ台も含む)が日本で一般的になったのは、大正時代です から、テーブルと椅子の生活は、わりと最近始まったという事になります。 また、当時は座布団を使う習慣がなかったので、 畳の上で直に正座しなくちゃならないから、 私たちなら、料理を楽しむと言うより、苦行としか言えませんね。 そう言えば、料亭ゆかりの座敷は、座布団が二枚重ねになっていて、 上の一枚が半分に折られて、後ろの方が高くなるようにしてある。 これは、あぐらをかきやすくする工夫でした。 でも、今は掘りこたつ風にしてあるから、楽と言えば楽ですな。 百川に並んで有名な高級料亭と言えば、 浅草山谷(さんや)の八百膳(やおぜん)、深川の平清(ひらせい)、 柳橋の万八楼(まんぱちろう)、葛飾の葛西太郎(かさいたろう)があった。 今でもその名前が残っているのは、八百膳だけになってしまった。 その八百膳は二両もする「お茶漬け」の話であまりにも有名です。 なぜそんなに高いかというと、お茶漬けに使う水をわざわざ多摩川まで行 って汲んできたンですな。 こだわりも、ここまで来ると、お金がもらえるんでしょう。 あるいは、「粋」を尊ぶ江戸っ子相手だから出来たかもしれない。
2013.06.23
コメント(0)
お腹の調子には、薬より食べ物が大事、▼、http://review.rakuten.co.jp/item/1/224935_10002914/1.1/【江戸雑学草子】 この記事は(2004年03月04日)に書いたものです。居酒屋 浅草の観音様の近くに、名前は忘れたけど、 全国各地の酒を飲ませる店があるんです。 もう30年近く前に一度だけ、友達につれて行ってもらって なんか、気難しい店だなぁーと思った記憶があるんです。 二合徳利を一人2本までしか飲ませず、 肴も佃煮しかない。 江戸の居酒屋もこんな感じで、 酒屋が酒を売るだけでなく、店の座敷で客に飲ませたんです。 映画やテレビドラマで見るように、座敷にテーブルなどない。 あと、徳利がない。 徳利は貸し徳利と言って、量り売りの酒を入れてお客に渡し お客は飲みきって、また買いに来るときに返す。 そういやァ、ガキの頃、空の一升瓶を持って酒屋に行くと 酒屋のオヤジさんが、酒を樽から升についで、量って、 その瓶に詰めるんです。 きっと、おいしい酒だったろうなァー、 えーっと、燗徳利でなく、 チロリと言って、細長い土瓶の様な物で燗をしたんですな。 酒は、灘、伏見から舟でやって来た。 「富士見酒」と言って遠州灘を渡って来た酒が、作った時よりおいしくなっ たそうです。それはなぜかと申しますと、 えーッ、 お酒は、生ものですから、腐ります。 ところが、室町時代から「火入れ」と言って 酒を低温殺菌する技術を取り入れ、腐ることはなく江戸に運んだ。 また火入れをした酒は、舟に揺られ事によって、 うまみが増したそうです。 はい、ところで、 私は、自慢じゃないですが、酒飲みですから、酒にはうるさい。 辛口が好きです。 この界隈で、それを出す店の数が少ないのですが、 「菊正(菊正宗)」がいいですねー。うまい。 暮れと正月に、神戸の友人が送ってくれた「大黒正宗」にも惚れた。 もう一本、掘り出し物がございまして、 ネット友達でもある高知の酒屋さんから買って半信半疑で飲んだから、「ううううう、うメェー」って、山羊になっちゃった。 「司牡丹 純米酒 美稲」1.8L 2138円 http://k.c.combzmail.jp/t/g6og/ri0k66jiyojno60i
2013.02.13
コメント(0)
お腹の調子には、薬より食べ物が大事、▼、http://review.rakuten.co.jp/item/1/224935_10002914/1.1/「時そば」この記事は、2003年2月3日に書かれたものです。2ひの、ふの、みー!いま、なんどきだい? 江戸っ子は、今わの際にこう言ったそうだ。 「ああ、そばに汁(つゆ)をたっぷりつけて食べてみたかった」 ざるに盛ったそばを、箸ですくい上げ、 その垂れたそばの端をちょっと汁にしたして、 つるつるーっと、口に吸い込むように食べるのが 粋なそばの食べ方らしい。 「そば粉の香りと出汁の香りを同時に楽しめる」からと、 ヤギ薬局の隣にあるそば屋の女将さんが話してくれた。 なにせ、私は江戸っ子じゃないんで、 どっぶりとそばを汁に浸してから口に運ぶ。 香りと言われても、土瓶蒸しの松茸の香りに同じく、 私は、匂いに敏感な方だが、楽しむまでの「香り」を感じない。 汁をいっぱいつけなきゃ、食べた気がしないのだ。 こういった、そばの講釈とは裏腹に、 どうやら、昔のそばつゆは、生醤油に近く、 とても、そばに汁をいっぱいつけていたら、辛くて食べられなかったと言 う話も聞く。 そもそも、そばがメニューとして歴史に登場したのは、 寛文4年(1664)、吉原の江戸町二丁目の麺類屋仁左衛門が、一杯ず つ盛り切りにした「けんどんそば」が早い例とされている。 一般化したのは、寛延(1748~51)以降と言われるから、元禄15 年(1702)に起きた赤穂浪士の討ち入の前に、そば屋で気勢を上げた などという話は、後生の作り事だ。 「おやじ、そばを一杯くんな」と、声を掛けるのは、細長い戸棚を二つつ ないで担ぐ夜鷹(よたか)そばだ。 「ひの、ふの、みー!いま、なんどきだい?」と、落語の「時蕎麦」に出 てくるそば屋がこれで、二八そばとも言う。 こういう、担いで待ちを売り歩く商売を「振り売り」と呼んだ。 万治二年(1659)に幕府が許可した江戸の振り売り49種のうち、 食べ物関係は、南蛮菓子、春米(つきまい)、麹(こうじ)、油、かつお ぶし、串海鼠(くしなまこ)、串鮑(くしあわび)、鮭之塩引(さけのし おびき)、煎茶、肴(さかな)、時々のなり物菓子、塩、味噌、醤油、豆 腐蒟蒻(とうふこんにゃく)、ところてん、もちなど。 まぁ、これらに限らず、物売りが路地まで入り込んで商売していたので、 わざわざスーパーまで出かけなくても、家にいれば、回転寿司さながら用 が足りただろう。 そういや、今の日本橋・八重洲にも、魚屋さんや、八百屋さんが曜日を決 めて売りに来る。 棒で担がず、トラックだから、ハンドル売りとでもしておこう。 話はそばに戻って、 じゃ、その夜鷹そばにしても、火が必要なのだが、 さて、何を使ったのか、次回のお楽しみです。
2013.02.08
コメント(0)
お腹の調子には、薬より食べ物が大事、▼、http://review.rakuten.co.jp/item/1/224935_10002914/1.1/h【江戸雑学草子】 第35回この記事は(2004年02月05日)に書いたものです。吾妻橋(あずまばし) 吾妻橋と言えば、東武浅草駅と 松屋デパートがあるビルがございまして、 そのビルの玄関口の先から、向こう河岸に渡るんですな。 渡りきるってーっと、 金色の、ありゃなんですか?雲らしいンですがね。 その金の雲がてっぺんについた建物がアサヒビールの本社ビル。 その雲の下は、レストランになっておりまして、 先(せん)に、オフ会をやった事がございます。 隅田川で最初に架けられたのは、千住大橋でして、文禄三年(1594)。 二番目の橋は、明暦の大火の復興計画の一部として、大橋が架けられた。 寛文元年(1661)のことで、 名前は、元禄六年(1693)に新大橋ができて後、 両国橋と変えられました。 続いて、 永代橋が元禄十一年(1698)だから、赤穂浪士も、討ち入り後、 隅田川を永代橋経由で渡って来られたわけですな。 そして、吾妻橋の前身の大川橋は、安永三年(1774)。 大川橋は、幕府が架けた橋でなく、民間によって作られ、 その費用の回収は、橋銭(はしせん)によってまかなう予定だったが、 なにせ、木造だから老巧化がはやいし、出水や流木で流されたり、 壊れたりした事がしばしば起こり、結局は赤字ってありさまでした。 髪を振り乱し、橋のたもとまで走ってきた女が、 一文投げて通りすぎようとするので、橋番があわてて、 「おいおい、お女中。橋の渡り賃は二文だよ」 と声をかけると、女、あと振り向いて、 「あたしゃ、橋の真ん中までしか行かないのさ」 近目貫(きんめぬき)・安永二年(1773) おっとー、身投げだァ。 本所方面から吉原に行く時は、必ず吾妻橋を通るので、 よーく落語にでてきますな。 「文七元結」も、吾妻橋と、身投げがからむ話でございます。 五代目古今亭志ん生のものをCDで聞きました。 暮れの28日のこと。 吾妻橋の真ん中で、身投げをしようとする文七。 それを止める、長兵衛。 文七は日本橋石町(こくちょう)二丁目の鼈甲(べっこう)屋、 近惣(きんそう)で働く若い衆。21~22歳。 小梅の水戸屋敷(現、墨田公園)を出たすぐの枕橋(まくらばし)で、 人がぶつかってきて、あっと思いきや、 集金した五十両がへえーった財布をすられちまった。 恩あるご主人様に申しわけないと身投げをしようってわけサ。 さー、腕の良い左官職人だった長兵衛は、悪さ(ばくち)を重ねて もう三年仕事をしねーから、うちん中はゴミ一つない貧乏とくる。 暮れも押し迫って、どうしようもないところを、 18になる娘のお久が、旧知の吉原は「佐野槌(さのづち)」と言う 大きな見世のおかみさんをたよって、 本人は身を沈めて、おとっつあんやおっかさんのためになろうってわけ。 おかみさんは、長兵衛を呼びつけ、改心してしっかりおやりと、 娘は預かるが、その代わり五十両を半年の期限で貸してやろうって話。 もし、長兵衛が約束を破ったら、お久を見世にだすよと言い渡す。 そうして、こさえた五十両だが、 命には代えられない。 金を返せなくなって、客を取るような身にもなっても 娘のお久の命がなくなるわけがねーからと、 五十両を「とっとけ」と文七に投げつける。 えー、またちょいと長くなりますねー。 「長いヨッ」とコメントを残して購読解除なさる読者もおありだが、 「【江戸雑学草子】を、いつも楽しみにしてますよー」なんてねェ、 そう言われると、なんか気分が良くて、ついつい長く書いちゃうゥ。 ところで、文七がなくしたと思った五十両は、 水戸様で置き忘れてきており、金子は無事だったわけだ。 人騒がせなことだが、 この近惣のご主人様が、長兵衛の清い心にほれて、 お久を身請けして、文七と夫婦にさせたんですな。 二人は麹町六丁目に「文七元結」という名のお店をだし、 そりゃ、繁盛したそうでございます。 「元結」というのは、髪を束ねる紙縒(こより)の事でございまして、 今じゃ誰もスんなの使いませんが、髪を結っていた時分は、 そりゃ必需品でしたから、商売になったわけでございます。 うンじゃ、文七にあやかって、ここで商売させてもらいまして、 へェー、... ■海藻エッセンスで髪はサラサラ、シャキッとする。 ●ラサーナ海そうヘアエッセンス(150ml) メーカー希望価格5,800 円のところ、誰もやらなかった2割引! 2月末まで、4,640円 (消費税:別, 配送費:別, 手数料:別) ▼↓お買い求めの方はこちら↓▼ http://kusuri-ya.com/yagies/7.1/26/ ■皮膚科の医者がすすめるふけ取りシャンプー ●コラージュフルフル・シャンプー メーカー希望価格1,500円のところ、 2月末まで、1,200円 (消費税:別, 配送費:別, 手数料:別) ▼↓お買い求めの方はこちら↓▼ http://kusuri-ya.com/yagies/7.1/21/ はい、ありがとう存知ます。 お客様におかれましては、お静かにお帰りあそばしませ。 またのお越しを、お待ち申し上げております。 ありがとうござーい♪ ありがとうございます♪
2013.02.07
コメント(0)
この記事は、(2003年 09月19日)に書いたものです。「▼お腹の調子には、薬より食べ物が大事、http://review.rakuten.co.jp/item/1/224935_10002914/1.1/ 寿司屋ののれんをくぐるなり、 「いらっしゃぃー」とか「らっしゃいーぃ」のだみ声の合唱。 威勢がいいっての? なかには、がなり立ててるんだけみたいな声も聞く。 私ねー、これってこう聞こえる。 「よっ、来たかぁ、早く食ってけーれよー!」 でっかい湯飲みを、目の前にどかんと置かれて、 さー、食いねー!って、結構せわしない。 だから、私はカウンターに座るなり、 職人の目と合った瞬間、 「トロ、イカ、エビ」と連発する。 前に置かれた下駄みたいなのに、それぞれが並ぶと同時に、 「ウニ、穴子、鉄火」 飲み込むようにして、それらを終わらせると、 口をもぐもぐさせながら、 「お勘定!」 お店が空いていりゃ、10分で店を出る。 日本橋には、有名な寿司屋が多いが、 上の下の店で、「トロ、イカ、エビ、ウニ、穴子、鉄火」の八木スペシャ ルコースで、3000円ではちょっと足らない。 それぞれ、2貫(カン)づつ出てくるから、10個と1本(鉄火はのり巻 き)。これ以上は、お腹が張って、財布も傷むし、この程度が一番良い。 うちの近所に、超高いお寿司屋が2軒あって、どちらもトロが3000円 ~5000円。 おっと、1貫3000円だから、2貫1セットで勘定は6000円だ。 その2軒のうちの1軒の旦那が、 「マスターなら安くするから、食べにおいでよ」と道で会うたびに誘われ るが、ちょと、引いちゃいますー。 だって、もったいなくて翌日からトイレに行けなくなる。 これ、健康に良くない。 さて、寿司の食べる順番ってあるのか? 日本橋にある老舗の寿司屋の若旦那(まーちゃん)に聞いた。 まーちゃん:光り物からはじめて、卵で終わるとか。 マスター :それが公式な順番? まーちゃん:いや、たとえ話で、それが流儀だってお客もいるけどさー、 順番なんてないっすよー。 マスター :何でも良いの? まーちゃん:マグロしか注文しない人もいるし。 マスター :頼むたんびに「マグロ」「マグロ」って? まーちゃん:ん!好きなもの頼めば良いんです。 なるほど、好きなものをたらふく食ってもらいたいのが、寿司職人の心情 なのだ。 また、箸で食べようが、手でつまもうが、特にマナーはない。 とは言え、寿司屋として、これはやってもらいたくない事を語ってもらっ た。 まーちゃん:あのさー、寿司ネタをご飯からはがして食べる人ー。 これだけは止めてほしい。 マスター :どうして?寿司にマナーはないんだろ? まーちゃん:ただ、握りめしを作ってるんじゃないんだって。 ネタのうまさを舎利(しゃり)になじませてんの! それをはがされちゃ、がっかり。 ほー!寿司職人って意外とデリーケートなんだ。 最後に、粋なお客ってどんなお客? まーちゃん:そりゃーさー。 マスター :それで?どんな客? まーちゃん:こう言っちゃなんだけど、好きなもん1万円ほど食べて、 さーっと帰るお客かなー。 ほーら見ろってんだ!それが寿司屋の本音ってやつさ! ね!私の耳もまんざらでもない。 追伸。 さて、次回もネタは寿司。 えっ、もう飽きたぁ?ですか? 本当に粋な寿司って言うのをご披露いたしますしー。 つきあってくださいまし。
2013.02.06
コメント(0)
この記事は、(2003年 09月19日)に書いたものです。「▼お腹の調子には、薬より食べ物が大事、http://review.rakuten.co.jp/item/1/224935_10002914/1.1/ 寿司屋ののれんをくぐるなり、 「いらっしゃぃー」とか「らっしゃいーぃ」のだみ声の合唱。 威勢がいいっての? なかには、がなり立ててるんだけみたいな声も聞く。 私ねー、これってこう聞こえる。 「よっ、来たかぁ、早く食ってけーれよー!」 でっかい湯飲みを、目の前にどかんと置かれて、 さー、食いねー!って、結構せわしない。 だから、私はカウンターに座るなり、 職人の目と合った瞬間、 「トロ、イカ、エビ」と連発する。 前に置かれた下駄みたいなのに、それぞれが並ぶと同時に、 「ウニ、穴子、鉄火」 飲み込むようにして、それらを終わらせると、 口をもぐもぐさせながら、 「お勘定!」 お店が空いていりゃ、10分で店を出る。 日本橋には、有名な寿司屋が多いが、 上の下の店で、「トロ、イカ、エビ、ウニ、穴子、鉄火」の八木スペシャ ルコースで、3000円ではちょっと足らない。 それぞれ、2貫(カン)づつ出てくるから、10個と1本(鉄火はのり巻 き)。これ以上は、お腹が張って、財布も傷むし、この程度が一番良い。 うちの近所に、超高いお寿司屋が2軒あって、どちらもトロが3000円 ~5000円。 おっと、1貫3000円だから、2貫1セットで勘定は6000円だ。 その2軒のうちの1軒の旦那が、 「マスターなら安くするから、食べにおいでよ」と道で会うたびに誘われ るが、ちょと、引いちゃいますー。 だって、もったいなくて翌日からトイレに行けなくなる。 これ、健康に良くない。 さて、寿司の食べる順番ってあるのか? 日本橋にある老舗の寿司屋の若旦那(まーちゃん)に聞いた。 まーちゃん:光り物からはじめて、卵で終わるとか。 マスター :それが公式な順番? まーちゃん:いや、たとえ話で、それが流儀だってお客もいるけどさー、 順番なんてないっすよー。 マスター :何でも良いの? まーちゃん:マグロしか注文しない人もいるし。 マスター :頼むたんびに「マグロ」「マグロ」って? まーちゃん:ん!好きなもの頼めば良いんです。 なるほど、好きなものをたらふく食ってもらいたいのが、寿司職人の心情 なのだ。 また、箸で食べようが、手でつまもうが、特にマナーはない。 とは言え、寿司屋として、これはやってもらいたくない事を語ってもらっ た。 まーちゃん:あのさー、寿司ネタをご飯からはがして食べる人ー。 これだけは止めてほしい。 マスター :どうして?寿司にマナーはないんだろ? まーちゃん:ただ、握りめしを作ってるんじゃないんだって。 ネタのうまさを舎利(しゃり)になじませてんの! それをはがされちゃ、がっかり。 ほー!寿司職人って意外とデリーケートなんだ。 最後に、粋なお客ってどんなお客? まーちゃん:そりゃーさー。 マスター :それで?どんな客? まーちゃん:こう言っちゃなんだけど、好きなもん1万円ほど食べて、 さーっと帰るお客かなー。 ほーら見ろってんだ!それが寿司屋の本音ってやつさ! ね!私の耳もまんざらでもない。 追伸。 さて、次回もネタは寿司。 えっ、もう飽きたぁ?ですか? 本当に粋な寿司って言うのをご披露いたしますしー。 つきあってくださいまし。
2013.02.03
コメント(0)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━★リハビリ日記01話{はじめに」(2012年12月31日)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━2007年9月12日の朝、わたしは、目が覚めると、左足と左手の感覚を失い、まるでそれらがどこかに行ってしまったかにおもえた。そこで、同居の可あちゃんと三男の名前を呼びつつ「腕と、足を探してくれと、」叫んだ。私の変な様子にきづいた、母ちゃんは、「救急車を呼ぼうか?」と、私にたずねるが、訳も分からず、わたしは、「おねがいしますと」返事をかえしつつ、救急車を待った。救急車のサイレンがマンションの前あたりで停止してしばらくして救急隊員が部屋に入ってくる足音がした。ベッドから担架に移される時、救急隊員の一人が、私の顔を覗き込んで「脳梗塞をおやりですね」と、言った。その言葉を聞いた私は、「避けられたかもしれない失敗をおかしたときのように(頭のなかで「しまった)と、つぶやいた。タバコをやめ、高血圧の薬を続け。お酒も控えめにして、早寝、早起きをこころがけると。、病気を避けられたかもしれないと、大いにくやんだが、すべて、後の祭りだった。当時、日本橋、浜町に住んでいたので。きゅうきゅうしゃは、人形町出張所から来、すると、病院は、聖路加にはこばれた。以前、聖路加に入院し、医療ミスで亡くなったひとのことを知っていたので、「dだいじょうぶかな」とおもいは、したがタクシーと、違って行き先変更は、できないし。また口がきかないので、そのことを告げることすらできない。また、聖路加の入院費用が高いことも有名だったことがしんぱいだと、そのことが頭をよぎったが。楽観のかたまりみたいなわたしは。「まっ、なんとかなるさ」と、結論してまた、実際、なんとかなった。(爆)。身内と私の部下である社員いがいは、面会謝絶で、また、実家の神戸の母と、妹も呼ばれて上京した。本人が思っている以上に重体がったようです。しかも、心筋梗塞mおおこし、入院後、脳出血を起こすなんて今更聞くと、本人もびっくりの状態だったようです聖路加に限らず、びょういんには、ソーシャルワーカーという人がおり、入院中の不都合や、退院後の相談位に乗ったり、指導をしてくださる掛かりの人がいて、何も言えないし、できない私にかわって。母ちゃんがそのソーシャルわーかーさんと相談して退院後、墨田区、鐘ヶ淵にある東京都リハビリテーション病院mにてんいんすることになりまた、住まいも、母ちゃんおの実家に近い足立区西新井に引っ越すことと、なった、生活の場が。中央区からいきなり、墨田区とか足立区に変わるなんて、病気以上にショックリハどこえへ生かされようが無抵抗な私ですから、何事も、諦めざるを得ませんでした(号泣)李羽廣リハビリテーション病院の「リハビリなんだからと、なめちゃいけないくらい厳し、なにせ、リハビリ活動を、訓練と、呼び、昔から、運動オンチな私にとって大変辛いもので。シg動員である理学療法士が言うことが満足にできず、辛い日々を送っていました。この病院には、3ヶ月を限りに退院を品kれればならず、そのごのことは、やはり、ソーシャルワーカーさんや居住地区担当のケア、真メージャーさんと相談しましたが、結局、リハビリの指導をやってくれる施設は、高齢者を対象にしたデイサービスしかなく、足立区西新井にある水野記念病院に付属するサービスと、西新井病院系のデイサービスと個別老人介護施設「むくげのいえ」のデイサービスでのリハビリを、受けていますが。もうかれこれ5年っがたちます。両施設で、私の体や能力に応じた指導を受け、4点杖をついて室内を歩けるようになっています。ですから。おトイレの用も私、一人で自立出来ています。両施設の最近のリハビリないようを、私なりにヵってに判断しますと、麻痺足の左足強化をねらったどうさが主になっているように思え、いよいよ、リハビリも、まとめ段階に入り、ヒホン足での完全自立を目標にしているのじゃないかと、思い、今の嬢y帯から車椅子や杖からじr膣していく過程をぜひ、記録し自分のリハビリの励みとして、あた、あとに続くひとの参考になるように、かいのこそうと、2012年の大晦日に決心したしだいです。まず、励みの言葉。、、、「自分の力を信じて、決して、あきらめず、リハビリを続けよう」そして
2012.12.31
コメント(0)
の敬老の日ので話題になった最高齢は、140だそうです。そうすると、文久元年うまれということになります。まだ民主党政権はなく、日本の政治は徳川ばくふによっておこなわれしょうぐんは、14代徳川家茂となります。そう考えると、江戸が身近に感じませんか。
2010.11.05
コメント(0)
先の敬老の日ので話題になった最高齢は、140だそうです。そうすると、文久元年うまれということになります。まだ民主党政権はなく、日本の政治は徳川ばくふによっておこなわれしょうぐんは、14代徳川家茂となります。そう考えると、江戸が身近に感じませんか。
2010.11.05
コメント(0)
江戸前の定義現代、「江戸前」と名が付くのは江戸前寿司ですね。じゃぁ、この江戸前という意味はなんでしょう?ここいらあたり(日本橋)の、寿司屋の職人さんなら「すりゃー、江戸前、つまり江戸湾で取れた魚を使った 寿司だからでさー」 と、答えるでしょう。じゃぁ、今の寿司屋のネタケースに江戸湾、つまり東京湾で取れた魚は、どれだけあるんだって聞きたいよね。の江戸っ子と知られている穴子だって羽田産は、いつもある物じゃないらしい。そこで、近所の寿司屋で聞くとどうやら、一番多いのは、相模湾みたいですよ。
2010.07.25
コメント(0)
この記事は(2004年05月11日)に書いたものです。 1871年3月、パリで起きた民衆蜂起は、政府をパリ市内からベルサイ ユに追い払い、「パリコミューン」という自治政府まで作ってしまった。 それより84年前に起きた、江戸での民衆の蜂起は、いかにも江戸的な パリに比べると異質なものだったようですな。 その民衆の蜂起とは、「打ちこわし」とよばれ、天明のものが一番大がか りなものでしたが、それより五十年前の享保十八年(1733)にも起き、 民衆の幕府にたいする米価政策批判という性格のものだったようです。 当時の町奉行は、あの大岡越前守であり、彼とて米価引き下げ策をなにも 打ち出せなかったのですよ。(大岡政談って作り話ですしね) 「打ちこわし」と呼んだのにはわけがありますので、 まずは、「天明の打ちこわし」のドキュメンタリーをお送りします。 天明七年(1787)年、五月二十日と言いますから、ちょうど今頃です。 天明三年の大飢饉の影響で、米の価格は急騰しつづけ、江戸の下層市民は 米を口にする事すらできなく、川の土手の草まで食べたと申します。 米の絶対量が少ない上に、米商人が相場の上昇を期待して、売り惜しみを していたことも事実だそうです。 もうこのままだと、餓死してしまうという危機感を、市民が持ち始め、 それが五月二十日の夜に爆発してしまったのです。 深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人の彦四郎ほ か七人が、米商に掛け合って施米(せまい=僧やまずしい人に米をほどこ し与えること)を頼みにいこう、そして断られたら打ちこわしをかけよう と相談しておりました。 その夜、彼らは、深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門 をたたき、施米を要求したのです。 ところが、出てきた手代は 「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、 もうしたところ、 かねての手はずどおり八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、 建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。 ただし、この時、一粒・一品たりとも盗みはしなかった。 打ちこわしただけだから、打ちこわしとわざわざ呼んだのです。 深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも 打ちこわしが起きました。 以後二十四日ごろにいたるまで、昼夜の別なく 「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」 余すところなく、米屋はもちろん、 富商の家々も次々に打ちこわされました。 打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒におよんだそうです。 また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」 という大規模な騒動でした。 確かに郎党を組んで狼藉はしても、極めて礼儀正しいものだったそうで、 盗みはしないし、怪我もさせない。 しかも、途中で休息を取るほど、 落ち着いた統率の取れた集団だったそうです。 これは、その参加者が、ほぼ同じ町内の人で、 しかも打ちこわした先も同町内のお店だったからでしょう。 また、町奉行も騒動に手を持つけられない有り様で、 これがきっかけで、下層民無視の、富商との賄賂政治を行った田沼意次政 権が崩壊したわけです。 打ちこわしは、いわゆる民衆のデモンストレーションであったわけで、 それに対して、幕府は大手門外の四日市に救済小屋を設け、 この記事は2004年05月11日)に書いたものです。天【江戸雑学草紙】天(明の打ちこわし)1871年3月、パリで起きた民衆蜂起は、政府をパリ市内からベルサイ ユに追い払い、「パリコミューン」という自治政府まで作ってしまった。 それより84年前に起きた、江戸での民衆の蜂起は、いかにも江戸的な パリに比べると異質なものだったようですな。 その民衆の蜂起とは、「打ちこわし」とよばれ、天明のものが一番大がか りなものでしたが、それより五十年前の享保十八年(1733)にも起き、 民衆の幕府にたいする米価政策批判という性格のものだったようです。 当時の町奉行は、あの大岡越前守であり、彼とて米価引き下げ策をなにも 打ち出せなかったのですよ。(大岡政談って作り話ですしね) 「打ちこわし」と呼んだのにはわけがありますので、 まずは、「天明の打ちこわし」のドキュメンタリーをお送りします。 天明七年(1787)年、五月二十日と言いますから、ちょうど今頃です。 天明三年の大飢饉の影響で、米の価格は急騰しつづけ、江戸の下層市民は 米を口にする事すらできなく、川の土手の草まで食べたと申します。 米の絶対量が少ない上に、米商人が相場の上昇を期待して、売り惜しみを していたことも事実だそうです。 もうこのままだと、餓死してしまうという危機感を、市民が持ち始め、 それが五月二十日の夜に爆発してしまったのです。 深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人の彦四郎ほ か七人が、米商に掛け合って施米(せまい=僧やまずしい人に米をほどこ し与えること)を頼みにいこう、そして断られたら打ちこわしをかけよう と相談しておりました。 その夜、彼らは、深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門 をたたき、施米を要求したのです。 ところが、出てきた手代は 「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、 もうしたところ、 かねての手はずどおり八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、 建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。 ただし、この時、一粒・一品たりとも盗みはしなかった。 打ちこわしただけだから、打ちこわしとわざわざ呼んだのです。 深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも 打ちこわしが起きました。 以後二十四日ごろにいたるまで、昼夜の別なく 「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」 余すところなく、米屋はもちろん、 富商の家々も次々に打ちこわされました。 打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒におよんだそうです。 また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」 という大規模な騒動でした。 確かに郎党を組んで狼藉はしても、極めて礼儀正しいものだったそうで、 盗みはしないし、怪我もさせない。 しかも、途中で休息を取るほど、 落ち着いた統率の取れた集団だったそうです。
2010.07.25
コメント(0)
1871年3月、パリで起きた民衆蜂起は、政府をパリ市内からベルサイ ユに追い払い、「パリコミューン」という自治政府まで作ってしまった。 それより84年前に起きた、江戸での民衆の蜂起は、いかにも江戸的な パリに比べると異質なものだったようですな。 その民衆の蜂起とは、「打ちこわし」とよばれ、天明のものが一番大がか りなものでしたが、それより五十年前の享保十八年(1733)にも起き、 民衆の幕府にたいする米価政策批判という性格のものだったようです。 当時の町奉行は、あの大岡越前守であり、彼とて米価引き下げ策をなにも 打ち出せなかったのですよ。(大岡政談って作り話ですしね) 「打ちこわし」と呼んだのにはわけがありますので、 まずは、「天明の打ちこわし」のドキュメンタリーをお送りします。 天明七年(1787)年、五月二十日と言いますから、ちょうど今頃です。 天明三年の大飢饉の影響で、米の価格は急騰しつづけ、江戸の下層市民は 米を口にする事すらできなく、川の土手の草まで食べたと申します。 米の絶対量が少ない上に、米商人が相場の上昇を期待して、売り惜しみを していたことも事実だそうです。 もうこのままだと、餓死してしまうという危機感を、市民が持ち始め、 それが五月二十日の夜に爆発してしまったのです。 深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人の彦四郎ほ か七人が、米商に掛け合って施米(せまい=僧やまずしい人に米をほどこ し与えること)を頼みにいこう、そして断られたら打ちこわしをかけよう と相談しておりました。 その夜、彼らは、深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門 をたたき、施米を要求したのです。 ところが、出てきた手代は 「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、 もうしたところ、 かねての手はずどおり八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、 建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。 ただし、この時、一粒・一品たりとも盗みはしなかった。 打ちこわしただけだから、打ちこわしとわざわざ呼んだのです。 深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも 打ちこわしが起きました。 以後二十四日ごろにいたるまで、昼夜の別なく 「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」 余すところなく、米屋はもちろん、 富商の家々も次々に打ちこわされました。 打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒におよんだそうです。 また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」 という大規模な騒動でした。 確かに郎党を組んで狼藉はしても、極めて礼儀正しいものだったそうで、 盗みはしないし、怪我もさせない。 しかも、途中で休息を取るほど、 落ち着いた統率の取れた集団だったそうです。 これは、その参加者が、ほぼ同じ町内の人で、 しかも打ちこわした先も同町内のお店だったからでしょう。 また、町奉行も騒動に手を持つけられない有り様で、 これがきっかけで、下層民無視の、富商との賄賂政治を行った田沼意次政 権が崩壊したわけです。 打ちこわしは、いわゆる民衆のデモンストレーションであったわけで、 それに対して、幕府は大手門外の四日市に救済小屋を設け、 七歳以上の困窮民一人につき玄米二合五勺、豆二合五勺、銀三匁二分ずつ 与えました。 と、同時に御先手(さきて)十組の市中巡察が始まり、翌二十五日には人心もやや落 ち着きをとりもどし、商家も店を開くようになりました。 打ちこわしの逮捕者で、死罪や遠島に処せられた者はいません。 参加者の罪は軽く、一番重いもので「重敲(じゅうたたき)の上重追放」 でした。 その判決理由は「御府内と申、公儀を恐れざる仕方不届」と将軍のお膝元 の江戸で蜂起した事を強調しています。 あっ、そうそう。この時、鬼平こと長谷川平蔵が、先手組の組頭の一人と して華々しくデビューしました。 もちろん、長谷川平蔵ほどの人をかり出さずとも、 「まぁ、大げさな事」との批判も多くあったようです。 「パリコミューン」は、1週間にわたる市街戦ののち、 2万人以上の死者をだして崩壊しましたから、 つくづく、あちらの方は戦争がお好きだなと思います。 ああ、江戸が、日本が、のほほんとしてよろしゅうございます。
2010.07.25
コメント(0)
の記事は(2004年03月04日)に書いたものです。居酒屋 浅草の観音様の近くに、名前は忘れたけど、 全国各地の酒を飲ませる店があるんです。 もう30年近く前に一度だけ、友達につれて行ってもらって なんか、気難しい店だなぁーと思った記憶があるんです。 二合徳利を一人2本までしか飲ませず、 肴も佃煮しかない。 江戸の居酒屋もこんな感じで、 酒屋が酒を売るだけでなく、店の座敷で客に飲ませたんです。 映画やテレビドラマで見るように、座敷にテーブルなどない。 あと、徳利がない。 徳利は貸し徳利と言って、量り売りの酒を入れてお客に渡し お客は飲みきって、また買いに来るときに返す。 そういやァ、ガキの頃、空の一升瓶を持って酒屋に行くと 酒屋のオヤジさんが、酒を樽から升についで、量って、 その瓶に詰めるんです。 きっと、おいしい酒だったろうなァー、 えーっと、燗徳利でなく、 チロリと言って、細長い土瓶の様な物で燗をしたんですな。 酒は、灘、伏見から舟でやって来た。 「富士見酒」と言って遠州灘を渡って来た酒が、作った時よりおいしくなっ たそうです。それはなぜかと申しますと、 えーッ、 お酒は、生ものですから、腐ります。 ところが、室町時代から「火入れ」と言って 酒を低温殺菌する技術を取り入れ、腐ることはなく江戸に運んだ。 また火入れをした酒は、舟に揺られ事によって、 うまみが増したそうです。 はい、ところで、 私は、自慢じゃないですが、酒飲みですから、酒にはうるさい。 辛口が好きです。 この界隈で、それを出す店の数が少ないのですが、 「菊正(菊正宗)」がいいですねー。うまい。
2010.07.25
コメント(0)
寿司屋ののれんをくぐるなり、 「いらっしゃぃー」とか「らっしゃいーぃ」のだみ声の合唱。 威勢がいいっての? なかには、がなり立ててるんだけみたいな声も聞く。 私ねー、これってこう聞こえる。 「よっ、来たかぁ、早く食ってけーれよー!」 でっかい湯飲みを、目の前にどかんと置かれて、 さー、食いねー!って、結構せわしない。 だから、私はカウンターに座るなり、 職人の目と合った瞬間、 「トロ、イカ、エビ」と連発する。 前に置かれた下駄みたいなのに、それぞれが並ぶと同時に、 「ウニ、穴子、鉄火」 飲み込むようにして、それらを終わらせると、 口をもぐもぐさせながら、 「お勘定!」 お店が空いていりゃ、10分で店を出る。 日本橋には、有名な寿司屋が多いが、 上の下の店で、「トロ、イカ、エビ、ウニ、穴子、鉄火」の八木スペシャ ルコースで、3000円ではちょっと足らない。 それぞれ、2貫(カン)づつ出てくるから、10個と1本(鉄火はのり巻 き)。これ以上は、お腹が張って、財布も傷むし、この程度が一番良い。 うちの近所に、超高いお寿司屋が2軒あって、どちらもトロが3000円 ~5000円。 おっと、1貫3000円だから、2貫1セットで勘定は6000円だ。 その2軒のうちの1軒の旦那が、 「マスターなら安くするから、食べにおいでよ」と道で会うたびに誘われ るが、ちょと、引いちゃいますー。 だって、もったいなくて翌日からトイレに行けなくなる。 これ、健康に良くない。 さて、寿司の食べる順番ってあるのか? 日本橋にある老舗の寿司屋の若旦那(まーちゃん)に聞いた。 まーちゃん:光り物からはじめて、卵で終わるとか。 マスター :それが公式な順番? まーちゃん:いや、たとえ話で、それが流儀だってお客もいるけどさー、 順番なんてないっすよー。 マスター :何でも良いの? まーちゃん:マグロしか注文しない人もいるし。 マスター :頼むたんびに「マグロ」「マグロ」って? まーちゃん:ん!好きなもの頼めば良いんです。 なるほど、好きなものをたらふく食ってもらいたいのが、寿司職人の心情 なのだ。 また、箸で食べようが、手でつまもうが、特にマナーはない。 とは言え、寿司屋として、これはやってもらいたくない事を語ってもらっ た。 まーちゃん:あのさー、寿司ネタをご飯からはがして食べる人ー。 これだけは止めてほしい。 マスター :どうして?寿司にマナーはないんだろ? まーちゃん:ただ、握りめしを作ってるんじゃないんだって。 ネタのうまさを舎利(しゃり)になじませてんの! それをはがされちゃ、がっかり。 ほー!寿司職人って意外とデリーケートなんだ。 最後に、粋なお客ってどんなお客? まーちゃん:そりゃーさー。 マスター :それで?どんな客? まーちゃん:こう言っちゃなんだけど、好きなもん1万円ほど食べて、 さーっと帰るお客かなー。 ほーら見ろってんだ!それが寿司屋の本音ってやつさ! ね!私の耳もまんざらでもない。 追伸。 さて、次回もネタは寿司。 えっ、もう飽きたぁ?ですか? 本当に粋な寿司って言うのをご披露いたしますしー。 つきあってくださいまし。
2010.07.25
コメント(0)
の記事は(2004年03月04日)に書いたものです。居酒屋 浅草の観音様の近くに、名前は忘れたけど、 全国各地の酒を飲ませる店があるんです。 もう30年近く前に一度だけ、友達につれて行ってもらって なんか、気難しい店だなぁーと思った記憶があるんです。 二合徳利を一人2本までしか飲ませず、 肴も佃煮しかない。 江戸の居酒屋もこんな感じで、 酒屋が酒を売るだけでなく、店の座敷で客に飲ませたんです。 映画やテレビドラマで見るように、座敷にテーブルなどない。 あと、徳利がない。 徳利は貸し徳利と言って、量り売りの酒を入れてお客に渡し お客は飲みきって、また買いに来るときに返す。 そういやァ、ガキの頃、空の一升瓶を持って酒屋に行くと 酒屋のオヤジさんが、酒を樽から升についで、量って、 その瓶に詰めるんです。 きっと、おいしい酒だったろうなァー、 えーっと、燗徳利でなく、 チロリと言って、細長い土瓶の様な物で燗をしたんですな。 酒は、灘、伏見から舟でやって来た。 「富士見酒」と言って遠州灘を渡って来た酒が、作った時よりおいしくなっ たそうです。それはなぜかと申しますと、 えーッ、 お酒は、生ものですから、腐ります。
2010.07.25
コメント(0)
寿司屋ののれんをくぐるなり、 「いらっしゃぃー」とか「らっしゃいーぃ」のだみ声の合唱。 威勢がいいっての? なかには、がなり立ててるんだけみたいな声も聞く。 私ねー、これってこう聞こえる。 「よっ、来たかぁ、早く食ってけーれよー!」 でっかい湯飲みを、目の前にどかんと置かれて、 さー、食いねー!って、結構せわしない。 だから、私はカウンターに座るなり、 職人の目と合った瞬間、 「トロ、イカ、エビ」と連発する。 前に置かれた下駄みたいなのに、それぞれが並ぶと同時に、 「ウニ、穴子、鉄火」 飲み込むようにして、それらを終わらせると、 口をもぐもぐさせながら、 「お勘定!」 お店が空いていりゃ、10分で店を出る。 日本橋には、有名な寿司屋が多いが、 上の下の店で、「トロ、イカ、エビ、ウニ、穴子、鉄火」の八木スペシャ ルコースで、3000円ではちょっと足らない。 それぞれ、2貫(カン)づつ出てくるから、10個と1本(鉄火はのり巻 き)。これ以上は、お腹が張って、財布も傷むし、この程度が一番良い。 うちの近所に、超高いお寿司屋が2軒あって、どちらもトロが3000円 ~5000円。 おっと、1貫3000円だから、2貫1セットで勘定は6000円だ。 その2軒のうちの1軒の旦那が、 「マスターなら安くするから、食べにおいでよ」と道で会うたびに誘われ るが、ちょと、引いちゃいますー。 だって、もったいなくて翌日からトイレに行けなくなる。 これ、健康に良くない。 さて、寿司の食べる順番ってあるのか? 日本橋にある老舗の寿司屋の若旦那(まーちゃん)に聞いた。 まーちゃん:光り物からはじめて、卵で終わるとか。 マスター :それが公式な順番? まーちゃん:いや、たとえ話で、それが流儀だってお客もいるけどさー、 順番なんてないっすよー。 マスター :何でも良いの? まーちゃん:マグロしか注文しない人もいるし。
2010.07.25
コメント(0)
「お待たせー!」 って言ったら、「誰も待っちゃいねーよ」 と、口の悪い、この界隈の江戸っ子は言い返しそうだ。 なにせ、ヤギ薬局は、江戸の真っ直中、由緒(?)ある場所に位置する。 江戸時代の町名からすると、槇町(まきちょう)、檜物町(ひものちょう)と 呼ばれたあたり。 日本橋は、路地の町でもあるから、歳格好からするとちょいとませた悪ガ キが、そこいら中を走り回っていたに違いない。 泉鏡花の小説「日本橋」を読むと、そう言う情景が描かれている。 日本橋の袂に、魚河岸(現在、築地に移転)があった近所には、寿司や天 ぷら屋の屋台が多くあったそうだ。 古くからあった押し寿司(元祖は馴(な)れずし)に代わり、江戸前寿司が 世に出たのは、文化文政の頃だから、未だ200年しか経っていない。 江戸前寿司(東京湾でとれる魚を使ったにぎり寿司)を有名にしたのは、 花屋與兵衛(はなやよへい)だ。くれぐれも、ファミレスのとは無関係で あることを覚えておいてください。 花屋與兵衛は、福井藩の下級武家の生まれで、色々な商売を経て、江戸前 寿司を発明したと言われている。(寿司の考案者は諸説ありますが、今回 はそれらの紹介は控えます) 当時は、歓楽地として栄えていた両国橋付近で、屋台から始めて、回向院 (現、墨田区両国2丁目)の前に出した店が大当たりで、高級料理の「與 兵衛ずし」として一世を風靡した。 しかも、そのお店は、昭和初期まで続いたと言うから驚きだ。 江戸っ子の寿司好きに支えられた事がうかがえる。 まずは、江戸前寿司の始まりをお話ししましたが、ご存じの通り、江戸前 とは東京湾そのものを示し、そこでとれた魚を料理したわけだ。 今じゃ、東京湾も工場群に囲まれて、漁業には縁遠い土地になってしまっ たが、それでも、「羽田の穴子」など名産と呼んで良い魚もある。
2010.07.25
コメント(0)
この記事は(2004年02月05日)に書いたものです。 吾妻橋と言えば、東武浅草駅と 松屋デパートがあるビルがございまして、 そのビルの玄関口の先から、向こう河岸に渡るんですな。 渡りきるってーっと、 金色の、ありゃなんですか?雲らしいンですがね。 その金の雲がてっぺんについた建物がアサヒビールの本社ビル。 その雲の下は、レストランになっておりまして、 先(せん)に、オフ会をやった事がございます。 隅田川で最初に架けられたのは、千住大橋でして、文禄三年(1594)。 二番目の橋は、明暦の大火の復興計画の一部として、大橋が架けられた。 寛文元年(1661)のことで、 名前は、元禄六年(1693)に新大橋ができて後、 両国橋と変えられました。 続いて、 永代橋が元禄十一年(1698)だから、赤穂浪士も、討ち入り後、 隅田川を永代橋経由で渡って来られたわけですな。 そして、吾妻橋の前身の大川橋は、安永三年(1774)。 大川橋は、幕府が架けた橋でなく、民間によって作られ、 その費用の回収は、橋銭(はしせん)によってまかなう予定だったが、 なにせ、木造だから老巧化がはやいし、出水や流木で流されたり、 壊れたりした事がしばしば起こり、結局は赤字ってありさまでした。 髪を振り乱し、橋のたもとまで走ってきた女が、 一文投げて通りすぎようとするので、橋番があわてて、 「おいおい、お女中。橋の渡り賃は二文だよ」
2010.07.25
コメント(0)
この記事は、(2003年 11月18日)に書いたものです。日本橋一丁目再開発ビル 日本橋一丁目再開発ビルと言われても、ピンとこない。 「ああ、東急百貨店の跡地か」と、しばらくしてわかった。 アメリカの大手証券会社がメインテナントで、 平成16年3月に竣工予定だ。 大学の社会人向け分校もそのビルに入ると聞く。今現在、ビル名を「これど日本橋として完成しています。。 東急百貨店日本橋店が、白木屋百貨店を引き継いだのが昭和31年。 地下鉄日本橋駅(銀座線と東西線)に直結している食料品売り場だけは、 日本橋の住人やお勤めの人には、大変評判が良かった。 老舗の出店も多く、良いものが安く買えた。 こう言っちゃなんだが、三越や高島屋ほど混まない店なので、長男が小さ い頃、よく屋上に行って遊ばしたものだ。 中央通りに並ぶ他のデパートに比べると、やはり時代に取り残された感じ を、私は持っていた。 でも、白木屋は、明治19年にいち早く洋服部を作り、「白木屋仕込み」 として当時流行の最先端を行っていた。 そんな時代もあったのだが、平成11年1月にその長い歴史を閉じた。 そもそも、白木屋は、長浜(滋賀県)出身の大村彦太郎が京都で材木商と して成功した後、寛文2年(1662)に、今建設中の、日本橋一丁目再 開発ビルの一角で創業。 元が材木商なので、「白木」とあるのも、なるほどと納得。 延宝元年(1673)創業の三井越後屋と、日本橋の北と南で、大店の呉 服屋として競い合った。 当時、白木屋の奉公人は、すべて11~12歳の少年を京都で採用し、一 人前の商人として教育された。 最初は、子供(こども)と呼ばれて、使い走りや店内の雑用をし、夜は習 字、そろばんなどの稽古をするのだが、 修行はなかなか辛いもので、毎年十数人入店するうち、三分の一は子供の 段階で脱落したそうだ。 しかし、修行を積み、若衆、手代と、勤め上げて後、一軒店を持たせても らう。 白木屋も、19世紀初頭になると、奉公人の数が200人にも及ぶ。 全部、男! 飯炊き、洗濯まで全員男! 店内に女性の奉公人は一人もおらず、えらく殺風景な感じだが、当時の江 戸店(えどだな=江戸支店)では、これが普通だった。 確かに三井越後屋も、出店である江戸では、リクルート活動はしなかった。 理由の一つに、軟らかい口調の京言葉が、客に人気があったとも聞く。 そんな事情で、店を持つまで、店内に住んでいたわけで、所帯を持つのが ずいぶん遅くなる。 江戸の人口は、女性に対して、極端に男性が多かった原因は、ここにもあ った。 時代別男女比は、 享保18年(1733)、男性 100 : 女性 57.6 人 弘化 元年(1844)、男性 100 : 女性 90 人 慶応 3年(1867)、男性 100 : 女性 99.5 人 この数字から見ても、江戸の女性は、大事にされたそうだ。 ─ 参考文献「雑学・大江戸庶民事情」石川英輔、講談社文庫 ─
2010.07.25
コメント(0)
の記事は(2004年04月27日)にかいたものです。 インターネットのニュースで、亀戸天神の藤が、(2004年)4月24日ごろが盛りだ ろうと言うのを見て、25日の日曜日には必ず見ておこう心に決めていま した。 25日は午後5時まで、メーカーさんの新製品の説明会があったので、 その前に亀戸に行こうと思いましたが、前日の深酒がたたって果たせませ んでした。(>_
2010.07.25
コメント(0)
インターネットのニュースで、亀戸天神の藤が、(2004年)4月24日ごろが盛りだ ろうと言うのを見て、25日の日曜日には必ず見ておこう心に決めていま した。 25日は午後5時まで、メーカーさんの新製品の説明会があったので、 その前に亀戸に行こうと思いましたが、前日の深酒がたたって果たせませ んでした。(>_
2010.07.25
コメント(0)
ひの、ふの、みー!いま、なんどきだい? 江戸っ子は、今わの際にこう言ったそうだ。 「ああ、そばに汁(つゆ)をたっぷりつけて食べてみたかった」 ざるに盛ったそばを、箸ですくい上げ、 その垂れたそばの端をちょっと汁にしたして、 つるつるーっと、口に吸い込むように食べるのが 粋なそばの食べ方らしい。 「そば粉の香りと出汁の香りを同時に楽しめる」からと、 ヤギ薬局の隣にあるそば屋の女将さんが話してくれた。 なにせ、私は江戸っ子じゃないんで、 どっぶりとそばを汁に浸してから口に運ぶ。 香りと言われても、土瓶蒸しの松茸の香りに同じく、 私は、匂いに敏感な方だが、楽しむまでの「香り」を感じない。 汁をいっぱいつけなきゃ、食べた気がしないのだ。 こういった、そばの講釈とは裏腹に、 どうやら、昔のそばつゆは、生醤油に近く、 とても、そばに汁をいっぱいつけていたら、辛くて食べられなかったと言 う話も聞く。 そもそも、そばがメニューとして歴史に登場したのは、 寛文4年(1664)、吉原の江戸町二丁目の麺類屋仁左衛門が、一杯ず つ盛り切りにした「けんどんそば」が早い例とされている。 一般化したのは、寛延(1748~51)以降と言われるから、元禄15 年(1702)に起きた赤穂浪士の討ち入の前に、そば屋で気勢を上げた などという話は、後生の作り事だ。 「おやじ、そばを一杯くんな」と、声を掛けるのは、細長い戸棚を二つつ ないで担ぐ夜鷹(よたか)そばだ。 「ひの、ふの、みー!いま、なんどきだい?」と、落語の「時蕎麦」に出 てくるそば屋がこれで、二八そばとも言う。 こういう、担いで待ちを売り歩く商売を「振り売り」と呼んだ。 万治二年(1659)に幕府が許可した江戸の振り売り49種のうち、 食べ物関係は、南蛮菓子、春米(つきまい)、麹(こうじ)、油、かつお ぶし、串海鼠(くしなまこ)、串鮑(くしあわび)、鮭之塩引(さけのし おびき)、煎茶、肴(さかな)、時々のなり物菓子、塩、味噌、醤油、豆 腐蒟蒻(とうふこんにゃく)、ところてん、もちなど。 まぁ、これらに限らず、物売りが路地まで入り込んで商売していたので、 わざわざスーパーまで出かけなくても、家にいれば、回転寿司さながら用 が足りただろう。 そういや、今の日本橋・八重洲にも、魚屋さんや、八百屋さんが曜日を決 めて売りに来る。 棒で担がず、トラックだから、ハンドル売りとでもしておこう。 話はそばに戻って、 じゃ、その夜鷹そばにしても、火が必要なのだが、 さて、何を使ったのか、次回のお楽しみです。
2010.07.25
コメント(0)
江戸雑学草子」を書き始めて、えらく筆(?)が遅くなった。 多いときには10冊ぐらいの本をパソコンの周りに置いてタイプする。 ついついそれらの本を読み込んでしまう。 だから、書き始めるのがおっくうになる。 読者より、作者が楽しんでいる訳だから、本当にお付き合いいただきあり がとう存じます。 さて、八重洲1丁目7番地に「矢満登(やまと)」という料亭がある。 明治から3代続いた老舗だ。 こちらの旦那は、日本橋六の部の連合町会々長さんで、その息子さんとは 仲良くさせていただいている。 彼は、若旦那で調理師だから、料理の研究も怠らない。 かれは、池上正太郎の鬼平犯科帳のファンで、本は全編読破し、テレビシ リーズもすべて見ている。 「鬼平犯科帳」で、何が彼の興味を引くかというと、各エピソードに必ず 出てくる料理の場面だそうだ。 その中で、彼が一番好きなのが「小エビと三つ葉のかき揚げ」。 といっても、その原文がどこにあったかまでは覚えていないらしく、それ に似た料理の話を、「池波正太郎のそうざい料理帖」平凡社に見つけた。 でも、小エビでなくて貝柱。 「小柱(貝柱)も三つ葉も火の通りが早いので、衣に火が通った時が揚げ あががりで、くれぐれも揚げ過ぎないように」と、注釈がある。 さくさくと、歯触りの良さを楽しめそうだ。 「天つゆか塩で食する」とあり、私はおいしい「最新の塩」で食べたい。 ところで、てんぷらは油ものだし、ダイエットによくないという人がいる。 そんな、事はない。 昨日揚げた残りもののてんぷらは避けたいが、揚がりたてだと、油も新鮮 だから、脂肪も体内でよく代謝される。 水や出汁の変わりに油を使うのがてんぷらで、単に調理方法の一つと考え てほしい。 江戸は、上水道は発達してはいたが、遠い羽村から玉川上水で水を引いて くるわけで、おいしい水は望めない。 そこで、調理方法としての天ぷらが流行った。 屋台の天ぷら屋で竹串に刺した具を衣にからませ、さっと揚げたものを、 店先で食べる。 それこそ、小エビ、小魚、野菜を揚げて、ふーふーしながら食べたであろ う。 具の味がしみこんだ衣を想像すると、口の中がつばで一杯になる。 おっと、鬼平犯科帳から、ずいぶん道がそれたが、鬼平犯科帳のテレビシ リーズで料理の監修をした人がいる。 銀座の「てんぷら近藤」の旦那、近藤文夫さん。 原作者、池波正太郎さんとじっこんで、神田駿河台の山の上ホテルで修行 したそうだ。 山の上ホテルは、出身校のキャンパスに隣接していたから、よくカレーラ イスを食べに行った。 そう言えば、てんぷらコーナーがあった様な? しかも、てんぷら近藤の旦那の顔も見覚えがあるような? 江戸の天ぷら屋は、火と油を使うので、必ず屋台店だった。 店構えの天ぷら屋も、店の前に屋台を出して、てんぷらを揚げた。 そば屋のように「振り売り」ではない。 さて、次号は「振り売り」について書きます。 って事は、そばのお話でござーいぃ。
2010.07.25
コメント(0)
鬼平犯科帳 その中で、彼が一番好きなのが「小エビと三つ葉のかき揚げ」。 といっても、その原文がどこにあったかまでは覚えていないらしく、それ に似た料理の話を、「池波正太郎のそうざい料理帖」平凡社に見つけた。 でも、小エビでなくて貝柱。 「小柱(貝柱)も三つ葉も火の通りが早いので、衣に火が通った時が揚げ あががりで、くれぐれも揚げ過ぎないように」と、注釈がある。 さくさくと、歯触りの良さを楽しめそうだ。 「天つゆか塩で食する」とあり、私はおいしい「最新の塩」で食べたい。 ところで、てんぷらは油ものだし、ダイエットによくないという人がいる。 そんな、事はない。 昨日揚げた残りもののてんぷらは避けたいが、揚がりたてだと、油も新鮮 だから、脂肪も体内でよく代謝される。 水や出汁の変わりに油を使うのがてんぷらで、単に調理方法の一つと考え てほしい。 江戸は、上水道は発達してはいたが、遠い羽村から玉川上水で水を引いて くるわけで、おいしい水は望めない。 そこで、調理方法としての天ぷらが流行った。 屋台の天ぷら屋で竹串に刺した具を衣にからませ、さっと揚げたものを、 店先で食べる。 それこそ、小エビ、小魚、野菜を揚げて、ふーふーしながら食べたであろ う。 具の味がしみこんだ衣を想像すると、口の中がつばで一杯になる。 おっと、鬼平犯科帳から、ずいぶん道がそれたが、鬼平犯科帳のテレビシ リーズで料理の監修をした人がいる。 銀座の「てんぷら近藤」の旦那、近藤文夫さん。 原作者、池波正太郎さんとじっこんで、神田駿河台の山の上ホテルで修行 したそうだ。 山の上ホテルは、出身校のキャンパスに隣接していたから、よくカレーラ イスを食べに行った。 そう言えば、てんぷらコーナーがあった様な? しかも、てんぷら近藤の旦那の顔も見覚えがあるような? 江戸の天ぷら屋は、火と油を使うので、必ず屋台店だった。 店構えの天ぷら屋も、店の前に屋台を出して、てんぷらを揚げた。 そば屋のように「振り売り」ではない。
2010.07.24
コメント(0)
「江戸っ子」と言う言葉がはじめて世に出たのは、 江戸開府から150年ほど経った、明和8年(1771)に 江戸っ子の わらじをはく らんがしさ (らんがしい=騒がしい) と言う川柳がでたのが最初といわれている。 このころになると、江戸の町も大きくなり、 代を重ねるお家もあり、 また、近郷近在のみならず全国から流入者も増えた。 天保14年(1843)の調査では、他所出身者は 町方人口の、29.8%だったそうで、 つまり、3人に一人は、地方出身者で、 江戸の中心地ほどその割合は高かった。 そう言う中で、自分達のアイデンティティーを明確にするため 「江戸っ子」という言葉が、当然として生まれた。 江戸町人研究者、西山松之助著「江戸っ子」によると、 江戸っ子の条件は、 1)江戸城の鯱(しちほこ)を見て、水道の水で洗いあげる。 江戸城の近くで生まれて、江戸のステータスであった上水を日々利 用する。 2)金ばなれがよい。 金ばなれがよいが、けっして下品に浪費しない。 3)乳母(おんば)日傘(からかさ)での高級な育ち。 上品で育ちがよく。 4)江戸生粋のはえぬき。 先祖代々江戸に住み。 5)「いき」と「はり」を本領とする。 「いき」を心得ている。 私は、神戸生まれだから、江戸っ子じゃないんで、むしろ気楽ですが、 えらく、条件が厳しいですね。
2010.07.24
コメント(0)
1871年3月、パリで起きた民衆蜂起は、政府をパリ市内からベルサイ ユに追い払い、「パリコミューン」という自治政府まで作ってしまった。 それより84年前に起きた、江戸での民衆の蜂起は、いかにも江戸的な パリに比べると異質なものだったようですな。 その民衆の蜂起とは、「打ちこわし」とよばれ、天明のものが一番大がか りなものでしたが、それより五十年前の享保十八年(1733)にも起き、 民衆の幕府にたいする米価政策批判という性格のものだったようです。 当時の町奉行は、あの大岡越前守であり、彼とて米価引き下げ策をなにも 打ち出せなかったのですよ。(大岡政談って作り話ですしね) 「打ちこわし」と呼んだのにはわけがありますので、 まずは、「天明の打ちこわし」のドキュメンタリーをお送りします。 天明七年(1787)年、五月二十日と言いますから、ちょうど今頃です。 天明三年の大飢饉の影響で、米の価格は急騰しつづけ、江戸の下層市民は 米を口にする事すらできなく、川の土手の草まで食べたと申します。 米の絶対量が少ない上に、米商人が相場の上昇を期待して、売り惜しみを していたことも事実だそうです。 もうこのままだと、餓死してしまうという危機感を、市民が持ち始め、 それが五月二十日の夜に爆発してしまったのです。 深川六間堀町の裏長屋に住む、桃燈張(ちょうちんはり)職人の彦四郎ほ か七人が、米商に掛け合って施米(せまい=僧やまずしい人に米をほどこ し与えること)を頼みにいこう、そして断られたら打ちこわしをかけよう と相談しておりました。 その夜、彼らは、深川森下町に手広く米・乾物類を商っていた伝次郎の門 をたたき、施米を要求したのです。 ところが、出てきた手代は 「あいにく、主人は留守にしており明朝までまっていただきたい」と、 もうしたところ、 かねての手はずどおり八人の者がいっせいに家の中に踏みこみ、 建具や家具をさんざんに打ち壊して引き揚げた。 ただし、この時、一粒・一品たりとも盗みはしなかった。 打ちこわしただけだから、打ちこわしとわざわざ呼んだのです。 深川とほぼ同時期に、本所、赤坂、四谷、青山でも 打ちこわしが起きました。 以後二十四日ごろにいたるまで、昼夜の別なく 「南は品川、北は千住、凡(およ)そ御府内四里四方の内」 余すところなく、米屋はもちろん、 富商の家々も次々に打ちこわされました。 打ちこわされたのは、米屋だけでも九百八十軒におよんだそうです。 また打ちこわしの参加者数は、じつに「二十四組五千人ほど」 という大規模な騒動でした。 確かに郎党を組んで狼藉はしても、極めて礼儀正しいものだったそうで、 盗みはしないし、怪我もさせない。 しかも、途中で休息を取るほど、 落ち着いた統率の取れた集団だったそうです。 これは、その参加者が、ほぼ同じ町内の人で、 しかも打ちこわした先も同町内のお店だったからでしょう。 また、町奉行も騒動に手を持つけられない有り様で、 これがきっかけで、下層民無視の、富商との賄賂政治を行った田沼意次政 権が崩壊したわけです。 打ちこわしは、いわゆる民衆のデモンストレーションであったわけで、 それに対して、幕府は大手門外の四日市に救済小屋を設け、 七歳以上の困窮民一人につき玄米二合五勺、豆二合五勺、銀三匁二分ずつ 与えました。 と、同時に御先手十組の市中巡察が始まり、翌二十五日には人心もやや落 ち着きをとりもどし、商家も店を開くようになりました。 打ちこわしの逮捕者で、死罪や遠島に処せられた者はいません。 参加者の罪は軽く、一番重いもので「重敲(じゅうたたき)の上重追放」 でした。 その判決理由は「御府内と申、公儀を恐れざる仕方不届」と将軍のお膝元 の江戸で蜂起した事を強調しています。 あっ、そうそう。この時、鬼平こと長谷川平蔵が、先手組の組頭の一人と して華々しくデビューしました。 もちろん、長谷川平蔵ほどの人をかり出さずとも、 「まぁ、大げさな事」との批判も多くあったようです。 「パリコミューン」は、1週間にわたる市街戦ののち、 2万人以上の死者をだして崩壊しましたから、 つくづく、あちらの方は戦争がお好きだなと思います。 ああ、江戸が、日本が、のほほんとしてよろしゅうございます。
2010.07.24
コメント(0)
寿司屋ののれんをくぐるなり、 「いらっしゃぃー」とか「らっしゃいーぃ」のだみ声の合唱。 威勢がいいっての? なかには、がなり立ててるんだけみたいな声も聞く。 私ねー、これってこう聞こえる。 「よっ、来たかぁ、早く食ってけーれよー!」 でっかい湯飲みを、目の前にどかんと置かれて、 さー、食いねー!って、結構せわしない。 だから、私はカウンターに座るなり、 職人の目と合った瞬間、 「トロ、イカ、エビ」と連発する。 前に置かれた下駄みたいなのに、それぞれが並ぶと同時に、 「ウニ、穴子、鉄火」 飲み込むようにして、それらを終わらせると、 口をもぐもぐさせながら、 「お勘定!」 お店が空いていりゃ、10分で店を出る。 日本橋には、有名な寿司屋が多いが、 上の下の店で、「トロ、イカ、エビ、ウニ、穴子、鉄火」の八木スペシャ ルコースで、3000円ではちょっと足らない。 それぞれ、2貫(カン)づつ出てくるから、10個と1本(鉄火はのり巻 き)。これ以上は、お腹が張って、財布も傷むし、この程度が一番良い。 うちの近所に、超高いお寿司屋が2軒あって、どちらもトロが3000円 ~5000円。 おっと、1貫3000円だから、2貫1セットで勘定は6000円だ。 その2軒のうちの1軒の旦那が、 「マスターなら安くするから、食べにおいでよ」と道で会うたびに誘われ るが、ちょと、引いちゃいますー。 だって、もったいなくて翌日からトイレに行けなくなる。 これ、健康に良くない。 さて、寿司の食べる順番ってあるのか? 日本橋にある老舗の寿司屋の若旦那(まーちゃん)に聞いた。 まーちゃん:光り物からはじめて、卵で終わるとか。 マスター :それが公式な順番? まーちゃん:いや、たとえ話で、それが流儀だってお客もいるけどさー、 順番なんてないっすよー。 マスター :何でも良いの? まーちゃん:マグロしか注文しない人もいるし。 マスター :頼むたんびに「マグロ」「マグロ」って? まーちゃん:ん!好きなもの頼めば良いんです。 なるほど、好きなものをたらふく食ってもらいたいのが、寿司職人の心情 なのだ。 また、箸で食べようが、手でつまもうが、特にマナーはない。 とは言え、寿司屋として、これはやってもらいたくない事を語ってもらっ た。 まーちゃん:あのさー、寿司ネタをご飯からはがして食べる人ー。 これだけは止めてほしい。 マスター :どうして?寿司にマナーはないんだろ? まーちゃん:ただ、握りめしを作ってるんじゃないんだって。 ネタのうまさを舎利(しゃり)になじませてんの! それをはがされちゃ、がっかり。
2010.07.24
コメント(0)
01月26日に還暦を向かえました。何かと、ボケが気になる歳です。でも、...池谷祐二さんの本「脳はなにかと言い訳する」によりますと、... 脳は、使えば、使うほど良くなり また、歳と共に減少すると言われたニューロン(神経細胞)は 増殖しうると、聞いて自信を取り戻しております。(笑)アルツハイマー病の研究は、ずいぶんと進んでおりますが現在、決定的な治療法が確立していません。「脳はなにかと言い訳する」(池谷祐二) に、アルツハイマー病の説明がありますのでそれを引用してアルツハイマー病の治療の可能性について書いてみます。認知症の半分は、アルツハイマーだと言われているそうです。いや、90%はそうだと言う研究者もいます。しかし、その原因は、ほぼ間違いなく「βアミロイド」と呼ばれている物質だそうです。このβアミロイドは、強い毒性を持ち脳の神経細胞を殺してしまいます。これは、40歳ぐらいから脳にたまり、徐々に増えて、70~80と歳を重ねて後、アルツハイマー病を発症させると考えられています。今日、βアミロイドを発生させる病原遺伝子は、特定されています。その病原遺伝子をマウスに組み入れるとそのマウスは、生後1年ちょっとで、βアミロイドが増え認知症を発症し脳は、アルツハイマー病患者の様に、変形してしまいます。 *これを、アルツハイマー病マウスと呼びますところで、脳の構成成分の50%は、脂肪です。先ほどのアルツハイマー病マウスの脳では、「ドコサヘキサエン酸(DHA)」という 脂肪が減っていることをカルフォルニア大学ロスアンジェルス校のコール博士が、2004年9月の「ニューロン誌」で発表しました。DHAを多く含んだ食事をすることによって脳の変性や、記憶力低下の予防になるか今後の研究に、期待ができます。また、アルツハイマー病マウスを回転車やトンネルなど、まるで遊園地みたいな檻で飼育させた人がいます。シカゴ大学のシソディア博士がその人です。博士の2005年3月発行の「セル誌」に遊園地のような檻で飼育したアルツハイマーマウスのβアミロイドの量が、70%も減ったそうです。さらにくわしく調べると、豊かな環境で育ったマウスの脳では、βアミロイドを分解する酵素が増えていました。アルツハイマーの予防や、進行を遅くするためお年寄りに、踊り、カラオケ、ゲームが良いと経験的に言われて来ましたがそれらが有効だと証明されたんですね。どうやらアルツハイマーの治療法が確立するまで、そう長い時間はかからないかも知れませんね。でも、私が、70歳になるまで、何とかして欲しいですわ。(汗)【参考図書】池谷祐二
2007.02.26
コメント(0)
花粉症は、免疫反応が過敏だから起きると言われています。自律神経のうち副交感神経に片よりがちの人は副交感神経が免疫を支配しているので免疫機能も威勢がいい。反対の交感神経の働きが鈍りがちだといえますね。その交感神経を、強くする一つの方法があります。お風呂で暖まりよねー。すると、自律神経は、副交感神経よりに傾きます。で、...お風呂から出るとき、冷たい水を体にかけます。冷たいシャワーでもOK!このとき、交感神経が目を覚ますがごとく急に活発になります。こうして訓練すると、交感神経と副交感神経のバランスがだんだん良くなります。すると、多少の花粉が飛んできても副交感神経は活発にならず免疫反応も過敏にならず、... 花粉症も楽になります。 ★毎日、別府温泉が楽しめる!【参考図書】安保徹
2007.02.20
コメント(0)
花粉症も「花粉」という言葉を聞いたり見たりしただけで発症するという話を、こちらでしました。そこでよく「病は気から」と申します。「この言葉の出典はどこだろう」と、ことわざ辞典で調べたのですがわからない。でもそこに斎藤茂太さんの一文を見つけました。 いかなる病気でも 多かれ少なかれ心と身体の両方に関連 があるものである。 ~茂太流元気術~どうやら、茂太さんよりずーっと前に、この事を指摘した人がいます。コーネル大学医学部のラッセル・L・セシル博士は世界的な関節炎の権威で、リュウマチや関節炎をもたらす四つの原因を指摘しています。 一、結婚生活の失敗 二、経済的障害と悲嘆 三、孤独と苦悩 四、長期間のうらみこの話は、デール・カーネギー「道は開ける」の中に書いてあります。この本が出版されたのが、1940年ごろですから、70年ほど前に、しかも西洋医学の本拠地の一つアメリカで、悩みが病気の原因だと語られていたんです。「悩みが病気の原因」とか「病は気から」 などとは、てっきり東洋医学の専売特許 だと思っていましたが、実は、世界的な考えなんですね。数人のリュウマチで悩む方からの相談も例外なく、症状がでる前に、精神的ダメージの大きい経験をしたそうです。この、ラッセル・L・セシル博士の記述から少し「道は開ける」のページを読みすすみますと甲状腺を専門に37年間診てきたフィラデルフィアのイズラエル・ブラム博士の待合室にかかっていた額の話があります。その額には、 ~ リラックスと娯楽 ~ 緊張を緩め、鋭気を蘇らせるものは 健全な宗教、睡眠、音楽、笑いである。 神を信頼せよ、よく眠れ。 良い音楽を愛せよ。人生のおどけた面に目をむけよ。 そうすれば、健康と幸福が得られる。と書いており、ブラム博士の診察を受けるにあたりプラム博士の最初の質問は「こんな状態になるとは、どんな悩みがあったのですか?」だったそうです。また、 腰痛は「怒り」と「イライラ」が原因で 腰痛でなやむ、98%の人が、怒りの気持ちをなくすと 痛みが取れる...と、著書「究極の損得勘定」に書いたのは、小林正観さん。 怒りをしづめるには、気持ちを「緩ます」 つまり、語源が同じでもある「許す」ことが大事と 正観さんは言っております。斎藤一人さんは、 自分で解決出来ないから悩む。 でも、去年の悩みを覚えている人 は、ほとんどいない。と、悩みは、忘れてしまうほどの事と言ってます。もし、痛みなど、身体の調子が狂ったら自分の心の中に、 悩みや怒りが、あるかも知れません。口からでるのは 不平不満、愚痴、泣き言、悪口や文句です。そんな時 うれしい、楽しい、幸せ、大好き、愛してる ありがとう、ついてるなど、肯定的な言葉を発するだけで痛みが取れ、身体が楽になります。ぜひ、ご自分の身体で試してみてください。 ★水の分子を小さく(クラスター化)して、美味しく、体に良い水を作ります。【参考文献】デール・カーネギー
2007.02.20
コメント(0)
安保徹さんの「免疫学宣言」に書いてある話ですが... 猫アレルギーの人に目隠しをして 「あっ、猫がきたぁー」というと その人の鼻から、鼻水が出てくるんです。もう、こうなったら「気」の問題です。安保先生は「気の世界」とおっしゃってますがね。自律神経は、気持ちや気分に左右されるから猫がきたと思っただけで自律神経の副交感神経が働きだしてアレルギー反応をおこします。だから、気功が良いとかまた、ガンの人が笑うと良いと言われ刺絡療法が効くんですね。そう言う意味じゃ、テレビで花粉症の薬の宣伝をしていますがそれを見て、鼻をむずむずする人はきっと、いますね。えっ、私は、アレルギーはないはずです。ただし、女性の前に出ると心臓の鼓動が激しくなって顔が赤くなるんですーぅ...これは、アレルギーでしょうかね。(笑) ★シューっとやると、浮遊している花粉が床に落ちるんです。【参考文献】安保徹
2007.02.20
コメント(0)
小林正観さんの本を読んだかあちゃんがなんか「宗教みたい」と言いました。まっ、正観さんは、ご自身で「私は唯物論者で、宗教家ではない」と、言い切っていますから私は素直にそう信じています。でも、宗教みたいな影響力がある発言は彼の著書に随所に見られます。それがいやだと言う人は、それでよし。また、私の様に、全てじゃないが共鳴するところがあるというのもよいと思います。小林正観さんの「宇宙を味方にする方程式」致知出版社に、面白い記述発見っ!「花粉症の人には『完全主義者』という共通項がある」こりゃぁ、初耳です。完全主義者の話は聞いたことがあるが、それと花粉症とのつながるなんて話は、初めて。そして、正観さんが出会った花粉症の人が、ほとんど完全主義者だったと言うのが理由なんです。さて、あなたは、花粉症ですか??もしそうだったら、完全主義者ですか?小林正観さんは、...(本文から引用) 「私は、花粉症だけど、完全主義者じゃない。 何をやっても完全にできないし、ちゃんとできない。 いつも自己嫌悪で落ち込んでいる。私は完全主義者じゃありません」 と、叫ぶ人がいるでしょう。 このような人が、完全主義者なんです。つまり完全に出来る人じゃなく、完全にやらなくてはならないと思い込んでいる人が、完全主義者なんですね。でも、そう言った人が花粉症になりやすいなんて因果関係は、小林正観さんも、わかんない見たいですよ。ところで、かあちゃんは、花粉症。彼女は、完全主義者??うーーん、どうなのかなぁ??私が、彼女の思う理想的な亭主じゃないことに不満を持っているから完全主義者なのかも知れない。いい加減、私のことをあきらめて「あぁ、そう言うものなんだ」と、受け止めてくれれば、花粉症も治るのにねぇ。 ★07年02月21日10時00分~28日09時59分まで全品ポイント10倍!【参考文献】小林正観
2007.02.20
コメント(0)
まだ2月なのに、...暖冬のせいでしょうか花粉症の患者さんが増えてます。ところで花粉症だからと言って、なにも損な事ばかりじゃないです。花粉症の人は、リンパ球が多いリンパ球過剰体質でその反対の顆粒球が多い人に比べると、顆粒球が関与する組織障害が少なく長生きの体質だと言えます。長生きのお年寄りで、小さい頃に、からだが弱くてすぐに熱を出したという人が多いのは、このためです。でも、リンパ球が多い状態が続くとストレスを受けたり、大量の花粉やハウスダストなどの抗原を吸い込んで、アレルギー症状を起こしてしまいます。アレルギー発症時は、この様なリンパ球が多い人でも例外なく、顆粒球の数が増加しています。アレルギー症状が収まると、再びリンパ球が多い体質になります。ストレスや抗原から解放されようと、副交感神経反射が強く起きるのが、アレルギー症状の本質です。 *副交感神経反射とは、自律神経の交感神経が優位な 状態(顆粒球が多い状態)の時、自律神経のバランス をとるために、もう一方の自律神経である 副交感神経側に体を導くために起きます。たとえば、しもやけの場合、寒冷ストレスを受けてそれを解放するために、激しい発赤、発熱、かゆみや痛みの症状がでますが、この症状が副交感神経反射です。この時、冷やしたり薬を付けると、症状は治まりますが根本的に治しておらず、症状を乗り越えた時点で治癒されます。従って、(花粉症など)アレルギーの場合 1)ストレス(花粉の吸いすぎも含め)を解放する 2)リンパ球過剰体質を改善する事が、根本治療になります。リンパ球過剰体質は 1)過保護 2)甘いもののとりすぎ 3)運動不足 4)肥満 5)排気ガスの吸入 6)新建材からでる有機溶剤の吸入 7)農薬などの食品汚染によると考えられますので、生活環境や生活様式に工夫を加えると改善されます。まっ、2)と3)と4)は、自分でも実施できますね。まずは、甘いもの断ちでもこのシーズン中にやってみてはどうでしょう。ずいぶん違うと思います。 ★甘いのもの代わりに、ほんのり甘い甜茶【参考資料】安保徹
2007.02.20
コメント(0)
東京のど真ん中で行われるマラソン。住まいと、仕事場の近くを往復するので、 「こりゃー、見なくっちゃ」と思っていたが雨が、昨晩から降り続きしかも、小雨というより、雨っ!ってありさまだからトップグループは、テレビ観戦となりました。トップのダニエル・ジェンガ選手に続いて佐藤智之選手がゴールインしたのがお昼前。お茶漬けを食べて、マラソン見物をかねて歩いて仕事場へ向かう。マラソン選手達は、銀座方面から新大橋通りを来て清洲橋通りとの交差点を左に曲がり浅草、浅草寺の雷門前まで行く。そして、また、戻って来るんですよ。画像の右手前方に高いビルが見えますか?そこが、明治座で、25キロ地点。午後2時半までに通過出来なかったらそれ以上前に行けなく、失格らしい。雨のせいで、ギャラリーは、まばら。でも、マラソン選手の大群が、広い通りを埋め尽くし、迫力満点。声援を送る人それに応える選手。これは、見ていて感動ものです。胸が熱くなりましたね。このマラソンは、毎年恒例になるんですよね。なって欲しい。車を遮断してマラソン選手が都大路をかけぬけるなんて、見ていて楽しい。
2007.02.18
コメント(0)
江戸時代の江戸に住んでいた庶民の話なんですがね。いわゆる江戸前寿司は、気の短い江戸っ子らしい食べ物で、江戸中期に江戸で生まれ瞬く間に全国にひろまったそうです。今のように、冷蔵庫やクール便などありませんから生の魚を刺身にして握ることはめったになかった。今でも、そうなんですがこはだやサバは酢でしめて穴子は煮てから寿司ネタとなります。そうそう、海老も生でだしませんよね。手で食べるか、箸で食べるかはルールがあったようです。寿司やガリは、職人が手でお客の目の前に置きますから、手で食べます。刺身など、箸を使って盛りつけからお客は箸で食べます。食べる順番は、なんの決まりはありません。巻物を先に食べてもよい。江戸前の巻物は、細くて食事と言うより、つまみです。にぎりにしても、これまたつまみ。出されたらすぐに食べる。そして、2~3種類食べたら、勘定をはらって「あばよっ」となる。江戸っ子は、食べ物屋じゃぁ長居はしない。食べ物にお金を払っているわけで寄席や芝居のように、席料を取らないからさっと食べて、さっと帰る。もし、それでもお腹が一杯にならなかったらもう一軒はしごをすればいい。これは、屋台店から始まった江戸の食文化だそうですよ。だから、寿司屋に行くと「らっしゃい」と大きな声で叫ばれるがありゃー、「早く食って、早く帰れ」っと事なんだな。長っ尻(ながっちり)は野暮でござんす。参考文献杉浦日向子
2007.02.13
コメント(0)
久しぶりに、斎藤一人さんの本を買いました。「お金儲けセラピー 」以前の著書やテープの言葉の総集編って感じですね。お言葉(笑)の中で、一番気に入ったもの「『あっ、それは簡単ですね』と思う人は成功する」なんでも「それは難しいですね」と言う人は、鼻っからやらないので成功すらしないって事なんですね。「お金儲けセラピー 」と一緒に買った「幸せセラピー」▼やはり、このお言葉、...(笑)「ツイてる」なにがあってもこうつぶやくんだ。
2007.02.12
コメント(0)
「のどが痛い」とヤギ薬局にご来店のお客さまに、こうアドバイスします。口で呼吸していませんか?鼻で呼吸すると、痛みはすぐに消えます。つまり、...口で呼吸すると、空気中にただよっている細菌、ウイルスが、直接口に入ってきます。すると、いわゆる「のどちんこ」は、白血球の砦になっているのでそこに常駐する白血球の各細胞は「それ来たっ!」と、敵に向かって行きます。白血球の細胞の一つ顆粒球は侵入して来た細菌を殺しますがその時、自分も死んでしまいます。相打ちですね。顆粒球は死ぬ時に大量の活性酸素を発生させるんです。この活性酸素は、のどの細胞を傷つけ炎症となります。顆粒球が、頑張りすぎるから炎症が起きのろのそれを抑えるには、口ではなく鼻で呼吸すればOK。すると、痛みは、ものの5分で消えてしまいます。鼻は、パイプ状になっていますのでフィルターの役目をして、細菌やウイルスが体内に入らない構造なんですよ。鼻がつまって、鼻で呼吸できない場合無理に鼻で呼吸しつづけると、スーッと鼻が通ります。これも、5分とかかりません。
2007.02.11
コメント(0)
こう、なんてーますか電車に乗って座ってますね。駅に停車して、冷たい冷気がさーっと入ってくる。すると、私は、くしゃみをします。隣の人がいぶかっげに、ちらっと私を見たりして、...。いやさ、私がくしゃみをしたのは冷気に触れたからなんです。冷気は、体にとって毒です。その毒を、有効的に、合理的に排除するためにくしゃみをしたんですわ。自然な免疫反応なんです。とっさに、副交感神経が働きいやなもの反射をおこさせたんですよ。ちゃーんと、ハンカチで口をおさえたんですがね。また、私の周りには、何億という細菌やウイルスがただよい数え切れない、菌やウイルスが体の中や表面に住み着いています。でも、元気でいれれるのは免疫のおかげ。ありがとうございます。
2007.02.10
コメント(0)
心臓、肺、胃、腸など、...その動きを人の意志で左右出来ませんね。これらは、自律神経が支配し全自動で制御されています。この自律神経には、交感神経と副交感神経の2種類あってそれぞれの働きは、異なります。交感神経は血管や筋肉を引き締めたりものを外に出さない働きがあります。その反対に、副交感神経は分泌や排泄の働きをします。副交感神経の一つの特徴として「いやなもの反射」があります。これは、いやなものつまり、体に害がある、腐った食べ物細菌、ウイルスや花粉が体に入ってきた時体の外にそれらを排泄しようとして起きます。・花粉が、入って来ると、くしゃみ・ウイルスが侵入すると咳・腐った食べ物を食べると下痢これらは、副交感神経が、外敵から体を守るために起こしている、いやなもの反射なんです。きたないものを見たり嫌いな人にいやなことを言われたりすると悪寒を感じたり、吐き気をもようしたりする場合がありますね。この、悪寒も吐き気もいやなもの反射で副交感神経が起こしています。すっぱいものを、お好きですか?実は、すっぱいものは、酸化物質なので体にとって毒です。すっぱいものを食べると唾液が口の中一杯に、わき出るように分泌されます。これは、副交感神経が、体にとって毒のすっぱいものを、早くやり過ごして、排泄するために消化液をたくさん分泌します。また、胃や腸は、副交感神経の管理下に置かれていますから、胃や腸も、同じく早く出そうと活発に動き出します。すっぱいものの代表として、お酢があります。お酢を、コップ1杯飲むと多臓器不全を起こして死に至ります。それぐらい、毒性が強いのがお酢です。ところが毒が少量だと、大事に至りません。いやなもの反射が起きてもかえって、胃腸の動きが活発になります。お料理に、箸休めとしてほんの少しの「酢の物」が出るのは胃腸の働きを高めて、食欲を増す、智恵ですね。もう一つ、すっぱいものの代表に梅干があります。梅干一つあれば、どんぶり飯などぺろりと、食べられるのも、いやなもの反射をうまく利用しているからです。さて、梅干を、わざわざ焼いたのが焼梅です。梅干を焼くと梅独特のしょっぱさと、すっぱさがの中に甘みが生まれます。そして、焼梅を一かじりすると梅のしっかりした味が口いっぱいに広がり、 もう、やめられない止まらない~♪そこで、今、この焼梅を送料無料で購入できるチャーンス!【共同購入】甘酸っぱい!焼梅(12個入り)紀州南高梅100%梅干★送料無料 スタート価格: 660円 (税込693円) 送料込 あと1個で630円(税込661円)でーす。たかが梅干ですが されど、 食欲増進 便秘解消にお役に立ちます。
2007.02.08
コメント(0)
昨日は「こうすればボケる」と脳の話をすると今日も、このテーマに走りがちなのは、私の性格かしら?さて、今日は「ど忘れ」について。一階から、なにか取りに二階の部屋にいくが何しにきたか、忘れちゃうって事、ありますね。これが、ど忘れっ! まっ、トイレに入って、そんな「ど忘れ」は無いと、思いますけど。(笑)思い出すために、プライミングという手法を使うと思いだす確率が高まるそうです。つまり、この場合、一階までもどり、元いた状況に近い状態に自分を起きます。どうですか? 思い出しましたぁ。ど忘れは、いわゆる健忘症ですね。この健忘症は、痴呆症とちがい記憶は残っています。健やかに忘れているんです。ですから、ど忘れが多くても歳だからとあきらめないでください。ただ、今まで蓄積された情報があまりに多いので探している時間がかかっているだけです。すぐ思い出せる記憶からするとど忘れするものなんて、ずいぶん些細なことなので気にしない、気にしないっ!【参考資料】脳はなにかと言い訳する▼脳集中力が鈍った時に、良い漢方薬があります能活精
2007.02.04
コメント(0)
脳トレで有名な、川島隆太東北大学教授は以下のような、生活や習慣を続けるときっちり、呆けると、おっしゃっているそうです。1)メディアとの接触が多い *テレビ、ラジオ、ゲームや音楽を聴いている時間が多い2)マッサージ、エステを受ける事が多い3)パソコンの画面を見ている時間が長い4)人と会わない日が続く5)人と話さない日が続くこういう事をしていると血液が下がって、脳に血が巡らなくなるからだそうです。私は、3)が当てはまります。(汗)▼参考資料安保徹、船井幸雄共著ちなみに、▼脳に良い漢方薬があります!能活精
2007.02.03
コメント(0)
豊かな人とは与えるだけでなく心を広げて受け取ることも出来る人です。すなおに「ありがとう」と、言える人by 小林正観
2007.01.18
コメント(0)
疲れた時こそ、胸を張ろう! By 本田健【PR】疲れ、疲れて、もう、...な時に、これっ!
2007.01.17
コメント(0)
2007.01.17
コメント(0)
「(江戸検定)2級の最高点は95点で 77才の人だって」 と、かあちゃんが、新聞記事を読みながら オイラに話かけて来た。 そして 「ねーっ、パパは、何点」って聞きやがる。 「84点だよ」と答えると 「なーんだ」と、 かあちゃんは、オイラのことをバカにした。 77才で、95点だろ。 来年還暦のオイラが84点なら この差は、ちょうどいいじゃねーかー。 年の功ってやつでさぁ。 えーっと、コマーシャルです。 ■血液さーらさら! ●寝ている間に、コレステロールを分解してくれるらしい。 ◆>>> 廣禅顆粒(30本) 価格9,750円(税込、送料無料) *画像は、うちのま裏にあるポケモンセンター。今日も、新作キャラを買う、子供達の長蛇の列。
2006.12.30
コメント(0)
おみおつけを、江戸では御御御汁と漢字で書くぐらい有り難いもので具は2種類以上入れたんですな。豆腐と菜っ葉が標準。ところが、長屋には、竈(かまど)があるお家はまれで包丁やまな板も無い。出汁をとる習慣は、なかったが団子状にした出汁入り味噌が売ってました。 *なんか、今でもこんなのありますね。 上方では、ちゃんと出汁をとっていたそうだ。 竈がないから、七輪で、ご飯やおみおつけを煮炊きする。この七輪も、長屋のみんなで使い回し。豆腐は、豆腐屋にさいの目に切ってもらうか手で、ぐじゃぐじゃとつぶす。もちろん、菜っ葉も手でちぎる。こんなありさまだから、お総菜屋さんが繁盛しますな。そういや、うちは、今までおせちを家で作った事はないですね。近所の料理屋さんで、買ってました。暮れの31日のお昼に取りに行ってました。でも、この近所でおせちを販売する料理屋さんはもうありませんね。デパートやスーパー等で買う。今年も、マンションの一階のスーパーで頼んだようです。去年と違い、日本橋の弁当屋さんのやつらしい。ちょっと、楽しみ。では、コマーシャル ■正月太り対策! ●おせちの後に食物せんいのデザート。 ◆>>> ゼリージュースイサゴール(60本) 価格5,040円(税込、送料別) *画像は、高島屋のウインドウ(12月29日撮影)
2006.12.30
コメント(0)
全78件 (78件中 1-50件目)