全16件 (16件中 1-16件目)
1
ビデオは劣化するのだと聞き、DVDに録画したほうがいいなぁと思いつつ・・・あ、我が家には再生専用のDVDプレーヤーしかないんだと気づいたのですが・・・。ビデオラックの中から懐かしいものを見つけました。『BSフォーク大全集』10年程前自分でダビングしたものです。10本ほどあり、アトランダムに再生してみました。懐かし~~~~ぃ!!やっぱ、録画機能のあるDVDプレーヤーを買わなくちゃ!
2005.05.31
コメント(2)
レッサ-パンダに続いて、お手をするヤギなんかも現れましたね^^;暗いニュースが多い中、ほのぼのは好いものです・・・。久しぶりの雨・・・畑の野菜たちも喜んでいるでしょう・・・ヾ(*°▽°)ノあはは・・・。
2005.05.30
コメント(0)
僕のヤフー・ブログ『DONYA’S ROOM 3』 http://blogs.yahoo.co.jp/donya_hebi_ashi にもGIF動画を貼りましたが・・・二本足で歩く・・・という、ほのぼのニュースが各地から競うように入ってきます。過去にもカルガモの親子やらアザラシのタマちゃんなど、多くの動物たちが話題になっていますが、昔・・・僕が小学生くらいのことですから45年以上前のことなのですが、郷里・網走の地方紙『網走新聞』の一面トップに「流氷に乗ってペンギンがやって来た!」というような写真入の記事が載り、多くの市民が海岸まで見物に出掛けました。そこで目にした物は《エイプリルフール》の看板・・・そうです、その日は4月1日だったのです・・・ヾ(*°▽°)ノあはは・・・。まぁ、冷静に考えればペンギンは北極には居ないので・・・流氷に乗れるわけがないのですが・・・。まぁのんびりとした時代で、皆さん「やられた~!」という表情で家路に着いたとか・・・今だと抗議殺到かも・・・ね^^;
2005.05.29
コメント(1)
三社祭の余韻がおさまりました・・・・・^^;身体の痛みも含めて・・・( ̄ー ̄;Aアセアセ・・・・・。この次は6月の浅間神社の『輪くぐりさん』です。7月は沼津夏祭りの神輿パレード、8月は三島大社・・・と続きます。その合間に、あちこちからお誘いがあるのですが・・・神輿の季節の到来です^^;
2005.05.26
コメント(1)
22日、朝5時起きでホテルを出ました。同好会宮出しは大荒れだったようですが、本社神輿は出ました。10時過ぎにようやく『浅一三栄町会』さんの半纏をお借りして、本社神輿が廻ってくるまで(3時半の予定とか・・・)『浅一三栄町会』さんの神輿を担ぐことに・・・。町会神輿とはいえなかなか立派なものです。(解説)以前僕が担いだ頃と変わって、本社神輿は各町会でリレー式に担がれるようになったようです。そのため町内半纏がないと担げない訳です。『浅一三栄町会』といってもいくつかの組織に別れ、僕たちのような助っ人組みは中竿二本を担ぐということのようです・・・グループごとに鉢巻の色で区別できるようになっているようです。当然僕は自前の鉢巻ですから、孤軍奮闘しなければ触ることも出来ないかもしれません・・・ゞ( ̄∀ ̄)オイオイ・・・。時間が近づき『浅一三栄町会』さんの半纏を着た数百名の猛者たちがグループごとに分かれ本社神輿を待ちます。来ました!!なんと『一之宮』です。事前の話で僕は勝手に『三之宮』が来ると思い込んでいたのですが・・・なんと、鳳凰が乗っています。僕は過去3回の三社祭で『二之宮』と『三之宮』は担いでいますが『一之宮』担いだことが無かったのです。ラッキーでした^^;三本締めで神輿が『浅一三栄町会』さんに渡され我先にと神輿の竿の争奪戦です。引っ張り出され踏み潰される者もいます。僕は最初から担ぐことが出来ましたが、わずか10mほどで引きずり出されました。以前担いだ時と違い、神輿をどのように綺麗に上げるかよりもいかにして竿を取るか・・・という感じで神輿がまともに進みません。三社祭の神輿は、神輿のお手本のような物だったはずですが・・・( ̄ー ̄;Aアセアセ・・・・・。それでも僕はかなりの間担ぐことができました。次の神輿会に渡す為の収めの前もしっかり外竿を担いでいました・・・やばいので、収めた後はすぐに逃げましたが・・・ヾ(*°▽°)ノあはは・・・。でもまぁ、怪我も無く僕の三社祭は終わりました。写真は『浅一三栄町会』が担ぐ『一之宮』です。僕は写っていませんが・・・・・残念!
2005.05.24
コメント(2)
まるで遠足の日の小学生のようです・・・^^;4時半に目がさめちゃいました・・・ヾ(*°▽°)ノあはは・・・。しようがないので、起きちゃいました・・・いつもより早い散歩に陸君も戸惑っているようでした・・・。普段は持ち歩くことの無い神輿の衣装(股引・腹掛け・法被など)は、随分の荷物になるものです。いつもは締め込み(ふんどし)に腹巻という晒しだけに法被といういでたちなのですが、今回は角シャツに股引・腹掛けという正装にしようと思ったので・・・。ひとりで参加するので、自分の写真を撮ることはできないだろうと思いますが(カメラも持っていかないですし・・・)撮れたらいいなぁ・・・。どなたかに携帯を渡して撮ってもらおうかな・・・。まずは、行ってきます。写真は昨年の宮出し
2005.05.21
コメント(0)
いよいよ始まりました・・・《平成17年三社祭日程》 5月19日(木曜日)午後 7時00分 本社神輿神霊入れの儀 5月20日(金曜日)午後 1時00分 大行列 出発 西廻り(雨天中止) 編成: お囃子屋台・金棒・鳶頭木遣り・総代・各町役員・びんざさら舞 芸妓連の手古舞・組おどり・白鷺の舞・屋台 順路: 浅草組合前~柳通り~千束通り~ひさご通り~六区ブロードウェイ~雷門通り~雷門~仲見世~浅草神社 午後 2時20分 無形文化財びんざさら舞 浅草神社拝殿 奉納午後 3時00分 無形文化財びんざさら舞 神楽殿(雨天中止)奉納 5月21日(土曜日)午前10時00分 例大祭式典午後12時30分 氏子各町神輿連合渡御(観音本堂裏広場に勢揃い)午後 3時00分 奉納舞踊 神楽殿 浅草観光振袖学院 5月22日(日曜日)午前 6時00分 本社神輿宮出し 氏子各町渡御午後 3時00分 奉納舞踊 神楽殿 東京浅草組合午後 8時00分 本社神輿宮入り 心はすでに浅草にあります^^;衣装なども用意して準備万端・・・。《三社神輿について》 戦前、浅草神社には新旧7体の神輿があった。古いものの中には、徳川家光により寛永14年(1637年)建造寄進されたものがあ り、その後300年間、担ぎ抜かれた見事なものだった。昭和2年以来保存され、新たに3体を新調したが、戦災で神輿庫が焼け、四之 宮(明治初年田町で新調した、東照宮の神輿)とも新旧7体全部を、惜しくも消失してしまった。現在の本社神輿は、一之宮、二之宮が 昭和25年、三之宮が昭和27年に、氏子44ヶ町によって奉納されたもので、聖天町の宮本神輿店の作によるものである。但し、往事 の神輿より胴が細く、わらび手が大きく、近代的ではあるが、古風な味は失われた。御祭神は言うまでもなく、浅草寺の御本尊観音様の「御示現」に関わった、郷司の土師中知と兄弟漁師、檜前浜成と竹成の三人を神様 として祭ったものであり、三人の神様から「三社」を称され、「一之宮」が土師中知(ハジノマツチノミコト)、「二之宮」が檜前浜成 (ヒノクマハマナリノミコト)、「三之宮」が檜前竹成(ヒノクマタケナリノミコト)に配されている。この他、徳川家康、大国主命も 御祭神である。また、御祭神は家内安全・豊作・豊漁である。本社神輿の台座幅は、3体とも1290m/m(4尺2寸5分)。重量 は一之宮が1060Kg。二・三之宮が1000Kgである。高さは、一之宮が2620m/m。二・三之宮が2120m/mである。さてここで、神輿を担ぐ時のかけ声について簡単に検証してみたい。今や三社祭も、セイヤ・ソイヤが主流となってしまたが、かつて は、現在でも頑固にその伝統を守っている、深川祭同様、「ワッショイ」であった。これをイントネーションから分析してみると、 ワッショイ→ワッショイ→ショイワッ→セイヤと大まかではあるが、変化して来た事が解る。(下線部にアクセント)つまり、「ワッシ ョイ」とは大勢で重いものを担ぐ時のかけ声であうり、上に持ち上げる過程で、語源が、まるで円運動を描く様に変化していったのであ る。そしてそこに、地域外の言葉、「セイヤ」が入って来た事になる。明治期の出版物である「東京風俗志」によれば、和を背負う、和をもって平和を担ぐ。和一処、皆がひとつになって、力を合わせる。 ひとつの目的を達成するとある。 こんなお勉強はいいのですが・・・^^;そわそわしています・・・。
2005.05.20
コメント(0)
やらねばならない仕事は無事片付けました。今日午後7時には、本社神輿御霊入れの儀式があり、いよいよ明日スタートです。僕は明後日浅草に行き、各町の神輿会神輿連渡御を見物する予定です。南部 十六ヶ町・東部 十二ヶ町・西部 十四ヶ町の神輿が観音本堂裏から発信します。本社神輿はもちろん良いですが、これもなかなかのものです・・・。本社神輿は22日朝6時宮出しです・・・いよいよ本番・・・^^;午後8時宮入りまでの長丁場です。頑張ります^^;写真は『三之宮』です。
2005.05.19
コメント(0)
いよいよ押し迫ってきましたが・・・地元・浅草のサイトを見ると、大いに盛り上がっているようです^^;祭というのはその祭が終わった時点で翌年の祭の準備が始まるわけで・・・・・。やはり、地元(生まれ育った土地)で祭りに参加し続ける人生・・・というのが理想なのかと思ったりします。郷里の網走では『オホーツク太鼓』というのを叩いていましたが、まだあるのでしょうか・・・?さぁ!祭のシーズンの始まりです!!ぃぇ━━━ヾ(。・ω・)人(・ω・。)ノ━━━ぃ♪写真は『二之宮』です。
2005.05.18
コメント(0)
三社祭は天気にも恵まれそうです。がんばって全ての用事を片付けて・・・今からワクワクしています^^;こちらの地元の神輿は毎年何度も何箇所も担いでいますが、三社祭の神輿は十数年ぶりです。前日から行って、町内神輿も見たいと思っています。写真は『一之宮』
2005.05.17
コメント(0)
5月も半ばだというのに・・・・・この寒さはどうなっているのでしょうか・・・?明日は友人の家の増築部屋の屋根を上げる予定なのですが雨も降ってきました。僕は『晴れ男』なので大丈夫だとは思うのですが、友人はどうなんだろう・・・?まぁ、仕事というわけじゃぁないので、いいのですが・・・。我が家の愛猫『ドン君』も寒いのか僕のひざの上で丸くなっています。7Kg以上もあるので重いです^^;今年は庭のサクランボも粒が小さく(赤くはなっているのですが)収穫して食べようという気になりません・・・裏年だとは思いますが・・・。小鳥たちのご馳走に終わりそうです。今夜は熱燗にしようかな・・・お湯割がいいかな・・・?
2005.05.13
コメント(0)
伊豆では爽やかな晴天が続いていますが、僕の郷里・網走では雪が降ったそうです。狭い日本・・・といいますが、結構広いですね^^;三社祭前に友人の家の増築を格好つけようと思っていますので、この晴天は助かります。週末には屋根を乗せようと思っていますのでそれまではなんとか晴天が続くといいですが・・・。
2005.05.11
コメント(1)
送る会に参加した人たちのレポートや情報が入ってきます。『ここなっつの青春物語』 http://blog.livedoor.jp/coconattu/ もそうです。無理をしてでも行けば良かったかも・・・^^;生前の渡氏を偲ぶという意味でもなかなか良い送る会だったようです。多くの人に影響を与えたフォークシンガーだったのですねぇ・・・・・。
2005.05.07
コメント(0)
中川五郎氏が自分のHPに『高田渡さんを送る会を終えて』と題してエッセイを書いていますので転載させてもらいます。 高田渡さんを送る会を終えて 2005年04月29日(金) 昨日4月28日は、小金井市公会堂での高田渡さんを送る会「自転車にのって ~ありがとう、渡~」。午後1時から8時半までの7時間半、定員800人ほどの会場に1400人近い人たちが来てくださった。みんな渡さんのこと、渡さんの歌が大好きで、彼に「ありがとう」、「さようなら」を伝えたい人たちばかりだった。「みんなで渡さんのことを思い、語り合い、渡さんに感謝を捧げ、渡さんの歌、渡さんへの歌を歌い、渡さんのために語りかけたり、演奏をしたりして、渡さんに別れを告げる場にしたい」と、八人の発起人たちは考え、ぼくは「渡さんや彼の歌を愛したみんなが集まって、ありがとうの気持ちを伝える7時間。渡さんと一緒に歌って来たたくさんの人たちが歌います。渡さんにお別れのお酒、お別れの一輪のお花を手向けたい人には、それを置ける場所もあります。渡さんの歌を歌って、みんなで渡さんに、ありがとうを!!」という呼びかけの文章を書いた。ところが最初手違いがあって、「追悼コンサート」と告知されてしまい(後ですぐに「送る会」と訂正されたが)、「コンサートなら何を見せてくれるのか?」といった反応もあり、ぼくと同じく発起人の一人となった佐藤GWAN博さんは、「コンサートではないのです。参加者みんなが高田渡の思い出を持ち寄り、お別れをする会にしたいのです。隣の人に『渡さんを知ったのはいつ?』と話しかけたり、『渡さんにこんなことを言われた』などと自由に話し合ったり出来る集まりにしたいのです。そういう時間をなるべく作りましょう。もちろんステージ上で歌う人もいますけれど、一緒に歌ったり好きにしてもらっていいのです。みんな参加者なのですから。ひとりでひっそり泣いている人がいたら、そっとしておいてあげたり出来る会にしたいのです。渡ならそうしてあげるでしょうから。渡が生きていたらニヤッと笑ってくれるような、そんな送る会にしたいと思っています」と、発起人みんなの気持ちを丁寧に代弁してくれた。 参加費の1000円も、コンサートの入場料ではなく、会場費やさまざまな経費など、あくまでも必要な経費を捻出するための最小限のお金で、呼びかけに応じて歌いに来てくれた人たちにも、そのスタッフにも全員一律に払ってもらい、当日は出演者の楽屋も作らず、特別扱いはしたりしないということで意見の一致を見ていた(当日になって、こんな簡単なことを徹底するのが、実は至難の業だということに気づかされたのだが……)。 果たして発起人のこんな思いが来てくださったみんなにきちんと伝わり、それをちゃんと実現できただろうかと、少し不安にもなるが、来てくださった人たち一人一人の悲しくも嬉しそうな顔、みんな大きな声で渡さんの歌を歌ってくれている姿を見て、思いどおりの「送る会」になったのではないかと考えている。とにかく会を催すことに関してはまったく慣れていない発起人たちのこと、打ち合わせと称して、いせやや笹の葉、のろやハバナ・ムーンで会っては、つい飲むほうに力が入ってしまったりしていたが、当日何とか会を終えることができたのは、そんな発起人たちを支え、リードし、重要な仕事をすべて引き受けてくださった、P.A.や照明、舞台やアルタミラ・ピクチャーズの人たち、そして志願して手伝いに来てくださったスタッフたちの力に負うところがほんとうに大きかった。スズキコージさんがライブ・ペインティングをすると前日にいきなり連絡していろんな材料を用意してもらったり(無理をしてでもやってもらってよかった。コージさんはベニヤ板三枚の大きさの渡さんの素晴らしい絵を描いてくれた)、当日の演奏でも、いきなりいろんなリクエストをしたりして、ほんとうにスタッフ泣かせのイベントとなってしまったが、みんな文句ひとつ言わず、とても頑張ってくれ、最良の仕事をしてくれた。みなさん、ほんとうにありがとう。 渡さんと繋がりのあるたくさんの歌い手たちが来てくれて、歌ってくれた。渡さんと繋がりのあるいろんな人たちが来てくれて、マイクの前で喋ってくれた。渡さんの息子の漣くんも喋ってくれた。誰が来てくれたと、ここではいちいち書かないが、来た人たちみんなが、それぞれ自分たちのやり方で、渡さんへの思い、「ありがとう」や「さようなら」を伝えてくれた。「送る会」は、八時半に終り、それから三々五々、吉祥寺ののろに集まって、二次会というか打ち上げのようなものが(どちらも「送る会」にはふさわしくないけど、それだけみんながまだまだ渡さんのことを共有していたかったのだと思う)、午前二時半頃まであった。そこで隣に座った鈴木慶一さんが、「最後はウディ・ガスリーの追悼コンサートみたいだったね」と、ぼくにぽつりと言ってくれた。 1967年にこの世を去ったウディ・ガスリーの追悼コンサートが、ピート・シーガーたちが発起人となって、1968年にニューヨークのカーネギー・ホールで、1970年にはロサンジェルスのハリウッド・ボウルで行なわれ、そのコンサートは当時二枚のLPアルバムとしてリリースされたのだ。そのアルバムをぼくは渡さんと一緒によく耳を傾けていたことを思い出した。慶一さんに言われるまで、そんなことはあまり考えなかったのだが、「そうか、渡ってウディ・ガスリーみたいになったんだなあ」と、初めて思ってしまった。釧路から武蔵野の自宅に戻って来た渡さんの最後の寝顔を見た時、「ギリシアの哲学者みたいだ」とぼくは思ったのだが、そういえばあの顔は歌と人と共に生きたウディ・ガスリーと同じ魂を共有している素敵な顔でもあった。「送る会」で、発起人たちは、歌いに来てくれる人たちの調整役として、時間に空きができた時に歌えばいいと、4時から6時くらいの間で歌うことになっていた。ところが思っていた以上にたくさんの人たちが駆けつけてくれて、時間の空きができず、結局いちばん最後にばたばたと歌うことになってしまった。ぼくはルー・リードの曲に歌詞をつけた「ビッグ・スカイ」を渡さんのために歌い、その前に27日の毎日新聞夕刊に掲載されたぼくの追悼文を朗読させてもらった。その文章にぼくは今の渡さんへの思いを込めた。その夕刊はもう入手できなくなっているので、最後にその一文を再録させてもらうことにする。高田渡を悼む 自分の人生の伴走者。しょっちゅう会っていなくても、話をしなくても、この人だけはいつも自分のそばを一緒に走ってくれていると思える存在。それが親友というものではないだろうか。人生にそんな同志、伴侶がいるのは、とてもしあわせなことだ。 ぼくの場合、それは高田渡だった。その人がいなくなってしまうという、あってはならないことが起こってしまった。 知り合ったのは1960年代後半、どちらもまだ高校生。当時日本で広がり始めたアメリカのフォーク・ソングが二人とも大好きで、会えばウディ・ガスリーやピート・シーガー、ボブ・ディランなど、フォークの先達の話を熱心に語り合った。 それぞれ自分の曲を作ったり、歌ったりしていて、渡は日本や外国の詩にアメリカのフォークのメロディを結びつけることで、独自のスタイルを築き上げていった。 自分のものではない添田唖蝉坊の演歌の詞と自分のものではないカーター・ファミリーの曲が結びついた「虱の旅」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。金子光晴の詩とミシシッピ・ジョン・ハートの曲が結びついた「69」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。シェフチェンコの詩とレッドベリーの曲が結びついた「くつが一足あったなら」は、誰のものでもない高田渡の歌になっていた。 まるで違う二つのものを結びつけて、まったく新しい自分の歌を作り出す。高田渡には歌の錬金術師のようなところがあった。 そんな唯一無二の日本のフォークを次々と作り出しながら、高田渡は小さなお店から大きなホールまで、みんなに呼ばれるまま、40年近く、日本中を歌い回り続けた。 生真面目で、頑固で、照れ屋で、純情だった。だからみんな高田渡を愛した。欺瞞や作為、見せかけが大嫌いで、力あるものに寄り添い、威張る人間を許さなかった。だからみんな高田渡を愛した。 とんでもなく酒を飲むようになり、いろんな人たちにさんざん迷惑をかけた。だからみんな高田渡を愛した。人なつこくて、優しくて、寂しがりやで、人のことばかり思いやる大きな心を持っていた。だからみんな高田渡を愛した。 その渡が4月4日に公演先の釧路で倒れ、16日に還らぬ人となった。葬式なんかするなと渡は言っていたが、18日に近しい者だけで告別ミサをすることになった。場所は渡がいつも飲みに行っていた吉祥寺のいせやのそばの教会。誰にも知らせなかったのに、300人以上もの人たちが集まった。 そのミサで、今はミュージシャンとして大活躍している渡の息子の漣くんが、「とんでもない親父だった。年が経って、いいところばかり語られて、高田渡が美化されないことを願う」と、とても素敵なスピーチをした。余計なことかもしれないが、そんな心配はないとぼくは思う。 人と人生と歌を愛し、そのまっすぐさゆえみんなにさんざん迷惑をかけた渡の生き方は、これ以上はないと言えるほど美しいものだったのだから。 僕は送る会には行けなかったのですが、中川五郎氏の文章から雰囲気が伝わってきます。ありがとう渡・・・。
2005.05.05
コメント(0)
今年は担ぎます^^;15年程前に担いで以来です・・・長かったですねぇ・・・。いよいよ神輿の季節が始まります。--------------------------------------------------------------------------------三社祭の歴史 浅草寺縁起によれば、今から1372年前、西暦628年(推古天皇の36年)3月18 日に、宮戸川(隅田川)で投網をしていた、檜前浜成・竹成の兄弟が、漁網の中に1 像を発見し、持ち帰って土地の文化人であった土師中知に一見を請うた処、これぞ聖 観音世音菩薩の尊像(ご秘仏であるが、1寸8分の仏像といわれる)にして、自らも 帰依するところの仏像である事を告げ、その功徳を諄々と説いた。土師氏はまもなく 剃髪して沙門となり、自宅(今の駒形堂のあたり)を改めて新構の寺(浅草寺の始ま り)とし、さきの観音像を奉安して供養護持の傍ら、郷民の教化に生涯を捧げられた。 尚、観音様ご示現の折り、天から長さ百尺ばかりの金鱗の龍が下り、歓喜勇躍 し、三日三晩お堂の周りを回ってお守りした。そしてその際、千株の松が生じたという。これが浅草寺の山号(金龍山)の由来となった 土師氏の没後、舒明11年(639年)3月18日、その嫡子が観世音の夢告を蒙り、「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり、故に慈悲を万人に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守すべし。名付けて三社権現と称し、祀り奉らば、その子孫土地と共に繁栄せしむべし」という 告示があり、ここに三社権現社が創建された。もちろん、この年代に権現思想(仏・ 菩薩が衆生を利益するため仮の姿を現す)は考えられないが、この記述は浅草神社と 浅草寺との全く不可分の関係を示すものとして見逃せない。やがて正和元年(1312 年)3月になると「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈るよう」との神託があったとも「縁起」は伝えている。今日に三社の本祭礼船渡御がめ始められたことが知られる。この記述により、「ご三神」は少なくとも、鎌倉時代初期には社殿に祀られるようになったと考えてよいだろう。ちなみに、土師氏、檜前氏共に、史上著名なる出雲氏族の東漸に伴い、当時蒼民とした 武蔵の国浅草郷に下り、その開拓に当たられた。明治初年、神仏分離令が出て、浅草 神社と改名された。なお、重要文化財に指定されている現社殿は、慶安2年、徳川3 代将軍家光公により建立され、先の主座神三柱と、後に徳川家康公と大国主の命の二 柱が合祀されている。なお、三網の神紋は土師氏並びに檜前氏の家紋である。三網紋のまん中は中知、右側は兄浜成、左が弟竹成を表し、左右で微妙に高さの違いがあることをお気付きであろうか。
2005.05.02
コメント(0)
あってはならない事故が起こった・・・っていう感じなのですが、人間の作った物には完全は無いっていうことなのでしょうか・・・・・。ニュースを見ているとJR西日本の対応の悪さが目に付きます・・・100人以上の人が亡くなったと思えないような普通の発言・・・。事故を起こしてしまった運転士に関する報道も、これでいいのか?・・・と感じます。ダイヤの過密さと安全を第一に考えていなかったJR西日本の体質が引き起こしてしまった事故だと思うのですが、そのことにはあまり触れないようですね・・・。
2005.05.01
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1