だいぶ前のことであるが、ラジオを聴いていたら「生まれたのは偶然、死ぬのは必然、でもその間どう生きるのかは本人の自由」という意味のことが耳に飛び込んできた。例によって運転中のことなので、どんな文脈でどんな方が言われたのかはわからない。
なるほど!うまいことを言うなと妙に感心した。感心したわりにはそれきり忘れていたのであるが、今このブログを書こうとして突然思い出した。
じつは今日は「選択」ということについて書いてみようと思っていたのである。「人生は選択の連続である。」これももともとは誰かの言葉を耳にしたものであるかもしれない。でもなんだかなあ、ほんとにそうかなあと思う気持ちもある。
たとえばいつもいる居間。白い壁にはカレンダーと子どもたちの写真以外何もかかっていない。私の気持ちの中ではそうなのであるが、どういうわけか柱のわきにお札が画鋲でとめてあったりする。夫の仕業であるが、それをよしとしているのは確かに私。ここで夫婦げんかするわけにはいかない。炬燵をかけたのも私、炬燵布団は私が選んだものである。でも、全部が全部選択的であるかというと決してそうではない。大体がこの家にしてからが経済的物理的な枠が初めにあって、その中で選択したに過ぎない。
そんなことをつらつら思っていたら、川上未映子『世界クッキー』という随筆の中にその名も「選択」というタイトルの文章があって、次のようなことが書いてあった。
「日々の細かな選択も込みにした人生のケースはもしかしたらすでに無数に決まってあって、そこに偶然、それぞれの意識というか魂というか、そんなものがすこんと配属されたに過ぎないような、そんなことを想像しては日々のすべてがなんというか『無駄な抵抗』であるような気もしなくもなかったりして」「結婚も、仕事も、何であっても『わたしが完璧に選択した!』というほど選択的ではないのかも。」
生まれてから死ぬまでは自由だといっても、また人生は選択の連続であるとはいっても、実は選択させられている、あるいは単に選択したと思わせられているだけではないか。このような思念が、このところ時々というかかなり頻繁に私を捉えている。
といって、それで生き方が変わるわけでも、また「選択」に意識的になるわけでもないのだけれど…
読んでくれてありがとうございました(__) 2011年10月23日
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