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図書館で『アジア路地裏紀行』という文庫本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると・・・フリーランンスライターたちのアジア紀行集となっていて、興味深いのです。【アジア路地裏紀行】下川裕治著、徳間書店、1999年刊<「BOOK」データベース>よりインドの娼窟へ売られたネパールの少女ジーナ、バングラデシュの農場長の家で働く奉行人チョビー、サイゴンの街を走るシクロ乗りの男たち、マニラのストリート・チルドレン…。アジアの国々には貧しいながらもたくましく、力強く生きる人々がいる。元気をもらうため、今日も私たちは彼らとの出会いを求めるのだ。ツアーでは見られないアジアの貌。これを読めばアジアにハマること請け合い。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると・・・フリーランンスライターたちのアジア紀行集となっていて、興味深いのです。rakutenアジア路地裏紀行中国人を嫌うモンゴルを、見てみましょう。p235~239<切手売りの夏:駒村康孝>■中国人 窓の外の、細い木立に降りかかる陽光がいくぶん、斜めにかしいで柔らかくなっていた。午後7時、それでも真夏のモンゴル高原の太陽は力強い。乾いた草原を照らすのをまだやめようとしない。 なにするともなく、だらり、ぼくらは長い午後の夕刻をもてあそんでいた。 ぼくは再び帰りどきを探して、外の光を眺めだした。そんなときだった。 奥さんの一言に場が静かに固まった。「この人だってそうなのよ。本当は中国人なんだから」 和やかだった空気が、室内に散乱していくのが見えるようだ。 沈黙の奥から、吐息のような声がこぼれた。「そう。俺は中国人だよ」 テグシバヤルだった。「……」「ヒャッタド(中国)・モンゴルで生れた中国人なんだ」 ヒャッタド・モンゴル、直訳して中国・モンゴル。モンゴル国の人間は、やや見下ろすように鋭利な語気を込めて中国領の内モンゴル自治区をこう呼んでいる。 彼は窓の外と足元に交互に目を泳がせながら、弱々しい笑みを絶えず浮かべている。諦めとも寂しさともつかない、意味不明の笑いは、口元が硬直していただけなのかもしれない。 そのとき、地黒の彼の横顔の目のなかに小さく、外の光りが映っているのが見えた。ぼくはなんとはなしに、その顔を写真に捕りたいと、緊迫した話とまったく関係ないことを考えていた。 彼が純粋なモンゴル人であろうと、中国人であろうと、ぼくにはどうでもいいことだった。 でも、彼らにはどうでもよくなかったのだ。夫妻が、あえてぼくたちに打ち明けた、その思いを計りかねた。この国で歓迎されないはずのマイノリティーだと、なぜ知って欲しかったのだろう。 しばしの沈黙が、テグシバヤルの複雑な心情を、なお重くしてしまいそうだった。 ぼくは少ないモンゴル語の語彙をひっくり返して、言葉を探し始めた。 分かったような言葉を返すよりはむしろ、元来そういう性格ではないのだけれど、「へえ、そうだったの」とすっきり言えたら、どんなにか彼も救われたろうと思う。 モンゴル人が中国人に抱く感情と、ふたつのモンゴルについて少し知っておいてほしい。 ふたつのモンゴルとは、ゴビ砂漠を挟んで北のモンゴル国と南の中国内モンゴル自治区のことだ。 モンゴル国は、もとのモンゴル人民共和国。1990年に、約70年間続いた社会主義路線を放棄して国名を変えている。 そもそも、なにもないモンゴル高原に街をつくったのは、中国大陸を支配していた清朝政府である。モンゴル民族を監視、懐柔するため18世紀中盤に弁事大臣の駐在所を設けている。のちにウランバートルになる。 街で遊牧民たちは貨幣を知る。中国商人から金を借り、茶を買った。あげく、借金のかたに家畜を取られ、乞食になって草原から流れ出した遊牧民が、街にあふれた。 まるで魔法だった。税で厳しく民を縛り、一方で甘言を使い貨幣を巧みにあやつる中国人は、草原に降ってきた悪魔にしか見えない。圧政と中国商人のずるさは伝統的に語り継がれることになる。 フーバートルというぼくの友達は、返事に困りながら、「連中は悪い人間さ。どうして中国人が嫌いかって? チンギス・ハーンの時代から血も心もそうなっているからさ」 ずいぶん抽象的なことを言った。でも、たいていのモンゴル人は同じように答えるのだ。遡れば、遊牧民族と農耕民族のせめぎあいまでたどり着くというわけだ。 外モンゴル地域は、いまわしき中国から逃れるため、ソ連に助けを請い1921年に念願の独立を遂げる。そのとき、中ソが決めた国境線は、モンゴル族の居住区域を大きくふたつに割った。ゴビ砂漠の南側で家畜を育てていたモンゴル人は突如、中国人になったわけだ。(中略) モンゴル人が一般に「ヒャッタド・フン(中国人)」という場合、ふたつの対象があるのでややこしい。漢民族に象徴される一般的中国の民と、内モンゴルの民だ。ちなみに、人間を差別しない文化人も、前者の中国人だったら、話す以前に論外だ。人に非ず、に近い。 中国人に対する根深い憎しみは、ぼくもウランバートルに住むうちに、身に染みて知ることになる。中国人によく間違われたからだ。 酔った人間が路上でいきなり、「おまえ、中国人か」と、がなりながらからんでくることはざらだった。
2019.06.12
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リタイヤして嫌な英語に縁の切れた大使ではあるが・・・・安全地帯に身をおいて、昨今の商業英語事情を上から目線で眺めてみます(笑)アマゾンに比べて影の薄い「楽天ブックス」ではあるが・・・・中国にも進出した楽天は今や日本のEC(電子商取引)の旗艦とも言える存在ですね。ユニクロと共に、いち早く英語公用化を宣言した楽天の三木谷社長へのインタビューが興味深いのです。「英語化が成功したら日本に対する最大の貢献だと思う」より三木谷社長の3回目は、急拡大する海外進出の成否と話題を呼んだ英語公用語化の狙いについて聞く。 海外展開は、僕の感覚の中では猛烈にやっているというよりもまだ遅いという認識です。展開するのは簡単だけど、成功しなければ意味がない。継続的に成長していける仕組みが必要です。僕らはそれを「仕組み化」という言葉で表現しています。 「楽天出身のベンチャー、嬉しい気持ち半分」 なぜここまでやるのか。うーん、何ていうんでしょう。ちょうど昨日(取材日は1月13日)もグリーの田中良和社長と飯を食ってたんですが、世の中には彼のように楽天出身のベンチャーがうじゃうじゃいる。嬉しい気持ちが半分、複雑な気持ちが半分なんですけどね、僕としては(笑)。 だけど彼らは楽天の経営メソッドをそのままやっています。もともと自分が銀行を辞めて会社を興したのも、経営メソッドを広げたいという思いがありましたから。僕はいまの日本人がすごく内向きになっていると感じている。楽天が本当に海外で成功すれば、若者の意識を変えられると信じています。 うちが国際化、国際化、国際化と言い出してから、ほかのIT企業も結構同じようなことを言い出しましたよね。そういうトレンドセッター的な役割はできるのではないかと思っています。ただ、もう1つ。じゃあ、どうやったら本当に成功するのか、です。 米国のIT企業は、最初から国際化を想定していろいろなモノを作ってきている。英語というアドバンテージも向こうにはある。じゃあ日本はどうか。流通業の国際化が成功しているといっても、本当の意味ですごい成功を収めている訳ではないですよね。 ハードウエアを輸出するだけなら簡単なんです。ただ、そうではない楽天みたいなIT(情報技術)とサービスのモデルで、日本人でも、日本の企業でも成功できるということを証明したい。自分の中には強烈なモチベーションとして持っていますね。 (海外展開も)一から作ったものと買収したものがありますが、作った中で一番うまくいっているのは台湾。経済規模が日本とは異なりますが、やり方次第で日本の「楽天市場」と同等の存在感を示せると思います。 買った会社で言うとフランスのプライスミニスターですね。フランスの中でそもそも知名度が高い会社ですが、今、楽天市場と同様のマーケットプレイス型を始めたんです。その伸び率がすごい。これは非常によかった例と言えるでしょうね。 台湾と中国は違いますね。中国はなんせ大きいですから。もっと差別化しなくちゃいけないなというのはある。もっと自分たちの特徴を出さないと埋もれてしまう。また、中国は偽造品の問題が大きいですよね。かなりのシェアを占めていて、30%ぐらいがそうなんです。我々は明らかに一線を画して、いわゆる品質の高いマーケットプレイスにしていく必要があると思っています。 ブランディングもこの1年間はラーニングだと思ってやっていたので。ほとんどPRもやってないし、ちょうどあの時は例の尖閣諸島の問題がまさしくど真ん中だったので、あんまりやらなかったんですよね。これから本格的にやっていきますよ。リニューアルもしますし。 中国の百度との関係は基本的には今後も変わりません。ただ、追加で新しいパートナーを迎え入れる可能性が高いですが。中国で勝たなくちゃという思いがあるかと言われると、そんなでもない。思った通りにはなかなかいってないところはあるんですけれども、それはそれなりの原因がある。その原因を追究して修正するという、アプローチですよね、我々は。 とにかくこの業界の展開スピードはすごく速いし、特に新興国は早く始めた方がいい。後でひっくり返すのはすごくエネルギーが必要ですからね。まだまだ遅い。 「外国人にも日本語を勉強しろと言っている」英語公用語化はこれまでもやってきましたが、その「心」が重要です。世界中の子会社は離れていますけど、あたかも1つの会社のようにすべてを経営する。だから今年は「新しいグローバルマネジメントの体制を築く年」と宣言しています。 例えば、これまでは各国が人事制度や、ノウハウ、技術を別々で持っていた。これを統合していくということがこれから重要になります。別にマーケティングのトップが日本にいなくてもいい。開発拠点がここにいるべきといったこだわりもない。そういう構造を作ります。 あとはいわゆる地域本社。アジア、欧州、米州の3カ所に地域本社をできるだけ早く作ります。単純にEC(電子商取引)だけ展開するんだったら構わない。ただ、これからは電子書籍も手がけなければならない。トラベル事業も広げていかなければならない。金融事業もエリアによって展開していくことを考えると、日本から全部を見るのではなく、それぞれの地域でやった方がいいと思っています。あるいは外交政策ですよね。どこと組んでどうやったらいいのかということを考えるレベルの人間が必要になるわけです。 英語化を始めてから1年半ですが、すさまじい進歩を遂げています。レベルの差はありますが、だいたいコミュニケーションできるんですよ、80~90%は。まあ、10%ぐらいは苦しんでますが。 「日本人だけ集まっている会議を英語でやる必要がないのでは」という意見があるのも分かる。ただ、僕は「これしかない」と思っているんです。そうしないと結局、英語から逃げちゃう。そうなると、外国人は会議に入れなくなってしまう。企業の中に入れずに壁が生じる。僕は基本的に1対1の面接でも英語です。 中国にいて、中国人同士で中国語だけで会議を開いている中に、自分が外国人の立場で入らなければならないのはすごく嫌でしょう。俺はこの組織に属していない、と感じてしまうかもしれない。英語化ばかりに焦点が当たっていますが、実は最近、外国人にも日本語を勉強しろと言っています。 公用語化の正式移行に向けて、現場はものすごいですよ。朝の7時に社内のカフェテリアに顔を出すとみんなチームを組んで勉強していますから。 僕はこれが成功したら、私の日本に対する最大のコントリビューション(貢献)じゃないかと思うんですけどね。これができたら、日本人の考え方、感覚も変わるでしょう。そういう影響を与えられればと思っています。 「アフターサービス最下位は申し訳なかった」年間流通総額10兆円計画を立てています。今の楽天は1兆円。家庭内における消費はおおよそ70兆円。だから1.5%ぐらいですよね。今後、ECも進化すると思うんです。ここで言う進化とは購入プロセス、品揃え、物流も含めてです。市場が拡大すれば価格も下がる、配送料も安くなる。専用の物流プラットフォームもできてくるだろうし。 その場で買いたい、今すぐ必要という需要は残るでしょう。でも本当に「5時間も待てないの」という世界もある。ここが広がれば、家庭内消費の少なくとも10%、多ければ30%ぐらいまではいけるのではないかと見ています。 楽天の特徴は各店舗に特色があって、様々な店舗で買うことを楽しむという体験そのもの。アマゾンとは圧倒的に差別化できている。だからこそアマゾンのように商品数を絞るのではなく、どんな商品でも早く持ってきてくれる環境を構築しなければならない。 アマゾンの物流戦略も正直、何かすさまじいことをやっているわけじゃない。物流は物流なんです。理路整然とした並べ方をして、効率よくピッキングし、過剰な在庫を持たず、かといって欠品をしない。すごく難しいことをやっているように映るかもしれませんが、実は、僕はそんなに難しくないんじゃないかなと思っています。 最近のはやりの言葉で言うと、クラウド型とハブを組み合わせるハイブリッド型。総合的な品揃えはうちの方が圧倒的にありますから、より大規模な仕組みにはなると思います。 日経ビジネスのアフターサービスランキングで「楽天ブックス」は最下位。あれは本当に申し訳なかった。システムの遅延と不具合があったところに地震が重なってしまった。在庫管理のところが完全に崩れたんですよ。それを戻すために私が陣頭指揮を執って、1カ月ぐらいの間、毎日会議をやりました。 問題だったのはリカバリープラン(復旧策)がなかったこと。新システムに移行した時は、ダメだったら元に戻すということを必ず楽天グループはやっていますが、ブックスだけはできていなかった。あってはならないことという認識をしています。だからこそ言い訳はせず、愚直に反省し、もう二度と起こらないようにしていきます。 EC(電子商取引)のうち、書籍ではアマゾンに水をあけられているが・・・・その他の物流では楽天vsアマゾン全面競合のようです。楽天、対アマゾンで提携加速だそうで、ナショナリズムをくすぐりますね。
2012.06.01
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先日、村田沙耶香の「生命式」という短編小説集を読んだところであるが、SFとも、ファンタジーとも取れる著者独特の怖さを堪能したわけです。・・・ということで「地球星人」を復刻してみようと思い立ったのです。*********************************************************図書館で『地球星人』という本を、手にしたのです。村田沙耶香といえば『コンビニ人間』を読んで以来であるが・・・『地球星人』というタイトルがSF的なので、チョイスしたのです。【地球星人】村田沙耶香著、新潮社、2018年刊<「BOOK」データベース>より私はいつまで生き延びればいいのだろう。いつか、生き延びなくても生きていられるようになるのだろうか。地球では、若い女は恋愛をしてセックスをするべきで、恋ができない人間は、恋に近い行為をやらされるシステムになっている。地球星人が、繁殖するためにこの仕組みを作りあげたのだろうー。常識を破壊する衝撃のラスト。村田沙耶香ワールド炸裂!<読む前の大使寸評>村田沙耶香といえば『コンビニ人間』を読んで以来であるが・・・『地球星人』というタイトルがSF的なので、チョイスしたのです。rakuten地球星人ネタバラシというか、かなり中抜きとなるけど、最後の部分を見てみましょう。p243~246<6> 夫は、「暗いとき」に作った、腕の入ったスープを食べながら眠ってしまったようだった。貴重な食糧を溢さないよう、私はスープの入った器をそっとテレビ台の上へ置き、夫の向こう側に寝そべっていたもう一匹に呼びかけた。「由宇」 由宇の腹は、夫よりももっと膨らんでいた。由宇の薄い皮膚はぴんと張っていて、皮膚の中の骨と膨らんだ腹の形がくっきりと浮かび上がっていた。「ポハピピンポボピア」 私の呼びかけに気が付いたらしい由宇が瞼を擦りながら、私たちの言葉を呟いた。 その時、急に床の軋みが大きくなって、足音と振動と共に、地球星人の匂いが一気に強まった。 由宇も夫も起き上がり、私たちは身体を寄せ合った。夫と由宇は膨らんだ自分の腹を守るように腕で庇って蹲り、私はピュートを胸元で握りしめた。「キアアアアアアアアアアアアア」 何かと思ったが、それは地球星人の鳴き声だった。 障子の向こうから現れたのは、姉だった。私たちの姿を見た姉は、もう一度大きく鳴いた。「キアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」 姉の向こうには母もいた。二匹の甲高い鳴き声が反響した。 大きな鳴き声に慌てたように、他の地球星人の足音が集まってきた。 母の背後から、何匹かのオレンジ色の服に身を包んだ地球星人が姿を現した。救助隊という仕事をしている地球星人なのではないかと、その服装から見てとれた。「地球星人だ」 私は呟いた。 救助隊の地球星人は、身体を寄せ合っている私たちを一瞥し、うっと呻いて口元を押さえた。「あなたたちは・・・人間か・・・?」 私たちの姿を凝視しながら、地球星人のオスが言葉を絞り出した。 私たち三匹は顔を見合わせた。「ポハピピンポボピア?」「ポハピピンポボピア」 由宇が膨らんだ腹を守るようにそっと右手で撫でながら、地球星人の言葉で流暢に彼に話しかけた。「僕たちは、ポハピピンポボピア星人ですよ。あなたもそうなのではないですか?」 男性は驚き過ぎて唾液を噴き出したのか、それとも立ったまま胃液をもどしているのか、鼻からも口からも何かの液体を流していた。「その腹はなんだ・・・?」 隣にいた別の地球星人のオスが、しわがれた声で言った。「僕たち、三匹とも妊娠しているんです」 膨れたお腹を両手で持ち上げるようにして見せながら、夫が言った。 地球星人たちは震えているようだった。青ざめて後ずさりしている。「大丈夫ですよ。今はそうでなくても、あなたにも、きっとこの形のあなたが眠っている。きっと、すぐに伝染しますよ」 安心させるように由宇が地球星人たちに微笑みかけた。「僕たちは明日、もっと増える。明後日は、それよりもまたもっと増える」 由宇が丁寧に説明しているのに、地球星人たちはまったく聞いていないようだった。奥にいた一匹が激しく嘔吐している。「外に行こうか。僕たちの未来が待っている」 由宇の言葉に、私も夫も頷いた。 私たち三匹のポハピピンポボピア星人は、そっと手や足を絡めて繋ぎ、立ち上がった。「明るいとき」の光が、雪の反射と共に、外の世界から私たちの宇宙船へと柔らかく差し込んでいた。 私たちは手をとりあい、肩を寄せ合って、地球星人の住む星へと、ゆっくりと踏み出した。光に包まれた私たちに呼応するように、地球星人たちの鳴き声が、この星の遠くまで響き渡り、森を揺さぶりながら広がっていった。 ウーム、主人公たちはポハピピンポボピア星人だったのか。この作品をSFとして読んでみると、かなりファンタスティックというか怖い感じのSFではある。これが著者の筆力なんでしょうね。『地球星人』1:1『地球星人』2:6
2024.07.11
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作家・活動家の雨宮処凛さんがコラム(一期一会)で「生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ」と語っているので、紹介します。右翼出身の活動家というアウトサイダーだが、「生きさせろ!」というメッセージが鮮烈ですね。(11/10デジタル朝日・コラム(一期一会)から転記しました)■生きづらい人間は、革命家になるしかない 格差と貧困の問題に、10年前から警鐘を鳴らしていた。不安定な雇用、低賃金労働にあえぐ若者たちに向けて「生きるのがつらい時も、自分を責めるな」と著書やブログで訴え、デモを呼びかけてきた。かつての自分自身がそうだったからだ。 美大進学を志して北海道から上京するが挫折し、アルバイトを転々としていた1990年代半ば。服を買っても、バンドの「追っかけ」をしても、心は満たされない。「死にたい」とリストカットを繰り返した。 「自分の内側に閉じこもり、自傷行為で、心の痛みを体の痛みにごまかしていた。社会に居場所がない。お金もない。何者にもなれない。ショボい自分を罰していたんです」 そんな日々を、作家の見沢知廉(みさわちれん)さんとの出会いが変えた。96年発表の獄中ノンフィクション「囚人狂時代」を読み、「この人なら死にたいほどの心の痛みを理解してくれるかも」と感じ、読者イベントに足を運んだのが最初だ。「弟子」の1人となり、薫陶を受けるようになった。 見沢さんは10代で左翼思想に共鳴し、成田闘争にも関わった後、右翼へ転向。急進化し、82年には英国大使館に火炎瓶を投げ、殺人を犯してしまう。94年に出所後、純文学「天皇ごっこ」などを発表。雑誌の記事では、社会への怒りを忘れた若者たちを、熱い言葉でたきつけていた。 自分の「生きづらさ」を吐露すると、師匠の答えは明確だった。「社会のせいだ。全ての価値がカネに置き換えられてしまう今の世の中で、生きてる実感がないのは当然。消費社会はお前に『消費だけする人間に変われ』と言う。逆だ。お前がこの社会を変えろ。毛沢東だって最初は無名、無一文だった。生きづらい人間は、革命家になるしかないんだ」 見沢さんは2005年、自ら命を絶った。「文学への情熱と、人を殺めた罪を償う苦しみ。その間で、引き裂かれていたのかも知れない」 「革命」の志を受け継ぐように、翌06年から反貧困を訴え始めた。 「火炎瓶を投げる代わりに、私は見沢さんが身をもって教えてくれた『生きづらい人を一人たりとも放っておかない優しさ』を理想に掲げて闘う。弱者への徹底したあの優しさは、見沢さんの強さであり弱さだった気がします」(寺下真理加) * 1975年、北海道滝川市生まれ。2000年、自伝的エッセー「生き地獄天国」でデビュー。「生きさせろ! 難民化する若者たち」(07年)で日本ジャーナリスト会議賞。「反貧困ネットワーク」世話人。(一語一会)作家・活動家、雨宮処凛さん2016.11.10 この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップに収めておきます。
2016.11.13
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「フランス漫画」でしょうか。<市立図書館>・BD 第九の芸術・ビゴーの150年<大学図書館>・「間取り」の世界地図・「超」文章法図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【BD 第九の芸術】古永真一著、未知谷、2010年刊<「BOOK」データベース>よりコマの否定、吹き出しのみの構成、メタレベルのストーリー、ダンスとのコラボレーション…ほとんど分類不能、クールジャパンの対極のアヴァンギャルド―古くはバタイユがBDのアーナキーさに注目し、70年代に前衛集団「バズーカ」、90年代に前衛漫画集団「ウバポ」、大御所メビウス、ポードワンなどを紹介しながら、第九の芸術と言われるBDの歴史的背景と表現媒体の可能性を見る、待望のBDアヴァンギャルド論。<読む前の大使寸評>BDという言葉より先に、大御所メビウスを知り、その圧倒的な技量に驚いたわけです。ということで・・・BD(フランス漫画)の中でメビウスが占める位置とか、大きさを知りたいわけです。AmazonBD 第九の芸術【ビゴーの150年】清水勲著、臨川書店、2011年刊<内容紹介>より フランス人画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(1860~1927)は、明治15年から17年余り日本に滞在し、膨大な量の作品を残した。欧化政策を推し進める日本政府、日清戦争、自然災害、そして近代化の渦中を生き抜く人々の姿......激動の時代にあった明治20年代の日本社会を、彼の眼はいかに捉え描写したのか? 歴史教科書の諷刺画で有名なビゴーと日本との関わりを、150年にわたる年表と豊富な図版を交えて明らかにするビゴー資料の決定版! <大使寸評>画像数、時事年表、ビゴー自身の年表、ビゴーの親族の近況、索引など、どれをとっても圧倒的な情報量であり・・・観て面白い辞典的な本になっています。4700円という価格もすごいが、図書館で借りる際の有りがたさに感じいります♪Amazonビゴーの150年ビゴーの風刺画のなかでも日清戦争従軍のものが報道として優れていると思うので、ビゴー画像から、ランダムにピックアップしてみます。ビゴー画像より【「間取り」の世界地図】服部岑生著、青春出版、2006年刊<「BOOK」データベース>より東京・NY・パリ…のアパートの間取りの違い。続き間・縁側・通り庭…狭い日本ならではの工夫。比べてわかる住まいの人間関係学。【目次】1 日本の「間取り」とその変遷(マンション、団地…集合住宅に見る、日本人の暮らしの変化/江戸の武士住宅からつづく、日本住宅の古きよき伝統/間取りから浮かび上がる、暮らしの知恵としきたり)/2 「間取り」の世界地図(比べてわかる、世界の家族観、生活観…のちがい/日・米・英…大富豪の邸宅の間取り)<読む前の大使寸評>手にした時の斜め読みから・・・・著者のかもす民俗学的なセンス、職人の慎ましさが感じられたので、借りたわけです。rakuten「間取り」の世界地図建築設計者もある種の職人であるが、「はじめに」の文章にも著者の建築設計者としての慎ましさが表れているのです。<はじめに>p3~5より マイホームを新たにつくろうとするとき、あるいは、マンションを購入したり借りたりするとき、まず気になるのが、「間取り」ではなかろうか。 住まいの「間取り」を見ることで、そこで暮らす家族の関係性や日々の生活のありかたが、ある程度想像できるといっていい。 「間取り」は単なる平面図に過ぎない。 しかし、そこに描かれた四角や三角の図形、その線や曲線からは、まるでのように、その時代、その土地の人びとの生活観や家族観、価値観などをうかがい知ることができる。 本書では、そうした変遷する「間取り」をひも解いてみた。そうすることで、過去と現在、日本と世界の人びとの暮らしの様子や生活の知恵が浮かび上がってくる。と同時に、「間取り」に込められた設計者たちの隠れた工夫も見えてくる。それを感じ取ってもらえたら、建築にたずさわる者としてこんなにうれしいことはない。【「超」文章法】 野口悠紀雄著、中央公論新社、2002年刊<商品説明>より ベストセラー『「超」整理法』をはじめ、数々の著書で知られる野口悠紀雄が、読者を引き付け、自らのメッセージを印象的に伝えるための文章術をまとめた1冊。 ほかの著書と同様、今回も構成や内容がじつに詳細に吟味されており、文章において「八割の重要性をもつ」というメッセージの探し方・磨き方から、文章の「骨組み」の作り方、比喩や引用・具体例などの「筋肉増強」法、わかりにくさを排し、読み手の心理に配慮するための「化粧」の仕方までが、じつに上手にまとめられている。とくに、反対概念や対立概念を示すことによって元の概念の性格を明らかにする、といった工夫や、1文1意主義(著者は1パラグラフ1意主義を説く)、「ドラマチックに始め、印象深く終えよ」といった教訓などは、文章を書く際に常に意識しておきたいところだ。テクニック面においても、抽象的な概念を伝えるために名前をつける、さまざまな事象を人の身体や自動車などにたとえる、引用句辞典を使って巧みな引用をする、といった豊富な内容が盛り込まれている。 <読む前の大使寸評>著者の経済論は、あまり信用していないのだが・・・・手帳とか、情報整理に関しては一目置いています(笑)Amazon「超」文章法*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き60図書館大好き(目録)
2014.05.16
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図書館で『古生物たちのふしぎな世界』という新書を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・とにかく、想像力を加味したカラー画像がええでぇ♪【古生物たちのふしぎな世界】土屋健, 田中 源吾著、早川書房、2018年刊<「BOOK」データベース>より恐竜だけが古生物じゃない!前恐竜時代にもさまざまな古生物が生きていた。三葉虫が繁栄し、アノマロカリスがカンブリア紀の覇者となる。デボン紀にはアンモナイトの仲間がまっすぐのびた円錐形からしだいに丸くなり、ティクターリクが“腕立て伏せ”をはじめる。古生代最後のペルム紀には、イノストランケヴィアをはじめとする単弓類が覇権をにぎる!ダイナミックかつドラマチックな古生代の物語。100点に及ぶ精緻なカラーイラスト&化石写真で解説!<読む前の大使寸評>とにかく、想像力を加味したカラー画像がええでぇ♪rakuten古生物たちのふしぎな世界ティクターリク我らが脊椎動物の上陸作戦を、見てみましょう。肉鰭つまり肉のついたひれを持つ魚の仲間である。p167~172 上陸作戦の主要メンバーを“進化の順番”で紹介しよう。 作戦の“基点”として有名なメンバーは、カナダ東部から化石がみつかっている肉鰭類、「ユーステノプテロン」だ。ユーステノプテロン 全長1~1.8メートルほどで、その姿は魚雷のようにまっすぐ太く、長い。胸びれの中に“腕”の構造をもつほか、尾びれが上下対称であること、脊椎がその尾びれの先端近くまでまっすぐ連なっていることなどの特徴がある。 一般に多くの魚の仲間では、尾びれは上下非対称であり、また尾びれ内の背骨は上下いずれかに曲がる。あるいは、尾びれまで脊椎がつながっていない。ユーステノプテロンの尾びれの端までまっすぐ連なる脊椎というのは、陸上四足動物の尾の骨とよく似ているのだ。 次のメンバーはユーステノプテロンの“一歩先”に位置づけられている肉鰭類である。ラトビアから化石がみつかっている「パンデリクチス」だ。パンデリクチスは、全長こそユーステノプテロンとさほどかわらないものの、ユーステノプテロンが魚雷のような姿をしていたのに対し、パンデリクチスはその頭部が水平方向に平たいという特徴がある。(中略) パンデリクチスの一歩先に位置づけられているのも肉鰭類である。カナダから化石がみつかっている「ティクターリク」だ。全長2.7メートルと、ユーステノプテロンやパンデリクチスよりはるかに大きなからだのもち主である。ティクターリクは、全体の印象としては現生のワニに近いかもしれない。 頭部は、パンデリクチスと同じように扁平だけれども、その眼はより高い位置にある。これは水中に身を潜めながら、地上の獲物を様子をうかがうことに適した配置だ。まさにワニと同じである。 ただし、ティクターリクの“高い位置の眼”がどのようにその生活に役立っていたのかは定かでなはない。なにしろ、現在とはちがって、岸に獲物となるような小動物はいなかったはずだ。何をうかがっていたのだろう?ウーム 同じ肉鰭類といっても、ユーステノプテロンとティクターリクではかなりの差異があるようでんな・・・これもデボン紀古生物たちの謎なんでしょう。『古生物たちのふしぎな世界』2:脊椎動物の祖先『古生物たちのふしぎな世界』1:アロマリカリス
2019.06.03
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いしいひさいちの多彩な引き出しから、大使一押しのキャラクターです。豪放磊落大胆不敵な藤原ひとみ先生ワールドは、どないだ♪藤原ひとみ先生・藤原ひとみ先生の近況・女には向かない職業1、おぼえてないわ・女には向かない職業2、なんとかなるわよ(笑)いしい商店で藤原ひとみ先生の近況を見てみましょう。二日酔いは日常茶飯事なひとみ先生であるが、この日はシャキっとしていますね?♪【女には向かない職業1、おぼえてないわ】いしいひさいち著、東京創元社、2006年刊<内容紹介より>朝日新聞でおなじみの、ののちゃんの担任の藤原瞳先生。その藤原先生が新人賞を受賞してミステリ作家に転身!? 大酒飲みで時間にルーズ。しかも書下しのペースで連載の仕事を引き受けてしまう、ザ・大物の作家藤原瞳に明日はあるのか。ゴーイング・マイウェイの極致、藤原先生の痛快テキトー生活が遂に文庫で登場。巻末に「COMICAL MYSTERY TOUR」の未収録作品も加えた、いしいファン必携の一冊。<大使寸評>この本では瞳先生の本性がよく表れているが・・・・朝日新聞でここまで本性をさらすと、読者からクレームが出ると思われるので、現状の連載スタイルを続けるほうが無難でしょうね。tsogen女には向かない職業1、おぼえてないわ【女には向かない職業2、なんとかなるわよ】いしいひさいち著、東京創元社、2006年刊<内容紹介より>ミステリ作家・藤原瞳はいかにして形成されたのか? 高校生時代、小学校教師時代にも垣間見える、作家としての輝く文才。そして今もかわらず超テキトーな「なんとかなるわよ」的性格。豪放磊落大胆不敵。ちょっとやそっとじゃ動じない、そんな藤原先生の自由気ままな日常生活を、ドタバタ四コマ漫画でお贈りします。おなじみホームズとワトソンに、A先生や(依願)退職刑事など、充実のおまけ漫画も嬉しい、文庫化第二弾!<大使寸評>瞳さんはもともと、朝日新聞でののちゃんの担任として登場したが、このシリーズでは小学校を退職し、専業作家になっています。豪放磊落大胆不敵な片鱗が見える高校生時代の素顔が面白い♪瞳さんの両親も出てくるが、これがわりとまともでほんのり爽やかで、いしい作品のなかで異彩を放っている。瞳さんと言うか、いしいさんがフォルクローレなどの中南米サウンドが好きなことが垣間見えます。tsogen女には向かない職業2、なんとかなるわよいしいさんがなんで、こんなに女性心理の機微に詳しいのか?ムック本『いしいひさいち、仁義なきお笑い』によれば・・・何人かの女性編集者の合成です。ルックスはともかくこんなのばかり担当にまわされていたわけです。・・・だそうです。いしいひさいちの世界byドングリ
2013.08.06
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図書館で『版画芸術 #146』という雑誌を借りたが、特集している小村雪岱の版画がええでぇ♪この雑誌の解説にあわせて、その版画の一部を紹介します。「日本橋」の装丁なんかコンテンポラリーで、今でも充分イケてるで♪<第一章 装丁・装画>よりp26<雪岱が描く泉鏡花の世界> 小村雪岱は、泉鏡花に始まり、久保田万太郎、水上龍太郎、谷崎潤一郎、里見頓、長谷川伸、邦枝寛二らの本を、木版画による表紙画、見返し絵で数多く装丁している。 中でも質量共に最も充実しているのが、泉鏡花の本である。雪岱は10歳頃から鏡花の小説を愛読し、21歳のときに縁あって知己を得る。二人の深い関係を示すのは、「雪岱」という号を鏡花から贈られたことでもわかる。 大正3(1914)年に、鏡花の「日本橋」(千章堂)を初めて装丁して以来、雪岱が春陽堂から刊行した鏡花本のほとんどの装丁を行った。雪岱は鏡花本の装丁について「中々に注文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は仕えませんでした」と振り返るが、鏡花の浪漫的な文学世界に雪岱の情緒豊かな装丁・装画はぴったりと寄り添い、えもいわれぬ美しい世界を生み出している。<「日本橋」>p28 泉鏡花は、この単行本を書き下ろしながら、装丁を小村雪岱に託した。しかし脱稿まで「日本橋」という題は決まらず、題名が決まってから、「日本橋」の文字を橋に見立てた背表紙に置き、表紙の表と裏に川岸の町並みをあしらった絵に描きなおした雪岱初の装丁作品である。<第二章 挿絵>よりp46<白黒の線描に息づく江戸情緒> 雪岱は、大正11(1922)年から新聞や文芸雑誌の連載小説の挿絵を手がけている。里見頓が、『時事新報』に「多情佛心」を連載する際に、鏡花を通じて知己を得た雪岱を推したことがきっかけとなった。その後、雪岱は数多くの新聞挿絵を描くが、挿絵画家としての人気を不動のものとしたのは、なんといっても邦枝寛二の「おせん」、「お傳地獄」であった。 雪岱は、気に入った挿絵を一枚絵の紙本墨絵に描きなおしたが、それらが木版画に起こされたり、挿絵を元に、新たな版画が作られたりしている。現在では、挿絵そのものよりも木版画作品のほうがよく知られている。<小村雪岱の版画と装丁>よりp66 ずいぶん前のことだが、「ザ・ウーマン」(高橋陽一監督)という映画があった。江戸の竹本小伝、俗に「あんばいよしの小伝」と呼ばれた、何百人切りだかの女性をモデルにした林美一原作の映画だったと聞く。濡れ場を延々と執拗に撮るこだわりがなかなかのもので、それだけでも見ものの映画なのだが、移り気な「小伝」を妻とした人気役者坂東三津五郎が、女に気持ちを変えられる悲しみ、男の悲しみがその濡れ場から奇妙に響いた映画でもあった。(中略) 映画「ザ・ウーマン」に雪岱の匂いを嗅いだのは、原作からでも、監督からでもなさそうだ。おそらくその脚本からだろう。映画の脚本家が『小伝抄』で直木賞をとり、雪岱についても書いている星川清司で、たしか単行本の表紙に雪岱が使われた記憶がある。そのあたりからの匂いだったようだ。小村雪岱は、突然、どこにでもあらわれる。 小村雪岱の版画の版元となったのは「高見澤木版店」である。もともとは江戸錦絵の復刻木版の仕事を主としていた版元だったが、昭和10年前後から創作版画も含める木版画ブームに呼応して、現代浮世絵を作ろうとした版元の一つだった。すでにコンテンポラリーのまなざしを持った伝統木版の仕事は、その先駆けとして大正時代に渡辺版画店が「新版画」として提示した。 そして、昭和のこのあたりに、もう一つの動きがある。安井曽太郎作品を木版とした求龍堂、土屋光逸やノエル・ヌエットの土井版画店、やがて竹久夢二や富本憲吉を出すことになる加藤潤二などが活躍し始めるのだ。とりわけ「高見澤木版店」は、版画家ではない岸田劉生のリプロダクションを版行し、藤田嗣治などの洋画家の原画も木版化した。雪岱の版画も、その路線の上にある。【版画芸術 #146】雑誌、阿部出版、2009年刊<商品説明>より[特集]小村雪岱 KOMURA Settaiたおやかな女性美と江戸情緒[注目の作家] 中山正/松本旻/オノデラユキ [版画を見る] 山本容子/山中現[版画を買う] 2009年冬 版画実勢価格[版画を作る] 版画技法講座 木版リトグラフ<最終回>[版画を知る] メディアとしての近代版画史<大使寸評>装丁、挿絵に表した小村雪岱の江戸情緒、モダンな感覚が…ええでぇ♪Amazon版画芸術 #146
2014.12.27
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<クリント・イーストウッド監督作品集> 先日、大学図書館で「アウトロー」を観たのだが、大使好みの映画でした。「グラントリノ」にも似たテイストの映画というか、「グラントリノ」の原点のような映画なんでしょう。とにかく歳を経ても基本がぶれないのがいいではないですか。監督としても秀逸なクリント・イーストウッド・・・・長生きしてくれよな~。これまでに観たクリント・イーストウッド監督作品を集めてみます。私がベスト3を選ぶなら、1:グラン・トリノ、2:硫黄島からの手紙、3:アウトローあたりになります。・人生の特等席(2012年)注・ヒヤアフター(2010年)・グラン・トリノ (2008年)・父親たちの星条旗 (2006年) ・硫黄島からの手紙 (2006年) ・ミリオンダラー・ベイビー (2004年)・ミスティック・リバー (2003年) ・スペース・カウボーイ (2000年) ・パーフェクト・ワールド(1993年)・アウトロー(1976年)wikipediaクリント・イーストウッド【人生の特等席】4年ぶりの俳優復帰作が11月23日より全国公開されるそうです。(注)この映画は監督作品ではないけど、最新情報ということでエントリーしておきます。8/29イーストウッド、4年ぶりの俳優復帰作が日本公開決定!老スカウトの悲哀を描いた『人生の特等席』より [シネマトゥデイ映画ニュース] 実質的な俳優引退を宣言していたクリント・イーストウッドの復帰作『人生の特等席』が、11月23日より全国公開されることが明らかになった。現在82歳のイーストウッドの俳優出演は、2008年の映画『グラン・トリノ』以来4年ぶり、自身の監督作以外では1993 年の映画『ザ・シークレット・サービス』以来、実に19年ぶりとなる。 映画『グラン・トリノ』を監督・主演したイーストウッドは「もう積極的に役は探さない」とインタビューで語り、実質的な俳優引退を宣言。その言葉の通り、監督として『インビクタス/負けざる者たち』『ヒア アフター』『J・エドガー』を制作したイーストウッドだが、この4年間、俳優活動を行うことはなかった。 だが、本作では1995年の映画『マディソン郡の橋』以来、17年にわたってイーストウッドから映画作りを学んだ、まな弟子のロバート・ロレンツが監督を務めるということで、スクリーン復帰を快諾。これが最後になるかもしれない出演作で、映画に生涯をささげてきたイーストウッドが演じるのは、野球に生涯をささげてきた男だ。 主人公・ガスは、老化で視力が弱まってきている今、衰えをごまかしきれない大リーグの伝説的なスカウト。それでも引退するつもりのないガスに周囲の目は冷たいが、ひょんなことから娘のミッキーが、ガスの目となるため、スカウトに同行することに。決して仲が良いとはいえない父娘が何年かぶりに時を共にするうちに、お互いを見つめ直すという上質なヒューマンドラマとなっている。【ヒアアフター】クリント・イーストウッド監督、2010年制作、H24.5.9観賞<大使寸評>クリント・イーストウッド監督の最新作ということで観たのだが・・・・とにかく冒頭の津波の場面がリアルである。(津波の場面があったので、東日本大震災のあと公開中止になったとか?) 米英には、わりと霊能者テーマの作品が多いようだが、ご贔屓にしていたシャーリー・マクレーンが神掛かってしまい、いたく幻滅したように・・・・クリント・イーストウッド監督作品であっても、霊能者テーマにはもうひとつのりきれない大使である。goo映画ヒアアフター【グラン・トリノ】クリント・イーストウッド監督・主演、2008年制作、2009年観賞<大使寸評>朝鮮戦争の英雄でもあるコワルスキーは子育てに失敗しているような有様で、つれあいを失ったあとは生活が崩壊しかかるが・・・・隣屋のモン族の一家の優しさに、徐々にその偏見が溶けていくのです♪一家の息子の意気地なさに業を煮やしたコワルスキーが、建設会社への就職前に男としての特訓を行うのだが・・・・・なに 建設会社のオーナーの気を惹く態度、ため口の特訓なのだが、笑ってしまいます。寅さんのため口をもっと柄を悪くしたようなもので、このへんのセンスは日本人の不得意とするもので・・・・・それは見てのお楽しみ♪その隣屋が、チャイナマフィアのようなごろつき連中から機関銃の掃射を受けるや・・・・・行き着けの散髪屋で髪をととのえ風呂にまで入り(つまり死に装束を調えて)、丸腰で出かけるが・・・・連中を死出の道連れにしてして一掃するところが、過激な老人の面目躍如というところです。連隊記念のライターを握り締めて、こときれるところなんか・・・泣けるぜ。goo映画グラン・トリノグラントリノbyドングリ【父親たちの星条旗】クリント・イーストウッド監督、2006年制作、2007年観賞<大使寸評>むかし「硫黄島の砂」という戦意高揚プロパガンダのような映画を観た記憶がかすかにあるのですが・・・・この「父親たちの星条旗」はプロパガンダそのものを描いた映画でもあり、ストレートな反戦ではないかも知れないが、戦意高揚とは相容れない映画なんですね。硫黄島の戦いは、国単位で争った地上戦としては最も過酷なものだったかもしれないが・・・この壮大な喪失を描く映画で、何か語るとしたらやはりイーストウッド監督のことばになるのでしょう。事実を風化することなく記憶することが、双方の死者に対する最善の弔意になるのかもしれませんね。goo映画父親たちの星条旗【硫黄島からの手紙】クリント・イーストウッド監督、2006年制作、2007年観賞<大使寸評>せりふは全て日本語であり、役者は全て日本人だし・・・見終わったあと、これはアメリカ人監督の作った映画だったんだとあらためて思った。確かな考証があり、日本人が見ても違和感のない“日本映画”であったと思うが・・・・まず感慨を覚えるのはこのような“日本映画”を作ったアメリカ人とは?監督とは、脚本家とはどんな人なのか?ということです。goo映画硫黄島からの手紙【ミリオンダラー・ベイビー】クリント・イーストウッド監督・主演、2004年制作、H24.1.27観賞<解説>より「自分を守れ」が信条の老トレーナー、フランキーは、23年来の付き合いとなる雑用係のスクラップと、昔ながらのジム、ヒット・ピットでボクサーを育成している。有望株のウィリーは、教え子を大事に思う余りタイトル戦を先延ばしにするフランキーにしびれを切らし、別のマネージャーの下へと去ってゆく。そんな折、フランキーの前に現れた女性ボクサー、マギー。マギーはフランキーの指導を乞うが、昔気質のフランキーは女のボクサーを認めようとしない。<大使寸評>マッチョだけど弱い者の味方という(桃太郎のような)イーストウッドの基本を押さえた作品です。終わり方が静かすぎるのはやや拍子ぬけという感もあるが、これがいいのかも知れません。goo映画ミリオンダラー・ベイビーミリオンダラー・ベイビーbyドングリ【ミスティック・リバー 】クリント・イーストウッド監督、2003年制作、2004年観賞(1エントリー文字数制約により説明省略)【スペース・カウボーイ】クリント・イーストウッド監督・出演、2000年制作、2001年観賞(1エントリー文字数制約により説明省略)【パーフェクト・ワールド】クリント・イーストウッド監督・主演、1993年制作、1994年観賞(1エントリー文字数制約により説明省略)【アウトロー】クリント・イーストウッド監督・主演、1976年制作、H24.6.13観賞(1エントリー文字数制約により説明省略)<このあと観たい作品>・許されざる者・J・エドガー
2012.08.30
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図書館で『タンタンの冒険 その夢と現実』という大型本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、漫画の画面とそのシーンの元になった写真が載っているし・・・なにより丁寧な解説に好感を持つわけでおます♪【タンタンの冒険 その夢と現実】マイクル・ファー著、ムーランサール ジャパン、2002年刊<商品の説明>より本書では「タンタン、ソビエトへ」から未完成の最後の物語「タンタンとアルファアート」までの物語を 順に解説しています。 現実世界を想像の世界に取り込んだエルジェのクリエイティビティ、 完璧なものへの彼の追求など、エルジェの創作のすべてを語っています。 慎重なリサーチが もたらす各ストーリーの詳細の正確さは、エルジェの作品の大きな特長です。 実際にエルジェが参考にした資料写真とその反映されたシーンを対比させながら 解説されているので、より深く「タンタンの冒険」の世界を知る事が出来ます。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、漫画の画面とそのシーンの元になった写真が載っているし・・・なにより丁寧な解説に好感を持つわけでおます♪amazonタンタンの冒険 その夢と現実「青い蓮」まず、大使一押しの「青い蓮」を、見てみましょう。<青い蓮>p50~52混乱の中国でタンタンは親友を作り、エルジェは日本軍の侵攻を予見する。 同じくオリエントを舞台に描いたその2作目は、傑作だ。シリーズ最初の傑作だと一般にいわれており、最良の作だと評する声もある。これがシリーズの転換点をなす作品であることには、異論がないだろう。 初期の一連の作品では、まだつぼみだったさまざまな資質が、ここに一気に花ひらいている。「青い蓮」によって、初めて物語は注意深くしっかりと構成されることになった。プロットはつぎ目なく進展し、結末までゆるみがない。エルジェはもはや、毎週その場の思いつきでストーリーを作ることをしなくなった。 「ファラオの葉巻」では、エルジェは自分の手に負えなくなる方向に、物語が進みだしたとはっきり感じた。その反省から、「青い蓮」は、前もってもっとよく話が練られ、行き当たりばったりではなく、しっかり現実に根ざして着実に進んでいく。自分がどこへどのようにして向かっているのか、エルジェにはわかっていた。■中国人学生と知りあう 「ファラオの葉巻」の物語展開に、エルジェはいらだったからではなく、ブリュッセルでエルジェが中国人の美術学生と幸福な出会いをしたことから、その後の変化は起こった。 それまでは、タンタンが旅する外国とその国の人びとは、1920-30年代にかけてしばしば戯画化されていたように、ありきたりのイメージや写真などにそって描かれていた。ボルシェビキは嘲笑されるべき悪であり、アフリカ人は遅れていて迷信深く、アメリカ人は資本家かギャングであり、エルジェが敬愛するインディアンたちも、どこかだまされやすく単純な姿に描き出されていた。だが、今度はちがった。 コンゴで意欲的に活躍していたベルギーの宣教師たちは、はるか中国にもキリスト教をひろめようとしていた。宣教師の教えに刺激されて、若い中国人たちも、さらに勉強しようと、かなりの数がベルギーにやってきていた。ルーヴァン大学の中国人学生指導官だった司祭のゴセ神父は、エルジェに手紙を出し、紋切り型の描写をやめて、中国人を身近で見て、よく調べて描くようにと書いてきた。 常に学んで完全をめざすことに熱心だったエルジェは、その忠告に意欲的に反応した。1934年、ゴセ神父はエルジェに、ブリュッセル美術アカデミーの有望な彫刻科の学生で、エルジェと同じ27歳のチャン・チョンジン(張充仁)を紹介した。ふたりはたちまち仲よしになった。 ふたりは長く話しこみ、エルジェは新聞の切り抜き資料がもたらすよりずっとはるかに真実な中国のイメージを得た。チャンによって彼は、それから生涯にわたる中国の魅惑に目ざめたのである。その複雑な歴史、広大な土地、ことば、文学、哲学に宗教・・・そのすべてが吸収力の高いエルジェのまえに見えてきた。(中略)■中国文字を正確に エルジェ自身、最初の2冊のタンタン物語で、ステレオタイプを描くというワナにはまったものだ。「タンタンのソビエト旅行」では弁髪の中国人が拷問をするし、「タンタン アメリカへ」の白黒版では、ふたりの中国人に食われてしまうんじゃないかとスノーウィはおびえる。(中略) エルジェによると、これが彼の「ドキュメンタリスト」としての時期の始まりだという。彼は、自分が描きたい真実の中国を撮った写真を集めたが、単に入手した写真からそのまま描くのではなかった。画家と同じように、彼は中国人の姿勢や動きや中国の服や建築物を鉛筆でスケッチして研究した。(中略) タンタンはレストランを意味する漢字の下でお茶を飲み、アヘンを吸う場面の上にも「吉慶如意」(縁が良く順調でありますように)という文字がある。彼は上海の通りを「日本軍にさからった罪で死刑」と記した首枷をはめられて、ひきまわされる。通りの名や看板類は正確に描かれていて、中国語を学ぶ学生たちに楽しみを与え、物語の背景に圧倒的な真実味を加えている。LUTOさんの『タンタンの冒険』より
2019.04.28
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************<仏文書籍あれこれR1>最近、図書館で借りた本と、古い蔵書なんですが、仏文書籍について適当に集めてみます。なお、辞書や専門書は除外します。・『Voyage au centre de la Terre』2009年刊・『Au sud de la frontiere, a l'ouest du soleil』2008年刊・『Apres le tremblement de terre』2002年刊・『KAFU Le Bambou nain』1998年刊・Polaroids de Jeunes Filles(1994年刊)・LE JACASSIN(1970年)・Le Petit Prince(1968年)・L'histoire vecue de la seconde guerre mondialeII:Le siege(1963年)R1:『Voyage au centre de la Terre』を追加【Voyage au centre de la Terre】Jules Verne著、Livre De Poche、2009年刊<商品の説明>よりFollows Professor Lidenbrock, his nephew Axel, and their guide Hans as they venture deep into a volcanic crater in Iceland on a journey that leads them to the center of the earth and to incredible and horrifying discoveries<読む前の大使寸評>なんと言っても、l'edition originale の挿絵が大量に載っているのが嬉しい♪amazonVoyage au centre de la Terre***********************************************************************【Au sud de la frontiere, a l'ouest du soleil】村上春樹著、Distribooks、2008年刊<カスタマー・レヴュー>よりEcrit alors que Murakami est toujours en exil (a Princeton aux Etats-Unis), "Au sud de la frontiere, a l'ouest du soleil" n'est publie que quatre ans apres son predecesseur, le tres fumeux "Danse, danse, danse".En lisant la quatrieme de couverture, je prends peur: on craint le Murakami sentimentaliste qui avait a mon sens completement echoue dans "Norwegian Woods/La ballade de l'impossible".Heureusement, "Au sud..." n'a rien a voir.D'abord parce que le style est profondement resserre, et la chronique des 37 ans de la vie de cet homme, Hajime, ne prend que 200 pages environ. Pourtant on sait beaucoup de choses de lui a la fin du roman, et le lecteur est devenu, un peu, son intime.<読む前の大使寸評>おお 村上春樹作品の仏訳版ではないか・・・ということで借りたわけでおます♪尚、太子の借りたペーパーブックは、BUSSIERE CAMEDAN IMPRIMERIES社、2002年版のものでした。amazonAu sud de la frontiere, a l'ouest du soleil【太子注】この本の日本語原題は「国境の南、太陽の西」で、村上春樹の7作目の長編小説です。***********************************************************************【Haruki Murakami-Apres le tremblement de terre】Haruki-Murakami著、10*18、2002年刊<カスタマー・レヴュー>より①Un simple battement d'aile de papillon en Amazonie peut-il declencher par une reaction en chaine un tremblement de terre au Japon ? Cela tombe bien, Murakami nous le prouve dans cette suite de nouvelles, toujours aussi subtiles, profondes et surnaturelles ! Oui, un evenement peut bouleverser votre vien comme la lecture de mon commentaire et l'achat de ce roman que vous ne regretterez pas !②この短編小説集は、阪神淡路大地震の闇と少なからず孤独な心が通ずる主人公達の魂の再生の物語だと私は理解しました。最後の「蜂蜜パイ」の淳平は西宮市夙川出身で早稲田の文学部を卒業した短編専門の小説家、つまりそれはもう一人の有り得たかもしれない村上さんの姿でした。本書は読者の人生経験に即して深いメッセージを伝えることが出来る優れた短編小説だと思います。<読む前の大使寸評>「神の子どもたちはみな踊る」が含まれた短篇集であるが、「Apres le tremblement de terre」(大震災後)という書名の日本版なんてあったかな?amazonHaruki Murakami-Apres le tremblement de terre『Haruki Murakami-Apres le tremblement de terre』2:「蜂蜜パイ」の冒頭『Haruki Murakami-Apres le tremblement de terre』1:「神の子どもたちはみな踊る」の冒頭***********************************************************************【KAFU Le Bambou nain】Ccatherine Cadou訳、Picquier poche、1998年刊<「BOOK」データベース>よりデータなし<読む前の大使寸評>この本をチョイスしたのは表紙の浮世絵がキレイだったこと、それと錆びつきかけたフランス語のブラッシュアップになると思ったからです。amazonKAFU Le Bambou nain***********************************************************************【Polaroids de Jeunes Filles】Jean-Philippe Delhomme著、光リン社、1994年刊<商品の説明>よりフランスのイラストレーター、ジャン・フィリップ・デロームの作品集。1988年から1992年の4年間にわたり、フランスのファッション雑誌『グラムール』に連載された中から後半に掲載された作品95点をショートストーリーとともにまとめた一冊です。<読む前の大使寸評>日本の新書より大きくて細長い特殊サイズである。各ページの構成は。上半分にカラー画像、下半分にストーリー文章となっていて、これまた独特でおます。なお、私が借りた本の表紙はモノクロ(左側)の方です。yahooPolaroids de Jeunes Filles『Polaroids de Jeunes Filles』1***********************************************************************【LE JACASSIN】Daninos Pierre著、Le Livre De Poche、1970年刊<大使寸評>皮肉、かつお笑いの辞典であるが、この本だけで仏語を修めるものではありません(当然です)本屋ではHacshtte社のLE LIVRE DE POCHEシリーズがすぐ目に付くが、このシリーズは日本の角川文庫、岩波新書などよりもっとシェアが大きいシリーズなんでしょう。AmazonLE JACASSIN***********************************************************************【Le Petit Prince】Antoine De Saint-Exupery著、HEINEMANN EDUCATIONAL、1968年刊<「BOOK」データベースより>ふるさとの星を出発した星の王子さまは、命令好きの王さまの星や、うぬぼれ男の星などを旅します。最後に地球にやってきて、サハラ砂漠で飛行機を修理中のパイロットに出会います。心をとらえて離さない不思議な物語。<大使寸評>私が買ったのはHEINEMANN EDUCATIONAL社(英国)のハードカバーであるが、さすがにこの本はアマゾンで出なかったので、アマゾンのMariner Books社の情報を載せました。AmazonLe Petit Prince『星の王子さまのはるかな旅』2:砂漠の王さま『星の王子さまのはるかな旅』1:星の王子さまが生れたところ***********************************************************************【L'histoire vecue de la seconde guerre mondiale II : Le siege】Marabout社、1963年刊<裏表紙説明>よりEn 500 photos et 100 000 mots, cet ouvrage uni-que en son genre nous presente la -guerre 1940/45 comme une experience humaine complete, tant a l'echelle des nations que des individus. Chacun des quatre volumes forme un tout, mais, ensemble, ils tentent une exploration en profondeur de l'epoque contemporaine. L'histoire vecue de la seconde guerre mondiale donne une vision immediate et saisissante des divers aspects de la plus complexe, la plus tragique et la plus heroique epopee que l'humanite ait enduree.Ce deuxieme tome de l'histoire vecue de la seconde guerre mondiale s'ouvre sur la resistance acharnee de la Grande-Bretagne contre les as-sauts de la machine de guerre nazie. II se pour-suit par les hostilites dans l'Atlantique Nord et la Mediterranee, l'invasion des Balkans et de la Grece, le combat-poursuite dans les deserts d'Afrique, l'attaque-suicide de l'Allemagne contre la Russie et l'inhumaine cruaute des batailles d'hiver. Pearl Harbour et la suite des victoires japonaises en Extreme-Orient terminent le volume.<大使寸評>第2次世界大戦シリーズで日本にも言及しているので、軍事オタクにとって見過ごせない本である。フランスの書籍ECは古書に関しても、いけてるやん♪bibliopocheL'histoire vecue de la seconde guerre mondiale II : Le siegeフランス語リンク集/All Aboutフランス関連の蔵書
2026.09.05
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図書館で『夏のルール』という本を手にしたが・・・・おお ショーン・タンの新刊の絵本やないか♪【夏のルール】ショーン・タン著、河出書房新社、2014年刊<「BOOK」データベース>よりきょうだいがいる人もいない人も大人も子供もみんなの心にじん、と残る『アライバル』『遠い町から来た話』のショーン・タンが描くあたらしい夏のものがたり。<大使寸評>すばらしい作品がならぶ、ショーン・タンの絵本の最新刊(2015年時点)です。不安感と郷愁が垣間見えるのは・・・・ディアスポラあるいは移民としての原点が見えるようです。ついでに、持論をひとこと・・・・強大な漢族と対峙するニッポンも、ディアスポラの不安感は他人事ではないわけです。rakuten夏のルールこの絵本の、お気に入りのページを紹介します。赤い靴下を片方だけ干しっぱなしにしないこと。パーティで残った最後のオリーブに手を出さないこと。パレードに遅れないこと。帰り道をおぼえておくこと。なお、ショーン・タン公式サイト:Rules of Summerでも、英文メモ付きの絵が見られます。これらの絵もSF風イラストに収めておきます。
2015.04.30
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図書館で『山口晃 前に下がる下を仰ぐ』という本を手にしたが・・・巻頭に、この本は山口晃の個展「前に下がる下を仰ぐ」の、展覧会図録の体裁をとっているとの挨拶が載っています。電柱に対するこだわりが、いかにも山口晃である。また、紙ツイッターという試みもバカバカしいというか、面白い♪【山口晃 前に下がる下を仰ぐ】山口晃著、青幻舎、2015年刊<「BOOK」データベース>より山口ワールド、水戸芸術館で炸裂!『山口晃大画面作品集』以降の新作から、すゞしろ日記的「食日記」、「続・無残ノ介」紙ツイッター、インスタレーションまで、山口晃の“今”を凝縮した一冊。随想・自作解題書き下ろし。<大使寸評>この本は山口晃の個展「前に下がる下を仰ぐ」の、展覧会図録の体裁をとっているとの挨拶が載っています。電柱に対するこだわりが、いかにも山口晃である。また、紙ツイッターという試みもバカバカしいというか、面白い♪rakuten山口晃 前に下がる下を仰ぐこの本で展覧会の気分を満喫してみましょう。<展覧会場>よりp6~58■第1室 初めに入った部屋に色が無いと云うのも、またこやつ仕上がらなかったかと思われそうで、何やらはばまれましたから、今回の中では派手々々しいものを置いています。どこか表向きの、しかし精一杯色々試した作品たちです。 試したのは、新しいと思う事でもあり、今更ながらではあっても自分に必用と思う事であり、まちまちです。■第3室 1室を出て胎内めぐりの様な細い通路を抜けた先にこの部屋が表れます。天井の高い特徴的なつくりの中に電柱様のオブジェが三本。 壁にはテキストらしき物も見えますが、やはり近づけず反対に階段を昇ってオブジェを目近にする様になっています。■電柱の歴史 電話機をつなぐ「電信柱」に遅れる事20年あまり、電力を送る「電力柱」は、明治も23年頃に登場します。折りしも急激な西欧化に対する反動で、日本の旧来文化の復興が叫ばれだした頃です。政府は一国の街路を飾るにふさわしい装柱をと、各方面に下達しました。 その一端を担ったのが古流の華道家であり、関東では遠州流、関西では池の坊です。電柱の間隔から装柱具の配置、配線の具合までを、電柱の機能をふまえた上で美しく行います。ネットで山口晃の画像を見てみましょう。bing山口晃の画像より
2015.07.11
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最近は、品が無くて騒がしいバラエティ番組が多いので・・・見るに耐えない大使は、即チャンネルをスルーしているのです。 一方で、知っている人は知っている「探偵!ナイトスクープ」という長寿番組があるんですが、関西の視聴率では3位~5位あたりをウロウロしていて健闘しているわけです。とにかく「探偵!ナイトスクープ」では、市井の民がおおらかな可笑しさを謳歌していて、ええでぇ♪ちょっと気に食わないのは、西田某という八方美人の異邦人を局長に据えたことであるが・・・まあいいとしよう。 この番組の黎明期(1991年)に、「全国アホ・バカ分布」を実地調査したことがあり、大うけであったことは関西人はよく覚えているが・・・・民俗学的なフィールドワークとしてもバッチグーであり、学者連中を唸らせたわけですね♪この番組によって結実した「全国アホ・バカ分布図」です・・・すご~い♪蔵書録を作っていたとき「全国アホ・バカ分布考」という本を見つけたので紹介します。なるほど傑作ノンフィクションですか・・・Amazonで買おうかと思っているところです。【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修ところで、同志社大学中退にして「永遠の0」の著者でもある百田尚樹さんは放送作家となった後、『探偵!ナイトスクープ』の構成も手がけていたそうです。やはり、どこかアホの雰囲気のある人なんでしょうね(詳しくは知らないけど)さきほど、Amazonに「全国アホ・バカ分布考」を発注したので、14日までに手元に届く予定です。読後の感想は後ほどに♪wikipediaでアホ・バカ分布図の成り立ちを調べました。wikipediaアホ・バカ分布図より 1990年(平成2年)1月、関東人の夫がよく「バカ」という言葉を使うのに疑問を持ったという関西人の女性(自身は「アホ」を使うという)からの「アホとバカの境界線はどこか調べて欲しい」といった内容の依頼が『探偵!ナイトスクープ』で紹介された。この依頼を担当した北野誠が、アホとバカの境界線を調べるべく東京駅から調査に乗り出したものの、名古屋駅前での調査では「アホ」でも「バカ」でもない第三の言葉として「タワケ」が使われていたため、急遽「アホ」と「タワケ」の境界線を探ることに変更。岐阜県関ケ原町の住宅街で「アホ」と「タワケ」の境界線と思われる地域を発見したため、岐阜県関ケ原町が「アホ」と「タワケ」の境界である、といった結論を出した。 ところが、当時局長だった上岡龍太郎は、「では、バカとタワケの境界線はどこなんですか?」と問いかけた。また他の探偵からも「大阪の西の境界線はどうなっているのか」などの質問が相次いだため、上岡は「今年一杯かかっても、きちっと地図に境界線を入れてください。」と北野に継続調査を行うことを命令。こうして、本格的なアホとバカの境界線の調査に探偵局は乗り出したが、視聴者からの情報投稿を元に第一次、第二次の分布図を作成した後、しばらくこの件に関する調査は休止状態となった。・・・・ 追加予算を得た番組スタッフは、言語学者の徳川宗賢のアドバイスを受けつつ、それまでの予算規模では困難だった地方自治体の教育委員会への大規模なアンケート調査を行い、1991年(平成3年)5月に「日本全国アホ・バカ分布図」が完成。アンケート結果に基づく追加ロケを行ったうえで特番として放送された。 そして、1991年(平成3年)日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞受賞・第29回ギャラクシー賞選奨・第9回ATP賞グランプリを受賞した。
2012.07.12
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雑草と言ってしまえば身も蓋もないが、散歩に出れば雑草にも目がいくわけで・・・以下のとおり復刻してみました。*********************************************************図書館に予約していた『雑草はなぜそこに生えているのか』という新書を、待つこと5日でゲットしたのです。いま森絵都著『カザアナ』という小説を読んでいるところだが・・・その小説では「病によき種をあてる草読」となっています。とにかく、野草あるいは雑草に目がいく昨今でおます。【雑草はなぜそこに生えているのか】稲垣栄洋著、筑摩書房、2018年刊<「BOOK」データベース>より「抜いても抜いても生えてくる、粘り強くてしぶとい」というイメージのある雑草だが、実はとても弱い植物だ。それゆえに生き残りをかけた驚くべき戦略をもっている。厳しい自然界を生きていくそのたくましさの秘密を紹介する。<読む前の大使寸評>いま森絵都著『カザアナ』という小説を読んでいるところだが・・・その小説では「病によき種をあてる草読」となっています。とにかく、野草あるいは雑草に目がいく昨今でおます。<図書館予約:(3/17予約、3/22受取)>amazon雑草はなぜそこに生えているのか風媒花「第五章 雑草の花の秘密」で虫媒花を、見てみましょう。p91~94■風媒花から虫媒花へ 植物は風で花粉を運ぶ風媒花から、昆虫が花粉を運ぶ虫媒花へと進化を遂げた。 生物の進化の過程で、最初に花を訪れた昆虫は、花粉を食べにきた害虫であったと考えられている。しかし、花粉を食べる害虫が花から花へと移動すると、体についた花粉も運ばれる。これは、植物にとっても都合が良かった。 風まかせで飛ばした花粉が、同じ種類の花にたどりつく可能性は大きくない。そのため、風媒花の植物は、花粉を大量に生産してまき散らさなければならないのだ。しかし、昆虫は花から花へと移動するから、昆虫が花粉を運んでくれるのであれば、すこぶる効率が良い。どこに飛んでいくかわからない花粉を作るくらいなら、少し花粉を食べられるくらいは、何ともないのだ。 こうして、植物は昆虫を呼び寄せて、その昆虫に花粉を運ばせる虫媒花へと進化を遂げていった。そして、昆虫を呼び寄せるために、美しい花びらを発達させたり、ついには昆虫のために、甘い蜜まで用意するようになって、現在、私たちが見るような花々となっていったのである。 風媒花から虫媒花への進化は、裸子植物から被子植物への進化の過程で起こった。 裸子植物から被子植物への進化は、まさに植物の歴史にとって革命的なことだったのである。 裸子植物から被子植物を復習してみることにしよう。 裸子植物は「胚珠がむき出しになっている」のに対して、被子植物は「胚珠が子房に包まれ、むき出しになっていない」ことで特徴づけられる。 胚珠がむき出しになっているかどうかが、種子植物を大きく二つに分けるほどの重要なことなかと思うかも知れないが、胚珠が子房に包まれたということは、植物の進化にとって大事件であった。 植物にとって、もっとも大切なものは次の世代の種子である。被子植物は、この種子を包む子房を作りあげた。そして、この子房の中で受精を行うことが可能になったのである。子房の中は安全である。そのため、その中にあらかじめ胚珠を準備しておくことができる。このことによって被子植物は、受精から種子形成までの大幅なスピードアップに成功するのである。 こうして被子植物は、短い期間に種子を作り、世代を更新させながら進化のスピードを速めることにも成功していった。そして、風任せに花粉を飛ばす風媒花から、昆虫を利用して効率よく花粉を運ぶ虫媒花へと進化を遂げて行ったのである。■再び風媒花へ進化する このように、裸子植物から被子植物へと進化することによって、虫媒花を手に入れた。 そのため、裸子植物はすべて風媒花である。現在、大量の花粉をまき散らせて、花粉症の原因となるスギやヒノキなどは、裸子植物である。 ところが、花粉症の原因にもなる風媒花の中には、ブタクサやイネ科雑草など、被子植物のものもある。 昆虫に花粉を運んでもらう虫媒花は、効率は良いが、昆虫がいないような環境では、どうすることもできない。そのため、花粉を運ぶ昆虫が少ないような環境では、再び風媒花に進化しなおしているのである。*********************************************************『雑草はなぜそこに生えているのか』5:風媒花から虫媒花へ『雑草はなぜそこに生えているのか』4:ホトケノザ『雑草はなぜそこに生えているのか』3:「第三章 播いても芽が出ない」の冒頭『雑草はなぜそこに生えているのか』2:「第二章 雑草は強くない」の続き『雑草はなぜそこに生えているのか』1:「第二章 雑草は強くない」の冒頭*********************************************************■2020.04.01XML『雑草はなぜそこに生えているのか』5https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202004010000/
2024.12.13
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<『シルバー・デモクラシー』4>図書館で『シルバー・デモクラシー』という新書を、手にしたのです。ぱらぱらめくって見ると…シルバーの身を切るような提言が見られます。寺島実郎さんは1947年生まれの団塊世代であるが、大使も安穏としている場合ではないのかも?【シルバー・デモクラシー】寺島実郎著、岩波書店、2017年刊<「BOOK」データベース>より戦後日本人の先頭として民主主義、高度成長の恩恵を受けてきた団塊の世代。世界的な民主主義の危機が語られる今、1980年の論稿「われら戦後世代の『坂の上の雲』」のタイムカプセルを開け、35年後の高齢化した都市新中間層の現状をみつめ、シルバーが貢献する新たなデモクラシーへの視界を探る。参画型社会構築への提言。<読む前の大使寸評>ぱらぱらめくって見ると…シルバーの身を切るような提言が見られます。寺島実郎さんは1947年生まれの団塊世代であるが、大使も安穏としている場合ではないのかも?rakutenシルバー・デモクラシー都市新中間層としての我らを見てみましょう。p54~56■都市新中間層として 「僕って何?」…新世代作家といわれる三田誠広の小説での問いかけは、ジェームズ・クネンの『いちご白書』(角川文庫、1971年)での問いかけでもあった。自分のアイデンティティをいかなる組織・集団・権威にも見出しえず、それゆえにそうした問いかけを続けねばならあいこと自体が、きわめて戦後世代的な問題の立て方なのであろう。そして私も、自らを映す鏡をのぞき込むように、戦後世代の実像を問い詰めてみたい。 すでに論じてきたような要因によって規定されてきた戦後世代は、いま、どこでどのように生活しているのであろうか。そのことは、戦後世代の歴史的形成要因の帰結を確認し、将来に対して戦後世代が果たす役割を展望するうえで重大である。未来はじつに現在の中に萌芽しているのである。その意味で、戦後世代の現在の生活を規定している二つの社会経済的特色に注目しなければなるまい。 一つは、戦後世代の多くが「都市」という空間の中で生活をしており、都市文化の形成主体となっていることであり、他の一つは、社会参加しはじめた戦後世代の多くが、「新中間層」といわれる職業階層に帰属していることである。 昭和50年現在、人口10万以上の都市に居住する人口は総人口の54.9%を占め、全国的な「都市化」の進展が見られるが、この時点での戦後世代の中で15歳の就業年齢に達した者は約2800万人であり、そのうち人口10万人以上の都市に居住する者は約65%と、とくに若者の都市集中が顕著である。我ら団塊世代とは何だったのか?…回顧してみましょう。p26~28■「戦争」はあった 1970年前後に『戦争を知らない子供たち』という歌がはやったことがあった。思えばその時点では、「戦争を知らない」ことが一つの画期的なこととして表現されねばならぬほど、「戦争」という出来事の意味がまだ重くたれこめていたのである。しかし、日本にとってその後に続く10年間の意味は大きかった。 いまや、戦後の昭和20年代生まれの者はすべて成人し、昭和30年代以降の人間を加えたいわゆる「戦後生まれ世代」は、すでに日本の総人口の60%に迫り、選挙権をもつ成人人口の35%を占めるに至っている。もはや、「戦争を知らない」ことはあえて表現される必要もないほど当然のこととなり、「戦後」という概念は「戦無」という概念にとってかわられている。 より具体的な現実として、企業および官公庁などの職場組織においては、いわゆる「定年制」によって、成人として戦争を体験した世代は、第一線から姿を消しはじめている。「80年代」を問うとき、与件として認識しておかねばならぬことは、80年代を生きる人間、すなわち社会構成主体の大部分が「戦後世代」となるということであろう。 量的に戦後世代が台頭しているというだけではない。後で述べるように、戦後世代のもつ性格・行動様式はたんに若さに付随する積極的活動力によってだけではなく、「戦後」という時代の性格との相互規定関係において社会全体を席巻する大波を引き起こしている。現在、主潮となっている政治の「保革」枠の流動化も、劇画やニューミュージックの隆盛も、すべて戦後世代の台頭と密接な関係をもつものである。それはまた「戦後」という特異な時代環境を土壌として成長した世代が、自らが成長した土壌を問い詰め、自らの課題を明らかにし、真正面から問題に挑戦していくべきときが始まっていることをも意味する。 ほかならぬ私自身も、昭和22年生まれの「戦後世代」の一人として、しかも、もはや若者ではなく、大人になった戦後世代として、自分たちが新しい役割を担いつつあることを意識せざるをえない。 前の世代の論者から「モラトリアム世代」「仮性成熟世代」「三無世代」「不機嫌世代」などという呼称をいただき、「なるほど、そんなものかなあ」と社会学のサンプルに甘んずるときではなく、当事者意識をもって「われらが時代」を語るべきときなのである。ウン 寺島さんは「われらが団塊時代」を代弁してくれているんだなあ♪『シルバー・デモクラシー』1:日本の貧困化と世代間格差p123~128『シルバー・デモクラシー』2:現在進行中の国家資本主義p151~153『シルバー・デモクラシー』3:日本の産業構造のあり方p174~177
2017.09.17
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『図説不思議の国のアリス』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・この本にはアリスとキャロルのポートレート、キャロル自筆のイラスト、ジョン・テニエルの挿絵、アーサー・ラッカムの挿絵などがてんこ盛りであり、まさにビジュアル本という感じでおます。【図説不思議の国のアリス】桑原茂夫著、河出書房新社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりおかしな住人の出自を探り、奇妙な論理を読み解く、魅惑のワンダーランドの完全ガイド。【目次】序章 不思議の国への招待(『不思議の国のアリス』の成立/地下の国こそ不思議の国 ほか)/第1章 アリスの「不思議の国」へー『不思議の国のアリス』を読む(ウサギ紳士に誘い込まれたアリス、深い穴を落下/いきなり小さくなったアリス ほか)/第2章 アリスの「鏡の国」へー『鏡の国のアリス』を読む(アリス、鏡の国でチェスの駒を驚かせる/鏡を通して見ればちゃんと読める文字 ほか)/第3章 アリスとキャロルと写真術(キャロルにとっての写真術/キャロルの時代の写真術 ほか)<読む前の大使寸評>この本にはアリスとキャロルのポートレート、キャロル自筆のイラスト、ジョン・テニエルの挿絵、アーサー・ラッカムの挿絵などがてんこ盛りであり、まさにビジュアル本という感じでおます。rakuten図説不思議の国のアリスジョン・テニエルの挿絵を、見てみましょう。p37<ドードー> このドードーの姿は、作者キャロルも、また少女アリス・リデルもともに親しんでいたであろう。クライスト・チャーチにある自然史博物館に掲げられたドードー像に生き写しである。すでに幻の絶滅動物に対するキャロルの哀惜の思いがこの登場の仕方からも伝わってくる。それにしてもうしろのほうからのぞき込むようにしているサルの存在も気になるところだ。物語にはまったく登場してこないのだから。アーサー・ラッカムの挿絵を、見てみましょう。p62~63<法廷は大荒れ。アリスは叫んだ!> 「平気よ! あなたたちみんな、ただのカードじゃないの!」 このとたん、すべての登場人物や動物たちはカードとなって空中に舞い上がり、アリスの上にふりかかった。そしてこれこそが、不思議の国での冒険のフィナーレであった。 夢はおわった。キャロル自筆のイラスト、見てみましょう。p57<ウミガメモドキ>(ルイスキャロル直筆のオリジナル原稿のイラスト絵より)キャロル自筆のウミガメモドキ。いわくいいがたいおかしさと不気味さがある。ウン いわくいいがたいというか、シュールやなあ♪『図説不思議の国のアリス』1
2026.09.06
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図書館で『つげ義春を旅する』という本を手にしたが・・・・漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪【つげ義春を旅する】高野慎三著、筑摩書房 、2001年刊<「BOOK」データベース>より「ガロ」の編集者だった著者がつげ作品の舞台となった風景をさがして東北の秘湯から漁港の路地裏までを訪ね歩く。砂煙のまいあがる会津西街道で見つけたワラ屋根のある景色や、老人たちとともに時間がとまった上州・湯宿温泉、赤線の雰囲気を残す東京下町など、貧困旅行を追体験する。失われた日本の風景のなかに、つげ義春の桃源郷が見えてくる!つげ義春との対談も収録。図版満載。<読む前の大使寸評>漂泊願望があるつげさんだから、その旅の独特な味には・・・しびれるわけです♪rakutenつげ義春を旅する「ゲンセンカン主人」は、群馬の湯宿温泉のイメージで構想されたようです。p134~136<「ゲンセンカン主人」と湯宿温泉> 怪優・佐野史朗がつげ義春役を演じた映画「ゲンセンカン主人」が上映され、予想外のヒットとなったのは、1993年の7月であったが、映画の原作であるつげ義春の同名作品が『ガロ』誌上に発表されたのは、映画をさかのぼること25年前、1968年の7月号においてである。 つげ義春は、「ゲンセンカン主人」の1ヵ月前に「ねじ式」を発表しており、一部の読者のあいだでおおいなる衝撃をもって受け止められていかが、「ゲンセンカン主人」もまた、「ねじ式」に優るとも劣らないほどの評価を持って迎えられた。 あらすじを紹介しておこう。死んだような静かな温泉町にやってきた中年男は、駄菓子屋の老婆から、ゲンセンカンの旦那にウリ二つだといわれる。日本髪を結ったゲンセンカンの女主人は、耳が聞こえず、口も不自由だった。かつてゲンセンカンを訪れた男は、女主人と関係をもち、そのまま宿に留まったという。老婆の話に興味をそそられた中年男はゲンセンカンに泊まろうとする。「そんなことをしたらえらいことになる」と、温泉街の老婆たちが必死にとめようとする。ビュービューと嵐がふきすさぶ中、ゲンセンカンに近づいていく男。旅館の玄関先で恐怖で顔をひきつらせた女主人と旦那がその男を待ちうける。 発表当時、私は、「ゲンセンカン主人」から「ねじ式」以上の戦慄をうけた。この作品は、闇の深淵に迫ろうとする作者の強い意志がうかがわれると同時に、自己破壊の衝動ともいうべき存在論的な内向性が露わであった。たぶん、この作品には、「ねじ式」以上に、作者の思念なりが如実に表されたとみていい。 「ゲンセンカン主人」が発表される数ヶ月前、上州や信州の旅から帰った作者は、深夜、私の住まいを訪ねて、旅行譚に花を咲かせた。そのとき、氏は、群馬の湯宿温泉について、より多くを語ろうとしていた。ワラ屋根のある風景を求めているけど、今でも残っているだろうか?p57~60<ワラ屋根のある風景>高野:桧枝岐の温泉はどういう感じでした。つげ:温泉はどうということはないんです。温泉は、村はずれに共同浴場が一軒ポツンとあるだけで、ですから泊まった宿も普通の風呂だったんですね。そういえば、あとになって泥湯に行ったけど遅かった。泥湯もだいぶ改築されて、ワラ屋根はなくなってましたからね。高野:奥会津の周辺では、あとどこか強く印象に残っている場所はありますか。つげ:ちょっと離れているけど、北温泉なんかも好きですね。高野:北温泉については、エッセイやペン画、水彩画などで何度も紹介していますね。つげ義春といえば北温泉というぐらいで、つげさんの影響で、ぼくも7、8回行っています。じつは1週間前にも、雪の北温泉に行ってきたばかりなんです。つげ:北温泉に近いというか、白河から岩瀬湯本に通じる街道とか、高野さんも行ったことのある勢至堂とかの宿場に興味があったので、会津の方に行ったんでしょうね。高野:会津西街道は、ひんぱんに行ったり来たりしているようですものね。当時、あんな人里離れた街道には、誰ひとり関心もっていなかったと思いますよ。つげ:なんかウロチョロしているんだね(笑)。やはり、古い街道に関心があったからでしょうね。高野:ぼくは、つげさんの持っている地図帳に鉛筆でしるしがしてあったので、そういう宿場の存在を知ったわけですけど、つげさんは、どこから知識を得たんですか。つげ:民俗学者の宮本常一さんの本にでも紹介されていたんでしょうね。ワラ葺きの家や宿場がごっそり残っているとか書いてあったのかもしれない。高野:なるほど、宮本さんの本か。ぼくは、つげさんが行ったり来たりしているころから十数年たって会津西街道へ向かうわけですけど、横川宿に行ってみて、つげさんは70年代の初めころにすでに訪れているので、よくこんなへんぴなところを知っていたなあ、と不思議でしょうがなかった。つげ:そうね、雑誌や旅行案内の本で紹介されることもないしね。なんかありそうだなあ、という勘というものかもしれないですね。ですから、偶然ということかな。高野:「旅籠の思い出」の中で中三依の大黒屋に泊まったら宿の夫婦がケンカをはじめてしまってなんて書いていましたけど、写真をみると、大黒屋もワラ葺きですね。しかし、70年代に入ってもまだ宿屋をやっていたということは、泊まる人がいたということでしょう。あのへんに民宿はまだなかったころですものね。つげ:商人宿ですね。あそこで、すこし話を聞いているんですけども、泊まる人は、やはり商人なんですよ。雪の深いところですから、行商人がやってくるんです。ですけど、だんだん商人よりも釣り客が増えてきたと言っていました。高野:釣り客といえば、つげさんにすすめられてはじめて岩瀬湯本に行ったとき、ゴールデンウィークのせいもあって、湯口屋は釣り客がいっぱいで、泊まれなかったんですよ。味気のない別館の方に案内されてしまった。 そうですか、会津西街道の存在は知っていたけれども、中三依や横川の宿場にあんなワラ葺きが残っているとは、想像もしていなかったんですね。つげ:そう、本当に偶然だね。あの近くに山王峠というのがあって、そこにも宿場があって、本陣が残っていたんですよ。つげさんの“多摩川体験”が載っています。p281~282<「散歩の日々」「無能の人」と武蔵野> さて、いよいよ調布篇のクライマックスである。「無能の人」シリーズが『COMICばく』に発表されたのは、1985年6月から翌年の12月までだった。「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」「カメラを売る」「蒸発」の6篇で構成され、独立したそれぞれが、ユーモアとエロスに富みつつも、奥行きの深い秀作として結実していた。 その根底に横たわっていたのは、孤立感であり、またあるとくべつの虚無感であったりしたのだが、全体を包み込んでいたのは、読み物としての娯楽性であったと言えよう。 十数年を経た今日、これらの作品は、名作のほまれ高いけれども、発表当時にあっては、マンガベスト100(『COMIC・BOX』誌上)で、マンガ評論家、読者を含め誰ひとりとして1票も投じていなかったのだ。けっきょく、竹中直人の映画化によってあらためて注目されることになったといってもいい。この事実は、マンガ評論家のお粗末さを物語っている。 ところで、当シリーズのなかで「鳥師」はさらに一段と抽象性の濃い、そして精神性の強い作風を示していた。もちろん、「鳥師」とて、多摩川の河原で石売りにはげむ助川助三の貧乏物語がベースとなっている。したがって、ここでは、シリーズの代表作ということで「鳥師」をとりあげるにとどめたい。 つげ義春は、1978年から93年までの15年間を多摩川東岸の染地の団地ですごした。この団地は、20棟以上が並ぶ大きなものだった。作者は、団地に近い多摩川の土手を散歩するのを日課としていた。あるとき、河原で石拾いに精を出している老人に出遭い、「無能の人」のモチーフを構想したらしい。 いわば、多摩川の土手道や河原は、作者にとっての憩いの庭というか、生活空間のひとつであったと思われる。団地住まいになる以前の酒井荘や富士マンションも団地からそう遠くない距離にあった。つまり、作者は、「無能の人」までの20年を多摩川ぞいで暮らし続けていたわけだ。多摩川周辺の風景がことさら好みにあっていたのか、それともたんに家賃が安かったからであるのか、その理由は知らない。 作者は、つねづね、山奥でひっそりと暮らしたいという願望を抱きつづけていた。だが、団地住まいをやめたとはいえ、じつは現在も多摩川ぞいで日々を送っているのである。ということは、“多摩川体験”25年に及ぶ。
2015.06.03
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神戸に帰ってからも、ホットスポット調査を続けています。調査を続けていて、つくづく思うのだが、1万円を追加してSIMフリーのタブレットを買っておくべきだったかも・・・・ということです。*********************************************************************【調査結果】1.駅前喫茶店 「設定」バー内のアンテナアイコンをタップしたら、即、ファミリマートWi-Fiサービス画面が現れ、利用規約等に同意するとブラウザ選定画面が続いたので、見慣れたMSN選び・・・好きなサイトにつながったのです。ややこしい初回アクセス時のパスワード設定を省略しているのが、手間がはぶけて、ええでぇ♪ただし、1日の利用は20分×3回という制限があるので、長居をしても1時間までになります。ファミリマートのWi-Fi無料インターネット接続2.ケンタッキーフライドチキン 店の前のベンチに座って試したんですが、「設定」バー内のアンテナアイコンをタップし、現れた回線のうちで一番強い分をクリックしたら・・・何の手続きもなしにネットにつながったのです。店の前でつながるなんて、簡単過ぎてなんだか恐いでぇ♪(これは、何かの間違いだと思うけど、つながったから、まあ いいか)3.西神中央ファミリーマートの前ファミリーマート店の前でトライしたが、快調につながった。4.駅前のマクドナルド公衆無線LAN、Wi2の回線強度がアンテナ表示2本と弱いためか、接続は不調であった。5.神戸のau店内公衆無線LAN、Wi2の回線強度が弱いためか、接続は不調であった。6.田舎のスーパー店内公衆無線LAN、Wi2の回線強度が弱いためか、接続は不調であった。7.中村駅構内初回アクセス時のパスワード認証およびネット接続にはじめて成功したのです♪(タブレット入手後、苦節2週間を経て、4/14にやっとタブレットの本領を発揮したのですー汗)8.中村駅構内2回目にアクセスしたら不調なので、再度パスワード認証をトライし、ネット接続が183日有効となったのです♪溜まっていた50通ほどのメールをチェック。9.神戸市図書館 図書館でFree Spot接続をトライしたら、初回アクセス時のパスワード認証もしないのにつながった。まあ、いいけど・・・どうなっているんだ? なおタブレットのこれまでの導入実績、今後の予定は以下のとおりです(汗)。*********************************************************************【タブレット導入実績、今後の予定】・オフラインで作動確認、説明書確認(4/2)・4/2、4/3中村や徳島道で、ホットスポット接続確認を行ったが作動せず→後日再チャレンジ・自宅ルーターでWIFI設定(4/5済み)・自宅ネットで楽天ブログ管理画面確認(4/5済み)・自宅ネットでウェブリブログ管理画面確認(4/5済み)・自宅ネットでツイッター画面確認(4/5済み)・自宅でOutlook、カレンダー、ストア等のMSアカウントサイン(4/6済み)・Outlook2013のメーラーで電子メールのアカウント作成(4/6済み)・メール受発信テスト(4/6済み)・「青空文庫」から書籍を導入し、作動確認(4/6済み)・紀伊国屋書店Kinoppyに登録(4/7済み)・自宅ネットで楽天ブログのコメントに返事(4/8済み)・自宅ルーターの到達領域を探査(4/8済み) ・自宅ネットでツイッター書込み(4/8済み)・WinXPマシンとタブレットの自宅LAN構築(4/8済み)・WinXPマシンのデータを、タブレットでピン留め表示(4/8済み)・タブレット側のデータをLAN経由でWinXPマシンにコピー(4/8済み)・セキュリティソフトMcAfeeの契約、導入(4/9済み)・神戸でのホットスポット接続確認(4/9、10実施済み)・WinXPマシンの主要データをカードリーダー経由SDでタブレットにコピー(4/10済み)・タブレットに秀丸(エディター)導入(4/11済み)・マウスの作動確認(4/11済み)・ネットから縮専ソフト導入(4/11済み)・Wi2 300 公衆無線LANに契約・導入(4/11済み)・Wi2 300によるマクドナルド接続は不調(4/11済み)・中村駅構内で初回アクセス時のパスワード認証およびネット接続に成功(4/14済み)・中村駅構内で再度パスワード認証およびネット接続(4/20済み)・タブレットからブログ書込み(4/21済み)・父の逝去、葬式があり、調査を中断(4/22~5/11)・MicroSD(東芝製16GB:2660円)を購入し、タブレットに装着(5/12済み)・タブレット撮影動画をMicroSDに移動(5/12済み)・タブレットに現有プリンタのドライバー導入・印刷確認(5/12済み)・タブレットのブラウザをMS-IEとgoogleクロームを併用する(5/12済み)・神戸市の図書館でFree Spot接続確認(5/13済み)・神戸のホットスポットでネット接続テストを継続(5/13~)・フレッツ・スポット(NTT西日本:月額210円)を検討する。・WinXPマシンのブラウザをMS-IEからgoogleクロームに変える(5月下旬頃までに)・GPSアプリ(Google Search無料等)を導入・作動確認(5月下旬頃までに)・タブレットで電子書籍購入、作動確認(5月下旬頃までに)・タブレットで撮影した動画を、youtubeに投稿する(適宜)・各種ソフト・アプリを導入、作動確認(適宜)*********************************************************************【今後の運用及び課題】・メール送受信はタブレットとし、XPマシンでは極力受信しないように設定する。・ワイヤレスDVDドライブ購入検討・文書作成はWinXPマシンが主、タブレットを従とする。・インターネット閲覧はタブレットが主、XPマシンを従とする。(楽天ブログ・トップ画面をインターネット閲覧窓口にするのもいいかも)・タブレットの操作はマウスと画面キーボードの併用が最も快適である。・WinXPマシンのソフト整理&強化(神戸に帰って、息子に依頼)・Win7等の中古パソコンを購入して、現有WinXPマシンを乗りかえる。*********************************************************************【ホットスポット・無線サービスエリア】全国の無線スポット・無線サービスエリアは以下のとおりです。freespot四万十市(無料)・中村駅 、サンリバー四万十 freespot神戸市中央区(無料)・三宮図書館、中央図書館、神戸メリケンパークオリエンタルホテル、神戸空港ターミナルビル2F 、ファミリーマート、ケンタッキー etc.サービスエリア拡大競争に突入? 公衆無線LAN(Wi-Fi)の今公衆無線LANサービス徹底比較! “タダで使える”裏ワザとは?Wi2 300 公衆無線LAN(四万十市)ご参考までに、レノボMiix28導入の汗と涙の軌跡です。*********************************************************************【タブレット導入の軌跡】ホットスポット調査結果42014.04.21ホットスポット調査結果32014.04.15ホットスポット調査結果22014.04.11ホットスポット調査結果12014.04.10ホットスポット調査が昼酒に変わった2014.04.07タブレットの慣らし運転2014.04.05タブレットを買った2014.04.05タブレットにするか32014.03.15XPパソコンをどうするか2014.03.11電子書籍の正体2014.03.08タブレットにするか22014.03.04タブレットにするか12014.02.25電子書籍リーダーはどれ?2013.12.16電子書籍事情はどんなかな?2013.01.13*********************************************************************Windows 8タブレットのデスクトップ画面を指タッチで操作することは、どだい無理なので、大使はUSBマウスで操作しているが・・・次のような辛口批評がありました。Windowsタブレットはタッチでは使いづらい(前編)より1年近く前にWindows 8を搭載したタブレット(ThinkPad Tablet 2)を購入して使ってきた。正直に言ってしまうと、「なんか使いづらいなと」思っており、使用頻度が多くないのも事実だ。Windows 8には矛盾がたくさんあって、タブレットでは使いづらい場面が少なくないのだ。そこで、タブレットでもマウスとキーボードで使ってしまおうというのが本記事のテーマだ。特に、これからWindowsタブレットを購入する方は、ぜひ参考にしていただきたい。 使ってみると、キーボードより、マウスが欲しいわけだ。そこで、おすすめなのは、Bluetooth接続のマウスの利用だ。タブレットには、通常サイズのUSB端子がないので、Bluetoothが便利だ。 Windows8タブレットをマウスで操作すれば、要するにノートパソコンと同じであり・・・ウルトラブックなみに快適なんですよ♪まるごとタブレットWindows XPのサポートがついに終了! 残されたXPパソコンはどうする?
2014.05.14
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民博の常設展示で、プリミティブアート(原始美術)が良かったんですね。私の好みで(強いて言えば元気印を)選んだら・・・こんなん、出ましたけど。アボリジニの色彩感覚がシブイではないですか。 アボリジニの岩壁画アフリカの顔もスゴイわ! アフリカの顔このクマさんが楽しい。 エスキモーのクマプリミティブアートではないけど、民俗アートとして・・・この絵の色気がいいですね。ネプタの絵 池澤夏樹さんがケ・ブランリーとディズニーランドというエントリーで原始美術とミュゼの関係を説いていました。フランス人が異文化の価値に目覚めた契機の一つとして、アフリカ美術がピカソやヴラマンクやアンドレ・ブルトンに与えた影響がよく言われる。 そのきっかけについては2つの説があって、一つはマティスが骨董屋で買ったアフリカ彫刻をピカソがガートルード・スタインの家で見たというもの。 もう一つは、ピカソは初めトロカデロの民族誌のミュゼ(先に書いたミュゼ・ド・ロムの前身)でアフリカ・コレクションに出会ってショックを受けたというもの。 このエピソードは象徴的だ。 つまり当時すでにこの種のものの扱いにおいてミュゼと美術商は拮抗していた。 パリにいた画家や詩人は非西欧との出会いに強いインスピレーションを受けた。 彼らは表現手段を持っていたからそこから作品を生んだが、同じようにアフリカのものに惹き付けられてしかし表現はしなかった人々は(買うだけのお金があれば)それらの品のコレクターになった。 この非西欧の文化と現代美術の出会いは日本においては岡本太郎においてそのまま再現された。 彼はパリ時代に文化人類学に接している。 履歴にはパリ大学民族学科卒とある。 いわばピカソたちの体験を日本文化に当てはめたのがあの縄文好みや沖縄文化への親近感だった。 大阪郊外千里の万博会場に建てられた太陽の塔は、後にそのすぐ近くに造られた民博と起源を共有していたと言ってもいい。 ぼくは鑑賞者として彼の作品をいいと思ったことはないのだが、この歴史的な経緯はおもしろい。民俗アートといえば、ソウルの木人博物館でみた彫刻もなかなかのものでした。
2007.05.05
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図書館で『パリ散歩画帖』という本を手にしたのです。版画家という本業を駆使して、ビジュアル系のエッセイになっていて・・・・ええでぇ♪【パリ散歩画帖】山本容子著、CCCメディアハウス、2006年刊<「BOOK」データベース>より銅版画家山本容子さんが小路を散歩しながら見つけたパリの日常。フランスパンの袋を、カフェのメニューを、メトロの切符を、キッチュにコラージュ。美しい旅の断片が一冊の思い出の画帖になりました。<読む前の大使寸評>版画家という本業を駆使して、ビジュアル系のエッセイになっていて・・・・ええでぇ♪rakutenパリ散歩画帖ルイス・キャロルエッセイのひとつを、見てみましょう。友人がみつけてくれたアパルトマンの初日です。p23~27 <パリが住人として迎えてくれる> さらに、キッチンが使いやすいのが最高。調味料、なべ、包丁、まな板、炊飯器(要予約)、オーブンすべてそろっていて、料理をしようという気分になります。「料理もできる」という簡易キッチンでなく「料理ができる」本格的キッチンです。 テーブルまわりも完璧。グラスやナイフ・フォークから、ランチョンセット、キメ細やかに配慮されています。 実際に暮らしている雰囲気で滞在でき、まさにパリの自宅感覚なのです。 花を買ったりして、自分の好きなCDなどをもってくれば、自分の空間そのものになります。 さっそくぶらっと出かけて、ご近所散策。歩いて2、3分のところに食品店やスーパーが並ぶ商店街を見つけ、果物屋やパン屋にも出かけてみました。色とりどりに並ぶ桃、いちご、りんご、ネクタリン、いちじく、プラム、ぶどう・・・・。日本では高価なアメリカンチェリー1キロとネクタリン6個で約600円。袋の紙袋のグリーンの文字に合わせて、食べる前に別の紙に描いたネクタリンをコラージュしてみました。赤と緑がキレイです。 パン屋にはおいしそうなクロワッサンにパン・オ・レザンやパン・オ・ショコラ。1ユーロで買ったバゲットを抱えて早速パリジェンヌ気分です。 みんなが「Bienvenue a Paris!」(パリへようこそ)とお迎えしてくれているようです。
2017.03.26
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図書館に予約していた『四畳半神話体系』という本を、待つこと5日でゲットしたのです。あれ?小説を予約したつもりだったが、内容は多角的アンソロジーになっているがな。入手した本の正式名は『四畳半神話体系 公式読本』(太田出版)となっています。【四畳半神話体系】森見登美彦著、KADOKAWA、2008年刊<「BOOK」データベース>より私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。<読む前の大使寸評>あれ?小説を予約したつもりだったが、内容は多角的アンソロジーになっているがな。入手した本の正式名は『四畳半神話体系 公式読本』(太田出版)となっています。<図書館予約:(9/19予約、9/24)受取>rakuten四畳半神話体系著者の自己紹介と京都案内のような箇所を、見てみましょう。p7~10<四畳半時代の幕開け> 私が京都大学の農学部に入学したのは、1998年4月のことである。 今から12年前になる。 私は奈良の出身であるから、最初のうちは奈良から通ってもよいと思っていた。家を出たくてウズウズしているような独立心旺盛な若者ではなかったからである。 しかし我が父は、息子を下宿させてやらねばならぬというふうに思っていた。父は学生時代、京大の工学部に在籍していたのだが、当時の父は大阪の実家から通っていた。院生時代は下宿したものの、当時は「間借り」である。自分がそういう暮らしをしたから、息子には最初から「アパート暮らし」の楽しさを味わわしてやりたいと思ったのかもしれない。 あるいは私があまりにグータラであるから、家にいたらますます独立心が失せると考えたのかもしれない。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというが、父は我が子を四畳半に突き落としたのである。千尋の谷に比べればなんと人間味のある試練であろうか。 入学が決まってから、父と二人で下宿を探しに行った。 父は迷うことなく大学生協に足を運び、さっさと二軒の下宿を選んだ。どちらも四畳半である。そもそも私は下宿のなんたるかということも知らないし、ステキなマンションに住みたいとかそんな野望すらない阿呆の子であるから、父にまかせっぱなしである。 紹介された下宿の一軒は浄土寺にあり、もう一軒は北白川の上池田町にあった。 生協で自転車を借り、さっそく現地へ出かけた。 その際、なぜか吉田山を越えた。自転車で吉田山を越えるのはつらい。今にして思えば、父は土地勘があるはずであるのに、なぜ吉田山をわざわざ越えたのか。父は方向音痴である。 最初に訪ねた浄土寺のアパートは、どのあたりにあったのか忘れたが、とにかくその薄暗さに度肝を抜かれた。「下宿生活というものはこんなにも辛いものなのか!」と思った。暗くジメジメした部屋で、まるで座敷牢みたいなところだったので、さすがの父も「これはない」と思ったらしい。 我々はそそくさと次のアパートに進んだ。 父と私は北白川別当の交差点から、東に向かって坂道をのぼっていった。えらくのぼるものだなあ、と思っていると、なかなか立派な鉄筋の建物が見えてきた。私はてっきりそこが自分たちの目指す建物だと思って、「これは立派なもんだ。これなら大丈夫」と安心したが、じつはそれは「北白川学生ハイツ」という建物で、我々の目指している「メゾン仕伏」とは違う建物であった。メゾン仕伏は堂々たる北白川学生ハイツの陰にあり、期待を裏切らない四畳半的気配を濃厚に発散していた。これが四畳半でなければ何が四畳半であるかというのか。 メゾン仕伏の隣にある立派なお屋敷に大家さんが住んでおり、我々はそのおばあさんに挨拶してから、部屋の中を見せてもらった。一軒目のアパートの「いったい何の刑罰か」と思われるほどの座敷牢ぶりに比べれば、この部屋はたいへん明るく清潔に見えた。それはあくまでも比較の問題であるが、比較するものが二つしかない以上、選ぶとすればこちらしかなかった。「ここでいいよ」と私は言った。「立派なもんだ。鍵もある」と父は言った。 今どきの大学生は驚くかもしれないが、父にとっては、「ドアに鍵がかかる」ということが重視すべきステータスであったのである。なにしろ父の時代は間借りであり、間借りというものは家の部屋の一つ使わせてもらうわけだから、ドアに鍵などかからないのが普通であったのだ。つまり間借りすることしかできなかった父からすれば、ドアに鍵がかかるアパートに息子を下宿させるというのは着実な「進歩」であった。 そうして我が四畳半時代が始まったのである。<四畳半開拓時代> その四畳半の思い出について書こうと思っても、何を書いたらいいのか分からない。書いておもしろいようなエピソードや妄想は、さまざまに改変を加えて小説に書いてしまった。 最初のころ、大学というところは私にとってあまり面白くない場所であった。後になって分かったことだが、春の浮き足だった大学ほど不愉快で、身の置き所がないところはない。夢と希望に満ちた新入生たちに囲まれているのはゲンナリするものである。昼食をいっしょに食べる人もいないので、生協でサンドイッチを買っては吉田山をのぼっていき、宗像神社の境内にある社務所の縁側に座って一人え昼食を食べていた。 大学の授業はおもしろいと思えないし、シュレディンガー方程式なんてわけがわからないし、シュレディンガー方程式について語る教授は宇宙人みたいであった。出席する意味があるのかないのか分からない講義を真面目に拝聴したあと、トボトボと四畳半に帰っていき、押井守のアニメのレーザーディスクがレーザー光線ですり切れるほど繰り返し見るのが楽しみという日々だった。ウーム 父親の支援で入居した四畳半であるが・・・著者は入学そうそうに、トホホな状態に陥ったようですね。
2020.09.30
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図書館で『写実絵画とは何か?』という本を、手にしたのです。この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。石黒賢一郎「SHAFT TOWER(赤平)【写実絵画とは何か?】安田茂美, 松井文恵著、生活の友社、2015年刊<出版社>より実物と見間違えるほどの圧倒的な描写力で描かれた女性像、風景画、静物画をテーマ毎に紹介。刊行にあわせて11月からホキ美術館では5周年記念展を開催。また2016年にはホキ美術館展が全国6会場を巡回する予定。<読む前の大使寸評>この本には若い女性を、実物どおりにきれいに描いた作品が多いのだが・・・ワイエスといい、ダリといいスーパーリアリズムは、大使のツボなので、借りたわけです。rakuten写実絵画とは何か?ホキ美術館創設者の想いについて、インタビューで見てみましょう。p234~236<日本の写実を世界へ>安田:ホキ美術館は今年で5周年です。保木:もう5年になるのですね。私はこの美術館を、他に写実の美術館がないからという理由で作りました。世界を見ても写実専門美術館はない。ほかと同じことをするのは嫌なのです。またその時に、地下2階にあるギャラリー8ですが、この美術館の目玉になる展示ギャラリーをつくりました。 まず美術館ができる2年前に日本の代表的な15人の写実画家の皆さんに集まってもらって、「私の代表作」を描いてもらいたいとお願いしました。つまり、「私の代表作」となる意気込みで百号以上の大作を依頼したのです。 それから3年経って、またギャラリー8の展示替えのために作家にお願いして新作を描いてもらいました。発表は2013年の秋でした。代表作家の中では少し人選の入れ替えがありました。個々で描いてもらう作品は、特にテーマは決めず、作家の皆さんに自由に決めてもらっています。私は、ただ質のいい絵を描いてもらいたい。そうして日本の写実絵画が良くなればと思っているのです。安田:ギャラリー8の「私の代表作」ですが、1回目と2回目の作品で違いはありましたか?保木:お客様の反応で、良かったものとそうでないものがありましたし、マスコミがこぞって取り上げた作品もありました。2回とも作風、スタイルが変化しなかった画家もいましたし、大きく変化した方もいます。まさに現役の画家なので、隣に展示される画家や周りの画家たちが次に何を描くのか気にする人もいました。企業もそうですが、いい意味で競争は必要なのですね。安田:なるほど、現役の作家の作品を集める美術館でなければできない企画ですね。保木:それで、今回、この本のために所蔵作品の約四百数十点の中から55点の作品を選びました。できれば、この中で人気投票をやりたいと思っています。風景画ではどれが一番なのか、人間を描いた作品ではどれが一番なのか、静物画は誰が一番なのかというふうに作品の順位、また画家の順位を投票することによって決定する。できるだけ平等に、公平に、お客様に選んでもらいたいと思っています。 来年度以降、ホキ美術館のコレクション展として、全国の4,5ヶ所ほどを巡回する予定ですが、そこでも同じ作品について人気投票をして、どの作品が人気なのか調べてみたい。企業でもそうですが、平等な競争を前提に成績競争をすれば、意外と不平は出ないのです。『写実絵画とは何か?』1
2017.08.02
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図書館で『ネットが生んだ文化』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、炎上、2ちゃんねる、コピー文化、ブログ論壇、等々、気になる言葉が頻出しているわけで・・・物見高い大使の気を引いたのです。【ネットが生んだ文化】川上量生, 伊藤穣一etc.著、KADOKAWA、2014年刊<「BOOK」データベース>よりこれからの日本を支配するネット住民の行動原理とは?非リア・コピー・炎上・嫌儲の4キーワードを理解せよ。【目次】第1部 日本のネット文化と精神風土(ネットがつくった文化圏/日本のネットカルチャー史/ネットの言論空間形成)/第2部 ネット文化を支配する原理(リア充対非リアの不毛な戦い/炎上の構造ー100年後も1000年後も、どこかで誰かが燃えている/祭りと血祭りー炎上の社会学/日本文化にみるコピペのルール/リア充/非リア充の構造)<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、炎上、2ちゃんねる、コピー文化、ブログ論壇、等々、気になる言葉が頻出しているわけで・・・物見高い大使の気を引いたのです。この本は「角川インターネット講座」シリーズ全15巻の1冊で、これまで3冊ほど刊行されているようです。rakutenネットが生んだ文化この本は読みどころが多いので(その2)として読み進めています。大使はツイッターはやるけど、フェイスブックはやらないので、日経のネット記事を紹介するときは不便なんですね。このSNS嫌いはなぜなのか?という個人的観点で見てみましょう。<ブログからSNSへ:佐々木俊尚>よりp96~100■ブログメディアの停滞 とはいえ、この世代間対立とネットvsマスメディアの対立軸の先に、革命や対決がやってきたわけではなかった。この背景要因は多々あるが、ネットというテクノロジーの側面から見れば、ブログ媒体の普及が停滞したということが大きいと考えている。 2005年ごろから普及をし始めたブログは2007年ごろには大きな論壇空間を形成したが、残念なことにはほぼ同時に停滞をはじめる。SNSや携帯電話サービスがブログを上回る速度で普及しはじめたからである。 2007年の段階で、SNS市場で当時先行していたミクシィは利用者数が1400万人。また当時はゲーム中心ではなく、あくまでもSNSだったDeNAのモバゲータウンは、若者を中心に会員数が700万人以上に達していた。インターーネットの調査会社ネットレイティングが2006年に発表した「データクロニクル2006・ファクトシート」によれば、パソコンを使ったインターネット利用者のうち20代の比率は2000年以降下がり続けており、2006年には全世代の11.9%にまで下落していたことが指摘され、ネットの利用度が比較的低いと考えられていた50代の11.8%と肩を並べていた。このファクトシートで、ネットレイティングスの荻原雅之社長(当時)は、以下のようなコメントを加えている。「若い世代で先行していたウェブ利用は、この6年間で着実に中高年齢層に普及しています。また、同時に女性にも普及している様子が見て取れます。一方で、20歳代の比率が減少しているのは、ウェブ利用が全世代にわたり一般化したことによるものですが、携帯電話端末の機能やサービスが劇的に向上し、ECやSNSなどの携帯電話による利用増も要因と考えられます」 つまり自己表現のメディアが、ブログからSNSや携帯電話へと移り変わっていったのがこの時期に起きた。加えて2ちゃんねるの高齢化もはじまっていた。当時、日本広告主協会Web広告研究会が発表した「消費者メディア調査」によれば、2ちゃんねるの主な利用者層は35~49歳の人たちであり、この層が利用者全体の38.3%を占めていることが指摘された。■リアルな社会構成に近づくネット空間 団塊ジュニア世代もだんだんと年を重ね、2000年代後半に入ってくると30代なかばに達してくる。そしてその後に続いてきた1980年代生まれ以降の若者たちは、2ちゃんねるやブログではなく、SNSや携帯電話へと表現メディアを変えていく。そういう転換が起きた。まさに時代は変わる、である。 このころから2ちゃんねるを使う層、「はてな」などでブログを書く層、SNSを使う層、携帯電話中心の層、などさまざまなレイヤーにより重層的にネット空間が構成されるようになっていく。きわめて複雑で全容は把握しにくい。 しかしそれはいってみれば、リアルな社会の構成へとネットの空間が近づいてきたということであり、リアルの複雑さがネットにもち込まれたということでもあったのだろう。90年代終わりごろ、2ちゃんねるぐらいしか言論空間がなかった牧歌的な時代はもはや「遠くになりにけり」となったのだ。■ネット集合知と衆愚 この時期に起きたもうひとつの興味深い現象として、日本のネット言論空間の最大のオピニオンリーダーで、ベストセラー『ウェブ進化論』の著者だった梅田望夫氏が、ネットへの失望を表明して、事実上言論から撤退してしまったという事件がある。 起きたのは2008年11月のことだ。きっかけは梅田氏が自身のブログ「My Life Between Silicon Valley and Japan」に、作家水村早苗氏の『日本語が亡びるとき』という本を好意的に紹介したことだった。 同書はグローバル時代に入って普遍後としての英語の重要性が高まり、インドやシンガポールなどのように自国語と英語を二重言語として使いこなす国が増えていくことを予測して、日本語の将来が暗いということを書いたものだった。これに対して梅田氏は「この本は今、すべての日本人が読むべき本だと思う」と書いたのだが、このブログ記事には批判が多かった。梅田氏が役員を務めるはてなのサービス「はてなブックマーク」では次のようなコメントが見られた。「滅びるんじゃなくて、それ生き物だから…」「一部の限られたエリートしか情報を残せなかった昔とは違い、今は個々人全てがデータの発言元。それが全て英語に置き換わるなどとは思えないのだけれど」「いわゆる『ナントカかぶれ』のなれの果て、かな。とりあえず本の紹介としては最低の文章。浅すぎて読む気が失せる」「書評としてひどい。なんでこんなに中身のない書評がブクマされているのかと思ったらウメダモチオだった」 これに対して梅田氏は翌日、ツイッターでこうコメントした。「はてな取締役である立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。本を紹介しているだけのエントリーに対して、どうして対象となっている本を読まずに、批判コメントや自分の意見を書く気が起きるのだろう。そこがまったく理解不能だ」 これではてなブックマークは大騒ぎになり、炎上状態になった。「バカだからどうだというのだろう。『知的』なユーザー以外ははてブを使うなと言いたいのだろうか」「知らない奴はがたがた言うなという奴はガラスの塔にでも引きこもっていればいい」 これは日本のネットにおける集合知についての、根深い問題を浮き彫りにした。 梅田氏は、本を読んでいないことによる無知から生じる定見の無さを「バカ」と読んだようだが、しかし無知ではなく、自分と異なるイデオロギーや世界観、永久に交わらない論説をもっている人間を「」と見なしてしまう可能性も十分ある。そう考えれば、ネットの世界で所在のよくわからない第三者を「」呼ばわりするのはきわめて危険な行為といえた。 そのようなネット空間の成り立ちを前提として考えると、自分の文章が適切に理解されないのは、相手の質が低いからとは限らない。相手の所属している圏域を書き手の側がどう考慮し、どこまでターゲティングできるのかという、そういう度量の大きさの問題になってくる。書き手がターゲティングしてくれない圏域の読者からは、常に「理解できない」「文章がひどい」「間違っている」という非難が巻き起こるのだ。 そうした非難が起きるのは、彼らがバカだからではなく、彼らをターゲティングしなかった書き手の側に問題がある。ネットの空間はそこまでフラットなのだ。梅田望夫という著名な言論人が炎上にさらされて、その後は著作を断っているという事実に驚きますね。佐々木さんはブログ論壇をフラットな空間と穏やかに評しているが・・・ブログが吐く匿名で無責任な批判など、便所の落書きと大差ないわけで、まともに応対すべき相手ではないのです。(とはいえ、ネット住民としては炎上は怖いのだが)ところで、ミクシィが登場したときも、なにか嫌な気がしたものだが・・・ツイッターのオープンさは良いけれど、SNSの囲い込みが嫌いなわけでおます。だいたい、ケイタイ持たない主義の大使が、何を言っても虚しいのだが(笑)ネットが生んだ文化(その1)
2015.12.13
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図書館で『ビゴー画集―諷刺・風俗素描』という本を手にしたのです。パラパラとめくると、漫画調のもの、実写調のもの、風刺画、とジャンルも多彩で・・・画集と銘打ってあるとおり、とにかく線描画、銅板画のオンパレードなのが嬉しい。【ビゴー画集―諷刺・風俗素描】ジョルジュ・ビゴ-著、岩崎美術社、1973年刊<カスタマーレビュー>より今は亡き岩崎美術社からの「双書 美術の泉」からの1冊。出版社の倒産により現在は古書かバーゲンブックといった方法でしか入手できなくなっています。良質なシリーズでしたので他社からの復刊を望みたいですが、難しいでしょうね。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、漫画調のもの、実写調のもの、風刺画、とジャンルも多彩で・・・画集と銘打ってあるとおり、とにかく線描画、銅板画のオンパレードなのが嬉しい。amazonビゴー画集―諷刺・風俗素描巻末の解説の一部を、見てみましょう。p1~8 <ジョルジュ・ビゴー探索:酒井忠康> 明治19年12月11日の『朝野新聞』に、いささか困惑ぎみの、つぎのような記述がある。 「先年我くにへ渡来し自今麹町五番町辺に住居する仏国の画工ビゴーは我東京市中を徘徊せる紙屑拾いあるいは新内語りなどの緒商人を呼び入れ日本人の最も賤しき状態を写してその本国へ送りやるとのことなるが、これ等は大いにわが国風に関し外人の軽蔑を受ける一端ともなるべければ何とか御免を蒙り度きものなり」。 当時の人たちが、おおやけには、国粋的感情のつよいころであったから、この「仏国の画工ビゴー」にたいする眼も、しぜん厳しいものになっていたのはありそうなことだ。しかし、かならずしもこういった厄介者あつかいにばかりされていたわけではない。ビゴー自身は、フランス人特有の愛嬌のある男で、なかなかの社交家であった。 シャレものではあったが、本質的な画家の眼をもった、かなり切れ味のいい人物である。どんな男かといえば、ビゴーはずんぐりした図体で、まる顔でラテンふうのドジョウひげを生やし、ときどき中折り帽子をかぶっては、ぶらり散見して歩いていたらしい。ニ、三度ビゴーに会ったことのある、長原止水の談によると、ビゴーは、畳の上に日本の机をすえ、マドロスパイプで煙草をすって、いかにも一癖ありそうな人物であったという。 この「一癖ありそうな」男は、パリはカルチェ・ラタンの小官吏の子として、1860年4月7日に生をうけている。早く父をなくし、母の手ひとつで育てられ、そのためか非常に淋しがりやだったそうである。母が余暇に絵筆をもったらしいから、その影響で画家となったのだろう。 1872年に美術学校に入り、肖像画で名高いカロリュス・デュランやレオン・ジェロームの指導を受けた。山本芳翠や藤島武二も。ここで学んでいる。やがて、ラ・ヴィ・モデルヌ社に入り、エミール・ゾラの『ナナ』の挿絵をかいたり、『ル・モンド・パリジャン』紙に挿絵を寄せながら、エドモンド・ド・ゴンクールなどと親交をむすんでいる。日本趣味の洗礼をうけ、1881年(明治14)の暮、日本にむかう。21歳から22歳ころのことである。 日本では、はじめ官職にあって、当面の生活は安定していたわけであるが、どういう理由からか、三味線をひき月琴を愛す好奇心の旺盛な「変な外人」として、粋な日々を送ることになる。■粋なお雇い外国人 ジョルジュ・ビゴーは、「」とか「」などと書いて、日本名にして得意がっていたが、来日したのは、1882年(明治15)1月15日のことである。『』の記事では、明治16年となっているが、『』には、明治15年の1月15日に来日し、10月15日から翌々年の10月14日までの2年間、陸軍士官学校の画学教師になっていることが書かれている。渡部修二郎『』にも同じ記録があり、月給60円のお雇い外国人のひとりだった。(中略)■『トバエ』、官憲を困惑さす さて、ビゴーといえばすぐ連想されるのは、『トバエ』のことである。明治20年(1867)2月から横浜居留地の海岸五番館クラブ・ホテル滞在中に発刊し、和紙に石板刷のもので26冊ほど出されている。月に2回の発行で、ちょうど1年ぐらい続いたことになる。 これもやはり風刺雑誌で、チャールズ・ワーグマンの発行した『ザ・ジャパン・パンチ』につぐものである。『ザ・ジャパン・パンチ』は、奇しくも、『トバエ』発刊の数ヶ月前に終刊している。ワーグマンの筆致にくらべると、ビゴーの『トバエ』は、したたかな諧謔味があって、暴露時代の今日のわれわれにはおもしろい。『トバエ』という名は、平安末期の画僧、鳥羽僧正の戯画にまつわる、いわゆる「鳥羽絵」からとったものだ。 はじめに述べたように、ビゴーの辛辣な政治風刺は、しばしば日本の官憲の眼にふれ、官憲の内部側にも、ビゴーに対する批判がないわけではなかった。(中略)トバエの数枚を見てみましょう。 彼自身、『トバエ』では第一号の表紙にピエロ姿で登場するのをはじめ、ときどき思いがけないところに自分の顔を出している。
2018.01.10
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昨今では、日中韓の歴史認識がトレンディであるが・・・ナショナリズムを静める意味でも、過去の日記(2012.5.24)から「漢字文化圏の成り立ちについて」を読み返してみようと思い立ったのです。****************************************************************************中華思想には反発するが、漢字文化圏という括りが好きな大使である。それでは「日本古代語と朝鮮語」という本で、漢字文化圏の成り立ちについて見てみましょう。【日本古代語と朝鮮語】大野晋編「日本古代語と朝鮮語」毎日新聞社、1975年刊<大使寸評>中国に過剰適応してしまった朝鮮が見えてくるが・・・つくづく日本という辺境の有りがたさが解りますね。Amazon日本古代語と朝鮮語この本の漢字文化のあたりを紹介します。<漢字文化>p120~121 いったい日本、あるいは朝鮮が、なぜ漢字文化を必要としたか。それはご承知のとおり、中国からこの政治の仕組みを学ぼうとしたのです。日本の各地にはたとえば紀の臣、葛城の臣、播磨の臣・・・などと呼ばれる豪族どもがおりました。それぞれの豪族がみな私民を持って独立支配をしているわけです。ところが、そのうちの有力豪族にかつがれた大君というのが起こってきて、各地豪族の持っている私民を取り上げて自分の直轄支配の中に置こうとする。あるいは朝鮮や中国から渡ってきた人たちを職業団体として受け入れ、それをまた朝廷の直轄支配のもとに置いて、品部(しなべ)とし、それから貢物を取り立てようとする。そういう時代になってきて、いよいよ政治の制度が必要になってくるわけです。行政制度が必要になった時代というのは、おそらく倭の五王のころでしょう。そこで倭の五王が、あれほど頻繁に中国に使いをやる。何を学ぼうとしたか。何はともあれまず、この官僚制度を学ぼうとしたのです。 それの具体的なあらわれは、後のトヨミケカシキヤヒメ(推古)のときに、いわゆる「十六階の官位」を制定し、そして「十七条の憲法」を発布して、「私民を廃して公民とせよ」「この世の中に二人の王があってはいけない、大君が全国を統一するのだ」そういう意図をはっきり「憲法」としてうち出します。さらに下って、「大化の改新」に至って初めて「律令制」を日本に取り入れるということになってくるわけです。だから中国の文化を必要としたというのは、要するにそういう全国支配の官僚体制、政治の知識がほしかったわけです。でなければ、万里の波濤を越えてあんなに頻繁に使いを出すものですか。漢字文化というのは、漢字文化というのは、徹底的に「政治的なもの」であるということを、日本の歴史のがわからもご理解いただきたい。 なお、ここでちょっと申し上げますが、「律令」の律というのは刑法のことです。漢の刑法のことを「漢律」と申します。そして令というのが、いまいいましたような、官庁の組織法です。ですから中国の律令制度は、秦の始皇帝に始まり、漢の時代に大躍進を遂げ、魏の時代に完璧になった。その律令制度を六朝の宗の国へ行って学んできた、これが倭の五王が使いを出した原因です。またそれを隋の王朝へ行って学んできた、それがトヨミケカシキヤヒメ(推古)のときに遣隋使が行った原因です。同じように、遣唐使を出した主たる目的も、やはり唐の行政組織と行政のやり方を輸入する、それが最大の目的でございました。 同じことは百済についてもいえます。百済が五世紀から六世紀にかけて、「郡県のごとし」(魏書にみえる言葉)といわれる地方の役所を置くようになります。それから宮廷の内部にも「内官」というものを置くようになります。それから冠位の制定も決めます。やや遅れて新羅も冠位の制定をする。そういう時期になって百済も新羅も盛んに中国の文化に取り入れるわけです。その主たる目的は、いうまでもなく律令制を取り入れるということにあったわけです。そのほかの、たとえば暦だとか、天文だとか、薬草・食品だとかは付随的に入ってきたのであって、主たる目的はあくまでこの官僚制を導入することにあったわけです。日本古代語と朝鮮語では、漢字をどう読んだのか?・・・・文献はあるがテープレコーダーが無かったので、学者の間で好き勝手な推論が飛び交っています。<漢字の訓読み>p159~161 鈴木:ところで、朝鮮では漢字の万葉仮名的な一時一音的な表記がありますね。それから、かなり早い時代に、漢字の意味をそのまま朝鮮語に当てはめたり、あるいは訓読みのような形で使ったりしていますが、これについてお話ししていただけませんか。大野:「郷歌」の文字の使い方は、「万葉集」の巻一、巻二などの古い書き方に非常によく似ていますよ。むしろ一時一音という「古事記」の表記は新しいんですね。そして意図的にきちっと整理して使ったものです。「万葉集」巻五は、大伴旅人の歌に、当時唐の都に留学したという山上憶良の歌などを収めたものですが、これは一時一音になっている。それから東国の歌を集めた巻十四--これがまた東歌で大和地方とは非常に言葉が違っているものだから、手直ししてある。これは時代にどうも問題点があります。 巻十五が新羅に遣使された人たちのもので、これも一時一音、巻十七~二十はそれぞれ用字法が違っているので、これはおそらくさまざまの書き方がしてあるのを四人の人に一時一音に直させたんだろうというのが私の見解です。ともかく「古事記」のほうが新しいんです。むしろ「万葉集」だけについていえば、巻一、巻二などは音もあり訓もあり、その他いろいろに当てて使う点で、郷歌の書き方と同じなんです。ともかく場合によっては、「万葉集」の古い時代の書き方は、朝鮮から習ったものであり、それを日本的に当てはめたものであると考えます。梅田:鈴木先生のおっしゃった一時一音表記というのは史読や吐のことだと思いますが、史読というのは文書類に用いられた表記法で文を書き表す時にその実質的な意味を表す部分は主として漢語で表記し、助詞や助動詞などの文法的要素に当たる朝鮮語を漢字の音や訓を借りて表したものであり、また、吐は漢文につける送り仮名のことでこれも漢字の音や訓を借りて表記されました。吐には漢字の略体も使われ、日本の片仮名と形が同じものもあります。 しかし、史読にしろ吐にしろ、いわば漢文表記の補助手段ですが、郷歌は朝鮮語の文全体を漢字を使って書き表している点でちがっています。おっしゃるとおり、成立は郷歌のほうが恐らく先行すると思います。ただ史読の前身ともいえるような漢字使用法が新羅の金石文に見られますが、これはかなり古いといえます。なお、史読と吐について言えば、それに含まれている語法から考えると、史読はかなり古い語法を含んでいてその成立が吐よりも古いことを思わせます。前述の郷歌式の表記法はその後用いられなくなりましたが、史読や吐は近世まで使われました。鈴木:そうすると、中国から朝鮮へ漢字が入ってきたときに、それを最初に表記したときは最初から一時一音と訓読みの両方が入っていたのかどうかということですが。大野:最初は漢文ですよ。鈴木:固有名詞の読み方なんですけれども、たとえば新羅の王子の名前が波珍(ハトリ)という形で出てきます。珍という字にトリという音を当てていて、これは三品彰英さんが訓読みだということをおっしゃっています。ですから、いわゆる訓読みのようなものと音読みとが、最初からごっちゃに使われたのか、それともどちらが先なのかということについてお聞きしたいのです。大野:それは中国語に習熟している人なら全部漢字音で、漢字で書くでしょう。ところが、十分中国語に習熟していない者は最初から混同して書きますよ。漢語に習熟するということはたいへんやっかいなことですからね。長田:『古事記』については成立上そういうことが考えられるかもしれませんが、いわゆる推古朝遣文の仮名書きは一時一音です。それから『古事記』の序文で例の有名な、一時一音で書くと趣旨が長くなるからやめるというくだりを見ると、一時一音のほうが先にあったというふうに考えられる。鈴木:『古事記』の序文は、日下(クサカ)とか帯(タラシ)はそのままで使って一時一音にはしないとも言っていますね。大野:一時一音にすれば、倭国の言葉を倭国の言葉としてはっきり書くことはできる。しかし、それは、今度は長々しくなるからわずらわしい、そういう意味じゃないですか、序文のあのくだりは。
2015.10.19
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「建築」でしょうか♪<大学図書館>・民家造・日本伝統の町・海のシルクロード<市立図書館>・あんぽん・小泉武夫のほんとうに美味い話図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【民家造】安藤邦広著、 学芸出版社、2009年刊<みんなのレビュー>よりカラー写真や白黒の写真が思った以上に豊富。前半は「素材を生かす技」ということで民家に使われる素材(材木の使い方など)について、後半は「暮らしを映すかたち」というテーマで、暮らし方などが見えてくる内容になっています。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、カラー写真やモノクロ写真が多く、大使の好きなビジュアル本となっています。rakuten民家造************************************************************【日本伝統の町】河合敦編、東京書籍、2004年刊<「BOOK」データベース>より故郷へ帰ってきたような、そんな心やすらぐ旅ができる町並みガイド。<読む前の大使寸評>目次を見ると、蒼々たる伝統的建造物群保存地区が並んでいるのです。町並みの種類としては、集落、宿場町、港町、洋館群、商家町、産業町、社家町、門前町、武家町・城下町となっています。amazon日本伝統の町************************************************************【海のシルクロード】辛島昇, 大村次郷著、集英社、2000年刊<「BOOK」データベース>より絹、香料、陶磁器、馬…。ジャンクやダウ船が風に乗り、港から港へと人類の夢を運んだ。十数世紀に亘る海上交易の壮大なドラマを探る、豊穣アジアの旅。<読む前の大使寸評>人民解放軍の海洋覇権にさらされて現在の中国沿岸にはロマンもへったくれもないのだが・・・古代から中世までは別で、『海のシルクロード』のロマンが感じられるのです。rakuten海のシルクロード************************************************************【あんぽん】佐野真一著、小学館、2012年刊<みんなのレビュー>より佐野眞一著の「孫正義伝 あんぽん」を読みました。孫という名字から「在日の人なのかな?」とは思っていましたが、「あ、やっぱりそうなんだ。」とまずは思いました。在日の方に対する日本人の差別は今に始まった事ではありませんが、私が思っていた以上に差別があるのには驚きました。まず、在日の方は官僚(公務員)になれないのにはビックリしました。<読む前の大使寸評>今では、トランプさんとサシで話をするほどの経済人であるが…起業したてのころは、かなりはったり気味で、胡散臭かった孫さんだったことを覚えています。rakutenあんぽん************************************************************【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんといえば、以前『発酵する夜』という著書を読んだことがあり、発酵の権威として覚えていたのです。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き191R
2017.01.07
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「グラッフィック本」でしょうか。とにかく、写真の多いグラッフィックな本が読みやすくて、ええでぇ♪<市立図書館>・芸術新潮1月号(特集:つげ義春)・本の雑誌2月号(特集:古本屋で遊ぼう!)・司馬遼太郎が愛した「風景」<大学図書館>・京の遺伝子・職人・工芸の博物誌図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)*************************************************************【芸術新潮1月号(特集:つげ義春)】雑誌、新潮社、2014年刊<内容紹介>より本日12月25日発売の芸術新潮2014年1月号(新潮社)では、「大特集 デビュー60周年 つげ義春 マンガ表現の開拓者」が組まれている。特集には4時間に及んだという、つげのロングインタビューを収録。リアリズムを追い求めた作風のこと、好きな映画や音楽について、近頃の生活ぶりなど、幅広い話題が展開されている。聞き手は美術史家で明治学院大学教授の山下裕二が務めた。<大使寸評>大使の場合、つげ義春と言えば漂泊とか鄙びた温泉になるのだが・・・この特集号はそのあたりについても触れています。つげさんは25年以上の休筆・隠棲状態にあるそうだが…過去の遺産で食っていけるほど、すごいマンガ家だったんでしょうね♪natalie芸術新潮1月号(特集:つげ義春)芸術新潮1月号(特集:つげ義春)byドングリ【本の雑誌2月号(特集:古本屋で遊ぼう!)】雑誌、本の雑誌社 、2014年刊<内容紹介>より中古本につき説明なし<大使寸評>古書店巡りの醍醐味といえば、店主の設けた破格の(物知らずの)安値ではないでしょうか♪・・・ということで、古書店巡りが好きな大使である。この本では、「古本トリオ、神戸に行く」というツアールポが載っているが、神戸市民としても驚くほどのディープさである。rakuten本の雑誌2月号(特集:古本屋で遊ぼう!)【司馬遼太郎が愛した「風景」】芸術新潮編集部、新潮社、2001年刊<「BOOK」データベース>より日本のすみずみに、多くの旅をかさね、『街道をゆく』はじめ数々の名エッセイをのこした司馬遼太郎。その網膜に刻まれた地を訪ねゆけば、誰もがなつかしむ日本の「原風景」があり、愛した美術品に向かえば、それを生んだ真摯な魂が透けてみえる。作家をなぐさめた自宅庭や住居のたたずまい、司馬遼太郎記念館(安藤忠雄設計)の全貌も収録。【目次】1 この国を旅するー紀行エッセイ傑作選(涙腺が痛む私の“原風景”竹内街道(奈良県当麻町)/消えた琵琶湖、安土城趾(滋賀県安土町)/竜馬が駆け抜けた“脱藩の道”梼原街道(高知県梼原町) ほか)/2 美しきものとの出会いー美術エッセイ傑作選(絵を描く善財童子須田剋太/司馬流“日本甲冑小史”/きわどく生きた八大山人 ほか)/3 東大阪の家(「司馬さん」は黄色い花が好きでした/安藤忠雄設計司馬遼太郎記念館オープン/司馬遼太郎との対話の場に ほか)<大使寸評>東大阪の司馬遼太郎記念館に2回ほど行ったことがあるが・・・ここの雑木林風の庭がいいですね。これも司馬さんが愛した「風景」なんでしょう♪この本でも、記念館の中や庭の写真が多数見られます。rakuten司馬遼太郎が愛した「風景」【京の遺伝子・職人】山本良介著、山本良介、2004年刊<「BOOK」データベース>より京都の伝統に挑む!綿々と続く匠の技。この技が無くなれば京都の未来はない。引き継ぐのは次代の若者たち。【目次】指物師ー当時修業に出されてよかったと思っとります。井口彰夫(井口木工所)/表具師ーはい、精一杯やっています。精一杯が原点です。中島實(株式会社静好堂中島)/竹職人ー竹の職方は長寿です。うちのおやじもあの歳でピンピンしてます。井上定信(株式会社竹定商店)/数奇屋大工ー道具箱の道具を見たらその人の力は一目瞭然。田中重夫(株式会社数寄屋)/宮大工ー親父が築いてくれた『澤甚』を守ります。澤野洋平(澤甚株式会社澤野工務店)/洗い職人ー俺がそうさせているのかもしれんけど、俺もようわからん。野口米次郎(洗い屋野口)/柿・桧皮葺き師ー家業のトントン葺き、まったく知らないわけでもない。宮川義史(有限会社宮川屋根工業)/板金職ー同じやるならもっときれいな値打ちのあるものをつくりたい。田原広美(有限会社田原板金製作所)/塗装職ー現場の現況をしっかり把握しとかんとえらい目に合いますさかい。藤本進(株式会社藤本)/蝋型師ーじっくり粘りに粘ってつくり出します。根気ですねえ。山崎貞一(山崎蝋型工芸)〔ほか〕<大使寸評>「資源のない都」ゆえに分業システムが発達したようです。つまり、京都人は農業を含めてすべての人が「職人」だったという歴史的な土地柄が、京都人の知恵だったのでしょうね。rakuten京の遺伝子・職人この本の冒頭部が、京都の特質を表しています。<「奇跡の街 京都」だから職人が生まれた>よりp2~5 京都は資源の乏しい地である。この資源の少ない地に「都」が開かれた。当初の国づくりは帝にしろ民衆にしろ、どうして生きてゆくのだろうと思うような土地である。市中の面積も実に狭い。当面食べていけるだけの大規模な農産物をつくる場所はない。 「人が集まるところ」に「物」が集まる。この原理しか説明がつかない。不思議な土地柄である。 当時この地は十数本の川が流れ、いたる所が沼状であった。豪雨があろうものなら三方を山が囲む盆地には、すさまじい水が流れ込み、水浸しであったはず。そこへ「都」を移す。度胸と根性物語である。しかも盆地のど真ん中に内裏を築いた。言い換えればわずかに残る皮一枚ほどの端地が農耕地であった。 都とは、永続的なもののはず。天候穏やかで、資源が豊富、天災地変が少なく、いい水があるところが「都」の条件なのだが、なるほど、嫌と言うほどいい水はあるが、その他の条件は整っていない。 そんな「京」が1200年の歳月を持ちこたえてきたのである。 奇跡か魔界の仕業としか思えない。 湿度一杯でむせ返る。物は腐る。シロアリなどの害虫の繁殖の地で、しかも川の氾濫。何をとっても人が生きるには大変難しい地であった。 京の人、耐えるに耐えきれず、どこかに移動しそうなものなのだが、神社仏閣、町屋群を建て、しかも木造建築でいつ腐るかもしれない素材で人々は暮らし続けてきた。 何か別のところで不思議なことでもなければ不可能である。その不思議なことがあった。それは目に見えない「人の知恵」である。 かつて人びとには「手の職」という武器が養われていた。裏返せば「資源のない都」ゆえに何か手に「職」を持たないと生きてゆけない。 京都人は、農業を含めてすべての人が「職人」であった。かつてから京都にあるものは、竹と川魚のみである。何かをやらなければ生活の保障はない。 あらゆる資源は他の土地から送られてくる。その資源をどう使うかが勝負。食材にしかり、衣服にしてもそう。素材の付加価値をどこまで高められるかであった。衣食住すべてにわたってである。 僕のような建築の分野も同じこと。知恵と技術の世界でのものづくり。例えば檜は吉野、木曾、欅や楠は各地方の山で切り出され原木のまま京へ運ばれて加工され、匠の技で建築材に昇華。そして見事な寺建築になり、寺社社殿になり、大衆の家々となるように大変身させるのである。 知恵のすべてが職人の手。まるで「神の手」と言っても言い過ぎではない。【工芸の博物誌】日本工芸会編、淡交社、2001年刊<「BOOK」データベース>より伝統工芸は一つの総合芸術である。それは、さまざまな技術の連鎖に支えられ、その頂点に花開くものである。【目次】手わざの文化と現代/陶土/陶石/青花/烏梅/柿渋/布海苔/天蚕(山繭)/和木・唐木/漆/朱/胡粉/研炭/「土作りはやきものの基本ですね」<大使寸評>工芸品の素材は、つまりアートで言えばマチエールである。市井のアートをつかさどる職人たちは、生活態度は慎ましいが・・・職人たちの素材や道具に対するこだわりは、厳しいようです。東急ハンズに行くと、樹木系の素材につい目がゆきます。(大使の場合)rakuten工芸の博物誌木肌フェチとでもbyドングリ*************************************************************とまあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き62図書館大好き(目録)
2014.06.03
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百田尚樹さんと言えば「永遠の0」の著者でもあるが『探偵!ナイトスクープ』のチーフ構成作家を24年も続けているそうです。若しかして、この番組が作家:百田尚樹を育てたのか♪とも思うのだが・・・・次のエントリーを見て、なるほどと思った次第です。10/16「探偵!ナイトスクープ」 大阪らしさを追求 作家・百田尚樹も構成を手掛ける「日本のスピルバーグ軍団」より 関西における占拠率で、時にNHK『紅白歌合戦』を凌ぐ長寿番組がある。テレビ朝日系朝日放送(ABC)が制作する『探偵!ナイトスクープ』(以下、『探偵!』)だ。 視聴率ではなく占拠率? あまり耳慣れないかもしれないが、視聴率が地区別のモニター全世帯(関東・関西・中京の3大都市圏で600世帯、その他の24地区は200世帯)を対象にした調査であるのに対し、占拠率はその中でテレビ受像機の電源を入れていない世帯を除く=地上波・BS・CSなどいずれかにチャンネルを合わせている世帯の番組別シェアを示す数値である。<占拠率65%を記録した人気長寿番組> スタジオを一つの探偵事務所と想定し、視聴者からの依頼に基づき世の中の謎や疑問を徹底的に究明することをめざした娯楽番組『探偵!』が、関西ローカルで始まったのは1988年3月。放送は金曜日の深夜で、平均視聴率は毎回20%前後~30%台前半を維持し、占拠率は65%に達したこともある。テレビをつけていた世帯の3分の2が、『探偵!』にチャンネルを合わせていた勘定になる。 番組はその後全国で放送されるようになり、東京では今、東京メトロポリタンテレビジョン(MXTV)が2週間前の番組を土曜日17時に編成している。 「この世のあらゆることを探る」探偵局の局長は、初代が上岡龍太郎だったが現在は西田敏行が二代目局長を務める。秘書は松原千明、岡部まりを経て、現在の松尾依里佳に引き継がれている。また、探偵役にはスタート時、北野誠、越前屋俵太、清水圭などが名を連ね、今は桂小枝、間寛平、松村邦洋、竹山隆寛、石田靖などが走り回っている。顧問として“浪花のモーツァルト”ことキダ・タロー、西田局長と同じくらい涙もろい桂ざこばなどが出演する。番組スタート当初から構成を担当しているのが、6年前『永遠の0』でデビューし『影法師』『ボックス!』などの作品がある作家の百田尚樹だ。<通りすがりの人も番組に協力>今年5月25日放送分(東京6月9日)では、「双子の男の子を保育園に入園させるため、その第一歩として書類を提出しなければならない。書類には自宅から園まで歩いて何分かかるか記入する必要がある。大人の足では7~8分だが、ハイハイしか出来ない子どもが何分かかるか測ってみたい」などの依頼を取り上げた。 番組では、550メートルの距離をハイハイで行くことに。道路に厚手のビニールシートを敷き、手袋に膝当てと完全防備の双子はスタート。両親は傘をさしたり体調を気遣う。向こうから手をつないでやってきた母子が、物珍しげにその様子を見守る。双子がぐずったり前に進まないと、近所に住んでいるが親しくしているわけではない母子やまったく関係ない通りすがりの乳幼児が“助っ人”としてバトンを受け、前に進む。探偵さん(麒麟の田村裕)が「大人の事情があってね」と弁明したり、「ありがとうね」と感謝する。燃え尽きたように熟睡モードに入る赤ちゃんがいる一方で、女の子が逞しく前に進む。買い物客で賑わうスーパーの店内などを通り、3時間12分で保育園のゴールした。<東京の視聴者からは批判の声も> 「ハイハイで保育園」には東京の視聴者から「熱い日中にあまりにも無謀。虐待ではないか」との意見・苦情が寄せられたという。ところが、関西では「良かったね」。番組を通じて同世代の母子ネットワークも出来た。同じ番組でも、関東と関西ではこうも反応が違うものかと思う。 番組を基に東西における言葉・文化・生活習慣の違いをまとめたのが、93年7月に刊行された『全国アホ・バカ分布図考―はるかなる言葉の旅路』(太田出版、新潮文庫)だ。そのもととなったのは「アホとバカの境界線を探せ」(1990年1月放送)で、書籍には、視聴者からの情報提供、全国の市町村へのアンケート調査、スタッフとアンケート回答者とのやりとりなどが盛り込まれ、原稿を書いている途中に方言学の学会「日本方言研究会」でその研究成果を発表したほどである。学会を巻き込んだメディアミックスを展開した番組は、後にも先にも『探偵!』くらいのものだろう。 自由闊達な雰囲気を醸し出す大阪の老舗局ABC。.同局は1956年12月にテレビ放送を始めたラ・テ兼営局だが、その歴史はキー局のテレビ朝日の前身日本教育テレビよりも古い。 『てなもんや三度笠』『プロポーズ大作戦』『新婚さん、いらっしゃい!』『必殺仕掛人』『驚きももの木20世紀』などの番組で知られるが、報道・情報系番組の視聴率が高いことでも知られる。『ニュースステーション』から現在の『報道ステーション』に至る平日夜の報道番組は、関東より関西の視聴率のほうが高い。平日朝のローカル報道・情報番組『おはよう朝日です』を始めとするブランド戦略がしっかりできているのだ。『探偵!』を除く娯楽番組制作の軸足は東京に移しているが、大阪発の番組は、放送文化の多様性を測るバロメータになっている。長寿番組「探偵!ナイトスクープ」を、こよなくチェックしている大使であるが・・・一方で東京発のバラエティ番組が肌に合わないのか、全てスルーしているのである。関西のコンプレックスか?と思わないでもないが、要するに娯楽番組の巧拙が如実に表れているだけかも知れないな~。局長の西田某という人を関西人に変えてくれると、モアベターなんやけど(笑)百田 尚樹のおすすめランキング全国アホ・バカ分布図ちょっと横道にそれるのですが・・・・百田さんと松本プロデューサーの拘りということで、「全国アホ・バカ分布考」を紹介します。「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#1「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#2「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#3「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#4「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#5「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#6「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#7「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#8「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#9
2012.10.29
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村上隆の『芸術起業論』個人的に気になる3人の村上さんがいるけど、その1人が村上隆なんです。(ちなみに、あとのおふたりは村上春樹、村上龍です)日本画壇が目をむくような、村上隆の『芸術起業論』を読んでみましょう。【芸術起業論】村上隆著、幻冬舎、2006年刊<内容紹介>よりすべての人(=アーティスト)は起業家である! 芸術には、世界基準の戦略が必要である。「光を見る瞬間」をどう作るか!? サザビーズオークションで1作品1億円で落札された村上隆が説く、超ビジネス書。<大使寸評>芸術起業という言葉自体に矛盾を孕んでいるけれど、世界に打って出た村上隆さんが、その矛盾を蹴飛ばすようにぶち上げた持論が面白いのです。成せば成る!何事もガッツが肝要なんでしょうね。Amazon芸術起業論この本のエッセンスを紹介します。<芸術には、世界基準の戦略が必要である>p25~30より 日本の美術の授業は、ただ「自由に作りなさい」と教えますが、この方針にしても、欧米の現代美術の世界で勝ち抜くためには害になりかねません。 自分勝手な自由からは無責任な作品しか生まれません。 欧米の美術の文脈の下地を把握しなければ、美術の本場に「ルールの違う戦い」を挑むことになり、戦う以前に相手にされないのです。 欧米を中心にした芸術の世界で取引されているのは、人の心です。 芸術の世界に踏みこめば踏みこむほど、アーティストの目的は人の心の救済にあるのではないかと感じるようになりましたが、それなら、自分の欲望をはっきりさせなければなりません。 芸術家は、欲望とどうつきあうのかを強く打ちださなければならないのです。 ものが欲しい。カネが欲しい。権力が欲しい。女にモテたい。出世をしたい。 欲望の強さは芸術制作の邪魔にはなりません。むしろ問題は日本の芸術家に強烈な欲望がないことです。 (中略) 美術雑誌の最近数10年の最大のクライアントは美術大学受験予備校、そして美術系の学校です。 大学や専門学校や予備校という「学校」が、美術雑誌を支えているわけです。金銭を調達する作品を純粋に販売して生業とする芸術家は、ここで尊敬されるはずがありません。これは日本の美術の主流の構造でもあるのです。 「勤め人の美術大学教授」が「生活の心配のない学生」にものを教え続ける構造からは、モラトリアム期間を過ごし続けるタイプの自由しか生まれてこないのも当然でしょう。 エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った楽園が、そこにはあります。 世界の評価を受けなくても全員がだらだらと生きのびてゆけるニセモノの理想空間では、実力がなくても死ぬまで安全に「自称芸術家」でいられるのです。 生徒が教師になり続ける閉じた循環を奨励する雑誌の中で、「芸術家の目的は作品の換金だ」と主張できるはずがありません。その現場に教師たちが直面していないからです。つまり、日本の美術雑誌とは、美術学校での活動をくりかえすための燃料に過ぎなかったのです。 芸術家も作家も評論家も、どんどん、学校教師になっていきますよね。日本で芸術や知識をつかさどる人間が社会の歯車の機能を果たせる舞台は、皮肉にも「学校」しかないのです。 文化人の最終地点が大学教授でしかないなら、若者に夢を語ってもしかたがありません。 「今の若い連中のやってることは、だめなんだよなぁ。俺たちの夢は、こうだったんだぞ!」大学機構に守られている表現者が夢を語っても、それは本当に夢でしかありえませんから。 今、企業家たちがもてはやされつつも嫌われているのは、夢を実現させているからだとぼくは思うんです。夢があるならこんなふうに実現すればいいというマネジメントが立証されてしまったら、先生と生徒たちが何十年も飲み屋で酌み交わして夢のような話が一瞬にして無になりますからね。 戦後何十年かの日本の芸術の世界の限界は、「大学教授の話は日本の中で閉じている酒場の芸術談義に過ぎなかった」と認められないところなのです。 なかなか威勢のいいコメントですね。 村上隆さんが美術雑誌や美術大学教授や、はたまた自称芸術家によせる強烈な批判が表明されているが・・・・何かよっぽど酷い仕打ちを受けてきたのではないでしょうか(笑) でも、その批判は画壇の正論とは言い難いが、概ね日本の惨憺たる状況を言い得ていると思うのです。とにかく、功成った反逆児のコメントは、村上春樹にしろ、ジョブスにしろ颯爽としていますね。<なぜ私の作品は1億円で売れたか>p34~37より 2006年5月、ぼくの作品にオークションで1億円の値段がつきました。2003年に他の作品が6800万円で売買されて以来、ぼくの作品は「日本人の一つの芸術作品としては史上最高額の価格がついている」と語られていますが、こうした値段には理由も背景もありましし、ぼくには「すごく高額だ」とは思えません。 美術作品制作のコストは高くつくからです。 新しいものや新しい概念を作りだすには、お金と時間の元手がものすごくかかります。お金や時間を手に入れなければ「他にないものをひきよせるために毎日研究をすること」は続けられません。 つまり、ビジネスセンス、マネジメントセンスがなければ芸術制作を続けることができないのです。 ぼくの作品はまさにその傾向の一つだと思うのですが、なぜそういうことが起きるのか、というと「作品の価値は、もの自体では決まらない」からでしょう。 価値や評価は、作品を作る人と見る人との「心野振幅」の取引が成立すればちゃんと上向いてゆくのです。 1作品1億円の価格を理解するには、欧米と日本の芸術の差を知っておく必要があります。 欧米で芸術作品を制作する上での不文律は、「作品を通して世界芸術史での文脈を作ること」です。ぼくの作品に高価がつけられたのは、ぼくがこれまで作りあげた美術史における文脈が、アメリカ・ヨーロッパで浸透してきた証なのです。 マルセル・デュシャンが便器にサインをすると、どうして作品になったのでしょうか。既成の便器の形は変わらないのに生まれた価値は何なのでしょうか。 それが「観念」や「概念」なのです。 これこそ価値の源泉であり、ブランドの本質であり、芸術作品の評価の理由にもなることなのです。 くりかえしますが、認められたのは、観念や概念の部分なのです。(中略) 「アートを知っている俺は、知的だろう?」 「何十万ドルでこの作品を買った俺って、おもしろいヤツだろう?」 西洋の美術の世界で芸術は、こうした社交界特有の自慢や競争の雰囲気と切り離せないものです。そういう背景を勉強しなければ、日本人に芸術作品の真価は見えてこないのだと思います。ええ、くだらない金持ちの戯れ事ですよ。でもそれを鼻で笑いたければ、世界の評価基準に対して一切口出しをしないでほしいわけです。 たとえば、ぼくの作品に6800万円の値段をつけてくれたのは80歳近いアメリカの老夫婦で、既に会社を売って隠居されている方でした。 アメリカの富裕層には評価の高い芸術を買うことで「成功したね」と社会に尊敬される土壌があります。そういう人たちが、商売相手なのです。ふむふむ 村上は“欧米の無知な富裕層にふっかけているという冷めた認識”も持ち合わせているようで・・・・心強いですね♪ <芸術は想像力をふくらませる商売である>p49~51より ぼくはアメリカでは成功をおさめましたが、日本では敗残者に近いものでした。どちらかというと、もうそろそろ、アートをやめようかなぁと考えていました。 ほとんど国外移民のような気持ちで渡米して、「やるしかない」と思っていたからこそ何とか勝てたような気がします。 「かっこいいところに行きたくて海外に進出した人」は、海外での生き残り戦略の必死さに追いつけなくて負けてしまいます。 日本でも自分のやりたいことはありましたが、現実的にまるで経済活動には結びつきませんでした。奨学金を受けて滞在したアメリカで「海外では受けそうだぞ」と試したものが当ったというのが現状です。アメリカで認められるまでの日本での敗北の記憶や「自分には何もないんだ・・・」という思いは、いまだにぼくの作品制作の大きな動機になっています。(中略) 「ニーズを優先させているといい作品なんてできない」と言われますが、本当でしょうか。 ウォーホールは工房を構え、分業制をとり、多くのクライアントの要望に応えました。ぼくもそうです。 相談や調査を基に作品を進化させることは、創造性を妨げないのです。 「そんなことじゃ、中国の職人が本気を出したらすぐに追い越されるぞ!」 工房でぼくはいつもこう叱咤していますが、芸術作品制作は他の芸術家との競争です。本気で市場の要望に応えようとすれば、妥協ができないほど質を高めなければなりません。 分業制をとることで、一人ではできないほどの精度でものを作れるようにもなりました。 ぼくは若いアーティストを育てていますが、ものすごくきつい特訓なのでおそらく不特定多数の人がやりたがるとは思えません。 選ばれた人しか生き残れない、信頼関係がなければとても成り立たないような方法でアーティストの魂に刺激を与えているのですが、そうでもしなければ、現在の成功者の生きる価値観に揺さぶりをかけられる作品は生みだせないのです。 ウォーホールは、クライアントがパトロンに値する重要なものだと理解していました。現代のパトロンがクライアントだとすれば、クライアントの発言が芸術を左右するのも、至極もっともなことでしょう。 要望も理解した上で、それに応え、同時に確信犯的に聞き流す反逆的な作品も残すような生き方を確保しなければ、現代の芸術家の活動は経済的に破綻します。 村上の拘りはジョブスのiPhonの拘りに通じるものがあり・・・・日本の画壇にあって、村上はプロジェエクト・マネージャーの資質がある稀有なパーソナリティなんでしょう♪そして取り残された日本画壇は、逆に金融自由主義に打ちのめされた日本経済や、ガラパゴスに陥った日の丸技術を彷彿とさせるわけですね。あ 何だかプロジェクトX風になってしまったな~。<経済的自立がないと、駒の一つになる>p66~69より (文字数制限のため削除)会社化、ブランドビジネス・・・この本は経済関係の本なのかと錯覚するほどですね。ところで、分業制で制作するアートと言えば、映画もその一つであるが・・・拘りの映画監督とも言えるリドリー・スコットが、よくディレクターと対立していたことが知られるています。ギャラリストをうまく利用した村上もリドリー・スコットのような拘り(コア)を持っていたのだと思うのです。1日の文字数制限で一部削除しましたが、全文は左の「気になる本8」に入れておきます。ところで、村上隆の最新作ですが・・・・村上隆展「Murakami-Ego」を観たことにいたしましょう。五百羅漢図に取り組む村上隆
2012.04.17
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<「ハンカクサイ」の伝播>北前船による「ハンカクサイ」の伝播が、いかにも人間臭いのである。「港町ブルース」が好きでカラオケの持ち歌としている大使には、日本海の港を巡る「ハンカクサイ」伝播のエピソードにぞっこんである。<北前船の寄港地>p206~215 庄内地方、三川町の須藤輝一氏は「酒田は、関西への航路の拠点でした。江戸時代、北前船が盛んに行き来していたんです。庄内は酒田に近くて、上方の影響を大きく受けています」とふるさとを紹介されたが、これは東北の日本海側に住む人々にとって、今でも生活の中で実感できる歴史的事実なのだろう。 私はいくつかの「日本の歴史」シリーズを開け、さらに牧野隆信『北前船の時代』や、宮本常一『海の道』などに学んで、大坂と北国の交流を見きわめようと試みたのである。 「北前船」とは、江戸時代、「天下の台所」と呼ばれた大坂と、北陸・東北、さらに蝦夷の間を往復した物資輸送の帆船のことである。 一方、東北の日本海側から津軽海峡を経由し、太平洋を南下して江戸にいたる「東回り航路」は、あまりふるわなかった。海が荒れ、難破の危険性が高く、しかも江戸は産業未発達の消費都市で、帰り荷として積み込む物資がなかったからであったという。 もし能登半島と東北の北部の「ハンカクサイ」が、上方から直接もたらされたものだとしたら、それは、元禄時代以降に隆盛をきわめた北前船の、船乗りたちのなせる業に違いなかった。やがて私は、明らかに北前船が残した痕跡と思われるものを、アンケート回答に見いだしたのである。 かって北前船の風待ち港として栄えた能登の福浦港、この港を抱える富来町から、まさしく「ハンカクサイ」が回答されていたのだ。 天然の良港・能登の福浦港は、大坂を船出して、日本海に出た北前船の船乗りたちが、北国に向かう前に例外なく体を休めた港であった。能登からは、他に七塚町からも「ハンカ」が、鳥屋町からは「ハンカクサイ」が回答されたが、いずれも福浦港からは遠くはなく、これを取り囲むかのように分布している。 北前船は毎年春、上方の文化的な製品、工芸品、加工品などを積み込んで大坂・兵庫の港を出帆する。瀬戸内海の港々に寄り道し、塩や砂糖を積み足して、関門海峡を通って日本海に出る。船は東に進路を変え、福浦港を経由して、やがて北を目指す。そして秋、綿花などの肥料となる鰊の〆粕、昆布、鮭や米を満載して上方に帰ってくる。それは1年にわずか1往復だけの大航海であった。今に伝わる京のにしん蕎麦、大坂の塩昆布は、こうした北前船の航海の賜物なのである。 北前船が北国にもたらしたものは、上方の物資ばかりではなく、上方の文化、すなわち元禄文化の華やぎそのものでもあったろう。新しい言葉は、そのまま新しい文化であったはずだ。本来、近畿にしかないはずの「アホ」が、山形県の最上川流域など、東北・北陸の各地から回答されたのは、天領米を送り出した代価のひとつとして、大坂から「アホ」の文化をもらって帰った歴史を物語るものだろう。同じような歴史が、「ハンカクサイ」にもあったのではないか?(中略)・・・大坂の新町の遊女たちによって「ハンカ」という表現が行われた。やがて「ハンカクサイ」が派生し、これらが町人の間にも広がった。「鈍くさい」「水くさい」「阿呆くさい」など「~くさい」は時代のトレンドであった。 北前船の船乗りは、毎春、加賀の海辺の村々から歩いて大坂にやってくる。彼らは船の修理や荷の積み込みのため、出帆までの1ヶ月をこの大都市で過ごす。そしてこの町で「ハンカクサイ」という新しい表現を学んだ。あるいは遊女たちから直接に、 「あのお方は、はんかくそーござんすわいの」 などと教えられたのかもしれない。 大坂を出帆して1ヶ月、やがて補給と風待ちのための港、能登の福浦港に碇をおろす。 『北前船の時代』には、福浦の船宿にあがった船乗りと遊女(ゲンショ)の交流が描かれている。 船宿には連日、船乗り目当ての遊女たちがつめかけた。「ハンカクサイ」は、まずは遊女が覚えたのであろう。大坂で買ってきたかんざしなんぞを遊女にプレゼントした、船乗りたちは得意げに京・大坂のトレンドを教える。 「『ハンカクサイ』って?そんなダラなぁ(変なのっ)!」 「なにを言う。新町では『ハンカクサイ』と言うのが粋なんじゃ」 新町と聞いたとたん、遊女たちの目がキラリと輝く。福浦の遊女たちは、まだ見ぬ大都会の遊女たちに、ほのかな嫉妬の炎を燃やしている。 「『ハンカクサイ』ちゅうて!新町の女郎を、あんさまぁ、好きながかいね?」 すねた横顔に、 「いや、わしにはやっぱり福浦のおなごが日本一じゃ。言葉のちょっと荒っぽいのを除けばな」 「ふんっ。あんさまーぁ、はんかくさい!」 「おお、言えたではないか、はんかくさい。福浦のおなごは、言葉も日本一じゃ」 こうしてまた、宴は陽気に盛り上がるのであった。・・・いかにもさもありなんというエピソードですね。【全国アホ・バカ分布考】松本修著、新潮社、1996年刊<「BOOK」データベースより>大阪はアホ。東京はバカ。境界線はどこ?人気TV番組に寄せられた小さな疑問が全ての発端だった。調査を経るうち、境界という問題を越え、全国のアホ・バカ表現の分布調査という壮大な試みへと発展。各市町村へのローラー作戦、古辞書類の渉猟、そして思索。ホンズナス、ホウケ、ダラ、ダボ…。それらの分布は一体何を意味するのか。知的興奮に満ちた傑作ノンフィクション。 <大使寸評>番組に依頼した人の着眼がよかったのか、それを採用し追及させた松本修プロデューサーが偉かったのか♪Amazon全国アホ・バカ分布考ノンフィクション100選★全国アホ・バカ分布考|松本修全国アホ・バカ分布図「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#1「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#2「全国アホ・バカ分布考」読書レポート#3
2012.07.28
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朝ドラ「カーネーション」の脚本家渡辺あやさんの作品では「その街のこども」が気にかかっていたが・・・・希望を喚起するそのひたむきさはどこから沸いてくるのか?キーワードは新聞記事のヘッドラインにある「物語がもたらす力」なんでしょうね♪ 渡辺あやさんへのインタビュー <物語がもたらす力>(デジタル朝日ではこの記事が見えないので、4/4朝日から転記しました・・・そのうち朝日からお咎めがあるかも)Q:「カーネーション」の脚本を書く時、東日本大震災のことは意識されたのでしょうか。A:全26週分の脚本のうち、3週目を書いている時に震災が起こりました。自分自身の足場がものすごく揺れた感じがしました。自分が世の中に向けて発信するものがこれでいいのか、一度見直さないといけなくなった。でも、突き詰めた結果、自分が最初にこの物語でやろうとしたことは間違っていいない。修正点はない。そう思えました。Q:「やろうとしたこと」とは?。A:溶かすということです。Q:溶かすですか。A:娘が赤ちゃんだった時、わんわん無くのに「そのまま寝てくれないかな」と、15分ぐらいほったらかしていたことがあります。大人がそんなに待たされたら起こるはず。でも赤ちゃんは、やっと私が来ると笑ったんです。その笑顔で気づかされたんですが、大人だって怒る前には「やっと来てくれた」といううれしい感情があるんです。 大人になるにつれ、心の中に何重にも薄い殻が重なって、本当の自分の心が分からなくなる。物語ならば、普段だったら手が届かない殻の奥にある、柔らかいところを温めて溶かしてあげられる。それがじゅわっと殻の外に出てくると、心が震えて解放されたり、涙が出たり、ということが起こる。それは、人にとってすごくいいことじゃないか。感覚的にそう思っています。Q:どうすれば、そんなことができるのでしょうか。A:書くことがただ大好きなんですが、主人公の糸子と真剣に向き合っていると、彼女の心の中に起こるであろう反応が、自分のなかにも自然と起こるんです。その響き合いが台本を通じて糸子を演じる尾野真千子の中でも起こる。その演技が映像にうつると、人に伝える力は相当なものになるんです。自分と登場人物の間で起きた純度の高い振動が、役者の肉体を通じて他の人々にも広がっていく。私自身、それですごく解放されるし、見る人も自意識に閉じ込めていた感情を一緒に開放できればいい。そう願っています。Q:ドラマでは、登場人物たちが戦争で心を病んだり、次々と戦死したり、残された人々が抜け殻になってしまたりしました。被災地の人々と重ね合わせて見た人も多かったのではないでしょうかA:戦時中を書く時は、死にそうなぐらいしんどかったです。震災を自分の中に取り込んで物語をつくることも考えましたが、あえて「まったく関係ない場所でやる方がいい」と決めました。まじめにやっていれば自然に重なる、と思ったのです。Q:親も財産も失い娼婦に身を落とした糸子の幼なじみを立ち直らせたのはあ、息子二人を戦争で亡くし、生きる気力を失っていた玉枝さんでした。玉枝さん自身も、その過程で再び前向きになっていきますね。A:あれは楽観的な描写だと思います。絶望という心の溝にはまった人が、そこから抜け出るのはそう簡単ではないですから。それでもうまくいった場面を描く方が、見る人の力になるのではないか。いつもそう考えています。 人の中には、どんどん暗く落ち込んでいく流れもあれば、そこから立ち上がりたいという流れも絶対ある。流れを変えるのは、何か小さな衝撃なんだと思います。玉枝さんは自分自身の心の溝にはまって同じ軌道を回り続けていたのですが、糸子というすごく強い存在が突然やってきて「幼なじみを助けて!」と頭を下げる。そのことで、溝からちょっとずれた。すると後は、その人自身の力で上向きになっていく。生きる力は元々その人の中にあるんです。Q:ドラマの舞台である大阪府岸和田市のだんじり祭りが、生きる力の象徴のように描かれました。A:だんじりを初めて見た時、涙が出ました。祭りの花形、大工方は、街中の人々が見守る中、走るだんじりの上で命がけで跳ぶ。「表現の原点」を見たように感じました。自分の命を他者に届けたい、命を燃やしたいという気迫。見ている方も「届いた!」と感じて、生命力が上がっていく。それはとても純粋で、ありがたいことだと思います。Q:生命には「他者に届きたい」という性質がある、と。A:絶対にあると思います。私がパソコンに向かって地味に書いているのも、同じことをやりたくてやっているんじゃないでしょうか。Q:阪神大震災を主題に渡辺さんが脚本を書いた映画「その街のこども」に、次の言葉があります。「不幸って法則ないやん。地震だけじゃなくてさ、事故かって病気かっていつ回ってくるかわからへんし、逃げられへんやん、誰も」「工夫するしかないんかなって。つらいことになってもうたとき、どうやったらちょっとはつらくなくなんのか、考えて工夫する。みんなが。みんなで」。ここに込めた思いは何ですか。A:震災は大勢の人が巻き込まれるから特別のことと感じるんですが、日常でも病気や事故で人は亡くなる。個人のレベルでは一つのことだと思います。死や誰かを失う苦しみからは誰も逃げられない。みんなが当事者だからみんなで考えよう、と。一人で持つには重い石でも隣に誰かいるだけで軽くなりますから。 不幸や不条理に立ち向かうには、すごく地味なことをコツコツやっていくしかない、という感じがしませんか。あるところに大きな救いがあって、そこに自分も回収される、というのは絶対にうさんくさいし、本物じゃない。小さくて地味で一見、「これかよ」みたいなこと。子どもを見ていると、ちょっとしたお使いなど、本当に単純に人の役に立つことに、すごく喜びを見いだすんですよね。よくよく考えれば、それは美しいことだと思います。 大人だって本当は、誰かの役に立ちたいと強く願っているのですが、なぜか「こんなことをやったら、かえって迷惑かな」などと考えてしまう。大きな災害が起きると、心の奥の素直な気持ちがすっと表に出てくる。映像を見て涙を流したり、ボランティアをしたり、寄付をしたり。人の力になりたい、という気持ちが満たされた時、人は自分自身の価値を見いだせる、と思います。Q:専業主婦から脚本家を目指したそうですね。A:子どもが生まれて間もなく、夫の実家がある島根県の町に引っ越しました。一日中、赤ちゃんとだけいるとあまりに退屈で、自分の頭の中で友達をつくり、自分が盛り上がれるストーリーに沿って空想の会話を楽しんでいました。それを書きとめると脚本のようになったんです。それが始まりでした。 でも、最初に自分が脚本を書いた映画ができあがった後、すごく落ち込んだ時期がありました。ゴールにたどり着いた途端、次のカーテンがぱっと開いて「死」が広がっていた、という感じ。「どうせ何をやっても年老いて結局死ぬんだ」という思いにとりつかれていました。「小さくて地味なこと」への感謝が足りなかったんです。そこからずっと、死や老いという課題について、作品を通じて取り組んでいます。Q:「カーネーション」でも糸子の老いが丁寧に描かれました。A:糸子役が夏木マリさんに代わった時、それまでの登場人物の多くが故人となり、舞台の町並みも変わって、私自身すごく喪失感がありました。でも、それがまさに、老いた糸子が抱えている感情なんです。 私の住む町でもお年寄りの自殺が多い。私たちの世代が想像するよりもずっと、老いていくのは厳しくつらいと思います。糸子のモデルはファッションデザイナーのコシノ3姉妹の母、小篠綾子さんですが、晩年が最も輝いていたそうです。どうすればそうなれるのか、描けるなら描いてみたいと思いました。Q:その秘密は分かりましたか。A:小篠さんの座右の銘に「与うるは受くるよりも幸いなり」という聖書の言葉があります。お年寄りにしか与えられないものがいっぱいある。私たちもお年寄りに与え、一緒に生きることで、自分の中で育てられるものがある。糸子はしょっちゅう仏壇に手を合わせ、故人に話しかけます。そんな日常を送った人は「自分が死んでもそうしてもらえる」と信じながら死んでいけると思います。<取材を終えて> 「カーネーション」は、震災後の日本を生きる私たちへの、誰かからの贈り物だったと思う。渡辺さんは「すでにある物語が見る人に届きたくて、私やスタッフや俳優たちが呼ばれた」と話す。この世界は人に残酷な時もあるが、人の負った傷を癒す力にもあふれている。その力が時として、物語という形で現れるのではないか。(聞き手:太田啓之)最後には渡辺さんの死生観も聞かれて、なかなか哲学的というか含蓄のあるインタビューでしたね♪wikipedia渡辺あや さようなら「カーネーション」kumaさん の「カーネーション」が終わった
2012.04.06
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<『ねじ式/夜が掴む』>帰省先の図書館で『ねじ式/夜が掴む』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、「ねじ式」と「ゲンセンカン主人」を押さえていてその他に、シュールなもの、エロっぽいものと、大使好みのラインナップになっています。つげさんと言えば漂泊願望の人だと思うが、解説でそのあたりを見てみましょう。p340~343 <つげ義春の場末趣味:川本三郎> つげ義春の作品の舞台となった土地を旅するのが好きだ。文学散歩ならぬ漫画散歩である。最初に出かけたのは「長八の宿」の舞台になった西伊豆の松崎、それから「二岐渓谷」の福島県の二岐温泉、「リアリズムの宿」の青森県の鯵ヶ沢。 千葉にもよく出かける。作品の中で明示されていないが、「海辺の叙景」の海は外房の大原、「ねじ式」は外房の太海、「やなぎ屋主人」は内房の袖ヶ浦というのでこのあたりを歩いた。 これは、いまはなくなった漫画雑誌『ばく』の読者の投稿欄で知ったのだが、太海には、「ねじ式」のあの汽車が路地に入ってくる超現実的な絵そのままの風景が残されているという。それで、1993年の6月、その路地を探しに太海に出かけたら、港のところに、ほんとうにあの絵のままの石段のある路地が残っていて驚いてしまった。 93年の6月にはまた、随筆集『貧困旅行記』に出てくる千葉県のちょうどまんなかあたりにある養老渓谷に出かけた。その帰り、タクシーの運転手に「西部田村ってある?」と聞いたら、なんと、あるという。「西部田村事件」の舞台である。面白い名前なので架空の村かと思ったらちゃんと実在していた。タクシーで出かけてみたら、田んぼのなかに、あの漫画のとおり精神病院が実在していたので、これまた驚いてしまった。 つげ義春の作品は、幻想譚・奇譚が多いが、その舞台は実在しているのである。実在の場所を旅することから、少し不思議な物語が生まれてくる。だからそれは奇譚といってもあくまでもリアリズムのなかの出来事であり、日常のなかの一瞬の白昼夢である。 つげ義春の作品の舞台を旅してみると、どこも、寂し気なところが多いことに気がつく。観光地などまずない。港町、田舎町、ひなびた温泉。あるいは鉱泉。いわば「場末」のような、すがれたところだ。大喜田町西部田などまずふつうの地図には載っていない。袖ヶ浦もそうだ。養老渓谷は、千葉県ではそれなりに知られている観光地だが、全国的にはあまり知られていない。 つげ義春が作品の舞台に選ぶ場所は、どこも、裏通りか場末といったような、隅っこの小さな町や村。そこがいかにもつげ義春らしい。つげ義春の旅先は、日本の田舎ばかりなのだ。温泉といっても熱海や箱根はまず出てこない。有名温泉地では、「義男の青春」の湯河原があるくらい。「長八の宿」の松崎は、吉本ばななの「TSUGUMI」で有名になってしまったが、「長八の宿」が発表されたころは、決して広く知られた温泉場ではなかった。 「ほんやら洞のべんさん」の新潟県魚沼郡の雪におおわれた小村、「オンドル小屋」の秋田県と岩手県にまたがる八幡平の温泉群、「会津の釣宿」の会津の玉梨温泉…、あげていくと切りがないが、つげ義春の作品の舞台は、まず普通の観光客が行きそうもない、そもそもはじめから存在も知りそうにない、忘れられた場所ばかりである。(中略) つげ義春は徹底した場末趣味の作家なのだ。零落趣味、世捨人志向といってもいい。もともとの資質が引っ込み思案だから、おのずから旅の場所、作品の場所がうらぶれた町や村になるのか。それとも、忘れられた場所への旅を続けるうちに、その資質に磨きがかかったのか。それは定かではないが、つげ義春の描く忘れられた小田舎が、いつしか穏やかな桃源郷、ここにあってここにはない隠れ里に見えてくることは確かである。【ねじ式/夜が掴む】つげ義春著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりつげ義春ワールドの極点「ねじ式」に始まる“夢の作品群”と、それと並行して書かれた若い夫婦の生活を描いた“日常もの”を集大成。【目次】ねじ式/ゲンセンカン主人/夢の散歩/アルバイト/雨の中の慾情/夜が掴む/コマツ岬の生活/外のふくらみ/必殺するめ固め/ヨシボーの犯罪/窓の手/夏の思いで/懐かしいひと/事件/退屈な部屋/日の戯れ<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、「ねじ式」と「ゲンセンカン主人」を押さえていてその他に、シュールなもの、エロっぽいものと、大使好みのラインナップになっています。rakutenねじ式/夜を掴む
2017.03.19
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図書館で『浅田次郎とめぐる中国の旅』という本を、手にしたのです。先日、浅田さんの『日本の「運命」について語ろう』という本を読んで良かったので、その勢いでこの本を借りたのです。【浅田次郎とめぐる中国の旅】浅田次郎著、講談社、2008年刊<「BOOK」データベース>より中国は美しく、奥深い。四年にわたり取材を重ねた著者自身が語る見どころと魅力。【目次】1 紫禁城(エッセイ 正大光明/浅田次郎と紫禁城を歩く ほか)/2 北京(北京中心部地図/北京広域地図 ほか)/3 満洲へ(エッセイ 英雄たちの囁き/瀋陽市街地図 ほか)/4 万里の長城(華北地方の長城を訪ねる/インタビュー 浅田次郎、歴史小説を語る ほか <読む前の大使寸評>先日、浅田さんの『日本の「運命」について語ろう』という本を読んで良かったので、その勢いでこの本を借りたのです。rakuten浅田次郎とめぐる中国の旅康有為張競さん(明治大学教授)との対談の一部を、見てみましょう。p84~87 <康有為のSF世界>張:2004年に、江沢民が政権の一線から引退しましたね。たとえばそのときに私がまず連想したのが西太后です。江沢民は2年前から政権の主要3ポストのうちふたつを譲りましたが完全には引退しなかった。西太后も戊戌変法(ぼじゅつへんぽう)ではいったんは和園に退きます。そこであとは老後をゆっくり過ごそうというようにできていれば、歴史は確実に変わっていたでしょう。しかしそうはできなかった。毛沢東にしてもそうですが、歴史は繰り返されるのです浅田:西太后があのとき何を考えたかというのは、実はぼくにはよくわからないんです。おそらく新しい変法が許せなかったんでしょうけれども。張:西太后は変法に対してそんなに拒否感を抱いてはいなかったんじゃないでしょうか。というのも、戊戌変法を潰してわずか2年後に、彼女自身が主導した変法をはじめていますから。浅田:そうですね。張:彼女にとっては清王朝さえ続いていければ、変法自体は大したことではなかっただろうと思います。アヘン戦争以降に列強と結んだ屈辱的な条約、あの老婦人のプライドからすればとても飲み込めるものではないものを、全部認めたことに比べれば。しかも自分が信頼していた光緒帝がやろうというんだから、任せておけばよかったんです。それがおそらく周りからのいろいろな進言を聞いているうちに、許せないということに変わってしまったんでしょう。浅田:このときのキーパーソンは康有為だとぼくは思うんです。彼の思想はちょっと極端過ぎて、SFっぽいんです。将来の共産主義を予見しているような先見の明はあるんですが。張:大同世界ですね。浅田:康有為の考え方は突き詰めていけば王制否定です。だから、西太后が気に入らなかったのはそこではないかと思うんです。張:康有為の一派は、みずから行動を起こさなければという思い込みが強すぎたのではないでしょうか。もうちょっと待っていれば情勢は変わったかもしれません。浅田:そうですね。革命というのは古い体制を壊す人と新しい世の中を作る人が別なんです。明治維新のときも壊した人たちはほとんど死んでしまって、そのあとに二番手の伊藤博文や山県有朋の世代が新しい明治を作りました。フランス革命でもそうなんです。戊戌変法は康有為の世代ですべてをやろうとしたところに無理があったということですね。張:しかもその壊し方がへたなんです。そのあたりが文人の弱いところでしょう。浅田:康有為たちが古いものを壊して袁世凱が新しい時代を作っていたら、まったく違う国ができたでしょうね。袁世凱がもうちょっといい人だったら(笑)。張:どう見ても袁世凱は人柄が悪すぎるんですね(笑)。浅田:権力欲があからさまなんですよ。だからのちの皇帝即位のときも物笑いの種になってただちに取り消す羽目になりました。ただ、ぼくは袁世凱という人は嫌いじゃないんです。清王朝を滅ぼした立役者の一人であることは間違いないし、面白いキャラクターですから。張:曽国藩や李鴻章より、袁世凱の方が大きな器を持っているとはいえますね。曽国藩も李鴻章も清王朝を倒そうと思えばできたのに、おれにはそんな野心はないといっていさぎよく去ってしまいます。袁世凱がもう少し前の時代に登場していたら、大人物になれたかもしれません。権力欲があるのはいいとしても、彼の場合は時代遅れだから茶番になってしまったんですね。浅田:アヘン戦争のあと、太平天国の乱のときの将軍が袁世凱であったなら、その時点で清王朝を滅ぼしているかもしれませんね。張:そうですね。曽国藩の下で李鴻章の立場だったとしても、いずれはそうなったかもしれません。そういう意味ではやはり彼には天命がなかったんですね。1916年の皇帝即位のとき、袁世凱は王座に座ったもののめまいがして、すぐに下りたという伝説があるんです。『蒼穹の昴』では「龍玉」として描かれていますが、中国でも天命があるのかどうかということは語られるんです。毛沢東の文革が語られています。p89~90 <龍玉=天命はどこに?>張:『蒼穹の昴』を読んでいて、毛沢東が出てきたのには驚きました。浅田:あれは大サービスです。中国語に翻訳されるのを期待して(笑)。張:たしかに時代的には合うんですよね。おそらく毛沢東にとって西太后というのは同時代の人間だったろうと思うんです。そして彼には明らかに帝王思想がある。晩年は完璧に自分が帝王だという意識でいたでしょう。浅田:ええ。そういう意識がなければ文革は起きないですよね。文革は先生が何歳のときですか。張:はじまったのが13歳です。浅田:それならはっきり記憶がありますよね。張:もうはっきりと。はじめはむしろ共鳴したところもあるんdす。古いものを新しくするのはいいんじゃないかと。だんだんと悪い面が見えてきて、紅衛兵は最後にはみんな反毛沢東になったんです。のちに民主化運動を起こしたのはその人たちなんです。浅田:当時の学者はみんな大変だったらしいですね。張:大変ですよ。全部持っていかれるか、焼かれてしまうんです。文革がはじまった当初の1966年7月から9月くらいまでは、市内の至るところで本を焼いたり、服を焼いたり、とにかく何かしら燃やしている光景を目にしました。集合住宅の庭に、各家から古いものを持ち出して燃やしたんです。浅田:取り返しのつかないことですね。そういうふうに文化を破壊してしまうのは。張:私たちの世代はみんなそうだと思いますが、毛沢東だけは許せないですね。彼は女性秘書たちを周りに侍らせていましたが、そういうところも皇帝的でしょう。江青との間に子供もいましたし。浅田:江青にもいろいろな伝説がありますね。張:悪女としての西太后にたとえられた現代政治家ですからね。彼女は毛沢東と同じぐらいの気概をもって、天下は私のものだと思っていたでしょう。毛沢東が生前に「おれが死んだら真っ先にお前が殺される」といったという伝説があります。本当かどうかはわかりませんが、ありそうなことですね。それぐらい周りのみんなから憎まれ、恐れられていたんです。『浅田次郎とめぐる中国の旅』1『日本の「運命」について語ろう』5byドングリ
2017.05.11
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図書館に予約していた『日本の「アジール」を訪ねて』という本を、待つこと約4ヶ月でゲットしたのです。この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり、大使のツボがうずくわけでおます♪【日本の「アジール」を訪ねて】筒井功著、河出書房新社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりどこに住み、暮らしたのか。戦後まだ、いたるところで、乞食、サンカ、病者、芸能民、被差別民などの漂泊放浪民が移動生活をおこなっていた。かれらが、社会制度をはなれ、生活のよすがとした洞窟などの拠点「アジール」を全国に訪ね、その暮らしの実態を追うノンフィクション。もうひとつの戦後昭和史の貴重な記録。【目次】第1章 サンカとハンセン病者がいた谷間/第2章 土窟から上る煙/第3章 大都市わきの乞食村/第4章 カッタイ道は実在したか/第5章 洞窟を住みかとして/第6章 有籍の民、無籍の民/第7章 川に生きる/第8章 地名に残る非定住民の歴史<読む前の大使寸評>この本は日本の底辺をめぐって綴った民俗学的フィールドワークであり・・・・大使のツボがうずくわけでおます♪<図書館予約:(1/25予約済み、6/04受取)>heibonsha日本の「アジール」を訪ねてまず土地勘のあるドングリ国周辺のアジールを、見てみましょう。p65~70<「ともにゆく人」清水精一> 『大地に生きる』は昭和9年(1934)、同朋園出版部から上梓されている。同朋園は、清水がミカン山の乞食たちを普通の生活者にするため、兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に建設した更正・授産施設であった。同書は、そこを版元にしているが、おそらく自費による出版だったと思われる。清水は、この2年後にも『共にゆくもの』と題した単行本を、同じ形で出版している。清水の著書としては、この2冊があるだけのようである。 両書とも清水精一の一種の自伝だが、「魂と求道の記録」といった趣きがあり、そこでは著者の経歴などはほとんど語られていない。清水が「大阪の高槻」で生まれたことは記されていても、それがいつのことかわからないほどである。著者はまた自らの体験を、しばしば綿密に述べているが、それらの時期がはっきりしない場合も少なくない。精神的、形而上的な世界へのこだわりが強すぎて、時期とか場所については不自然なくらい関心を欠いていたといってよいだろう。 清水の経歴などに触れた記録は、わたしが気づいたかぎりでは皆無に近い。それで、大阪・天王寺の乞食村についての理解を少しでも助けるためと、この「求道の人」というべき人物の生涯を紹介するために履歴書のようなものを記しておきたい。 典拠は右の2冊の本と、遺族の方々のお話である。ただし前述のように、著書ではいつ、どこでのことか判然としない場合も多く、また身内の中には詳しく語ることを好まれない方もいる。 清水は長く乞食とともに暮らした人であり、それは彼らの救済のためだったとはいえ、そのような生き方に反対した実弟は血書をしたためて自殺している。清水の行為は、一族にとって必ずしも好ましいことばかりでもなかったのである。 清水精一師(以下、こう呼ぶことにしたい)は明治21年(1888)10月、現在の大阪府高槻市野田で生まれている。家は、かなりの土地を所有する地主であり、高槻でも有数の旧家であった。同34年の年末、師が数えの14歳のとき、この一帯で小作争議が起き、隣村では小作人に襲われた地主の1人が死亡、1人が重傷を負っている。父は襲撃を恐れて身を隠したのだった。その折り、朝夕、笑顔で接していた小作人たちの態度の急変が、師にさまざまのことを考えさせるきっかけになったという。 清水師は、前記の2著書では自分の学歴にはいっさい触れていない。ただし、新潟県新発田市の骨董・古美術の店「宝珠庵」の経営者がインターネットに載せているブログによると、京都帝国大学に学んだということである。何かの出典あってのことであろう。 師は、そのあと京都・伏見に酒造会社を設立、経営に当たっていたらしい。しかし師は、この種の事業には天性、不向きな人間であった。おそらく1,2年で、その職を退き、大正元年(1912)の秋、京都・嵯峨の臨済宗天龍寺の寺男になっている。数えの25歳であった。半年ほどで雲水(行脚僧)になっているが、正式の僧ではなかった。同寺にいたのは足かけ3年であった。 大正3年の秋から同5年の春にかけて、「丹後と若狭と山城の3州が連なって居る深山」で独居生活を送る。しかし、丹後と若狭は接しているが、山城はいずれとも少し離れている。どうも、そこは京都府の北部、丹波高地のどこかだったようである。とにかく、人の姿など全くない山中に粗末な小屋を建て、松の葉や木の実、自然の果実のみで腹を満たしつつ、座禅などの修行に日を送ったのだった。 大正5年(1916)の春に山を下り、大阪の貧民窟で暮らしたあと、同年12月に初めて天王寺ミカン山の乞食村を訪ねている。そうして、「ドン底のドン底から湧き出て来る真情の水を味はねばならぬと感じ」(『大地に生きる』)、翌年2月から彼らの仲間になるのである。30歳であった。<親分と娘> もとのミカン山すなわち、いまの大阪市立大病院の現住所は、大阪市阿倍野区旭町1丁目になる。天王寺区は、すぐ北側のJRの線路より北になる。しかし、清水精一師がミカン山で暮らしはじめたころ、そこは東成郡天王寺村に属していた。つまり、まだ大阪市外であった。 その小高い雑木の林に天幕や小屋を掛けていた乞食は、記述のように300人ばかりもいた。親分を「チャン」と呼んでいた。それは大阪や近隣の同種集団のあいだでも同じだったが、この呼称が使われていた範囲について、わたしは確認していない。 大正6年(1917)当時、ミカン山のチャンは関東の人間であった。埼玉県・秩父の出身か、明治32年ごろ娘が生まれてたとき秩父にいた。そうして、大正の初めまで関東地方で暮らしていた。 チャンの一家は代々乞食であった。何代もつづけて、乞食を稼業としてきたのである。それは無籍であることを意味した。おそらく、家族全員が文盲であったろう。清水師は、ミカン山の住民60人から乞食になった「動機」について聞き取りをし、その結果を『大地に生きる』に書き残している。 賭博癖 15人 ライ病 2人 飲酒癖 15人 父母による理由 5人 精神病者 2人 親譲り 21人 右の「父母による理由」とは、「継父母などの虐待」を指している。「親譲り」が代々乞食のことで、聞き取り対象者の三分の一ほどを占めていたことがわかる。全員を調べても、その比率はほぼ同じになったのではないか。とにかく、もっとも数が多く、かつ集団内での勢力も他を圧していた。(中略) チャンには妻と、少なくとも娘が二人いた。子供のうち上の娘がミカン山にいたことは、はっきりしている。清水師は、その女性と結婚しているのだから、チャンやその家族について詳しく知っていたはずである。しかし、著書では彼らのことに、ほとんど触れていない。一つには、チャン一家への配慮からだと思われ、また一つには自らの家族、親族への心ない中傷を避けたかったためではないかと推測される。更に読み進めました。p75~76<乞食村を出て> 大正9年、清水師は行政に働きかけて、70人の大部分を大阪市と天王寺村の掃除夫に雇ってもらう。さらに、その翌年には若い者たちに手に職をもたせようと、大阪・飛田の菓子屋と交渉して、そこへの就職も実現させている。つづいて体力のある者を静岡県富士郡の富士山麓へ送り込んで、開墾に従事させたこともあった。ほかにも、二ヶ所くらいに一部の人びとを移して、更正・授産施設としていた。 彼らをひとまとめにしたのは、昭和5年(1930)のことである。兵庫県武庫郡山田村上谷上(現神戸市北区山田町上谷上)に1万坪の山林を確保し、ここを開拓して農地にすることにしたのだった。もちろん地内に住宅も建設され、それらを含めて「同朋園」と名づけられた。そこは神戸有馬電車の谷上駅から北へ200メートルばかり、いま兵庫県立上野ケ原特別支援学校ひかりの森分教室が建っているところに当たる。 清水師の一家も、ここに住んでいた。このころになると、師は社会活動家として一部の人びとには、よく知られていたようである。しばしば各方面から講演を依頼され、あちこちを飛びまわる日々がつづいていた。留守を守ったのは妻であった。前にも記したように、山田村へ移る直前の昭和4年(1929)から同10年にかけて4人の子供が生まれている。その世話に加えて、同朋園の運営もあった。長女は平成26年3月、わたしの電話取材に対して次のように話していた。 「父は講演などで留守がちでした。母はそのあいだ家と園とを守っていましたが、病身でしたから、とても苦労をしました。父は、自分たちには厳しい人でした。だけど、いつも人には優しくしなさいと言われていましたね」 この女性は生涯、独身であった。母を助けたいという思いからだったかもしれない。
2017.06.09
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図書館で『地球遺産最後の巨樹』という大型本を、手にしたのです。全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪【地球遺産最後の巨樹】吉田繁, 蟹江節子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】プロローグ 地上に残った巨樹たち/奇樹バオバブ(マダガスカル)/世界一の巨樹の森(米国カリフォルニア州)/世界最長寿の樹(米国カリフォルニア州東部)/樹幅世界一の巨樹(メキシコ)/台湾神木十傑(台湾)/日本最大級の巨樹(日本)/宝石になった巨樹(米国アリゾナ州)/古代文明を支えた巨樹(レバノン)/森を失った国に残された巨樹たち(イギリス)/星の王子さまのバオバブ(ジンバブエ)/世界一の巨樹発見(南アフリカ)/世界を創った森の神(カナダ クイーン・シャーロット諸島)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪rakuten地球遺産最後の巨樹台湾ヒノキについて、見てみましょう。p66~67台湾神木十傑:TAIWAN■台湾ヒノキは日本に送られていた 台湾のヒノキは、日本では明治時代末期より銘木として知られてきた。日本の領有当時、ヒノキの良材の産地して名高い阿里山には、木材搬出のために阿里山鉄道が敷設されている。阿里山鉄道 台湾のヒノキにはタイヒとベニヒがあり、タイヒは台湾扁柏を指し、台湾で最も優れた針葉樹材とされている。ベニヒは、古くはタイワンサワラとも呼ばれていたベニヒノキのこと。タイヒとベニヒは日本でいえば、ヒノキとサワラのような関係にある。■巨大な神木はほとんどがベニヒ 台湾の巨樹は9位にクスノキがある以外、20位まですべてがベニヒ。タイヒは伐採されたためという理由もあるが、ベニヒのほうが生命力および繁殖力について優れているかrだと聞いた。ベニヒは樹脂を多く含み、台湾の産地独特の非常に急峻な場所にも生育する。事実、現存する現存するタイヒからは発芽能力を備えた種子がほとんど採取できないという。■大安渓神木 台湾最大の巨樹といわれるベニヒノキ「大安渓神木」。幹回り日本一の蒲生の大楠24.2mよりも太い。標高3529mの大雪山の2325mあたりにひっそりと立つ。p150達観山自然保護区 かつての日本の神社仏閣建築のために、ヒノキやベニヒノキを送っていた台湾。しかし伐採禁止となった現在では、森林の多くはレクレーション地として保護されている。そして、日本と同様に神木信仰がある台湾では、休日ともなれば、多くの人々がそんな神木のある森へ家族でレジャーに出かけている。 達観山自然保護区はそんな神木の森の中でも、最もポピュラーなところ。屋久島にあるヤクスギランドのようでありながら、遊歩道はアップダウンも少なく、園内にはトイレや自動販売機もある。そのうえ、ここには台湾国内で10本の指に入る巨樹「台湾神木十傑」に含まれるベニヒノキが2本ある。国内11位と12位の巨樹もあり、台湾でも最大級の神木の森である。『地球遺産最後の巨樹』1
2017.08.25
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図書館で『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』という本を、手にしたのです。ビジュアルな「とんぼの本」シリーズなので、絵本作家エンデを知るには最適ではないか♪この本には見覚えがあり借りるのは2度目になるなあと思ったが、ま いいだろうと借りた次第でおます。(帰って調べたら1年ほど前に借りていました)【ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと】池内紀, 小林エリカ著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>より『モモ』『はてしない物語』ほかファンタジー物語の傑作を残した作家エンデの人生、そして現代人に伝え続けたメッセージとは。待望のエンデ入門。<読む前の大使寸評>ビジュアルな「とんぼの本」シリーズなので、絵本作家エンデを知るには最適ではないか♪rakutenミヒャエル・エンデが教えてくれたことお金や時間に拘るエンデを、見てみましょう。p100~101<エンデが夢見た経済の姿:廣田裕之> エンデが今の経済制度の矛盾を最初に描いたのは、代表作『モモ』です。この中には「時間とはすなわち生活だからです」という一節がありますが、原文ではわずか三語のこの表現に、エンデの人生観が現れていると言えます。 人間はなにをするにも、時間が必要です。お金がなくても、公園を散歩したり、図書館で本を読んだり、また家庭菜園で穫れた作物を使って料理をしたりすることができますが、時間がなければどれも無理です。 時間こそが生活(あるいは人生や生涯)であり、その時間の効率化だけを考えると、やがて生活そのものが干からびてしまいます。 『モモ』では「灰色の男」により時間の節約を説得された床屋のフージー氏が時間の節約に励んだ結果、彼の生活は味気ないものになり、彼自身も怒りっぽくなってしまいました。 『オリーブの森で語りあう』の中でエンデは、スイスの経営者が集まる会議の場で自らこの一節を朗読したエピソードを披露します。その後、出席者に対して「百年後の未来像」について問いかけたのですが、「すくなくとも年三パーセント以上の成長がなければ、競争に生きのこれなくなり、経済的に破滅する」という発言をきっかけとして、エンデに対して攻撃する人が出てきたことから、この問いかけは失敗してしまいました。 『エンデと語る』では、「どうやって、この経済成長の強制から人間を自由にするか」という根本的な問題を問いかけています。 しかし、なぜ経営者はここまで経済成長にこだわるのでしょうか。その最大の理由は「金利」です。お金を借りたら元金だけでなく金利も支払わないといけませんが、この金利自体がネズミ算式に増えるため、これを返せるだけの経済成長が必要になるのです。 後述する『エンデの遺言』で登場するドイツの建築家であり補完通貨の研究者、マルグリット・ケネディは代表作『金利ともインフレとも無縁な貨幣』で、このような成長をガン細胞の成長に例えています。つまり今の経済はガン細胞のように果てしなく成長し、地球の資源を必然的に食い尽くすものである、と。 さらに、自分の借りたお金を返す形で直接的に、あるいは商品やサービスの購入を通じて間接的に金利を払うことから、ほとんどの人は収入が減る一方で、ごく一部の金持ちだけがより豊かになるという問題もあります。エンデの絵本をネットで見つけたので、見てみましょう。第149回/おとなしいきょうりゅうとうるさいちょうより お話は2部構成のような様相を呈しており、それが最後は重なりあうようなスタイルである。その第1幕はきょうりゅうのお話。不気味な石の塔があり、そこには口よ尻尾から火をふくきょうりゅうが住んでいた。そこに本をかかえたヒックス教授なる人物がやってきてきょうりゅうの研究を始めた。きょうりゅうはうっとおしくなり、教授を飲み込んでしまったが、本が消化しにくく、腹から本と教授を吐き出した。教授はケロッとして、1冊の本を置いて帰っていってしまった。そこには「火をはくきょうりゅうは、みんな、おとなしいきょうりゅうとよばれる」と書かれていた。それを目にしたきょうりゅうは愕然とした。 自分は恐ろしいきょうりゅうであり、決して「おとなしい」きょうりゅうなどではない!否定するために、きょうりゅうは暴れまくったが、やがてノイローゼのようになり、家に閉じこもってしまった。ここで、まず幕が閉じる。そして、ふたたび楽譜が描かれ、タイトルは「うるさいちょうのワルツ」となっている。そして第2幕が始まる。そこにはタキシード姿のヒゲをはやしたもんしろちょうがいて、もんしろちょうの少女とワルツを踊りまくっていた。もんしろちょうは、繊細でしとやかで、特にうるさい騒音には大いに腹を立てていた。そこへ、まるはなばちが飛んできて、もんしろちょうが「うるさいちょう」と呼ばれていることを告げる。『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』2:エンデ氏物語p76~77『ミヒャエル・エンデが教えてくれたこと』1:INTRODUCTION
2019.05.27
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リリパットアーミーとはコトバンクで検索して見ると、『日本の劇団。1986年、当時コピーライターだった中島らもが若木え芙(のちのわかぎゑふ)ららに声をかけ結成。結成時のメンバーはほかにキッチュ(松尾貴史)、漫画家のひさうちみちお、のちに放送作家となる鮫肌文殊、編集者のガンジー石原ほか。旗揚げ公演は1986年6月、中島と若木の作・演出による「X線の午後」』と、何のこっちゃである。折りしも朝日新聞で、柴田元幸訳の『ガリバー旅行記』が連載されているが、太子としてはこのあたりを引用してもらいたいところである。・・・ということで「ガリバー旅行記」をウィキペディアで検索してみると・・・第一篇 リリパット国渡航記の詳細が載っていました。wikipediaガリヴァー旅行記より リリパット国とブレフスキュ国は、ガリヴァーによる空想の冒険譚の第一篇に関わる国々である。両国は、南インド洋にあり、約800ヤードの海峡を挟んで隣接している。両国の全国民は、常人の1/12程の身長しかない小人で、彼らの関心事も小さく取るに足らぬものであるが、スウィフトの時代の典型的なイギリス国民のように、道徳には公正であり、神を畏れ、正直である。 リリパット国の社会と政治体制は、18世紀のイギリスを表現している。英国と同様に、トーリー党を表す「高踵党」と、ホイッグ党を表す「低踵党」の二つの政党が存在する。リリパット国は、二世代にわたり隣国のブレフスキュ国と交戦下にある。ブレフスキュ国にフランスを表現させることで、スウィフトは当時のイギリスとフランスの国際上の関係を示したのである。リリパット国とブレフスキュ国の戦争の理由は、「卵の殻の正しいむき方は、大きな方から剥くか、それとも小さな方から剥くか」についての意見の違いに由来する。 ウン ガリヴァーは小人の国「リリパット」で囚われの身になったのか。
2020.08.18
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図書館で『つげ義春幻想紀行』という本を手にしたのです。ぱらぱらとめくると、漫画のシーンと旅先の写真が並べてあり興味深いのです。【つげ義春幻想紀行】権藤晋著、立風書房、1998年刊<「BOOK」データベース>よりつげ義春作品と写真で解き明かす。「つげ式」旅術の書。【目次】1 「二岐渓谷」之章/2 「もっきり屋の少女」之章/3 「海辺の叙景」之章/4 「初茸がり」「紅い花」「西部田村事件」之章/5 「ゲンセンカン主人」之章/6 「大場電気鍍金工業所」之章/7 「隣の女」之章/8 「チーコ」「義男の青春」之章/9 「ねじ式」之章/対談 ワラ屋根のある風景(つげ義春/権藤晋)<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、漫画のシーンと旅先の写真が並べてあり興味深いのです。rakutenつげ義春幻想紀行太海の路地外房の太海を、見てみましょう。p162~167 <「ねじ式」之章> 以前に訪れたときは、遠慮が左右して漁村の奥深くまで足を踏み入れなかったが、このときは「路地探検」を敢行することにした。狭い石段や急な坂道をはさんで平屋の木造家屋がひしめきあっている。ほとんどが瓦屋根だが、まだところどころにワラ葺きが残る。路地は縦横に展がっていて、まるで迷路のごとき様相を呈している。「ねじ式」の少年ではないけれども、漁村の中をあてもなくさまようがごとき錯覚を強いられるほどだ。 「イシャはどこだ!」ではなく、「出口はどこだ!」という不安にさいなまれるといったらオーバーに聞えるかもしれないが、実際、路地探検の途中で、どこに抜ければいいのか思案にくれていたところ、民家の縁側から老人がヒョコッと顔を出し、「ああ、そこんちの庭をつっきれば下の通りに出られるよ」と案内してくれた。他人の家の庭を無断で通っていいものか迷っていると、「みんなそうしているんだから大丈夫だよ」とつけ加えた。 庭の先には再び路地が続いていた。さらに路地を伝わって、ぐるりと周り込み、石段を下ると、なんと「ねじ式」の機関車が到着する家と家の間に出たのである。そして、このとき、太海の漁村こそは“「ねじ式」の迷路”と名づけていいように思った。もともと私には、箱庭的な小空間への異常なまでの偏愛があるのだけれども、「ねじ式」という作品がさらに拍車をかけたことは言を俟つまでもない。 その結果、1年おいてのこの夏、四度目太海行ということになった。いまでは、太海の漁村を隅々まで極めないと「ねじ式」の全体像さえ味わえないのではないかという脅迫観念が生まれる始末である。 今夏は、雨降りだった。仁衛門島は、目前にもかかわらずかすんでいた。そんな天候でも、子どもらは、仁衛門島の飛び込み台から夢中で海中へのダイビングをこころみていた。漁村は、悪天候ゆえに、ひなびた感じがいちだんときわだっていた。路地の奥では、れいによって縁側にしゃがみこんで老夫が網の修繕に取り組んでいた。 まだ踏んでいない路地をたどってみた。石段を登りきった所にお堂があった。漁港の入口に札所の案内が出ていたのがそこかもしれない。信心深い老女でも訪ねることがあるのだろうか。素朴なつくりだが、忘れ去られたようなたたずまいがより以上の関心をよぶ。さらに、ぬれそぼる雑草をかきわけかきわけ登り道をたどってみたが、どこに続いているのか見当もつかない。まさか、眼科医の並ぶ町や、産婦人科の看板を掲げる工場に行き当たるとは思えないが、激しい雨にさえぎられて、引き返すことにした。そういえば、仁衛門島の船着場の前にある古風な旅館の二階座敷などには、和服を着た女医がいてもおかしくないと思った。この本もつげ義春ワールドR3に収めておきます。
2017.03.23
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