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. 臨済宗妙心寺派大本山 妙心寺 日本にある臨済宗妙心寺派の寺院3,500ヶ寺の総本山で、寺内には38の塔頭寺院をかかえています その塔頭寺院の中で、国の名勝に指定されている美しい庭園を持つ二ヶ寺をご紹介します、1、大法院は例年春・秋に特別公開されています、文中特に触れている以外は昨2012年5月の写真です2、東海庵は今年12年ぶりの特別公開でした (今後も不定期公開のようです) 「一、真田家の菩提寺・佐久間象山眠る大法院」 ↑1662年信州松代藩主・真田信之(真田幸村の兄)をその遺命により孫の長姫(オサヒメ)が信之を祀り創建し、真田家の菩提寺となる 大法院の院号は信之の法名に因み付けらています 正面は「庫裡」です ↑「山門」を入り庫裡を通ると客殿を囲むように苔生す露地庭園がひらけます露地とは茶室に付随する庭との意で仏教では「清浄世界」を表し、幽玄を醸し出すと謂われているようです、茶の庭は美しさだけでなく用と美の適合を厳しく問われ造られています ↑大法院の庭園は、外露地・中露地・内露地の三段構成で造られ秀でたものとされています 苔生した東屋と石燈籠が趣きある「中露地」です ↑大小の庭石と蹲踞(ツクバイ)が庭を引き締めています「外露地」です ↑ 庭に面する「方丈」 (右)方丈の襖絵は、江戸中期の絵師・土方稲領(ヒジカタトウレイ)が描いた障壁画で、「叭叭鳥図(ハハチョウズ)」叭叭鳥は中国の鳥です、賑やかに囀る声が聞こえてきそうです ↑苔に幾何学模様の石畳みが引き立っている「内露地」です 信濃の国で「文武の誉れたぐいなし」と謳われ真田家に仕えた松代藩士「佐久間象山」 ここに眠っています (右)墓地への門 ↑「象山の墓」 幕末兵学者で西洋学問を知る一人者と謂われ、公武合体・開国論を唱え吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・坂本龍馬など多数の門弟を教え、のち松陰思想は高杉晋作・山県有朋・伊藤博文・木戸 孝允などに引き継がれ新しい日本の礎となります (写真は2011.10の公開時です) 一方で徳川家の義と恩顧に生き、藩としてやむなくこれと戦った会津藩士の一人山本覚馬(山本八重の兄、のち新島襄と同志社創立に関わります)もまた佐久間象山を師と仰いでいます、象山暗殺の場に一番最初に駆けつけ、のち勝海舟の頼みにより象山の遺児を養育したとされています ↑佐久間象山1864年攘夷派の浪士に暗殺され亡くなります (左)三条木屋町の三条小橋に立てられている「象山遭難の地道標」 北へ一丁とあります (右)木屋町御池高瀬川沿いに設えられた「遭難の碑」です ともに維新十傑・大村益次郎の碑と並び立てられています (写真共に2013.2です) -------------------------- 「二、趣きの異なる3つの庭園をもつ・東海庵」 ↑1484年妙心寺四派のうち由緒ある東海派の本庵として、尾張の高僧悟渓(ゴケイ)禅師を開山として建立された寺院です 甍はお城の屋根を見るようです元来禅の無は体(本体)、相(形相)、用(その働き)とされ、東海庵の3つの庭がそれを表現していると謂われます ↑妙心寺本坊の法堂の東、綺麗な白壁が続き山門があります(右)いつも門は閉じられている方丈に続く「唐門}です ↑山門正面の甍です ↑方丈の南面に広がる体の庭は、妙心寺本山の禅堂を借景に作庭された砂庭「白露地(ハクロジ)の庭」一木一草も無く、白砂を敷き詰めまっすぐの直線を一面に引いてある庭です ↑(続き)方丈前の庭は禅宗寺院で一番大事な処、100坪余の清浄感あふれる庭です (右)書院西庭の盆庭と呼ばれる相の庭「東海一連の庭」国の名勝・史跡に指定されています ↑(続き)不老不死の仙人が住むといわれる3つの島にそれぞれ一本の松が配され、海を隔て三尊石と礼拝石はじめ多くの石で理想境を表した枯山水庭園です、自然石を利用した大きい一文字手水鉢も庭に融け込んでいます ↑用の庭は方丈裏と書院の廊下に囲まれた七坪の空間に、波紋を描く白砂と七個の石を直線的に並べた書院式坪庭です ↑(続き)縦一直線ながら向きは八方(世界)を指し、砂紋は中央の要石から水紋のようにその八方に届いています (右)庭めぐりを終え寺内山門・鐘楼・方丈・をのぞみます ↑京都でもようやく梅の花ほころびました 2013.2.21 * 妙心寺は今迄に、 2012.4.28「砂紋に桜枝垂れる」で塔頭・退蔵院 2011.7.29「天井図八方睨みの龍」で本山・妙心寺 2011.6.28「儚し沙羅双樹の花」で塔頭・東林院 をそれぞれご紹介しています TOPページにも「早春の 梅 」UPしています ホームで見て下さい)------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.02.23
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京都ええもん 「京呉服」 「京都・和装の集い」 上賀茂神社神前で行なわれたキモノ園遊会での若い女性による、踊るきものショー 艶やかな京呉服の紹介です (画像はすべて大きくなります) 若い女性の爽やかな笑顔で終わりました
2013.02.17
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. 京都守護職として幕末1862年から6年間、松平容保(かたもり)公率いる会津藩一千人が本陣を構えていた広さ4万坪の自然の要塞・丘陵地黒谷に広がるお寺で、またここは新撰組誕生の地でもあります 浄土宗・大本山 紫雲山・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) ご本尊は阿弥陀如来 白河禅房・くろ谷さんとも呼ばれています 法然上人は1175年修行していた比叡山を下り、ここ黒谷の丘陵地に初めての草庵(さび住い)を設けられたのが始まりです ↑「高麗門」 徳川幕府により、城郭構造へと造り替えられた折に設置された門と伝わります、門より諸堂域へはまだ先です ↑「山門」 応仁の乱で焼失後1860年に再建された三間三戸、二階二重門で高さ20m、後小松天皇よりの2mの勅額「浄土真宗最初門」が掲げられる重厚な門です (二年前より修復中で今見られません、この写真のみ2011年修復直前に写したもの) ↑ここまで石段で数十段、諸堂はまだ上です (左)「鐘楼」 直径1.3m重さ2tで1623年に建立されたものです (右)「阿弥陀堂」 1605年豊臣秀頼により再建された当山諸堂宇中最も古い建物です ↑阿弥陀堂に安置されている恵心僧都の最後の作と謂われるご本尊「阿弥陀如来像」 (右)天井に描かれた迫力ある「雲龍図」です (両写真は紹介資料より) ↑ 黒谷境内の石碑から「御影堂(ミエイドウ)」大殿(ダイデン)とも呼ばれます、法然上人75才時の肖像が安置されています ↑御影堂正面で、法然上人第24番霊場と洛陽33ヶ所第六番霊場の札が掛けられています (右)運慶の作と伝えられる中山文殊像で日本三文殊の一つとされています (写真は当寺資料より) ↑TOPの写真は御影堂まえ、ここは「大方丈」とそれをバックにした「鎧掛けの松」、源頼朝の忠臣熊谷次郎直実が若武者平敦盛を討ったのち思い悩み当寺で法然上人の教えをうけ、その折鎧をこの松に掛け出家を決意したとされている松です ↑大方丈の額「白河禅房」法然上人は師の叡空上人からこの名の禅房を与えられ、後光厳天皇より金戒の二字を賜り金戒光明寺と呼ばれる事となります (右)同大方丈の「虎の間」の屏風です、襖を移動すると4頭の虎が2頭に見える様描かれています (写真は紹介資料より) ↑「紫雲の庭」 法然上人の生涯と浄土宗の広がりを白川砂と杉苔、大小の石で周りの人々を表現したものとされています、上は比叡山修行時代を表すとされています ↑(左)浄土宗開宗から金戒光明寺の興隆を (右)上人幼少時代の美作の国 をそれぞれ表した庭と説明されています ↑紫雲の庭の北庭「ご縁のみち」と名付けられた庭で、いろいろ見方を教えてありますが、ここは日本庭園の代表的な三尊石組の庭です、左→が勢至菩薩(坐像)、右手前の←は観音菩薩(立像)、奥の←小さくみえる石は阿弥陀如来に見立て造られています 後方は大方丈です ↑「三重塔」(重文)文殊菩薩を本尊とし文殊塔とも呼ばれます、家康が熱心な浄土宗徒であった事から徳川家との結びつきは深く1633年二代将軍秀忠公の菩提を弔う為建立された塔です ↑(左)こちらには秀忠公正室のお江与の方(お江・浅井長政三女)の遺髪をが納められ祀られています、三代家光公の乳母春日局により建立されたと記されています (右)三重塔北にある塔頭「西雲院(サイウンイン)」のお堂におかれた紫雲石、法然上人比叡より下りこの黒谷で最初に腰かけた石で、直後紫雲が一面にたなびき天より光明がさしたとの紫雲山・金戒光明寺の謂れが残されています ↑山の北東に設けられた300坪もの「会津藩殉難者墓地」、会津藩が京都守護職の役目を担ってより6年の間に尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末の京都、その後鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士を合せ352名の会津藩士が祀られています ↑(左)「殉難者供養塔」 それぞれ藩士が遠く想いを馳せた鶴ヶ城とふるさとの山々の写真が慰霊を慰めるべく花と共に供されていました (右)整然とお墓が並びます、毎年6月京都会津会の主催の下地元会津より大勢の方が来京法要が営まれています ↑(左)戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いを経て母国会津で新政府軍に下った会津藩、その中に一緒に戦った「幕末のジャンヌダルク」山本八重 鶴ヶ城明け渡しの前夜涙ながら無念の想いを 「明日の夜は いずくの誰か眺むらむ なれし御城に 残す月影」とお城の蔵の壁に書き残した、この軸は金戒光明寺に残されている八重84才自筆達筆の書です、サインは八重子(すべて自著のサインはこの名でされています、写真は紹介資料より) (右)戦いのあと3年後、奇跡にも生きていた兄覚馬をたより京都へ出て同志社を創設したクリスチャン新島襄と出会う、自らもクリスチャンとなり1,867年襄と再婚30才、鉄砲から知識人へと新島八重、夫をしてハンサムな生き方と云わしめた同志社英学校(いまの同志社大・今出川学舎)の創立に関わる、上の写真は晩年二人で過ごした御所東側の旧邸です (右下)夫・襄は1890年46才で死去、同志社は兄覚馬が引き継ぎ自らは裏千家茶道、日本赤十字社活動を経て日清戦争時には篤志看護婦として活躍、「日本のナイチンゲール」と呼ばれたが、終始「ならぬことは ならぬもの」の姿勢貫いた「ハンサムウーマン」・「同志社の母」は87才上の自宅で生涯を閉じ、ここより東2k東山・若王子山の山上に夫・襄、兄・山本覚馬夫婦と共に眠る ------------------------------------------------------------------------被災地に届けよう! 【京都】老舗や名店がひしめく古都。お土産や名産品をお取り寄せ!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[メッセージはこちらから]
2013.02.02
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