全6件 (6件中 1-6件目)
1
元治元年(1964年)8月5日。イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、長州側も前田村の砲台から応戦。下関戦争・馬関戦争とも呼ばれている、攘夷戦が始まりました。この頃、井上聞多は、長州が惨敗することは、良く分かっていながらも、徹底抗戦を主張し続けていました。未だに過激な攘夷主義を変えようとしない長州の体質を覆すためには、徹底的に叩きのめされた方が良い。そう考えていたのです。一方、長州藩首脳は、いつも優柔不断です。不利な戦況が伝えられてくると、すぐに、講和を進めてはどうかと家老が言い出します。聞多は、激した挙句、切腹しようとまでして、あやうく、高杉晋作に止められる一幕もありました。彼は、抗戦論も本気でありました。しかし、そうは言っても、下関の戦況は、日々、劣勢を深めていきました。奇兵隊も奮戦はしたものの、全く歯が立たず、ついに、すべての砲台と沿岸地域を、連合軍の陸戦隊に占拠されてしまいます。ここに至っては、降伏やむなし。藩首脳は、そう判断しました。聞多と晋作を呼び、講和の手筈を進めるように指示します。しかし、晋作が藩命には忠実なのに対して、聞多は藩主の言うことでも簡単には聞きません。なお、講和に反対しました。長州首脳たちの言う開国は、どこまで信念を持っているのか、疑問に思っていたからです。世子・毛利元徳から「以後、攘夷は捨て、開国を藩論とする。」約束を取り付けて、やっと講和に向けて働くことを了解しました。講和のための使節。その正使には、高杉晋作が選ばれました。筆頭家老・宍戸家の養子という名目です。宍戸刑馬と名乗ります。副使には、渡辺・杉という2人の家老。通訳には伊藤俊輔が指名されました。第一回目の交渉は8月9日。旗艦・ユーリアラス号の船上です。相対するは、イギリス艦司令長官のクーパー。晋作は「我こそは、長州藩家老宍戸刑馬である。」と名乗り、鎧・直垂に陣羽織、立て烏帽子という物々しい装束で現れました。長州側が「講和書」を手渡します。クーパーは、これを見て「降伏するとは書いていない、これでは全く問題にならない。」とはねつけます。しかし、晋作はこれでいいのだ、と反論します。「外国船の下関の通航は、以後差し支えないと書いているこれが、講和の意味である。降伏ではない、長州藩は敗けてはいないのだ。」なにを言うか、これだけ砲台を占拠している、というクーパーに、「貴軍の陸戦隊は、せいぜい3000人であろう、当方は、防長2州で20万は動員できる、本気で内陸戦をすれば、貴軍が負けるのである、であるから、今回は講和を申し入れに来たのだ。」これを通訳から聞いた、クーパーは声を上げて笑ったといいます。イギリス側通訳のアーネスト・サトウは、こうした、晋作の傲然とした態度・様子について、好意を含めた表現で「まるで、魔王のようだった。」と書き残しています。第二回目の交渉は翌々日。しかし、この日。晋作こと宍戸刑馬と通訳の伊藤俊輔は、交渉の場に現れませんでした。「宍戸は何故来ない」と怒るクーパー。実際の所は、2人とも行方不明になっていた為でした。長州藩内の事情によるもの。藩内の過激攘夷論者が、講和をすると聞いて憤激し、「洋夷に対して降伏するとは、売国行為である。高杉と伊藤を斬る。」と叫び、山口の藩上層部に詰め寄ってきたのです。そのため、高杉と伊藤は姿をくらましました。攘夷家にとりかこまれた、藩首脳たちも動揺し、「これは、高杉と伊藤が勝手にやったことである。」と言い逃れを始めます。これを聞いた井上聞多は下関から駆けつけ、藩の腰の弱さをなじり、高杉と伊藤を保護するよう約束を取り付けました。しかし、8月13日。幕府から長州征伐の部署と予定が発表されました。このことにより、風向きが変わります。対幕戦を目前にした今、外国との戦いは早く決着したい、そうした、空気が長州に広まり、四カ国との講和を是認するという、藩内世論に変わっていきました。それと、第二回目の交渉では、何一つ話が進まず、宍戸が来ないのであれば、藩主を出せと要求されました。藩主を出すわけにはいかない藩首脳も、是が非でも高杉に出てもらいたいと高杉の居場所を探しやっと、2人を探し出しました。そして、第三回目の交渉です。またも、前回と同じ異装で"宍戸刑馬"が出席しました。この講和の大きな議題は2点。賠償問題と彦島割譲問題です。賠償金について、四カ国側は300万ドルを要求。36万石の長州藩が50年かかっても払えない巨額です。「この攘夷戦は、わが藩の意志で行ったものではない、幕府と朝廷の命令によって行ったものである。その賠償金は幕府が支払うべきものである。」と晋作は主張。幕府と朝廷から出ている"攘夷命令書"を見せます。「わかった。賠償金のことは幕府に交渉する。」とクーパーは了承します。もう一つの彦島割譲問題。彦島は下関に浮かぶ小島。この島を、戦いの抵当として四カ国共有の租借地にしたいという要求です。西洋諸国に蹂躙されている上海を、実見したことのある晋作は、その要求の本質を直感しました。1島たりとも、譲るわけにはいかない。そう考えました。ここで、晋作は、「そもそも、日本国なるは・・・」と気が違ったようにわけのわからないことを話し始めます。「高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし、つづいてイザナギ・イザナミなる二柱の神現れまして、天浮橋に立たせ給い天沼矛をもって海をさぐられ、その矛の先からしたたる、しずくが島となったまず出来たのが淡路国のおのころ島である。・・・・」古事記・日本書紀の講釈を、延々と始めたのです。通訳の伊藤もアーネスト・サトウもどう通訳してよいのか解らず、まわりの、皆はあっけにとられるばかり。話は、アマテラスオオミカミの代になり、天孫ニニギノミコトへ神勅を下して・・・ と留まるところを知りません。ついに、クーパーも音をあげ、租借のことは撤回すると取り下げました。この時の事を振り返って、後に伊藤博文は、「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」と言い、晋作の機転に感謝したといいます。こうして、四カ国と長州の間で調印が行われ、講和が成立しました。今回の事で、逆にイギリス側は、長州に好感を持ちました。幕府との折衝では、いつも、その態度の煮え切らなさや、約束を守らない嘘つき外交に、業を煮やしていましたが、長州は違うと感じました。その態度は明快で、言った内容は信用できる。そう感じたのです。薩英戦争の時の薩摩もそうでしたが、長州も、これ以降、英国と協力関係を深めていくことになっていきます。
2007年06月30日
コメント(9)
駐日英国公使のオールコックは、各国の軍艦を集めて、臨時に連合艦隊を結成し、共同して長州を攻める事を考えていました。長州が下関で砲撃を続けているため、外国の船は上海から横浜にくるのに、瀬戸内海を通航できず、遠回りしなければならなかったので、どの国も困っていたためです。オールコックの呼びかけに対し、アメリカ・フランス・オランダが賛同。それぞれが、出撃する軍艦を準備し始めました。隠密のうちに帰国した井上聞多と伊藤俊輔が、横浜の英国領事館に駆け込んだのはちょうど、そんな頃でした。2人は、オールコックと面会することに成功し、イギリスから帰国してきた経緯を説明しました。さらに、諸国が連合して長州を攻撃する準備をしているという話を、ここで聞かされ、2人は驚きます。長州に戻り、西洋諸国の実力を話し、攘夷の無謀なことを説明して、排外的な政策を転換させたいと考えている。だから、四カ国艦隊の攻撃は延期して欲しいと2人は訴えました。オールコックにとっても、戦いに至らずに解決できればその方が良いわけで、2人の願いは聞き入れられました。イギリス軍艦によって、長州まで送ってもらうこととなり、四カ国代表から、長州藩主へ宛てた覚書も預かりました。こうして、井上と伊藤は山口に到着。元治元年(1864年)6月24日のことでした。6月27日には、井上の懇請により君前会議が開かれました。その席上。井上は、四カ国の連合艦隊が、長州に攻めてくることを話し、外国船への砲撃をやめることを、諸国に対し約束するよう訴えました。さらに、西欧諸国の事情を話し、攘夷の無謀を説き、攘夷を捨てて、開国すべきである との意見を述べました。しかし、居並らぶ藩の重臣たちは、話は聞いてくれるものの、ならば、そうしようとは言ってくれません。例えば、「テレグラフ」(電信)というものがあって、何千里もの距離をわずか2~3時間で通信できるという話をしても、「偽りを申すな」とばかりに、嘲笑され、信用してもらえませんでした。井上は、涙を流がさんばかりに必死に説きましたが、ついに、藩の重臣たちを納得させることはできませんでした。今さら、攘夷の方針を、変えるわけにはいかない。会議での結論でした。そうした間に、井上が帰国していることが、藩内に知れわたり、外国の手先・スパイである、2人を斬るべし、などと激昂する者も多く現れ、不穏な空気が、広まり始めました。藩首脳は、そうした藩内の空気を配慮して、あわてて、再度、攘夷実行の布告を発表します。しかし、7月。京へ向っていた長州の軍が、戦闘に破れ、長州へ敗走しているとの知らせがもたらされました。蛤御門の変です。さらに、長州は「朝敵」とされ、長州追討令が発せられたという知らせが届き、また、四カ国艦隊が、長州に向け進軍を開始した、との知らせも入ります。長州藩は、ここに窮しました。これまでの、無謀な、行き過ぎた行動により、今や、日本全体と西洋諸国を敵に廻してしまう事になったのです。7月26日の君前会議。藩首脳の方針は、腹背に敵を抱えた今となっては、とても外国と幕府を両面に迎えて戦うことはできない。まず、四カ国艦隊に対して、止戦交渉をするしかない。というもの。井上にその交渉役を命じますが、今度は、井上はこれを拒否。「前の君前会議で、あれほど攘夷の無謀を説き、やめるように訴えたのに、ご歴々は、たとえ焦土と化しても攘夷の方針は変えないと豪語したではないか。今からでは、交渉しても、もう遅い。」「京からの敗報に接したとたんに、攻撃をやめるように外国と交渉しろとは、無責任もはなはだしい。」ここに至っては、藩が滅亡するとも、徹底抗戦するしかないと主張します。一端、かんしゃくを起すと、手がつけられなかったという井上聞多。英語が話せて、イギリスとのつながりを持っている井上・伊藤でないと、交渉を行うこともできません。そうこうするうちに、ついに、四カ国艦隊が下関海峡にその威容を現します。この段階の長州藩・・・。久坂玄端は蛤御門で戦死。桂小五郎も蛤御門の戦闘の中、行方不明となっており、高杉晋作も、来島又兵衛を制止しに行ったまま脱藩した罪により、囚人となっていました。井上や伊藤のかつての同志だったものたちの、ほとんどが、今はいません。2人は、完全に孤立していました。しかし、藩はこの窮状の打開を図るため、ここで、再び高杉晋作を起用することを決定します。四カ国艦隊を相手にまわした、彼らの奮闘がさらに続いていきます。
2007年06月23日
コメント(2)
幕末、長州藩は極秘のうちに、5名の留学生をイギリスに送っていました。尊攘派の勢いが、最も強かった時期。 文久3年のことです。この留学生派遣を企画したのは、松下村塾系の家老、周布政之助。そして、桂小五郎・久坂玄端でした。彼らは、攘夷を主張していた中心人物であるにもかかわらず、一方では、西洋の進んだ近代文明を取り入れて、列国に対抗できる力を持つことが必要である、という認識を持っていました。そして、この留学生の中には、井上聞多(後の外務大臣・馨)と伊藤俊輔(後の総理大臣・博文)の2人も入っていました。井上と伊藤は、落ちこぼれの放蕩書生という感じで、周布の求める留学生候補には、全く入っていなかったのですが、井上聞多が、どこからか、この話を聞きつけて、半分、周布を脅すようにして、強引に留学生にもぐり込んだのでした。井上聞多は、長州藩の名家の出身。はねっかえりな性格で、吉田松陰の門下では無かったものの、高杉晋作ら松陰門下生とも、親しくつきあっていました。一方、伊藤俊輔は、貧しい百姓の出身。桂小五郎の従者を務めたことで、やっと足軽程度の身分を得ることが出来た人です。わずかながら、松陰門下であった時期があったため、松下村塾グループの仲間入りをしていました。この2人は、身分が全く違うものの、波長が合うのか大の仲良しで、共に、尊王攘夷活動に参加し、高杉・久坂らと品川の英国公使館焼討ち事件にも、加わっていました。そして、2人とも、なにより遊郭遊びが大好きで、藩の公金を使って遊び回ったりしていた仲でした。周布もこの2人をメンバーに入れるのに、不安はあったでしょうが、結局、彼らを含めた5人の人選を終え、イギリスへと送り出します。彼らは、服と髪型を洋装に改め、横浜を蜜出港、上海で船を乗り継ぎ、ロンドンへと向いました。井上と伊藤。元々、この2人は攘夷家でした。しかし、海外に出て、西洋近代文明の先進性と、強大さを目の当たりにした時、大きな衝撃を受けます。井上聞多などは、上海で西洋の艦船と、立ち並ぶビル群を見ただけで、「もう、攘夷はやめた。」と叫んだといいます。伊藤も、それと同様の感慨を持ちました。2人は、またたく間に、攘夷から開国洋化主義へと考えを改めていったのでありました。ロンドンに着いてから、2人はイギリス人夫婦の下宿に泊り込み、英和辞典を頼りに、英紙タイムズを読むなどして、英語の勉強に打ち込む日々を送りました。ところが、そんなある日。いつものようにタイムズ紙を読んでいると、”長州が下関で外国の艦船を砲撃””薩摩がイギリス艦隊と交戦”などの、記事を目にします。2人は、瞬時に「藩の無謀な攘夷を、やめさせなければいけない。」と思い立ちました。このままでは日本は滅びる、という危機感を抱き、即刻、日本へ戻ることを決意します。他の3人の留学生は、途中で留学をやめることに反対しましたが、2人の決意は変わりません。独断での帰国。2人のイギリスでの留学期間は、結局、半年あまりでありました。しかしながら、留学をやめて帰国した事は、この2人が、その後、明治政府の中心人物となっていくことにつながっていくのです。元治元年(1864年)6月。井上と伊藤は、横浜港に密入国。日本に戻ってきました。ちょうど、池田屋事件が起こる直前。蛤御門の変の、一ヵ月半前のことです。ここから、井上・伊藤両名は、長州藩を説得すべく決死の思いで長州へ戻って行く事になります。
2007年06月16日
コメント(10)
家康は、戦国武将の中でも、武田信玄を最も恐れ、また同時に、最も尊敬していたと言います。武田家が勝頼の代で滅んだ時に、家康は信長の許しを得て、旧武田家臣団の多くを召し抱え、そして、そのほとんどを井伊直政に直属させました。武田軍は、揃って赤い具足をつけ、鞍や馬の鞭までも赤い色を使っていた事から、「赤備え」といわれていましたが、井伊直政もそれを継承して、軍装を赤色で統一し、井伊の軍も「井伊の赤備え」と呼ばれるようになりました。もちろん、具足だけではありません。井伊直政は、その軍法や武田軍の持つノウハウの多くを吸収していきました。そして、これは、井伊を徳川の先鋒部隊として強力な軍団にしようと考えた家康の意図によるものでした。「井伊の赤備え」 彦根城博物館蔵 井伊家の祖先は、遠江で井伊荘園の官人を代々務めていた家柄で、その後、今川家に仕えました。しかし、直政が少年の頃には、井伊家も落はくし、遠江を漂浪していたところを、家康に見出されたといいます。家康の側近に仕え、しだいに頭角を表し始めます。井伊直政という人は、思慮深く、周囲にも気を配り、又、非常に口が堅い人でありました。家康が、何か思い違いをしていた時など、まわりに人がいないのを見はからって、そっと家康に忠告したりする事もありました。そんな事から、直政は家康の相談相手のようになっていきます。その反面、一端、戦場に立てば、無類の勇猛さを発揮しました。戦いにおいては、やみくもに突撃を繰り返し、しかも、生涯一度も負けた事がなかったといいます。小牧・長久手の戦いで戦った秀吉も、井伊軍の勇猛さに手こずり、「井伊の赤鬼」とあだ名したといいます。家康は、この直政がお気に入りで、彼には全幅の信頼を寄せていました。関ヶ原の戦いでも、直政は徳川軍の先鋒として、めざましい奮戦をし、戦後の論功行賞では、家康から「創業ノ元勲也」とまで言われ、激賞されました。直政は、石田三成の旧領をそのまま、家康から与えられます。さらに、その時直政は、家康から「西国諸大名の監視」という職責を命じられました。政権として、まだ安定していない徳川家にとって、大坂の豊臣や、加藤、福島など豊臣恩顧の大名島津、毛利など外様の雄藩 京都の朝廷も含めてこれらの勢力は、まだまだ脅威でありました。家康は近江の地に、井伊を置いてこれらの動きに気を配るようにさせたのです。そして、その監視のための拠点として、家康が築城を命じたのが彦根城でありました。しかし、直政は彦根築城を見ることなく、世を去りました。享年42才。関ヶ原で受けた古傷がもとで、亡くなったといいます。彦根城は、2代目直勝の時に工事が始められ、3代目直孝の時に完成しています。その後も井伊家は、藩祖直政が家康から受けた信頼そのままに、徳川譜代大名の筆頭として、幕政の中心となっていきます。そして、西国大名の監視という職責も、井伊家は江戸期を通じて守り続けていきました。幕末、井伊直弼が安政の大獄を行って、反幕勢力を徹底的に取り締まりましたが、それも、この職責が受け継がれていた為、とも言えるのではないでしょうか。
2007年06月09日
コメント(8)
琵琶湖の旅は、高知県立民俗資料館の館長が同行して頂いていて、色々と、説明を受けながらの歴史探訪でした。彦根城でも、城のつくりや石垣の組み方など、説明して頂きました。そうしたお話の断片を、以下にまとめてみます。その1)岩盤を削った石垣。彦根城本丸の付近は、岩盤が露出している箇所があり、自然の大きな岩盤を削って、石垣に利用してしています。写真は、彦根城・太鼓門櫓に利用されている例です。 その2)梁(はり)組みを直接見せる天井。天井に太い梁をかけて、その上に柱を立てる積み上げ方式という手法が使われています。彦根城の建築構造の大きな特徴の一つです。写真は、彦根城天主の入口の天井。 その3)隠し狭間。城内から敵兵を攻撃するための穴を狭間といいます。四角い形をした矢狭間と、三角形の鉄砲狭間の2種類があります。しかし、彦根城のそれは、外からわからないように、壁が塗りこめられています。彦根城は、あまり実戦を想定した城ではないと言うことができます。その4)転び柱。天主内部の柱は、上と下の幅が違います。これは、柱を意図的に斜めに立てているためで、天主の建築を安定させるための工夫です。その5)転用石。彦根城の石垣には、供養塔などの石塔が含まれています。安土城の石段にも、石仏などが使われていましたが、それも転用石です。彦根城の築城にあたっては、佐和山城を解体し、主にその遺構が使われたと言います。確かに彦根城だけでなく、他の建築物の部材を利用して、新たな建造を行うという話は良く聞きます。しかし、これは昔の建築においては、ごく一般的な手法でした。大量生産や発達した物流システムがなかった時代の話。城に使う木材にしても、生木ではそのまま使えないため、乾燥させるのに半年~一年かかりました。ならば、すでに建築材として使われていたものを、そのまま使うのが一番合理的でした。石垣にしても同様です。他で使われていた石材を利用する=転用石によるのが早いですし、コストもかかりません。当時の人は、そうした点で、現代人とは全く違う感覚を持っていました。 資材は現地産のものを使う。 すでに加工済みのものを再利用する。こうしたことが、ごく当たり前でした。これらのことを意識して見ると、城についても違った発見があります。工夫して城づくりをしていた事がわかります。ちょっと話がそれましたが、そんな話も織り交ぜての ・・・ 城郭豆知識でした。
2007年06月04日
コメント(4)
今回の琵琶湖の旅で訪れた安土城址。安土山は標高が199mで、ちょっとしたハイキングになります。信長は、天下布武を天下に印象づける象徴として、この地に、壮大な天主を持つ城・安土城を築きました。安土城の完成は、天正7年(1579年)。金箔の瓦をのせた壮麗な天主が、山上に聳え、天主内部には、狩野派の襖絵や南蛮の文物が置かれ、華麗な装飾がされていたといいます。しかし、本能寺の変で信長が横死したのち、城は炎上。今は石垣が残るのみとなっています。安土城炎上の原因については、明智光秀の軍が火をつけた、又は、信長の次男信雄が誤って焼き払った等、諸説があって、はっきりしていません。そうした、安土城の、他の城にはない特徴。その一つは、天主へ向う大手道です。城への道は、敵兵の攻撃に対し反撃しやすいように、道が曲りくねっているのが一般的ですが、安土城の大手道は、直線になっています。その理由は、信長が正親町天皇を安土城に迎えることを想定し、設計したためでありました。真直ぐに伸びた大手道は、天皇を迎えるためのロイヤルロードだったと言われています。 安土城天主へ向けて、まず、大手道の長い石段を登っていきました。その両側には、羽柴秀吉・前田利家・徳川家康など、家臣の邸宅跡が続いています。石段の所々には、石仏や塔石・墓石なども埋め込まれています。これらは、敵兵をひるませるために配置している、ということですが、私には、既存勢力や中世的な常識を破壊していった信長の反抗心の表れのようにも感じられました。 さらに登っていくと、織田信長の墓所があります。天正11年、羽柴秀吉が信長の遺品を持ってきて、ここに埋葬。織田一族と家臣多数を集めて、秀吉が、信長の一周忌法要を行った場所です。もう少し、登っていくと、安土城天主のすぐ下に、本丸跡があります。発掘調査により、この本丸は、京都御所の清涼殿によく似た構造の建築であったことがわかってきています。この事から、信長はこの本丸に天皇を住まわせる事を考えていたものと推測されます。このすぐ上が天主で、信長はそこに居住します。つまり、自らが天皇の上に立つことを考えていた、そうした可能性が非常に高いと考えられているのです。 安土城の天主跡です。かつて、宣教師のルイス=フロイスが「ヨーロッパにも、あるとも思えない」と言って感嘆したという、五層七階の壮麗な天主の跡。しかし、今は礎石が整然と並んでいるだけ。何か、人の世の栄華のはかなさを物語っているように思われました。織田信長という人は、稀代の革命児でありました。そして、先見性と強いリーダーシップで、中世社会を変革していきました。しかし、安土城址は、そうした信長の野望の果てを垣間見させてくれている。そんな事を感じつつ、山を降りていきました。
2007年06月02日
コメント(8)
全6件 (6件中 1-6件目)
1