歴史一般 0
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かつて先人たちは、生身のままの装備で山の奥深くにまで入り込み、山陵を闊歩していた。そうした記録や伝承というのは、断片的に、いくつか残されてはいるのですが、そうした残された文献をもとにして、あえて当時と同じ装備・持ちものだけを携え、同じルートを辿っている登山家がいます。その人の名は、サバイバル登山家とも称されている服部文祥さん。股引・脚絆にわらじといういで立ちで、米・調味料と鍋程度のものだけを持って山に入り、山中では、採取や狩猟により食を得て、たき火で調理する。夜はテントや寝袋もないので、たき火の横でゴザにくるまり、山中で夜を明かす・・・。現代文明を遠ざけ、ありのままの自然と直に向き合った時に、見えてくるものがあるのだと、服部さんはいいます。『百年前の山を旅する』と題されたこの本は、先人たちの山岳記録や古道についての実地検証を試みたものであるとともに、当たり前のように現代文明に囲まれ過ごしている現代人に対し、警鐘を促してくれるような、そんな一冊でもありました。服部文祥・著 『百年前の山を旅する』新潮文庫 2014年1月 この本の構成は、著者が先人たちの足跡をたどった7つの山旅紀行からなります。その中心は、明治・大正期、日本登山草創期の登山家たちの山登りを実地に再現しようとしたものでありますが、中には、江戸時代以前の山登りについて検証したものもあります。そうした中から、以下の2編をご紹介したいと思います。(黒部奥山廻りの失われた道)江戸時代、加賀前田藩は、領地の境界と山林資源を確保するため、極秘のうちに、見廻り部隊を黒部の山深くにまで送り込んでいました・・・。奥山廻りと呼ばれたこの一隊は、現在では道がなくなってしまっている越中側のルートをたどり、鹿島槍ヶ岳の山頂にまで到達していたのだといいます。この黒部川支流域というのは、険谷が続く難所で、現在でも登攀するのが容易でないとされているところ。この周辺を江戸時代の人々が行き来していたとは、とても信じ難く、服部さんは、あくまでもこれは伝説であり、加賀藩は巡回しているかのように見せかけていただけなのではないか、と考えていたようです。しかし、立山の博物館で、奥山廻りの行程を記した古地図を見たとき、これは、実際に行われていたものであると、確信したといいます。服部さんは、立山連峰北の越中側から山中に入り、鹿島槍ヶ岳の山頂を目指す旅に出ます。けものみちのような、道なき道を通り、谷や急峻な山壁など、地形を見ながら、その都度コースを判断して進んでいきます。この黒部川支流域を登攀することが、現代において困難とされているのは何故なのか。それは、急峻な谷を現代装備をもって登攀しようとしているからなのではないか。現代人が、そう認識しているというだけのことで、昔の人たちは、山の地形を見て判断しながら登れるコースを選んで登っていた、ということに服部さんは気づいたのでありました。鹿島槍ヶ岳山頂に到達するまで、6日間に及ぶ山の旅。この旅を終えての服部さんの感想というのは、かつての先人たちは、山との接し方や登り方というものを、本当に良く知っていたということ。山中で食糧を調達する方法や、夜の過ごし方などを身につけさえすれば、装備がなくても自在に山陵を歩くことが出来るのだということを、服部さんは、実証することができたのでありました。(鯖街道を一昼夜で駆け抜ける)若狭で獲れた鯖に一塩ふって、翌日の朝には京に届けられていた・・・。若狭の海産物が京に運ばれていたという記録は、古くは平安朝の頃のものが残されているようですが、その後、京の鯖寿司が有名になるにつれて、この道は「鯖街道」と呼ばれるようになっていきました。若狭から京までは18里(約72km)ほど、昔の人は、この山の道を本当に一昼夜で歩けたのだろうか。このことに興味を抱いた服部さんは、実際に自分の足で歩くことによって、それを試してみようとしました。鯖街道と呼ばれているこの道も、初期のコースは針畑から経ケ岳をまわって鞍馬に至る山の道で、その後、安曇川・高野川沿いに大原へと至る迂回ルートへと変わっていきます。服部さんが挑戦したのは、初期ルートの鯖街道。現在は、道の形をなしていないのですが、できるだけ、古道のコースに忠実に進んでいきます。いくつもの峠を越え、山里を抜け進んでいきますが、結局、行程の半分くらいまできたところで日没に・・・。服部さんは断念します。やはり、この行程を一昼夜で歩くことは無理なのでは・・・。ただ歩くだけではなくて、鯖を荷として背負わなければならないし、また、日没になってしまえば、ヘッドライトもない時代に、どのようにして夜の山を歩くのか。鯖を一昼夜で京まで運んだという話は、それに尾ひれがついて誇張され、脚光を浴びただけのものなのではないか。この時、服部さんは、そう結論づけました。しかし、その後、いくつもの登山行を繰り返す中で、服部さんは、その時の結論に違和感を感じるようになっていきました。若狭から京都まで、一昼夜で歩けない。そう決めつけたのは、現代人の世界観で、そう考えていただけだったのではないか。朝早くに小浜を出て、日没までにどこまで歩けるのか、もう一度試してみよう。それから、6年後、服部さんは鯖街道の一昼夜行に、再度挑戦します。この行程を、ほとんど休まずに歩き続けることは、肉体的にもかなりハード。しかし、疲労困憊になりながらも、先を急ぎます。でも、一度通ったことがある道だからとういうこともあったのでしょう。16時頃には、鞍馬に着きました。18kgの荷を背負い、4時間の休憩をとったと仮定して今回の体験から、小浜から出町柳までの実質所要時間は20時間程度。そして、夜の山道についても、良く知っている道であるならば、月明かりや提灯程度の明かりさえあれば、昔の人は歩けていたはずだ、そう考えるようになっていました。鯖街道を一昼夜で歩くことは、肉体的には厳しいとはいっても十分に可能である。服部さんは、2度目の鯖街道挑戦にして、そうした結論を得るに至ったのでありました。***高度に発達した文明の中で生まれ育ち、便利で快適な生活が当たり前となっている現代。しかし、それは人間が本来持っている能力を退化させ、自己の可能性を、自ら限定してしまっているということなのかも知れない。この本は、そんなことを考えさせられるような、魅力に満ちた一冊でありました。
2015年02月01日
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毎年、8月15日の終戦の日になると話題にのぼる靖国神社。日本の首相や大臣が靖国神社に参拝したということに対して、中国や韓国等から、毎回のように抗議が繰り返され、その是非が新聞・テレビ等で取沙汰されています。それというのも、靖国神社には、太平洋戦争における軍人が多く祀られていて、しかも、その中には、東京裁判で有罪の判決を受け戦争犯罪人とされた人までも合祀されているということが、物議をかもしている大きな要因になっているのだと思います。靖国神社は、太平洋戦争における戦没者を祀っている神社。どうしてもそうしたイメージが強い靖国神社ではありますが、しかし、本来、創設された当初の靖国神社というのは、そうした対外戦争における戦没者を祀ることを目的として創建されたものではありませんでした。靖国神社が創建されたのは、明治2年(1869年)のこと。大村益次郎が中心となり発足した東京招魂社が、その端緒であり、そこでは、戊辰戦争の戦没者が、まず祀られました。そして、その後、さらに、この靖国神社は、幕末維新の際、国事に尽くし、動乱の中で命を落とした人たちを祀る神社として、発展していきます。靖国神社というのは、戊辰戦争の戦没者を慰霊するための神社ではありましたが、また、それだけではなく、幕末維新における国事殉難者を顕彰し忠魂する、そうした側面を持った神社でもあったのです。ところで、今回、ご紹介したいのは『靖国神社と幕末維新の祭神たち』という一冊。この本は、靖国神社を幕末維新の国事殉難者を祀る神社という視点で捉えた好著であり、また、多くの取材や数値データをもとに分析を加えた労作であると思います。この本からは、靖国に祀られている祭神たちの意外な事実が浮かび上がってきて色々興味深いのですが、その一端を、以下でクイズ形式を交えながらご紹介したいと思っています。吉原康和 著 『靖国神社と幕末維新の祭神たち』吉川弘文館 2014年8月刊(目次)1、靖国の祭神とは何か (対外戦争の戦没者追悼施設なのか/長州藩が主導した東京招魂社創建)2、「英霊」創出と排除の論理 (井伊直弼と吉田松陰のそれから/水戸天狗党復権・顕彰の時代/非合祀の群像/重複合祀と変名問題)3、対外戦争時代の特別合祀 (維新の勝者と敗者の融和/第一次大戦中の特別合祀/第一次大戦後の特別合祀)それでは、以下、クイズ形式で、この本のご紹介をしたいと思います。問題1・次の4人のうち、幕末維新殉難者として最初に靖国神社に祀られたのは誰でしょう。ア)吉田松陰 イ)高杉晋作 ウ)坂本龍馬 エ)大村益次郎靖国への合祀というのは、一度に行われたわけではなく、明治から昭和にかけて、長年、数次にわたって合祀がされていったものでありました。その中で、幕末維新殉難者が、最初に靖国神社に祀られたのは明治16年(1883年)のこと。この第一回目の合祀で、対象となったのは、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎など、土佐勤王党の面々80名でありました。最初が、なぜ、土佐藩だったのか。この本によりますと、様々な要因があったとされていますが、土佐藩の殉難者は、その履歴がはっきりしていて、承認を受けやすかったというのが、その理由だったのではないかと分析されています。ということで、問題の正解は、ウ)坂本龍馬です。問題2・次の4人のうち、靖国神社に祀られていないのは誰でしょう。ア)西郷隆盛 イ)伊藤博文 ウ)乃木希典 エ)東郷平八郎靖国神社に祀られている祭神というのは、大きく次の2つに分類されますが、それぞれ、その合祀される基準が異なります。1)幕末維新殉難者幕末維新期(ペリー来航から戊辰戦争終結まで)の間に死亡したもの。その中で、勤王家であり、倒幕に貢献したものが対象とされました。このことは、維新の勝者たる明治政府が、自己を正当化するためのものであったと言えます。2)戊辰戦争以後の戦争による戦没者明治以後に起こった戦争で死亡したもの。太平洋戦争での戦没者も、この中に含まれます。とは言っても、これらはあくまでも基準であり、その時々のさじ加減で、祭神として認められたり認められなかったりする場合もあったようですので、このあたりが微妙なところではあります。では、こうした基準に沿い設問の4人について見てみましょう。まず、4人とも幕末維新期に死亡したわけではないので、2)戦争による戦没者に該当するかどうかによります。西郷隆盛は、西南戦争で敗れ自決をしました。しかし、この戦いは明治政府に対する反逆であり、西郷は、天皇に弓ひく逆臣であるとされたため、靖国に祀られることはありませんでした。伊藤博文は、ハルビンで朝鮮人の安重根に暗殺されました。しかし、この死は戦争による死亡ではないため、靖国に祀られる対象とはなりませんでした。乃木と東郷は、日露戦争の英雄であり、軍神とまでいわれた人ですが、そうしたことは、靖国に祀られるポイントとはなりません。乃木希典は、明治天皇の死に際して殉死しましたが、これは、乃木が自己の判断により死んだものであるとされ、東郷平八郎は、天寿をまっとうして病死していますから、ともに、靖国には祀られていません。ということで、以上、この問題は、いじわる問題のようではありましたが、4人とも靖国には祀られていないというのが正解です。ちなみに、大久保利通、木戸孝允、山県有朋など、維新後まで生き残こって栄達を極めた元勲たちというのは、上記と同様の基準で、靖国神社に祀られる対象とはなっていないのです。ところが、その一方、薩長(官軍)と敵対し朝敵とされた会津藩士であっても、靖国に祀られている人がいます。それは、蛤御門の変の時に、御所を守って戦った会津藩士たち。その時点では、会津藩が朝廷側だったということで、このあたりは、幕末政局の変転のめまぐるしさを示しているとも言えます。ただ、彼らが靖国に祀られることになったのは、時を経て大正になってからのことで、会津をとりまく周囲の環境変化の流れの中、ようやく認められたものなのでありました。さて、最後にもう一問です。問題3・幕末維新殉難者として靖国神社に祀られた人が一番多かったのは、次のどの藩でしょう。ア)薩摩藩 イ)長州藩 ウ)土佐藩 エ)水戸藩これも、意外と思われるかも知れませんが、エ)水戸藩が正解です。水戸藩というのは、徳川光圀以来の尊王藩であり、幕末期の尊王思想に大きな影響を与えてきた藩でありました。しかし、苛烈な藩内抗争を繰り返していたため、最終的に維新の中心勢力になることはありませんでした。それでも、靖国に祀られている人が多いというのは、一年にもわたる水戸天狗党の乱での犠牲者が数千人規模であり、その人たちが合祀されているということが、水戸藩の人が多く祀られている要因となっています。著者の吉原氏は、茨城県の出身ということもあり、こうした天狗党を含めた水戸藩関連の事例を掘り下げることから、靖国へと合祀されていく過程や実態を明らかにしようとされています。知っているようで、知らない靖国神社のこと。興味をお持ちの方は、ぜひ一読されてはいかがでしょう。お薦めできる一冊です。
2014年10月14日
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