歴史一般 0
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このブログを最初始めた時に、好きな幕末史のことをまとめながら、勉強していきたいと思って書き始めたのが、「シリーズ幕末史」というカテゴリーでありました。始めた時には、幕末の主要事件を順番に取り上げていって、20回程度で終わるというくらいのつもりだったのですが、それが、とてもとても、なかなか終わらずに、気がつけば80回を超えていました。前回の日記で、鳥羽伏見の戦いにより、薩長維新政府の勝利が確定したところまで書き終えたので、この「シリーズ幕末史」もこれで終えたいと思います。幕末という時代は、異国に占領されてしまうかもしれないという危機感が背景にあり、日本人がはじめて、産業革命を経た近代文明を目の当りにし、世界の中の日本という視点を持ち、日本という国家を意識したナショナリズムが芽生え始めた時代でありました。外圧と危機感の中。多くの若者たちが、これからの日本をどうすべきか、どうあるべきかを真剣に考え、理想を抱いて行動しました。そして、その間、多くの若者たちが、志士として活躍し、そのうちの多くは、志なかばで斃れていきました。吉田松陰、久坂玄端、武市半平太、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎・・・等々。そうして出来上がった明治維新政府。しかし、そこには、それがどう引き継がれていったのでしょう。ある意味では、彼らの遺志を受け継ぎ、又、ある面では、維新政府に影響を与えたとは言えるのだと思います。しかし、現実は、彼らが思い描いたような形での新生日本では、なかったように思います。維新後まで生き残った、明治維新の中心人物たち。西郷隆盛は、明治政府ができた途端、派閥争いと汚職が横行するさまを見て、何のための明治維新であったかと嘆き、戊辰戦争が終わるとすぐに、鹿児島に引っ込んでしまいました。桂小五郎(木戸孝允)も、新政権になじむことが出来ず、不平をこぼす日々を送り、やがて、病没します。そうした中で、実際に新政府を1人で担い、草創期の明治政府をけん引していったのが、大久保利通(一蔵)でありました。現実の中では、なかなか理想どおりに物事が進まないということはありますが、しかし、維新政府自体が、謀略とクーデターの中から生まれ、そして、慶喜があまりにもあっさりと抵抗をやめてしまったということから、突然、政権を担ってしまったという、維新政府の生い立ちの中にも、その要因の一つがあるように思います。「シリーズ幕末史」は、今回で終わりますが、今後も、戊辰戦争、明治維新政府や幕末の志士列伝 など幕末維新のことを書いていきたいと思います。また、これからも宜しくお付き合い頂けますようお願い致します。
2010年10月11日
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崩壊寸前の状態にまで、追い詰められていたクーデター政権。諸藩の協力を得ることができずに孤立し、財政的にも立ちゆかない状態になっていました。しかし、この時、この窮状を一変させる奇手に打って出たのが西郷隆盛でありました。それは、江戸で幕府を標的にした、かく乱工作を行い、これにより幕府を挑発し、何とか戦いに持ち込もうというもの。追い込まれた薩摩が、死中に活を見いだすために行った、乾坤一擲の謀略でありました。西郷は、慶応3年の10月末頃から、このかく乱工作の準備を始めていましたが、彼がその実行者に指名したのが、益満休之助と伊牟田尚平という、2人の薩摩藩士。2人は、江戸に着くとすぐに、古くからの旧知である浪士、相良総三(水戸)にも協力を依頼し、早速、人集めを始めます。その結果、江戸の薩摩藩邸には、500人を超える数の浪人が集まり、そして、彼らに、江戸市中で強盗・辻斬り・放火・襲撃などの狼藉行為をさかんに行わせたのです。これに怒った幕府は、鎮圧・取り締まりにのり出しました。その中心となったのが、江戸市中の見廻りを担当していた庄内藩です。12月25日には、庄内藩が、ついに、この騒動の本拠地である薩摩藩邸に攻めかかり、これを焼き討ちにしました。そして、これは、西郷の思惑通りの反応であったわけです。やがて、この事件の知らせが大坂に伝わりました。会津・桑名・旗本衆など、幕府の主戦派は、これに激昂します。「薩摩を撃つべし」大坂城内の決戦ムードは、最高潮に高まりました。この時点の新政府側の内情は、といえば、これまでお話してきたとおり、全くの窮状に追い込まれていました。このまま、何事もなく推移していけば、新政府は完全に破綻し、慶喜の指導権が確立していたことでしょう。慶喜も、もちろん、そうした政治的な優位さは、よくわかっていたはずで、むしろ、逆に、現状のあまりの有利さに、この時、油断していたということなのかも知れません。この城内の昂揚ぶりに対して、慶喜は「討薩状」なる薩摩を糾弾する文書を作って、京へと、戦うでもなく、交渉するでもなく、ただ、何となく兵を向かわせることとなるのです。いや、”何となく”というのも、違うのかも知れません。むしろ、慶喜は簡単に勝てると思っていたのかもしれません。何せ、双方の在京兵力は、幕府方1万5000、に対して、薩長方は5000程度。軍事的に見ても、幕府側が断然有利なはずだったのです。ところが、実際の戦闘で、幕府軍はあっけなく敗けてしまい、これによって、政治情勢が一気に逆転しまうこととなります。慶応4年(1868年)1月1日幕府軍は「討薩状」をかかげ、「慶喜公上京の御先供」という名目で、京へ向け進軍を開始しました。幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津・桑名の藩兵、新選組などは伏見市街へと進んで行きます。最初に、戦闘が行われたのは、1月3日下鳥羽付近で、街道を封鎖していた薩摩藩兵との衝突があり、続いて、伏見でも戦闘が始まりました。ところが、この時の幕府軍の戦いぶりというのは、信じがたいほどに組織的でなく、戦術もなく、ただ混乱のみがあるといったような惨たんたる状態でありました。こうした状態は、幕府側に、戦うための準備や計画が何もないままで、ただ、何とはなく軍を進めたためであったと考えざるを得ません。これでは、いくら兵力が多くても勝てるはずがありません。そして、翌、1月4日には、薩長軍の前線に「錦の御旗」がひるがえります。”こちらが官軍である”とする、大アピールです。これにより、幕府軍は、完全に崩れたっていきました。・・・鳥羽伏見で、薩長側が勝つということは、後世からみれば当たり前のこと。しかし、当事者にとっては全くそうではありません。薩摩も、もちろん、この戦いに必ず勝てるという見込みがあったわけでなく、いわば、窮地に追い込まれていたため、一か八かの勝負に出たというのが実情でありました。一方、慶喜の側からすると、結果的に言えば、戦わずに自重していれば良かったのだといえます。何よりも、彼自身がそうした手法で、ここまでの優位さを築いてきたわけですから。それが、中途半端に兵を出して、しかも、これに敗れたことにより、十中八九、政権を手中にしていたといえるくらいに有利な状況であったものが、一瞬の間に、今度は、朝敵へと変ってしまいました。1月6日徳川慶喜は、大坂城で、幕府軍に対して徹底交戦を熱弁し、しかし、それでありながらも、その夜、突如として、わずかな側近と老中、会津藩主・桑名藩主を連れて、密かに城を脱出しました。天保山沖から、そこに停泊中の軍艦・開陽丸に乗りこみ、江戸へと向かいます。あれだけの有利な状況であったものが、瞬く間に崩れ、しかも、あろうことに朝敵となってしまった・・・。きっと、慶喜は、その衝撃に頭が真っ白になったのでしょう。そして、ここまで情勢が決定的になった以上、戦いを続けることに意味はないと考え、そのためには、自らの存在を消してしまおうとしたのだと思います。軍事的に見れば、鳥羽伏見の敗戦は、単なる局地戦であり、全体の戦力からすれば、幕府側の勢力は、まだまだ強大ではあります。しかし、内戦を繰り広げていると、欧米列強から介入を受けることにもなりかねません。慶喜は、戦う道を選ばず、敗者として、その後を収めていこうとしたに違いありません。一方、新政府側は、この勝利により、一気に体制を立て直しました。強引に、無理を重ねてきたクーデター政権ではありますが、鳥羽伏見の勝利により、自らの正当性を周囲に認めさせることになりました。”勝てば官軍”と云われるゆえんです。そして、この勝利により、にわかごしらえで、実体が全く伴っていなかったクーデター政権が、思いがけない形で、明治政府として、表舞台に立つこととなったのです。
2010年10月03日
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慶応3年(1867年)12月9日御所の門を固めていた会津・桑名の兵を追い払い、薩摩を中心とする討幕派による「王政復古のクーデター」が行われました。「徳川慶喜に官位を返上させ、その領地も返還させよ」その後に引き続き行われた「小御所会議」での決定に基づき、慶喜に対しても、「辞官納地」の要求が通知されました。この時、二条城にいた慶喜は、一旦はこれを承諾し、憤激する会津・桑名などの主戦派をなだめて、大坂へと兵を引き上げていきます。しかし、この時、慶喜は、「辞官納地」の通達のために訪れた松平春嶽(越前)と徳川慶勝(尾張)に、その後の調停を頼み、そして、幕府に同情的な、これら諸侯たちが、やがて、反クーデターのために結束を始めていくことになります。薩長の明治政権というのは、「王政復古のクーデター」により確立したというわけでは決してなく、その後の成り行きによっては、どのようになっていくのか、混沌とした状況であったのです。慶応3年(1867年)12月12日これら、在京の諸侯10藩は、連署してクーデター批判の意見書を提出。新政権の実態は、こうした諸侯連合の形であったとも言え、彼らの発言力が強く、これを受けた岩倉は動揺します。そして、結局は、・慶喜が「辞官納地」に応じれば、慶喜を新政権の議定に迎え入れる。・領地返還に関しても、これは領地の返還ではなく、新政権への財政援助という名目にする。・領地の返還(財政援助)は、徳川家だけでなく、各藩が応分に拠出する。などと、新政権からの要求はどんどんと譲歩していくことになっていきました。「辞官納地」についての会議が行われても、岩倉は、その対応に窮し、病と称して欠席するようにさえなっていきました。さらに、この新政権において、最も深刻だったのが、資金不足の問題。諸侯の協力も得られず、また、有力商人たちも新政権を信用せずに金を貸してくれないため、新政権は、極度の財政難となっていました。岩倉も、この時期には、慶喜に対して、千両の借財を申し込まざるを得ないほどの状況であったのです。こうした状況に至っては、さすがの大久保一蔵も、手の打ちようがなく、「すべて、瓦解土崩、大御変革も尽く、水泡画餅と相成るべく・・・」と、その絶望感を日記に書き記しています。そもそも、領土の返還とは言っても、徳川家は、その領土を朝廷からもらったわけではなく、戦国期に自力で取得したもの。この”領土を返還せよ”、というクーデター側の論理には、最初から無理があったのです。ところで、一方、対する慶喜の側は、着々と勢力を固めていました。12月16日、慶喜は、大坂城に欧米各国の公使を集め、自らが政府の主権者であると宣言します。「今、京都で起こっている事件は、幼主を担ぎ、私心で行われている暴挙であり、自分は、必ずこれを解決するので、各国は手出しをしないで頂きたい。・・・」こうした、慶喜の対外交渉に対抗し、新政府側も、自らの正当性を主張する詔書を提出しようとしますが、諸侯たちは、これを認めず署名を拒否したため、詔書を出すことも出来ません。新政権は、全くの手詰まり状態となり、天皇を担いで、新政権を宣言はしたものの、周りからの協力を全く得られないまま、孤立した状況となっていったのです。慶喜の側には、すでに国家構想もありました。軍政改革による、軍備の充実も進められていました。これらは、以前のブログ、 大君の国家構想 で書いているとおりです。かつて、長州の桂小五郎が、慶喜のことを評して、「東照神君(家康)の再来」であると言い、その才覚を恐れたといいますが、まさに、そうした慶喜の面目躍如といった状況になってきたのです。このまま推移すれば、クーデター新政権は、もろくも崩壊してしまう・・・。しかし、こうした状況を、最後の最後に、くつがえすことになったのが、西郷隆盛の放った奇手であったのです。この続きは、また、次回に。
2010年09月26日
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これまでの武家支配による体制を一変し、天皇を中心とする新政権を樹立すると宣言した、クーデター政権。慶応3年(1867年)12月9日、クーデター政権は、「王政復古の大号令」の発令に引き続き、この日の夕方、御所内の小御所というところに関係者を集め、今後の新体制をどうするかについての会議を開きました。世に「小御所会議」と呼ばれているものです。この会議の出席メンバーは、クーデター計画に賛同した、公卿と諸侯、そして、その重臣たち。天皇臨席のもとで行われる御前会議の形が取られました。まず、議定である公卿・中山忠能が開会を宣言。会議の冒頭、公卿側から「徳川慶喜は政権を返上したというが、果たして忠誠の心から出たものかどうか疑わしい、忠誠を実績で示すべきである。」との提議がなされました。慶喜は、大政奉還で政権を返上したとはいっても、その官位は内大臣の位にあり、また、将軍の地位を退いたとしても、その所有する領地は、400万石を越える大大名であります。この"忠誠を実績で"という提議は、慶喜に対して、官位と領土を返還せよとする「辞官納地」を求めるという意味で、この是非をめぐる議論が、この会議の主要議題となっていきます。これに対し、猛然と反論し、クーデター政権を批判したのが土佐の山内容堂でありました。「このたびの挙は、すこぶる陰険である。大政奉還の大英断をなさった慶喜公が、この席に招かれていないこと自体、そもそも、おかしいではないか。」「このような暴挙を企てた数名の公卿は、何の定見があって幼沖の天皇を擁し、権力を盗もうとするのか」王政復古宣言というのは、一部の者による陰謀であると指摘したのです。しかし、対する岩倉具視も、これに譲らず反撃を行います。「幼沖(幼少)の天皇を擁しとは、なんたる妄言ぞ」「聖上は不世出の英材をもって大政維新の洪業をお建てなされた。今日の挙はすべて宸断に出ている。」天皇を幼いとの発言は非礼ではないか。という、岩倉の批判には、さすがの容堂も詫びる他ありません。しかし、そこへ、容堂への助け船を出したのが、越前公の松平春嶽。彼も、この会議への慶喜の出席を重ねて求めます。岩倉と大久保一蔵(薩摩)は、慶喜が辞官納地に応ずることが前提であり、そうでなければ、免官削地を行いその罪を天下にさらすべきであると主張。それに対し、土佐の後藤象二郎が、山内容堂の意見を支持して。公明正大なやり方で進めていくことが肝心であり、この会議のやり方は陰険であるとし、新政権に慶喜をも加えるべき、との論を繰り広げました。その後、大久保・後藤の間で激論が交わされます。しかし、やがて、尾張公の徳川慶勝も容堂の意見を支持。岩倉・大久保の慶喜排斥の主張は、薩摩候の島津茂久が賛同したのみという状況で、薩摩は孤立し、会議の趨勢は慶喜許容論へと傾いていくことになります。この流れを、何とか変えたいと思った岩倉は、会議の一時休憩を働きかけ、会議は一旦休憩に。そして、この休憩時間の間に、様々な動きがあって、会議の様相が、一変していくことになります。ここまでは、不利な状況であった岩倉・大久保らの慶喜排斥論。しかし、その状況を変えるきっかけとなったのが、西郷の一言でした。西郷隆盛は、この時、会議には出席しておらず、御所の警備を取り仕切る役割に回っていました。しかし、休憩の間に、こうした会議の状況を聞き、意見を求められると、「短刀一本でかたづきもす」 と答えました。つまり、刺し違える覚悟で臨めということを伝えたのです。この西郷の話が岩倉に伝えられ、岩倉は、安芸候の浅野茂勲に対して、かくなる上は、非常手段を取る覚悟をしていると話します。これに驚いた浅野は、土佐藩に譲歩をさせる必要があると考え、安芸藩家老の辻将曹に命じ、土佐を説得させます。一方、この時、後藤象二郎は、休憩所において、大久保を翻意させるべく、下交渉を進めていました。そこへ、安芸の辻将曹がやってきます。辻は、岩倉の決死の覚悟を後藤に伝え、状況によっては、容堂公の身が危ういということを話しました。大久保に対しての説得交渉も進まない状況であり、ついに、後藤は、山内容堂に妥協するよう説得に向かいます。「このまま、慶喜の擁護を続けていると、慶喜公に策謀があって、土佐は、それを隠そうとしているように取られかねません。」結局、容堂は、後藤の説得を受け入れました。やがて、会議は再開。再開後は、山内容堂も松平春嶽も、反対意見を述べることなく、終始、岩倉・大久保のペースで会議が進行していくことになります。そして、結局、徳川慶喜の「辞官納地」が決定。慶喜に対しては、松平春嶽と徳川慶勝が、この決定を伝えることとし、慶喜が、自発的に、これを申し入れるという形式をとるようにするということが、決められました。結局、この会議が終了したのは、午前3時頃。昨夜も徹夜の会議があって、そこから始まっている、この12月9日の政変劇というのは、実に長い長い一日であったのです。ところで、この「小御所会議」について、徳川慶喜の「辞官納地」が決定されたことから、これをもって、討幕派が勝利した、という、とらえ方をされることがありますが、しかし、実際には、事態はそう簡単に進展しませんでした。「辞官納地」という決定も、次第に骨抜きにされていくことになります。さらに、そればかりか、このクーデターにより出来上がった新政権というのは、いざ、フタを開けてみると、諸侯などからの支持を、ほとんど得ることが出来ずに孤立し、立ち上げ早々から、自壊状態にあるということが、わかってくるのです。こののち、この新政権は、窮地に追い込まれていくことになります。
2010年08月29日
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幕末期の主要事件を時系列で書き綴る、という趣旨の日記をカテゴリ分けしているのが、当ブログの「シリーズ幕末史」。ペリー来航の頃から書き始め、関連記事も今回で早や82エントリー目になりますが、この「シリーズ幕末史」も、いよいよ最終局面が近づいてきました。今回のお話は、「王政復古のクーデター」について。この「王政復古のクーデター」という事件は、薩摩を中心とする討幕派が宮廷を占拠して、新体制の樹立を宣言し、新たな職制を定めたというもので、これが明治新政権の出発点になったともいえる、幕末史の大きなターニングポイントであります。この翌月、1月3日には鳥羽伏見の戦いが起こっているので、明治元年まで、あと1カ月足らずという段階でのクーデター事件。しかし、実際には、このまま明治新政権がすんなり出来上がったというわけではなくて、この1ヶ月ほどの間にも、政治情勢が二転三転することになります。このあたりが、幕末史の面白さの1つでもあり、また、このあたりが、出来上がった明治新政権の本質を物語っているようにも思えるのですが、そうした話は、また、折を見てということにして、まず、今回は、「王政復古のクーデター」と、そこに至るまでの状況についてお話を進めていきたいと思います。慶応3年(1867年)の10月。徳川慶喜は、土佐藩からの建白を受け入れ、政権を天皇に返上すると発表。大政奉還が行われました。しかし、政権を返還されたといっても、実際には、朝廷にそれを受け入れる組織も能力もないわけで、結局、朝廷は、従来どおり政務を慶喜に行わせることになります。特に、この頃の朝廷では、摂政の二条斉敬など、幕府寄りの公卿が朝廷の中枢にありまた、大政奉還という名目だけで満足して、それ以上の変革を望まないといった保守的な公卿が大勢を占めていました。討幕を唱える薩摩の立場は、宮廷内で孤立状態になっていきます。形の上で大政を返上し、それにより討幕の名目を奪い、しかし、それでも実質の支配権は確保できる。そう考えていた慶喜の思惑通りに事態は進行していたといえるでしょう。閉塞状態に陥っていた薩摩藩。そこで、こうした状況を打開するために、次なる手立てを準備します。それが、武力を背景とした宮廷クーデターでありました。このクーデター計画の中心人物はといえば、薩摩の大久保一蔵と公卿の岩倉具視の2人です。大久保は、まず、討幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に京へ派兵するよう依頼し、それともに、薩摩からも兵を送ってもらうよう国許を説得します。さらに、少しでも兵力を集めたいということで、大政奉還派の中心であったはずの土佐藩にも声をかけ、協力を求めました。このあたりの土佐藩の動きというのは、非常に微妙で、本来は、討幕派ではないはずなのですが、王政復古・公議政体という部分では薩摩と共通認識があったということなのか、それとも、土佐の発言力を保持しておきたいという思惑からか、このクーデター計画に賛同します。そして、このクーデターの決行日として、12月5日が予定されることになりました。しかし、ここで、土佐の後藤象二郎は、容堂公の入京が遅れるとしてクーデターの延期を要請。一旦、12月8日に変更されますが、さらに延期を申し出て、ということで、決行日については、なかなか調整がつかず、結局、最終的にクーデターの決行日は12月9日ということに落ち着きました。このあたり、土佐藩、とくに山内容堂が、薩摩に同調することを渋っている様子が感じられます。そして、いよいよクーデターの決行へ。12月8日のことです。この日、朝廷では会議が開かれていました。その主な議題は、・朝敵とされている長州藩父子の罪の赦免と復位。・政治犯として追放されている公卿の赦免。この2点。この会議は非常に長引いて、深夜に及び、また、更に続いて、翌朝まで、会議が行われました。その結果、長州藩父子の赦免と復位が決定。さらに、政治犯であった公卿の赦免も認められました。七卿落ちで、長州・九州へと逃れていた三条実美の罪が許されたのも、この時、また、追放中であった岩倉具視の参内が許されたのも、この時のことでありました。そして、徹夜で行われたこの会議というのが、実は、翌日のクーデターのための伏線として用意されたものだったのです。散会となり、席をはずす二条摂政ら親幕府派の公卿たち。会議の席には、クーデター側のメンバーだけが残ることになりました。そこへ、たった今、罪を許されたばかりの岩倉具視が現われ、かねて用意してあった王政復古の勅書を持って、これを天皇に奏上します。一方、御所の外では、薩摩・安芸・尾張・越前の諸藩の兵が御所の門を占拠。この時、会津と桑名の兵が御所の警備についていましたが、不意をつかれて総崩れとなり、退去していきました。そうした中、土佐の山内容堂ら各藩の藩主も集まってきます。やがて、天皇が出座され、岩倉から手渡された王政復古の詔が発表されました。その内容というのは、・征夷大将軍の職を廃止する。(つまりは幕府の廃止)・京都守護職、京都所司代の廃止。・従来の摂政、関白の職を廃止。・これに代わって、総裁、議定、参与の三職を置き、総裁には有栖川宮熾仁親王を任じる。そして最後に、・王政復古政権の樹立を宣言これが「王政復古の大号令」と呼ばれているもので、これにより、これまで700年間続いてきた、武家による政治体制での諸制度が、一瞬のうちに、廃止されたことになります。まさに、あっという間の大変革でありました。しかし、この一方的な変革に対しては、反発を感じていた人も多く、また、新政権が出来たと宣言されても、その正当性はどこにあるのか。このクーデターに対する、その受け止め方は、総じて冷ややかであったのです。そして、このクーデター政権に対する疑問と反発の声は、この日の夜に開かれた会議(小御所会議)において、早速、紛糾を見せることになるのですが・・・。この続きは、また、次回に。
2010年08月22日
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旅や移動をすることを、厳しく制限されていた江戸時代の庶民。それでも、伊勢神宮への参拝だけは例外で、事前に許可を得ていない場合でさえ、叱責程度で済まされるというほどに、お伊勢参りというのは、特別扱いされていたようです。固定した身分社会の中、伊勢神宮への参詣というのは、まさに、一生に一度の庶民の夢でありました。そうした中、やがて、庶民の間に伊勢参りブームが起こり、そして、これが、時に、しばしば集団化し、やがて、幕末になると、世直しを求める庶民の声とあいまって、「ええじゃないか」という民衆運動へとつながっていきます。今回は、そうした、江戸時代、伊勢参りブームの背景と、幕末の「ええじゃないか」についてのお話です。江戸時代に巻き起こった伊勢参りブーム。その中で、大きな役割を果たしたと云われているのが、御師(おし)と呼ばれる人々だったと云われています。御師とは、いずれかの寺社に所属して、参詣者を寺社に案内し、参拝・宿泊などの世話をしていた人たちのことで、今でいえば、さしずめ旅行代理店のような存在。御師たちは、農民と強いつながりを持っていて、商品経済の発達によって、ゆとりが出てきた富裕な農民たちに対し、さかんに、伊勢神宮への参拝を勧誘してまわりました。一方、農民の中でも、日常の生活から離れ、新たな知識や見聞を求めて旅に出たいと考える人が増えてきており、御師たちの勧誘は、そうした気運にもマッチしました。農民が旅に出るための口実として、伊勢神宮参拝は、ちょうど、うってつけだったんですね。御師たちは、伊勢を旅する参拝者に対して、下にも置かぬもてなしをしたといい、宿泊と豪華な料理での接待、参拝作法の手ほどきから観光案内まで、まさに、至れり尽くせりの歓迎ぶりでした。こうしたことが、また、口コミを通して広がっていき、伊勢参りをする人が、さらに増えていくこととなります。ところが、やがて、この伊勢参りブームは、さらに過熱していき、少し形を変え、集団化していくことになります。これが、お蔭参りと呼ばれるもので、数カ月で100万人を超えるほどの規模の参拝者が伊勢神宮に押し寄せるといった現象が、しばしば、起こりました。こうした現象は、自然発生的に起こったものであると云われていますが、その陰には、やはり、御師たちの存在があったようにも思われます。お蔭参りには、伊勢神宮に向かう時の決まったスタイルがあり、出身地や参加者の名前を書いた幟を立て、「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら、街道を進んでいったと云います。それが、やがて、この幟やお囃子も、思い思いに好きな事を書いて、好き好きに囃すといったように変化していったようです。この、お蔭参りの特徴としては、親や主人などに無断で、参加するといったケースが非常に多く、そのため、お蔭参りは、抜け参りとも呼ばれたりしていました。さらに、もう一つ、特徴的なことは、お蔭参りには怪奇な現象が起こると信じられていたこと。死人が生き返ったという話や、天からお札が降ってくるという話など、俗説といえるような話が信じられていました。お蔭参りに参加すれば、不可思議な霊験を受けることができる・・・。こうしたことも、また、多くの人を惹きつけていった要因であるのかも知れません。そして、やがて時代は幕末へ。幕末になると、このお蔭参りが、「ええじゃないか」という民衆運動の形へと変質していきます。「ええじゃないか」というのは、必ずしも伊勢神宮参拝を目的としたものではないのですが、お蔭参りと同じようなスタイルを取っていて、幟には、世直しを訴えるスローガンが掲げられ、「ええじゃないか ええじゃないか」というお囃子に合わせ、民衆が踊り歩きました。「ええじゃないか」が始まったのは、慶応3年の夏頃。直接のきっかけは、天からお札が降ってきたという噂が名古屋で広まり、これに端を発して広がっていったものでありました。そして、それが、京・大坂や東海道、中国、四国にまで及び、幕末の各地で繰り広げられるようになっていきます。蓄積された民衆の不満や不安。そうしたフラストレーションのはけ口が、「ええじゃないか」という形をとって、現われたものだといえるでしょう。しかし、その一方、この「ええじゃないか」は、討幕派が幕府の統治機能の混乱を生じさせるために起こさせた、政治的策略であったのではないか、という説もあります。実際、討幕派が仕掛けた王政復古のクーデターの時、これをカムフラージュするのに「ええじゃないか」の喧騒が役に立ったとも云われています。幕末の混沌とした世相の中、なんとか世直しを願う庶民たち。これを、討幕派が利用しようとしたのかどうかは、判然としませんが、大政奉還・龍馬暗殺事件・王政復古クーデター・・・きっと、それら一連の事件の背景には、「ええじゃないか」のお囃しが、BGMのように流れていたのだと思います。
2010年07月31日
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波乱に満ちた幕末の政治情勢を、最後に決着させることになったのが鳥羽伏見の戦い。この時に、薩長軍が官軍であるということを、両軍に印象づけることになったのが、”錦の御旗”であります。幕府軍は、この戦いの中、薩長側に”錦の御旗”がひるがえったのを見て、天皇に対して弓を引いているという観念を持ち、その精神的なショックは、幕府軍の敗退につながる一因ともなりました。この”錦の御旗”を用意することを発案・企画したとされているのが玉松操という人物。彼は、幕末の最終盤になってから岩倉具視の腹心として参謀のような役割を務め、決して表に出ることはなかったものの、その謀略と学才により岩倉の政治活動を陰から支えました。今回は、そうした玉松操と”錦の御旗”の制作秘話についてのお話です。玉松操は、文化7年(1810年)の生まれで、京の下級公卿・山本家の出身。出家して醍醐寺に入り、そこで儒学や国学なども修めて、その学識の高さから大僧都法印まで務めたといいます。この頃は、猶海という名前でした。寺を代表する学僧にまで上り詰めたわけですが、しかし、彼は異常なほどに、物事に厳格な性格で、特に、当時の仏教界の堕落ぶりには我慢がならず、醍醐寺の中で、徹底的な粛清・攻撃を繰り返して、そのために孤立し、結局、寺を追い出されてしまうことになります。その後は、還俗して細々と塾を開いたりしますが、生活は困窮し、世間からも隠遁した暮らしを続けていました。そこへ、そうした玉松を世に見出したのが岩倉具視であったのです。慶応3年(1867年)玉松操は、弟子であった三上兵部の紹介により岩倉具視の寓居を訪ねます。そこで、両者は互いの性格とその才を認め合い、玉松は岩倉の腹心となることを了承することになりました。ところで、この頃の岩倉具視はというと、こちらも京の僻陬の地・岩倉で謹慎中。岩倉具視は、文久年間には、和宮降嫁において主導的な役割を果たし、これを実現させた中心人物でありましたが、これにより、幕府寄りの人物であると尊攘派公卿から反発を受け、宮廷から排斥されて、幽居を続けていました。それでも、最近の岩倉は、尊攘討幕の立場を鮮明にするようになっていて、薩摩藩とも連携を始め、幽居の中で、密かに志士たちとの密議を重ねていたのです。そうした中で、この幽居先において、岩倉と玉松が、討幕のための策をめぐらせていくことになります。時に、ちょうどこの頃、薩長を中心とする討幕派と、大政奉還による平和的な政権移行をめざす勢力との間で、せめぎ合いが続いていました。そこで、討幕派によって計画されたのが、天皇からの討幕命令である「討幕の密勅」の宣下です。 詔す。 徳川慶喜は代々威厳を借り、徳川一族の強大な武力に頼り、 でたらめに勤王の志士を殺害し、しばしば王命に背き・・・という書き出しで始まる、この「討幕の密勅」は、相当に過激な文章でありましたが、この文を起草したのが、玉松操であったといわれています。玉松操も、この頃には、討幕活動における黒子のような役割を果たし始めていたのでした。ちなみに、この「討幕の密勅」は、討幕のための大義名分を得ようとしたものであったわけですが、結局、これは、同時期に提出された慶喜の「大政奉還」に先を越されたために、空振りのような形になってしまいました。(この「討幕の密勅」についての以前の関連記事は、 こちら )ところで、その一方、討幕戦に備え”錦の御旗”を用意しておこうと玉松が言い始めたのが、この頃のことでありました。そもそも、”錦の御旗”とは、朝敵を討伐する時、その証として、天皇から官軍の大将に与えられるとされているもの。古くは、鎌倉時代・承久の乱の時に、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府軍討伐のため、配下の将に与えたというのがその最初であったといわれています。しかし、これは、文献上に、そう書き残されているというだけのことで、宮廷内に実在するわけではありません。そこで、岩倉と玉松は、この”錦の御旗”を自分たちの手で作ってしまおうということを考えました。史料をもとにして、旗のデザインを玉松が書き、これを薩摩・長州、それぞれ一流づつ作るということが決められます。そして、この実際の制作については、薩摩の大久保一蔵(後の利通)と長州の品川弥二郎がそれぞれ担当することになりました。旗の材料については、大久保が京都市中で買い求めます。一説によれば、大久保の妻が西陣まで買いに行ったのだとも云われています。旗の制作については、この生地を薩摩と長州半分づつに分けられ玉松の描いたデザインをもとにして、それぞれ、別々に、手作りにて制作が進められました。こうして、赤地の錦に、金色の日像と銀色の月像が描かれた”錦の御旗”がついに完成します。密かに仕立てられたこの”錦の御旗”は、一流は長州・山口の藩庁で保管され、もう一流は、大久保の手で京都市街のとある寺の土蔵に隠されました。やがて来るであろう、幕府との正面対決。その時には、こうして密造、秘匿された”錦の御旗”が威力を発揮することとなり、歴史を動かしていくことになるのです。
2010年07月25日
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幕末の京都で、尊王攘夷派の浪士たちを取り締まり、佐幕派の人斬り集団として恐れられていた新選組。しかし、その新選組の中にあって尊王攘夷の考えを持った異分子的存在であったのが伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。甲子太郎は、新選組入隊直後から、幹部として迎えられましたが、ほどなくして、新選組と分かれて「御陵衛士」という別個の組織を結成します。今回は、この伊東甲子太郎の足跡と、非業のうちに斃れたその末路についてのお話です。伊東甲子太郎が、新選組に入隊したのは、元治元年(1864年)10月のこと。新選組局長の近藤勇は、組織の強化を目指して、江戸で隊士を募集しましたが、この時の募集に応じて入隊したのが、伊東甲子太郎を中心とする、北辰一刀流・伊東道場の面々でした。この時の江戸行きには、新選組の生え抜きで、副長助勤という幹部でもある藤堂平助が同行。彼らの入隊は、もともと伊東の弟子であり、甲子太郎とも親しかった藤堂平助が仲介したものでありました。甲子太郎とともに入隊した主なメンバーは、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄ら。この頃はすでに、池田屋事件により新選組の存在が注目されるようになっていて、そうした中での、中途入隊でありました。甲子太郎は、新選組入隊と同時に、いきなり参謀の地位をあたえられ、近藤・土方に次ぐ、ナンバー3の位置につきました。甲子太郎という人は、文武両道に優れ、容姿端麗で弁も立ち、人望も高かったようです。近藤も、武闘集団である新選組の中にあって、甲子太郎の持つ学識・見識に、さぞ、期待していたものと思われます。しかし、そもそも甲子太郎は、水戸学や国学にも傾倒し、尊王攘夷の考えを持った人でありました。佐幕派である新選組とは、考え方が違うはず。そうした甲子太郎が、なぜ、新選組に入隊したのでしょう。その理由の一つと考えられるのが、当時、政治の中心となっていた京の町で、活躍したいと思っていた甲子太郎にとって、その絶好の機会であったということ。あるいは、新選組を利用して、尊王攘夷の活動を進めたいと考えていたのかも知れません。甲子太郎は、入隊後においても、敵情を探るという名目をつけて、薩摩や長州の志士たちとも、半ば公然と接触を広げていきます。そうした状況ですから、両者は、早晩、衝突することは明らかであったといえるのです。やがて、甲子太郎は、尊攘派の名士たちとパイプを持てたことに満足したのか、新選組にいることに意味を感じなくなったのか、甲子太郎は新選組を脱退する決意をします。 慶応2年(1866年)11月。近藤の妾の家で、近藤・土方と伊東・篠原が集まって、今後の方針についての激論が交わされました。「お互いに、別にやっていく方が良い」ときり出したのは甲子太郎。敵になるのではなく、あくまでも分離であり、別の立場から、同じ方向を目指すのだ、と甲子太郎は主張したといいます。結局、この場では甲子太郎の主張が認められ甲子太郎は、分派に向けての活動を始めていくことになります。やがて、甲子太郎は、つてを通じて朝廷に働きかけて、「孝明天皇御陵衛士」という職を新設してもうことに成功します。前年に崩御された孝明天皇の御陵建設を管轄し、完成後は、その護衛をするというのが、この新職の任務。甲子太郎は、この任務を通じて、朝廷と結びついていこうと考えていたのです。慶応3年(1867年)3月。甲子太郎は、新選組を正式に離脱。篠原や鈴木・藤堂などの同志14名と共に「御陵衛士」を結成します。しかし、これが新選組の別働隊であると言っていても、それは建前だけのこと。実際には、両者は敵対し、甲子太郎の方は、仲間をスパイとして新選組に残していましたし、新選組の方でも、斎藤一を御陵衛士に送り込むなど、互いに相手の出方を監視していたのです。そうした中、新選組としては、伊東一派をこのまま見逃すつもりは全くなく、彼らに対して、報復する機会をはかっていたのでありました。慶応3年(1867年)11月18日。近藤は、相談があると口実をつけて、七条の妾の家に甲子太郎を招き、酒宴を張りました。伊東派からは、甲子太郎ひとり。新選組からは、多くの幹部が出席し、昼頃から始まった酒宴は、延々と続いて、終了したのは、夜の10時頃だったといいます。宴が終わり、したたかに酔って帰る甲子太郎。ひとり歩きで、油小路・本光寺の前まで来たところを、数名の男たちに囲まれます。新選組の放った刺客でありました。泥酔はしていても、さすがは使い手の甲子太郎。敵に一太刀を浴びせますが、それでも、槍に突き立てられて、最後には敵わず「奸賊ばら」と一声叫び、絶命したといいます。新選組の自分に対する信頼に、よほど自信を持っていたということなのかあまりに無用心な、最期でありました。しかし、新選組はこの時、甲子太郎だけではなく、「御陵衛士」のグループ自体を、壊滅させることを考えていました。そのため、甲子太郎の遺骸を油小路の辻まで運んで行って、そこに放置します。甲子太郎の遺骸をおとりにして、「御陵衛士」のメンバーをおびき出しまとめて粛清しようとしたのです。はたして、この報を聞いた「御陵衛士」の同志たちは憤り、すぐさま、遺骸を引き取りに油小路へと向かいます。この時、駆けつけたのは、篠原泰之進・鈴木三樹三郎・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助ら7名の同志です。しかし、この時、新選組は、すでに40名の隊士を油小路に集めていて、彼らが来るのを待ち伏せしていたのでありました。そして、ここで、すざましい激闘が繰り広げられることとなります。最も、激しい闘いをみせたのが服部武雄。彼は、隊内でも相当な二刀流の使い手として知られていた達人で、その孤軍奮闘には、鬼気迫るものがあったといいます。しかし、最後は、服部の刀が折れたスキを狙って原田左之助が繰り出した槍により落命します。 最も、運命的な最期を遂げたのが藤堂平助。彼は、新選組結成以前からの隊士であり、近藤も、藤堂の命だけは助けたいと願っていました。永倉新八・原田左之助ら、昔からの同志も、藤堂だけは逃がしてやろうとしたのですが、しかし、そうした心情を知らない他の隊士が藤堂に斬りつけます。藤堂も、結局、この乱戦の中で討死してしまうのです。「御陵衛士」側の死者は、3名。他の4名は、なんとか、この場を斬り抜けて、薩摩藩邸に逃げ込みました。これが、世に「油小路の決闘」と呼ばれている事件。ちょうど、龍馬暗殺の3日後のことで、新選組の中では、池田屋事件に次ぐ大きな規模の闘いでありました、ちなみに、こののち「御陵衛士」の残党は、薩長側のメンバーとして戊辰戦争にも従軍。特に、彼らの新選組に対しての敵慨心は強く、後に、近藤勇を狙撃する事件を起こしたりしています。ところで、「御陵衛士」の領袖であった甲子太郎ですが、彼は、いったい何を目指していたのでしょう。甲子太郎は、朝廷に建白書を提出しているので、それをもとにして彼の意見をまとめると、・公家中心の新政府をつくる。・畿内5ヶ国を朝廷の直轄領とする。・開国による富国強兵 さらには、徳川家をも政権に参加させるという内容もあり、ある意味坂本龍馬にも近い穏健的な考え方をしていたようです。しかし、彼の残したこれまでの足跡を振り返った時、なにか、策のみが先行していたようにも思われます。伊東甲子太郎という人は、この国に対する理想や思いといったものよりも、自己の才気を世に発揮したい、そういう自己実現のための欲求から動き回っていた人だったような感じがします。
2010年04月25日
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幕末史最大のミステリーといわれているのが、「近江屋」での坂本龍馬・中岡慎太郎の殺害事件。殺害犯は誰か、そして、その黒幕がいたのでは、幕府説・薩摩説をはじめ、土佐藩説・紀州藩説 等々、それぞれに論拠や動機が示され、議論百出状態で、それにより、さらに、この事件に対する関心が高まっていっているというのが現状です。この龍馬殺害事件については、事件当初、そして明治・大正と審議の進展や、様々な新証言が出てきたりということがあって、その段階ごとに犯人像が変遷してきたという経緯がありました。そこで、今回は、この龍馬殺害事件の犯人さがしについて、時代を追って、見ていきたいと思います。・・・・・まず、事件当初において、龍馬殺害犯として考えられていたのは、新選組でありました。その根拠となったのが、中岡慎太郎が死の間際に語ったという証言の内容と、事件当夜、犯人が近江屋に残したと思われる遺留品でありました。中岡慎太郎は、事件直後、重態ではあったものの、まだ話が出来る状態で、「刺客は”こなくそ”と叫んでいたので、四国人なのではないか、このようなことができるのは新選組のものだろう」と、駆けつけてきた土佐藩の谷守部(干城)に事件の様子を語っていたといいます。又、犯人の遺留品としては、料亭・瓢亭の刻印の入った下駄と刀の鞘が近江屋に残されていました。下駄の件は、瓢亭に問合せたところ「昨夜、新選組の方にお貸ししました。」との回答があり、刀の鞘についても、元新選組隊士に聞いたところ、原田左之助のものに相違ないとのこと。左之助は四国松山出身なので、慎太郎の証言とも一致します。こうしたことにより、殺害犯は新選組であるという見方が、大勢となっていきました。しかし、その一方、海援隊では、龍馬の殺害は、昨年の”いろは丸事件”の報復に違いないとして紀州藩が怪しいと考えていました。このため、陸奥陽之助を中心とする海援隊士が、紀州藩士・三浦休太郎を京都・天満屋で襲撃するという事件も起こっています。又、越前の松平春嶽が、事件直後「芋藩の仕業である」と語っているなど、薩摩藩が怪しいと考えている人も、当時から、いたようです。さて、それから数年後。やがて、戊辰戦争が終結し、箱館戦での降伏者への取調べが始まりました。この取調べの中では、近江屋事件についての尋問も行われたのですが、ここで、事件は新たな展開をみせることになります。明治3年に行われた近江屋事件についての取調べ。この中には、新選組の生き残り隊士も数名含まれていて、徹底した追及がなされるのですが、しかし、彼らは、頑として事件への関与を否定します。膠着した審議の中、やがて、今度は、元見廻組隊士の今井信郎というものが、龍馬殺害に関わったということを自供し始めます。見廻組というのは、幕末の京都の治安維持のため組織された集団で、京都守護職の配下にあり、新選組と同じような任務を行っていたのですが、隊士が幕臣から構成されているという点で、むしろ、新選組よりも正規の集団でありました。その今井信郎の証言によれば、見廻組与頭の佐々木只三郎を中心に、桂早之助、渡辺吉ニ郎ら見廻組隊士7名が決行に及び、今井は、その見張り役をしていたというもの。新政府も、この段階で、はじめて、見廻組がこの事件に関与していたということを認識するようになったようです。しかしながら、この時には、すでに、殺害犯は新選組であるということで、新政府はその処罰を行い、結論も出してしまっていました。そして、何より、新政府にとっては、新選組が犯人であるという方が都合が良かったということもあり、結局、この今井信郎の証言が、世間に公表されることはありませんでした。ところが、それから時が流れて、30年後のこと。今井信郎が、再び、この事件についての証言を始めます。そして、これにより、この事件は、再び脚光を浴びることとなり、さらに、新たな展開を見せることとなりました。明治33年、「近畿評論」という雑誌に「今井信郎氏実歴談」と題した記事が掲載されました。ただ、この記事は、今井から話を聞き取った記者が、相当に脚色したため、今井信郎は見張り役から実行犯になっており、実行者も4人であったというように、色づけされて発表されたのです。そして、この記事に対して、猛烈に批判をはじめたのが、土佐出身で、今は明治政府の顕官となっていた谷干城でありました。谷は、事件当時、慎太郎から話を聞いていて、また、事件直後の状況も見ていた人です。この記事の内容は、事実と全く違うと猛抗議をし、さらに犯人は新選組であることに間違いないとした上で、これは今井信郎の売名行為であるとまで言って、激しく論難しました。そして、結局、この件が、大きく取り沙汰されたことにより、やがて、見廻組が犯行について証言をしているということが、世間一般に知られることとなってきました。さらに、この一件が呼び水となったのか、この後、龍馬殺害についての証言が、相次いで発表されていきます。明治33年、手代木直右衛門の証言。手代木は、見廻組与頭・佐々木只三郎の実兄で会津藩士です。彼は、死の直前、看取っていた長女に対して、近江屋事件について語ったといいます。「龍馬を斬ったのは、弟の只三郎である。あれは上様の命令であり、暗殺ではなく公務であったこれまでは、上様に累が及ぶのを避けるため、公表しなかったのだ。」手代木がいう上様とは、会津候・松平容保のこと、上意により、つまり職務として龍馬を殺したと話したのです。大正4年 渡辺篤の証言。渡辺は、元見廻組の隊士で、彼も死の直前に「龍馬を斬ったのは自分だった。」と語りました。これが、大阪朝日新聞に掲載され、注目を集めました。渡辺によると、近江屋に踏み込んだのは、渡辺の他に、佐々木只三郎・今井信郎・世良敏郎、他2名であり、近江屋に忘れていった刀の鞘は、世良のものであると話しました。また、龍馬を斬った刀といわれるものも存在します。見廻組・桂早之助が所有していたとされるもので、大正5年には、維新史料編纂委員がこの調査を行い、桂家の子孫から、事件当日の様子が聞き取りされました。と、いったような形で、明治末以降、龍馬殺害に関する証言が続々と現れてきました。果たして何が真実なのか。その後、近江屋事件についての研究が、さかんに行われるようになっていきます。・・・・・現在では、近江屋事件は見廻組の犯行であったというのが、ほぼ通説となっています。しかし、その黒幕は誰かということについては、色々な説が議論されています。中でも代表的なものが、薩摩藩黒幕説と幕府説ですが、これについて、以下、私見を交えて少し検討を・・・。まずは、薩摩藩黒幕説。武力討幕を目指していた薩摩藩にとって、大政奉還など平和路線を展開し始めた龍馬が目障りになってきて、犯行に及んだというのがこの説の大まかな論旨です。しかし、龍馬については仮にそうだとしても、一方では、慎太郎を殺害しているという点があります。討幕派である慎太郎は、薩摩にとっても頼りになる存在だったはずで、慎太郎を殺害する理由もメリットも、薩摩からは見出しがたいです。薩摩藩黒幕説というのは、話としては面白いですが、やはり、かなり無理がある説のような気がします。一方の、幕府説。見廻組が実行犯だとすると、指揮系統からして、指示したのは会津藩ということになります。手代木が言っているように、暗殺ではなく公務であったと考えるのが普通であるとは思います。当時、龍馬は、寺田屋で幕吏を射殺していることから、指名手配のようになっており、奉行所は、龍馬の動向を探っていました。勝海舟も、この事件について、寺田屋の報復ではないかと語っていたそうですが、幕府側、奉行所による龍馬の殺害という線が真実に近いように思われます。しかし、幕府説においても、幾つかの疑問が残ります。公務であったにしては、不自然な点があるためです。その一つは、公務であったなら、何故、すぐに公表しなかったのか。これについては、慎太郎も一緒に殺してしまったからという説があります。指名手配になっていた龍馬はともかく、巻き添えとはいえ、何の前科もない慎太郎をも殺してしまったので、土佐藩とのもめごとになるのを避けて、公表しなかったというもの。これは、納得できる説明であるといえます。しかし、もう一つ、何故、最初に踏み込むときに十津川郷士を名乗ったのか。公務であれば、そうした手の込んだことをする必要はないでしょう。龍馬を油断させておいて取り逃がさないように、ということかも知れませんが、でも、そこまでしてという感がありますし、通常からいうと、それも少しやり過ぎのような気がします。そうしてみると、やはり、普通の公務ではなく、そこに何か秘密の指令でもあったのでは、ということを感じさせます。と、いうわけで、龍馬殺害については、やはり、どうしても不可解な点が残ってしまうのです。様々な証言がありながらも、それでいて、これが真実であるという決め手がない。そうした点が龍馬人気ともあいまって、この事件が、ミステリーとして多くの人に語られている所以であるのかも知れません。
2010年04月04日
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その日は、なぜか来客の多い日でありました。慶応3年(1867年)11月15日。この日、「近江屋」の坂本龍馬のもとを最初に訪ねたのは中岡慎太郎でした。新選組に襲われ、薩摩藩にかくまわれていた宮川助五郎という土佐藩士を陸援隊で引き取って欲しいと依頼を受けていた慎太郎は、その相談をするために龍馬のもとを訪ねたのでした。しかし、他の話でも盛り上がったのでしょう、慎太郎は、結局、龍馬のところに長居することとなります。志士であり、南画の名手でもあった板倉塊堂という人もこの日、龍馬のもとを訪ねた一人でした。この日が龍馬の誕生日ということで、寒椿と白梅の絵を描き、それを掛軸にして誕生祝いに持ってきたのです。塊堂は、掛軸を渡すと早々に龍馬のもとを辞しています。龍馬は、この絵が気に入ったようで、早速、この掛軸を座敷の床の間に掛けました。海援隊隊士の宮地彦三郎も龍馬のもとを訪ねました。イギリス公使からの親書と土産品を山内容堂に渡すために大坂に行っていて、その経過報告のためです。龍馬から、上がっていくようにと勧められますが、大坂から帰る途中なのでと辞退、玄関で報告だけを済ませて帰っていきました。夜になると、土佐藩士の岡本健三郎と、本屋の倅、菊屋峯吉が龍馬のもとにやってきます。岡本健三郎は、最近、龍馬と各地に同行することが多く、軽輩の身分で龍馬と気が合ったのでしょうか、この頃、特に龍馬と仲が良かったようです。菊屋峯吉は、土佐藩御用達の本屋の倅で、龍馬や慎太郎から可愛がられていて、よく使いぱしりをしていたという青年です。ところで、この日は寒い日でした。風邪をひいていた龍馬は、胴着を着込み、火鉢にあたりながら慎太郎と差し向かいで話こんでいました。やがて、腹がへったと龍馬。軍鶏(しゃも)が食べたいと言いだし、峯吉に軍鶏を買ってくるよう頼みました。軍鶏肉を買いに出る峯吉。健三郎も、これを潮に、おいとますると言って出て行きました。こうして「近江屋」の2階に残ったのは、龍馬と慎太郎、そして下僕の山田籐吉の3人になりました。そして、事件はこの瞬間に起こったのです。今の時間で言えば、午後8時頃。何者かが「近江屋」の表戸を叩きました。応対に出たのは、下僕の籐吉です。数名の男たちで、十津川郷士と名乗り「坂本氏に至急面会したい」と札名刺を籐吉に渡しました。名刺を持って二階に上がり、龍馬に名刺を渡した籐吉。階段を降りようとしたところを籐吉は、訪ねてきた男にいきなり斬りつけられます。大きな声が龍馬にも聞こえましたが、龍馬は、てっきり、籐吉が近江屋の子供たちとじゃれているものと思い込みました。「ほたえなや」(静かにしろ)と叫びますが、その次の瞬間には襖が開き、男たちが、龍馬の部屋に飛び込んできました。突然のことで、手元に刀もなく、龍馬も慎太郎も全く対応が出来ません。慎太郎は、手元の脇差で相手の斬り込みを受け、龍馬も、「石川!刀はないか!」と慎太郎を変名で呼びつつ、なんとか刀を手にはしたものの、鞘を抜く暇がない状態で、2人は、散々に斬りつけられました。やがて、もう存分に斬ったと思ったのか、男たちは去っていきます。まさに、あっという間の出来事でした。それでも、2人はまだ生きていました。「慎太、どうした、手が利くか」と龍馬。「利かん」と慎太郎。龍馬は、そこから隣の部屋まで這っていき、一階の近江屋新助に対して、「早よう、医者を呼べ」と叫び、そこで気を失いました。慎太郎は、助けを求めようと、近江屋の隣の屋根に這い上がり、隣家に声を掛けますが、慎太郎もそこで気を失います。そこへ、軍鶏肉を持って峯吉が帰ってきました。そこで峯吉が見たものは、わずかの間に変わり果てた近江屋の、すざましい光景だったのです。近江屋の2階では、籐吉が倒れて苦しんでおり、奥の八畳の間は、血まみれになっていました。続けて、この知らせを受けた人々が、続々と近江屋に駆けつけてきます。土佐藩の谷守部(干城)、薩摩藩の吉井幸輔、陸援隊の田中光顕、海援隊の宮地彦三郎・・・土佐藩の藩医も駆けつけてきました。この時点で、龍馬はすでに重態で、慎太郎は重傷ながらも、まだ、話が出来る状態でした。しかし、結局は、その手当ても及びません。龍馬が、次いで慎太郎も、ついに2人は、帰らぬ人となってしまいました。新しい日本の姿を考え、行動し、大きな足跡を残した龍馬と慎太郎。しかし、結局、新生日本の姿を見ることもなく、あまりにも、あっけない、早過ぎたその死でありました。龍馬と慎太郎の葬儀は、今も2人の墓が残っている京都の霊山で行われました。2人の葬儀は、刺客の襲撃を避けるため、夜中に、ひっそりと行われたのだそうです。
2010年03月27日
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京都・木屋町。高瀬川の畔を、三条通りから一筋南に下がったところに、「酢屋」という材木商があり、ここの2階が、海援隊の京都事務所になっていました。今でも「酢屋」という屋号の創作木工芸を扱っているお店がこの地にあります。かねてより、坂本龍馬は、ここを京都での住まいとしていましたが、やがて、ここにも幕吏の目が光るようになってきたため、龍馬は住み家を移すことにしました。前年の一月に、寺田屋で奉行所の捕手に囲まれた時、龍馬は、数名の幕吏を射殺しており、そのため、龍馬は幕吏から付け狙われていたのです。そこで、龍馬が新たな住み家としたのが、「近江屋」でありました。「近江屋」は四条通から少し北に上がった河原町通りに面した場所にあり、すぐ向いが、土佐藩邸になっています。「近江屋」の主人は新助といい、醤油商として土佐藩御用達をつとめていました。温厚な人柄で、土佐藩士を支援し、義侠心に富んだ人だったといいます。龍馬が、「近江屋」に移ったのは、慶応3年の10月上旬頃のことで、大政奉還実現のための活動や、職制案作りなどで、相変わらず、多忙な毎日を送っていた時期でありました。この10月下旬には、越前候・松平春嶽に上洛を要請するため、山内容堂の手紙を持って、越前に出向いています。この越前行きでは、経済に詳しいとの評判があった三岡八郎にも会って話をし、新政府の財政について意見を求めるなど、かなりの収穫があったようです。ところで、「近江屋」に移った龍馬に対しては、何人かの人が、狙われているので、身辺を警戒するようにと忠告してきていました。その一人が、薩摩の吉井幸輔。「龍馬が入京したという情報を得た幕吏が、土佐藩邸に来たそうで、 ここでは不用心です。 薩摩藩邸にお入り下さい。」と龍馬にすすめました。元新選組参謀で、今は新選組と袂を分かっている伊東甲子太郎も「最近、新選組や見廻組が狙っているので、土佐藩邸に身を移した方が良い。」と、龍馬に忠告してきました。しかし、それらも、龍馬は聞き流していたそうです。この頃の龍馬の手紙には、こう記されています。 二本松ニ身をひそめ候ハ、実にいやミで候得バ 万一の時もこれあり候時ハ、主従共ニ、此処ニ一戦の上 屋敷ニ引取申べしと決心仕りおり申し候(慶応三年十月十八日付 望月清平宛て)二本松(薩摩藩邸)では不便なので嫌である。もし、万一の時は、一戦を交えて屋敷(土佐藩邸)に逃げ込み土佐藩に世話になろうと思っている。薩摩藩邸にいても居心地が悪く、土佐藩邸にいても上士との関係がわずらわしく、自由に行動したい龍馬としては、できるだけ藩の世話にはなりたくなかったのかも知れません。しかし、龍馬も用心はしていたようで、「近江屋」の裏庭には土蔵があって、普段はここに潜んでいて、ここには、刺客の襲撃に備えた、逃走用のハシゴまで用意されていました。また、この頃には、十両までつとめたという、元相撲取りの山田籐吉という若者をボディーガード代わりに、下僕として一緒に住まわせていました。ところが、11月の中旬、龍馬は風邪をひいてしまいます。裏庭の土蔵は寒く、また、便所に行くにも不便だということもあって、「近江屋」の2階の八畳間へと居を移していました。そうした中で、運命の11月15日を迎えることとなるのです。
2010年03月20日
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幕末、最終盤の慶応年間においても、徳川幕府後の政治体制をどうするかという事については、雄藩連合による政治を行うといった程度の議論がされているだけで、具体的な国家構想を考えていたのは、坂本龍馬くらいであったと思われます。ところが、それよりも、さらに明確な政治形態・職制を描いていた人物がいました。徳川慶喜です。とは言っても、実際に、これをまとめ起草したのは、慶喜本人ではなく、慶喜の政治顧問を務めていた西周(にしあまね)という人でありました。その中では、幕藩体制に替わって、西欧の議会制度を取り入れた新たな政治体制への移行が構想されていました。そこで、まずは、西周という人の略歴を少し。生まれは石見国津和野藩。父は津和野藩の藩医をしていて、藩校の養老館で儒学を学んだ後に、江戸に出て蘭学を学びました。その後、脱藩して蘭学者・手塚律蔵の門に入り、蘭学修業に専念。文久2年には幕府のオランダ留学生のひとりとして渡欧します。主にオランダで、法理学・国際公法学・経済学等を学び、慶応元年に帰国。翌年には幕臣にとり立てられて、幕府の洋学研究機関・ 開成所の教授に就任しました。将軍となった徳川慶喜は、こうした西周の英才に目をつけ、その後、彼を自らの側近・政治顧問として取り立てていたのでした。さて、慶応3年(1867年)10月13日のこと。西周は、二条城大広間にいた慶喜からにわかに召し出されます。時に城内では、ちょうど大政奉還をめぐる論議の真っただ中で、彼はこの場で、大広間の屏風を隔てて座っていた慶喜からの諮問に応じ、イギリスの議会制度や三権分立の仕組みについて詳細に論じたといいます。このとき慶喜は、新たなる政権構想を抱き、その具体的な成案を作り上げようと考えていたのでした。翌11月、西周は慶喜に対し、大政奉還後の政治体制を示した「議題草案」を提出します。それは、幕府という体制そのものを見直し、新たな統治体制を作ろうとしたものであったのです。西周が「議題草案」の中で述べている、今後の国家機構について、図にまとめたものです。立法、行政、天皇の権限を分立させ、慶喜は元首(大君)として行政・立法を総覧するといった内容になっていて、日本初の憲法私案ともいえるものでありました。さらに、慶喜は、こうした政権構想をかためる、その一方で、軍制・軍政の改革も大急ぎで進めていました。フランスからの援助で、横須賀製鉄所を設立するなど、小栗上野介を中心にして、すでに進められていた親フランス路線を引継ぎ、これをさらに、押し進めます。軍制改革では、旗本をすべて銃隊として組織。フランスから軍事顧問団を招き、徹底した軍事教練を受けさせました。又、軍政面でも、従来の陸軍奉行・海軍奉行の上に、老中格の陸軍総裁・海軍総裁を設置。軍組織の強化を図っていました。海軍では、オランダに発注していた、当時、世界最新鋭の軍艦「開陽丸」が完成。榎本釜次郎(武揚)がこれに乗り帰国してきます。遅まきながらも、薩長の討幕に向けた軍備に対抗する軍備強化を急ピッチで進めていたのです。大政奉還の後も、実質上、旧来通り幕府中心の体制が続いており、近い将来、雄藩会議が開かれた時には、この新しい国家構想を示して、政局をリードしていける・・・。この時点において、慶喜は、その後の政権運営について、自信満々であったのではないかと思われます。幕末期には、その後の日本をどのような国にしていくか、様々な選択肢があったのだと思います。その後の歴史が決めることですから、明治政府がとった国家体制が、日本にとって最善であったかどうかは、何とも云えません。ただ、慶喜が考えていた、こうした政権構想というものも、この時、一つの選択肢として可能性があったのではないかと思いますね。
2010年02月20日
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慶応3年(1867年)10月。大政奉還成る、の知らせを聞いた坂本龍馬は、早速、大政奉還後の政権の職制について、その原案作りに着手しました。「新官制擬定書」(「職制案」とも)と呼ばれているもので、三条実美の家士である尾崎三良とともに作成したものと言われています。その中では、関白・内大臣・議奏・参議といった官名や、その職に誰をあてるかという、具体的な人名まで記されていました。この職制案には、2種類の記録(「坂本龍馬海援隊始末」と「尾崎三良自叙略伝」)が残されているのですが、それらを折衷して、要約してみました。関白 ----- 三条実美内大臣 --- 徳川慶喜議奏 ----- 有栖川宮、仁和寺宮、山階宮(宮家) 正親町三条実愛、岩倉具視、東久世通禧、中山忠光(公卿) 島津久光、毛利敬親、松平春嶽、山内容堂、鍋島閑叟、伊達宗城(諸侯)参議 ----- 小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通(薩摩) 木戸孝允、広沢真臣(長州)後藤象二郎、福岡孝弟(土佐) 三岡八郎(越前)横井小楠(肥後)この中でポイントは、やはり、徳川慶喜の内大臣でしょう。「坂本龍馬海援隊始末」の方では、内大臣の項目はなく慶喜の名は出てきていないようです。諸説あるところですが、龍馬は、慶喜をこの政権の実質の実権者である内大臣にしようと考えていたのではないかと、私は思っています。また、「尾崎三良自叙略伝」の方では、参議のところに龍馬の名前が入っているそうです。翌11月、龍馬は、新生国家の方針を示した「新政府綱領八策」という文書をまとめました。これは、先の「船中八策」とほぼ同じ内容で、大政奉還の項目だけが、すでに実現しているために省かれ、まとめ直されたものでした。そして、この中でも、新政権の中心人物について書かれているのですが、ここでは、○○○自ラ盟主ト為りと、その名は伏せられています。これは、新政権の中心人物について、人に説明する時に、薩摩藩士には島津久光、土佐藩士には山内容堂、幕臣には徳川慶喜と状況に応じて話が出来るようにしたものなのかも知れませんし、あるいは、10月の「新官制擬定書」では、慶喜を推してはみたもののその後、反発があるなどのことにより、盟主の表現を、玉虫色の表現に変えたということなのかも知れません。それにしても、大政奉還成就の時に、龍馬が喜んでいたことなど、これまでの経緯から察して、龍馬は、慶喜を新政権の中心として考えていたのではないかと私には、思われるのです。ところで、この「新官制擬定書」を書き上げた時、龍馬が、西郷隆盛に、その意見を聞くため会いに行ったそうです。その時の話として有名なエピソードがあります。しばらく、うなずきながら、これを見ていた西郷は、やがて、この中に龍馬の名がないことに気がつきました。それを言うと、龍馬は、「私は、役人が嫌いだ。時間通りに家を出て、時間通りに帰るなど耐えられない。 土佐には、私の他に役人になるべきものは、たくさんいる。」「役人にならないなら、何をするのか」と西郷その時、龍馬は「世界の海援隊でもやらんかな・・・」とうそぶいたと言います。別の話ですが、龍馬は、お龍に対しても、「一戦争終われば、山の中にでも入って安楽に暮らすつもりで、役人になるのは嫌だ」と話していたといいます。龍馬には、この国を良くしたいという願いはあっても、政権の重職につきたいという欲求はなかったのでしょうね。この「新官制擬定書」は、後に、後藤象二郎から岩倉具視の手に渡り、やがて、王政復古後に作られることとなった新政権の職制の原型にもなったと言われています。龍馬は、この11月に暗殺されてしまうことになりますから、これが、龍馬の生涯における、最後の輝きとなったといえるのかも知れません。
2010年02月07日
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慶応3年(1869年)10月3日、山内容堂は、徳川慶喜に「大政奉還建白書」を提出しました。「天下万民ト共ニ皇国数百年ノ国体ヲ一変シ・・・ 王政復古之業ヲ建テザルベカラザルノ一大機会ナリ」この建白書には、別紙を参考にして決断をして欲しいとあり、後藤象二郎、福岡藤次(孝弟)らの連名で記された別紙に、その具体的な内容が書かれていました。「天下ノ大政ヲ議スル全権ハ朝廷ニアリ、乃、我皇国ノ制度法則一切万機 必ズ京都ノ議政所ヨリ出ズベシ・・・」政権を朝廷に返し、朝廷のもとに議会を設置して公議による政治を行うようにという建言でした。慶喜は、はたしてこの建白を受け入れるのか。建白書提出後も、なお、後藤象二郎は、老中の板倉勝静や慶喜側近の永井尚志に対して、説得工作を続けており、坂本龍馬も、この時期、永井尚志に数回にわたり面会し、建白書を受諾するよう訴えていたようです。そして、ついに慶喜は、この建白書を受け入れる決断をします。慶喜にとっては、討幕派が活発に討幕準備を進めている中で、その討幕派の名目をかわす目的と、この建白書を蹴れば、土佐藩を敵に回してしまうということもあったものと思われます。10月13日、慶喜は京都・二条城に在京40藩の重臣を集め、大政奉還を行う旨を発表しました。龍馬は、この時、二条城に向かう後藤象二郎に対して手紙を送り、もしも、大政奉還が成らない場合は、生きて帰らないよう、決死の覚悟で臨むよう訴えたといいます。二条城では、老中・板倉勝静が大政奉還の上奏文を読み上げたのち、集まった各藩の重臣たちに賛否の意見を求めました。特に発言なし。しかし、この会が終わったのち、薩摩・小松帯刀、土佐・後藤象二郎らは、徳川慶喜の英断を称え、是非、朝廷に大政奉還を上奏するように、と意見を述べたといいます。大政奉還成る。この報を聞いた龍馬も、また、慶喜の英断を褒め、これで大願成就できたと男泣きをしたというほどに喜んだといいます。10月14日、慶喜は朝廷に大政奉還を上奏。朝廷はこれを認可します。しかし、政権を返されても、実際には、朝廷には政治を行う機関も能力もなく、結局、今後の政治体制を決める大名会議が開催されるまでの当面の間、慶喜の征夷大将軍の地位はそのままとし、政務も従来通り幕府に任せるということになりました。また、この大政奉還により、討幕派が、奇しくもこの同じタイミングで出していた「討幕の密勅」もその効力を失うこととなり、実質上、幕府の実権は変わらないばかりか、これ以後は、逆に、幕府側に優勢な状況が続いていくこととなるのです。
2009年12月25日
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幕末、慶応3年後半ころの政治情勢は、いくつかのグループに分けることができます。・「討幕」を強く推進する、薩摩・長州・中岡慎太郎らの勢力・調停活動によって王政復古を求める、山内容堂ら土佐藩の勢力・和戦両様の構えて「倒幕」をはかる坂本龍馬・後藤象二郎・薩長と呼応して、王政復古をめざす岩倉具視また幕府側の中でも・あくまでも徳川幕府の支配継続を目指す、会津・桑名・別の方法で、新しい政府の主導権獲得をもくろむ、徳川慶喜中でも、薩長を中心とする討幕派は、乾退助ら土佐藩の一部や芸州藩とも提携を深めて、着々とその準備を進めていました。一方、倒幕派は、薩土盟約により、大政奉還による平和的な政権移行をめざすという方向性が、一旦は、討幕派の了解をとったものの、 イカルス号事件の対応に忙殺されたことから遅れをとり、その後、藩論を討幕に統一した薩摩から、薩土盟約の破棄を通告されました。窮地に追い込まれていった、後藤らの倒幕派。しかし、イカルス号事件が落着するや、ここから、後藤象二郎は、猛烈な巻き返しを図ります。まず、芸州藩を説得して討幕派から大政奉還派に転向させ、さらに薩摩藩に対しても、討幕反対派の高崎猪太郎と手を結び、小松帯刀をも口説き落として、大政奉還に同意させることに成功します。このようにして、ようやく、大政奉還の建白書を老中の板倉勝静に提出するところまでこぎ着けました。しかし、これに対して、討幕派も手をこまねいていたわけではありません。今度は、討幕派が反撃に出ます。大政奉還に同意していたはずの芸州藩を、今度は、長州藩が説得。改めて薩長芸の挙藩同盟が結ばれました。これに加えて、もう一つ、大政奉還派に対抗して、討幕のための大義名分を得ようと考えました。これが、天皇からの討幕命令、「討幕の密勅」であります。10月6日、討幕派公卿の中御門経之の別邸に、薩摩・大久保一蔵(利通)長州・品川弥二郎公卿・岩倉具視の3名が集まって、「討幕の密勅」についての密議が行われました。そして、この結果、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人に対し天皇から「討幕の密勅」が下されることになりました。 詔す。 徳川慶喜は代々威厳を借り、徳川一族の強大な武力に頼り、 でたらめに勤王の志士を殺害し、しばしば王命に背き・・・という書き出しから始まるもので、賊臣である徳川慶喜を殄戮 (てんりく:殺し滅ぼせという意)せよ という過激な内容。これに併せて、「京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬を誅伐せよ」という朝命も下されたといいます。しかし、この「討幕の密勅」、実際には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之3人の公卿の花押がないこと、天皇の名がないこと、から偽勅なのではないか、とも云われています。この密勅は、10月13日付けで、島津久光・茂久父子あて10月14日付けで、毛利敬親・定広父子あて2回発せられたとされています。討幕派にとっては、水面下の工作により得たこの密勅によって討幕のための大義名分を得たはずでした。ところが、この同じ日に、徳川慶喜の大政奉還が行われます。結局、これにより「討幕の密勅」も、討幕のための大義名分を失うこととなったのです。
2009年12月19日
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坂本龍馬と後藤象二郎は、薩土盟約により、とりあえずは、大政奉還について薩摩の了解を取り付け、大政奉還の実現に向け、活動を進めていました。ところが、そんな矢先、海援隊士が殺人容疑者として追及を受ける事件に巻き込まれることとなります。「イカルス号事件」と呼ばれている事件です。これにより、大政奉還に向けての活動は、一時頓挫することとなり、討幕派の動きが先行していくことにもなります。まずは、以下、この事件の概要です。事件が発生したのは、慶応3年(1867年)7月6日の深更。イギリス軍艦イカルス号の乗組員2名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺されるという事件が起こりました。当時、長崎では外国人殺傷事件が相次いで発生していて、在留外国人たちは、恐怖におびえており、しかも、いづれの事件も加害者の逮捕に至っていないため、警備当局である長崎奉行所への批判が、厳しくなっていた時でもありました。そんな折、この時、たまたま長崎に来ていた英国公使のパークスが、この事件を重要視して、執拗に追及を始めたことから、この事件は、大きな波紋を呼ぶこととなっていきました。当夜の犯人は白筒袖の男だったということから、海援隊士と同じ服装ではないかという噂が広まり、龍馬率いる海援隊に対して、事件への関与が疑われ始めました。事件の捜査が進んでいく中、さらに、海援隊士の菅野覚兵衛と佐々木栄が、事件当夜に丸山の玉川亭に席を設けていたことが判明。それに加えて事件の翌朝、海援隊所属の帆船「横笛」が密かに出港していて、船で逃亡したのではないか、ということまで疑われることになりました。こうした状況証拠から、パークスは、犯人は海援隊士であると決めつけます。 長崎奉行所も、当初はパークスの主張は根拠が薄弱であると、調査を拒否していましたが、これに対し、パークスは激怒し、幕府に訴えてでも、直接土佐藩と交渉すると言い始め、老中の板倉勝静にまで、話しを持ち掛けました。こうなると幕府も捨て置くことが出来ません。担当者を土佐へ出張させることに決し、土佐藩からも、後藤象二郎ら在京の重役を同行させて、対応せざるを得ない事態にまで話が発展して行きました。龍馬も、この事件の解決のために奔走を始めます。こうして、事件の舞台は、土佐へ。8月6日、パークスは軍艦・パジリス号で土佐・須崎港に入港。8月2日には、坂本龍馬も脱藩以来、久しぶりに土佐に帰国しました。この時、土佐では、有史以来初めてとなる大型艦船の来航ということで、乾退助の率いる部隊が、戦闘態勢で待機するなど物々しい事態になったといいます。 談判は、こうした物々しい状況になっている陸上を避け、土佐藩船「夕顔」の船上で行われることとなりました。床を踏み鳴らし、怒声を浴びせかけて、高圧的な姿勢を取るパークス。一方、土佐代表の後藤象二郎も譲らず、堂々と土佐藩の主張を繰り広げました。しかし、結局、それでも、土佐での談判では決着が付きません。舞台は再び長崎へ。9月3日、またも長崎で、談判が再開されました。しかし、それでもなお、犯人の特定には至りません。この時、イギリス側の通訳として談判に立ち会っていたアーネスト・サトウは、長崎奉行所における龍馬について、「才谷氏(坂本龍馬)も叱りつけてやった。彼はあきらかにわれわれの言い分を馬鹿にして、我々の出す質問に声を立てて笑ったからである。しかし私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙りこんでしまった」と記しています。龍馬にすれば、訳のわからない嫌疑で、足止めされ、さらに、一方的に、怒鳴りつけられて、よほど頭にきたのでしょう。そして、ようやく、この事件の決着がついたのが、9月10日。晴れて、海援隊への嫌疑が解かれることとなりました。この事件は、龍馬と海援隊にとって、全くの濡れ衣であったのです。この事件の犯人は、翌年、明治元年8月に確定します。再調査が行われて、福岡藩の金子才吉というものが真犯人であり、金子は、事件発生直後、すでに切腹していたということが判明したのです。このイカルス号事件に、追われていた頃の龍馬。この頃の龍馬の手紙には、何分御聞きの通 英国さわぎにて、どうもひまなくとあり、事件に忙殺されていた様子が綴られていて、また、この事件が、当時は「英国さわぎ」と呼ばれていたことがうかがわれます。結局、坂本龍馬と土佐藩は、この事件への対応に手間取り、結果的には土佐藩による大政奉還の建白が、2ヶ月も遅れてしまうことになりました。そして、この間に薩摩は、京へ1000名の薩摩藩兵を集結長州と出兵の盟約を締結芸州藩と討幕で合意 など、着々と、討幕挙兵のための地固めを進めていたのです。
2009年11月08日
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幕末期終盤の反幕府勢力には、大きく分けて2つの勢力がありました。武力で幕府を滅ぼすべしとする討幕派と、大政奉還により平和裡に政権移行を目指す勢力(倒幕派)です。慶応3年には、これら勢力の、せめぎあいが繰り広げられるのですが、今回の話は、その一局面でもあります。坂本龍馬の「船中八策」により、大政奉還の方向で動き出そうとしていた後藤象二郎でしたが、京都で、薩摩が討幕に向けて活動を進めているとの話を聞きます。西郷隆盛と乾(板垣)退助の間では、すでに、討幕のための秘密合意がなされているとも聞きました。これでは、平和的な政権移行ではなく、武力討幕により国内内戦になってしまう。(あるいは、これでは容堂候の許可が出るはずもなく、 このままでは、土佐は薩摩の風下に置かれてしまう)ということが、後藤の懸念事項であったのかも知れません。そこで、後藤は、坂本龍馬に相談しました。そして、まずは、薩摩と話し合って、その合意を取っておこうということになります。こうして、薩摩と土佐の間での会談が持たれることになりました。慶応3年(1867年)6月。京都三本木料亭「吉田屋」における会談。出席者は、薩摩・・・西郷隆盛、小松帯刀・大久保一蔵(のちの利通)土佐・・・後藤象二郎・乾退助・福岡藤次(のちの孝弟)・中岡慎太郎・坂本龍馬そして、この会談が実現するように、取りまとめたのは、坂本龍馬、中岡慎太郎の2人でありました。この会談での合意内容は、次の4項目。一、将軍職を以て天下の万機を掌握するの理なし。 自分宜しく其の職を辞し、諸侯の列に帰順し政権を朝廷に帰すべきは勿論なり。一、各港外国之条約兵庫港に於て、新に朝廷の大臣諸大夫を集合し、 道理明白に新約定を建て、誠実の商法を行ふべし。一、朝廷の制度法則は往昔より律例ありと難も、当今の時勢に参じ或は当らざるものあり。 宜しく弊風を一新改革して、地球上に愧ぢざるの国本を建てむ。一、此皇国興復の議事に関係する士大夫は、私意を去り、公平に基き、術策を設けず、 正義を貴び、既往の是非曲立を不問、人心一和を主とし、此議論を定むべし。 右約定せる決議之盟約は方今の急務、天下の大事之に如く者なし。 故に一旦盟約決議の上は何ぞ其事の成敗利鈍を顧みんや。 唯一心協心、永く貫徹せん事を要す。その概要としては、大政奉還・公議による政治体制・不平等条約の改正・王政復古による新体制これらを政治目標として掲げ、薩摩・土佐両藩の協力を謳っています。世に「薩土盟約」と呼ばれているものです。内容は「船中八策」を踏襲したもので、坂本龍馬の原案によるものでした。先に、西郷と乾退助が討幕の密約(薩土密約)を結んでいることと、矛盾しているようではありますが、薩土密約は、個々人の私的な会談という性格が強いので、この薩土盟約が、公式の薩摩・土佐提携の条文ということになります。しかし、討幕の方針を固めていたはずの薩摩が、この提案(大政奉還)に同調したのは、どういうことでしょう。薩摩の思惑は・・・。もしも、大政奉還が実現するのであれば、薩摩藩は武力挙兵というリスクを冒さなくても、その目的を達することが出来る。また、実現しなかったとしても、土佐の実力者である後藤が薩長陣営に加わるとなれば、土佐の討幕派に勢いをつけ、土佐藩の意見を一気に薩長との連合に傾けることができる。どちらにしろ、薩摩藩には損がない、ということなのでしょう。徳川慶喜が大政奉還を呑むはずがない、まずは、後藤にやらせてみようというのが薩摩の腹だったと思われます。この盟約は、土佐藩の在京重役の間で、意見が一致したものでありました。しかし、まだ、国許の老公、山内容堂の承認を得て藩論と定める必要がありますし又、容堂の承認が得られたとしても、慶喜が了承するかどうかもわかりません。こうして、後藤(実質は龍馬)の薩土盟約案が、まずは、政局を主導することになりましたが、しかし、大政奉還が行われたのは、この年の10月のことです。実際に、徳川慶喜の大政奉還が実現するまでには、まだ、もう少しの紆余曲折があるのです。
2009年09月05日
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坂本龍馬は、混沌とした幕末の時代状況の中で、来るべき新国家はどうあるべきか、という構想を持っていた人でありました。幕末の志士の中で、こうした政権構想といえるようなものを持っていた人は、ほとんどなく、これが、幕末史において、坂本龍馬の存在を際立たせている側面のひとつであるといえるでしょう。こうした、龍馬の新国家構想をまとめたものとして有名なものが「船中八策」です。龍馬が、今後、新国家が行うべき施策・方向性について、後藤象二郎に、船の中で話した内容を、海援隊士の長岡謙吉がまとめたもの。これが、やがて、徳川慶喜の大政奉還へとつながっていくことになり、又、その内容は、後に、明治政府が行った施策を先取りしたものでもありました。この「船中八策」が生まれたのは、慶応3年(1867年)6月のこと。当時、京都では、兵庫開港問題をめぐっての列候会議が開かれることとなり、後藤象二郎は、藩候の山内容堂を補佐するため、京都に上ることになりました。龍馬も後藤の相談役として、ともに、京に上ります。龍馬と後藤象二郎は、土佐藩船「夕顔丸」に乗り込み、長崎を出航しました。この時、「夕顔丸」の船中で、龍馬が後藤に語った内容を書き留めたものが、「船中八策」でありました。以下が、その条文。その名のとおり、八項目からなります。----------------------------------------------------------------一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。二、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。三、有材の公卿・諸侯及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。四、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。五、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。六、海軍宜しく拡張すべき事。七、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。八、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。 以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。(一~八の番号は、gundayuuが便宜上つけています。)----------------------------------------------------------------読み下し文では、わかりにくいので以下、この概要を意訳。一、大政奉還 政権を幕府から朝廷に返還し、朝廷が政権を担うことを提案。 二、上下両院議会 欧米諸国では、議会制度による政治が行われている。、 これからは、そうした公論による政治体制にしていくべきである。三、人材登用・旧体制の改変 公卿・諸侯のみならず、身分にかかわらず、全国の人材を登用し、従来の制度を廃止する。 ”有名無実の官”とは、将軍職と幕府の官制のことを暗に指している。四、不平等条約の改正 ”至当の規約を立つべき”とは、現状日本に不利な内容になっている条約を、 正当な内容に変えるべきであるとの提言。五、憲法制定 ”無窮の大典”とは、憲法のこと。 国の基本法を制定すべきである。六、海軍の増強 海軍を充実させるべきである。七、ご親兵の設置 政府直属軍を設置し、治安を充実させるべきである。八、金銀交換レートの見直し 交換レートが日本に不利になっており、海外に流出している。 そうした現状を改める。日本の現状を分析し、諸外国の現状と照らし合わせてみると、これらの項目は、最重要課題である。これを実施することにより、国は甦り、国力が拡充され、諸外国とも肩を並べて交際していける。公正な判断で、英断して頂き、是非とも、国の一新を図って頂けるよう願っています。----------------------------------------------------------------この「船中八策」は、今後、日本の取るべき方針がまとめられたものであり、これが、後の「五箇条の御誓文」へと繋がり、新政権においての指標ともなっていきました。後藤象二郎は、龍馬からこの話を聞き、この提言は、方向性を見失っている土佐藩の状況を挽回することができる絶好の策であると考えました。これを、山内容堂に示し、列候会議での土佐藩の方針として、議題にしていこうと意気込みます。しかしながら、龍馬と後藤象二郎が京に着いた時には、列候会議は、すでに終了していて、山内容堂も土佐へと帰ってしまっていました。結局、この上京は、空振りのような形になります。しかし、後藤象二郎は、こののち、この方針に基づいた形で、土佐藩及び容堂に対し、大政奉還を実現させるための画策を進めていくことになるのです。
2009年08月14日
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幕末の土佐藩は、武市半平太を首魁とする土佐勤王党が弾圧されて以来、藩内の尊王攘夷運動は抑えられて、坂本龍馬や中岡慎太郎など、脱藩藩士の活躍が目立つばかりとなっていました。しかし、それでもなお藩内の上士階級の中で、、尊王攘夷派として、討幕を目指そうとしている人物がいました。その中心人物が、乾退助です。土佐藩は、藩侯の山内容堂が公武合体派で、最後まで幕府を含めた新体制の構築を主張していましたが、それにも係わらず、最終段階において、土佐藩が討幕勢力の一翼を担うに至った要因は、退助の存在があったためであったと言うことができます。乾退助、明治維新の時 32才。後の板垣退助です。退助の祖は甲州武田の家臣で、かつては、板垣姓を名乗っていて、戊辰戦争の甲州攻めの時、甲州になじみ深い姓で都合が良いということから板垣退助と改名しました。退助は、天保8年(1837年)の生まれ。乾家は、代々馬廻り役(藩主の親衛隊)を勤めた、上士階級の家柄でありました。幼なじみの友に、後藤象二郎がおり、ともに、改革派の参政・吉田東洋の教えを受けました。24才の時に、家督を相続。その後、東洋の引き立てもあり、江戸留守居役やお側役に任じられました。後藤象二郎らとともに、側近として、容堂から認められ、また、その実直な性格から、容堂の寵愛を受けていたといいます。しかし、こと、政治思想の面においては、容堂が公武合体派であるのに対して、退助は、次第に、過激な尊王攘夷運動に感化されていきました。退助は、武市半平太の土佐勤王党に対しても、理解を示していたようです。慶応元年(1865年)退助は、後藤象二郎とともに、大監察に任じられ、土佐勤王党の弾圧を命じられます。しかし、退助はこの弾圧に対して、違和感を感じていたため、わずか、数ヶ月でこの役を解任されました。こののち、退助は江戸に上り、しばらくの間、江戸で西洋兵法を学ぶことになります。慶応3年(1867年)3月。兵庫開港問題をめぐって、列候会議が開かれるにあたり、退助は京に上りました。そして、ちょうどこの頃、退助の存在を世に決定づけるきっかけとなったのが、中岡慎太郎との出会いでした。慎太郎は、退助の考えや、人となりを聞いていて、退助を土佐藩倒幕派の中心人物にしていこうと考えていたのです。当時、藩外では名が知られていなかった退助を、土佐の名士にしようと慎太郎は画策を進めます。まずは、薩摩に声をかけました。当時、西郷隆盛は討幕の意志を固めていたものの、幕府の力は、まだ侮れず、薩長に加えて、土佐を引き入れなければ、倒幕はならないと考えていました。そうした中、慎太郎の仲介により、西郷と乾の会談が行われることになります。慶応3年(1867年)5月。京都、二本松の薩摩藩邸における会談。出席者は、薩摩・・・西郷隆盛、小松帯刀土佐・・・乾退助、谷干城、中岡慎太郎内容は、討幕についての秘密会談で、後に「薩土密約」と呼ばれることになる会合です。この席で、退助は、いざ討幕挙兵の際には、土佐の大軍を率いて京に上ることを約束。この時、西郷は、退助の覚悟・熱意を知り、いたく感動したといいます。ちなみに、この両者、この後、明治になってからも盟友関係が続き、征韓論論争の時にも、共に征韓派に立ち、ともに下野しています。そして、この会談の後、退助は土佐に戻り、藩の兵制改革を推進し、藩軍を統率していくことになります。この「薩土密約」。意味合いとしては、単なる口約束的なものではありましたが、やがて、薩長が幕府と交戦、鳥羽伏見の開戦の報を聞くや、退助は、大軍を率いて土佐を出陣。京に上り、そのまま、戊辰の戦いへと軍を進め、この時の約束を果たすことになるのです。
2009年08月01日
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黒船来航以降、幕府は欧米列強に対して、相次いで開国し神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の5港の開港を約束しました。そのうち、神奈川・長崎・箱館については、早い時期に開港し、新潟のみは水深が浅いということから、開港が見送られました。そして最後まで、開港にあたり問題を残したのが兵庫でありました。兵庫は京都に近く、大の夷人嫌いであった孝明天皇の反対が強かったということがその大きな理由。慶応元年(1865年)に朝廷から、正式に条約勅許がなされた時でも、兵庫の開港については、不許可のままで推移してきたという経緯がありました。ところが、慶応2年12月に、孝明天皇が突然崩御したこともあり情勢が変化してきます。そうした中、やがて、兵庫開港の問題は、薩摩藩対幕府の駆け引き・攻防が繰り広げられる政争へと発展していくこととなりました。まずは、薩摩藩の動きです。この頃の薩摩藩は、次第に反幕府的な旗色を明確にし始め、薩長同盟を通じて、長州との連携を強めながらも、政権の主導権を、幕府から雄藩連合に移していこうという方向性を取っていました。薩摩は、この実現のために兵庫開港問題を争点にしようと画策を始めます。薩摩は、まず、懇意にしているイギリス公使のパークスと示し合わせ、パークスが、幕府に対して、兵庫を開港せよと圧力をかけ、その一方で、薩摩が、朝廷に働きかけて兵庫開港を認めないようにする宮廷工作を進めました。これにより、幕府を追い込んでいこうとする狙いです。そして、薩摩は、これと同時に、新将軍の慶喜を兵庫開港問題で追及するための段取りも進めました。列侯会議の招集です。この実現のため、中岡慎太郎が調整に動き、西郷隆盛も土佐~宇和島を訪問して、藩候に対して出京するよう説得してまわりました。これにより、薩摩・島津久光、越前・松平春嶽、土佐・山内容堂、宇和島・伊達宗城の四候が京都に集まってくることになります。一方の幕府側。新将軍の徳川慶喜も、こうした薩摩の動きを、ある程度わかっていました。慶喜にとっても、兵庫開港の問題は火種となるので、早いうちに決着しておきたい問題であると考えていたのです。そこで、まず、慶喜は列国公使へ将軍に就任したことを表明する謁見式を挙行。この席で、慶喜は、各国公使に対して、兵庫を開港することを約束します。勅許の願いが許諾されていないままでの、開港の約束、慶喜は、かなりの自信があったのでしょうか。慶応3年(1867年)5月そうした中、やがて、慶喜を交えた列候会議が、二条城で行われることになります。薩摩の狙いは、独断で兵庫の開港を発表した慶喜の朝命違反を責めて、政権の主導権を列候会議に移してしまうおうというもの。しかし、この四候に比べ、慶喜の方が数段上手でありました。慶喜の雄弁に対して、四候はともに圧倒され、最後には、慶喜が皆に夕食を振る舞い、記念撮影まで行うなど、終始、慶喜のペースで会議は推移しました。そのうち、松平春嶽は慶喜を助ける発言をし始め、山内容堂は、病気と称して土佐へ帰ってしまいました。結局、この会議もまとまることはありませんでした。列候会議が不調に終わったことを見て、慶喜は、次に、朝廷の説得にあたります。兵庫開港勅許のための交渉です。ここで、慶喜は2日間にわたって徹夜の廟議を続け、優柔不断な摂政を説きつづけ、将軍である慶喜に一任されたし、という主張を繰り返して、ついに、兵庫開港についての勅許を得ることに成功します。幕府、そして、慶喜にとっては、征長戦で敗北し、また、親幕府派であった孝明天皇もいないという絶対的に不利な状況であったにも係わらず、兵庫開港をめぐる薩摩対慶喜の攻防は、結局、慶喜の完勝に終わりました。この一件により、薩摩は、列候会議による政権移行という方法では、到底、慶喜に太刀打ちできないこと、また、宮廷工作においても、薩摩だけでは、慶喜を上回れないこと、を痛感します。そして、この結果、薩摩は、その方針を倒幕へと固めていくことになるのです。
2009年07月26日
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開国か攘夷か尊王か佐幕か幕末期には、激動の時代の中、そうした論争が繰り返されてきました。とはいっても、これが、白か黒かというように、きれいに分かれたわけではなく、攘夷のためにはまず開国して、西洋文明を取り入れるべきという意見とか、尊攘派の志士たちのように、幕府を追及する戦術として攘夷を掲げていたりとか、色々なニュアンスの違いがあって、果たしてどちらなのか、わかりにくい状況が幕末期には良く出てきます。人間とは、かくも複雑なものと感じたりもしますし、又、これが、幕末史の面白いところでもあります。そこへいくと、幕末期の天皇・孝明天皇は、純粋に幕府の現体制を支持し、徹底的に攘夷を求めていた人で、そうした意味では、非常にわかりやすい人であったように思います。また、さらに、幕末期には、天皇の存在というものが急激にクローズアップされたため、孝明天皇個人の思想・信条というものが、幕末史に対して大きな影響を与えることにもなりました。孝明天皇は、慶応2年(1867年)12月、突然なくなります。この、孝明天皇の死が、幕末の政治状況に大きな影響を及ぼすことになるのですが、まずは、その前後の状況について。慶応2年12月11日孝明天皇は、風邪気味であったのを押して宮中の行事に参加。翌12日に発熱し、床に伏せます。天皇の典医たちが総出で検診。16日には症状は疱瘡(天然痘)であると発表され、その後は、24時間体制で、典医たちにより、懸命の治療が続けられました。しかし、12月25日になって容態が悪化、孝明天皇はそのまま息を引き取ります。しばらくは、喪が伏せられ、29日、天皇崩御が正式に発表されました。享年36才。まだ若く、しかも、その死が突然であったこと、また、さらには、当時の政治状況がその背景にあって、当時から、この天皇の死は、毒殺なのではないかとも噂されていました。この頃、長州・薩摩などの倒幕派は、天皇を担いで倒幕を果たそうという構想を持っていましたが、肝心の孝明天皇本人が、親幕府の考えで王政復古も望んでいなかったため、なかなか、うまくいかないというジレンマを感じていました。政局が緊迫の度を深めていく中での孝明天皇の死は、倒幕派にとって、あまりにも都合が良いものであったということが、毒殺がささやかれた理由でもありました。中でも、強く疑惑を持たれてきたのが、岩倉具視です。当時、岩倉は、京の郊外岩倉の地に幽居中でしたが、倒幕派と連携をとり始めていて、岩倉の妹が孝明天皇の女官を勤めていたことから岩倉が指示して、行わせたのではないかというものです。果たして、この真相はどうなのか、決め手となる証拠がないため、はっきりしたことはわかりませんが、しかし、最近の研究では、孝明天皇の死において、容態の急変という事実はなかったとする説が有力なようで、岩倉の暗殺という可能性は低いとされているようです。しかし、いずれにせよ、孝明天皇の死が、倒幕派にとり有利な状況を作り出したことは間違いなく、又、幕府にとっては、大きな痛手となった出来事でありました。慶応3年(1868年)1月。祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が即位。明治天皇です。この時、若干15才。そして、新帝の即位に伴って発せられた大赦により、孝明天皇から処罰されていた、反幕府派の公卿たちが赦免されることになり、岩倉具視も、この時、まだ参内は認められないものの京の町に入ることが許されました。他にも、この時、中山忠能が宮中に復帰。この人も、長州の尊攘派支持の活動を行ってきた反幕府派の公卿で、祐宮睦仁親王の母方の祖父にあたる人です。中山忠能が、まだ、年若い新帝の補佐役を務めることになり、当然のことながら、彼の意向も宮廷の中において、影響を増していきます。このような、宮廷内の勢力の変化が、やがて、幕末期の最終段階において、大きな意味を持ってくることとなっていくのです。
2009年06月20日
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幕末の政争は、黒船来航が契機となり始まったもので、いやがうえにも、欧米諸国とのつながりが密接な影響を与えていました。幕末の初期段階においては、ペリーが日本開国の先鞭をつけたことから、特に、アメリカとの関係が密接なものになっていました。ペリーのあとに、在日総領事として赴任したハリスも大きな影響力を持った外交官で、幕府の政治顧問のような感覚で、日本の国政に対し発言力を示していました。しかし、アメリカの日本に対する影響力も、文久年間くらいから弱まってきます。これは、1861年(文久元年)にアメリカで南北戦争が始まったことによるもの。このアメリカ全土を巻き込んだ内戦により、アメリカも対日政策どころではなくなったのです。アメリカの対日政策が後退したあと、対日外交の主導権を争ったのが、イギリス・フランスの両国でありました。この頃のイギリスはといえば、ビクトリア女王の治世下で、世界の各地に植民地を持つ、まさに大英帝国の絶頂期。世界第一の繁栄を極めていました。一方のフランスは、ナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが国民からの圧倒的な支持を集めて帝政を復活。ナポレオン3世と称して、世界各地でイギリスと覇を競っていました。こうした世界の趨勢は、日本においても例外ではありません。両国は、日本にも有能な外交官を送り込み、幕末期の終盤、互いに自国の勢力伸張を競い合っていたのでした。フランスの駐日公使として力があったのが、レオン・ロッシュ。1864年(元治元年)に着任し、幕府との連携を強める政策を進めていきました。幕府に働きかけて、横須賀に大規模な製鉄所建設を着工し、また、幕府の軍政改革に合わせて、フランスから軍事顧問団を派遣しました。幕府も、これに対し、幕臣の中でも俊英といわれた小栗上野介を交渉役にあて、フランスからの援助より、近代化改革を進めていました。ロッシュとしては、幕府からの信頼を勝ち取り、幕権を強化することで、フランスの勢力を伸ばそうと考えていたのです。一方、イギリスの駐日公使は、ハリー・パークス。時には恫喝しつつも交渉を進めていくといったような、巧みな外交手腕を持った外交官であります。1865年(慶応元年)に着任して以来、ロッシュとは異なり、薩摩・長州などの雄藩に接近し、その支援を続けました。イギリスは、下関戦争で長州と、薩英戦争では薩摩とそれぞれ、交戦した経験により、これら雄藩の若手代表は、幕府の閣老と違って態度が明快で、話した内容は信用できる。そう感じていたのです。パークスは、西郷隆盛や高杉晋作とも会談し、薩摩や土佐にも訪問しています。日本には、幕府の他にミカド(天皇)という大きな権威が存在し、いくつかの有力大名(薩摩藩・長州藩)はこれを支持して幕府を倒し、合議政体を作ろうと画策している。幕府の統治能力は既に失われつつあり、これからはミカドを担ぐ反幕勢力の結集を後押しして倒幕を図り、新政府のもとでイギリスの対日交易の伸張を期するべきである。パークスの下には、日本通で有能な通訳であったアーネスト・サトウがおり、こうした彼の助言により、対日政策の方向性をたてていたのです。幕府対討幕派雄藩の争い。それは、また、裏面では、自国の勢力伸張や貿易拡大、あるいは、あわよくば植民地にという狙いをも秘めた、外交官たちの熾烈な外交戦争でもあったのです。
2009年05月20日
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土佐藩の後ろだてを受けることになり、「亀山社中」は「海援隊」と改称。その最初の仕事は、蒸気船「いろは丸」による、長崎から大坂まで物資を運ぶというものでした。しかし「海援隊」は、この最初の航海から衝突事故に見舞われることになりました。「いろは丸」事件と呼ばれるもので、この事件は、日本初の蒸気船同士の海難事故であり、又、近代海難裁判の先駆けとなった事件でもありました。以下、「いろは丸」事件の概略です。海運に使える船を入手するため、方々から情報を集めていた坂本龍馬。ついに、入手できたのが伊予大洲藩の蒸気船でした。これも、元はといえば薩摩藩所有の船だったのですが、薩摩が別の大型船を入手するために手放したものを龍馬と薩摩の五代才助の周旋により大洲藩が購入。この船を「海援隊」が運用するということで話がまとまったのでした。龍馬は、この船を「いろは丸」と命名。早速、物資輸送の仕事が入ってきます。慶応3年(1867)4月19日に長崎を出港。諸藩に売り捌く武器や商品を満載して、大坂を目指します。しかし、4月23日夜半のこと、岡山の六島沖で、突如、大きな軍艦と衝突しました。相手の船は、紀州藩の「明光丸」。「いろは丸」の6倍ほどもある巨船で、これが「いろは丸」の右舷に激突したのです。しかも、何を思ったのか、一旦、後退したあと、さらに猛スピードで再度衝突しました。龍馬を始めとする乗員は、「明光丸」に乗り移って無事だったものの、「いろは丸」は自力で航行出来なくなり、近くの鞆の津まで曳航してもらうことになります。しかし、大破した「いろは丸」は、結局、それに堪えられず積荷もろとも沈没。ここから、龍馬の「海援隊」の紀州藩を相手にした賠償交渉が始まります。龍馬にしてみると、やっとの思いで手に入れた蒸気船で、しかも、その初めての航海。これまでにも、数度にわたって船を失っているだけに、龍馬にとっては、決死の交渉となりました。このあたり、龍馬の人生は、なぜか、不運に見舞われ続けています。たとえ、天下の大藩、御三家である紀州藩とはいえ、負けるわけにはいきません。龍馬は必死でした。龍馬は、航海日誌や海路図の提出を求め、さらに、当時の国際法である万国公法に基づいて、責任の所在と、徹底的な原因追及をしていきます。このあたりが、近代海難裁判の先駆けと呼ばれているゆえん。交渉は昼夜を問わず続けられ、激しい議論が繰り返されました。その結果、・明光丸は、2度にわたり衝突した。・衝突した時刻に、紀州藩は、見張りを立てていなかった。この2点を紀州藩側に認めさせます。しかし、賠償問題についてはここで決裂。紀州藩は、航路を急ぐと称して長崎に向けて出航していきました。龍馬もこれを追いかけて長崎へ。この後、交渉の舞台は長崎へと移っていきます。なおも、膠着状態が続いていく賠償交渉。しかし、これを決着させたのが後藤象二郎でありました。後藤象二郎は、紀州藩の勘定奉行である茂田一次郎とのトップ会談に持ち込み、この会談の席で、終始、紀州藩側を議論で圧倒。ついに、紀州藩側に非があることを認めさせました。そして、賠償額を設定。ここには、薩摩藩の五代才助が周旋に入り、7万両の賠償を紀州藩が支払うことで、事件は、ようやく決着しました。この間、紀州藩は、執拗に食い下がってくる龍馬に対して恨みを抱き、事件をうやむやのうちに解決させようとして、龍馬の暗殺まで企てたと言われています。後の龍馬暗殺事件には、色々な説がありますが、そのうちの紀州藩犯行説の根拠となっているのがこの事件。龍馬暗殺の直後においては、海援隊士が、紀州藩士に対して仇討ちと称して斬りこみをするなど、龍馬暗殺は紀州藩の犯行であると、当時、考えられていたほどでした。
2009年05月03日
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薩長同盟成立に奔走し、第二次征長戦にも帯同するなど、めざましい活躍を見せていた坂本龍馬。しかし、その反面、この時期の龍馬は、その活動の基盤であった亀山社中の運営が、行き詰まりをみせていて、彼にとって、苦しい時期でもありました。ワイル・ウェフ号の海難事故やユニオン号事件 により、運用する船もなくなってしまい、社中の解散や、他藩への身売りさえ検討していたといいます。そんな時、龍馬にとって、新たな方向性を与えるきっかけとなったのが、長崎での後藤象二郎との出会いでありました。後藤象二郎は、吉田東洋の門下生で、土佐藩官僚の中でも若手のエリート。土佐勤王党弾圧に際して手腕を発揮したことで、土佐の老公・山内容堂に取り立てられこの時期には、藩の近代化政策推進の中心人物になっていました。この頃の後藤は、殖産興業と藩営貿易をすすめる立場をいいことに、長崎を拠点に派手に活動を続けていて、藩内からも批判を受けるほどに、豪勢な振る舞いを続けていたといいます。後藤象二郎という人は、ある意味、豪傑のような人で、気宇壮大であったとはいえるものの、悪く言えば、放漫で、全くの無頓着。明治になってからは、事業の失敗を重ねて空前の借金王となったことでも知られています。それでも、この動乱期にあっては、雄弁で、かつ、ずば抜けて強靭な精神力を持って、幕末の政局に、光を放った人でもありました。この後藤が、龍馬との提携を図り、また、龍馬も、後藤を通じて、藩の力を利用していこうとしたのです。もうひとつ、その背景には、土佐藩自体の方向性の変化ということもあります。これまで、容堂を中心とする藩上層部は、あくまでも幕府を中心とした公武合体路線を進めてきたのですが、第二次征長戦における、幕府のあまりにぶざまな負け方を見て、新たな方向性を模索しはじめていたのです。藩という大きな組織の力を利用していこうと考え始めていた坂本龍馬と、方向転換を模索していた土佐藩の後藤象二郎。そうした中、二人の長崎での会合が実現することとなります。慶応3年(1867年)2月。後藤象二郎は、長崎の清風亭という酒席に坂本龍馬を招待しました。仲介したのは、龍馬とも古くから交際があった土佐藩郷士、溝渕広之丞であったといいます。龍馬が後藤の待つ部屋に入っていくと、ちょうど、後藤は、馴染みの芸者を呼んで酒を飲んでいたところでありました。具体的な会談の内容はわかりませんが、龍馬は、この時、土佐藩は薩長とともに連合していけるという手応えをつかみ、後藤は、龍馬という人脈を通じて、薩長とのつながりをつかもうとしていたのではないかと思われます。そもそも、勤王党出身の龍馬にとって、後藤象二郎とは、勤王党を弾圧し、武市半平太を処刑に追い込んだ張本人。龍馬の同志たちの中にも、後藤を斬るべし、と主張するものも多くいました。しかし、それでも龍馬は、そうした同志の動きを固く抑えていたといいます。状況の変化により、又、薩長に土佐を加えた新たな体制を作っていくためには、これまでの憎悪やこだわりの感情は捨てるべきである。そうした、合理的な考え方でものごとに対応していこうとするところが、坂本龍馬の真骨頂であったといえるでしょう。一方、この頃、中岡慎太郎も土佐藩の首脳と薩摩藩首脳との会合が実現するよう仲介するなどの動きをみせていました。そうした中で、後藤の働きかけにより、坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪が、土佐藩から黙認されることとなりました。やがて、土佐藩は「翔天隊」という新たな外部組織を設置。その両翼を担うものとして、坂本龍馬が運営する「海援隊」と中岡慎太郎率いる「陸援隊」が結成されていくこととなるのです。
2009年04月25日
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面白きこともなき世を面白く・・・高杉晋作の辞世の句として、よく知られた歌です。晋作は、第2次征長戦の小倉攻めのさなか、体調の不良を訴え、やがて喀血し、床に臥せるようになっていました。当時では、不治の病と言われていた肺結核にかかっていたのです。晋作は、下関郊外の桜山というところに「東行庵」(とうぎょうあん)と称した小屋を建てて、愛妾の、おうの とともにここへ移り、療養生活を送りました。「面白きこともなき世を面白く・・・」の歌は、この頃に、詠んだものです。晋作が書いた、この上の句に続けて「すみなすものは心なりけり」と、下の句を続けたのが、福岡の女性勤王家、野村望東尼(のむらもとに)でありました。晋作が九州に亡命している時に、彼女にかくまってもらったことがあり、逆に、望東尼が、福岡藩から弾圧を受けていると聞いた晋作が、奇兵隊士を送って望東尼を奪還。下関に亡命してきていた望東尼は、度々、晋作を見舞いに訪れていたのでした。面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり面白きこともない世だが、出来るだけ思いを通そうと思って生きてきた(晋作)・・・そう、それは心掛け次第なのですよ (望東尼)(gundayuu 意訳)死が迫っていることを自覚していた晋作には、決して思い通りに生きられなかったという悔いがあったのかもしれません。でも、それをどう感じるかは、きっと、心の持ち方次第なのでしょう。慶応3年(1867年)3月。高杉晋作、没。29才という、あまりにも若い死でありました。高杉晋作は、幕末動乱の世の中を駆け抜けた風雲児でありました。電光石火のひらめきを見せた天才であり、また、優れた変革者であったといえますが、反面、彼は、集団の枠の中には決して収まりきらず、孤独な一生であったのかもしれません。晋作の遺骸は、その遺言により、下関市吉田清水山に葬られました。晋作の死後、彼の墓を守り続けたのは、愛妾のおうのです。晋作の墓の近くには、妻の雅、長男の東一の墓とともにおうのの墓が、今もひっそりと建っているそうです。
2009年01月18日
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お久しぶりです。大河ドラマ「篤姫」も放送が終了しましたね。このドラマ人気のおかげで、今年はちょっとした幕末ブームだったように思います。徳川幕府の終焉に際しては、篤姫もそうですが、やはり、最もめざましい働きをしたのは、なんといっても勝海舟でしょう。鳥羽伏見の戦いに敗れて、江戸に逃げ帰ってきた慶喜にかわり、徳川幕府の幕引き、徳川家の存続について尽力しました。この時、慶喜は、海舟によって救われたといえますし、明治になってからも、慶喜の赦免や慶喜の明治天皇との拝謁実現のため奔走したのも、勝海舟でした。これほどまでに、慶喜の名誉回復に尽くした海舟ではありますが、しかし、この両者。幕末の段階では、ウマが合わない2人だったようです。海舟にとっては、家茂との方が関係が密接で、家茂に対しては、よく話し相手にもなり、親しく献言したりもしていましたが、慶喜との間には、すれ違いも多く、両者が直接かかわりをもったのも、第2次征長戦の戦後処理の時と、意外と遅かったのです。海舟も、慶喜に対しては、期待をしていたのですが、その度に、期待を裏切られるということが続き、また、慶喜から始めて直接の指示を受けて働いた時にも、改めて、絶望感を受けることになりました。海舟にとっての慶喜とは、反発しながらも、期待をしているというような、思えば微妙な主従関係でありました。そうした、海舟の慶喜のもとでの初仕事。まずは、その背景からです。慶応2年(1866年)5月。海舟は、失脚中で、江戸の自邸に閉居していました。そこへ、突然、登城するようにと指示が来ます。江戸城へ行ってみると、海舟は軍艦奉行に任じられ、大坂へ向うよう命じられました。時は、まさに、第2次征長戦が始められようとしている頃で、薩摩が出兵を拒んでいるため、会津との間柄が険悪になっているので、調停するようにとの指示。海舟は、薩摩と会津の間を走りまわって、両者をなだめます。しかし、やがて、長州との間に戦端が開かれました。この第2次征長戦において、慶喜は積極論者で、戦況が不利となり、家茂が大坂で死去してからも、なお、陣頭指揮をとって戦うと主張し、朝廷からも戦争続行の許可を取り付けたりしていました。しかし、小倉口の戦いで、小笠原長行が戦線から遁走したことから、幕府方の不利は決定的となり、慶喜もついに戦争終結を決断します。主戦論を引っ込めるための筋立てが欲しい慶喜。そこで、目をつけたのが、越前の松平春嶽でした。この頃、松平春嶽は、諸侯会議を開催し、これにより今後の政体を決議すべしという主張をしていました。そこでは、幕府の存在を前提とせず、衆議によって選ばれたものが、政権の中核を担うということが想定されていました。慶喜は、主戦論が頓挫した現状では、この案に賛成するのが良いと考えました。なにより、春嶽の協力を取り付けたかったのです。長州への、講和の使者。春嶽はこれについても、勝海舟が良いと慶喜に進言します。慶喜は、海舟を呼び、長州へ行って終戦交渉をするように命じました。まさに、これが海舟にとって、慶喜の指示を受けて働く初仕事でありました。海舟は、松平春嶽から諸侯会議の話を聞いていて、慶喜に、その実施、つまり、幕府を解消し、諸侯会議による新政権をめざすことについての確認をとります。海舟は、そのためになら尽力するといい、長州へと向います。長州との会談は、宮島で行われました。海舟は、海軍操練所時代の人脈を通じて、長州側と話をすすめ、また、慶喜との確認事項を長州に話し、幕府は今後一新すると長州に説明しました。その結果、海舟は、長州は幕府軍を追撃しないという約束をとりつけ、講和の話をまとめることに成功します。しかし、この諸侯会議の開催について、慶喜は本気ではありませんでした。結局、この会議は、集まってきた諸侯に対して、慶喜がねぎらいの酒宴を催すという内容に変えられてしまいました。松平春嶽は、怒って越前に引き上げてしまい、長州から戻った海舟も、江戸へ戻るよう命じられました。結局、利用されただけのような形になった勝海舟。後年、この時のことを「長州を売った」ように思われてもしかたがないと述懐しています。慶喜は、この後も、対応のうまさや、弁舌の巧さ、などを武器にひとりで、薩長と互角以上にわたりあうなど、その能力には抜群のものがあると、私は認めているのですが、なにせ、その場しのぎのような、策が多すぎる人ですね。そうした中で、慶喜はついに15代将軍となり、本格的に、幕府の舵取りを担っていくことになるのです。
2008年12月20日
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第2次征長戦。その勝敗を最後に決定づけたのは、小倉口での戦闘でした。そして、この戦いは、高杉晋作が最後に雄姿を見せた舞台ともなりました。以下、関門海峡を隔て激戦が繰り広げられた、小倉口の戦いの様子です。小倉口での幕府軍は、小倉藩の世子で老中の職にある小笠原長行を総督として、小倉・熊本・久留米・柳川など、九州諸藩の連合部隊が集結していました。一方、長州側は、海軍総督に任ぜられた高杉晋作が指揮官となり、山県狂介率いる奇兵隊を主力とした部隊が、下関に布陣していました。戦闘に入る前、高杉晋作は、まず一計を講じ、小笠原長行に対し、「長州にいつでも攻めて来い」と挑発する書状を送ります。この書状を見て、幕府軍は憤りますが、逆に、長州軍は藩境を固めて、攻めてこないと思い込んでしまいました。長州軍は、その隙に付け入り関門海峡を渡ります。慶応2年(1866年)6月のこと。長州の軍艦は、丙寅・癸亥・庚申・乙丑・丙辰の五隻で、これら軍艦からの艦砲射撃で援護されつつ、陸兵が上陸し、瞬く間に門司を占領。さらに、幕府軍が下関に渡るために用意していた和船の大半を焼き払い、幕府軍の渡海能力を封印しました。また、この時の戦いには、乙丑丸(ユニオン号)を届けに来ていた坂本龍馬も、戦いに参加したとも言われています。まずは、幸先の良い緒戦を終えた長州軍。しかし、無理はせず、一旦下関に引き上げました。一方の、幕府軍。小笠原長行は、当時東洋随一と言われた軍艦・富士山丸を小倉に回航するよう海軍に要請し、その艦砲射撃により、下関を一挙に陥れる作戦を立てていました。やがて、富士山丸が関門海峡に到着。長州軍に対し威圧をかけてきます。対する高杉。又も、一計を講じます。今度は、石炭を輸送する民間船に大砲を積みこみ、それとなく富士山丸に近付いたところで、猛烈な砲撃を加えさせました。突然の砲撃を機関部に受けた富士山丸は狼狽し、戦線を離脱。小笠原の作戦は失敗に終わりました。次いで7月3日、高杉は再び九州へ兵を進めます。この時は、激戦の末、幕府軍の大里の陣を攻略。これにより、長州軍は小倉城攻めの足掛かりを得ることができました。ここまで、順調に戦闘を進めてきていた長州軍。しかし、この頃、高杉は病魔に冒され始めていました。この年の春頃から、時折咳き込むことがあり、咳には血が混じるようになっていました。労咳、今で言う結核です。この頃には、それがさらに悪化し、高杉は前線から後退し、後方で指揮を取るようになっていました。7月27日、本格的に小倉城を攻めるための総攻撃が開始されます。しかし、この時、小倉を正面で守るのは精強で、かつ、近代的な装備を有する肥後熊本軍でした。圧倒的な兵力差の中、一回の戦闘で全兵力の一割程度を失ったと言われているほどの激戦となり、長州軍は大苦戦を強いられます。そうした中、病身の高杉が前線に姿を見せ、指揮を執ります。この時の高杉の姿は、烏帽子・直垂のいでたちで、肩から「勤皇ノ戦ニ討死スル者也」と書いた襷までかけて、叱咤激励したと言います。ぎりぎりの激闘が続く小倉口。しかし、意外なほど簡単に形勢が逆転しました。将軍家茂の突然の死去です。家茂の死を聞いた小笠原長行が、小倉から密かに脱出、長崎へ遁走したのです。それを知った、九州諸藩の兵は戦意を失い、自藩に撤退していきました。残された小倉藩も一藩だけで、戦いを続けることはできないと判断し、小倉城に火を放って逃走。もはや長州軍に攻撃しようとはしませんでした。8月1日、小倉城を占領。こうして、長州藩は小倉口での戦いにも勝利を収めたのです。それぞれの戦線で、敗北を喫した幕府軍。そこへ、家茂将軍の死去が重なり、幕府はこの戦いを終息させることを決定します。長州藩に対しては、停戦のための交渉が始められました。2ヶ月あまりにわたって、戦闘が繰り広げられた第2次征長戦も、ここに終止符が打たれることとなったのです。
2008年09月21日
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四方から幕府軍が攻めてくる。慶応2年(1866年)6月からの第2次征長戦は、長州側では、四境戦争と呼ばれていました。かねてより、幕府軍との対決を想定していた長州藩では、軍備・軍制の近代化が大急ぎで進められていましたが、その責任者に抜擢されていたのが、大村益次郎でありました。大村益次郎は、長州、鋳銭司(すぜんじ)村の医者の家の生まれ。最初は、村田蔵六(良庵)と名乗っていました。大坂・適塾で、緒方洪庵のもと蘭学を学び、その後、宇和島藩御雇~幕府講武所教授という経歴の中で、西洋兵学の翻訳・研究を進めていました。やがて、桂小五郎がこの才能に目をつけ、長州藩に戻ってくるように要請。この頃には、藩の軍務大臣の地位に抜擢されていました。大村は、当時日本では唯一と言えるほどに、西洋式の進んだ兵術を理解し、又、徹底した合理主義的考えを持った人でありました。彼のもと、長州では、新式兵器(ミニーエ銃・ゲベール銃など)の配備や、軍制の再編成・戦術の転換が進められていました。第2次征長戦(四境戦争)が起こると大村は、藩庁にあって、各戦線に対しての指令を行いました。各方面で繰り広げられる戦い。しかし、その中で、長州側で弱点であると考えられていたのが石州口でありました。それというのも、石州口は長州兵の中でも、上士階級の兵など、比較的弱兵が配置されており、また、指揮官にも優れた人材がいなかったためです。そこで、この方面は、総指揮官である大村益次郎自らが担当することにして、逆に、攻撃重視の戦い方を行い、戦果の拡大を図ろうという方針が採られることになりました。大村は、藩兵を率いて山陰路を東に向けて出陣。密かに中立の態度を明らかにしていた津和野藩領を、そのまま通過。いよいよ浜田藩領に到達し、益田城の郊外に着陣します。守る幕府側の兵力は7500程度、攻める長州軍は700。兵力差では、明らかに幕府側が有利という状況でした。そこで、大村は戦術をたてます。敵陣の三方向を攻囲し、かつ、敵の突撃路を開けておき、そこに兵を伏せて、敵が突撃してきたところを一斉射撃で潰滅させようというもの。大村の巧みな指揮により、作戦通りに福山藩・浜田藩軍が潰滅。益田城を陥落させ、長州軍はさらに浜田城下に迫ります。浜田では、幕府側は2つの山に陣を敷き、相互に連携し合って長州軍を撃退する策を採っていました。これに対し、長州軍はまず、一方の山に全軍を集中させ、順次敵陣を陥れていく各個撃破作戦を採ります。砲撃とともに、敵陣に突入を開始する長州軍。これに驚いた幕府側は、山から逃げ出し、大多数の兵はもう一方の山に逃げ込みました。そこへ、長州軍がさらに、砲撃と突撃を加えたことで、幕府側は支えきれずに、またもや敗走。ついに浜田藩は、和睦の使者を長州軍に送りました。浜田軍は、自ら浜田城に火をかけ、浜田藩主は松江藩領に亡命し、諸藩の兵も順次撤退していきます。浜田城陥落。結局、長州軍の圧勝でありました。この戦いの勝敗を分けたものは、というと。まず、兵器の差。長州側は、最新の銃器を揃えていたのに対し、幕府側は、旧式のもの。命中する精度も、射程距離も、充填に要する時間にも大きな違いがありました。そして、戦術の差。幕府側が諸藩の兵の寄せ集めで、統一した指揮体系を持たず、また、戦国さながらの一騎打ちを挑んで来たのに対し、長州軍は大村の下、上意下達の指揮体系が備わっていて、武士以外の階層からなる、調練された部隊であったこと。さらには、人気の差。長州軍は戦災を被った村民には篤く手当てをするなど、民衆救済の感覚が強く、幕府側よりも、民衆に圧倒的な人気がありました。第2次征長戦。幕府軍は、芸州口では、一進一退の互角の戦いをしていたものの大島口でも分が悪く、石州口では、このように敗北を余儀なくされました。残るは、小倉口。そして、ここでも幕府軍は、劣勢に立たされてしまうことになるのです。
2008年09月06日
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第一次征長戦で降伏したはずの長州藩でしたが、その後、藩内で幕府恭順派(俗論党)政府が打倒されるクーデターが起こり、幕府は、長州藩藩主父子に江戸に出てくるよう、改めて言い渡していました。しかし、長州はその出頭命令に応じず、幕府が広島に送り込んできた詰問使に対しても、交渉団を送って対応はするものの、のらりくらりと回答をはぐらかすばかり。こうした折衝が、延々と、一年以上広島を舞台にして続けられていました。慶応2年(1866年)2月。しびれをきらした幕府は、今度は老中の小笠原長行を送り、長州藩主の出頭を命じます。しかし、長州側は、藩主は病気であると称して、偽の家老を送り込んでくる始末。ついに、幕府は、長州藩の10万石削減藩主父子の蟄居の命を下しますが、長州側はこれを無視。そればかりか、一方的に交渉団を広島から引き上げてしまいました。こうして、交渉は決裂し、幕府は、長州を討つため、再度兵を送ることになりました。第2次征長戦の始まりです。出兵にあたっての幕府側の体制は、総督が、紀州藩主の徳川茂承(もちつぐ)司令官に、老中・小笠原長行(ながみち)将軍家茂も、大坂城まで進軍してきており、朝廷からは、長州征討の勅許を受けています。幕府軍が進軍を開始。4方向から長州へ攻め込む作戦をとります。芸州口・・・井伊、榊原、紀州など諸藩と幕府陸軍大島口・・・幕府海軍、四国諸藩石州口・・・福山、松江、鳥取など諸藩小倉口・・・小倉、九州諸藩戦力的には、幕府側が圧倒的に多数。さらに、当時、東洋一の規模であるといわれた幕府海軍や、フランスから指導・訓練を受け編成された幕府陸軍を擁していました。しかし、その一方。この時期、すでに薩長同盟が締結されていて、最大の雄藩である薩摩藩が従軍を拒否。他にも、何かと理由をつけて参加しない藩が多く、出兵した藩にしても、一様に戦意が乏しく、まとまりを欠いているというのが実情でありました。そうしたなか、ついに両軍の戦闘が始まります。最初に戦いが行われたのが大島口でした。慶応2年(1866年)6月幕府海軍の艦隊が、周防大島への砲撃を開始。続いて、幕府陸軍の歩兵隊と四国各藩の兵が上陸し、周防大島を占領しました。しかし、この報を聞いてすぐに動いたのが、小倉口で戦闘準備をしていた高杉晋作でした。高杉は小型軍艦(オテントー号)に乗り込み、一隻だけで大島の幕府艦隊に夜襲を仕掛けます。不意を受け、さらに、夜間のため、蒸気機関をおとしていた幕府の艦隊は、何の反撃もできず、ようやく動けるようになった頃には、高杉の軍艦は退去してしまっていました。実際の損害はほとんどなかったものの、心理的なショックは想像以上に大きかったようで、長州海軍の伏兵を警戒し、結局、幕府軍艦は東の海上へと逃亡していきました。これに続き、各方面でも戦闘が開始されていきます。芸州口は、幕府陸軍歩兵隊や紀州藩兵など、幕府軍の主力部隊でありました。長州側は、地の利を生かした巧みな戦術で対抗。ここでは、一進一退の攻防が繰り広げられていきます。石州口は、長州軍の中でも弱兵が集まっていたところで、適当な指揮官も配置できていない部署でありました。そこで、長州はこの方面の軍司令官に大村益次郎を起用。本来は、長州藩全体の総司令官である大村をこの方面に送ることで、逆に、進襲主義の作戦をとり、戦果の拡大を図ろうと考えていました。小倉口は、幕府軍の総督・小笠原長行が九州諸藩を束ね指揮をとっています。対して長州は、高杉晋作を中心に、山県狂介率いる奇兵隊が布陣。関門海峡をはさんでの激闘が繰り返されていきます。そもそも、この第2次征長戦は、長州にとっては、防衛のための必死の戦いであったのに対し、幕府側においては、戦争目的が不明確で、士気が振るわないまま推移していった戦いでもありました。幕府軍は、圧倒的多数の兵力を擁しながらも、その装備の古さ、戦略の無さ、士気の低調さといったものが、その後の勝敗を分けることになっていくのですが、この続きは、また、次回。
2008年08月31日
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幕末の騒乱は、井伊直弼が、朝廷の勅許を得ずに港を開く約束をしたことが、火種となって繰り広げられていったことは周知のとおり。この時、開港について、日米修好通商条約(安政条約)では、神奈川・長崎・箱館・新潟・兵庫の5港を開くことになっていましたが、水深が浅い、とか、朝廷の許可が得られないなどと理由を並べてその後、実際に開港したのは、横浜、長崎、箱館の3港だけでありました。”日本政府は、約束を実行していない。””幕府は、日本を代表する政府ではないのではないか。”ということが、欧米列強の日本に対する不信感を抱かせていました。この開港の問題は、その後も、くすぶり続け、依然、懸案事項として残ったままで経過してきました。結局、この条約についての勅許が得られたのは、条約締結から7年後の慶応年間に至ってからでありました。慶応元年(1865年)5月。第2次征長戦の指揮をとるため、将軍家茂が大坂城に入城しました。この時、将軍が大坂城にいることに目をつけたのが、欧米列強でした。これまでの懸案であった、条約の勅許兵庫の開港この2点を、将軍が大坂にいる機会に一挙に解決し、駄目なら京都にまで乗り込もうという計画を欧米の外交代表たちは持っていたのです。同年、11月。英・仏・米・蘭4カ国は、大坂湾に軍艦9隻を並べ、各国公使、総領事が大坂城に乗り込んできました。突然、押しかけてきた外交団に、幕府閣老はあわてふためき、独断で兵庫開港に応じようとします。しかし、一橋慶喜がこれに反対。今、勅許なしで開港したりすれば、とても朝廷は収まらない。それを盾に幕府を追及してくることは必至である。幕府の対朝廷折衝を取り仕切っている慶喜の意見が通ることとなり、家茂が勅許を得るため上洛することに話がまとまって、、慶喜は、その下工作のため、京都へと向います。しかし、その間に、やはり、家茂は上洛しないということに大坂で評議がくつがえりました。それを知った慶喜は、憤慨し、閣老2人(老中、阿部正外と松前祟広)の罷免を要求するよう朝廷に迫り、官位の剥奪、謹慎を朝廷が命じることになりました。朝廷が、幕府の人事に介入するのはおかしいと憤激する在坂の閣老たち。家茂もこれに抗議して、将軍を辞任すると言い始めます。結局、この辞任騒動は、慶喜が家茂を説得することでおさまりましたが、幕府内部の不協和音は、覆うすべもありませんでした。一方、4カ国外交代表の要求への対処について。慶喜の方針は、すでに開港している横浜・箱館・長崎の3港の開港について勅許を得て、その実績を材料として交渉しようと考えていました。慶喜は廟議の中で、条約に対しての勅許が得られなければ引き下がれないとして、何日も長時間にわたる廟議を続け、さらには、勅許なくば、私は堵腹する、兵を用意しているので何が起こっても知らないなどと言って公卿たちを、半ば脅迫。結局、朝廷側が根負けしたような形で、ついに、条約締結についての勅許を得ることに成功しました。条約の勅許を得た。兵庫の開港は延期とする。慶喜はこの2点を示して、なんとか、欧米外交団の了解を取り付けることができたのでした。この時期の幕府。フランスの肝煎りで、軍編成の近代化を進めてはいたものの、それも、まだ途上にあり、慶喜は、幕府内において孤立していて、この時、幕府をまとめていけるだけの人材がいませんでした。こうした中、いよいよ、幕府は長州に向け兵を進め始めることになるのです。
2008年08月16日
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慶応元年(1865年)1月。長州の俗論党政権を、藩内クーデターにより打倒した高杉晋作は、その後、藩の閣僚ポストには全く未練がなく、長州を飛び出し、諸国を放浪しました。というより、結果的には、刺客・追捕の手から逃れるために、逃避行を続ける破目になってしまったのでした。以下は、その顛末について。慶応元年(1865年)3月。高杉は、西欧諸国を見聞したいと言い出して、伊藤俊輔、井上聞多に段取りをさせ、その手筈を整えました。高杉と伊藤は、渡航のために長崎へと向います。しかし、英国商人のグラバーから「下関を世界の貿易港として開いてはどうか、 それにより長州は富を蓄え、独立国として割拠できる。」という話を聞き、高杉は洋行の計画を変更。下関開港実現のために、長州へ戻ります。しかし、この下関開港の話はうまくまとまりませんでした。逆に、藩内過激攘夷派に話が漏れ、高杉は彼らから命を狙われることになります。高杉は、たまらず、下関から出帆する船に飛び乗ります。そして、この時、一緒に連れて逃げたのが、下関の馴染みの芸者おうのでありました。これは、女房連れの旅の商人を装うためでもありました。洋行するために用立てた金も、高杉が持ったままなので、当座の金には困りません。そうしたことで、ここから、高杉晋作とおうの二人連れの逃避行の旅が始まります。下関 → 西宮 → 大坂 → 丸亀 → 道後温泉 → 琴平 → 下関がその行程です。高杉は、最初四国へ渡るつもりだったのですが、乗る船を間違えて西宮で下船。陸路大坂まで行き、そこから四国行きの船に乗り込みました。この時期、長州藩士はどこへ行ってもお尋ねもので、しかも、長州の首魁高杉晋作であると知れれば命はありません。そうした中を、おうのを連れて偽装を続け、警備の網をなんとか、かいくぐりました。おうのは、抜けたところがあり、又、その分愛嬌のある女性だったようで、高杉から、上方・四国見物に連れて行ってやると言われたことを真に受けて、さほどの不審も抱かずに、高杉に付いていきました。はたから見ると、夫婦連れの旅商人といったところだったのでしょう。丸亀・琴平では、地元の勤皇家の元に身を寄せました。特に、琴平では勤王家の日柳燕石(くさなぎ えんせき)が、懸命に高杉を匿い、逃亡の手助けを行いました。燕石は、詩文の才で、全国的に知られていた人で、又、四国で最も勢力を張っていた博徒の親分でもありました。燕石は、この時、高杉をかくまった罪により捕縛・投獄されています。高杉は、燕石の手引きにより、からくも四国を脱出。下関に戻りました。その頃、長州では、攻め寄せてくるであろう幕府軍に対する備えが着々と進められていました。この後、高杉は幕府軍を迎え撃つ一軍の将帥として、最期の活躍をすることになるのです。
2008年08月10日
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薩長同盟締結のあと、寺田屋襲撃事件~お龍との霧島旅行などもあって、坂本龍馬は、「亀山社中」を留守にする日々が続いていました。そうした龍馬が留守の間、「亀山社中」では、困難な事件が相次いで持ち上がっていて、その運営自体が窮地に追い込まれるまでになっていました。以下、「亀山社中」で持ち上がっていた事件のいくつかを。(近藤長次郎の切腹)「亀山社中」は、幕府の発令により武器や軍艦の調達が出来ないでいた長州藩に対し、武器や軍艦を購入するための仲介役を果たしました。これが、薩長同盟に向けての実績となっていったわけですが、この時に、中心となって活躍したのが近藤長次郎でした。この功労により、近藤長次郎は長州藩から高く評価され、長州から多額の成功報酬を受け取りました。この時、彼もこれを「亀山社中」に届け出れば良かったのですが、かねてから、イギリス留学を希望していた長次郎は、これを資金にして、密かにイギリスへの渡航を企てます。グラバーに船の手配をしてもらって、出航を待つ長次郎。ところが、折からの天候不良のため出航は延期されることとなりました。やがて、このことが社中の仲間に露見することとなり、長次郎は「同志の盟約に背いたぬけがけである」として、隊士たちから、隊規違反を詰問され、切腹して果てました。慶応2年(1866年)1月14日のこと。家業から、饅頭屋の愛称で呼ばれていた近藤長次郎。龍馬は、後でこれを知り、長次郎の死を悼んだと言います。(ユニオン号所有権問題)ユニオン号は、「亀山社中」の仲介により長州藩が購入した軍艦。但し、名義は薩摩藩、「亀山社中」が薩摩旗を掲げて薩長両藩のために操船・運用する、という取り決め(桜島丸条約)が結ばれていました。ところが、この位置づけについては、各々の思惑があって、その後もくすぶり続けました。一旦は、坂本龍馬の仲介により、ユニオン号の運用については長州藩の統制下に置くこととし、実質的に、亀山社中の同志が乗り組み運用するということで決着しました。しかし、結局は、長州海軍局が「長州が購入費用を負担するからには長州で使用すべき」との主張を譲らず、最終的には長州海軍局の所属となりました。ちなみに、この船。最初はユニオン号と呼ばれていましたが、薩摩藩・亀山社中では桜島丸と呼ばれ、さらに、長州藩籍となってからは、乙丑丸と改名されています。(ワイル・ウェフ号の沈没)ユニオン号(桜島丸)の運用がままならない状況で、龍馬は、新たな船の入手へと動きます。海運業を中核事業とする「亀山社中」にとって、肝心の船がなければ、事業自体が成り立ちません。ワイル・ウェフ号は、そんな龍馬が薩摩藩の後援を得て、苦心惨憺、ようやく手に入れた洋式帆船でありました。慶応2年(1866年)4月。ワイル・ウェフ号が、長崎に到着。命名式を行うため、まず、鹿児島へと向かいます。そこへ、偶然、長州から薩摩へ寄与される米を積んだユニオン号(桜島丸)が長崎に入港していたことから、ユニオン号がワイル・ウェフ号を鹿児島まで曳航していくことになりました。ワイル・ウェフ号の船長は、鳥取浪士の・黒木小太郎。副将は土佐出身の池内蔵太と、塩飽佐柳島出身の佐柳高次、以上3人の、社中のメンバーが乗り込みました。他に水夫が十人余り乗り組んでいました。長崎を出港し、順調な航海を続けながら薩摩領の甑島近くにたどり着いた時、ワイル・ウェフ号は、突如、猛烈な暴風雨に巻き込まれます。ユニオン号も、曳航していくことが危険であると判断して、やむなく、引き綱を切断することを決断。その後は、暴風雨の中、為す術もないままにワイル・ウェフ号は漂流を続けました。そして、ついに、五島列島沖合いの暗礁に乗り上げて転覆。船体は一瞬のうちに破壊されてしまいました。黒木小太郎や池内蔵太などの、社中幹部をはじめ、水死者は12名。3名が一命を取り留めましたが、他の者は積荷とともに海中に泡となり沈みました。霧島から鹿児島に戻ってきていた龍馬は、ワイル・ウェフ号が到着するのを、楽しみに、今かとばかりに待っていました。そこへ届いた悲報でした。同年、6月。龍馬は同志の死を悼み、ユニオン号を下関に送り届ける途中、社中の同志を連れて、五島列島に立ち寄りました。龍馬は、自らが碑文を書き、土地の庄屋に金を渡して碑を建てさせ、志半ばにして散っていった同志の霊を慰めたと言います。この事件は、当時、窮乏状態の亀山社中に追い打ちを掛けることになりました。龍馬の亀山社中は、最大の困窮期を迎えることとなったのです。そうした中、龍馬の操縦するユニオン号は、下関に到着。しかし、そこではすでに、幕府と長州との戦い、第2次征長戦が繰り広げられていました。その間に、時代は、また、一歩先へと進んでいたのです。
2008年04月19日
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坂本龍馬は、寺田屋で受けた傷の治療のため、お龍と2人で九州・霧島を旅しました。慶応2年(1866年)3月のこと。龍馬は、西欧にハネムーンという習慣があることを知っていたようですが、これが、日本で最初の新婚旅行であったと云われています。この霧島の旅は、忙殺される日々を送っていた龍馬にとって、つかの間の楽しいひとときであったと思われます。姉の乙女にあてて送った手紙の中で、この新婚旅行の様子が、スケッチした絵もまじえて、いきいきと伝えられています。龍馬とお龍の新婚旅行。その様子を、乙女にあてた手紙(慶応2年12月4日付け)をもとに、振り返ってみたいと思います。 『おとめさんにさし上げる。』という書き出しで始まるこの手紙は、まず、お龍とお龍の家族の素性・境遇などを書き連ね、お龍は私の妻であると、小松帯刀・西郷隆盛にも知らせたということが記されています。そのあとが、お龍と霧島に旅行に行った顛末について。3月3日、蒸気船で大阪を出発し、3月10日鹿児島に到着。この時、同行していた薩摩の吉井幸輔から、船中で温泉行きを勧められました。乙女への手紙では 『吉井幸輔もどうどうにて、船中ものがたりもありしより、 又温泉にともにあそばんとて、吉井がさそいにて 又ふたりづれにて霧島山の方へ行道にて日当山の温泉に泊まり、 又しおひたしと云う温泉に行。』とあり、霧島山、その途中にある日当山(ひなたやま)温泉、塩浸(しおひたし)温泉にも行ったことが記されています。日当山温泉~塩浸温泉には、10日ほど滞在していたようで、 『谷川の流にてうおおつり、短筒をもちて鳥をうちなど、 まことにおもしろかりし 』アウトドアライフでリフレッシュしていた様子がうかがえます。このあと、龍馬は、天の逆鉾が見たいと言って、お龍といっしょに霧島山(高千穂峰)をめざしました。よじ登っていかないといけないような、きつい山道で、 『どふも道ひどく、女の足にはむつかしかりけれど、(中略) ひとやすみして、又はるばるとのぼり、ついにいただきにのぼり 』お龍を助けながらも、困難な山道を上りきったようです。そこで、天の逆鉾が突き刺さっているのを見つけます。 『此サカホコハ少しうごかしてみたれバ、あまりにも両方へはなが高く候まま 両人が両方よりはなおさえて、エイヤと引ぬき候時ハわずか、四五尺のものにて候間 又々本の通りおさめたり 』龍馬とお龍、ふたりして、天の逆鉾を引き抜いてしまったようです。天の逆鉾には、おかしな顔つきの天狗の面が両側に取り付けてあって、引き抜くのに、その鼻が持ち手にちょうど良かったのでしょう。龍馬は、この手紙の中で、この鉾の形を絵で書き残しています。 『かよふなるおもいもよらぬ天狗の面があり、大に二人が笑たり。 』この天狗の面の顔が、とても面白かったようで、二人はこれを見て大笑いしています。天の逆鉾とは、ニニギノミコトが国家平定に使った後は、国家の安定を願い、この矛が二度と振るわれることのないようにと高千穂峰に突き立てたという伝承があり、日本神話に登場する神格的なもの。しかし、龍馬はこれを見て、からかね也(人間が作ったものではないか)と分析しています。このあたりからも、龍馬が固定観念にとらわれない近代人であったということがうかがわれるのではないでしょうか。ふたりは、この後、一面に咲き誇る霧島ツツジを見ながら、山を下って行きました。龍馬は、霧島山の見取り図も、解説つきでこの手紙に書きつけています。この楽しかった思い出を、ぜひ、姉の乙女に聞いて欲しかったのでしょう。乙女への手紙は、霧島旅行から帰ってのちの近況を知らせ、その後、締めくくられています。 『まだ、色々申上たき事ばかりなれど、 いくらかいてもとてもつき申さず、 まあ、ちょっとした事さへ、此よふ長くなりますわ。 かしこかしこ。 極月四日夜認 龍馬 乙 様 』新婚旅行第一号の絵入り紀行文。あけっぴろげに、お龍との新婚旅行を報じたこの手紙は、当時としては、全く異色のものでした。この自在な文章は、龍馬があの時代にあって、いかに自由な精神を持ちえていたか、それを、示しているものであると、つくづくと感じます。
2008年03月08日
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幕末の頃。京都伏見の寺田屋は、大阪と京都の間を結ぶ三十石船の船着場を持つ、大きな船宿でありました。薩摩藩はここを定宿とし、また、多くの浪士や志士たちも、ここを京へ向う足どまりとしていたため、この界隈は、当時、大そうな賑わいであったといいます。坂本龍馬も、薩摩藩の紹介で、よくここに宿泊していました。文久2年の寺田屋事件(薩摩藩尊攘派が島津久光により粛清された事件)が起こった場所であり、又、慶応2年に、坂本龍馬が幕府警吏に襲撃されたのも、この寺田屋。度々、歴史の舞台となった場所でありました。寺田屋の女主人はお登勢。世話好きで、度胸もあり、多くの志士たちをかくまったことでも有名で、龍馬も「この人学問ある女で人物也」と評していたといいます。寺田屋には、龍馬と恋仲であったお龍も奉公していました。お龍は、尊王の医師楢崎将作の娘で、父が安政の大獄で獄死したのち放浪しているところを、龍馬に見い出され、龍馬の斡旋によりお登勢のもとに預けられていました。龍馬が寺田屋で襲撃された時に、龍馬を助け、それが縁となって龍馬の妻となります。以下は、寺田屋襲撃事件のあらましです。慶応2年(1866年)。薩長同盟の締結を実現させた龍馬は、寺田屋へ戻ってきました。1月23日午前零時頃のことです。しかし、この時、伏見寺田屋周辺は、伏見奉行所の厳戒態勢下に置かれていました。一橋慶喜が宇治へ向うことになっており、その警戒ということでありましたが、伏見奉行所は、それに絡んで、龍馬が何事かを企てていると考えていたのかもしれません。午前3時頃。伏見奉行所の包囲が完了しました。総勢100名あまり、おびただしい人数が、寺田屋を取り囲んでいます。"ちょっと頼みます。"と言って、奉行所同心が戸を叩きました。応対に出てきたお登勢。"侍が2人ここに宿泊しているはずだ、相違ないか。" と同心。"いらっしゃいますが、薩摩藩の方で決してあやしい方ではございません。" とお登勢。"それは、こちらで調べることだ、その方は聞かれたことに、ただ答えれば良い”といって、お登勢を路上に連れ出し、同心たちは、中へ踏み込んでいきました。その頃、龍馬は長府藩士の三吉慎蔵とともに、寺田屋の2階の部屋でまだ起きており、薩長同盟締結後の天下の形勢などについて、話し込んでおりました。一方、この異変に早く気づいたのがお龍。入浴中でした。風呂の細い窓を閉めようとすると、群がるように取り囲んでいる捕吏の姿を確認しました。反射的に、裸のまま風呂を飛び出し、裏階段を駆け上がって龍馬に急を伝えました。 今に残る寺田屋の風呂場。お龍のおかげで、事前に襲撃を察知した龍馬と慎蔵は態勢を整えていました。やがて、捕吏が踏み込み、寺田屋の戦闘が始まります。慎蔵は槍の名手といわれた人で、槍を手に奮戦。龍馬は、刀も抜かず、高杉晋作から贈られたという短銃を撃って戦いました。捕吏もこの2人を恐れ、遠巻きにして2人に対峙します。しかし、奉行所側は、圧倒的な多勢。やがて、激しい乱戦になりました。この激戦の中、龍馬は手指を斬られ、短銃の弾丸も撃ち切ってしまいます。2人は、結局、裏口から脱出。隣りの家に飛び移り、その裏通りから逃走し、まずは難を逃れました。しかし、この時龍馬は、手に重傷を負った上、風邪をひいていたこともあって走る事もままならず、近くの材木小屋にたどり着いたところで身を潜めます。三吉慎蔵が、一人、伏見の薩摩藩邸まで走り、薩摩藩に救援を求めました。そこには、すでに寺田屋から急を知らせに駆け込んでいたお龍も来ていました。お龍から事件の話を聞いていた、薩摩藩留守居役の大山彦八は、何かあったときには、と、備えを始めていましたが、慎蔵から龍馬の居場所を聞いて、大山は、すぐさま龍馬救出へと向かい、無事、龍馬を、伏見藩邸に引き取ることができました。龍馬は、1月いっぱいまで、伏見藩邸で匿われることになりました。戦闘で負った手指の傷は、左手の人差し指が生涯自由が利かなかったというほどの重傷であったようです。そんな中、献身的に看病を続けたのがお龍でありました。こうしたこともあって、龍馬とお龍の仲は、さらに深まっていきます。その後、龍馬は、京都二本松の薩摩藩邸へ移されて、なおも療養生活を続け、龍馬の傷も、徐々に、快方へと向っていきました。 龍馬がいつも泊まっていたという、寺田屋2階の梅の間です。この掛け軸は、お登勢が嫌がる龍馬に奨めて、町の画家に描かせたというもので、龍馬最後の、肖像画であると云われています。激動の幕末の雰囲気を偲ぶことが出来る場所、史跡寺田屋。今も、なお、旅館業が続けられていて、素泊まり6500円で宿泊することも出来ます。
2008年03月01日
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亀山社中の仲介により、連携を深めてきた薩長両藩にも、いよいよ同盟締結の機が熟してきました。慶応元年(1865年)12月。薩摩藩は、同盟締結のため上京してくるよう、長州の桂小五郎に使者を送りました。しかし、この時点でもなお、長州では依然として薩摩嫌いの強硬論を唱えるものが多く、藩論がなかなかまとまりませんでしたが、中岡慎太郎が強硬論者を説得してまわったこともあって、結局、桂小五郎と品川弥次郎の2名が京に向うことになりました。会談の場所は、御所にほど近い二本松・薩摩藩邸。薩摩からは、西郷隆盛、小松帯刀らが臨席です。ここで、色々と現在の情勢などについて、意見が交わされましたが、しかし、肝心の同盟締結の議題が、なかなか出てきません。桂小五郎にしてみれば、孤立している長州が薩摩に援助を求めているような形になるので、切り出しにくく、また、西郷にとってみれば、藩閥的な駆け引きがあったのでしょうか。後年においても、この両者はそりが合わなかったようで、性格的にも、もともと噛み合わない2人だったのかもしれません。結局、本題に入ることのないままに、一週間が経過していきました。そんな時、所要で入京が遅れていた坂本龍馬が、薩摩藩邸に到着します。とっくに、薩長同盟に向けての会談が進んでいるものと思っていた龍馬は、意外な事態に驚きました。桂小五郎などは、「これだから、薩摩は信用できない。長州へ帰る。」といって怒っています。龍馬はそんな桂小五郎に対し、「天下のために連合を周旋しようとしているのに、取るに足らない感情におぼれて意地を張り合うとは何事ですか」となじります。次いで、龍馬は西郷のもとに行き、薩摩の冷淡な態度を強く批難しました。こうして、龍馬が両者をなだめ、説得しながら、ようやく具体的な同盟の検討に入り、その結果、薩長同盟が成立しました。慶応2年(1866年)1月のことです。薩長同盟の条文は6か条。一、戦争が起こった場合は、すぐさま薩摩藩は二千の兵力を京都に上らせ、 現在の兵力と合し、また別に千人程の兵を大坂において京坂両所を固める事。一、戦が長州の勝利になった時は、薩摩藩は朝廷に上申して必ず長州のために尽力する事。一、万一長州が敗れた時も、一年や半年で藩が潰滅することはないから、 その間に薩摩藩が尽力する事。一、幕府が軍を引き揚げた時は、薩摩藩は朝廷に上申して、 長州の冤罪を直ちに朝廷がお赦しになるようきっと尽力する事。一、京坂に兵士を上らせた以上、一橋、会津藩や桑名藩等も今のような態度を続けて、 もったいなくも朝廷を擁し奉り、正義を拒み、周旋尽力の道を遮る時は、 幕府とやむをえず決戦の他なき事。一、長州藩の冤罪が解けた時は、薩摩藩と長州藩は誠心をもって相合し、 皇国のために砕身尽力することはもちろんのこと、 いずれの道にしても今日より両藩が皇国のために皇威が輝き回復することを目途に、 誠心を尽くしきっと尽力する事。同盟の主な内容は、幕府が長州再征を予定している背景の中で、幕長戦において、薩摩藩が果たす役割を規定したものであると言えます。長州にとっては、対幕戦争も辞せずという態度を貫く決意のもと、その後ろ盾に薩摩藩を得たことになり、薩摩にとれば、雄藩連合による国内統一を否定し長州再征を強行しようとしている幕府に対抗するための、攻守同盟でありました。この同盟は、実際には、口頭で合意されただけのものだったのですが、これを桂小五郎が文書として書き残し、それが薩長同盟条文として今に伝わっています。龍馬はこの会談の内容を保証する意味で、それに裏書を書き付けました。 表に御記しなされ候六か条は、小(小松帯刀)西(西郷隆盛)両氏及び 老兄(桂小五郎)龍(坂本龍馬)等もご同席にて議論せし所にて、 毛頭相違これなく候こうして、薩摩・長州の両藩が同盟を結んだことにより、いよいよ、倒幕そして討幕へと、歴史が回転しはじめるのです。
2008年02月02日
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長崎港を見下ろす、小高い丘に立つグラバー園。古い洋館が、今も多く残されていて、長崎を代表する観光地にもなっています。幕末、幕府や各藩に軍需品を販売した商人・グラバーの邸宅跡も当時のままに残されていて、往時の在日欧米人の生活の様子が、今に再現されています。そして、長州藩が薩摩藩名義を借りて軍艦や武器の買い付けを行った場所が、このグラバー邸でありました。慶応元年(1866年)6月。坂本龍馬は、下関から京に入って西郷隆盛と面会し、武器や軍艦を薩摩名義で購入して、それを長州藩にまわすという話を説明しました。西郷は、これを即座に了解。しかし、その代わりに、京へ向う薩摩藩兵の糧米を下関で購入できるように、段取りして欲しいという条件が、西郷から出され、龍馬もこれを受け入れました。そして、この合意内容が長州に伝えられ、長州の武器購入の一件は進展し始めます。長州は、武器購入のために井上聞多、伊藤俊輔の2名を長崎に送りました。そして、この2名を長崎において仲介したのが、龍馬が作った商社「亀山社中」でありました。その中でも、この件において中心となって動いたのが、饅頭屋の倅・近藤長次郎と龍馬の甥・高松太郎の2人。近藤と高松は、長崎で井上・伊藤の両人を薩摩の小松帯刀に引き合わせ、小松も長州からの申し出を承認。次いで、近藤と高松は、井上と伊藤をグラバー商会に案内し、長州の武器購入の商談が開始されます。新式銃と軍艦の購入は、主に伊藤が行い、井上は、その間、小松・近藤とともに薩摩に行き、薩摩の家老と薩長連携について協議を重ねました。伊藤の買い付け交渉の方は、ミネーエ銃4000丁とゲーベル銃3000丁を購入、ユニオン号という軍艦の購入を予約するなどの成果を上げます。ユニオン号については、所有は長州藩ですが、旗号は薩摩、運行は亀山社中が行うということになりました。長州藩は、これにより、待望の軍艦と多数の新式小銃の購入が実現し、特に、近藤長次郎は、大変な世話になったということで表彰されることとなり、長次郎には、長州藩から多額の謝礼金が渡されました。しかし、このことが、彼の運命を大きく変えることとなるのですが、それは、もう少し後の話。この話は、又、別の機会にでも・・・。いずれにせよ、この一連の取引によって、薩長の関係が実質面で改善されていくこととなり、また、この時購入した武器・軍艦が、次の対幕戦を戦っていく上での大きな戦力となっていったのです。さらに。この展開を見ている中でも、坂本龍馬という人は、まさに、ギブアンドテイクの契約関係を身につけた、近代的な感覚の持ち主であった事を感じます。封建社会においては、全く奇跡的ともいえる人物だったのではないでしょうか。
2008年01月27日
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明治維新の中心勢力となった、薩摩と長州。維新後、この両藩が明治政権の主体となっていったことは周知のとおりですが、しかしながら、幕末の政争の中では、薩摩と長州の間では対立関係が続いていました。この両藩の連携が成立したことによって、ようやく、幕末史は本格的に倒幕・維新へと向っていくこととなります。薩長同盟。とはいっても、両者の間にはそれまでに、積み重ねられた遺恨があり、同盟に合意することは容易ではありませんでした。そんな中、この同盟を成立させるために奔走したのが、坂本龍馬・中岡慎太郎らの土佐藩脱藩浪士でありました。そこで、今回は、薩長同盟締結に至るまでの経緯についてまとめてみたいと思います。ただ、同盟締結に至るまでに、いくつか曲折がありますので、3回くらいに分けて・・・という事で、今回はその1回目です。実際に、薩長同盟の実現にむけ、最初に行動を起しはじめたのは、中岡慎太郎であったと云われています。中岡慎太郎は、武市半平太が土佐勤王党を結成した当初からの中心メンバー。しかし、文久3年の八月十八日の政変以降、勤王党が退潮していく中で土佐でも、勤王党に対して弾圧が行われ、この頃に慎太郎も土佐藩を脱藩。それ以後は、主に長州の勤王派と行動を共にし、蛤御門の変や四国連合艦隊との下関戦争にも参陣しました。常に長州と行動を共にして、長州藩のことを理解し、また、長州藩からも信頼されていた中岡慎太郎は、薩長の仲を取り持つにあたっては、絶好の立場にあった人であったと言えます。元治元年(1864年)第一次征長戦が始まりました。薩摩は、この頃から反長州の態度をやわらげ始めました。西郷隆盛も、この時、長州処分を緩やかなものにして、戦いが回避できるよう走り回っています。一方、慎太郎は、この頃、長州に亡命していた五卿の九州への移転問題にからんで、薩長両藩と連絡をとりあって活動を進めていました。慎太郎が、薩摩と長州の連携を両藩に説き始めたのは、この頃からであると思われます。西郷や高杉晋作など、両藩の首脳に対して、不和の無意味さや提携の重要さを力説してまわり始めています。慶応元年(1865年) 4月には、慎太郎は桂小五郎と面会。薩長連合について打診し、内諾を得ます。5月には、薩摩入り。薩摩藩内でも薩長連合についての会議が開かれることになり、結局、西郷が今度上京する途中、長州との連携打ち合わせのために、下関で下船することの同意を、取り付けることに成功しました。慎太郎も西郷とともに乗船して、下関へと向います。しかし、西郷は約束を果たしませんでした。京都で、長州再征を取りやめさせるための宮廷工作をしていた大久保一蔵から、京へすぐに来て欲しいとの連絡があったため、そのまま大阪へ向ったのです。慎太郎は、単身下関で下船せざるを得ませんでした。その頃。下関では、桂小五郎が西郷の来るのを、今か今かと待っていました。薩長同盟のプランを聞きつけた坂本龍馬も、この席に駆けつけて来ていました。やがて、現れた慎太郎。しかし、西郷は連れずに慎太郎一人です。「すまぬ、西郷は来ない。」と頭を下げ、事情を説明する慎太郎。「だから、薩摩はあてにならぬ。君がどうしても西郷と会ってくれと言うから 藩内の反対を押し切って出てきたのだ。」と桂小五郎。そうです。薩摩は、八月十八日の政変で佐幕派の会津と組んで、長州を京から追い落とし、蛤御門の変では、先頭に立って長州軍を撃破しました。長州には、薩摩憎しの思いが高まり「薩賊会奸」がスローガンとして叫ばれていました。そうした藩内をなんとかなだめて、出てきた桂小五郎。やっぱり、薩摩は信用できないという思いがまた、強くこみあげてきました。しかし、ここで、坂本龍馬が一つの提案をします。長州が今、困っていること。それは、幕府が外国の商社に、長州に武器を売ってはいけないとの発令を出しているため武器や軍艦の調達が出来ないでいることでした。龍馬は、「それが調達出来る。」と言いました。今、活動を始めたばかりの亀山社中が薩摩藩名義で武器・軍艦を購入し、長州にそれを渡す、とする提案でした。軍制改革を進めようとしている長州にとっては、まさに渡りに船の申し出でありました。龍馬のこの提案によって、薩長の連携は新たな方向性を見い出し、薩長同盟に向けて、また一歩進み始めることになるのです。
2008年01月20日
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勝海舟が幕閣の中枢から失脚し、神戸海軍操練所が閉鎖されてから、坂本龍馬は薩摩藩の庇護のもとで活動していました。慶応元年(1865年)5月。西郷隆盛や小松帯刀に伴われて、龍馬は、初めて薩摩の地を踏んでいます。この頃、龍馬は、これまでにない、新しい形の組織を設立することを考えていました。それは、浪士たちがその運営を行う、海軍操練のための研修所であり、商社でもあり、運送業者でもあるといったような全く新しい型の組織体でありました。龍馬の薩摩入りは、この新組織準備のためでもあったように思われます。ほどなく、薩摩藩と長崎の豪商小曽根家からの出資をうけて、この新しい組織は設立され、長崎の亀山に活動場所を置いて、その名も「亀山社中」と名付けられました。龍馬にとってみれば、勝海舟のもとで温めてきた構想がようやく実現したものともいえるでしょう。「亀山社中」は、その商社的な活動内容から、日本最初のカンパニーであるとも言われていますが、しかし、単に商社というだけには留まらない、多様な活動を行っていました。主な活動内容としては、これまでに龍馬たちが培ってきた、蒸気船運用の技術を活かした船の回送、船による人や物資の運搬などの運輸業。軍艦や銃器購入のあっせんなどの商業活動。さらに、この翌年の、第二次征長戦では、龍馬ら亀山社中のメンバーが軍艦に乗り込んで、対幕戦を戦っていますから、その活動内容は、すこぶる多岐にわたっていたといえます。「亀山社中」の構成員は20名弱であったといわれており、龍馬のすすめにより神戸海軍操練所で修行していた浪士たちが中心となりました。出身地としては、やはり、土佐が多く、坂本龍馬はじめ10名ほか、越前3名、越後2名、紀州・讃岐・因幡などが各1名です。主なメンバーとしては、近藤長次郎(土佐)英語の学力や才覚に長けていて、社中の代表的な存在でした。饅頭屋の愛称でも知られていて、この頃、名を上杉宗次郎と改めました。陸奥陽之助(紀州)理論明敏と言われていて、運輸拡張に関する意見書「商法の愚案」を提出して龍馬に認められました。後の外務大臣陸奥宗光。長岡謙吉(土佐)文書の作成など、事務処理のほとんどを務めていたといわれる事務のスペシャリスト。後に龍馬の「船中八策」を起草したのも彼であったと言われています。沢村惣之丞(土佐)語学力に優れ、外国人との応接掛を務めていました。他に、龍馬の甥にあたる、高松太郎(土佐)後に初代衆議院議長となる、中島信行(土佐)龍馬からも後継者と期待されていた池内蔵太(土佐) など。社中の運営は、何事につけても、全員の協議により決定するとの取り決めがなされ、民主的な気風と固い結束があったようです。薩摩藩からは、手当てとして、月に三両二歩を支給されていましたが、龍馬も他の隊士と同額であったといいます。後に、支援母体が土佐藩に移されて組織は「海援隊」へと発展していきますが、「亀山社中」は、その前身でありました。やがて、この「亀山社中」が、薩長両藩の物資を調達・運搬する事により、薩長両藩の和解、薩長同盟への道筋を作っていくこととなるのです。
2008年01月12日
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新撰組は、鉄の掟と云われるほどの厳しい隊則が運用されていたため、幹部クラスも含めて、激しく人が入れ替わりました。まさに、新陳代謝によって組織が維持されていたと云えるほどです。池田屋事件により、勇名を馳せたその後も、新規募集・粛清などにより、新撰組隊士の入れ替わりは進行していきました。今回は、そうした、新撰組の人事・組織の移り変わりを追いかけます。元治元年(1864)年8月。組織の強化を目指す、局長の近藤勇は、江戸に戻って隊士を募集しました。その募集に応じて入隊したのが、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を中心とする、北辰一刀流・伊東道場の面々でした。彼らの新撰組入隊は、もともと伊東道場の寄り弟子であった藤堂平助が、仲介したものです。鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄ら、総勢50名あまり。伊東甲子太郎は、新選組入隊と同時に、いきなり、参謀の地位をあたえられました。文武両道に優れ、伊東道場の道場主であったということがあっての抜擢でした。近藤勇は、彼の入隊を非常に歓迎していましたが、その一方、副長の土方歳三は、彼のことを並々ならぬ策士として、警戒していたようです。甲子太郎は、水戸学や国学を学んでいたことから、尊王攘夷の考えを持っていました。甲子太郎と新選組とは、当初は攘夷という点で結ばれていたのですが、新選組は佐幕派で、甲子太郎は尊王派。両者は、早晩、衝突することが明らかでありました。慶応元年(1865)年2月。今度は、副長の山南敬助が新撰組を脱走。その後、捕らえられた末に、切腹するという事件が発生します。「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走した山南に対し、近藤と土方は、沖田総司を追っ手として差し向け、山南は、大津で捕えられて、壬生の屯所に連れ戻されました。新選組の隊規では、隊を脱走したものは死罪。この時、山南は永倉新八に再度の脱走をすすめられましたが、彼は、死の覚悟を決めていました。山南敬助は、切腹。山南が何故脱走したのかについては、色々な説があり、よくわからないようです。慶応元年(1865)年4月。隊士が増え、壬生の屯所が手狭になったため、本拠を西本願寺に移転。この時、組の組織を再編しました。新撰組は、幾度も人事構成、編成替えを行っていますが、この時の、編成が一般的に、よく知られているものです。 局長 近藤勇 副長 土方歳三 参謀 伊東甲子太郎 組長 一番隊組長 沖田総司 二番隊組長 永倉新八 三番隊組長 斎藤一 四番隊組長 松原忠司 五番隊組長 武田観柳斎 六番隊組長 井上源三郎 七番隊組長 谷三十郎 八番隊組長 藤堂平助 九番隊組長 鈴木三樹三郎 十番隊組長 原田左之助 この下に、監察、伍長がおかれました。しかし、こうした幹部の面々も、決して安泰ではありませんでした。伊東甲子太郎、松原忠司、武田観柳斎、谷三十郎、藤堂平助、鈴木三樹三郎、らがその後の、色々な事件や、隊則違反などにより、粛清・暗殺されていきます。幕末に、「誠」の旗を掲げて京の町を警護し「人斬り集団」と恐れられた新撰組。その組織は、実にスリリングで、危ない集団であったといえるでしょう。新撰組についての、関連記事は、下記をごらんください。清河八郎と浪士隊の結成 新撰組誕生池田屋事件
2007年12月01日
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桂小五郎は、蛤御門の変の後、半年あまりの間、逃亡生活を送っていました。幕府からは、朝敵となった長州藩の中心人物として行方を探索され、長州にも、親幕府政権が成立したために帰ることが出来ず、身を寄せる場所がなかったのです。小五郎は、その間、芸妓の幾松や町人の甚助などに支えられ、京都~但馬出石~城崎と場所を移りながら、世を忍び、潜伏を続けました。今回は、そうした波乱に満ちた、桂小五郎の潜伏生活の様子をたどります。元治元年(1864年)6月。蛤御門の変で、長州の軍が潰滅し、京の町が戦火につつまれる中を、桂小五郎は、一人、京を脱出しました。その後、数日して、再び京に潜入。小五郎は、鴨川の橋の近くで、乞食のような身なりをして隠れ住みます。しかし、小五郎は、今でいえば指名手配の要注意人物。新撰組などから、執拗な探索を受け続けました。そんな中で、小五郎を支えたのが、京・三本木遊郭の芸妓、幾松でした。幾松は、命を狙われていた桂小五郎を庇護し、新選組に追われる小五郎を、機転を働かせて、度々かくまったといいます。小五郎の食事についても、商家の女になりすました幾松が、橋の上から握り飯の入った包みを、そっと投げ落として渡していました。しかし、小五郎も、いつまでも、京に留まっていることは危険であると感じていて、何とか、関所を超え、京から抜け出すことを考えていました。そこで、小五郎は、懇意にしていた対馬藩士に相談し、その下僕をしていた広江甚助という町人に、協力を依頼します。甚助は、小五郎が自分の援助を必要としている事を聞き、小五郎を、京から脱出させて、かくまうことを決意しました。甚助は、小五郎を、甚助の郷里出石に逃れさせる段取りを進めていきます。小五郎を船頭に化けさせて、京を脱出、関所もうまく通り抜けて、小五郎を、無事、出石に連れて行く事に成功しました。この後も、甚助は献身的に小五郎をかくまい続けます。出石では、最初、知人の家に小五郎を住まわせ、次いで、会津、桑名の藩士が小五郎の探索にきたという噂を聞くと、出石から城崎の湯治宿に小五郎を移動させました。時には、広江家ゆかりの寺に預けたり、又、ある時は、「広江屋」という荒物屋を小五郎に開かせたりしました。小五郎も、この時期には、甚助の妹の婿と称し、広江屋孝助と名乗っていたといいます。そうした、ある日。小五郎は、高杉晋作が藩内でクーデターを起し、俗論党政府を打倒したとの噂を聞きつけます。小五郎は、長州の状況を確認したいと考え、甚助に下関に行くよう頼みました。さらに、この時、自分の居場所を、村田蔵六にだけ伝えるよう指示しました。蔵六は、下級藩士ではありましたが、小五郎は彼に全幅の信頼を置いていたのです。甚助は、下関へと向かい、京から逃れてきていた幾松と面会。又、村田蔵六に会って、小五郎が但馬に潜んでいることを伝えました。やがて、小五郎が無事でいることを知った長州藩は、一日も早く、小五郎を藩に呼び戻そうとしました。成立ほどない長州新政権は、藩を背負って立てる、首相のような役割が果たせる政治家を切望していたのです。結局、甚助と幾松の2人が、出石まで小五郎を迎えに行くことになりました。慶応元年(1865年)2月。桂小五郎が、長州に戻ってきます。帰国後の小五郎は、事実上藩政府の頂点に立ちました。それとともに、それまで無名であった村田蔵六(のち大村益次郎)を、いきなり、軍務大臣に相当する軍政の責任者に抜擢。彼は、この蔵六をして、藩軍の整備にあたらせ、来たる対幕戦の総司令官にしようと考えていました。ここから、長州の倒幕に向けての軍制改革が、本格的に進められることとなっていきます。ところで、小五郎の逃亡を必死に助けた甚助。人から頼まれたというだけで、何の義理もなかったはずの小五郎に対し、驚くほど親身になって、彼をかくまい、生活の面倒を見続けました。多くの危険はあっても、利益を受けることのない、まさに、無償の善意でありました。小五郎は、甚助の人情により、この苦境から救われたということができるでしょう。小五郎も甚助の恩を終生忘れることがなく、明治になってから、甚助が大阪で商売を始めたときには資金を提供し、「広江屋」の商号と孝助の名も与えたといいます。そして、もう一人、芸妓の幾松。こちらは、その後、桂小五郎と結婚。後の木戸孝允夫人・松子となります。
2007年11月23日
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高杉晋作の、クーデター軍蜂起に呼応して、行動を開始した奇兵隊。”奇兵隊の軍が萩へと向っている。”知らせを受けた俗論党政府は、急遽鎮圧軍を編成し、萩を進発させました。やがて、萩と山口の中間地点である絵堂という高台で、両軍が対峙します。俗論党軍は、奇兵隊に対し、・萩に近づいてはいけない。すぐに退去せよ。・兵器は、殿様のものである。返納するように。とする内容の命令を出し、上意として使者を送ってきました。これに対して、奇兵隊総監の山県狂介。以外にも、あっさりとこれを了承しました。但し、武器を一時に集めることはできないので、何ヶ所かに武器返納所を設けて、順次回収していくとの回答をします。この回答に使者は安堵し、陣に引き上げていきました。しかし、これは、山県が仕掛けた罠でありました。山県率いる奇兵隊軍は、その夜、絵堂に滞陣する俗論党軍に対して夜襲を仕掛けます。不意をつかれた俗論党軍は、これにより敗走。その後、奇兵隊軍は、絵堂の地は守備に適さないという判断から、そこから奥まった集落である、大田まで陣を後退させました。こうして、大田・絵堂の戦いと呼ばれる長州藩内戦争は、戦いの火蓋が切られました。しかし、この戦い。俗論党側の方が動員兵力が多く、奇兵隊は苦しい戦いが続きます。俗論党軍の総攻撃を受け、奇兵隊も支えきれず、退却する場面もあり、何回か窮地に陥りながらも、何とか持ちこたえ敵軍を撃退することを繰り返していました。一方、その頃。下関に陣取っていた高杉晋作率いる部隊は、しばらく、下関を動きませんでした。小倉にいる幕府側の軍(肥後藩)の動きを警戒していたためです。しかし、絵堂での奇兵隊軍勝利の知らせを受けるや、密かに下関から兵を移動し始めます。保有していた軍艦のうち一隻も、萩へと進発させ、海からの攻撃を目指します。やがて、晋作の軍が大田に到着。山県の奇兵隊軍と合流します。晋作の到着で、沸き立つ奇兵隊軍。勢いにのって、奇襲攻撃を仕掛け、俗論党軍をさらに敗走させました。ここで、晋作は、さらに萩へと追撃を続けようと主張します。しかし、山県は反対しました。奇兵隊軍は、相次ぐ激戦を繰り返したため、兵の疲労が頂点に達していたのです。隊士の間でも、体勢を一度立て直してから、再攻勢に出ようとする意見が大勢を占めました。結局、山口まで戦線を後退させ、戦闘態勢を整えるという結論に落ち着きます。ところが、この頃。俗論党政府の側も窮地に陥っていました。奇兵隊軍に相次いで撃退され、さらに、海上からは軍艦の砲撃を受けるという事態に、政府部内は大きく動揺していました。そこへ、俗論党政府に反対する藩士たちが集まり、勢力を広げ始めました。彼らは”鎮静会議員”と称する有志団を結成します。奇兵隊等諸隊と提携することで、藩論の統一を目指そうという活動です。やがて、俗論党政府との勢力争いの結果、藩主に対し、俗論党政府閣僚を罷免すべしとの意見書を提出。ついに、俗論党政府は崩壊します。俗論党の領袖椋梨藤太は、津和野へと落ちのびようとしましたが、途中で捕えられ、処刑されました。他の俗論党の面々も、相次いで捕らえられ、野山獄に投獄されました。こうして、長州藩に新政権が誕生。”鎮静会議員”のメンバーが、尊王派を中心とした閣僚を選出します。しかし、功労者であるはずの晋作は、この新政権に、何故か参加しようとしませんでした。この時、晋作は「人間というものは、艱難は共に出来るが、富貴は共に出来ない。」と言っていたといいます。高杉晋作の功山寺決起から始まった、この一連の戦いは、長州藩内における、それも規模のあまり大きくない戦闘ではありました。しかし、この戦いで尊王派が勝利したことが、討幕へと直結し、明治維新を迎える大きな原動力になっていったといえます。この後、長州藩は、幕府との戦争を念頭においた、軍備の近代化を急速に進めていきました。もはや、従来の尊王攘夷ではなく、討幕・近代化の方向に進んでいたのです。
2007年10月07日
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第一次征長戦で、幕府に対し服従を示した長州藩。藩の実権も、俗論党と呼ばれる保守派が掌握しています。数ヶ月前まで、尊王攘夷の急先鋒だったはずの長州藩ですが、蛤御門の変以降のわずかな間に、その状況は一変しました。しかし、こうした藩内情勢の中、再び、尊王攘夷派が主導権を取り戻します。それは、高杉晋作が挙兵し、俗論党政権を打ち倒した事によるものでした。高杉晋作の藩内クーデターです。以下、高杉挙兵に至るまでの、状況について。晋作は、俗論党政権が成立し、尊王攘夷派への弾圧を始めたと見るや、九州福岡へと逃亡、尊攘派勢力を集めて、再起を図ろうと画策をしていました。しかし、勢力を集結させるに至らず、密かに、一人下関に戻ってきます。潜伏しながらも、奇兵隊に対し決起を呼びかけるためです。当時の奇兵隊は、俗論党政府から解散命令が出され奇兵隊総督の赤根武人は、俗論党政府との妥協を図る道を模索していました。俗論党の弾圧により、奇兵隊も以前の勢いをなくしていました。晋作はそうした奇兵隊に、再び火をつけようとしたのです。奇兵隊。実際に、その実権を握っていたのは、総監という職を務めていた山県狂介でありました。総督の赤根武人は留守にしている事が多く、隊務を山県に任せきりにしていたためです。晋作は、九州に逃亡する前からも、狂介に対し決起を促し続けていました。山県狂介は、足軽の家の出で、吉田松陰門下というほどではありませんが、松下村塾に数日来た事がある、ということから藩内で、松門系に属していました。後の、総理大臣山県有朋。明治陸軍・明治国家体制の創設に大きな影響力を持ち、明治政界の大御所となった人です。一方、晋作は奇兵隊の創設者ではありましたが、創設後、ほどなく、隊の運営を人に預け、自らは奇兵隊の運営から離れていました。隊の中では、晋作の人気はまだ高いものがあるものの、実質、奇兵隊に対しては何の権限もありません。奇兵隊を動かすには、隊を掌握していた山県狂介を説得するしかありませんでした。「このままでは、奇兵隊も諸隊も自壊する。長州藩も滅びる。この高杉とともに決起しないか。」と、晋作が説得します。しかし、山県も隊士たちも、長州藩36万石を相手に廻して、とても成功はおぼつかないと言い同意しません。再三の説得にも、慎重な山県は兵を挙げようとしません。「もう頼まん。ただこれまでの交誼に免じて馬を一頭貸してくれんか。これから萩に行き、殿を諌める。・・・万一、俗論党に捕らえられ殺されても天命というもの。」晋作は、最後まで熱誠をこめて訴えましたが、通じず、奇兵隊はついに動きませんでした。しかし、この時、わずかながら晋作と行動を共にしようとしたものがありました。一人は伊藤俊輔。この時、力士隊の隊長職が空席になっていた事から、隊長となっており、力士隊を率いています。もう一人は、石川小五郎。遊撃隊の隊長です。2隊あわせて、総勢80名あまり。晋作は、ついに、この人数で挙兵する事を決意します。晋作は兵を率い、まず、功山寺にむかいました。早朝の功山寺、昨夜からの雪におおわれ、この時一面の銀世界だったといいます。元治元年(1864年)12月15日のこと。八月十八日政変で長州に落ちてきていた、三条実美ら五卿を訪ね、挙兵のあいさつをするためです。(三条ら五卿は、幕府側からの命令で九州へ移ることが決まっていましたが、 この頃は奇兵隊に護衛されて、功山寺に仮寓していました。)晋作は、五卿を前にして、今回の挙兵の趣旨を述べ、出陣の酒をあおりました。これは、晋作にとって、私兵ではなく、義兵をあげるという意味合いを持たせるための、儀式でありました。酒を飲み終えるや、晋作は「いまから、長州男児の肝っ玉をお目にかけます。」と言い放って出て行ったといいます。何か、芝居の台詞のようで、作り話のような感じがしますが、実際に、この場面で、そう言ったようです。決死行を前にして、かなりの、高揚感が晋作にあったのでしょう。功山寺の門前には、奇兵隊の参謀が駆けつけていました。「高杉さん、今日の出兵は見合わせてくれ無謀すぎる。みんな死ぬぞ。」晋作の挙兵を止めにやってきたのです。晋作は、それには答えず、馬に鞭をいれ駆け出しました。総軍80名も、それに続いて駆け出しました。晋作のとった作戦は、まず、下関の馬関奉行所を襲撃すること。実際には、ここの奉行とかけあい、戦うことなく、当座の軍資金と食料を入手することに成功します。次には、三田尻の海軍局を狙いました。ここには、長州藩の3隻の軍艦が停泊しています。折からの、幕府への恭順を示すためとして、これらの軍艦は、臨戦態勢を解除しておりました。そこへ、晋作を始めとする決死隊20名が急襲。船将たちをおどしあげて、軍艦を奪います。晋作たちは、癸亥・庚申・丙申の3隻の軍艦を手に入れ、下関に回航してきました。この情勢を聞くや、奇兵隊は沸き立ちました。決起すべきである。隊士の声が強くなり、山県もついに挙兵に踏み切る事を決意します。元治元年(1864年)12月18日。奇兵隊が萩に向けて、進軍を開始しました。これより、長州藩内戦争が、本格的に始められることになるのです。
2007年10月01日
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西郷隆盛はワシントンとナポレオンを尊敬し、自宅の居間にも2人の肖像画を掲げ、2人の話をする時も敬称で、"殿"をつけて呼んでいたそうです。その中でも、特に尊崇していたのがワシントン。「ナポレオン殿は、功業の面では大英雄であったが、 後には、私欲に心を汚しなされて、功業ついに空しくなられた。 ワシントン殿は、終始一貫私心なく、誠に美しい心事で生涯を終えられた。」西郷という人は、無欲・清廉という事を第一義に考えていた人で、ワシントンが、自己の持ち得た権力を一族に継承させることなく、一代限りの大統領制を始めたことから、彼を理想の人として考えていたのでしょう。・・・以上は、余談でありますが、第一次征長戦において、西郷はめざましい活躍をみせます。生涯の中でも、この頃が、彼の全盛期のひとつではなかったか、そんな感じすらします。第一次征長戦。蛤御門の変で、御所に対し兵を向けた長州藩を懲罰するために、幕府が諸藩の兵を集めて出兵した事件です。西郷は、これに参謀として参加し、その戦略・工作の一切を、彼が取りしきりました。元冶元年(1864年)7月、幕府は長州藩追討の勅命を朝廷から受け、在京の諸藩に対し、長州出兵命令を下します。征長軍総督は、尾張藩主徳川慶勝。慶勝は何度も固辞しましたが、説得されて、結局、無理やり押し付けられたような形で就任しました。そして、参謀には、薩摩藩から西郷隆盛が選ばれます。10月、大坂城で軍議が開かれました。征長戦をいかに進めていくべきか、総督の徳川慶勝は、その方針・考え方について、西郷に意見を求めました。ここで西郷は、この長州征伐のように国内で内戦を行う事は無意味であることを述べ、そうではなく、長州の支藩である岩国藩に長州藩を説得させ、武力を使わずに、恭順させるという構想を示しました。西郷の頭の中には、幕府が考えているように、長州藩を潰すという考えはすでになく、又、内戦により、欧米列強につけ込まれる隙を与えてはいけないということも念頭においていました。これらの考え方は、先の勝海舟との会談により、啓発されたことでもあります。西郷は、それが一番の良策であるということを総督の慶勝に進言しました。慶勝も、その進言を諒解し、征長に関わる一切の工作を西郷に委任することになります。ここから西郷は、広島・岩国・下関・大宰府等へと諸方を廻り、息つく間もなく、周旋・説得に走りまわりました。まず、岩国では、岩国藩主の吉川監物と会談。西郷は吉川に対し、ここにきて、無意味な抵抗を行うことは愚策である旨を話し、幕府に恭順すべきであると説得を行いました。そのための条件としては、一、蛤御門の変の首謀者、三人の家老、及び四人の参謀を処罰すること。一、八月十八日の政変で長州に落ち延びた、三条実美ら五卿を他藩に移すこと。一、山口城を破却すること。(五卿は、元々七卿でしたが、1人は病死、1人は行方不明になり今は5人が残っていました。)これらの条件を守るならば、征長軍を解兵させるよう、総督に働きかけると約束したのです。吉川は、その西郷の提案を受け入れ、本藩の長州藩に対し、西郷が提示した条件を遂行するよう説得する事になりました。この頃、長州藩では、尊王攘夷派の勢力は全く衰え、俗論党と呼ばれる保守派勢力が、藩政を掌握していました。吉川は、西郷からの意向を長州俗論党首脳に伝え、説得します。長州藩もこれを受け入れ、蛤御門の変の首謀者であった、福原越後・益田右衛門介・国司信濃の3家老を自害させ、その首を持って、広島の征長総督府に行き、陳謝しました。ただ一点、五卿の移転に関してだけは、なお、事態が紛糾します。奇兵隊などの、尊王派があくまで抵抗を示したためです。しかし、西郷はここでも、下関や大宰府などを飛びまわって、説得につとめ、結局、五卿も大宰府へ移されることが決まりました。12月、総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられ、第一次征長戦は終了します。このように、第一次征長戦は、結局、西郷のとりまとめにより、実際に戦闘が行われることもないままに、終了しました。又、幕府に恭順を示したことで、長州藩も、そのままの形で残されることになりました。しかし、このことが、長州藩を討幕勢力として、生き返らせることになっていくのです。
2007年09月17日
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勝海舟のもとで、神戸海軍操練所の塾頭として活躍していた坂本龍馬は、勝の使いで、西郷隆盛を訪ねました。元治元年(1964年)8月のこと。勝が西郷はどうだったかと聞くと、龍馬は「西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれほど大きいかわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と釣鐘に喩えて、答えたといいます。勝も、この人物評に感心したそうです。幕末の政局の行方・・・。その鍵を握っていたのは薩摩藩でした。薩摩は、元々公武合体派で急進的な尊王攘夷主義を掲げる長州に対して、徹底的に対抗し続けてきた経緯があります。さらに、八月十八日の政変で、会津藩と手を組んでからは、なお一層、反長州の立場を鮮明にし、蛤御門の変では、幕府側に立って長州を京から撃退しました。しかし、このように幕府側に立ち、反長州の中心勢力であったはずの薩摩藩が、蛤御門の変のあとくらいから、その方針を急転換します。なぜか、反長州の色合いを弱め、幕府よりの立場から離れていきます。こうした、薩摩の急激な方針転換。そのきっかけとなったのが、西郷隆盛と勝海舟の会談だったのではないか、と思われます。この時期くらいから、薩摩の幕府離れの傾向が見られはじめるのです。勝と西郷の会談は、元治元年(1964年)9月のこと。この時期、西郷は、薩摩藩の代表として、対長州政策など、幕府の施策にも関与していました。西郷は、長州処罰については、国替えも含めた厳罰に処するべきであると考え、その取りまとめに奔走していました。しかし、幕府が中々動かないので、その様子を聞きたいと思い、当時、軍艦奉行の地位にあり、幕府の切れ者と評判の高い勝海舟を訪ねたのです。2人は、これが初対面。勝は、この会談で西郷に、幕府にはもう、政治を取りしきる力はない、むしろ、雄藩が連合して国政を動かさなければいけない。という話をします。勝は、手厳しく幕府の内情を話し、西郷もこれを聞いて驚きました。さらに、雄藩連合も(先の参与会議のように)幕府が入るとまとまらないので、雄藩のみでまとめるべし、という構想を述べます。そして、勝の持論でもある、挙国一致論。西欧諸国が、隙あらば日本を植民地にと狙っている中で、勤王や佐幕などは二の次で、今は、国内で内輪もめをしている場合ではない。こうした、話を聞いて西郷はいたく感銘を受けたようでした。国元にいる大久保一蔵にあてた手紙の中でも、勝のことをほめたたえて、「ひどくほれ申候」と書き送っています。勝と西郷との出会い。このことは、幕末史に少なからぬ影響を与えていくことになります。一方の、勝海舟は、そうした中、やがて幕府首脳から、にらまれるようになりました。神戸海軍操練所に、多くの浪士を入所させていたこと等を理由として、失脚させられます。幕府は、駄目であるなどと放言していたことが、幕府首脳にも漏れたのかもしれませんしなにより、幕府権力を強化し・反動化し始めていた幕府には、勝の存在は邪魔であったのでしょう。10月、勝は、幕府から江戸に戻るよう命令を受け、11月には、軍艦奉行の役を罷免され、屋敷に謹慎することとなります。それと共に、神戸海軍操練所も閉鎖されることとになりました。これ以降、坂本龍馬は、勝海舟の下を離れ、薩摩の西郷の下に身を寄せます。これも、勝海舟が西郷にあっせんしたものであろうと思われます。そして、こののち、勝海舟の意思を継いだような形で、坂本龍馬が、本格的にその活動を始めることになるのです。
2007年09月09日
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歴史とは、なかなか、直線的には進まないもの。四カ国艦隊との攘夷戦を終え、攘夷から開国へと、藩論を転換した長州藩でしたが、振り子が、大きく反対側に振れるように、次には、保守派勢力が台頭してきます。幕府から征長令が出され、その対応に迫られる中で、佐幕派の重臣、椋梨藤太を領袖とした保守派が藩政を掌握していきます。俗論党政権と呼ばれるものです。この政権は、封建制度の維持・継続を主張する守旧派の家老や上士層を、支持基盤とし、幕府との関係を重視する政策を進めていきました。さらに、彼らは、藩がこのような逼塞状態に追い込まれたのは、攘夷派(改革派)に藩政を任せたためであるとして、尊王攘夷派の閣僚・藩士を、徹底的に糾弾しはじめます。元治元年(1964年)9月。攘夷派が占めていた、現状の藩閣僚をすべて罷免し、彼らを次々と野山獄に投獄、さらには、斬刑に処していきました。尊王攘夷派の藩閣僚は、藩政の表舞台から完全に姿を消すことになります。尊王攘夷派の中心閣僚であった、家老の周布政之助も、こうした動きが出始めるや、すぐに、先んじて、割腹自殺を遂げました。井上聞多も狙われました。「井上は藩を滅ぼそうとしている。」彼は、幕府に恭順する事にも反対していたため、佐幕派からも睨まれていたのです。山口郊外の袖時橋付近。君前会議を終えて、夜道を歩いているところを佐幕派の刺客数名に襲撃されます。聞多はずたずたに斬られ、血みどろで、意識不明の重態となりますが、全身50針以上を縫う手当を受けて、なんとか、一命はとり留めました。残る大物は高杉晋作。晋作は、自分にも危険が迫ることを、察知していました。彼は、いち早く藩を抜け出し、九州福岡へと逃亡。ここで、尊攘派勢力を結集して、再起を図るための、画策をはじめます。俗論党の粛清は、さらに続きました。尊王攘夷主義の部隊、奇兵隊や諸隊に対してです。彼らは、これら諸隊をも解散させる機会を狙っていました。この時の奇兵隊総督は、赤根武人。彼は、隊の存続を図るためには、一時的にも俗論党と手を握るべきであると考え俗論党幹部と、接触をとり始めます。奇兵隊や諸隊も一時のような勢いを失ってきていました。明治維新まで、あと3年あまり、しかし、この時点では、討幕勢力は、まだまだ、幕府を脅かす大きな勢力にはなっていません。
2007年07月08日
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元治元年(1964年)8月5日。イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、長州側も前田村の砲台から応戦。下関戦争・馬関戦争とも呼ばれている、攘夷戦が始まりました。この頃、井上聞多は、長州が惨敗することは、良く分かっていながらも、徹底抗戦を主張し続けていました。未だに過激な攘夷主義を変えようとしない長州の体質を覆すためには、徹底的に叩きのめされた方が良い。そう考えていたのです。一方、長州藩首脳は、いつも優柔不断です。不利な戦況が伝えられてくると、すぐに、講和を進めてはどうかと家老が言い出します。聞多は、激した挙句、切腹しようとまでして、あやうく、高杉晋作に止められる一幕もありました。彼は、抗戦論も本気でありました。しかし、そうは言っても、下関の戦況は、日々、劣勢を深めていきました。奇兵隊も奮戦はしたものの、全く歯が立たず、ついに、すべての砲台と沿岸地域を、連合軍の陸戦隊に占拠されてしまいます。ここに至っては、降伏やむなし。藩首脳は、そう判断しました。聞多と晋作を呼び、講和の手筈を進めるように指示します。しかし、晋作が藩命には忠実なのに対して、聞多は藩主の言うことでも簡単には聞きません。なお、講和に反対しました。長州首脳たちの言う開国は、どこまで信念を持っているのか、疑問に思っていたからです。世子・毛利元徳から「以後、攘夷は捨て、開国を藩論とする。」約束を取り付けて、やっと講和に向けて働くことを了解しました。講和のための使節。その正使には、高杉晋作が選ばれました。筆頭家老・宍戸家の養子という名目です。宍戸刑馬と名乗ります。副使には、渡辺・杉という2人の家老。通訳には伊藤俊輔が指名されました。第一回目の交渉は8月9日。旗艦・ユーリアラス号の船上です。相対するは、イギリス艦司令長官のクーパー。晋作は「我こそは、長州藩家老宍戸刑馬である。」と名乗り、鎧・直垂に陣羽織、立て烏帽子という物々しい装束で現れました。長州側が「講和書」を手渡します。クーパーは、これを見て「降伏するとは書いていない、これでは全く問題にならない。」とはねつけます。しかし、晋作はこれでいいのだ、と反論します。「外国船の下関の通航は、以後差し支えないと書いているこれが、講和の意味である。降伏ではない、長州藩は敗けてはいないのだ。」なにを言うか、これだけ砲台を占拠している、というクーパーに、「貴軍の陸戦隊は、せいぜい3000人であろう、当方は、防長2州で20万は動員できる、本気で内陸戦をすれば、貴軍が負けるのである、であるから、今回は講和を申し入れに来たのだ。」これを通訳から聞いた、クーパーは声を上げて笑ったといいます。イギリス側通訳のアーネスト・サトウは、こうした、晋作の傲然とした態度・様子について、好意を含めた表現で「まるで、魔王のようだった。」と書き残しています。第二回目の交渉は翌々日。しかし、この日。晋作こと宍戸刑馬と通訳の伊藤俊輔は、交渉の場に現れませんでした。「宍戸は何故来ない」と怒るクーパー。実際の所は、2人とも行方不明になっていた為でした。長州藩内の事情によるもの。藩内の過激攘夷論者が、講和をすると聞いて憤激し、「洋夷に対して降伏するとは、売国行為である。高杉と伊藤を斬る。」と叫び、山口の藩上層部に詰め寄ってきたのです。そのため、高杉と伊藤は姿をくらましました。攘夷家にとりかこまれた、藩首脳たちも動揺し、「これは、高杉と伊藤が勝手にやったことである。」と言い逃れを始めます。これを聞いた井上聞多は下関から駆けつけ、藩の腰の弱さをなじり、高杉と伊藤を保護するよう約束を取り付けました。しかし、8月13日。幕府から長州征伐の部署と予定が発表されました。このことにより、風向きが変わります。対幕戦を目前にした今、外国との戦いは早く決着したい、そうした、空気が長州に広まり、四カ国との講和を是認するという、藩内世論に変わっていきました。それと、第二回目の交渉では、何一つ話が進まず、宍戸が来ないのであれば、藩主を出せと要求されました。藩主を出すわけにはいかない藩首脳も、是が非でも高杉に出てもらいたいと高杉の居場所を探しやっと、2人を探し出しました。そして、第三回目の交渉です。またも、前回と同じ異装で"宍戸刑馬"が出席しました。この講和の大きな議題は2点。賠償問題と彦島割譲問題です。賠償金について、四カ国側は300万ドルを要求。36万石の長州藩が50年かかっても払えない巨額です。「この攘夷戦は、わが藩の意志で行ったものではない、幕府と朝廷の命令によって行ったものである。その賠償金は幕府が支払うべきものである。」と晋作は主張。幕府と朝廷から出ている"攘夷命令書"を見せます。「わかった。賠償金のことは幕府に交渉する。」とクーパーは了承します。もう一つの彦島割譲問題。彦島は下関に浮かぶ小島。この島を、戦いの抵当として四カ国共有の租借地にしたいという要求です。西洋諸国に蹂躙されている上海を、実見したことのある晋作は、その要求の本質を直感しました。1島たりとも、譲るわけにはいかない。そう考えました。ここで、晋作は、「そもそも、日本国なるは・・・」と気が違ったようにわけのわからないことを話し始めます。「高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし、つづいてイザナギ・イザナミなる二柱の神現れまして、天浮橋に立たせ給い天沼矛をもって海をさぐられ、その矛の先からしたたる、しずくが島となったまず出来たのが淡路国のおのころ島である。・・・・」古事記・日本書紀の講釈を、延々と始めたのです。通訳の伊藤もアーネスト・サトウもどう通訳してよいのか解らず、まわりの、皆はあっけにとられるばかり。話は、アマテラスオオミカミの代になり、天孫ニニギノミコトへ神勅を下して・・・ と留まるところを知りません。ついに、クーパーも音をあげ、租借のことは撤回すると取り下げました。この時の事を振り返って、後に伊藤博文は、「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」と言い、晋作の機転に感謝したといいます。こうして、四カ国と長州の間で調印が行われ、講和が成立しました。今回の事で、逆にイギリス側は、長州に好感を持ちました。幕府との折衝では、いつも、その態度の煮え切らなさや、約束を守らない嘘つき外交に、業を煮やしていましたが、長州は違うと感じました。その態度は明快で、言った内容は信用できる。そう感じたのです。薩英戦争の時の薩摩もそうでしたが、長州も、これ以降、英国と協力関係を深めていくことになっていきます。
2007年06月30日
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駐日英国公使のオールコックは、各国の軍艦を集めて、臨時に連合艦隊を結成し、共同して長州を攻める事を考えていました。長州が下関で砲撃を続けているため、外国の船は上海から横浜にくるのに、瀬戸内海を通航できず、遠回りしなければならなかったので、どの国も困っていたためです。オールコックの呼びかけに対し、アメリカ・フランス・オランダが賛同。それぞれが、出撃する軍艦を準備し始めました。隠密のうちに帰国した井上聞多と伊藤俊輔が、横浜の英国領事館に駆け込んだのはちょうど、そんな頃でした。2人は、オールコックと面会することに成功し、イギリスから帰国してきた経緯を説明しました。さらに、諸国が連合して長州を攻撃する準備をしているという話を、ここで聞かされ、2人は驚きます。長州に戻り、西洋諸国の実力を話し、攘夷の無謀なことを説明して、排外的な政策を転換させたいと考えている。だから、四カ国艦隊の攻撃は延期して欲しいと2人は訴えました。オールコックにとっても、戦いに至らずに解決できればその方が良いわけで、2人の願いは聞き入れられました。イギリス軍艦によって、長州まで送ってもらうこととなり、四カ国代表から、長州藩主へ宛てた覚書も預かりました。こうして、井上と伊藤は山口に到着。元治元年(1864年)6月24日のことでした。6月27日には、井上の懇請により君前会議が開かれました。その席上。井上は、四カ国の連合艦隊が、長州に攻めてくることを話し、外国船への砲撃をやめることを、諸国に対し約束するよう訴えました。さらに、西欧諸国の事情を話し、攘夷の無謀を説き、攘夷を捨てて、開国すべきである との意見を述べました。しかし、居並らぶ藩の重臣たちは、話は聞いてくれるものの、ならば、そうしようとは言ってくれません。例えば、「テレグラフ」(電信)というものがあって、何千里もの距離をわずか2~3時間で通信できるという話をしても、「偽りを申すな」とばかりに、嘲笑され、信用してもらえませんでした。井上は、涙を流がさんばかりに必死に説きましたが、ついに、藩の重臣たちを納得させることはできませんでした。今さら、攘夷の方針を、変えるわけにはいかない。会議での結論でした。そうした間に、井上が帰国していることが、藩内に知れわたり、外国の手先・スパイである、2人を斬るべし、などと激昂する者も多く現れ、不穏な空気が、広まり始めました。藩首脳は、そうした藩内の空気を配慮して、あわてて、再度、攘夷実行の布告を発表します。しかし、7月。京へ向っていた長州の軍が、戦闘に破れ、長州へ敗走しているとの知らせがもたらされました。蛤御門の変です。さらに、長州は「朝敵」とされ、長州追討令が発せられたという知らせが届き、また、四カ国艦隊が、長州に向け進軍を開始した、との知らせも入ります。長州藩は、ここに窮しました。これまでの、無謀な、行き過ぎた行動により、今や、日本全体と西洋諸国を敵に廻してしまう事になったのです。7月26日の君前会議。藩首脳の方針は、腹背に敵を抱えた今となっては、とても外国と幕府を両面に迎えて戦うことはできない。まず、四カ国艦隊に対して、止戦交渉をするしかない。というもの。井上にその交渉役を命じますが、今度は、井上はこれを拒否。「前の君前会議で、あれほど攘夷の無謀を説き、やめるように訴えたのに、ご歴々は、たとえ焦土と化しても攘夷の方針は変えないと豪語したではないか。今からでは、交渉しても、もう遅い。」「京からの敗報に接したとたんに、攻撃をやめるように外国と交渉しろとは、無責任もはなはだしい。」ここに至っては、藩が滅亡するとも、徹底抗戦するしかないと主張します。一端、かんしゃくを起すと、手がつけられなかったという井上聞多。英語が話せて、イギリスとのつながりを持っている井上・伊藤でないと、交渉を行うこともできません。そうこうするうちに、ついに、四カ国艦隊が下関海峡にその威容を現します。この段階の長州藩・・・。久坂玄端は蛤御門で戦死。桂小五郎も蛤御門の戦闘の中、行方不明となっており、高杉晋作も、来島又兵衛を制止しに行ったまま脱藩した罪により、囚人となっていました。井上や伊藤のかつての同志だったものたちの、ほとんどが、今はいません。2人は、完全に孤立していました。しかし、藩はこの窮状の打開を図るため、ここで、再び高杉晋作を起用することを決定します。四カ国艦隊を相手にまわした、彼らの奮闘がさらに続いていきます。
2007年06月23日
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幕末、長州藩は極秘のうちに、5名の留学生をイギリスに送っていました。尊攘派の勢いが、最も強かった時期。 文久3年のことです。この留学生派遣を企画したのは、松下村塾系の家老、周布政之助。そして、桂小五郎・久坂玄端でした。彼らは、攘夷を主張していた中心人物であるにもかかわらず、一方では、西洋の進んだ近代文明を取り入れて、列国に対抗できる力を持つことが必要である、という認識を持っていました。そして、この留学生の中には、井上聞多(後の外務大臣・馨)と伊藤俊輔(後の総理大臣・博文)の2人も入っていました。井上と伊藤は、落ちこぼれの放蕩書生という感じで、周布の求める留学生候補には、全く入っていなかったのですが、井上聞多が、どこからか、この話を聞きつけて、半分、周布を脅すようにして、強引に留学生にもぐり込んだのでした。井上聞多は、長州藩の名家の出身。はねっかえりな性格で、吉田松陰の門下では無かったものの、高杉晋作ら松陰門下生とも、親しくつきあっていました。一方、伊藤俊輔は、貧しい百姓の出身。桂小五郎の従者を務めたことで、やっと足軽程度の身分を得ることが出来た人です。わずかながら、松陰門下であった時期があったため、松下村塾グループの仲間入りをしていました。この2人は、身分が全く違うものの、波長が合うのか大の仲良しで、共に、尊王攘夷活動に参加し、高杉・久坂らと品川の英国公使館焼討ち事件にも、加わっていました。そして、2人とも、なにより遊郭遊びが大好きで、藩の公金を使って遊び回ったりしていた仲でした。周布もこの2人をメンバーに入れるのに、不安はあったでしょうが、結局、彼らを含めた5人の人選を終え、イギリスへと送り出します。彼らは、服と髪型を洋装に改め、横浜を蜜出港、上海で船を乗り継ぎ、ロンドンへと向いました。井上と伊藤。元々、この2人は攘夷家でした。しかし、海外に出て、西洋近代文明の先進性と、強大さを目の当たりにした時、大きな衝撃を受けます。井上聞多などは、上海で西洋の艦船と、立ち並ぶビル群を見ただけで、「もう、攘夷はやめた。」と叫んだといいます。伊藤も、それと同様の感慨を持ちました。2人は、またたく間に、攘夷から開国洋化主義へと考えを改めていったのでありました。ロンドンに着いてから、2人はイギリス人夫婦の下宿に泊り込み、英和辞典を頼りに、英紙タイムズを読むなどして、英語の勉強に打ち込む日々を送りました。ところが、そんなある日。いつものようにタイムズ紙を読んでいると、”長州が下関で外国の艦船を砲撃””薩摩がイギリス艦隊と交戦”などの、記事を目にします。2人は、瞬時に「藩の無謀な攘夷を、やめさせなければいけない。」と思い立ちました。このままでは日本は滅びる、という危機感を抱き、即刻、日本へ戻ることを決意します。他の3人の留学生は、途中で留学をやめることに反対しましたが、2人の決意は変わりません。独断での帰国。2人のイギリスでの留学期間は、結局、半年あまりでありました。しかしながら、留学をやめて帰国した事は、この2人が、その後、明治政府の中心人物となっていくことにつながっていくのです。元治元年(1864年)6月。井上と伊藤は、横浜港に密入国。日本に戻ってきました。ちょうど、池田屋事件が起こる直前。蛤御門の変の、一ヵ月半前のことです。ここから、井上・伊藤両名は、長州藩を説得すべく決死の思いで長州へ戻って行く事になります。
2007年06月16日
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元治元年(1864年)6月。長州軍総勢およそ1800名は、京に向け周防三田尻を進発しました。「尊王攘夷」「討薩賊会奸」をスローガンに、これをのぼりに掲げての進軍です。総大将は毛利元徳。三軍に分けた各隊の指揮官は、譜代家老の福原越後・益田右衛門介・国司信濃の3名。来島又兵衛は先鋒隊長、真木和泉が軍師をつとめます。6月24日頃から、順次京に到着。山崎・伏見・嵯峨天竜寺に分かれて布陣しました。しかし、すぐに京の市中を攻撃せず、陳情の文書を朝廷に送り、今回の上洛の理由・長州藩の真情の説明を行い、これまでの処分は冤罪である旨を訴え続けました。しかし、交渉はまとまる事なく、7月18日、ついに交戦状態に入ります。迎え撃つ朝廷側は、すでに臨戦態勢が出来上がっていました。山崎には、宮津・大和郡山の軍。伏見には、会津・桑名・新撰組の軍。嵯峨天竜寺には、薩摩軍。がそれぞれ中心となり陣を構えています。御所の周りにも、各藩の兵が配置され、まさに、全国の諸藩から兵が集められているといった状態でした。朝廷側の総司令官は、一橋慶喜がつとめます。長州軍は、この重層なる敵陣の中へと突撃していきました。嵯峨天竜寺の一軍で、国司信濃が総指揮。来島又兵衛が隊を率い、猛烈な勢いで市中の敵兵を蹴散らしながら、一気に蛤御門まで迫りました。ここを守るは、会津と一橋。又兵衛の巧みな用兵もあって、戦局はむしろ長州側が優勢となっていきます。この戦局を一変させたのが、薩摩軍の総大将・西郷隆盛率いる軍勢の加勢でした。嵯峨天竜寺方面に向っていたところ、”蛤御門危うし”の報を受けて駆けつけて来たのです。決死の戦いを繰り広げている長州軍の様子を見た西郷は、来島又兵衛に注目しました。西郷は又兵衛を狙撃するように指示を出します。やがて、銃弾が又兵衛の胸を直撃し、又兵衛は落馬。観念した又兵衛は、激戦の中、ついに自害して果てました。又兵衛の死により、長州軍は雪崩れを打ったように潰走を始めます。大勢は決しました。ところで、山崎と伏見の長州軍はどうしていたかと言うと・・まず、山崎の軍。益田右衛門介が総指揮で、ここには、久坂玄瑞・真木和泉がいました。久坂玄瑞は、来島又兵衛などの出兵論に対し、最後まで反対し続けていた一人でした。しかし、事態がここに至るにおよび、玄端は最後の賭けに出ようとしました。天皇への直訴と集団諫死による訴えです。そのため、兵600を率いて御所を目指しました。ところが、その進軍は難渋し、淀川のぬかるみに足をとられたりして出遅れました。御所に辿り着いた時は、又兵衛が死んだ後で、戦いは、ほぼ終わっていました。玄端は鷹司邸に入り、天皇に直訴する機会を伺いますが、かないません。天皇に取り次いでもらいたいと懇願しますが、これも拒絶されました。この時、鷹司邸のまわりは、すでに諸藩の兵に取り囲まれ、多くの長州兵が屋敷の内外で戦い、戦死していきました。そんな中、玄端は、他の藩士には退却を命じ、彼は同志とともに自害します。同窓の寺島忠三郎と並び、共に切腹して果てたのです。また、天王山でも、真木和泉が同士十数名とともに自決しています。一方、伏見の軍。福原越後が総指揮。こちらも、大垣藩の軍と交戦して敗退。結局、御所まで辿り着くことが出来ませんでした。早々と大阪方面へ退却しています。 そして、桂小五郎。一人で、孝明天皇が御所から避難する所を直訴に及ぼうと待っていましたが、かないませんでした。燃える鷹司邸を背に、激闘の中を一人で切り抜けます。この後は、幾松などの助けを借りながら、姿をくらまし、京の町での潜伏生活に入ることになります。蛤御門の変。これにより、長州・尊王攘夷派の中心人物のほとんどが落命。尊王攘夷派の勢力は壊滅しました。この翌日。幕府は朝廷より、長州藩追討の詔勅を受けます。御所に兵を向けた事により、長州は「朝敵」となったのです。この後、長州にとっては、さらに追い打ちをかけるように試練が続きます。この同じ時期、米英仏蘭四ヶ国の連合艦隊が、下関に向けて進撃を開始していたのです。
2007年04月30日
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池田屋事件・・・。元治元年(1864年)6月5日。当時、一流の志士と呼ばれていた実力者の多くを、新撰組が一気に斬殺した事件です。これにより、明治維新が一年遅れたとさえ、言われたりもしています。その当否は別としても、有望な長州系の志士たちが志なかばで命を落し、尊王攘夷派がさらに追い込まれていく事になった、大きな事件であった事は間違いないでしょう。池田屋事件の背景には、京で活動を続けていた長州及び親長州派志士たちの暴発計画がありました。京の町に火を放ち、御所に乱入して、天皇を奪い長州へと動座するというもの。この挙の準備のために、親長州派の志士古高俊太郎が、桝屋という炭屋の主人になりすまし、武器弾薬を店の土蔵に蓄えていました。これが、新撰組に察知されて、古高が捕縛されたことが、事件の発端となりました。新撰組の拷問に対して、古高は白状することはありませんでしたが、連判状が押収され、参加する同志の名が知られます。やがて、新撰組は、6月5日に尊攘派が会合を開くという情報を入手、彼らは、その集まったところへ踏み込み、彼らを一網打尽にしようと動き始めます。以下、池田屋事件当日の様子について。まず、尊攘派です。彼らは、夜8時に池田屋に集まることになっていました。一番早く池田屋に来たのは、桂小五郎。しかし、まだ誰も来ていなかったため、知り合いのところへ寄ると言って、池田屋を出ます。このため、桂小五郎は事件に遭遇する事なく、難を免れました。ちなみに、桂は過激な行動には慎重な立場であったので、この時の会合では、時期尚早などを理由に計画を思い留まらせようとしていたものと思われます。その後、続々とメンバーが集結します。メンバーの中での中心人物はというと、この2人。宮部鼎蔵(肥後藩、肥後勤王党の中心人物、吉田松陰の親友で共に東北遊学した事でも有名)吉田稔麿(長州藩、松陰門下四天王の一人、松陰から最も評価されていたとも云われる逸材)他に、主な顔ぶれとして、杉山松助・広岡浪秀ら(長州)松田重助(肥後)望月亀弥太・北添佶麿・野老山吾吉郎・石川潤次郎ら(土佐)等20名余り。彼らは、古高捕縛を受け、計画を実行するか中止するかについて協議を行います。一方、新撰組。会津藩・桑名藩等にも、当日応援の部隊を派遣するよう要請していました。しかし、夜8時を過ぎても藩の部隊は動きを見せないため、近藤局長は、新撰組単独で行動を始める事を決断します。まず、探索部隊を二手に分けました。会合の場所については、確実な情報を持っていなかったためです。近藤隊は10名、土方隊の方は人数が多く20名ほど。但し、近藤隊には沖田・永倉など使い手を多く集めていました。夜10時頃、近藤隊が池田屋に攘夷派が集結している事を確認。近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人が池田屋内に斬りこみます。他の隊員は、逃走を阻止するために、邸のまわりを固める役割です。近藤・沖田の2人が、攘夷派が集まっている2階へと駆け上がり、「御用改めである。手向い致すと容赦なく斬り捨てる」と叫びました。そこから乱戦が始まります。終始変わらず、奮戦を続けたのは、近藤勇です。自慢の刀「虎徹」を振りかざし、あれほどの乱戦の中、取り立てて傷を受ける事もありませんでした。永倉新八も多くの敵と戦い続けました。しかし、途中刀が折れ、敵の刀を取って戦いました。乱戦の中、親指のつけ根に傷を受けたといいます。沖田総司は、剣の天才と云われる通りの戦いぶりでした。沖田の剣技を見せつけられて、相手も戦意を喪失したと云います。しかし、乱戦の中、突然の喀血に襲われます。これが、後に彼の死因となった肺結核のためのものかどうか定かではありませんが、終盤、喀血をしながらの奮戦が続きます。藤堂平助も乱戦が続き、刀の刃こぼれがすごかったといいます。敵に額を割られ流血、最後は戦線から離脱します。少ない人数で斬りこんでいった近藤たち、当初は苦戦が続いていましたが、やがて土方歳三の部隊が合流した事で、形勢が有利になりました。続いて、会津・桑名等からの援軍も到着。最後は、新撰組方が圧倒する状況で戦いが終わりました。宮部鼎蔵は、乱戦の中で奮戦するも、最後は自害。吉田稔麿は、池田屋を抜け出し長州藩邸まで行き援軍を求めましたが、藩邸内にほとんど人がいないため、加勢が望めず、同志を捨て置くわけにはいかないと言い、結局、再び一人池田屋に戻り闘死しました。この事件で新撰組の死者は即死1名、重傷から死亡したもの2名。会津等幕府側の方も死傷者が多く、即死10名余り、負傷者も50名を超えていたそうです。そして、尊攘派の死傷者は、即死7名、重傷・捕縛されたもの20名以上、その多くは、ほどなく絶命したと云います。京にいる尊攘派は、大きな打撃を受けることとなったのです。そして、この事件の知らせがもたらされた長州では。多くの同士が惨殺されたことを聞き、その怒りが頂点に達します。事件発生の10日後、ついに、京に向けての出兵が開始される事になるのです。
2007年04月28日
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