歴史一般 0
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奈良時代から平安初期にかけては、藤原氏がその権勢を確立していった時代でもありますが、その中でも、藤原氏自体が四家に分かれ、それぞれが、盛衰を繰り返していきました。藤原不比等が亡くなった時に、四人の息子 武智麻呂(むちまろ) 房前(ふささき) 宇合(うまかい) 麻呂(まろ)と二人の娘 宮子(みやこ) 安宿媛(あすかべひめ)がいました。娘たちは、それぞれ天皇家に嫁いでおり、四人の息子たちは、不比等の後を引き継いで政権を担いました。この頃の藤原四家の関係について、まとめたものが、次の略系図です。(藤原四兄弟と長屋王)不比等の死後、四兄弟は、時の天皇・聖武の妃であった安宿媛を皇后にして、自家の勢力を強めようと考えていました。ところが、皇族以外で皇后になった人はこれまでにないとして反対があり、その中心となっていたのが長屋王でありました。ここで、四兄弟は、政敵であり、当時上位の政権者でもあった長屋王の抹殺を企てます。長屋王の変です。長屋王は、謀反の企てがあるとして自殺させられ、そればかりか、その妃・子供までが、自殺に追い込まれました。長屋王亡き後は、安宿媛が正式に聖武天皇の皇后(光明皇后)となり、その後は、藤原四兄弟が政権を牛耳るようになりました。ところが、藤原四兄弟の政権は長くは続きませんでした。因果応報というべきでしょうか、この時期、天然痘が大流行。藤原四兄弟の全員が、相次いで病死したのです。こうした天然痘の流行やまた、聖武・光明の間に子供が生まれないこと等、これらは、長屋王の祟りであると考えられました。そうした中で、これらの鎮静を願って建立されたのが、東大寺の大仏であったのです。(藤原四家の成立)藤原四兄弟が相次いで病死。しかし、藤原氏の隆盛は、それでもとどまることはありませんでした。四兄弟の子供たちが、それぞれに勢力を伸ばしやがて、藤原氏は四家に分かれていくことになります。武智麻呂の系統が、南家房前の系統が、北家宇合の系統が、式家麻呂の系統が、京家と呼ばれました。この後、この四家が、順番に盛衰を繰り返していくことになります。(南家の全盛期・恵美押勝)この四家の中で最初に、勢力を強めたのが南家でした。中でも、仲麻呂は聖武の娘孝謙女帝と、光明皇后からの信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。仲麻呂は、彼の推す淳仁天皇を即位させ孝謙女帝からは、恵美押勝(そなたを見ると笑ましく思わすの意)の名まで与えられました。結局、彼は人臣では、初めての太政大臣にまで登りつめていきます。しかし、そうした中で、仲麻呂にライバルが登場しました。孝謙上皇の病を癒したことから、上皇の信任を得ることとなった僧の道鏡です。仲麻呂は、孝謙のもとで出世を続ける道鏡に対して兵を集め反乱の準備を進めました。しかし、孝謙は軍学者として名高い吉備真備を呼び、仲麻呂追討を命じます。仲麻呂は破れ、捕らえられたのち、斬首されました。(恵美押勝の乱)この事件の詳細は、以前に書いた関連記事 恵美押勝と道鏡 を参照下さい。仲麻呂の没落により、南家は急激にその勢力を失っていくことになりました。(式家の台頭・藤原百川)次に、繁栄したのが式家。その繁栄のきっかけを作ったのが百川(ももかわ)でした。百川は、孝謙(称徳)天皇が跡継ぎを定めないまま崩御した際、吉備真備らの反対をくつがえして、光仁天皇を擁立しました。これは、しばらく天武系の天皇が続いていたところに、天智系の天皇を復活させるという意味合いを持つ、クーデターでもあったのです。百川は、辣腕家として知られた人で、次の、桓武天皇を擁立させるように運んだのも、百川でありました。百川は娘の乙牟漏(おとむろ)を桓武の皇后にするなど、天皇家とつながりを強めていきます。以後の桓武朝においても、天皇の式家に対する信頼は厚く、平安遷都の際の中心勢力ともなりました。しばらくの間、式家の全盛期が続いていきます、(京家と北家)京家は、結局、最後まで振るうことがありませんでした。式家は、やがて衰退していきますが、藤原四家の中で、最終的に勝ち残っていったのが、北家でありました。最も遅れて繁栄期を迎えた北家でありますが、やがて、摂関政治を確立し、道長や頼通などの”わが世の春”を現出していきます。以上、ここまで、奈良時代を中心とした藤原四家成立の概略でしたが、次は、平安時代、いくつかの事件を点描していきたいと思っています。
2009年02月15日
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日本史の上で、貴族・公家社会の中心であり続けたのが藤原氏。平安時代には、次々と天皇家に皇后を送り込むことで、その外戚として栄華を極め、武家が政権を握ってからも公家として、宮廷の中心であり続けました。藤原氏の取ってきた政治手法というのは、その善悪は別として、ある意味とても日本的であるともいえ、現代に至るまでの日本政治に、受け継がれているようにさえ感じます。こうした藤原政権の基礎を築いたのが、藤原不比等でありました。これから何回かにわたって、藤原政権が確立される過程についてのことを、書いていきたいと思っているのですが、今回はその一回目。今回は、まず、藤原不比等について。藤原氏の始祖は鎌足。中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに、大化の改新を成し遂げ、律令制・中央集権国家の基礎作りを担った人物として有名でありますが、この鎌足の子が不比等です。しかし、不比等は、父鎌足の功績をそのまま引き継いだわけでは決してなく、不比等は、自分の代で、藤原氏の勢力基盤を築いていった人でありました。それというのも、鎌足の死後、天智から天武への政権の移行(壬申の乱)があり、不比等は天智系の人であったため、用いられることがなかったためでありました。天武(大海人皇子)は、天智の晩年には、互いに反目しあっていたため、不比等は、天武政権のもとでは、下級の官吏でしかなかったのです。しかし、持統天皇が即位してから、不比等は急速に頭角を現し始めます。政権の中枢に参画し、さらには、文武天皇、元明天皇が即位するにあたっては、その立役者にもなっていきました。大宝律令・養老律令を制定し、律令国家のしくみを日本に確立させ、また、平城京への遷都を推進したのも不比等でした。こうして、不比等が台頭してきた要因には、彼自身、とても知識があり、有能でもあったという事があります。しかし、それだけではなく、不比等は、一面、すごく権謀に長けた人でもあったのです。その一つが、天皇家との婚姻政策。不比等は、自分の娘を天皇家に嫁がせ、それにより政権基盤の強化を図りました。長女の宮子は文武天皇に嫁ぎ、宮子は聖武天皇の母となりました。末娘の安宿媛(あすかべひめ)も聖武天皇の妃となり、のちに人臣初の皇后(光明皇后)となります。不比等は、このようにして、後の藤原氏の栄華の基盤を着実に築いていったのです。そして、不比等の死後、その政権は、不比等の4人の息子たちに引き継がれていくことになり、その後、多少の浮沈を繰り返しながら、やがて、藤原政権は最盛期を迎えていくことになるのですが、この続きは、また、いつか。
2009年01月24日
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和気清麻呂は、帝位を狙う道鏡に対し、皇統の保全を守った人物として知られています。戦前には、楠木正成とならぶ勤皇の忠臣として称揚され、紙幣の肖像にも使用されていました。しかし、そうした戦前の英雄も、現在ではそれほど知名度はないようです。以下、和気清麻呂が後世に名を残した、宇佐八幡神託事件の概要です。神護景雲3年(769年)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という大宰府管内神係の長官を務めるものが、「道鏡を皇位に就ければ天下は太平になる」という宇佐八幡からの神託を受けた旨を奏上しました。道鏡を帝位に就けたいと思っていた称徳天皇は、これを聞いて喜び、さらに、世間を納得させるためには、この神託を確かめる必要があると考え、その使者として、和気清麻呂を宇佐八幡に派遣する事にしました。清麻呂は天皇の勅使として宇佐八幡に参宮。禰宣とやりとりして、神託を何度も訊き直し、最後に「わが国は君臣の分が定まっている。皇位には必ず皇族を立てよ。無道のものは払いのけよ」という前回と全く逆の内容の神託を引き出します。清麻呂はこれを大和に持ち帰り、奏上しました。この報告を聞いた称徳天皇は激怒し、清麻呂の処罰を命じます。清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられた上、大隅国に配流されることになりました。こうした、称徳天皇の清麻呂に対する処罰は、まるで子供のようです。何も名前まで変えなくても、と思うのですが、「恵美押勝」にしろ、彼女には自己の感情をそのままにネーミングする場面が多くみられます。この時清麻呂の姉、和気広虫も処罰されていて、「別部狭虫(わけべのせまむし)」と改名させられています。神護景雲4年(770年)に称徳天皇が薨去。それとともに、道鏡も失脚。下野国へ流罪となり、その地で亡くなりました。和気清麻呂もこれを機に罪を許されて、都に戻ってきました。清麻呂は当時最高の学者であり、人格者として衆望を集めていたともいいます。桓武天皇の時代には、実務官僚として重用されて高官となり、平安遷都の際にも進言し自ら造営大夫として尽力しています。神崎川と淀川を直結させる工事を行ったり、上町台地を開削して大和川を大阪湾に注ぐ工事を行う等土木事業にも手腕を発揮していたようです。
2006年10月07日
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奈良時代、孝謙(称徳)女帝は2人の男性を厚く寵愛しました。藤原仲麻呂(恵美押勝)と道鏡です。2人は、当時最高位の太政大臣にまで相次いで昇りつめ、権勢を誇りました。孝謙女帝が即位したのは天平勝宝元年(749年)。聖武天皇には男の子がなかったため、皇太子として未婚のまま育てられ、即位の時32才でした。父より大仏建立の事業を受け継ぎ、即位4年目の天平勝宝4年には、大仏開眼供養を行っています。孝徳女帝、最初の愛人は藤原仲麻呂。藤原仲麻呂は、不比等の長男武智麻呂の次男で藤原北家の出身です。学才に優れ、孝謙女帝から信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。仲麻呂は政変により次々と対抗勢力を押さえ込み、天平宝字2年(758年)には彼の推す淳仁天皇を即位させます。この時、太保(右大臣)に任ぜられ、孝謙帝から恵美押勝の名を与えられました。恵美押勝の名には、「そなたを見ると笑ましく思わす」との女帝の愛慕の意が込められていました。天平宝字4年(760年)には、ついに太師(太政大臣)にまで登りつめます。太政大臣はそれまで皇族が就くべき職であったため、人臣でこれに就任したのは彼が始めてでした。又、当時の官職名は太保・太師など唐風の呼び方が使われていましたが、これも、仲麻呂(押勝)が唐文明の信奉者であった事から、そのように改めたものでした。恵美押勝の全盛時代が続き、やがて彼は新羅への侵攻を計画しはじめます。そうした中、押勝にライバルが登場しました。僧の道鏡です。道鏡は河内の土豪の出身で、物部氏の子孫であるとも言われていますが、はっきりした素性はよくわかりません。僧としては禅行を良くし、宮廷内で禅師に任じられていました。孝謙上皇は近江の国で病に伏せた時、道鏡の評判を聞き彼を呼びました。当時の治療は加持・祈祷によるまじないの要素が強かったのです。これにより、孝謙上皇の病は癒え、この頃から道鏡をそば近くにおくようになりました。孝謙上皇の寵は、押勝から道鏡に移っていったのです。やがて、押勝もこれを知ることとなり、彼の傀儡である淳仁天皇から孝謙上皇に諫言させました。しかし、孝謙上皇はこれに対して激怒し、政治の事は淳仁には任せないと言い、自らは髪を切って尼となります。それと共に、道鏡を小僧都にと昇格させていきました。これに対し、押勝は兵を集め反乱の準備を進めました。しかし、密告するものがあり、孝謙上皇は軍学者として名高い吉備真備を召して押勝追討を命じます。押勝は一戦してもろくも破れ、近江から越前に逃れようとして捕らえられ、斬首されました。恵美押勝の乱です。一方の、淳仁天皇も廃位とされ、淡路に流される事となりました。孝謙上皇が再び皇位に就き、称徳天皇となります。称徳天皇のもと、道鏡はますます出世を続け、天平神護元年(765年)には太政大臣禅師、翌年には法王に就任します。法王という身分は、供御を受け、服食も天皇に準じたものを認められていて、まさに天皇と同格といえるものでした。さらに、これまでの唐風の官職名を廃止し、政策は仏教の理念に基づいて進められました。こうした道鏡の全盛時代は、称徳天皇の薨去まで続くこととなります。こうして見て来ると、やはり天皇の権威が強かった時代であった事がわかります。そのために、天皇の思いのままに人を取り立て、引き立てた人が強い権力を握ることが出来たといえます。又、これらの事件から、孝謙(称徳)天皇は好きになった男には徹底的に打ち込むタイプの女性であったことがうかがえます。権力と関係のない一般人であれば、良い奥さんになったのではないかと思うのですが・・・。
2006年10月01日
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あおによし(青丹よし)は奈良にかかる枕詞です。私はなぜか、この言葉から、青々とした甍(いらか)が連なる壮麗な新都の風景を思い浮べます。あおによしが奈良の枕詞となった語源が、そういう意味ではないとは思うんですが・・・奈良の都。平城京建都は710年で、元明天皇の代。大陸風の宮殿や寺院が建造され、飛鳥からも寺院が移築されてきたといいます。唐の都長安を模して、朱雀大路を中心に条里制の区画が行われました。当時としては最先端でモダンな大都、あこがれの都であったと思われます。ところで、奈良時代とはどんな時代だったのでしょうか。天皇の治世でいうと、7代で84年間。かなり短い期間でした。43代 元明44代 元正45代 聖武46代 孝謙47代 淳仁48代 称徳(孝謙の重祚)49代 光仁以上が奈良時代の天皇です。赤文字は女帝ですが、女帝の治世が続いた事も特徴的です。このうち、46代の孝謙と48代の称徳は同一人物で、一度退位してから再度即位しています。(これを重祚(ちょうそ)といいます。)奈良時代は、大化の改新以来進められてきた律令体制が確立した時代で、平城遷都の数年前には大宝律令が公布されています。天皇の権力が最も充実し、天皇制国家体制の最盛期であったと考えられます。そうした背景の中で東大寺大仏が建立され、古事記・日本書紀が上梓されました。一方、万葉集が編纂され和歌を中心に文学が隆盛した時代でした。柿本人麻呂や山部赤人といった歌聖と呼ばれた歌人が活躍し、庶民の貧しい生活が詠まれたり、山上憶良など社会派の歌人も登場しました。奈良時代、歴史の旅。秋晴れのいい天気ですし、若草山にピクニックにでも出かけましょうか。
2006年09月24日
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