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なんか頭が痛い。偏頭痛か? この1月17日に発表された直木賞を受賞した、『容疑者Xの献身』(東野圭吾著・文藝春秋社刊)を読了。ここ1週間ほど「ミステリー読みたい病」にかかっており、どうせなら話題作を、と思って買って読んだ。 1日で読み終わってしまった。 ある美人母娘が期せずして殺人を犯してしまい、それを天才数学者・石神が自身の命運を掛けて隠蔽することに。石神が仕掛けたトリック(アリバイ工作)に捜査陣は翻弄されるが、刑事の友人の天才物理学者・湯川がその謎を解いていく、というシナリオが骨格で、ミステリーの構成としてはなかなかのものだった。 トリック自体がなかなか目新しく、最後の種明かしは思わず「うむむ」とうなるほどのできばえだった。 ただこれはミステリーというより恋愛小説だなあ、という感想。 こうしたテイストが東野のウリなのだろうし、東野についているファンはそういうところ(恋愛小説っぽいところ)に好感を抱いているのだろうけど、私はちょっとそのノリがダメだった。トリック自体は秀逸。最後の石神の描写も見事だった。けど途中に挟まれる甘ったるいやり取り(心理描写等)は、バッサリ削ってほしかったな。 心理描写や物語の運び方(テンポ)は、森博嗣のサバサバした手さばきを見習ってほしい。 さらにいえば、「理系の天才」を描写する力は森のほうがある。これは旧帝大で工学部助教授(正確には大学院環境学研究科都市環境学専攻/旧工学研究科建築学専攻)まで務めた森と、単なる(大阪府立大)工学部卒の東野の差だろう、と断じてしまうのは学歴主義に捕われ過ぎた評価だろうか。 まあここらへんは単に私が湯川学(東野の小説に出てくる天才物理学者)よりも先に犀川創平(森作品に出てくる天才工学者)に出会ってしまったからかもしれないので、そのぶん差っ引いた評価を各人に勧めたい。 探しものは見つかっていない。 うーむ、ひょっとしてこの頭痛、寝不足か?(知り合いから指摘を受け、2月1日午前1時15分頃ちょい手直し)
2006/01/31
脳年齢41歳のショータですこんにちは。 2回目で30歳になり、3回目で24歳に。 早くも飽きてきたんですが、これはいったいどうすれば。 ※ ニートやフリーター問題に関して、以前内田センセが書いていた論考がずっと引っ掛かっている。 内田センセはニートを指して、「合理的に思考する人」と規定する。「労働とは本質的に、対価(賃金)を得るためにするものではない」という警句をもとに、「労働の価値を等価で受け取れないのならば、労働する意味は(ほとんど)ない」と。 だから彼らは働かないのだ、と。<以下引用>仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。このことは繰り返し学生諸君にお伝えしなければならない。賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。(中略)おおかたの人は誤解しているが、NEETは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。だから、NEETの諸君にどれほど資本主義的な経済合理性を論拠に学習することや労働することの肝要であることを説いても、得るところはないだろう。「勉強しろよ」「何のために?」「……就職するために」「何のために?」「……稼ぐために」「何のために?」「……金があれば、楽ができるじゃないか」「好きな時間に起きて、好きな時間に飯食って、好きなだけ好きなことができるのを『楽』というのなら、オレはもう楽だよ」「……」NEETにむかって学びと労働の必要性を功利的な語法で説くのはだからまるで無意味なことなのである。<引用終了> ニートという存在が資本主義社会の下で生まれ、いま、その存在自体が資本主義社会を壊そうとしている。内田センセが規定するように、ニートが資本主義社会の権化のような存在であるとするならば、それは資本主義というイデオロギーそのものの敗北なんじゃないかな、と私は考えている。 このような資本主義の崩壊過程(「別に欲しいものなんかないから働かない」という存在の多寡による斜陽化)は、20世紀を代表する大天才マルクスですら予想しえなかった。 斯様な喫緊の社会的課題にさいし、もしも我が家やその近辺で似たような状況に接したならば、と私は考える。私は愚民なので、先人の知恵を借りることくらいしか思い浮かばない。いわく。「彼らを子供扱いすることを止めたまえ。そうすれば彼らは子供であることを止めるだろう」 である。 探しものは見つかっていない。 子供や親類がニートになったらどうしよう、と考える人は「まだ」幸せだ。 私なぞ、いつ私自身がニートになるんぢゃないかとヒヤヒヤなんだが。 ヒモとかねー。超魅力的。
2006/01/30
週末。今日は暖かかった。なんだか心まで暖かくなる。単純だなあ。 保育園の保母さんをしている友人と少し話をした。 最近、シングルマザーが目に見えて増えているという話を聞く。 両親が揃っていても問題がある子はいるし、片親でもとても躾けの行き届いた子がいて、いちがいには言えない、という当たり前の話をつらつらと。 それとはまったく別の問題として。「それぞれの子供が、心地いいと思う他人との心の距離」についての話でひとしきり盛り上がった。 人は誰でも、ある一定の時期に自我が形成される。 それは心理学の知見では「他者を発見したとき」に訪れるとされている。「自分ではない何か」を見つけた時にはじめて、人間は「自分」を見つけるわけだ。それは無垢で丸出しだった「自我」というものを、自らが鎧う瞬間だと言い換えてもいいだろう。 その時に、その「自分ではない何か」とどのていどの距離をもって付き合うのが心地いいのか。その最初の立ち位置が重要だ、と、そういう話。 おそらくその「他者との心地よい距離」の初期認識というのは、「好きな食べ物」とか「好きな異性のタイプ」だとか、もっといってしまえば「母語」と同じくらい強烈に、人格形成に大きく関わるのではないかなあ。 ちなみに私は、自分では人懐っこいほうだと思っているし、わりとすぐ他者との心的距離を縮められるタイプだと自認している。しているのだが、私をよく知る周囲の人間は、たいてい「ショータは人見知りをする」という。なぜだ。 探しものをひとつ見つけた。 今日、新宿のビッグカメラでニンテンドーDSを購入。売り切れまくりで、新宿中探し回ってしまった。『脳を鍛える大人のDSトレーニング』も併せて購入したので、あとでやるのだ。 大変楽しみ。
2006/01/29
今日も寒かったねえ。 知り合いの18歳の女の子(モデルさん)が一人暮らしを始めるそうで、お茶しながら少し話をした。お父さんが心配しているそうで、まあ当たり前だわな。「彼氏と住むの?」と聞いたら笑いながら否定していたけど、どうなんだろうね。 彼氏いませんよー、と可愛く言っていたけれどもさ。「女が実家を出る理由」 なんてーのでなんかエッセイでも書けそうな雰囲気。 その子は「自立したいから」と言っていたけど、自立というのは一人暮らししたからといってできるもんじゃないと思うのだが。 とまれ、変な男に引っ掛かってなけりゃあいいのだけどもね。 なーんてすっかり視点が父親だ。もう10歳自分が若ければ、どうやって自分がその子の家に転がり込むか、とか考えたんだろうなー。 ※ 高島俊男センセがかつて、文春の連載(『お言葉ですが……』)で「雑誌連載のエッセイ記事というのは、暗闇に向かって石を投げているようなものだ」と書いていた。 だから読者からお便りを貰うのは嬉しい、と。 暗闇に向かって石を投げる、というのはなかなか当を得ていると思う。 ブログも、いやむしろブログのほうが(編集者がいないぶん)この表現に近いかな。 石を投げているんだから、それが誰かに当たったり、あるいは気づいて投げ返したり、声を掛けてくれたりいきなり殴り掛かってきたり、そういうこともあるだろうなあ、と。 大事なのはきっと、「暗闇の向こうには誰かいる」と感じ続けられる想像力なんじゃないかと思う。それが尽きたらきっと、ブログは書かれなくなるんだろうなあ。 ※『自由を考える 9.11以降の現代思想』(東浩紀、大澤真幸著/NHKブックス刊)を本屋さんでパラパラと。「僕たちには“匿名である自由”があるんだ」という記述が新鮮。 情報の追跡可能性が飛躍的に上がってきて、現代ではたやすく「名無しさん」を特定することができる。そのシステムの向上が、かえって「自分が固有の存在だと感じられなくなってきている」というようなパラドックスを生み出している、との東の主張は、なんとなくだけど首肯できる。 他の誰からも「お前はお前である」と名指されない自由。 そういう概念の発明が、現代では必要なんだ、と熱く説いていた。 ふむ。なるほど。 探しものは見つかっていない。 インフルエンザが流行っているようです。 皆さんご注意を。
2006/01/28
今日も寒かったですなあ。 冬の空は高いですね、なんとなく。 ※ ホリエモン逮捕の日から連日、飲みに出る日が続いている。 なのでニュース関係は新聞報道くらいしか目にしてないわけなんだけれども。 それでも気づいたことをいくつか。 株式市場というのは独特の「コード」が強くしっかりと存在している。まあすべての共同体はそういうもんなんだけれども、株は(株売買に興味がない私のような人間にとって)身近なようでその実しっかりと、専門用語という敷き居が設けてあったりする。 いっぽう今回のライブドア事件を端緒とした、ホリエモンの功罪や彼が社会に及ぼす(及ぼした)影響などを語るためには、そのコードを押さえておかないと語れないことに気づいた。一部写真週刊誌などが騒いでいる「ホリエモンと女性関係」などの記事が(普段よりいっそう)浅薄に見えるのは、おそらくそのせいだ。 彼がなにをしたのか。 彼のしたことのうちなにが法律に触れたのか。 これらを理解するためには、「株のコード」を理解し咀嚼する必要がある。 これはつまり、彼が徹頭徹尾「株式市場の人間」だということを表わしている。 株屋さんだったわけですね、彼は。てっきりIT屋さんかと思ってたよ。 こんな今さらなことを、三周遅れくらいで確認したりしている。 ※ 先日やっと、時間を見つけて『亡国のイージス』(劇場版)を見る。 原作のほうがよかったなあ。 映画版は女テロリストの存在だとか主人公如月の出自とか辺野古ディストラクションだとか、万事説明不足な印象。北朝鮮テロリストに中井貴一を配したのは適役であったと思うが、充分に魅力を引き出していたとは言えない。「よく見ろ日本人、これが戦争だ」 予告編にも使われたこの中井(北朝鮮テロリスト)のセリフは、原作のようにもう少し苦しい葛藤のなかで使ってほしかった。あれじゃどれが戦争だかわかんねーよ。「これが戦争だ」というセリフは、作中の俳優や観客も含めた、多くの人間が「これは(まだ)戦争ではない」、あるいは「戦争というものを理解していない」という状況で発してこそ意味がある。 テロリストの支配下に入ったイージス艦が東京湾深部を目指すという状況だけでなく、政府の対応や現場の自衛官の心象をもう少し丁寧に描いたあとでないと、「日本人は戦争というものをよくわかっていない」ということが浮き彫りにならない。残念。 副艦長役の寺尾聰も失敗に思える。 50代中盤でお涙頂戴の役柄を任されられる映画俳優が、人手不足だということなのだろうか。『半落ち』、『亡国のイージス』と、寺尾出演作は続いてダメだったわけで、『博士が愛した数式』もすでに結果が見えているような気が。どれも原作はそこそこよかったので少し悲しい。 最近、日本映画で「これは!」と思う作品に出会ってない。『バトルロワイヤル』はなかなかよかったが、『2』はいまいちだった。全般的に、(原作ではなく)脚本のせいだと思うんだがどうかなあ。バトロワは脚本というより深作監督の力技に痺れた、という感じだったし。 探しものは見つかっていない。 本日は遅い昼食。 焼き魚定食を食べながら、『チーム・バチスタの栄光』(海堂尊著/宝島社刊)読了。「2006年このミステリーがすごい」の大賞受賞作。選考数十秒で決まったそうだ。医療ミステリーで確かに面白い。2日で読んじゃった。これについては機会があればまた。
2006/01/27
ここ楽天広場でもちょくちょく話題になる、「表現の自由」と「コメントの削除」について考えている(なので、広場のなかで一番この議題がよく出てきそうなテーマにこの記事を載せておく)。 結論から書けば、私は「管理権が管理者にあるかぎり、コメントやTBの削除は管理者が自由に行なって当たり前だ」という考えである。 それで仮に卑怯だとか憶病者だとか言われるのは、明白な筋違いだ。 いやまあ言われてるかどうか知らんけど。よく見てないから。 つーか私自身はほとんど削除も制限もしないけど。変人だから。 これは、それがどのような記事であろうとも(例えば社会的、政治的、思想的な記事であろうとも)、そのサイトが論争を目的にして設置されている場合、あるいは当該記事が論争を前提としたものでないかぎり、ブログ執筆者にとって都合の悪い情報や気に入らない書き込みを制限するのはなにも責められることではないと考えている。 なぜなら「削除すること」も思想表現のひとつだと考えているからだ。「コメント削除は表現の自由の侵害になるのだから、オレの記事の検閲はするな」という方は、自分が書き込むことでそのサイトの管理者の「削除の自由(表現の自由の一種)」を犯すと主張していることを気づいていない。(と思う) これに対し、頑なに「それは表現の自由を統制するものであり検閲だ」というのは「自由」という概念を誤解している。むろん民主主義とはなんの関係もない。自由とはそもそも統制された上でしか存在しないし、民主主義社会における「表現(あるいは意見)」とは、一定の管理の上にしか成り立たない。まあ当たり前だわな。壁に書かれた落書きが、アートであるか淫猥画であるかは、(それが人類恒久の遺産とかでないかぎり)その壁の管理者が決めるものだ。 そもそもこの場合になお表現の自由を主張する者は、エロTBや明白な宣伝書き込みも制限するな、と言うのだろうか? まさかね。「人妻満載☆逆援助大募集(はあと)」とかいうスパムメールもフィルタリングすべきではない、と主張はしまい。 まさかとは思うが、個人管理のブログにおいて「社会的政治的思想的な書き込み」は、「(例えば)エロ表現」よりも守られるべきだという考えなのだろうか? なんか立川反戦ビラ訴訟の時の朝日新聞みたいな物言いだが、私は「表現内容によって“表現の自由”に画一的な階級をつけるべきではない」という考えをもっている。なのでもちろん、エロTBだろうと思想的な書き込みだろうと、一括的な区別は反対である。 ※ では削除や制限の際の判定基準はどのようなものであるべきか? 個人ブログにおいては、一定の規範(常識の範囲ね)をクリアしたうえでは、「管理者の好み(判断)」でいくしかないだろう。 管理者が迷惑だと思えばどんな内容だって迷惑だし、有益だと思えばどんな書き込みだって有益だ。もちろんこのサイトでは、エロTBや宣伝目的のみの書き込みはバンバン削除する(この前初めてエロTB一掃したんだけどね)。だってオレ的にすげえ迷惑だもん。 隣りの家から聞こえてくるのがモーツァルトのピアノ協奏曲であれば文句は言わないが(20番あたりだとなおいい)、読経や軍歌だったら「やめろ」と言うのと同じである。私には私の部屋で心安らかに過ごす権利がある。それと一緒だ。モーツァルトと読経のあいだに高低はない。ただ両者を区別するのは「聞く者の好み」だけである。 そもそも「他者の表現活動を、その内容によって高低をつける」というロジックで、ある表現を制限すべし、と主張してしまうと、いつ自己の信ずる表現活動が「低級だ」と見なされて制限されるかわからんではないか。馬鹿げた言葉狩りや発禁はこういうところから始まるのである。 どうしても書きたいことがありゃあ自分でブログ作ってそこで書きなさい。 ブログ記事でのコメントというのは、単行本における「注」のようなものだと私は考えている(事実私はそのように使うことが多々ある)。刊行済みの単行本に対して「それは間違っているから、俺の注をつけさせろ」などという主張をマトモに聞く出版社はない。 異論があれば自分で新たな反論本を書いて出版すりゃいいのだ。 ネットではそれと同等のことができるのである。 ※「なら(一営利企業である)マスコミが意図的に不都合な情報を報じないのもいいのか?」という反論はあろう。これには一定の理路を感じる(まあ事実として報じないことが多々あるわけだが)。 しかしこれはマスコミ側にも一応理屈があって、新聞なら紙面、雑誌なら誌面、TVなら放送枠という物理的時間的制限がある以上、その限られたスペースで「何を報じるか」というのは、営利企業である各マスコミの編集権に委ねられている。本来他人からギャーギャー言われる筋合いはない。 ここでポイントになるのはふたつ。 ひとつは「マスコミの紙面、電波は公共物である」という考えだ。例えばTVには、電波は公共物だと見なされるために放送法による規定がある。新聞だって雑誌だって部数の多いものは自主規制を求められるし、条例によって制限がかかる場合も多い。「18禁」とかいうアレね。「公序良俗」という概念を普遍化するのは難しいが(私は法原理主義者ではないので、憲法ないし民法における厳密な「公序良俗」概念を採用しない。ここでは「世間様に迷惑かけんな」という程度で使用している)、地上波TVと新聞は「公序良俗」の制限を受けるべきであり、雑誌、単行本、ネットはそのかぎりではない、という考えを持つ。 地上波TVはチャンネル数が限られており、夕飯時にニュースを見ていたら勝手にAVを流されたら困る(私個人は喜ぶかもしれんが子供がそばにいたら困る)。ここでもまた「オレ的に迷惑」というロジックに反するわけだ。 また新聞は宅配されるものだ。どの新聞を選ぶかは個人の責任において選択可能ではあるが、情報受信の受け手側の問題として、「本」や「ネット」よりも選択権が狭いこと(自ら進んで見る、読む、受け取る、という姿勢の問題ね)は注目されてしかるべきだろう。 一番手っ取り早いのは、マスメディア全般が「ジャーナリズム」だとか「社会の木鐸」だとかいう勘違いした看板を降ろすことにあろう。もっともこのメディア側の問題は本格的に議論するとさらに大きな問題が多々でてくるので、ここでは深く述べないが。 ※ 繰り返しになるが、私は私の管理するこのサイトでは、気に入らない意見はバンバン削除する。エロTBを削除するのと同じように、である。当たり前だ。私は私の管理するサイトで心安らかに過ごす権利があるのである。「読んでて不快だからひと言書きたくなった」とかいうヤツには、「じゃあ読むな」と言う。 読者には「二度とそのサイトに行かない」という選択権が存在しているのだ。「オレの文章は広く人民に伝えられるだけの、共有されうりかつ保護されるだけの価値がある」とかいう人のみが、「私(ショータ)の好み」を超え得る価値観なわけだが、さすがにそんな文章はこのサイトでは見たことない。むしろそういう書き込みなら歓迎しちゃうんだけどね。 探しものは見つかっていない。 莫迦は嫌いだ。
2006/01/23
特に学術的な知的好奇心を満たすために読みに行くサイトをいくつか。■内田樹の研究室:倫理学、哲学、フランス現代思想 最近売れっ子の内田センセ。早稲田駅前の成文堂では平積みになってました。 ほぼ毎日閲覧。神戸学院大教授■おおやにき:法哲学 憲法論で内田センセに書いていた反論があまりに見事だったので、それ以来ちょくちょく見に行っている。この人はいずれ(たぶん専門以外で)もっと有名になると思う。名大助教授。 ■ララビアータ:哲学 田島センセは、ともかく文章が美しい哲学者。更新が少ないのでたまに見に行く程度。昨年9月のアーカイブにある「希望」というエントリに一度TBを送らせていただいたことアリ。東北芸術工科大教授。■猫を償うには猫をもってせよ:文学 小谷野敦センセのブログ。単行本化された著作はだいたい読んでると思う。禁煙運動ファシズムへの反論を展開中。気持ちはわかるが勝てない勝負を挑むのはやめたほうが……。まあそれが『もてない男』以来の小谷野センセの芸ではあろうが。東大非常勤講師。■インタラクティブ読書ノート別館の別館:社会学 知り合いに教えてもらってからちょくちょく読みに行っている。2つ上の田島センセもそうだが、コメント関係に珍しく丁寧に返事を返すのは好感度高し。マンガやゲームの社会学的批評もしている。明大教授。 本日はまあ自分用リンク集代わりということで。 ところで大野センセは戻ってこないんでしょーか。 ※ そういえば。 仕事で乗った「稲毛タクシー」運転手の態度があまりに悪くて1日気分が悪い。 駅まで1メーターと知りつつ乗ったわけだが、行き先を告げた瞬間、「えぇー?」と声をだしやがった。 また、道路が混雑していたためいったんロータリーに入ると、我々を降ろしたあとそこから出るのに時間がかかるのはわかる。しかし、こちらも事情があるのだ。雨天だったし足の悪い同伴者がいた。それを承知していながら、ロータリーの遥か手前で「ここで降りてくんない?」とは何事か。 ずっと助手席の背もたれに肘をかけながらの運転態度といい、どういう社員教育をしているのか疑問だ。 探しものはまだまだ見つかっていない。 ねむい。
2006/01/18
ちと仕事で疲れている。 いや正確には、ドッと疲れる仕事上の重荷を背負うことになった。 メンドクセー。。。。。 ※ 仲良くさせていただいている中マロ姐さんのところで、少し前に「第一言語(の習得)」に関する刺激的なやり取りがあったようだ。ここね。リアルタイムで読んでいれば乱入したかったのだが、スカッと乗り遅れてしまったので若干悔しい。 でもたぶん、キチンとしたものを書くと長くなりそうで、それはそれで大変そうだなあ、コトが幼児教育だけにいい加減なこと書けんしなあ、とも思ったりもして少し複雑だ。 いま改めて当該記事をザッと読み返して、少しテーマとはズレるであろうが、吃音者(いわゆる「どもり」)のことを思い出している。 例えば「カ行」がどもる人は、「かわいいね」と言うべき場面、言おうと思い立った瞬間でも、最初の「か」が出てこないことを恐れて「美しいね」と言い換えてしまうことがあるそうだ。 言うまでもなく、「かわいい」と「美しい」はまったく別の描写であり、大きく異なる感情表現である。けれど言い換えてしまう。カ行を使うことを恐れて、どんどん「かわいい」という言葉を発話しなくなる。「言葉」は感情に強く影響を及ぼすから、「かわいいもの」を「美しい」と言った瞬間に、「かわいい、と思った発話者」自身も(もちろん言われた相手も)、その発話された言葉に影響を受けざるを得なくなるわけだ。 例えばこれは、日本語話者が英語で「切ない」という表現がわからなくて、かわりに「悲しい(ex.Sad)」と言ってしまう状況と近いだろう。 こうした吃音者の言い換えを「悲しく辛い状況だ」と、いまこのエントリを読んでいる方は思うだろうか? そう思った方は、では「A子さんはかわいい」という表現(文字でも音声でもどちらでもOK)と、自分のなかの「かわいい、と思ったA子さんへの感情」とがピタリと一致していると、断言できるのだろうか? 上記は少しわかりづらいかもしれないので、補則しておく。 例えば電車のなかで一組のカップルがいたとする。 女性が男性に向けて、「わたしのことを、どう思っているの?」と聞く。「愛している……うん、そうなんだけど少し違うな。いとしい……これもちょっと違う。大切だ……そうなんだけど言い切れていない。抱きたい……別の意味が入ってくるね。好きだ……薄っぺらい気がする……。一緒にいたい……そうなんだけどでも……」 と、延々と悩む男性。 これは鴻上尚史の著作から引いたエピソードだが、この男性の逡巡が、理解できるだろうか? 私にはできる。そしておそらくこの逡巡は、この男性の愛情(と広く呼ばれる心情)が深ければ深いほど続くだろうと思う。 言語学など学ばなくとも、あるいは表現や外国語を学ばなくとも、人は恋をすれば(第一言語だろうが第二言語だろうが)「ことば」と、その困難さに出会う機会がある。 そしてそれは、学問でもなく仕事でもなく、あるいは教育という切羽詰まった状況でもなく、ただただ「恋愛」という場面で出会うということについて、とてつもなく素敵なことなんじゃないかと私は思っている。 ※ 学生時代に、どもりの友人がいた。 そいつは私なんかよりよほどインテリで、だからなのか、初対面から「吃音などと言うな。どもりと呼べ」と言っていた。 友人はインテリだけどシャイで、当時クラスで一番軽そうで女の子に顔が広くて、酒のつきあいがよくてしかもバカっぽかった私に、ある日突然「同じクラスのYさんに告白したいのだが、一緒に来てくれないか」と頼んできた。 そんなもんひとりで行けよ、と言ったのだが、思い破れたあとに事情を知って愚痴をこぼせる相手がほしいんだろうなあ、と思い直して付き合った。私もヤツも、18歳で、しかも夏だった。 オレの友人でキミも知っているある男が、キミに大切な話があるんだと、そうだとわかるように含めてYさんを午後5時過ぎの空き教室に呼び出した。 ヤツをひとり教室に残し、私は扉の前で待っていた。 Yさんは約束の時間ぴったりに来た。 女友達を3人連れてきたけれど、私はひとりで中に入ってくれないかと頼んだ。チラッとなかを見るとYさんは私に振り返り、わかったと頷いてひとり扉を開けて入っていった。 扉の前に残された私と3人の女友達。 女の子たちは一瞬中を覗きたそうにしていたが、普段ユルユルとしていた私が「ゆめゆめそんなことは許さん」という顔をしていたからか、黙って私とは反対側の壁に寄り掛かって待っていた。 しばらくたって。 それはたぶん10分に満たない時間だったとは思うのだけど、ひどく長く感じられたあとに。「きっきっきっきっき……!」 という大きな声が教室から聞こえてきた。 私は祈るような気持ちになった。「きっきっきっき……キミのことが、好きだ!」 莫迦だよね。中学生じゃないんだからさ。 オレ、覗くなって顔してたのに、意味ねえじゃん。 そんなことを思っていたが、ヤツはすげえ。すげえヤツだ、と心の底から感動していた。 それからまたしばらく時間がたって、ヤツはひとりで扉を開けて出てきた。 ひとりで出てきたから、結果はなんとなくわかった。 入れ替わりに、3人の女友達が教室に入っていった。 チラリと見えた教室は、まだ夏の光が窓からずいぶんと差し込んでいて、逆光のためにYさんの表情はよくわからなかった。 一緒に階段を下りて校舎を出るとき、ボソッと「ダメだったわ」とヤツは言った。 そうか。まあ、しゃーない。 しかしお前、告白するにしたってあのセリフ選び、どうにかなんなかったのか。 無神経な私が笑いながらそう問い掛けると、そうだよなあ……とヤツは言った。 笑顔と泣き顔の中間の、変な顔をしていた。 じゃあなんて言えばよかったのか。 わかりっこねえなあ、なんて言いながら、駅に向かってトボトボと歩いていた。 今はまだ無理だけど、いつかわかるようになるんだと、信じて疑わなかった。 私もヤツも、18歳の、しかも夏だった。 私の探しものは、まだ見つかっていない。 ヤツがもう少し頭が悪ければ、「キミが」ではなく「あなたが」と言い換えただろうことは、しばらく後になってわかった。 そして私はたぶん、あの絞り出すようにでた重く鋭い告白の「ことば」を、カ行がどもると知っていて選んだその「ことば」を、一生忘れない。(追記) これもまあなんというか、全部実話です。「ヤツ」はいま職場で知り合った美人の奥さんと結婚して子供がひとりいます。可愛い女の子です。5年くらい前にうっかり酔っぱらって奥さんの前で「あの時」の話をしてしまい、その後メールでえらくイヤミな文章をもらいました。すまぬ。だって美人妻に「学生時代の恋話、聞かせて」ってせがまれたら断われんよ。 いっぽうYさんは夏休み明けにサークルの先輩とくっついたそうで、何度かカップルで歩く姿を見かけましたが、その後はよく知りません。女友達3人のうちのひとりとはその後何度か飲みに行くようになって、「Yちゃん、あの時泣きながら断わったんだよ」という話を聞きました。Yさんにとってもまた、18歳の夏でした。 ヤツの想いは破れたけれど、「ことば」は届いていたんだと、なんだか不思議に嬉しくなりました。(追記2) 本文中にリンクのある、中マロ姐さんにTBを送りました。 むうう、書き終えて読み返すと、ずいぶん主題とズレているような気もしないでもない。「子供を想う母の悩み」と比べてしまうと、えらく小さいなあ。まあ子供がいない小生では、どう書いたところで敵いっこないわけではありますけども。
2006/01/17
友人から「ぜひ見てみろ」と言われていた『猟奇的な彼女』をやっと見た。内容の説明するのが面倒なので、以下にリンク元の紹介文を引用しておく。<引用開始> 性格の優しい大学生のキョヌは夜の地下鉄ホームで美しい“彼女”と出会う。でもその時“彼女”は泥酔状態。酔っぱらい女は嫌いだったが、車中で倒れている“彼女”を放っておけず仕方なく介抱してホテルへ運ぶ。ところがそこに警官がやってきてキョヌは留置場で一晩を過ごすハメに。翌朝、昨夜の記憶のない“彼女”は怒ってキョヌを電話で呼び出した上、詰問するのだった。しかし、これがきっかけで、そのルックスとは裏腹にワイルドでしかも凶暴な“彼女”に振り回される、でもキョヌにとっては楽しい日々が始まるのだったが…。 <引用終了> 主演女優のチョン・ジヒョンがどこまでもキュートで可愛く、対する男優のチャ・テヒョンはひたすら弱く頼りなく、いわゆる両者の役柄が画面から滲み出るような絶妙な配役が光っていた。 内容は明るくコミカルななかに感動的なストーリーを折り込むという少女マンガ的な手法をとっていて、レビューを読むと「泣けた」、「ブームで終わらせてほしくない」などの賛辞が並んでいる。 私もなかなか感動しました。 ちょっと中だるみの印象があったけどね。 1時間半でまとめられる内容じゃないかな。 ※ 作中の「彼女」は上述にあるように「ルックスとは裏腹にワイルドでしかも凶暴」である。「殺すよ」、「死にたいの?」が口癖で、実際に気に入らないことがあると相手をグーで殴り倒す。 主人公キョヌがレストランで「コーラが飲みたいんだけど……」と言っても、「彼女」は「殺すよ?」と言ってコーヒーをふたつ注文してしまう。 そのことについて文化的、倫理的、道徳的、教育的な批判や意見を加えることは容易い。けど私はこれを見て、「あー、みんなこうして殴られたいんだろうなぁ」とただただ思ってしまった。 誰だってみんな、強くて美しいものには命令されたがっているのだ。 ※ 以前にも書いたけれども、私自身の性癖は悲しいくらいノーマルで、サディズムにもマゾヒズムにも傾倒していない(と思う)。けれどSMという趣向が、人間の奥底に潜む根源的な愉悦をこのうえなく刺激し、それはおそらく生でリアルな「人間性」というものの一片に光を当てているからだ、ということは確信している。 我々は誰しも(おそらくそれは人間が人間であるかぎり)、「強くて美しいもの」に虐げられたがっており、また自身を「強くて美しいもの」に仮装して、誰かを(何かを)虐げたがっているのである。 もっといってしまえば、個は、人間性は、人権は、人格は、どこかで(あくまで「どこか一片で」)毀損されたがっており、毀損したがっているものなのだ。 ※「人間性」というのはやっかいなもので、「強くて美しいものに虐げられたい」と思うと同時に、「正しさ」も手に入れたいと望む。 ちなみに「正しさとはなにか?」、「正しい状態とはどんな状態か?」というのを研究する学問を倫理学という。また「あるもの、ある事象」の意味を考える学問を形而上学といい、「あるもの、ある事象を正しい状態に導くためにはどうすればいいか」、を考える学問が論理学という。 形而上学、論理学、倫理学の3つをまとめたものが、「哲学」と呼ばれる学問だ。 話が少し逸れた。戻そう。 主人公キョヌを、凶暴で粗暴な「彼女」へと駆動するのは、「強くて美しいものに虐げられたい」という欲望だけではない。そこには「愛」という概念が存在し、「愛=正しい」という社会的装置が強烈な原動機として存在している。 どんなにムチャクチャで乱暴な「彼女」であっても、それに付き従うことが「愛」であるならば、(それは「愛=正しい」という等式ゆえに)「純粋な物語」として昇華されうる。 純粋に生物個体として考えた場合、「凶暴で粗暴で乱暴な彼女」に従順に付き従う行為は生存戦略として不利なことこのうえない。事実、作中でもキョヌは、「彼女」に付き従うことで何度か(社会的なものも含んだ)生命の危機に瀕することになる。 しかしこの「強くて美しいものに虐げられたい」、「正しいこと(愛)を求めたい」というふたつの人間性は、フロイトが「本能」として名付けた「自己防衛衝動」を、いともたやすく突き崩す。『猟奇的な彼女』が話題になったのは、従来「男→女」という構図であったこうした物語構造を、「女→男」とひっくり返して構成したところにある。冷静に考えれば「男→男」という構図だって「女→女」という構図だってあったのだが、なぜか「女→男」という構図はほとんど見受けられなかった(ジェンダー的視線で見れば、それは社会的抑圧があったからだ、となろう)。『ごくせん』、『女王の教室』など昨今話題になっているTVドラマも、もちろんこの系譜に連なる。『ごくせん』は「正しさ」を「道徳的」に担保し、『女王の教室』は学歴主義的学校教育にその「正しさ」を求めたにすぎない。 どちらも「教師」という権力者の暴力を、こうした「正しさ」(プラス強さと美しさ)でもって安易に肯定し、物語として昇華させているわけだ。 ※ 頭のいい人ならばお気づきであろうか。 これは構造的には、神風特攻隊や自爆テロと同じである。 対象物を入れ替えただけで、国、郷里、教義、信念、仕事、友情、家族愛、どれであろうとも同じことだ。それぞれの人がその対象物を「強くて美しくて、しかも正しい」と認めたのであれば、いともたやすく従順に付き従い、虐げられることをよしとし、自らの防衛衝動を投げ捨てる。 メロスが命懸けで走ったのは、友情が彼にとって「強くて美しくて、しかも正しい」と信じていたからである。 オレ? もちろんオレだって同じだ。 強くて美しくて正しいものには、従い、虐げられたいと思っている。そういうものを盲信したいと常に思っている。 だからナショナリズムや言語や、それに恋愛なんてものをいつも考えているわけだ。 ※ 探しものは見つかっていない。 こういう話を、一緒に『猟奇的な彼女』を見た女性に話してみた。 観劇後、ポロポロ泣いていた彼女はキョトンとしながら、「そんなことを考えているから、この映画をちゃんと楽しめず、感動が薄いんだ」と言われた。 なるほど。深いな。 オレはまだまだ信仰心が足りない。
2006/01/15
雨がザーザー降りですね。 私はいつから雨天が嫌いになったんだろうか。中学校低学年までは、雨が大好きだったのだけれども。 ※ 以前この日記にも書いたと思うが、先進国のなかでは例外的に、日本は雨の多い国だ。だから日本語には英語、フランス語、スペイン語、中国(北京)語などに比べて雨に関する語彙が多い。 パッと思い付く範囲で並べただけでも氷雨、五月雨、時雨、夕立、村雨、梅雨、秋霖、白雨、驟雨、小夜時雨、狐の嫁入りなどがある。万葉集にも古今和歌集にも雨を題材にとって詠まれた歌は多い。 近代文学作品でも雨をモチーフにした作品は多いのだけれど、なぜかいま頭の中をグルグル回っているのは 雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨が降る 雨は真珠か 夜明けの露か それともわたしの忍び泣き♪ と、唱歌(『城ケ島の雨』作詞/北原白秋)だったりして少し変な気分だ。 そういえば北原白秋の墓は多磨霊園にある。友人の墓参りに行った時、それを目印にして探した。 ※ 今日はちょっと別に書こうと思ったこどがあったのだが、長くなりそうなので保留。 探しものは見つかっていない。 最近、「頭がいい、というのはどういうことなんだろう」と再び考えるようになった。あんまり考えないほうがよさそうなのか。咳が止まらん。むう。
2006/01/14
今日は雨が降りました。 天気が悪いと気分もあまりよくありません。 どもこんにちはショータです。 ※ 会社の同僚から恋愛の相談を受けてしまった。 明らかに相談する相手を間違えているのだが、そのことを伝えても「意見を聞かせてほしい」と譲らない。口が固けりゃ誰でもいいと思ってやがるな。 仕方がないので、無駄とわかっていつつも「あの人は性格が少し壊れているから、やめたほうがいいと思うが」と自身の感想を伝える。なんだかなあ。役に立たないねえオレ。 どこがよいのか真剣に疑問だったので「あんなののどこに惚れたの?」と聞いてみると、「物静かで頭の回転が早くて優しそう」だと言われた。チョーさんが生きていればダメだこりゃと言ったことだろう。私には陰気で底意地が悪いくせに嫌われる勇気もない八方美人に見えるのだが。 ※「人は見たいようにしか世界を見ることができない」「したがって、いま見えている事象は、自身が見たいように思ったものでしかない」 と、そういう認識学を提出したのは渡辺慧という理論物理学者だった。「醜いアヒルの子の定理」というまあそこそこ有名でそこそこ批判も受けている理論によると、「二匹の異なるアヒルの間にある相違点の数と、アヒルと白鳥との相違点の数は同じである」と書かれている。 わかりにくいか。「木村拓哉と竹野内豊との相違点の数は、木村拓哉とマウンテンゴリラのチャップ君との相違点の数は同じだ」 と書けばもうちょっとわかりやすいかな。「木村拓哉/竹野内豊」と「木村拓哉/ゴリラ」との二項における、それぞれの相違点とは、例えば「血液型」だとか「生物学的分類」だとか「母語」だとか、一見すると「木村拓哉/竹野内豊」のほうが共通点は多いように思える。 けれどそうではない。「好きな食べ物」だとか「子供がいる/いない」だとか「怒った時の行動」だとか、木村君とチャップ君との共通点だって竹野内君とのあいだにある共通点と同じくらい多いのだ。(たぶん) でもゴリラとキムタクでは全然違うように我々は考える。 当たり前のように「全然ちゃうだろ」と言う。 なぜかというと、人は「この違いは重要だろ」という思い込みを常に強く持っているものであり、勝手に「ある相違点」を取り出し、クローズアップしてしまう生き物だからだ。 これを社会心理学の観点から、「民族だって人種だってそうだよ」と書いたのは小坂井敏晶(『民族という虚構』/東大出版会)だった。「あるイケメン/別のイケメン」と「あるイケメン/ゴリラ」の違いは、「ある日本人/ある日本人」と「ある日本人/ある韓国人」と同じだ、と。「どの違いに注目するか」は人の好みや政治の問題でしかなく、恣意的に決められたものでしかない。 ※ ある異性について、他の異性と全然違う、と思うことはよくある。 多くの人はそれを恋と呼ぶ。 その「違い」とは、恋した人が勝手に決めたルールに則っており、確定的ですらない。 ずいぶん昔、まだ高校生だった頃、同級生に「A君が好きなんだけど、相談に乗ってくれる?」と言われたことがある。今より7000倍くらい真剣に、「あ、あんな野郎のどこがいいんだ!?」と聞いた。「物静かで頭の回転が早くて優しそう」 そんな具体的だったかどうかは忘れたが、似たようなことを言われて愕然となった。「それならオレでいーぢゃん!」とは、言わなかったとは思うが200回くらい胸の中で思った。けれど、その子はオレではなくA君を好きになった。オレとA君と、どの「違い」をその子がクローズアップしたのかはわからない。 容姿かもしれないし、タイミングだったかもしれない。「違いのクローズアップ」というのはしかし、まったく自由に、勝手気ままに決められるものではない。ある一定の制限がかかっている。それが我々を、キムタクには恋できてもゴリラのチャップ君には恋できないようにしている。 人間の「思考」というヤツは、「言葉」に支配されているからだ。 この支配関係を現代思想用語では「駆流(ドリフト)」(ある方向に思考が流されることが決定づけられていること)という。「恋してもいい相手」というリストを我々は誰しも、ノーミソのなかに持っているが、そのリストに載っていない相手とは恋することができないようになっている。 そのリストの記載条件は、さまざまな時代的社会的制約がつけられる。「優しい男のほうがいい」だとか「できれば同性ではなく異性のほうがいい」だとか「二枚目と呼ばれる相手のほうがいい」だとか。それはもちろん自分でも書き加えることができるが、多くはそのリスト自体、時代とか環境が用意する。 けれども。ある女の子が持つ、「そのリストに載っていない」ということでは、ゴリラもオレも一緒だ。 探しものはまだ見つかってはいない。 今日の日記もイマイチ構成がよくない。 友人からカナブンの詰め合わせをいただいた。観賞。 ソフトがよくないのか、半分見られなかった。Macは辛いね。 取り急ぎ、感謝。
2006/01/13
今日は1日、よい天気だった。 インフルエンザなのかなんなのか。 どうも今朝から寒けがして関節が痛い。 病院行くべきなんだろうか。どもショータです。 ※ 所要で自宅の本棚をひっくり返していたら、大槻ケンヂの古い著作がでてきた。 懐かしさに捕われてパラパラとめくると、「いつの世もすべての若き野郎の悩みはわずか3つに限定される」とある。(1)オレはいったい何者なのか?(2)オレはこの先、いったいどうなるのか?(3)オレはどうすれば女の子にモテるようになるのか? この3つだそうだ。 無限に思える青春の苦悩も、この3つに集約されるという。 いま自分の青春時代を思い返してみても、そうだったな、と素直に思う。 必死に悩んで苦しんでいた。いろんなものに、なんとかしがみついて生きていた。そして年を経て、いまの自分を冷静に分析してあの頃とどう変わったのか? と問うてみると、「あの頃よりは必死で悩まなくなった」という以外にさしたる違いが見つからないことに気づく。 オレはこの先、いったいどうなるんだろう。 ※「死んでしまいたい」と思ったことが、何度かあった。 そういう青春時代だった。 大槻ケンヂよりは明るく楽しい10代を過ごしたとは思う。 友人がたくさんいた。恋人もいた。大槻のように「自分を他人と区別したくて必死になって小説を読んだ」りもした。自分にはサッカーがある、と思えるほど熱中していたし、変わった趣向を持っていたせいで、成績もそこそこよかった。 明るくて、楽しくて、毎日が充実している。 そういうふうに見えるように振る舞っていたし、「オレの青春はものすごく充実している」と固く信じていた。 けれども、たまに屋上に登ると、フッと飛び降りたくなることが何度もあった。 サブカルのカリスマ、みうらじゅんはかつて自身の青春時代を振り返り、「きっとノイローゼだったんだと思う」と分析している。私は、そのノイローゼを隠すのが少し上手なだけで、実はもっと酷いノイローゼにかかっていたのだろう。 どうしてあの頃、死ななかったんだろう? と、今でも時々考える。 きっと、時間を潰すのが少しだけ上手だったからなんだろう。 ※ 北方謙三が『試みの地平線』(青春のバイブルだった)で、「死んでしまいたい」という若者からの問いに、以下のように答えている。「本を読め。とにかく読書しましょう。 (中略) 俺は小説が世の中の役に立つなんて考えたことはないが、死にたがっている人間を止めるくらいの時間を与えることはできると思う。 K・A君よ、約束してくれないか。本を五十冊読む、と。小説が嫌ならノンフィクションでも科学でも歴史でもいいから、とにかく五十冊読むまでは死ぬな。五十冊読んでみて、それでも死にたいと思ったら、また手紙をくれ。もう一度、話そうじゃないか。 」『試みの地平線』は『HotDogPress』という今は無き童貞ご用達のファッション誌に連載されていた、伝説の人生相談コーナーだった。これについて語りだすと3日くらいは徹夜しないと尽くせないわけだが、ここでは簡単に。 上記の回答は当時でも物議をかもしたもので、「ではどんな本がいいのか?」という問いに、北方は「(五十冊のうち)太宰を二冊入れておけ。ただし太宰は続けて読むなよ」と書いている。 当時、太宰は10冊以上続けて読んでいた。 墓参りに行き、太宰に手紙を書こうと思い立ち、「なんて書きゃいいんだぁぁ!」と机の前で唸ってたりした。 そんな私は間違いなくノイローゼだった。 閑話休題(それはさておき) 北方は頭がいい小説家だから、人生において小説が役に立つのは「時間が潰せる」ということぐらいだ、ということを知っていた。だから「死んでしまいたい」と言う青年に、たぶん本気で「本を読め」と書いたのだと思う。 時間が経てば、きっと真剣に考えなくなる。(1)オレはいったい何者なのか?(2)オレはこの先、いったいどうなるのか?(3)オレはどうすれば女の子にモテるようになるのか? これらの問いを続けていると、死にたくなってしまう。 時間が経てば、その問いと真剣に向き合わなくなるだろう。 もしも「文学」という役に立たない代物が、なぜ学問として生き延びられ続けてきたかというと、きっとそういう理由なんだと思う。 探しものはまだ見つかっていない。「オレ」についての興味が、だんだんと薄くなってきた。 それでよかったと、今は思っている。 明日も晴れるといいな。
2006/01/12
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。と、まあもはやすでに時期も過ぎてしまった感じがしますが、12月27日から明日までびっちり酒飲んでばっかのショータなのでまあなんというか。そんなん気にしてない感じで。 やれやれ酔っ払いって本当にイヤですね。 ※ もうずいぶんと古いネット内での友人(♀)と少しチャットで話をした。 最近、恋人と電話で話しをしている。適当に距離があるというのはいいことですね、という話題のなかで、「たまに無意味に泣いてみるとかどうですか?」と提案したのだが、「そんなものは理系属性には通用しない」と一蹴されてしまった。「文系詩人属性ならともかく」と補記をつけられたわけだが、これ、どうなんでしょうね。 もうひとりの古い友人が非常に興味深いナショナリズムについての考察をしているわけだけども、それと合わせて「うむむ」と考え込んでしまった。少し長いが引用しよう。>ナショナリズムが低劣なのではない。愚劣かつ卑劣な人間が、ナショナリズム>に囚われ、信奉するだけにすぎまい。批判されるべき対象は、ナショナリズムで>はない。批判されるべきものは、ナショナリストを名のることで、愚劣で卑劣な>人間性を隠蔽して、ナショナルなものそれ自体を貶める行為ではないのか。>>上海総領事館員の自殺を見てみればいい。妻もいる身分でありながら、熱心>にホステスに通いつめ、国家機密の提供を強要された。そして、行き詰まった>挙句、渾身の飛躍を試みる。卑劣な男が英雄へと脱皮するための、魔法の合>言葉=「自分はどうしても国を売ることはできない」。ナショナリストに成りおおせ>ることで、愚劣な男は浄化されてしまう。 いやまあなんというか。「批判されるべき対象は、ナショナリズムではない」と書きながら、ナショナリズム批判丸出しの文章ですなあ。 私は上記引用文を読んで、(1)愚劣で卑劣なのは「妻がいる身でホステスと懇意になったこと」か?(2)愚劣で卑劣な輩はどのようなイデオロギーの信奉者にもいるのではないか?(3)無意味なものに意味を加える(愚劣で卑劣な人間性を浄化する)ことが、あらゆるイデオロギーの最大の効用ではないのか? と、まあ3つほど疑問が浮かんだ。 (1)と(2)はまあたいした話ではないので、あまり気にしなくてよろしい。 問題は(3)である。 古い友人は上記引用文に続けて以下のように書く。>ナショナリズムは、この隙間があるからこそ機能している。この隙間を「仮面」をか>ぶって利用するべく、愚劣で卑劣な男たちは、こぞって参入して「愛国」を合唱す>る。冷静になって思い返して欲しい。徹底的に貶められていながら、忘れさられて>いるものがありはしないか???。 それは、ホステス通いをする大使館員に利用さ>れることで、「日本」そのものが汚されたこと、ナショナリストによって利用されるこ>とで、「理不尽な死」そのものを悼めないことではないか?。 死を普通に悼みたい>人は、「恥ずかしくて」とても「悲しみと悼みと怒り」を表明する気になれない、パラ>ドクス。これは何もナショナリズムに限ったことではあるまい。コミュニズムが支配的>イデオロギーである地域では、コミュニズムがその役割を担うことになるだろう。 なるほどそのとおり。 ナショナリズムとは「無意味なもの」と「意味あるもの」の隙間を埋める。 古い友人が書くように、「これはナショナリズムにかぎったことではあるまい」。 何度でも問おう。妻がいる身でホステスと懇意にしたことは、それほど愚劣で卑劣か? 誤解を恐れず書いてしまうと、自殺した大使館員を「愚劣で卑劣だ」と問いつめるほどの価値が、意味が、「人間」に、もしくは「日本」に、あると思っているのか? 私が書きたいことはひどく単純だ。 例えば今回問題になっている「国は裏切れない」と(遺書に)書いた大使館職員が、「愛は裏切れない」と書いたって、あるいは「教義は裏切れない」と書いたって、「仕事は裏切れない」、「友は裏切れない」、「信念は裏切れない」と、まあどう書いたからといって、構造はたいして変わらない。 イデオロギーは「意味の隙間」を埋める。 大半の人間の人生が「無意味」であり、その無意味さに耐えられないからこそ、「人」はその生涯に意味を詰め込んで生きていく。 だからさ。「たまに無意味に泣いてみては?」となるのです。 人生にはもともとほとんど意味なんてのはない。 恋人たちの会話なんてのは、特に意味がない。 まったく無意味なもの(この場合「涙」)が目の前に提出されたとき、そこにイデオロギーに満ちあふれた意味を見つける。そのパラドックス。これこそが「恋愛」というイデオロギーの本質だと思うんだけどなあ。 探しものは見つかっていない。 今年もこんな感じでいきます。
2006/01/09
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