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ここ数週間で、カウンターが回る数が多くなっている。 ここだけでなく他のブログもスパムのエロTBや宣伝コメントが増えているところを見ると、業者関係が周回することが多くなったのだろう。 もともとこのサイトは更新が不定期であり、しかもたいていのエントリは長くて読みづらい。書いてる本人もよくわかっていない哲学的な記述がダラダラと続き、私でさえ読み返すと苦痛な日記がいくつかある。 そんなわけだから、いわゆるひとつの「通り過ぎるだけ」という人も増えているのだろう。別に私はそれを悲観しているわけでもなければ、改善しようという気もいまのところない。 コミュニケーションをとることだけを考えるのであれば、表出欲を抑えてもう少し読ませるようなテーマを短くまとめる。書きたいものを気兼ねなく書くことのほうが、今の私にはプライオリティが高い。 ただ事実認定として、ひとつ。 ネット社会がリアル社会に近づいてきたな、という印象がある。 ※ 1990年にWWWが開かれてから17年。よくも悪くもインターネットという世界は、これまでになかったコミュニケーションツールを用いて一部の特殊な人々によって成立してきた。 具体的に言えば個人用のPCを持ち、それをある程度の頻度で使うことができる環境にあり、そこで「誰かと語ろう」とする人々が、その世界専用の言語でもって成立してきたわけだ。 しかしネットに繋ぐ人口が急増したことにより、そこに「語らない人々」が大量に流入してき、この世界がいま急速に変わりつつある。 ※ webの特徴のひとつに、それは「個人的なメディアである」ということが挙げられる。 ネットは私と在米の友人を(4000?の距離を越えて)瞬時に繋ぐ。 けれどそれはあくまで小さいモニタ(窓)を介してのコミュニケーションであり、彼の手は届かず、身体感覚的な距離は遠いままだ。 長電話を続けていると、どんどん時間が濃密になり、自意識が肥大し、相手との精神的距離感が縮まっていく感覚を覚えた人は多いのではないか。ネットはそれを無自覚に加速させる。 目に見えない相手、手が届かない相手、身体的距離感が遠い相手と長くコミュニケーションをとっていると、それに比例して精神的距離感はどんどんと縮まる。なぜならそこでのコミュニケーションでは、「自分は【いま】、【ここ】ではひとりなのだ」と常に確認され続けるのだから。「自分はここに、ひとりで立っている」 そういうことを確認し続ける作業はしんどい。だからたいていの人は長くネットを回っていると、コミュニケーションを求める。「あたしはここにいる。あたしに対して返事を返してよ」と。「あたしはひとりではないんだ」と。 これまでのネット社会では、その世界に住む人々はすべてそうした孤独感を持っていることが前提となっていた。だからこそ特殊な共同体が構築されていた。 しかしここにきて。「自意識が肥大しきり、自分にしか言葉を向けない人」、「ブログを完全に(非公開に近しい)日記だとわり切っている人」、「情報を得るだけが目的で双方向通信に興味がない人」、そして「宣伝目的の業者」が増えてきたことにより、この孤独の世界観を共有できない人々が相対的に増えてきている。 もっと具体的に言おう。 この世界で言葉を発している貴方に対して、無関心な人がこの世界に増えてきているのだ。 それは町を歩き電車に乗っている時と同じように。 誰も貴方を特別だとは思わない。 誰も貴方に声をかけない。 誰も貴方と話したいとは思わない。 そういう社会にネットが近づきつつある。と思う。 それはおそらく一番最初に、ネット社会でのアイデンティティの在り方に変化をもたらすはずだ。そしてそのネット界でのアイデンティティの変化は、ゆっくりではあるが確実に、リアル社会での「人の在りよう」も変えていくのだと思う。 探しものは見つかっていない。 実在主義者であるサルトルは言った。自己とは他者と取り結んだ関係においてのみ創出される、と。「実在」とは他者との関係の取り結びようなのだ、と。 モニタを通して他者と繋がるかぎり、人は他者と同じくらい自己と向き合っている。自意識は自己により掘り下げられ続け、その容積は巨大化を続ける。内的で形而上的な世界だけが広がっていく。 それはおそらく、リアル社会と同じく、人にとってあまり心地いい社会ではないのだろう。
2006/04/25
学校の教室でいかがわしい妄想にふけっている時、ふと「誰かに思考を読まれていたらどうしよう」と思ったことはなかろうか。あまつさえ「読んでいるのは知ってるんだぞ!」などと頭のなかで叫んだことはないか。 まあ大なり小なり似たような経験は誰にもあると思う。 私の場合は中学の頃、英語の授業中に好きだった同級生の横顔をぼーっと見つめている時だった。 2500年以上の歴史を誇る西洋哲学では、「誰かが自分の思考を読んでいるかもしれない」という可能性を否定することはできない。人類の思考の歴史は「世界は5分前に作られたわけではない」ということの証明さえできていない。 ※ よく誤解されがちな哲学古典のひとつに、D・ヒュームの「懐疑論」がある。 人間は普通、無根拠に「明日も太陽は東から昇る」と思うし、「自分の思考は誰にも読まれていない」と思う。 しかしどちらも自然科学では証明できない。 ヒュームが提唱した「懐疑」は、この「証明できない」という部分だけが大きく取り上げられがちではあるが(実際証明できないわけだが)、哲学界では実はその部分はそれほど重要視されていない(当然の前提として踏まえられることは多々あるが)。ヒュームが懐疑論で述べたかった要旨も、この部分ではない。 ヒュームが言いたかったのは、「なぜ人は、誰も証明できないことなのに“明日も太陽が東から昇る”と思い、“誰も自分の思考を読んでいない”と思い込んでしまうのか」ということだった。 歴史学者であり哲学者でもあり、終生キリスト教会から敵視され続けたヒュームが出した結論はそれほど難しいものではなかった。 人は信じたいものを信じてしまうものなのだ、と。 明日も東から太陽が昇ると信じたいから信じるのだ。 神がそう決めたのでもなければ、教典にそう書いてあるからでもない。 そしてヒュームは続ける。 神や教典が定める「独断」から離れようぜ。それはすべての人間が寄る辺無き個人として生きることであり、徹底的な孤独のうちにその生を位置づけることになる。その道は辛く厳しいだろう。でも神も教義も人間が作り得た。 それは絶望ではなく希望であり可能性なのだ、と。 人は神さえも疑い得る存在なのだ、と。 ※ この「すべての前提は疑い得る」という論証は、当時欧州で支配的であったキリスト教だけでなく、その論理を導き出した西洋哲学そのものにも刃を突き立てた。 けれど忘れてはならないこともひとつある。 懐疑論には希望が込められていた。 それは紛れもない事実である。 ※ 現代まで残る大仕事をなした哲学者にしては珍しく、ヒュームの人柄は大変善良で友人づきあいも良好であったことが知られている。 キリスト教会や多くの敬虔な信者から異端視されていたにも関わらず、晩年エディンバラに隠遁したあとも、ヒュームの家にはA・スミス、H・ブレア、W・ロバート、A・ファーガソン、B・フランクリンなど高名な学者・聖職者たちが集まって彼の意見を聞きたがった。 無神論者と呼ばれたヒュームに、死を目前にした心境をアダム・スミスが尋ねると(当時は「信心のない人間は死後、何もかも無くなってしまう」と考えられており、恐れられていた)、「僕の著書で目覚めた人々が、そこらにはびこっている迷信の体系を粉々に崩壊させるのをぜひ見たい。だから三途の川の渡し守のカロンに“もうちょっと待ってくれないか”と頼んだんだ。でも“そんなことは何百年たっても起こりはしないからダメだ”と言われちゃったよ」と返している。 1776年8月、彼の偉業と人柄を讚えて付けられたヒューム自宅前の「セント・デイヴィッド・ストリート」には、大雨のなか葬儀に参列するために多くの人が集まった。 ある葬列者が言う。「でも彼は無神論者だったんだよな」。 別の葬列者がそれに答え、「いいや、彼は正直な人間だったんだ」と返したという逸話が残っている。 汝、しあわせであれかし。 主よ、彼の魂に祝福を。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/04/23
知り合いっちゅうか腐れ縁のヤツとチャットで話していて、なんでか知らんが「昔の彼女の名前は憶えているか?」という話になった。 ザッと記憶を辿ったところ、最初1/3くらいしか思い出せず、ちょっと頑張ってみても半分くらいしか名前が出てこない。なんたるちーや。 その腐れ縁野郎に「酷い奴だな」とか「人でなしだな」とか冷静に言われたわけだが、そのとおりですすいませんしか言えない。 これはいったいどういうことだ。 トラウマか?(たぶん違う) えっとね。顔なら2/3くらい思い出せます。 これってさ、顔は思い出せるけど名前が思い出せないというのは、シニフィエとシニフィアン的にはどうなんだろうか。呼び名を記号として認識していない? そんなことを考えて、よしんばうまく論理的整合性がとれたとしても、言い訳無用で俺様がダメ野郎だということは変わらないので、考えるのをやめた。 まあなんていうの? 恋愛力が常に前向きなんだということでどうだろう。どうだろう。 探しものとか言ってらんないよね。
2006/04/19
春ですなあ。でも寒いですなあ。 なーんか最近、エントリが抽象的で観念的なもんばっかりになってる気がする。 ま、いーんだけどさ。そして今日のもえらく観念的デス。よろしく。 今回は不倫について語るわけだけども、私がこういうテーマで考えるとき、「法」についてはあまり勘案しない。「法=倫理とか道徳」とかになっている人は、(「骨の髄まで近代人ですねえ」とは思うが)このログを読むと不快だと思うのでやめたほうがいいと思います。はい。 ※ どうして現代日本では、結婚したらそれぞれの妻や夫以外を愛することは許されないのだろうか。もちろんこれは結婚しているカップルにかぎらない。彼氏や彼女がいたとしたら、その特定の相手のみに貞操を守ることが社会的によしとされている。それが現代日本の性的観念だ。 もちろんこれは「制度」であり、「権力」である。(ついでに前近代的でもある) その制度と権力によって、姦淫者は許されない。(ということになっている) それに逆らうことは社会的ないし倫理的に「罪」であり「罰」を受けるべきだと規定され、それを為せば「周囲の忌避の目」(という暴力)にさらされるだけでなく、なにより自分自身の「倫理観」に深く根差して個々人の行動や言動や情動を著しくさいなみ、「罪悪感」という名の心理規制が行為者を断罪し続ける。 この個々人の心理作用を、M・フーコーは「パノプティコン」と名付けた。 監獄である。 史上最強の「監視者」とは誰あろう「自分自身」(の良心とか常識とか社会的倫理観とか公共心とか信仰心とか)なのだ。 不倫を告白するサイトを見ると、どこからともなく飛んできた「名無しさん」や「通りすがり」が、「そんなことをいつまでも続けていてはいけない」と、ブログ執筆者に対して(真剣に相手に関わる覚悟を寸毫も持たないまま)暴力的に書き散らす。 そしてなにより重要なのは、たとえそうした無責任な他者による介入がなかったとしても、たいていの不倫者はその告解(不倫の告白)において「自身の行為は罪であり、いつしか自分は罰を受けるべきだ」(ないしはいずれ「通常の状態」に戻るべきだ)と理解していることにある。(多くの者はその理解により得られる背徳感を、不倫相手のその相手自身の魅力だと無自覚に誤解する) 不倫とはほぼ無条件で「更生」されるべき行為であり、不倫者とは「矯正」されるべき対象なのだ。それはたとえ「自分自身」がその行為をなしていても、である。いや、自分自身がやっているからこそ、自分自身が「裁きたい/裁かれたい/裁かれるべきだ」と思い込む。 現代日本では、通常、このような情動がまったく起きない人は厚顔と称され忌み嫌われる。 誰だって「周囲から忌み嫌われる」なんてのは嫌だ。 その「そんなのは嫌だ」という心理それ自体が暴力装置として駆動し、「制度」を完成させている。 ここにおいて、書き手が一定以上の容姿を持つと判明している場合には、異性は「俺もあたしも」と意味不明で誇大な期待を抱き、同性は必要以上に忌避するケースが多々見られるが、これは前述の「背徳感」とそれがもたらす愉悦により説明できちゃうわけね。 一夫一婦制なぞ長い人類史においては特異な社会現象にすぎず、おおむねキリスト教信者たちがデッチあげた幻想にすぎない制度であっても、多くの人はその思想の根本にある(アダムとイブのように)「ひとりの男にはひとりの女」という恋愛関係を「自然だ」と誤解する。 ※ 誤解されるとアレなんで書いておくが、私は「だから不倫はどーってことない」だとか、「みんなバンバンフリーセックスしてもOKぢゃん」とか、「不倫者たちは許されるべきだ」とか、あるいは「つか俺だってやってるしなんか悪いの?」とか言うつもりはまったくない。やってないし。 ただこの社会制度は「面白いなあ」とは思っている。だってそこには「近代」が覆い隠した欺瞞があり、「ねじれ」があるんだもの。これはさあ、17世紀に生きたT・ホッブスってオッサンがかました壮大なハッタリに、ものすげー多くの人が引っ掛かってるだけなんじゃないかと思うんだよね。 だって考えてごらんよ。「近代」の重要なルールとして、「人は他人に迷惑をかけず、自分たちの合意があれば何をしても構わない(個の自由、権利の保証)」というのがあるわけでしょう。いやあるんだよ。それが保証されて初めて「個」が成り立ち、その「個」の契約的集合体が「近代社会」(国家とかね)だと規定されてるんだから。 なんといっても、社会が個人を規定するのではなく、自立した個人が社会を組織する、というのが「近代社会」の要諦だからね。ま、厳密にいうと「社会(他者)からの規定」+「内的自我の統合」で、「自己」が立ち現われるわけなんだけども。 で。 ということは、当人同士の了解さえあればフタマタだろうがサンマタだろうが、誰に何を言われる筋合いはないわけだ。だから私は、不倫を忌避し、個々人が勝手にそれを断罪するのは「前近代的だ」と書いたわけだ。「自己」は「社会」(他者)がないと立ち現われない。 しかしいったん立ち現われた「自己」は、(自由と権利を保証されているがゆえに)自身が所属する社会を選び取ることができる。 けれども。前近代的な制度を一切残さない社会なんて、この地上にはないんだよね。フタマタ、サンマタを許す社会はあるけれども、それは別の強い前近代姓を孕む社会だったりする。 そして仮に「近代性を強く保持したままの男女の関係が成り立つ社会」が創出したとして(現代フランス都市部がわりかし近かったりする)、それはリバタリアン(自由主義者)が夢見たエルドラドであり、その彼らが夢想するユートピアに立って初めて、彼らはハタと気づくわけだ。 あれ? これって「強い者が勝つ」ルールぢゃん、と。 弱肉強食で、「万人が万人を脅かす」、素敵な奪い合いの世界だよ。 強い男(ないし女)が異性を独占し、君臨する世界なわけだ。「それじゃあマズい。あまりに厳しい。なんとかしよう」と思って創出されたハズの「近代社会」が、その自身が内包する「近代」によって、前近代社会を目指してしまう。 ここに近代が拭い切れない前近代性があり、限界があるわけだ。 ホッブス爺さんが「このままじゃイカン。厳しい。みんなすぐ死んじゃうよ」と危機感を抱いたのは、百年戦争でズタボロになった欧州で、という思想背景がある。 勝手に誰かが誰かを殺しまくる社会はもうまっぴらだ。最低限「命」だけはなんとかしよう、と思い付いたのが「リバイアサン」の創出だった。 その心情はよくわかる。 だから「自分の命」だけは保証されるし、主権を持つ者には「抵抗権」が認められている。「近代」という時代はそれに与する人々を豊かにし、「命」だけでなく「資産」や「家族」や「自由」や「権利」に対する侵害にも、抵抗権を認めるに至った。 けれどもここにきて。 21世紀の近代のどん詰まりに立って。 再び弱肉強食の世界(前近代に限りなく近い近代)へと立ち返る道を向かっているわけだ。 面白いよねえ。 探しものは見つかっていない。 私は不倫を告白している、という行為自体は別になんとも思わない。 けれども、その自身の「罪」に厚顔でいるよりは、悩み、さいなまされ、苦しみ、「明日は今日よりもうちょっとよくなる」と信じて生きている人には、けっこう好感を持っています。 前近代でいいぢゃん。ひとりでいるよりはふたりのほうがいいし、できれば愛する人とは「ふたりきり」になりたいもんだよ。 社会とは、その構成単位が小さくなればなるほど、そしてその外部が強大であればあるほど、結束を強める性質を持つ。 この広くて無秩序な世界に、「ふたりきり」なら最強だよ。 イエスという2000年前に生きた人類史上最強のホラ吹きは、たぶんそれを知ってたんだろうねえ。 だから「姦淫はやめとけ。ろくなことにならんよ」というそれまでの民間伝承(旧約聖書)を、自身も強く引き継いだんだろうね。
2006/04/18
『Op,ローズダスト』(福井晴敏著・文藝春秋刊)読了。 無事異国の地から帰ってまいりました。 で、飛行機のなかで読了。一気に読んでしもうた。 まあなんちゅーか、福井晴敏は出世作の『亡国のイージス』からずっと手法が変わらないなあ、という印象。特殊部隊で訓練を受けた若者と「古きよき日本」を体現するようなオッサンがペアで未曾有のテロと戦うってパターンね。 根底にあるのは常に「平和ボケした日本人よ目を覚ませ」というメッセージ。 TVタックルでハマコーが怒鳴るよりはずいぶん説得力あります。 ラスト近くにはガンヲタへのオマージュ的シーンもあったりしてね。泣かせます。 ※『世界をよくする現代思想入門』(高田明典著/筑摩書房刊)もついでに読了。 著者はたぶんすげー頭のいい人なのだと思う。私のように体系的に哲学や現代思想を学んでいない者でも、そう感じ取れるくらい平易に読み進められる内容だった。 一番関心したのは、哲学という学問の基本の基本を大変わかりやすく書いていることだった。以下、簡単に内容を抜粋してみる。Q.「哲学」とはどんなものか?A.「哲学」とは、 1.形而上学(ある事象がもつ「意味」、「理由」を考える学問) 2.倫理学(ある事象の「正しい状態」を考える学問) (合わせて「正しい」とは何か? どんな状態か? を考える学問) 3.論理学(形而上学で考えられた「意味」を見据え、倫理学で考えられた「正し い状態」にまで辿り着く道程を考える学問) 以上の3つの学問の総称。Q.「哲学」と「現代思想」の違いとは?A.上記1~3において「普遍的な回答がある(真理)」と考えるのが哲学。そうではなくて「目的が違えば手段が違うため、普遍的、汎用的な回答はない」と考えるのが現代思想。Q.「哲学」および「現代思想」の目的とは?A .哲学や現代思想に限らず、すべての学問は「人々を幸せにするため」のものである。「人々を幸せにするための普遍的な回答がある(それを探す)」というのが哲学であり、(上記のように現代思想では「普遍的な回答はない」とするため)「ケースや考え方によって回答は異なる」、とするのが現代思想。考え方の根本的な部分が違うため、両者はまったく別の学問であると認識すべき。Q.なぜ哲学は「諸学の王」と言われていたのか?A.あらゆる学問に共通する(普遍的、汎用的)、「考え方の手法を考える学問」だから。哲学は長きに渡ってその成果を多くの学問にもたらした。しかしだからこそ、現代思想に移行して「普遍的な回答はない」とされて以降、哲学は諸学の王とは呼べなくなった。(もちろん「現代」という時代にも、「普遍的、汎用的な回答はある」とし、それを求める「哲学者」は存在する)Q.「哲学」と「現代思想」で得られた成果の要諦を簡潔に表わすと?A .ある事象を認識するとき、人は「それはAか、非Aか」という認定の繰り返しを行なう。しかし根本的にはその2分法の設定自体を疑うべきである、ということ(この疑う行為を「脱構築」という)。Q.で、哲学や現代思想は「世界をよく」したり「人々を幸せに」できるのか?A,現状ではできる人もいるし、できない人もいる、としかいえない。が、いまもそのふたつを「できる」ようにするために考え中。現在までの結論としては、「自分も含めた周囲数メートルの範囲の人やものが幸せという状態に近づけるように各人が努力しましょう(それより狭くても広くてもロクなことにならない)」ということになっている。 まあこんな感じ。簡単でしょ? 哲学や現代思想系の本やサイトで書かれている難解な文章は、(それが体系的に学んだ人が書いたものであるならば)すべて上記の原則を押さえてあるはずである。逆に言えばこの基本中の基本を押さえていないものはたいがい偽物、というより生兵法というヤツだ。 いやもちろん生兵法が悪いとはいわない。このサイトで書かれるすべての文章だって生兵法だ。ただいかなるものであっても「本物」には敬意を払うべきだと私は考えているし、そのためには「本物か生兵法か」を見分ける手法はなるべく多く確保しておきたい。 で、私としては。 上掲書の著者が書いた現状の結論。「自分も含めた周囲数メートルの範囲の人やものが幸せという状態に近づけるように各人が努力しましょう」という部分。これがすこぶる気に入っている。小学校の教室に掲げられた月間目標みたいでいいでしょ。 政治とか、思想とか、経済とか、軍事とか、社会とか、文化とか、人間関係とか。 難しく語ろうと思えばいくらでも難しく語れる。また、簡単に語ろうと思ったっていくらでも簡単に語れる。どちらも必要以上に為されたものに、私はあんまり興味がない。 ※ 人は記録に残っているその始めから、歴史が始まったその最初から「幸せってさ、なに?」と考えてきた。なんなんでしょうねえ。 探しものは見つかっていない。今日も探す。やれやれ。 過日、NYのビーチェ本店でイタリアンをいただく。 値段のわりに庶民的な店内の雰囲気は好感が持てたけど、ローマの街角の定食屋で食ったパスタのほうがうまかった。人生経験としては、街娼と交わした立ち話のほうが役に立ったような気がするなー。NYは住みづらいってさ。「ここは完全に人間が作った、人間のルールで回っている街だから」だそうだ。深いねどうも。 またサボテンでも買って帰るかね。
2006/04/17
来週から一週間ほど異国の地に旅立って来ます。 ネット環境は確立してるんだけど、たぶん仕事でいっぱいいっぱいなので皆さんご機嫌よう。 なんつーかまあ06年度も社畜っぷりにターボかけてお送りいたします。 ※ 内田樹著・編の『9条どうでしょう』(毎日新聞社刊)を読んでいる。 読みでがあったのは町山智浩の章くらいか。以前このサイトで熱く語った「国民意識の喚起のために徴兵復活!」を町山が書いていてワロタ。 結局9条を巡る問いとは「普通の国」とはどういうものか? という各人のイメージに拠るところが大きいような気がしてきた。これを語るためには「普通ってなんだ」という大変面倒くさい問いに直面しなければならないので、それは措く。 ただ内田が上記著作中で述べるように、「普通になりたい、というメンタリティがよく理解できない」というのは私も同意する。「普通(のまま)でいい」ならわかるんだけどね。あと町山が書く「米国が国家として保障する自由」についての考察については興味深かった。(以下引用) たとえば、アメリカでの星条旗焼き捨てを見てみよう。国家への反抗として星条旗を焼き捨てる行為は、六十年代のベトナム反戦運動や、黒人民族主義運動の過激派がよくやった。最近はスパイク・リーが「圧制の象徴である星条旗を焼き捨てろ!」とアジっているが、その行為にはすでにあまり効果がない。というのも、九十年代に星条旗(自分で買ったものに限る)を焼く行為を罰することが憲法違反だと判決されてしまったからだ。星条旗は国旗を焼き捨てる自由すら保障する国家の象徴だ。焼き捨てるよりは振ったほうがいい。かくして、保守も反体制も、少数民族もゲイも、自由の象徴である星条旗を振る。僕はイラク戦争に反対するデモに参加したが、デモ隊はブッシュ大統領を自由の敵と攻撃しながら、みんな星条旗を振っていた。日の丸を強制することがいかに逆効果かわかるでしょう?(以上『9条どうでしょう?』p87~88より引用終了) たとえば現日本政府を批判したいと思ったとき、日の丸を(焼くのではなく)振る日本人というのはいるのだろうか。いねーだろうなあ。 ここらへんが町山のうまいところだと思うのだが、彼は「自由の象徴である星条旗」とは書くが、「国家が保障する自由を象徴する星条旗」とは書かない。 その「自由」は誰に保障されたものなのか? 国家か? 人権か? 本来は「国家を規制する憲法に記された人権」に保障されている【だけのはずの】国旗を焼く自由が、それを主張する人々が星条旗を振ることによって「国家が保障する」ということにすり替わっている。 うまいね、アメリカも町山も。 米国民が信じる「自由」とは、(星条旗を振って主張するかぎり)「国家に保障された」、「国家が保障すべき」、自由でしかない。しかし本来「独立宣言」や「米国憲法」で謳い上げられた「自由」とは、そんな矮小なものではない。 にも関わらず、「星条旗」は「自由そのものの象徴」を擬態する。 わしゃその手法が恐ろしいよ。 ※ 護憲派も改憲派も、護憲派よりの改憲派も改憲派よりの護憲派も、あるていど憲法問題を真剣に考え、いくばくかの資料(憲法そのものも含む)に目を通した人であるならば誰でも、その認識において一致しているところがある。 先制攻撃権どころか自衛権まで放棄したかのように読める日本国憲法第9条は「理念を表わしたものである」ということだ。 これを「いまある現実に合わせよう」とするのが改憲派であり、「現実に合わせる必要はないだろ」とするのが護憲派の主張である、と括って大きな間違いはない。 乱暴でスマンが、どちらの主張にも一本スジはとおっているような気が、いまはしている。 なんか憲法について考えると頭が痛くなってくるよね。 なんでだろ。 探しものは見つかっていない。 眠いぞえ。
2006/04/07
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