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ほどよくだらーっと思考中。 学生の頃は一人暮らしの女の子の家に住み着くのが趣味で(趣味!?)、コーヒーとか飲みながら一日ぼーっとしているのが好きだった。あれは愛だったんだろうか。よくわからん。モラトリアム乾燥期。 確かハタチぐらいの頃のある日、同級生の女の子の家に転がり込んでしばらく生活してた時に、家主の子に「ねえ、何を考えているのかわからない男は、たいてい何も考えていないって本当?」と聞かれたことがある。 本当です。 なんも考えてませんでした。そして今もたいてい何も考えてない。 あの子、どこかで見ているだろうか。 男とか女とかあんまり関係ないと思うんだけどなー。 しあわせでいてほしいと思うのだけども。 ※ 今日も今日とて意味があるようでまったくないことを考えながら、ズルズルとソバ屋でカレーソバをすすっていた。何を考えていたかというと、「生きていくための損得勘定」とか。 仕事とかさ。 恋愛とかさ。 法律とか学問とかスポーツでもいいんだけどさ。 個々人が支払った努力にたいして、間尺に合うということってあるんだろうか。 第3章まで読み進めた『資本論』にはそこらへんのことは書かれていない。 例えば育児を見てみると、とても「損得勘定で間尺に合う」とは思えない。 男女の恋愛でもそうだ。 相手にそそぐ愛情の量と、相手から受ける(と認識する)愛情と。 間尺に合う、なんてことがあるんだろうか。 冷静に論理的に考えると、私は「損得勘定でイーブンにはならんだろう」と思う。少なくとも(「自分の人生」という貴重すぎる)身銭を切るギャンブルとしては、分が悪過ぎる。 自分が愛しただけ、相手は愛し返してはくれない。 自分が働いただけ、上司や雇用主は自分を評価してくれはしない。 自分が貢献しただけ、社会は自分を守ってはくれない。 とかくこの世はままならぬ。 初めから損含みの不条理なものなのだ。 そしておそらくこれは、「理由なんてよくわかんないけど、とりあえずそうやって人間はずっと生きてきた」としか理解できない種類の問題なのである。 私ひとりの言葉では説得力がなかろう。 世紀を代表するスーパー天才にご登場願おう。(以下引用開始) 私たちは信仰や慣習の原初の起源については何ひとつ知らないし、これから先も何ひとつ知ることができないだろう。信仰や慣習の根源は遠い過去のうちに沈んでいるからである。しかし、現在についてなら確かなことがひとつある。それは社会的行動とは個人が自発的に演じうるものではない、ということである。(『今日のトーテミスム』より引用抜粋/クロード・レヴィ=ストロース著・みすずライブラリー刊) なぜ私たちは子供を生み育てるのか? なぜ私たちは他者を愛するのか? なぜ私たちは労働するのか? なぜ私たちは共同体を作るのか? なぜ私たちは「何か」を信仰せずにいられないのか? なぜ私たちは道徳的であろうとするのか?「そんなもんはわからんよ」とレヴィ爺さんは言う。 意味など問うても栓なきことよ、と。 ただわかるのは、人類は「それら」を続けてきたし、「それら」を続けてきたものが「人類というイキモノ」である、とレヴィ爺さんは語る。 ※ いったい私は本ログでなにが言いたいのか。 コトは大きく飛んで、女系天皇論議と秋篠宮妃ご懐妊報道についてである。 特に女系天皇については、左右両派からさまざまな論理が飛び出している。 私が目にした範囲で最も「やるなあ」と思ったのは、古い友人が書いた安い掛け合い漫才の台本だった。 「女系天皇反対派の迷走」と題された友人の論考は、特に以下の部分で悪魔的に鋭い。(以下引用開始) 議論するのにふさわしい対象とは、それが合理的なことが要請される場合に限られるといいたいんだよ。合理的であることが要請される議論をおこなうと、天皇制なる非合理な制度の基盤を掘り崩してしまうのではないか?。そう懸念してるんだよ。そもそも、議論なるものは、信頼できる法や制度を整え、それに服従するリベラル勢力が持ち出すならいざしらず、伝統といった超越的なものに服従することを旨とする保守勢力が、しかも「天皇制」について持ち出すのは、天皇制そのものを葬送する行為になりかねないじゃないか。(引用終了) 上記は「議論好きのウヨク」という(私もそこにカテゴライズされる)連中を、まとめて葬送する文章である。まさに論理のバンカーバスター。「ウヨは(特に天皇制そのものについては)議論すべきではない」という、死刑宣告だ。 そんな殺生な、と私は思う。思うが、確かにその通りだ。 だから私は負け惜しみのように、以下のように続けねばならない。「じゃあお前らリベラルが信奉する法や制度は、(現在の社会制度のほとんどが不合理だというのに)充分に合理だって言えるのか。そもそも合理なんていうものにどれほどの価値があり、意味があるというんだ」と。「合理」とは畢竟、理を求めることである。理とは意味のことだ。 法も、信仰も、恋愛も、出産も、労働も、人類はその起源から「意味を求めずそれを行なってきた」。「天皇制にはどんな意味があるのか」 という問いは、深く鋭い。 それについては、「意味? 意味を求めて何になるんだい? そもそも意味がわかってやっていて、それが理に適ってることってどれだけあるんだい?」 と返さざるをえない。 きっと初めから、そこにしか居場所はなかったんじゃないか。 いま私はそう思う。 探しものは見つかっていない。 私は不合理に信仰する。ゆえに私は不合理を選択する。 女系天皇賛成。皇室典範なぞどーでもいい。
2006/02/28
来年の4月に入社する予定の新入社員を選考するためのセミナーに参加するハメに陥った。いったい私に何をやらせるつもりなんだこの会社は。セミナーの応募人数は1000人を超えるそうで、私はそのうち数十人に会って話を聞くことになるらしい。 同じ役目を任命された同僚と雑談。同僚「何を話せばいいんだろうなあ」私 「さあ……。最近読んだ本とか聞けばいいんじゃねえ?」同僚「ここんとこ、仕事関係の本しか読んでないなあ……」私 「そうだねえ。俺もだよ」同僚「ここ最近、仕事以外でどんな本読んだ?」私 「んー……。『資本論』かな」同僚「は?」 大変シュールなムードになってしまった。 すまん。悪いのはどう考えても俺だ。 探しものは見つかっていない。 もうなんちゅーかこんな日々。 ※ 忌まわしい記憶が想起されてしまったので、ここで書いて浄化しておく。実は私、新入社員試験の検査官は入社以来2回目である(セミナーから参加させられるのは初めてだが)。 最初に任ぜられた時は、『コーラン』を読んでる頃だった。 なんだこの不幸な連鎖は。 唯一わかるのは、私に当たった学生さんがえらく不憫だということである。 相手に賢く思われる読書歴ってどんなんなんだろうね。 おお、こいつすげえと思うようなヤツがいたらメモっておこう。 んで私のほうであるけども。 この先あるかどうかわからないが、『旧約聖書』とか『論語』とか読むようになったら、また新入社員選考に駆り出される時期だと警戒したほうがよさそうだ。
2006/02/27
毎度どーも。約3週間ぶりになるのかな。ショータです。 皆さんは元気だったでしょうか? そうかそれはなにより。 私のほうは相変わらずバタバタしているなかで祖母が亡くなったりして公私ともに混乱している次第です。ウチの婆さんは享年94歳で大往生だったんですが、最後の10年は寝たきり、ここ2年はほとんど意識もなくて、孫である私の顔もほとんどわからない状態でした。 火葬を済ませてお骨を拾ってきたわけなんですが、神道形式の葬儀だと、亡くなった人間が「どういう人だったか」という履歴を祝詞にして読み上げるんですよね。まあ10分くらいなんですけども。 それを聞きながらふと、「死とはどういう状態を指すんだろうか」とか考えちゃいました。 ※ 現代社会では「死」という状態を、近代医学の定義に則って規定している。 これについては知り合いとチャットで「脳死と死」についてちょこっと(15行くらいかな)話した。その知り合いはかつて「脳死は死ではない」と主張していたように記憶しているが、いまはどうなんだろうね。そのことについては聞かなかったや。 法医学会における脳死の定義について知りたい方はこちらをどーぞ。詳しく載ってます。 脳死については語り手がどのような立場で語っているかというのにまず注目すべきで、上記リンク先の中の人はどうも「脳死は死だ」ということにしたいみたいね。 その理由を上記リンク先の筆者は以下のように規定している。>(1)脳機能は機械で代替できない。>(2)脳以外の手、足、心臓、腎臓などはいずれも機械に置き換えても生きているといえるが、脳だけは機械が代替することはできない。>(3)もし脳を機械で代替できたとしても、それは人間ではなくロボットというべきである。>(4)全脳の移植が可能になったとしても、通常は臓器を移植された人が生きていると考えるが、脳の場合は移植された人が生きているとは感覚的に考えられない。>(5)もし埋め込み型の人工心臓が半永久的に使用できるようになったとき、脳死を死と認めなかったら、その人は死ぬことはできない。白骨になっても心臓だけが動いているという恐ろしい事態が起こってしまう。 そして結論はこう。>したがって医学の進歩と共に、死の診断基準は変更せざるを得ない。 非常に正直なお医者さんのようで、ようするにこれは「医学会では“脳(脳機能)の有無”が人間を人間たらしめているものだ」と言っているに等しい。異論のある方も多かろうし、私も「そうかなあ」と思うのだが、取り急ぎ話を進めよう。 大変デリケートな話題なので私の婆さんに登場願って若干脚色を加えて例示してみたい。下記の場合、どの段階が「死」なのだろうか(これはもちろん「どの段階が“生”なのか」という問題と裏返しになる)。(1)曽祖母の体内で卵子と(曽祖父の)精子が結合。分裂開始(2)心臓、脳、手足などが形成完了(受精後3カ月くらい)(3)出産直後(4)幼児期~少女期~思春期(5)祖父と出会い結婚、私の実母を出産(6)老齢期に腰椎骨折、寝たきりになり要介護者に(7)昨年夏に発熱、心神消失(8)今年1月より自発呼吸停止。人工呼吸器設置(9)今年2月、医師により脳死判定(不可逆的な脳機能停止判定)(10)家族の同意をとって医師が死亡宣告(心臓死)(11)死亡宣告より3日後に葬式(12)同日火葬、骨だけになる(13)約50日後に納骨 ←イマココ(14)一年後に一周忌、3年後に3周忌の法要(15)子孫全滅、誰も彼女のことを思い出さなくなり、彼女の存在した事実を知る人間が誰もいなくなる 書いてて思ったが、これってものすごい個人情報だよね。 まあ人間であるかぎり誰もが似たような道程を辿るわけで、そもそもが可愛い孫のすることだ。婆さん、堪忍してくれ。(西に向かい礼) さて。 これを読んだ読者諸兄は上記(1)~(15)のなかで、どこまでが「生」でどこからが「死」だと認識しているだろうか。出産前についてはまたこれ大きな議論が必要だから、ここでは(3)以降に話を絞ると、おおむね(8)から(10)のあいだだと思われる。(ちなみに日本の法医学会では(10)とキッチリ決められていて、その前や後に医師資格を持たない者が勝手に線引きすると、刑罰に問われたりする) こうして自分で書き連ねると露骨にわかるのだが、人間という生物はおおむねその人生の最大のイベントである「生の瞬間」と「死の瞬間」というのを、自己で決定することはできない。もちろん自覚もできなかったりする。 この一事でもってしてすでに「自己決定権なんてねーよなー」なんて思ってしまったりするわけで、人権主義者(あるいは人格権主義者とかね)はそこんとこどう考えているのかぜひとも聞いてみたいのだが。(例えば「人権は(1)~(15)のどこからどこまでの段階で付与され、どこから奪われるのか」とかね) まあそれも別の議論なんでここでは措く。 ※ 私は上記についてどう考えているかというと、そもそも「死」についての一律的な(全人類的な)定義なんていうのは無理があるだろう、という立場だったりする。ズルいねどうも(笑)。 近代医学という狭いパラダイムのなかでさえも、「医学の進歩とともに死の判断規準は変更せざるをえない」と言っているように、「死」という概念は時代や文化によってユラユラと揺れ動き、移り変わっていくものだ。 例えばウチの婆さんの場合。 脳が死に(「正常に機能している」と近代医学が規定する状態に戻る可能性が極めて低くなり)心臓が停止したあとも、髪や爪は伸び続けた。まだ生きている細胞は分裂を繰り返しており、一部の代謝機能は活動を続けていた。 停まった心臓だって継続的に電気ショックを与え続ければ、脈動を続けただろう。 意識についてはとっくの昔になくなっており(「意識がない」と周囲が規定した状態に長期間おかれ)、ほぼ反射機能だけが残る状態が数ヶ月続いていた。 ウチの婆さんはいつ「死」んだのか? それは医者が決めるのか? 身内である俺やオフクロが決めるのか? 法律が決めるのか?(いずれにしてもそれは婆さん自身でないことだけは確かなわけだが) ※ 人間は生まれてきた瞬間に、誰もが「死」に向かって進んでいる。 というより、死に向かってゆっくりと進んでいる状態を、「生」と名付けている。 そして自分自身ではなく、周囲のさまざまな状況、状態、認識、文化、環境、他者からの規定により、「死んだ」と規定される。もちろんそれは、大きく揺れ動く。 ちょっとこれは深いな、と思いながら、いまなぜかマルクスの『資本論』を読んでたりする。もう15回目くらいで、読むたびに「何が書いてあるのかサッパリわからん」と放り投げてきたわけなんだけども、なんでか知らんが今度は(今度こそは)ちょっと理解できてきたような気がする。 これってひょっとして。「人間というものは、他者からの規定によりその存在(とその消失)が認められており、それ以外には認められようがない」 というようなことが書かれているのか? 往古の日々。 初めて『資本論』を手に取ったのは中学三年の頃であった。 正月に祖父母と両親が食卓を囲んで談笑していた頃、爺さんの書棚にも『資本論』が刺さっていた。ビッシリと書き込みがあって、インテリだった爺さんを尊敬し、そのことを祖父母に伝えると、爺さんも婆さんも「まだ早い」と言っていた。 爺さんは「こっちを読め」と言い、岩波の『罪と罰』を貸してくれた。 婆さんは「それも早い」と言っていたが、いま、遥か西の方でおそらく私を見ているであろう爺さんと婆さんは、何を話しているのだろうか。 探しものはまだ見つかっていない。
2006/02/26
ここ2~3日、いくつか日記らしきものを書いてはいるのだけれども、いずれもアップには至っていない。いずれもたいしたもんではないのだが、やっぱ公開するには一応構成とか考えなきゃ……と、余計なことを考えているせいだ。 いやそれは決して「読んでくれる方に失礼のないように」とかいうことではなくて、単に「読んだ人にほんの少しでも賢く思われたい」だとか「面白い人だと思われたい」という、当方のスケベ心が大半なのではあるわけなのだけどもね。 ※ なんかいま、改めて↑のように書いてみたら、急にいろんなことがバカバカしくなってきた。人間っつーのはいろんな行動のなかに、この「スケベ心」っちゅーのが割り込んでくるもんですな。はあ。 ※ 閑話休題。『ダ・ヴィンチ・レガシー』(ルイス・パーデュー著/集英社文庫)という本をご存じだろうか。大ヒット作となった『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン著/角川書店)の二番煎じを狙ったセコい翻訳文庫本で、昨年2月に出版。それでも一連のダ・ヴィンチブームにあやかって、四版を重ねて4万5000部のスマッシュヒットになっている。(なお余談ではあるが、著者のルイス・パーデューは「『ダ・ヴィンチ・コード』は自分の著作からの盗用である」として約168億円の請求と出版差し止めを要求する訴訟を起こし、一審で敗訴しているらしい。ソースはここ。原著は『ダ・ヴィンチ・コード』よりも『ダ・ヴィンチ・レガシー』のほうが先に出版されたようだ。ややこしいねえ) さてしかしこの『ダ・ヴィンチ・レガシー』。 比較的新しい本にも関わらず、上記リンクの版元直系書籍販売サイトでは「在庫なし」と表記されている(Amazonでもユーズドのみ)。昨年5月に版元(集英社)が手持ち在庫8000部の断裁と回収を決定したからだ。 なぜか。 差別表現があると指摘され、全芝浦屠場労組と交渉を開始したためである。 問題となった表現は、殺人シーンの比喩として「まるで屠殺小屋だ」と書かれている部分。 翻訳前の原文は「It was a slaughter house」。直訳だ。「そこは(まるで)屠殺小屋だった」としか訳しようがない。 集英社と全芝浦屠場労組との話し合いは紛糾、難航を極め、和解にいたったのは昨年12月。2回の確認会、10回ほどの交渉を経て、集英社が社内全部署を対象とした研修会、説明会を実施することを約束することで、決着したという。 それを受けてか、『ダ・ヴィンチ・レガシー』は2月6日に重版されるようだ。 当該カ所がどのような表現に変わっているのか、私は注目している。 ※ 比較的制約が少なく、書きたいことが自由に書けるネット界ですら、ほとんど表に出てこないテーマがある。上記のような、差別表現にたいする被差別側からの指摘、糾弾だ。 小林よしのりが95年に『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』を発表して以来、明らかに世間一般の差別表現、もしくは被差別者そのものに対するスタンスに変化が見られた。このマンガは、一部では「解同(部落解放同盟)べったり」という批判もあるようだが、しかし、メディア界(特に出版界)において、差別表現に関するあるひとつの潮流を作り出したのだ、ということは記憶されねばならない。 それは、『ゴーマニズム宣言差別論スペシャル』以降、メディアは差別表現について、「語ってもいいんだ」という風潮に大きく傾いているということである(「差別表現を使ってもいいんだ」とは書いてないし思ってもいない)。 むろん私個人は、差別表現については広範な議論がなされるべきだと思っているし、現在の風潮を大いに歓迎している。従来語られる機会の少なかった(一般の人が目にする機会の少なかった)食肉加工業や皮革加工業の実情、あるいはもっとストレートに被差別部落に関する書籍が、中堅クラスの書店にさえ堂々と平積みされる昨今の時流を見て、嬉しく思っている。 差別表現を含む差別に関する論考は、各所でどんどん行なわれるべきだ。 なぜなら現代差別に付いてまつわる多くの「悲劇」は、ほとんどのケースで差別側の無知・無理解に拠るものなのだから。(むろん、被差別側の無知・無理解によるケースだってあるだろう→「こんなことでここまで差別されるなんて思ってもみなかった」等) ※ では差別表現が比較的広範に議論されるようになってきた現代において、なお「ネット界ですらほとんど表に出てこない、差別表現にたいする被差別側からの糾弾」とは何か。 その差別糾弾が妥当なものである、とされるケース。 もしくはその差別糾弾が妥当であるかどうか、微妙なケースである。 冒頭に紹介した『ダ・ヴィンチ・レガシー』を巡る問題などは、まさにこのケースであろう。4万5000部も刷った本(なお重版が決定)について、7カ月におよぶ大手版元と屠場労組との交渉があり、そういう事実がありながら、この問題がネット場ですら取り上げられる気配はまったくない(Yahoo!、Google、インフォシークを使ってかなり頑張って探したが、当該図書の差別表現についての論考を見つけることができなかった。もし「あるぞ」という方はご一報を)。 例えばある差別表現についての糾弾が、明らかに過剰であったり執拗であったりする場合、つまり差別糾弾側が世間一般常識に照らしてどうも過失があったとされる場合、この情報化社会ではすぐに話題にのぼる。2ちゃんねらーやブロガーを含む多くのネットユーザーは、そうした話題が大好きだからだ。 メディア側もそこは承知しており、「これは世論の支持が得られそうだ」と思った場合は、だいたい(直接表現を避けたりリークしたりと)姑息な手段を使って視聴者や読者を煽ったりする。 そうすることによって、結果的にその「ある差別表現と、その糾弾」は多くの人の話題に登り、議論されることになる。『ちびくろ・さんぼ』復刊問題や手塚治虫の一部作品についての「注」、筒井康隆の断筆宣言にまつわる「言葉狩り」問題などは、その表現の差別性が多くの人に広く語られることによってはじめて、結果的に差別側にも被差別者側にも、もちろんそれらの作品を愛する多くの読者にも、大きな収穫をもたらしたと言っていいだろう。 けれど。 重ねていうが、「ある差別表現」について、(1)差別指摘・糾弾が妥当なものである、とされるケース(2)差別指摘・糾弾がグレーゾーンであるケース 上記について、特に差別糾弾側と被糾弾側との和解が成立したケースについては、ほとんど一般に広まる機会は失われてしまう。 ※ こういう現状は、もちろん私は問題があると考えている。 何度も書いて恐縮だが、差別表現についての論考は、多くの人が広くなされることによってこそ意味があるからだ。 現状ではただただ、「差別だ」と指摘を受けた側のメディアが、その差別表現について語られる機会の可否を握っている状況であり、それこそ「いまある差別を不当に隠すこと」にほかならない。『ダ・ヴィンチ・レガシー』の一件ならば、集英社はこの事実を広く公表し、一般からの意見を聞くべきだった。「その表現は不当な差別だ」とする全芝浦屠場労組も、可能なかぎり「我々はこの表現を不当な差別だと指摘し、その正否について広く問いたい」と声高に公表してほしい。 可能性はまだ残されている。2月6日に重版となり再発売となる、『ダ・ヴィンチ・レガシー』の第五版である。この係争の事実は(注なりなんなりで)そこに記載されるのか。それともしら~っと当該部分を削除あるいは改変してお終いか。 私は注目している。 ※ なお、この『ダ・ヴィンチ・レガシー』における「まるで屠殺小屋だ」という表現についてだが、私は「控えられるべき不当な差別表現であり、糾弾されてしかるべきものだ」と考えている。 私はずいぶん前に屠殺場を見学する機会に恵まれたが、そこでは衛生管理と整理整頓が行き届いた現場にて、畏敬に値する手技を発揮する加工者が黙々と作業に従事していた。当該「殺人シーン」が描写するような場所では決してなかったのである。 その記憶と「殺人シーン」とを比べると大きな乖離があり、当該表現は比喩として激しく不適当であるとともに、食肉加工業者にたいして誤解と不当な差別を招くだろう、という確信が私にはある。それが「糾弾されてしかるべき表現」とする根拠である。(ただ私は、著者であるルイス・パーデューが表現した米国の「Slaughter house」の実情は知らないわけだが) もちろんこれは非常にナイーブな問題であって、「では比喩として適当な場合はどうするのか」(例えば「衛生管理と整理整頓が行き届いた現場にて、畏敬に値する手技を発揮しつつ殺人を犯すシーンの描写」だったらどうか)とか、あるいはそもそも「slaughter」という単語に「食肉解体処理」という意味と、「残酷な殺人、虐殺、大量虐殺」という意味が同居している、という、文化としての言語問題などが存在している。 だから私は、「この本のこの表現では、不適当だ」とは判断するが、それが画一的に計れるものではないと思っている。そういったことは重々承知したうえでこれを書いている、ということはご理解いただきたい。 じゃあ出版社側(本件では集英社)はこうした場合、どうすればよかったというのか。 翻訳時に「注」をつければよかったのである。自分たちはこれこれこうした判断に拠ってこの表現を使ったのだ、と、初版時から書いて示すべきだったのだ。それが「著者の比喩は適当であると思う」でも、あるいは「これは不当な差別を助長する不適当な表現であるが、そのまま出さないと著者も翻訳者もうるさいので出した」でも構わない。 そうしたある種の信念を示すべきなのである。この信念や覚悟の不在が(あるいはその覚悟や信念の「表記・表明の不在」が)、おそらく今回、屠場労組の怒りをいっそうかき立てたことは容易に想像できる。 むろんそのうえでなお、屠場労組からは指摘や糾弾を受けたかもしれない。 それが面倒でやっかいなことだということはわかる。 けれども文化とは、そもそもそういう「面倒」なものなのであり、大手メディアは「自分たちは文化を守る」と常々、ヌケヌケと言っているではないか。 都合の悪いとこばっかり、しらばっくれるなよ。(なお、上記の部分は2月6日以降の第五版にてしかるべき注記があるか、あるいは以降に集英社より本件に関して一定以上の広報・告知があった場合には、お詫びして訂正する用意がある) 私の探しものは、まだ見つかっていない。 最後にひとつ。 記事文中に書いたように、差別における悲劇の多くは無知・無理解、加えて不勉強に拠っている。私自身、自分の(差別および差別表現についての)無知・無理解・不勉強は重々承知しているつもりだ。だから、というわけではないが、本件に関する私の無知・無理解・不勉強に拠る間違い、勘違いなどを発見した方は、お手数ではあるがどうか当コメント欄に書き込んでほしい。
2006/02/03
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