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東京の桜はただいま八分咲き。 今日18歳のモデルさんと仕事したんだけど、事務所から「これよかったらどうぞ」と言われて渡されたのが、その子が14歳の時に撮ったイメージビデオだった。先ほどPCでチョロッと再生したら、水着姿で戯れており大変可愛かった。 んだけど。 そのDVDは数万枚売れたそうで、で、そのDVDを買った野郎どもはどういう目的でその動画を見るのか、ということを考えたら、かなり暗い気分になった。 いや可愛いんだよ。凄く。 この可愛さは多くの人に認められるべきだとも思うし、この子自身は体を張って商売をしているわけで、それに値する対価を受け取るべきだと思う。 けどね。14歳だよ。 私が「資本主義なんかクソったれだ」と思うのは、こういう時なんだよね。 ※「別れた。悲しい。なんか奢れ」という大変簡素かつ直情的なメールが古い女友達から届いた。かねてから相談するたんびに「早く別れろ」と、ムダと知りつつ(誰からだろうが他人から言われたことで信念を曲げるような女ではない)言ってきた手前、「よしゃ。奢ってやる。なんでも好きなもん言ってみろ」と返したら、「コンラッドのゴードンラムゼイでディナー」 とか書いてきやがった。 ちょwwwwwww「女というのはだね。恋が終わるとお腹がすくのだよ」 ということを書いてきたのだが、いやそれはわかるんだがそれと夜景が飛び切り綺麗な高級フレンチとの繋がりがよくわからん。 ずいぶん昔、村上龍が友人として、とあるいい男といい女の別れ話に立ち合った時のことを書いていた。 どうしようもないどん詰まりの関係に陥った二人は、静かに別れ話をし、女は美しい涙を流していたそうだ。 大粒の涙を流しながら女はしかし、話が終わると村上の奢りで出てきたこれまた飛び切りのステーキをパクパクと食べ始め、「リュウさん、美味しいっ! これ美味しいのっ!」と言い、1人前きっちり食べ切ったそうだ。 もちろん泣きながら、である。 こんな連中と真剣勝負するなんて、間尺に合わんと思う。 俺達が「勝った」と思った瞬間のたいていは、勝たせてもらっているのだ。 というわけで養老の瀧にならんかのう。 ※ 話は極端に変わるわけだが。 クラシックで『春』といえば、おそらくビバルディの『四季』にある、協奏曲第1番に付けられたタイトルが一番有名であろう。中学校の昼休みとかにかかっていたあの曲だ。 けれど私はベートーベンのバイオリンソナタ第5番のほうが、なんだか好みである。 ベートーベンのバイオリンソナタは10番を除いた1~9番(私が持っているCDには第9番とセットで5番が収められている。どちらもオススメだ)を、彼は30歳前後の時に作ったと言われている。 1770年の年末、ドイツのボンに生まれたベートーベンが30歳前後といえば、全ヨーロッパの関心が、フランス革命とその鬼子として誕生し好き放題暴れ回っていたナポレオン・ボナパルトに向けられていた時代である。 ベートーベンのラインナップをふと眺めて見る時。 後年に作られた偉大な交響曲の数々はもちろんスーパーウルトラ大傑作ではあるけれども、私はこの、「自分が生きているこの時代の大変革期に、俺は音楽で世界を変えてやるのだ」という意志に満ちあふれた「バイオリンソナタ第5番」が、なかなかに気に入っているのだ。 ※ 私はクラシック音楽に興味なんかない。 フランス革命史にも暗いしベートーベンの人生もよく知らない。 ただ10年くらい前に「こういうの聞いてたらカッコいいかなー」と思って、ワゴンセールのなかから数枚取り出したCDのなかに、これが入っていただけの話だ。 歌詞カードの代わりに入っていたライナートートにベートーベンがこのピアノソナタを書いた経緯が簡単に書き留められており、そこで「春」という副題はベートーベンの死後に誰かが付けたものだと知った。 まこと「春」というタイトルが似合う楽曲だと、何度聞いても思う。 ※ 汐留の47階にある高級レストランの名前だとか。 クラシックとか。 フランス革命史だとか。 こういうことを知っていると、一般的に便利だったりする。具体的には女の子と話す時に、守備範囲が広がる。美少女フィギアの制作者だとか声優の本名だとか、鉄道模型だとか軍事とか政治思想だとかよりはずいぶんマシだ。 差別だよなあ。でも「していい差別」だよなあ。 なんてことを少し考えた。 探しものは見つかっていない。 男と別れた女友達にDVDをプレゼントしたら嫌われるかなあ。うーむ。
2006/03/29
桜がチラホラ咲き始めましたね。いい季節です。 毎年この時期になるとネットを中心に大きな事件が起こる、という印象があるんだけど、どうなんだろうか。 さてさて懸案となっている町山論争の本論なんだけど、まあボチボチ書いてはいる。いるけど出さないかもしれない。それを出すまで日記も書けないというのもバカバカしいので、あえてそれ以外の話題をば。 ※ トヨタ自動車の会長であり経団連の会長も務める奥田碩氏が、講演で「勝者が報われ、敗者も次のチャンスが与えられて、努力次第で勝者になれる仕組みを作るべきだ」と発言したそうだ。(ソースはここ) 発言の一部分だけを切り取ると意図が伝わらないのであらかじめ書いておくと、奥田会長は上記発言の前に「(格差社会は)高齢化や核家族化などが背景にあり、(小泉首相の)構造改革の影響ではない。誤った印象論で構造改革を中断するような事態は避けるべきだ」と言い、「そのうえで」と前出の言葉につなげている。 ※ 政界や財界でいま活発に議論されている「格差社会の是非論」が、なぜかどれもこれも白々しく響いてしまうのは、その根底に「人間はみな平等である」という「庶民にはとても同意できない前提」があるからだ。 奥田会長といえば近年稀に見る「物事をハッキリ言う人」ではあるが、その奥田会長ですら言えないことがある。人間は平等ではない、と。格差なんか生まれた時からある、と。 小泉首相が「格差がでるのは悪いことではない」と言い、なぜそれが問題になるのか。 その論議が本質的に転倒している原因がここにある。 格差はあるのだ。それは生得的に存在している。 日本の中流家庭に生まれるのとアフガンでゲリラの子として生まれるのと、その後に歩む将来が平等であろうはずがない。もっと根本的な話をすれば、小谷野敦、宮崎哲哉、内田樹らが主張しているように、こうした議論には常に「遺伝」(および初等育児環境)の格差についてまったく無きがごとく取り扱われている。 少年ジャンプとバラエティ番組しか見ない家庭で育てられた子と、岩波や筑摩の全集をシリーズで揃え、TVはNHKしか見ない家庭で育った子とで、学校での国語力や会話での語彙に【差が出ない】と主張できる者を、私は知らない。 私は少年ジャンプと夏目漱石全集とで、どちらが高等でどちらが低俗かなどという話をしたいわけではない。『ワンピース』からは高校入試問題は出ないし、マンガしか読まずに育てば語彙は貧困になると言いたいのだ(このブログを見よ。なんと貧困なことか)。 格差は最初から存在する。それも埋めようの無い格差が。 ではなぜ小泉首相の「格差は悪いことではない」という発言が問題視されるのか。 それは「近代国民国家」という、いま我々が暮らす社会そのものが、「できるだけ格差を減らそう」という目的のもとに設置されたシステムだからだ。 あなたと私は違う。 頭の中身も顔も性格も倫理基準も道徳観念も好みの異性も好きな食べ物も、もう何もかも違う。それは埋めようがない。その本来埋めようがない「差」を、「国民」という名の元に塗り潰す効果を狙ったのが、「近代国民国家」というシステムなのだ。 なぜか。生産性を向上するために。軍事力を増強するために。共同体を強固にするために。今日より明日はもうちょっとだけ豊かになれるように。身近な不幸を目の当たりにして後ろめたくないように。 そうした理由で、人は近代に入り、民主主義を作って「国民国家」を創出した。「格差がいいか悪いか」などという議論をしたいわけではない(そんなものは最初から存在している)。議論の前に、目的を忘れてるぞコラ、という話をしたいのだ。 現在の日本政府および小泉首相が、「格差社会」を歓迎することについては、私は賛成も反対もしない。ただ目的をすり替えるのであれば、ひと言あってしかるべきだろう、とは思う。 探しものは見つかっていない。 まだ花粉とんでるよね。嗚呼。
2006/03/27

町山論争関係のエントリーがいっこうに進まない。 終わるのかコレ。 そんなわけで期待して見に来てた皆さんすいません。 ※ 雨降ってるね。 日本は3日にいっぺんは雨の降る国です。それはつまり、人生のうち3分の1は雨に出会っている日があるということだ(そのまんまですね)。まあここでは何度も書いているように「雨」というのは日本列島の風土を象徴するような気象なわけで、だからしてえらいこと古くからたびたびモチーフにされてきた。 どれくらい古くからかっつーと、古事記&日本書記から。 つまるところ、遡り得る一番古くから語られているわけです。 放蕩息子で暴れん坊のスサノオが勘当を喰らい、「姉ちゃんこれで許して」と言って天照に献上したのが天叢雲剣(雨叢雲ぢゃないよ)でして、叢雲というのは積乱雲を指すといわれてます。 この剣はヤマタノオロチの尻尾からポロッと出てきたもので、それに関する神話解釈は諸説紛々なわけですが、まあ一般的にはヤマタノオロチは「山」を指し(「洪水、水害」を指すという説も有力)、叢雲は文字通り雲を呼ぶ剣なわけです。 山に積乱雲が立って雨が降り、それが川に流れ落ちて清流となり、稲田に豊作をもたらす、というような解釈が、私は好きであります。 ※ 町山智浩関係はまあボチボチ書いているんだけども、ふと自宅の本棚を見ると町山と同じ映画評論家の(さすがに格が違うけど)蓮實重彦の『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』(青土社刊)が目に付く。 おお久しぶり、と思ってパラパラめくると、やっぱり蓮實はメタメタに面白いわけだ。 蓮實といえば元東大総長なわけで、ある講演が終わったあとに、質疑応答の時間に学生から「用語が難解すぎてよくわかりませんでした。なぜ大学の先生の講演はこんなに難しいんですか?」と問われたお人。 おそらくこれは一時期流行ったソーカル事件あたりで顕著になった流れのひとつで、いわゆるインテリと呼ばれる人に対して「賢しらに振る舞ってるだけぢゃねーの? ホントに理解して使ってんなら俺達にわかるように話せよ」だとか、あるいは「知識人はもっと大衆に寄り添うべきだ」みたいな魂胆が学生にあったのだと思われる。 そんな質問(というか揶揄?)を受けて蓮實重彦御大答えていわく。「(難しいと思うのは)それは貴方がバカだからです。」 と一刀両断にしたのが有名な大先生。 まあ私のような愚民はただひたすらリスペクトするより仕方がない方であります。 ちなみに私は縁あって一度だけ蓮實の講演を聴いたことがある。すげーわかりやすくてしかも面白かったわけだが。「学生たちとの団交の席で、教師たちがつぎつぎと野次り倒されたが、蓮實重彦だけは、ほとんどポーカーフェースで、静かに、学生たちと討論した。私は蓮實の説得術を見て、いままでとはまったく異なるパラダイムで物を読み出す方法があるのに驚嘆した。もちろん学生たちは誰一人として蓮實重彦に太刀打できず、団交はいつも学生たちの空振りに終った。」(辻邦生著、『海燕』第11巻第9号の記述。こちらより孫引き) まあ上記のような具合である。 講演録は「蓮實重彦 講演」で検索するといくつか読めるのでご参照あれ。 温和な表情と柔和な語り口で、内容は高度なのにスルスルと頭に入ってくる。 そんな蓮實が語ったものだから、「中田(英寿)は日本のスポーツ記者を全員バカだと思っていて、それは正しい」だとか、「バカばかりがスポーツを語るから美しいスポーツが生まれない」だとか、まあ過激なわけだ。 そのうち使うだろうと思ってフリーページに引用しといたオルテガ(『大衆の反逆』)しかり、ニーチェ(『道徳の系譜』)しかり、このへんの系統だとハイデガーやポパーやフーコーも入るのかな? とまれ、「バカが大嫌いで、ちゃんとバカにはバカと言う」を実践するスーパーインテリの書くものは大変面白い。「ああなるほど確かに、サッカーは文化なわけないな」だとか、「動物たちが見せる文化の破壊を楽しむ」だとか、そんな記述にフムフムと言っているうちに時間は経つもので。嗚呼仕事とかブログで書こうと思ってたことは後回しに。 探しものは見つかっていない。 大掃除の最中こそ、出てきたアルバムを眺めひたってしまうような感じ。 やめられない止まらないごめんなさい。 でもって下はネットで拾った画像。蓮實重彦が東大総長時代(画像の「前」はあとで加えられたもののようだ)に学生が作ったコラージュ。これ、山下耕作監督(1968年)が撮った『総長賭博』の宣伝ポスターを、主演の鶴田浩二の顔を蓮實に置き換えてTシャツにプリントしたもので、実際ネットで販売されてたそうだ。 ほ、、、、、欲しひ。。。。。
2006/03/16
「序論」と偉そうに銘打っておきながら、本論をアップするかどうかは未定。 なんか少年漫画の「未完」みたいだ。 ※ のこのこ映画を見に行ったこともあって、3月10日の日記で取り上げた、町田智浩の『ホテル・ルワンダ』論争について書き始めた。……んだけども、関係サイトをぐるぐる回ってあれもこれも、とリンク貼ったり自分の立ち位置を確認してたりしたら、あっという間に2時間近くたってしもうた。 なんだかメタメタ疲れたんで一時中断。ギブっす。 時間を見つけてちょぼちょぼ続きを書いてはいるけれども、完成したとしてもアップするかどうかわかりません。まあ「なにがどう問題になっとるんだ」という方は下記リンクでも読みつつ気長に待っててくだせい。端緒となった、町山パンフレット全文http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831各所で論戦を巻き起こした端緒の記事http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225 もはやタグ打つ気力も尽き果て。 書いている内容はいろいろあるんだけど、最後の一文に関する違和感だとか町山の狙いだとか、そんなことを考えてまつ。 ※ ちょっと唐突だけど、私は「普遍的な倫理」とかいう文言が出てくるとゲンナリしてしまう。そういうものを求めてしまう心象は理解できるんだけどね。や、そういうことを書いている人がいてね。なんかもう優生学とか「人類補完計画」とかまであと一歩だなあ、とさえ思ってしまう。「普遍的な倫理」なんちゅーものが「ある」と思える心象に憧れさえ抱いてしまうとともに(皮肉じゃないよ)、そういうものを求める発想が虐殺を巻き起こしてきた事例もあるだろうになあ、とも思う。 例えば特定の宗教や特定のイデオロギーや特定の民族感情があったとして。それらはそれぞれ「人」に対して功罪があって、平たくいえばそうしたものは、他者に対しての虐殺を防ぎもするし、加速させたりもする。 町山論争では「職業倫理」とか「家族愛」とかが取り上げられているけれども、このふたつだって人を殺しもするし、助けもする。そんなことは町山が踏まえてないわけないじゃないか。町山が、さも「職業倫理を貫けば人は救える(ルワンダで虐殺を防いだ)」と読めるように書いたのは、もちろん理由がある。と思う。 町山はこの映画を見せることで、お前ら「虐殺」のこと、「世界」のこと、「歴史」のことを、もうちょっと考えてみてくんない? と思っていて、おまけに「もし万々が一、この映画を見たことで、見て考えたことによって、虐殺なんちゅう悲惨なことが起こる可能性が、ほんのちょびっとでも減ればいいなあ」とも思っちゃっている。 そのための仕掛けとしてあの一文を盛り込んでいるのだ。そんなのわかってるって? いいや、わかってないね。町山は1月14日付けの記事で「観客一人一人の中にある排他性、つまり虐殺の芽を摘むことなのだ」と書いたすぐあとに、2月25日には「『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない」と嘆いているのだ。 町山はプロのエンターテイナーだから、心の底では「映画で人が救える」なんてことは考えていない。絶対考えてない。と思う。映画も音楽も演劇も文学も、人が背負ってしまった業(人は他者との関係性に立脚しなければ人たりえないにも関わらず、人を殺し続けてきたしこれからも殺し続けるだろうということ)を軽くすることはできない。 ただそうした物語は人類史の誕生からずっと「涙を拭くハンカチ」として機能してきたし、これからもそういうツールとして存在しつづける。人間はそういうものが必要なのだ。 だから町山のようなインテリは、(あたかも芥川が「小説」というツールに悲壮な決意を込め続けたように)「救えやしねーよ」という確信を持ちながらも、「映画っていいもんだろ」といい続けているわけだ。 そういうところをまるっと無視してあれこれ言うのは、そりゃなんつーか。 可哀相じゃね? ※ いろいろブログを回ってる過程で、「映画評論家なんかに、“その映画の見方”なんかを説教されたくない」なんていう表現を見かけた。誰も「見方の説教」なんかしとりゃーせんし、そんなことを言うならパンフレットなんか買わなきゃいいのに、と思った。あとそういうことをブログで書くのは「見方の説教」ではないのだろうか? わからん。 ※ そうこうしているうちに仕事も煮詰まってきちゃったんだけど、昨晩聞いた世界一不幸な女性の逸話を思い出しつつ頑張ってみる。 俺よりだいぶ不幸な女の子がいる。だから俺も頑張れ。 そんな感じで仕事してます。 いま地獄の底のほうから「おのれぇ~」とか聞こえてきたけど、耳なんかとっくに塞いでるしそもそも涙で前が見えない。まあしょーがないよ。私は一回くらいヤってんじゃねーか? といまだに思ってるし。 ※ 昨夜遅くにTVをつけたら自民党の武部幹事長が「謝罪広告を載せるということなので、(民主党や永田議員にたいして)民事でも刑事でも告訴しない」という旨の会見を開いていた。 永田議員は国会内で武部に対して「金に汚いのは貴方じゃないですか!」などと言っていて、それについては小谷野敦先生が3月2日付けの記事(気力と礼儀でタグ打ち込み)で、「憲法五十一条に、国会議員が議院内で行なった演説等について、院外で責任を問われない、とある」と書いてらっしゃる。「特定人物の名誉が毀損され、自殺した事件でさえ、国家賠償法による賠償請求は最高裁で棄却判決が支持されている」として、判例を引用している。 判例の理由を読んでみたが、まあ妥当な理由だ。 国会議員の発言責任は国民全体に対して負うものであって、特定個人にはない。国会で名誉棄損だなんだと騒がれることで、議員の自由な発言が阻害されてはならない、ということだね。 そりゃわかるんだが。 小谷野先生は「責任追求など不可能である」とおっしゃっているが、武部は一応それらの判例を踏まえているっぽく、永田議員の「国会内の発言」ではなくて、「TV等での発言」に対して告訴を準備していたようだ。いまソースを探してたんだけど、面倒くさくなったんで捜索中止。 確か『TVタックル』かなんかで永田議員はたいそう吠えていたから、それについて告訴するつもりだったんじゃないかなあ。 ※ あー。ちょろっと書くつもりがだいぶ長くなってしまった。 私には、文章をもうちょっと適当に書き流す訓練が必要だ。 探しものはまだ見つかってない。
2006/03/15
日本中のスギを切り倒してほしい。 気力も体力も尽き果て(もともとそうたいしてあったもんでもないが)、屋内でジッとしている。 ※ 会社のすぐそばにお花屋さんがあって、通勤の途中やお昼を食べに外にでるたびに、「ああ今日もキレイな花が咲いているな」と思う。 たまに「花束でも買って帰ろうか」なんてことも思ったりする。 そういう時、家に買って帰った場合に一緒に喜んだり、「いったいどういう風の吹き回しだ?」と怪訝に思ったりしてくれる相手がいることに、少し幸せな気分になる。 自分の行動にたいしてなんらかの反応が帰ってくる。 それが期待できる。 もしもそれができないとしたら。 恋愛というものが人のコミュニケーション欲発露の一種だとするならば、この「何かを贈りたい、何かを発したい」という感情の受け止め先を求めること、その感情そのものが、ものすごく生のかたちをした「恋愛」なんじゃないかとぼんやり考える。 ※ 久しぶりに鴻上尚史の『プロパガンダ・デイドリーム』(白水社刊)を読み返している。 殺人事件を起こした息子を持つ家族が、いかにしてメディアに翻弄され、それに抗うか、というストーリーの骨子に、恋愛をまぶした感じの戯曲だった。 殺人者(長男)を家族に持った父は「世間への謝罪」を拒み、母は自殺し、長女は絶望する。そんななか、主人公である次女は一編の小説を書き上げ、それを話題にしてほしいと、ルポライターやテレビ局のプロデューサーに売り込んでいく。 その小説は「傷ついた者」を癒す教祖が登場し、信者の悩みや苦しみを理解しつつ、昇華し、「世間」と戦うモチーフとなっていくストーリーだった。暗号の羅列のようなこの小説を、売れないルポライター・山室はただひとり理解し、それを書いた次女の感情に思いを寄せる。 まあいつものとおり、モチーフがわかりづらい。ただ鴻上の作品はどれも、演劇というツールを用いて観客(および読者)に「わかってくれよ」という悲痛な叫びが描写されていて、その悲痛さゆえに心に残る。「私(俺)を理解してほしい」というのは、非常に原始的でなおかつ根源的な願いだ。だからこそ、わかりやすく響く。 ちなみに『プロパガンダ・デイドリーム』には冒頭に、“「新しい教科書を作る会」の西尾幹三郎氏”というキャラクターが登場する。アイパッチをした軍服姿で登場し、日の丸をバックにして、『君が代』をケータイの着メロにしている女子高生に対し、そんな女学生は、銃殺だ。それが嫌なら、従軍慰安婦にさせろ。 と言う場面がある。 なかなか上手な戯画化だった。 ※ 毎日新聞が朝日の笑える体制変更を報じている。 ここね。 記事によると、社員のメールとweb閲覧記録を3年間保存しておいて、調査委員があとでチェックできるようにシステムを変更するそうだ。「情報源と微妙なやり取りもある。会社に見られる可能性があれば使えなくなりますよ。自由な言論を掲げる報道機関が検閲まがいのことをするのかと、みんな呆れてます」(中堅記者) いままでチェックしてなかったのか、と驚いたのがひとつ。 見られて困る(横やりが入る可能性が高くなる)ようなやり取りをメールなんかですんなよ、というのがひとつ。 でもって、もうなんというか。 これ以上ないほどに、「報道機関」という存在自体が絵に描いた餅だった、ということを裏付ける記事だね。えー、お前らそれ、食えると思ってたの?? みたいな。 この監視システム導入のきっかけとなった出来事のひとつに、「朝日新聞vs.NHK問題」で話題になった『月刊現代』への記事素材流出問題が挙げられているという。 古い友人がセコセコとweb上に要点を書き写していた例の「証言記録」である。お疲れさま。 このNHK番組改編問題を追いかけ続けていた朝日の名物記者、本田雅和は、この4月1日付けで「アスパラクラブ運営センター員」に異動になるとのこと。どこだよそれw。毎日の記者が本田自身に「今回の異動に何を思うか」と電話で直撃取材したところ、「くだらないことを聞くなよ。ジャーナリストなら、もうちょっとまともなことを取材したらどう?」 と答えて切ったそうだ。 ま、確かにまともじゃねーわな。アンタの動向は。 せいぜい「アスパラクラブ」で頑張ってくだせい。 私の探しものは見つかっていない。 メディアなんかに何かを仮託するなよ。莫迦を見るに決まってるんだから。
2006/03/13
花粉がひどくて仕事する気力がまったくわかない。 今日は雨なので少しマシ。しかし寒いね。 ストレス解消に買い物でもするべえとAmazonを回って、こちらを予約。カエラ好き属性ではあるのですが、主な目当てはもちろん白井ヴィンセントだぜ。 つばカッター&微笑み返しサイコー。 ※ この週末は、リスペクトしている物書きののひとり、町山智浩が「見るべし」と推薦している『ホテル・ルワンダ』を見に行こうかと思っている。 粗筋や歴史背景の紹介はこちら。 町山の推薦の言はこちらを参照。 映画は10年前にルワンダで起こったフツ族とツチ族の虐殺劇を舞台にしており、そこで職業倫理を貫いて1200人を守ったあるホテルマンを主人公にして描かれている。(上記町山のブログより引用) 孤立無援のポールさんを最後まで支えたのは、愛国心でもキリスト教の教えでもなく、ホテルマンとしての、接客業としての職業倫理だった。 つまり「どんな客も差別しない」ということ。接客業では、店内に入ってきた人を、たとえ客でなくても、どんな服装をしていようと、どんな人種だろうと、基本的にお客様として取り扱うよう教育される。もちろん「他のお客様のご迷惑になる」時は出て行ってもらうこともあるが、「追い出す」のではなく「お帰りいただく」わけだ。 ルワンダは国家をあげて虐殺を推進し、キリスト教教会でも虐殺が行われた。 国家や民族や宗教が、隣人への差別と憎悪を押し付ける時(戦争時はたいていそうだ)、 ポールさんは職業の倫理だけに従うことによって、多数派から独立した判断を貫いた。(中略) ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。「ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」 つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。(引用終了) 町山は映画館で購入できるパンフレットにも「解説」を寄稿しており(この映画の公開のためにそのほかいろいろ尽力してきたらしい)、その最後の一行に「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」と書いた。 そのひと言について「なーんだ、町山って“ウリはいつでも被害者ニダ”の人なんだ」と思ったブロガーがいたようで(町山の父親は韓国籍)、「中等教育は受けたのか?」と町山に反論を喰らっている(こちら)。 平たく言うと、素人ウヨDQNが宝島出身の元祖サブカル保守論客相手に(準備も覚悟も素養もないまま)ケンカを売り、逆に馬乗りになられて(言論で)ボコボコに殴られた、ということのようだ。 一部コメント欄で「町山は大人げない」なんちゅう意見があるようだが、まあネットでの批評で大人げないもヘッタクレもないわな。戦闘力の差が圧倒的なのは、別に町山のせいじゃない。 ※ このホテルマン自身が固執し、1200人の命を救った価値観とは、平たく言えば「誰が使おうと1ドルは1ドルである」という資本主義イデオロギーだ。その根底には人権思想が流れており、そこには旧来の価値観である「人種、民族、宗教」といった人間区分方式ではなく、「客とサービスマン」という区分が採用されている。 私自身は人権思想に疑いを持つ者ではあるが、民族的虐殺への対抗理念として、いまこの世界が持ちえている「使えそうなイデオロギー」は人権くらいしかないだろう、ということも承知している。 ここが難しいところであり、かつおそらく町山自身も持っているであろうジレンマとして、「人権だってそうたいしたもんじゃないけどな。でもしゃーないな」という思いがある。 人類史における虐殺と呼ばれる事件のほとんどは、ある支配的イデオロギーの「正義」により駆動されている。正しいと思うからこそビシバシと人を殺せるわけだ。「暴力」をどう管理するか。 哲学は約2500年間それに悩み続けており、決定的な回答に至ってはいない。「よりマシに」という願いのもとに唱えられた人権思想でさえも、そうした虐殺をイラクやアフガニスタンで見せつけてている。 ※ 最近私は米国で4年連続エミー賞を獲得した『ホワイトハウス』(米国名『The WEST WING』/スカパーで放映中)にハマっている。米国大統領とそのスタッフの日常を描き出したドラマで、なかなか見ごたえがある。 そのなかで印象的なシーンがあった。 大統領と個人的に親交のあった軍医の乗る輸送機が、ヨルダン上空でシリア軍の命令により撃墜される。報復攻撃を検討する参謀本部に対し、激昂して「徹底的にやるべし」と命令をくだす米国大統領。 興奮する大統領は補佐官に対し、語る。「二千年前、ローマ市民は世界中どこを歩いても彼を傷つける者はいなかった。なぜならローマ市民を傷つけた者は、必ずそれ以上の報復を受けると世界中に知れ渡っていたからだ」 ローマ市民が安全に世界中を歩き回るためには、カルタゴを初めとする周辺諸国の虐殺が必須であった。理想に燃える為政者の願いは、より多くの犠牲者の上にしか成り立たない。「世界中を安心して歩き回れる」などというユートピア思想を捨てないかぎり、虐殺はなくなならない。早大教授の文学者、松原正は「人間が人間であるかぎり、正義のために人間を殺し続けるだろう」と書いている。 ※ 上記の論戦についていろいろ考えているうちに、「アップするからにはパンフレットの解説くらい見といたほうがいいだろうなあ」と思って、いま買ってきて目の前にある(映画はまだ未見)。(町田の解説全文を読みたい方はこちらをどーぞ) ふーん、なるほど……。 こりゃ確かに意見が別れるだろう。最後の一文(「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」)に違和感を持つ人もいるだろうなあ、とは思う。私は持たなかったけどね。朝鮮人虐殺に抗った鶴見警察署長の逸話などが想起されたし。 私はルワンダ内戦に関して朝鮮人虐殺の例を引いたのは、妥当だと思っている。両事件の内実を知れば知るほど「違い」が気になるという気持ちはわからないでもないが、そもそも比喩や例題や想起というのは、ある程度の飛躍を内包しているもんだ。 まあこの件は、映画を見終わってからまた何か書くかもしれない。 私の探しものはまだ見つかっていない。 本件に関して「どういう感想を持つかは個々人の自由」とか書いちゃってる人がいて微妙に痛いんだけれども、町山が問題視しているのは「(否定的な)感想を持つこと」じゃないよ。準備も覚悟もないままに「感想を表明する」ことにより、他者を傷つけることに対して怒っているのは明白です。そこんとこ間違えないようにね。 叩くなら叩き返される覚悟くらいは持つべきで、その点については100%賛成。 叩いている自覚がないのが一番やっかいなんだよね。
2006/03/10
仕事の合間に買い出しに出かけたコンビニでよくかかっている楽曲が気になっている。百万回の「愛してる」なんかよりもずっとずっと大切にしてるものがある♪ というヤツだ。 いまネットで調べてみたら、Aqua timezというグループの『等身大のラブソング』という歌だった。たいそう流行ってるらしいね。周回遅れですまぬ。 メロディや声が気に入ったということもあるのだが、なにより「恋愛において百万回“愛してる”って言うのより大事なことってなんだろう?」というのが気になってちょっと調べた。 歌詞全文はここらへんを参照。 どうやら「百万回“愛してる”ということ」よりも、「相手を抱きしめる」とか「そばにいる」ということのほうが大切だと説いているようだ。 いい曲であるし買おうと思っているのだけども、私は作詞者のその主張には首肯できない。そういうことは実際に百万回、いや百回でいいので言ってみてから主張してほしい。(「とっておきの言葉を 熱く甘い言葉を(言えないから)いつもの喋り言葉で」というあたりの意味がよく掴めないんだが、「大切だ」とか「そばにいてほしい」とかなら言える、ということなのだろうか?) ※ 私が「言葉による現実変成能力」という概念を知ったのは、内田樹の著作からだった。これは内田の造語なのだろうか。いくつか内田のブログから抜粋するが、まあちょっと読んでもらったほうが早いのでいくつかリンクする。「想像の力」「言葉の力」「配架の愉しみと語彙について」 真ん中のリンクにある、バートランド・ラッセルの言を引用しよう(『論理哲学論』(L・ヴィトゲンシュタイン著/中央公論刊)序文より引用抜粋)。 私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのできないものを、私たちは語ることはできない。(・・・)世界は私の世界であるということは、言語(それだけを私が理解している言語)の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。(引用終了) 上記はどういうことかというと、私たちが認識できる「世界」は、私たちが持っている「言葉」(語彙)の範囲でしかない、ということだ。(むうう、余計わかりづらくなったような気が) 試みに例を出すと、最近レミオロメンの『粉雪』という曲がたいそう流行っている(「それも周回遅れ」とか言わんで。竜宮城 人外魔境にいるんだ。許してくれ)。こなーゆき~ ねえ 心まで白く 染められたなら~♪ というアレである。「粉雪」という言葉に適応する英単語は存在しない。「powdery snow」という言葉があるが、それはあくまで「粉末状の雪」だ。スキー場で言う「パウダースノー」と同じで、「粉雪」という単語が持つ情感は含意していない(もちろん別の意味が含まれることは承知している)。「雪」は降るものだが、「粉雪」は降るものではない。 舞うのである。 もちろんイギリスだってアメリカだって、雪は降る。 上空から「snow」がチラチラと降りてくれば「It snow」(雪が降る)と表現するだろう。雪原に一陣の風が吹き、微量の雪が舞い上がって景色を白く染め、それを窓から見ていれば多くの英国人は「美しい」と思うはずだ。 しかしそれは「粉雪が舞う」という言葉を持つ日本人とは、別の感じ方なのだ。 なぜならそれを表現する言葉を、彼らは文化として持っていないから。 誤解してほしくないのは、それをもってして英語圏の文化が貧しいだとか日本語は豊かだとかを言うつもりは寸毫もない、ということ。雪に関しての日本語の語彙はエスキモーの語彙よりもずいぶんと少ない。砂やラクダに関する語彙はアラビア語に遠く及ばない。 さてここで、例えば「粉雪が舞う」という表現を知らない日本人がいたらどうだろうか? というのを少し考えてほしい。 粉雪では一般的すぎて想像しづらい、というのであれば、内田センセが例に出した「瀰漫」(びまん)という言葉でもよい。瀰漫とはじわじわと瘴気を撒きつつ世間や人々に広まっていく、という概念だ。 そういう言葉を知らない人、語彙に登録されていない人にとっては、その概念は存在しない。「瀰漫」という言葉が持つ、じわ~っと人々のあいだに広がるなんとも嫌な感じは存在しない。 概念が存在しないということは、「それについて考えることができない」、つまり「ないのと同じ」ということである。アラビア人にとっては「ラクダ」は数十種類が存在する多様で多彩な生物だが、日本人にとってはラクダはラクダだ。逆に「米粒には神様が宿る」という感性(概念)を文化として持たないアラビア人にとっては、米は米にしかすぎない。 ※「愛している」とは、口に出して言うべきなのだ。 それは「大切だ」でも「そばにいたい」でもいい。 百万回でも二百万回でも言うべきなのである。(言えるもんならな) そしておそらく、言い手が(「とっておきの言葉」や「熱く甘い言葉」を想像できるほどに)「言葉」にたいして敏感であり、かつ相手を強く強く想っているのであれば、言い手はその時、「言葉の領域」に出会うことになるだろう。 自分の目の前にいるこの人に対しての、いまの自分のこの溢れるような感情は、「愛している」という単語が持つ情感に、本当にぴったりと一致している感情なのだろうか……? と。 それは「愛している」なのか? 「大切にしたい」なのか? 「そばにいてほしい」なのか? 「好き」なのか? 「いとおしい」なのか? どれもこれも適当なようで、適当でないようで。「言葉はいつも思いに足りない」 とは鴻上尚史の言葉である。 それは「言葉」の限界/境界を示している。 もちろんその限界は、新たな「言葉」を登録することで、ほんの少しだが広げることができる。 それは同時にその人の「世界」が広がることを示している。 以前にも書いたが、「言葉による世界の限界/境界」を「恋愛」という場面で知る人は幸せである。 多くの場合、それは「言語差別」だとか「階級」だとか、あるいは「上司に話が通じない」だとか「最近の若者は何を言っているのか理解できない」だとか、もっというと「辞世の言葉」だとか、そういう切羽詰まった状況で発現する。 ※ なお、本稿について、「そうはいっても日本には古くから“言わなくてもわかるだろう”とか“野暮なことを言わせるなよ”とかいう伝統があるだろう」と反論される方がいらっしゃるかもしれない。 私はその主張に一定の理路を感じているし、便利な概念だとも思う。 けれどもこういった「言葉の現実変成能力」についての論考にてそういう考えを称揚する方は、残念ながらインターネット上では反論の機会を失うことになる。「言わなくてもわかるだろう」とお考えの方は、ぜひ何も言わずに私を納得させてみてください。 探しものは見つかっていない。「配架の愉しみと語彙について」の中段あたりにおいて、内田が警鐘を鳴らす「昨今の日本語の痩せ方」については、一点を除いて(後述)大いに同意する。たいていの親は子供がジャンクフードばかり食べたり下賎なTV番組ばかり見ていると注意し、キチンとした料理を幅広く食べさせようと努力するし高尚(と言われるよう)なメディアに触れさせようとする。 けれど、語彙溢れる豊穣な会話をしようと努力する親、というのはあまり見ない。 もちろん「したくてもできない」ということが最大の理由であろうが。 私だってそうだ。だからせめてそうした場面に立ち合うのならば、自身の限界を知り、高めるよう努力はしたい(食事やメディアだって同じである)。多くの親やメディア自身は、「言葉の境界」にまず自覚的になるべきだ。 ああそれと、内田センセ。(後述部分ね)「瀰漫」を「び漫」、「瘴気」を「しょう気」と表記することを忌避されるのであれば、ご自身もまず「子供」を「子ども」と表記することを止めるところから始めてはいかがでしょうか。子供の「供」はそれのみ単一で使う「従者」や「供物」といった意味ではありません。子供は「子」+「供」ではなく、「こども」という熟語にあてたセットの言葉です。 特別な主張があって「子ども」と表記しているのであれば、説明すべきです。
2006/03/02
あ~。おっぱいおっぱい(暴走)。 ちょっと仕事で疲れてますショータです。 ※ 業務上のやり取りで、取り引き相手から露骨に嘘をつかれたり隠し事をされたりする。「どんな職場だそれ」とお思いだろうが、まあそういう職業なんですとしか言いようがない。 実は私、警察官なんです。 ……。 少しくらい信じてもいいじゃないか。まあ嘘なんだが。 ただ私の祖父は警察官だった。 ……。 まあそれも嘘なんだが。 さておき、そういう業務上の嘘が発覚したとき、問い詰めると相手は「嘘をついたつもりはない」という。 ギリギリ嘘じゃない範囲で隠し事をしただけだ、と。 それが相手から見れば「どう考えたって嘘だろ」と思われることは多々あるし、今日私が経験したことも、そうだった。事実が広く発表された時、私には、相手から嘘をつかれた、裏切られた、という感情しかなかった。「嘘」と。「作為のある隠し事」と。「作為のない隠し事」と。「当人が諒解していない誤報(流した当人も知らなかった、騙されていたというケース)」と。 認識論的には、上記に明確な線引きはできない。 もちろん相手は、私個人や私が所属する会社に悪意があってやっているわけではない(と思う)。向こうだってそれが仕事だからやっているわけで、その事情も狙いもよくわかる。 わかるんだけど、だったらもっと上手にやってほしいなあ、と思うことは多い。本当のことを伝えるよりも、嘘を上手につくほうがよほど技術と知恵と信頼と体力が必要になる。嘘を上手につくのは疲れるんである。リスクも背負うことになる。 相手にたいして誠意が必要なのは、仕事の世界では大前提だ。あって当たり前。これはそのうえで、の話ね。 大なり小なりそういうことは、私だってやる。仕事だからやるし、業務上意識的に隠し事をしたり嘘をついたりすることへの罪悪感はそれほど感じない。 だからこそわかる。 相手に「嘘をつかれた、裏切られた」と思われてしまうのは、その情報を流した当事者に、技術か知恵か信頼か体力か、あるいはそのいくつかが足りなかったのだ。 そしてもう一点。 相手をナメているんである。 たいていの場合、人は「嘘をついた」と言われても大丈夫だと思えるような状況でしか嘘はつかない。 ※ で、まあここまで書くと嫌でも想起されちゃうのが、1月から話題になっているホリエモン騒動だ(私の業務とライブドア問題とは直接的な関係は何もないけれども、引っ掛けて考えて共通点を見出すことはできる。そういう考え方を「構造的見地」という)。 堀江が逮捕され株価が暴落した時、あるいは堀江の罪(と一般的に言われているもの)がメディアに報じられた時、ライブドア株保持者は「堀江に騙された、嘘をつかれた」と思ったのだろうか。 あるいは永田寿康議員の掲げたメールが「本物だと立証できない」(変な言い草だねしかし)と民主党が発表した時、永田のこれまでの言い分を信じた人々は「騙しやがって」と思っただろうか。永田自身はそのネタ元の「元記者」なる人物にたいし、どういう感想を持ったのだろう。 少なくとも私は、堀江は(彼が生きていた舞台である)「株式市場」や「株主」にたいしては誠実な男だったと思っている。永田も「議会」や「有権者」や「支持者」にたいしては、誠実な男だったろう。 だから両者の構造的な問題点は共通していると思うし、彼らにたいして誠意がどうこう、楽して儲けようどうこう、危機管理がどうこう、という批判はピントがズレているんじゃないか。 そんなことをぼんやり考えている。 何度も書くが、嘘や隠し事を完結させるためには、技術と知恵と信頼と体力が必要だ。 そしてこのご時世で仕事をして生活を営んでいくには、多少の嘘や隠し事が必要なんだとも思う。「嘘」よりは「作為のある隠し事」と思われたほうがマシで。「作為のある隠し事」よりは「作為のない隠し事」と思われたほうがまだマシで。「作為のない隠し事」よりは「当人も知らなかったんだ」と思われたほうがもうちょいマシで。 だからもっと上手にやらなければならんとは思う。 大人って疲れるねえ。 探しものは見つかっていない。 は~。おっぱい。
2006/03/01
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