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隠居人はせじぃさんComments
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紅葉山庭園から出て堀の橋を渡ると、「銀座の柳 二世」と書かれた看板が。
昭和43年、銀座の柳並木より挿し木で植えたものらしい。

二の丸堀。
本丸堀と繋がっていた、幅4.5m 深さ4m 長さ95mあり4回折れ曲がっていたと。

石碑は「歩兵第三十四聯隊址」と書かれていて、この地に置かれていた
歩兵第34連隊を記念する碑であることが分かった。

最後に東御門・巽櫓を見学。

東御門・巽櫓入口。

東御門に入ると、徳川家康像が出迎えてくれました。
「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」の旗は徳川軍の馬印。
馬印とは、戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に
備の旗や自身の周りに置く印のこと。
1560(永禄3)年に松平元康(後の徳川家康)は今川軍として出陣したが、今川義元は戦死するなど、
織田信長に大敗。命からがら菩提寺の大樹寺に逃げ帰ってきた元康は先祖の墓の前で
切腹をしようとした。
それを大樹寺の住職登誉上人が「往生要集」に出てくるこの二句を使って、元康を説得したのだ。
それ以来、元康はこの句を松平徳川軍の馬印としたのだと。
「厭離穢土(おんりえど)」とは、浄土教の用語。
この娑婆世界を「穢れた(けがれた)国土」として、それを厭い離れるという意味であり、
「欣求浄土(ごんぐじょうど)」とは、阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、
そこへの往生を切望するという意味。

戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。
その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て
事を成すとの意味なのだと。

「蒔絵三つ折衝立」。
この衝立は静岡漆器工業協同組合と静岡県蒔絵協同組合が静岡市の市花である
立葵をテーマに1年かけて共同制作したものであると。

こちらは「天下普請」に参加した大名とその刻印。
大名たちは自分たちが築いた堀の石垣や見えない部分の柱などに刻印を残したのだと。

駿府城の縄張り。駿府城は3つの堀に囲まれた城であった。
1605(慶長10)年、将軍職を秀忠に譲ると、家康は大御所として駿府に移住した。
天正年間に今川館の跡に築いた駿府城を拡張し、全国の大名に命じて壮大な城を建設させた。
これが「天下普請」。

こちらは「築城屏風絵」。
1607(慶長12)年の築城の様子や町の様子が描かれていると。

駿府城の模型。
駿府城の天守台は46m×56mとかなりおおきなもので、この上に平面積でも
10間×12間(20m×25m)の5層7階建ての金属屋根の天守があったと。
現在、天守の再建案が出ているそうですが、天守の設計図などは残っていないため、
実際はどのような天守が建っていたのかを残すのは文面だけで、わからず
現市長も消極的とのこと。

駿府城のジオラマ。

東御門の鯱。雄鯱だそうで、銅製とのこと。

こちらは東御門の現在の鯱。

城下町駿府の都市計画図。

駿府城のジオラマの城内は名称入り。

駿府城下町行列図。

櫓からの中堀。

駿河人形のひな人形。

節句用徳川家康鎧。

東御門を出て、巽櫓に向かう。
巽櫓の1階は廊下と大部屋。櫓というのは城兵の待機所。

巽櫓の2階は展示室になっていた。
『駿府お茶臺道中』と書かれた籠。
静岡市で毎年『駿府お茶壺道中行列』が開催されると。
江戸時代、標高1200mの井川・大日峠にあったお茶蔵で夏を越し、秋になると
駿府城に居城していた徳川家康に茶壺を献上したと伝えられていると。
これを再現したものが『駿府お茶壷道中行列』

竹千代手習いの間(復元)

家康が竹千代と呼ばれていた少年時代、8歳から12年間を今川家の人質として捕えられ、
今川家の軍師・太原雪斎のもとで学問を習っていたと伝えられているのだ。

伝統和船 焼津八丁櫓。
静岡県焼津市にある「八丁櫓」(全長13m、最大幅4・3m)といわれる伝統の和船。

見学を終え再び東御門を潜る。

東御門正面を再び。

そして静岡駅まで往路とほぼ同じ道を戻ったのであった。
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