JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2019.01.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


この日の旧東海道(下図赤線)は、ひたすら相模湾に沿った約12Kmの道。



この区間はいつもの旅友は既に完歩とのことで、この日は一人での旧東海道歩き。
大磯駅に9時過ぎに到着し歩きを開始。この日も好天。



前回訪ねた大磯迎賓館。前回と同様にいつも車が一台のみ駐車中。何か意味があるのか?



そして前回中途半端に訪ねた『地福寺』を再訪。大磯駅から10分程のところにある寺。
『山門』。



『真言宗 地福寺』。



地福寺は、船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)。
承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建と。
町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、
天文11年(1542)佛師但馬作とあります。右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す
通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像。
作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例であると。
他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な
保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財。
山門を入ると参道の両脇には多くの梅の古木が。



御本尊の木造弘法大師坐像。



樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて地福寺は建てられていた。
毎年2月上旬頃より梅の花が境内一面咲き誇り、大磯町内一の観梅の名所であると。
そしてその奥には文豪島崎藤村夫妻が眠っているのであった。



藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等
多数の参列者に見送られた。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に
咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げたと。
棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した
刷り上りの雑誌が投げ入れられたと当時の神奈川新聞は伝えたと。



『島崎藤村墓』と刻まれた墓碑。
墓標の裏面には次のように記載されていた。
「明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス」と。
そして亡くなられた当時は、土葬であり、7回忌に現在のお墓に改葬された。
設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、
山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓とのこと。
そして詩集『若菜集』や小説『破戒』などの名作を残した近代文学を代表する作家で、
晩年を大磯町で暮らした島崎藤村を偲ぶ「藤村忌」が、毎年命日の8月22日に
この地福寺で行われるのだと。
島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか ​(☚リンク)について、調べてみたら
こんなページがあったので紹介します。



隣にあるのは奥様・島崎静子の墓。
裏には「明治二十九年十一月八日生レ 昭和四十八年四月二十九日没」と。



梅の古木に囲まれた島崎藤村夫妻の墓が仲良く並ぶ。
梅の咲いている時期に再び訪ねたいと。



そして山門近くには小島家(大磯宿本陣)の墓が。



三界萬霊にお地蔵さま



慶長6年(1601年)になって東海道五十三次の宿場として大磯宿が3つの本陣がある宿場町と
なるが、江戸時代に亘ってあった小島本陣と尾上本陣の間に地福寺参道が位置している。
そして小島本陣を営んでいた小島家の墓がここ地福寺境内の山門裏手に。



満開の梅の姿を想いうかべながら本堂を振り返る。



本堂の屋根の下には小鐘が二つ。
右側の鐘は仏堂や仏塔の軒の四隅などにつるす青銅製の鐘形の鈴。宝鐸と呼ぶとも。
強い風が吹くとカランカランと鈍い音がすると。
昔、強い風は流行病や悪い神をも運んでくると考えられていたことから、邪気除けの意味で
つけられており、この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないのだと。



本堂の脇は石垣で囲まれていた。



蔵。



寺務所。



そして地福寺を後にし、旧東海道に向かうと地福寺の案内柱が。



そして旧東海道に面する中南信用金庫の入口シャッターには
「東海道五拾三次之内 大磯」が描かれていた。



前回も撮影した?「日本橋まで68Km」。
いや、前回は道路の反対側の「日本橋から68Km」。



同じく左手に「新島譲終焉の地」が。



これも前回訪ねた「鴫立庵」の前を通過し、街道右手にある
『大乗山 妙昌寺』に立ち寄る。
『山門』。



『鬼子母尊堂』前の石仏。



『鬼子母尊堂』。



「南無日蓮大菩薩」「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑群が。



『山崎浩道上人荒行成満記念』碑。



『本堂』。
文安元年(1444年)大乗院日征を開山に創建。 以降、応仁2年(1468年)、天明2年(1782年)
明治31年(1898年)と3度にわたり火災で焼失。明治38年(1905年)中郡成瀬村高森
(現在の伊勢原市)の寺から本堂を購入、明治41年(1908年)移築が完了した。
現在の本堂は昭和54年(1979年)山門とともに再建しされたものである。
妙昌寺は室町時代の後花園天皇・文安元年(1444)に大乗院日征上人が創立した古刹で、
山号を大乗山という。



本堂前の『慈圓観音』像。



墓地。「大乗山」の文字が。



境内社の『富士見稲荷』。



旧東海道に戻って進むと「太平洋岸自転車道」と書かれた標識が。
太平洋岸自転車道は、太平洋沿岸に整備されている自転車道群である。
千葉県銚子市から和歌山県加太海岸まで、全長1200キロメートルにもおよぶ太平洋岸沿いの
大規模なサイクリングロードであるが、まだ完成するまでには至っていないと。



道路横の小さな丘に出会う。



ここが『大磯宿 上方見付』。
大磯中学校前交差点の手前左手に上方見附跡があった。



「見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも
見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ、高さは1.6米程でその上に竹矢来が
組まれていた。
宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。
この「上方見附」は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停の付近にあった。
そのには宿場の出入り口である標示の御料傍示杭が立っていた。
この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す
役目をはたすようになった。」



そして旧東海道松並木は始まる。



旧東海道を離れ、 上方見附の先の横断歩道橋の
、東海道線路方面に向かう。



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                 ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.28 14:12:59
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