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隠居人はせじぃさんComments
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
腹ごしらえをした後は、再び旧東海道・県道81号線を藤枝方面に更に歩を進める。
㈱本郷の前には『東海道 岡部宿の松並木』と書かれた標柱が。
この近くは、道路右側にのみ松並木が続いていた。
街道松(往還松)の名残ですが、「岡部松原」と呼ばれているようであった。
左手には静岡市駿河区と静岡県焼津市にまたがる山々の姿が。
藤枝バイパスをくぐる手前の内谷新田交差点には、茸型の常夜灯と
『これより東海道 岡部宿』の道標が置かれていた。
ここが岡部宿京側の入口。
藤枝バイパスをくぐったらすぐ斜め右へ国道1号線から離れて進むと
「うなぎや」さんのすぐ右手に二方が竹造りの塀に囲われて太い木柱の「傍示杭」があった。
『岩村藩領傍示杭 』
「従是西巖村領 横内」(是より西、岩村領横内)

傍示杭跡 』
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領で
あったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石
の領地を持っていた。
駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて
治政を行っていた。」

『油街途(あぶらがいと)』
右手に現れたのが慶長 4
年( 1599
)に開基した『曹洞宗慈眼寺』。
『曹洞宗 西了山 慈眼寺』。
「宗派 曹洞宗 開祖 道元禪師
本山 永平寺(福井県・総持寺(横浜市)
御本尊 阿彌陀如来(平安時代)
開創 慶長四年(一五九九)
開基の龍谷秀泉和尚が横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し
藤枝市高田常楽院六世学翁宗参大和尚を御開山に拝請して開創された。(以下略)」
本堂。
地蔵尊と墓石。
『永代供養塔』。
更に現国道1号線から分岐した旧東海道を進む。
とつか酒店の隣の路地の奥に白い柱が。
『西村小路 代官屋敷』。
この付近に岩村藩の横内陣屋(代官所)があったと。
この辺りの集落(横内地区)は町おこしの一環として、丸子宿と同じように
民家の前に当時の屋号を書いた「木札」が掛けられていた。
旧街道はわずかながら緩やかな傾斜となり、朝比奈川に架かる横内橋の袂へとつづいていた。
橋の右袂に横内地区の案内板があり、「横内あげんだい」と表示された「かがり火入れ」の
ようなものが置かれていた。
『あげんだい』
長さ5メートルくらいの孟宗竹の上部を割って逆三角形の籠を作ります。
その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたものです。
人々は籠に松明を投げ入れ早く火がつくのを競います。
一言でいえば「あげんだい」は、松明による玉入れのようなもの。
この「あげんだい」の行事は一時期廃れてしまったのですが、平成11年(1999)の
横内400年祭を記念して復活したと。
その後、「あげんだい」と「燈籠流し」は横内地区の精霊送りの行事として
毎年8月16日の精霊送りの日に横内朝比奈川で行われているのだと。
『横内歴史案内版』。
ここ藤枝市横内地区は江戸時代は美濃国岩村藩領地の横内村であったと。
享保 20
年 (1735)
、岩村藩の松平能登守乗賢が、幕府の老中に出世したため、
「足高の制」により1万石が加増され、そのうちの五千石の領地を駿河国内に受け、
駿河領十五ヶ村を治める役所として設けたもの。
135
年間、 14
人の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く温情ある治世を行ったとのこと。
朝比奈川に架かる横内橋を渡る。
上流側。
下流側。
この場所で流れは大きくカーブしていた。
交差点の部分だけ路面の仕上げを変えていた。
交差点の隅にあった石碑は?『仮宿區入口 岡部町 朝比奈宿 葉梨村』か?
我々が辿って(たどって)いる県道81号線はこの先で381号と再び合流。
仮宿交差点で再び国道1号線に合流する手前に『従是東巖村領横内』と書かれた
傍示杭が再び立っていた。ここまでが岩村藩で850mしかなかったのだと。
仮宿交差点で歩道橋を渡る。
写真左側は旧東海道で正面が県道381号線。
左側の道がこれから歩く旧東海道。
横断歩道橋を渡り、旧街道筋を進むとすぐ左側に大きな石柱と文字が刻まれた石碑が
置かれていた。
これが田中領の傍示杭。『従是西田中領』と刻まれていて、ここが岩村藩領との境目。
このあたりは「広幡」という所で「八幡」「仮宿」「横内」「下当間(しもどうま)」
「鬼島(おにじま)」という地名が複雑に入り組んでいて境がよくわからないだが、
藤枝と合併する前は広幡村と呼ばれていたのだと。
この石碑は復元されたもので、本物は藤枝宿の「西益頭中学校(にしましづ)」の
正門脇に置かれていると。
駿河田中藩は藤枝宿東方の田中城を居城にしていましたが、代々の藩主は譜代大名で幕閣に
登用されることが多く、江戸幕府の前半は藩主が大坂城代、駿府城代などを務めたため、
その交代の度に藩主が頻繁に替わりました。
藩主が落ち着くのは享保15年(1730)に上野国沼田から入った本多正矩(まさのり)が
藩主になってからで、その後、6代つづき本多家のまま明治維新を迎えている。
「法の川」に架かる「法の橋」を渡ると「八幡」という地域へと入り、
葉梨川(はなしがわ)沿いを進む。
再び県道381号線に合流。
日本橋から197km。ここは藤枝市八幡地区。
そして再び左手の旧東海道へ。
歩いていると気付かずに通り過ぎてしまいそうな一里塚跡で『史跡 鬼島一里塚跡』と書かれた
木柱が民家の壁に寄り添うように置かれていた。
反対側から。
木柱の側面に「江戸日本橋より 49
番里。百九十六km」と書いてあった。
『廣畑尋常小学校跡』が左手に。
街道の左側に沿って流れている「葉梨川」に架かる「八幡橋」へ
「葉梨川」の下流側を望む。
旧街道は橋を渡って右手へとつづいてたが、まっすぐ直進する道筋は「田中城」へと続く。
この田中城は家康が狩りの途中で立ち寄り、ここで食べた「鯛のてんぷら」がもとで
亡くなったと伝えられている城。
旧東海道を進むと、半鐘、常夜燈と共に民家の庭先に『旧東海道 鬼島の建場』と刻まれた
石碑が置かれていた。
「旧東海道 鬼島の建場
街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。
大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛
喜多八の二人も。そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る
ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア お休みなさいマシ」と進め
られるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツ
ブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ淵なれど、踏んまたが
りて通られみせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」
藤枝市のマンホール蓋。
市の花『藤』と市の鳥『ウグイス』、市の木『松』そして、静岡ならではの富士山を
デザインしたマンホール。
「わがまち藤枝」という文字が入っているのは珍しいのではと。
右手にあったのが、『青山八幡宮 里宮』への鳥居。
そしてこれを通り過ぎると右手前方に見事な枝振りに葉をいっぱいに付けた
大きな木が見えて来た。ここが『須賀神社』。この大木は 1
本の楠(くすのき)。
右側の道を進むと『本行寺』へ。
『須賀神社』の石鳥居。
牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。
社名は須佐之男命が八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って
「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するもの。
須賀神社の多くは明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していたのだと。
この楠は樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、県の天然記念物に指定され、
併せて御神木として大切にされてきた大木。
樹高 23.7
m 根廻 15.2
m 目通 10.9
m 枝張 東西 21.2
m 南北 27.9
m。
境内側から。
それにしても見事な楠なのであった。
忠魂碑も。
須賀神社に隣接して堂宇を構えるのが『池巌山全居寺(ちげんざんぜんきょじ)』。
開基は江戸時代の元和 3
年( 1617
)でご本尊は釈迦無二如来。
『そうじ小僧』。
旧東海道は右に曲がり県道381号線に向かう。
右手にあるのが水守中央公園。
右手に土地区画整理組合の『希望』と刻まれた完成記念碑が立っていた。
後ろの山は『八幡山砦跡』で『青山八幡宮』が鎮座していると。
完成記念碑の前の道路の反対側のT字路の赤い消火栓標識の下にあった小さな道標。
望遠で確認すると「是ヨリ橋ヲ渡リ 右川ニ沿ヒ八幡橋ニ通 左山ニ沿ヒ???」と。
今、気が付いたのであるが、水守の交差点まで行かずにこのT字路を左折して
県道381号線を斜めに横断するように旧東海道があったようだがその道は
現在では途中までで終わっているようであった。
が旧東海道 、
が我々が歩いた道。

その6
に戻る。
・・・ つづく
・・・
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