JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.01.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次


参道を進む。この間に名鉄本線の踏切があった。 



頻繁に電車が通過、朝は開かずの踏切になっているのではと。
後ろに見えるのが名古屋第二環状自動車道の高架橋。



『有松天満社』の一の石鳥居と扁額には『天満宮』と。
天満宮らしく梅の御紋が鳥居の扁額の下の左右に。



『有松天満社 施設案内図』。



そして二の鳥居。



二の鳥居前の車止めも神社ならではのユニークな形状。



『有松天満社 由緒』
「菅原道真公を祀る。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1798)この地に奉遷せられ、
当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて文化7年(1810)八棟造りの荘麗な社殿が建立され、
以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。
例祭(3月第3日曜)は有松天神春祭として親しまれ、進学祈願祭並びに秋祭り(10月第1日曜)も
近在に広く聞こえている。特に秋祭りに曳き出される山車3台は布袋車(延宝4年製作)唐子車
(天保年間製作)及び神功皇后車(明治8年製作)相共に屋台にからくり人形を載せて精巧優美な
伝統芸術の粋を誇り、昭和48年名古屋市の有形民俗文化財に指定されている。」



 一つの山が全て神社かのよう。 中に入ると『虹橋こみち』と刻まれた石柱があり
ここを上って行く。



太鼓橋・『虹橋』を渡る。



更に石段を上っていくと三の鳥居が前方に。



三の鳥居の先には『手水舎』が。



更に『有松天満社』と書かれた紫色の幟が両脇に立てられた長い石段を上って行く。



『有松天満社』と書かれた紫色の幟。



そして更に四の鳥居が前方に。更に拝殿への石段が続く。



石段を上りきると正面にあったのが『神門』。 門は閉ざされていた。



変わった形の『献燈』。



『天満社と鷽(うそ)』
「鷽は鳥の一種、日本の130円切手のデザインにも使われている美しい鳥で、菅原道真公の
愛鳥だったと伝えられています。
道真公が大切な神事を行っていた時に無数の蜂が襲来し、そこへ鷽が飛来して蜂をすべて
食べ尽してくれたという伝説より、「災いや悪事を嘘(鷽)にする」と云われ、災いを排除して
くれたいわれから道真公のご仁徳の賜物で、ついてしまった嘘(鷽)や災いが真(まこと)や
幸運に換える縁起物として祀り伝わっています。」



『天満社 由緒』がここにも。



『神門』から見た『天満宮拝殿』



『臥牛』。
道真公は丑(うし)年の生まれ(承知十二年(845年)六月二十五日「丑の年の丑の日の丑の刻」
生であるという伝説的な話)や、 大宰府で生涯を閉じ、亡骸を牛車に乗せて運ぶ途中、
牛が伏して動かなくなり、「これは道真公の御心であろう」と、その地に埋葬された
ことなどから、牛は「天神様のお使いの牛(神使)」、「前進」「隆盛」「幸福」の
象徴として夢を叶えてくれると云われ、道真公を祀る天満社には臥牛が置かれているのだと。
自身の身体と同じ『臥牛』の部位を祈願しながら手で撫でれば、身体は健全に病気は快癒すると
云われ、また筆で頭部を「頭が良くなりますように」と撫でれば、知恵が付き賢くなると
云われているのだ。



『筆塚』碑。
「祭神・菅原道真公は学問の神様です。学業上達のためご精進された古いお筆を
ここにお納め下さい。」



『天満社の境内神社』



一、神明社 天照大神(あまてらすおおみかみ)
  日本の神様の中で最高神の地位の神様であると共に太陽の神様であり、
  高天原(たかまがはら)の主祭神です。総本社は三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮です。
一、稲荷社 宇迦之御魂(うかのみたま)
  京都府の伏見稲荷大社が総本社であり、「お稲荷さん」として広く信仰されています。
  農耕・商工業・商売繁盛の神様として、全国の稲荷神社で祀られています。
一、秋葉社 火之迦具土神(ひのかぐつちかみ)
  静岡県浜松市の秋葉山本宮秋葉神社が総本社であり、愛宕神社や野々宮神社等でも
  祀られています。「火之迦具土神」の名前には「輝く火の神様」​「ものが燃えている
  においのする神様」という意味があることから、火・鍛冶・火伏の神様として信仰されて
  います。
​一、琴平社 大物主神(おおものぬしのかみ)
  香川県の金刀比羅宮が総本宮であり、五穀豊穣・開運除厄・酒造り等の神様として
  祀られています。これは大物主神は蛇の御姿をしていることから、水神や雷神としても
  信仰されています。
  また、「大国主(おおくにぬし)」という別名があり、「大黒天」として祀られることも
  あります。
一、御鍬社 金山彦之神(かなやまひこのかみ)
  神名の通り「金山(かなやま、鉱山)」を司る神様で、鉱業・鍛冶等金属に関する
  技工の守護する神様として祀られています。



お参りを済ませ階段を下る。



四の鳥居、そして石段を振り返る。



そして再び名鉄名古屋線の踏切を渡る。



旧東海道に向かって歩くと、正面に見えたのが『神功皇后車(西町)の山車庫』



「神功皇后車(西町)の山車庫
ここ西町の山車庫には、「神功皇后車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳航した
山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、
格納している。
昭和二〇年以前の木造の建物で、町並みの景観になじんだ造りとなっている。
神功皇后車は、明治六年(1873)、西町が名古屋の大工 久七に発注して造ったもので、
有松に現存する三台の山車の中で最も古くから曳かれている。
昭和四十八年(1973)、市の文化財に指定された。
毎年十月第一日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる。」



『東海道五十三次二代目松』とその『石碑』は『西町年行司』の前に。



『東海道五十三次二代目松』碑。
村に最初から生えていたといわれる樹齢300年の松の古木があったが、初代の松が枯れて
現在二代目が植えられているのだと。



隣に『梅屋鶴壽の歌碑』が。



「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ  梅屋鶴壽」



「梅屋鶴壽
幕末の狂歌師、享和元年(一八○一)江戸神田佐久間町に生まれる、 姓はは諸田、通称は
初め佐吉、後、亦兵衛と称した、株をあきない、尾州家の御用を勤める。 若い頃から狂歌を
得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、 後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を
出し梅屋鶴壽と言うようになった、 狂歌人物誌に「花街戯場のことをよくうがちて秀吟おほし
本町側糸巻連の魁首にして其名四方に鳴る」とある。 老後は号を株翁とも言うようになった
元治元年(一八六四)正月十二日享年六十三歳で亡くなる。」



東海道より古い道・「長坂道
江戸時代以前から、祇園寺前から桶狭間を通り大府や刈谷へ行く古道があり、
戦前までは多くの人に利用されていた道であった。現在は小道が1号線まで続いています。」
有松の西、祇園寺門前から国道 1 号線に通じる道幅 1 間ほどの小道の入口があった。
この道は天保 12 年(1841)の桶狭間村絵図にも記載されている東海道より古い道。
古道北端は祇園寺で、当時は東西をつなぐ重要な道であったと。別名桶狭間村道、 刈谷街道と
呼ばれていた。絞りで繁盛した時代、商家の裏道でもあり、道脇には紺屋(こん や)などの
絞りの下職が点在していた。



右手に『祇園寺』の『山門』が。
山門前に例の「不許葷酒入山門」の石柱が立つ。



『曹洞宗 祇園寺』寺標石柱。



『本堂』。
1592年から1595年(文禄年間)の創建。当初は円道寺といい、鳴海にあったが1706年
(宝永3年)に猿堂寺と改称、1755年(宝暦5年)現在地へ移動し祇園寺と改められた。
境内に33観音石仏や奈良薬師寺の仏足石を模したものがあり、その横には
1828年(文政11年)の豪潮の歌碑が建っていると。
又、本堂西には お釈迦様の足跡に由来する仏足石があり、文政 11 年(1828)に作られたもの。
奈良の薬師寺の模写ですが歌碑には光明皇后(こうみょうこうごう)によるもので
「御跡つくる 石の響は天に至り地さえゆすれ父母がために諸人のために」と刻まれていると。 

現在は幼稚園が同じ敷地内に。
この日は境内でこの幼稚園のバザーが行われ、混雑していた。



ここにも有松絞りの『絞』の暖簾が街道沿いの店頭に。



有松絞りの染め工場はこの日は休みのようであった。



美しい有松の町並みもここで終わり。
名古屋第二環状自動車道・(名二環:伊勢湾岸道方面)の高架橋。



高架橋下に『有松一里塚』碑があった。
鎌研橋(かまとぎばし)一里塚とも言われ江戸から『八十七里』。



比較的新しそうな『有松一里塚』碑。江戸から87里。
ここ緑区史によると、「有松一里塚の大きさは、方五間(約 9.1m)で、松並木から目立つ様に
塚頂上に榎を植えた。鳴海町字鎌研4・5番地の両側に完全な姿の一里塚が残っていたが、
大正13年国から民地に払い下げられその後 塚が消滅した」と記載されていると。 
民地に払い下げられて無くなってしまったが、名古屋環状2号線整備に合わせ2012年に
90年ぶりに復元されたようだ。



「有松一里塚
一里塚は、慶長9年(1604年)、幕府が主要街道を整備し、江戸(東京)日本橋を起点に、
道程一里(約4km)ごとに道の両側に5間四方ほど(約9.1m)の塚を築き、 榎などを
植えたもので、旅人に距離を示しただけでなく、 荷物その他の運賃計算の基準にもなりました。
この辺りに、江戸から87里を示す一里塚がありましたが、大正13年、払い下げられ民地となり、
無くなりました。 しかし、歴史ある有松の地の発展を願う地元の強い熱意により、
平成24年、当地に復元されました。」




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.01 15:48:35
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