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隠居人はせじぃさんComments
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
そして桑名までの海路「七里の渡し」の舟着場だった『宮の渡し公園』に到着。
『宮の渡し公園』
東海道五十三次のうち41番目の宿場である宮宿。東海道にある宿場のなかでも最大級の
規模を誇り、たくさんの人で栄えました。さて、42番目の宿場である桑名宿に行くには、
船で海路を行かねばなりません。その距離は当時の単位で七里。そのため「七里の渡し」と
呼ばれていました。
船で渡ることがなくなった現代では、船着場として栄えた宮宿側の遺構には当時の常夜燈や
時の鐘、船着場などが復元され、「宮の渡し公園」として歴史香る憩いの場となっていた。
『時の鐘』
延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により熱田蔵福寺に時の鐘が設置された。
正確な時を知らせるこの鐘は熱田に住む人々や東海道を旅する人々にとって重要な役割を
果たしていた。
昭和20年の戦災で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷も受けずに今も蔵福寺に残っている。
熱田の古い文化を尊ぶ市民の声が高まり、往時の宮の宿を想い起こすよすがとして
この公園に建設したものである。
『熱田湊常夜灯』
「熱田湊常夜灯
この地は宮(熱田)の神戸の浜から、桑名までの海上七里の航路の船着場跡である。
常夜灯は寛永二年(一六二五)藩の家老である犬山城主成瀬正房(正虎)が、父正成の遺命を
受けて須賀浦太子堂(聖徳寺)の隣地に建立した。 その後風害で破損したために、
承応三年(一六五四)に現位置に移り、神戸町の宝勝院に管理がゆだねられた。
寛政三年(一七九一)付近の民家からの出火で焼失、同年、成瀬正典によって再建されたが、
その後荒廃していたものを昭和三十年復元した。」
『堀川』そして『伊勢湾』に夕暮れが迫ってきていた。
『七里の渡し舟着場跡』と『浮世絵』。
『東海道五十三次(隷書東海道)宮』
「七里の渡し舟着場跡
江戸時代、東海道の宿駅であった熱田は「宮」とも呼ばれ、桑名までの海路「七里の渡し」の
舟着場としても栄えていた。 昭和58年に復元されて往時の名残をとどめています。
歌川広重による「東海道五十三次」の中にも、宮の宿舟着場風景が描かれており、
当時の舟の発着の様子を知ることができます。」
『熱田湊常夜灯』と『七里の渡し』碑。
「松尾芭蕉と七里の渡し
松尾芭蕉(1644-94)は、日本を代表する俳人で、「野ざらし紀行」 「おくの細道」 や
「古池や蛙飛込む水の音」 などの句が有名です。
「この海に 草鞋捨てん 笠しぐれ」
「海暮れて 鴨の声 ほのかに白し」
「なんとはなしに 何やらゆかし すみれ草」
この舟遊びで五・五・七の歌などを開拓し、生涯作風が十二たび変化する 「芭蕉の時代」 と
なるきっかけが生まれました。後に名古屋が 「蕉風発祥の地」 と言われる由縁です。
また、熱田神宮が 「蓬莱宮」 と読んだのに因み、芭蕉は名古屋を(京都から見て)蓬左として、
書状などに度々使っています。」
『七里の渡し』碑とその後ろに『熱田湊常夜灯』を再び。
「宮の宿とシーボルト
ここ宮(熱田)の宿・神戸の浜から桑名宿まで東海道では唯一の海上七里の海路で、
東西の人々の行き交いが盛んであった。 名古屋の本草学者水谷豊文、その門下生伊藤圭介、
大河内存真らは、ドイツ人医師シーボルトが文政九年(一八二六)二月オランダ使節に
随行して江戸へ参府する際と、 四月長崎への帰路、宮の宿で会見し、教えを受けた。
彼らは名古屋の医学・植物学の研究に多大な貢献をした。 」
『船着場』。
『丸清版・隷書東海道五十三次」より(宮・七里の渡し 熱田鳥居 寝覚の里)』。
『船着場』。
ズームで。
実は船が苦手な人向けに「姫街道」と呼ばれる陸路もあったとのこと。
その陸路というのが「佐屋街道(さやかいどう)」と呼ばれた道であり、
「宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿」というルートも整備されたようです。
ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には
橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられることになります。
その木曽川ほとりに築かれた船着場を「佐屋宿」と言い、ちょうど佐渡宿から約3里(約12㎞)
下った先が桑名宿だったというワケです。
このことから七里の渡しに倣い、別名で「三里の渡し」とも呼ばれていました。
『 ネット
』👈リンクで詳しく説明されていましたので、興味のある方はアクセス願います。
『尾張名所図会』
絵中央部の様々な船を係留する港に熱田常夜燈が見える。ここが七里の渡しの渡船場(宮の渡し)。
右端に東浜御殿、中央左のなまこ壁を持つ長屋門らしき建物の左側一帯が西浜御殿。
その門前の東海道上に熱田浜の鳥居が立つ。
「七里渡船着(尾張名所図会)
この絵は七里の渡しを描いたもので、道沿いに並ぶ旅籠屋などの家々や、岸につながれた船、
道を行き交う人の多さから当時の賑わいがわかります。
この渡し場は城下町名古屋の玄関口としても人と物資の輸送の面で重要な役割を果たし、
そのため尾張藩は東西浜御殿のほか、浜鳥居の西に船番所、船会所などの役所を設け、
船の出入りや旅人の姓名などを記録していました。」
ネリネ(ダイヤモンドリリー)であろうか。
茎の先に開く花が彼岸花によく似ているネリネ。花びらに光が当たるとキラキラ輝いて
見えることからダイヤモンドリリーの名前で親しまれる秋に花を咲かせる球根植物。
『丹羽家住宅(旧旅籠屋 伊勢久)』
「丹羽家住宅(旧旅籠屋 伊勢久)
丹羽家は幕末のころ、脇本陣格の旅籠屋で、伊勢久と称し、西国各大名の潘名入り提灯箱が
残されている。正面の破風付玄関はかつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた
卯建は戦災で破壊され、現在は袖卯建のみである。天保12年(1841)の
「尾張名所図会・七里渡船着」には、当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が
描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。」
『熱田荘』。
丹羽家住宅と同じく宮の渡し場跡の前には『熱田荘』。
この建物は明治29年(1896年)に”魚半”の店名で開業した料亭で、太平洋戦争中は
三菱重工業の社員寮として、現在は高齢者福祉施設として利用される。
真っ赤な夕焼けを期待して待っていたが・・・。
しばしカメラで夕景を追いかける。


そして帰路に。『大瀬子』交差点を右に入り『熱田神宮』方面に向かう。
『真言宗 東覺院』が左手に。
『景清社』































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