JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.02.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

​右角に『火の見櫓』があるT字路の交差点を左折し、『火の見櫓』を振り返る。



東海道道標の先を150mほど進むと、右手に『神戸岡(ごうどおか)神社』があった。



『神戸岡神社舊磧』
神戸岡神社の創建年代等は不詳であるが、もとは街道の左手(東)にあり、
明治29年(1896)に立坂神社に合祀され、その後、昭和35年(1960)に現在地に移されたと。



狛犬の奥には拝殿が。



『神戸岡神社』の鳥居の前を奥に入っていくと、右手に『稲荷神社』が。



『拝殿』。



旧東海道を先に進むと、左手に浄土真宗本願寺派の『桑部山了順寺』があった。
『浄土真宗本願寺派 桑部山 了順寺』の寺標が『山門』前に。
『山門』は桑部城の門を移築したものといわれているのだと。



立派な袴付きの重厚な『鐘楼』



『鐘楼』と『本堂』。
その前には枯山水の石庭が。



『本堂』。
了順寺は、桑部城主毛利秀重(織田信長によって落城)の孫の秀元が出家して、
元和7年(1621)に創建した。桑部城は、室町時代末期に町屋川南岸に舌状に張り出した
低丘陵地の先端部に築かれた城である。



帰りに再び『山門』&『鐘楼』を振り返る。



日立金属㈱桑名工場の横を進んで行くと右手にあったのが『江場松原跡』。
「江場松原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいたが、江場から安永に
かけての192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が建ち並び、
一本の松も残っていない。」



そしてその先、右にあったのが『城南神社』。



「城南神社
御祭神 天照大御神
配祀  豊受比賣命外五柱
御由緒 
当神社は垂仁天皇の御代皇女倭姫命天照大御神の御杖代として御神慮のまにまに大和の国より
日出づる倭寇の国に御巡幸ありし時、御停座の旧地と伝承されております。
桑名の神戸でも伊勢の神宮との御縁故殊の外深い御社であります。 古来神宮式年遷宮ごとに
皇大神宮一ノ鳥居及び古殿舎の一部を拝戴改築の古例になっております。」



更に進むと『ここは桑名 東海道』と53次 浮世絵の上に。



『一の鳥居』。
『皇大神宮一ノ鳥居御下賜碑』が手前右に。



『乙石稲荷社』。



「乙石稲荷社
古来、明王院の邸内社で古くは越後高田に御鎮座宝永7年(1710)桑名から高田へ國替えに
なられた松平越中守の崇敬厚く明王院は守護所を仰せつかり、家中同様のお取扱いを受け、
寛保元年(1741)奥羽白河、文政6年(1823)桑名へと越中守に随従、文政6年(1823)
桑名柳原 、同12年(1829年)矢田川原、大正3年(1914)安永に御遷座になりました。」



『二の鳥居』と『拝殿』。



『拝殿』
御祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
配神 :豊受比売神(とようけのおおかみ)
   :保食神(うけもちのかみ)
   :少彦名神(すくなひこなのかみ)
   :天目一箇命(あめのまひとつのかみ)
   :大山津見命(おおやまつみのみこと)
   :火産霊神(ほむすびのかみ)



拝殿の扁額『城南神社』。



拝殿の右側には『天照大御神御神幸旧蹟』の石碑。



『拝殿屋根鬼瓦 大正4年~平成22年』



『歌碑』
「手水舎乃 上棟木の香 はつもみじ 斉月」



次に真宗大谷派『清浄山 晴雲寺』。



『山門』。



『本堂』。



『鐘楼』。



『如来堂』。



宗祖である親鸞聖人像。




『山門』を境内から。



この『句碑』は?



『本堂屋根旧鬼瓦』
「この鬼瓦は明治時代中期に愛知県三河の国佐藤正蔵氏によって製造されたものである。
昭和60年本堂大修理の際大屋根瓦も新装され。昭和63年4月修理報告、厳修を記念して
此処に残し置くものである。」



大きな道を横断した先には古い家も残っていて、やがて町屋川北詰へやって来る。
右側には立派な『常夜燈』と『道標』が建つ。 



『伊勢両宮常夜燈』
「有形民俗文化財 昭和46年4月15日指定
この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込めて桑名・岐阜の

安永は、町屋川の舟運や東海道筋の通行客を相手とする茶店などで賑わった場所であり、
この常夜灯は、その頃をしのばせる遺物である。
竿正面 大神宮常夜燈  
右面  五穀成就 
左面  国家安全 




『石造里程標』が右に。
石造里程標:明治26年建立。
「従町屋川中央北桑名郡」「距三重県庁舎拾一里□町余」と刻まれている。



端に向かって堤防の上まで進むと『東海道五十三次 町屋橋跡』案内板が。



「江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集まっている所)であり、
また町屋川の舟運の船着場でもあったので、大いに賑わい、茶店では街道名物の安永餅を
売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋がかかっていた。寛永十二年(1635)に
はじめて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、一本のいたばしであったり、
しばしば変わっている。下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が待避できるように
橋がやや広くなっていた。
昭和八年(1933)、国道1号の橋がかけられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。」



下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が待避できるように橋がやや広くなっていた。



昔はこの先に『町屋橋』が架かっていたのであった。



街道に戻ると『道標』も。



『町屋橋北』交差点を右折して川に架かる『町屋橋』に向かって進む。



橋には『町屋川』と書かれていた。



『員弁川(町屋川)』からの下流側の風景。



上流側。



日本橋から384.7kmと。



橋の名は『町屋橋(まちやはし)』。
橋を渡るとここは三重県三重郡朝日町。



『文学のなかの町屋川と橋』
「江戸期の町屋川
東海道が渡る員弁川(町屋川)は、江戸期より人々の往来が盛んでした。 文学作品に
その様子をみることができます。

「一目玉鉾」 井原西鶴 元禄2年(1689)刊
桑名
宿はづれより、若松の長縄手をすぎて矢田の片町、大福村、やなか村をこして、
町屋川
小橋有、大橋は160間の土ばし也、縄生村、あふせ村、かき村を行て濱邊はる(か)に玉垣の里、
久しき名所也、

「東海道名所図会」 秋里籬島 寛政9年(1797)刊 
名物焼蛤、東富田、小向の多所の茶店にて火鉢を軒端へ出し、松毬にて蛤を焼き旅客を饗す。
桑名の焼蛤とはこれなり。町屋川、尾州小牧合戦、和睦の後、内大臣織田信雄公と豊臣秀吉公と
此川原にて対顔ありしところなり。

「伊勢参宮名所図会」 蔀関月 寛政9年(1797)刊
町屋川 橋の長さ160間、此所より西、正面に近海(江)の山々見ゆ。
此西、近海(江)伊勢の境なり。

「東海道中膝栗毛」 十返舎一九 享和2年(1802)~文化6年(1809)刊
旅人を茶屋の暖簾に招かせてのぼりくだりをまち屋川かな
斯打興じてなを村おふけ村にたどりつく。此のあたりも蛤の名物、旅人を見かけて、
火鉢の灰を仰立

中村古松の句に詠まれた町屋橋
中村古松(本名喜三郎 明治34年(1901)ー昭和54年(1979))は、朝日村大字縄生
(現朝日町縄生)に生まれて町屋川のほとりに住み、 銀行員、農業を営むとともに
生涯俳句を詠み続けた俳人です。 大正10年(1921)俳句結社 「不老会」 を設立し、
機関紙 「松の葉」 を刊行しました。
通巻六百七十六号に及ぶ「松の葉」には町屋を詠んだ句が下百あまりもあります。
昭和のはじめから半世紀にわたって町屋川を見つめ、読み続けた旬からは、
変わらない自然と変わりゆく道や暮らしが浮かびあがってきます。
その中から橋を読んだ句をいくつか紹介します。
風涼し 橋を隔へだてて 町屋の灯(昭和十四年)
町屋の橋の 長さを踏んで 月涼し(昭和二十五年)
冬日割る 町屋の橋を バス白し「昭和二十六年)
靴の破れ 淋しくも朝の 橋が凍てる(昭和二十七年)
観光バス 相次ぐ町屋の 橋うらゝ(昭和三十年)
冬雲の 流れ町屋の橋に トラック繁く(昭和三十三年)
けふうらゝ 町屋歩道の 渡橋式(昭和三十九年)
町屋師走 四万台の トリックしげく 昭和四十二年)
町屋橋 下おこもの家や 春めける(昭和四十九年)
鮎網を 張るを見て侘ち 町屋橋(昭和四十九年)
町屋橋 月を背負いて 帰路急ぐ(昭和五十三年)

我が写真は解読不能に付き、ネット情報から転記させていただきました。



橋には『町屋川』とあったが『二級河川 員弁川 三重県』との表示。
「鈴鹿山脈に源を発し、桑名市と三重郡の間を流れて伊勢湾に注ぐ員弁(いなべ)川。
その下流部は町屋川と呼ばれています。
現在では、桑名市の町屋橋より下流のみを町屋川と称するのが正式のようです。
しかし、以前はそれよりも上流の坂井橋より下流部分だったようです。」とのネット情報。



こちら側からも『町屋橋』の架かっていた場所を見る。



『みえ歴史街道 東海道』。



この写真の対角線上に橋が架かっていたのだ。





                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・​





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Last updated  2020.05.01 19:37:17
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