JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.03.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道に戻って先に進むと、右手に『和田の一里塚跡』があった。



この一里塚は、亀山市内に所在する『野村一里塚』と共に慶長9年(1604)の幕府の命により
亀山城主であった関一政が築造したもの。
かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。
現在の塚は、北塚を平成5年に復元したものである。
ここは江戸日本橋から数えて104里目、京都三条大橋から21番目(87㎞)の一里塚跡である。



「和田一里塚跡
野村一里塚とともに亀山市内に所在する旧東海道の一里塚で、慶長九年(一六○四)
幕府の命により亀山城主であった関一政が築造した。 かつてはエノキが植えられており、
昭和五九年の道路拡幅までは塚の一部が遺されていた。 現在の塚は、塚跡地の東側に近接する
場所に消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。」



『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』
「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として
栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する
亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、
休憩所、歴史広場などの 整備を図り東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として
整備したものである。」

「和田道標(市指定文化財)
高さ1.37mの花崗岩製の角柱で、正面に「従是神戸白子若松道」と刻まれており、
元禄3年(1690)に度会益保によって東海道と神戸道の分岐に立てられた、
市内に現存する最古の道標である。 藩政時代の神戸道は亀山城下から亀山藩領若松港へ
通じる主要道路であった。」

「石上寺古文書(三重県指定文化財)
石上寺は、延暦15年(796)に勧請された熊野権現の神宮寺で、朱雀天皇の勅願寺に
なったと伝えられる古刹である。 建久3年(1192)源頼朝から寺領社殿の寄進をうけ、
同5年には将軍家祈願所となるなど、鎌倉から室町時代を通して手厚い保護をうけていたが、
織田信長の兵火によって灰燼に帰した。 しかし、後村上天皇綸旨や足利尊氏制札などの
古文書20点が遺され、その栄華を今に伝えている。
これらの古文書は、昭和28年三重県文化財に指定された。(非公開)」



『栄町』交差点を通過する。



『東海道道標 左・三本松 右・石上寺』



『従是西亀山宿』。




亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道四六番目の宿場町として栄えたまちです。
そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し路地もさびれて、以前の賑わいも
見られなくなりました。
かかる現状を憂えた“きらめき亀山21町並み保存分科会”では協議を重ねた結果、歴史的な
まちのたたずまいを復活する最初のプロジェクトとして屋号の木札をつくり、該当するお家に
掲げていただくことをはじめました。
屋号で呼び合ったまちの人たちの暮しには、なぜか親しみを感じます。そして、どのような
しごとをしていられたのかも知ることが出来れば、お互いの交流もいっそう深まるのでは
ないでしょうか。
このたびのしごとはまことにささやかですが、材料提供をはじめ、木札製作・掲示作業など
すべて市民有志によって行いました。
今後も皆さまのご協力を得て、東海道亀山が個性豊かなまちとなるよう、私たちも活動を
続けます。
注記 屋号は文久三年(1863)宿内軒別書上帳(亀山市歴史博物館蔵)によりました。
史実とやや異なるか所もあることをご了知下さい」



『亀山のろうそく工場』が左手に。
社名は「カメヤマ株式会社」、前には「亀山ローソク前」というバス停もあった。
同社は、1927年にここ亀山で谷川兵三郎が創業、1946年に法人組織となり、現在大阪市に
本社を置く蝋燭専門企業である。
亀山ローソク、カメヤマローソクの名で知られ、蝋燭の国内シェアは約5割、社名は創業地の
名称に由来する。スパイラルキャンドルを生み出した国内最大手メーカーであり、かつ、
世界有数のキャンドルメーカーでもある。
創業地・亀山市を中心に本社工場を設け、ローソク及びキャンドルの専門ショールームを併設。
1995年にキャンドルを中心とした生活雑貨を扱う専門部署をキャンドルハウス事業部として
設立。東京・青山に事業本部を置き、全国7箇所にショールームを設けアロマキャンドルから、
様々なキャンドルそして、メッシュ製品などのインテリアアイテムまで幅広いアイテムを
取り扱うようになった。
結婚式で定番となったキャンドルサービスを1970年代初旬に生み出し、2002年から
パーティースタイルウエディングを提唱、その後も様々なウエディングスタイルを
発表し続けている。



『能褒野(のぼの)神社の二の鳥居』。
和田一里塚の先で国道306号線を越えて進むと、右手筋に能褒野神社鳥居が建っている。
能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあり、一帯は前方後円墳で日本武尊が
伊勢国能褒野で亡くなったという記録に基づき、明治12年に内務省により
「日本武尊能褒野御墓」 と定められている。
全長約90m、後円径54m、 高さ約9mの王塚とか、丁字塚と呼ばれていた三重県北部最大の
前方後円墳を日本武尊の墓であると認定し、以後宮内庁が能褒野陵として管理しているのだと。
鳥居の下には地元の人が書いた「従是西亀山宿」木札が置かれていた。
ただし正式な亀山宿の江戸口門はもう少し先にあった。



ここから西が『亀山宿』となる。



ほんの僅か進んで打田釣具店の斜め向かいにあるのが『露心庵跡』
本能寺の変から2年後の天正十二年(一五八四)、明智光秀や柴田勝家を滅ぼし勢力を
拡大する羽柴秀吉に対し、織田信長の次男信雄と徳川家康が手を組み対立を深めていた
時代の頃の話。

「露心庵跡
天正十二年(一五八四)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか
十三騎でこれを撃退した。 この合戦の戦死者を城下東端に二つの塚を築き葬ったという。
関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。 この仏庵が露心庵で、
本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
明治に至り廃寺となった。 この庵から西が亀山宿となる。」



亀山宿(かめやましゅく、かめやまじゅく)は、東海道五十三次の46番目の宿場である。
現在は三重県亀山市。 城下町であると同時に宿場町であった。
亀山は関氏の祖、平実忠が文永元年(1264)城を築いたことに始る。その後城主が変り、延享元年
(1744)石川主殿頭が入部し、明治まで続く。宿場でもあり、城下町でもあり、繁栄したと
いわれるが、藩領内に幕府直轄の宿場が置かれたので、参勤交代で通る大名達は亀山宿に
宿泊するのを遠慮したといわれます。そのため宿場の規模は大きくなかった。
本陣 1 脇本陣 2 旅籠 21 

『広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。
「雪の朝の亀山城の前を大名行列が通っていく。山の傾斜、行列、雪に包まれた松の線の
方向を同じくし、二本の松がそれらの線と交差して自然の力強さを表わしている。
銀世界に左手の紅色の空のぼかしが、晴れた日の日差しを表わしている。
前図の庄野と並べると、主題構図も対象的で、続き絵としてのおもしろさもある。」



亀山宿は露心庵跡から始り、本町に入っていく。旅籠はこの本町と隣の東町に固まっていたと。
町並は火曜日というせいでもあるのだろうが、人影がまばらでひっそりとしていた。
本町2丁目、3丁目には古い民家もいくらか見ることが出来た。
民家の前にあった巨石。



『東海道亀山宿 茶屋町 たたみや跡』



『東海道亀山宿 茶屋町 しちのすけ跡』



『東海道亀山宿 茶屋町 ふじや跡』



『東海道亀山宿 茶屋町 さくらや跡』



旧家が続く。



『亀山本町郵便局』手前の『巡見道』交差点を渡る。



「巡見道
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。 巡見使が最初に
派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(一六三三)のことで、その後将軍の代替わりごとに、
諸国の政情、民情などの査察や 災害などの実情調査を行う目的で実施された。
巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、
伊勢国を通過し中山道とつながる。」



右手に『亀山本町郵便局』。



さらに旧家が続く。



『米川時計店』と書かれた看板。



『東海道亀山宿 茶屋町 はなや跡』。



連子格子の旧家が左右に。



『東海道亀山宿 鍋町 はまだや跡』。



更に旧東海道・亀山宿を進む。



『東海道亀山宿 鍋町 たまや跡』。



『東海道亀山宿 鍋町 きりや跡』と『東海道亀山宿 鍋町 みかわや跡』。



本町三丁目『東海道亀山宿 東新町 まつばや跡』。



右手に『小菅屋』。



道なりに進んで県道566号線に突き当たると、左角に『江戸口門跡』案内板が建っていた。
往時は東西120m、南北70mの敷地に水堀や土塁・土塀を巡らし、門と番所を据えて通行人を
監視していたと。そんな江戸口門跡は鉤手のように鋭角的に折れ曲がる旧街道の角にそれらしい
モニュメントが置かれているだけ。



「江戸口門跡
延宝元年(一六七三)、亀山城主板倉重常によって築かれた。 東西百二十メートル、南北七十メートルで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。 曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。 この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計二万人が動員されている。 西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。 ただ、江戸時代前期においてはこの位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。 現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。」



東町2丁目を西に進むが人通りはほとんどなしのアーケード街。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.02 16:37:59
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