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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
右手奥に見えたのが、土山宿や東海道についての展示や特産品販売・体験工房のある
資料館
『東海道伝馬館』。

旧東海道からの入口にあったのが『問屋場 成道学校跡』。
「問屋場跡
問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる
業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、
人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。
土山宿の問屋場は、中町と吉田町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、
時代とと共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も
廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。」
『あいの土山観光案内図』。
『東海道 伝馬館』入口。
伝馬とは江戸時代、諸街道の宿場に常備され、幕府の書簡や荷物を継ぎ送りするシステム
(あるいはそれを運ぶ馬)のことで、徳川家康が慶長6年(1601年)に東海道や中山道に
多くの宿場を指定し、36頭ずつの伝馬を常備させたと云われている と。
『文豪森鴎外 来訪の地』碑。
「二日。天陰れり 午前六時大坂に至り、車を換ふ。
九時草津に至り、又車を換ふ 十時三雲に至り、車を下る。
雨中人力車を倩ひて出づ 午時土山常明寺に至る。 小倉日記」
『森鴎外と土山』
「森鴎外が土山を訪れたのは、明治三十三年三月二日、祖父白仙の墓参のためである。
白仙は、石見国津和野の藩医であった。 万延元年(一八六○年)藩主の参勤交代に随行して
江戸へ出向。 翌年五月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。 途中十一月七日、
土山宿井筒屋にて急死した。 遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。
鴎外が生まれたのはその翌年である。 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在往時代、軍医部長会
出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、
常明寺の境内に墓を修した。 寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て
東京へ向かった。 明治三十九年祖母きよが、大正五年母ミネが没。 遺言により常明寺に葬られた。
昭和二十八年、三人の墓は津和野永明寺へ移された。 現在常明寺境内には、鴎外の子孫が
建立した供養塔が立っている。」
『東海道伝馬館』
開館時間 午前9時~午後5時
休 館 日 月・火・年末年始を
入 場 料 無 料
『伝馬館』の建物は、昔ながらの民家の如く。
格子戸、虫籠窓、そして上には中二階があった
そして中二階の上に、さらに三階があった。中三階と言うのが適切か。

『伝馬館』の手前向かいにあったこの建物は問屋場(江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、
助郷賦課などの業務を行うところ)を再現したもの。
中には、帳付の宿役人を再現展示していた。各宿場に置かれた問屋場は、公用荷物を次の宿場に
運ぶ人馬の継立や、公用の書状等を次の宿場へ届ける継飛脚を主な業務とした施設。
寛永15年(1638)以降、東海道の各宿場には人足100人と伝馬100疋もの常備が義務付けられ
ていた。中山道では人足50人と伝馬50疋の常備であり、いかに東海道の通行が多かったことを
物語っていると。
『伝馬次之事 写』
「慶長6(1601)年に東海道の宿に出された『伝馬次之事の写』。
土山伝馬役中に36疋の伝馬の常備継立の区間、伝馬の積載量などが定められた。」






































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