JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2020.12.15
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カテゴリ: 国内旅行
そして3名の「掲示塔」・円筒形歴史展示物「​ 函館リトファスゾイレ ​」👈リンク が。
中央: 杉浦 兵庫頭誠  幕末の幕臣 1866年箱館奉行勤務 ロシア、イギリスなどの
   外交問題に対応、1869(明治2)に新政府の一員として再び箱館勤務
右: 武田斐三郎(あやさぶろう) 伊予大洲藩士  弁天岬台場、五稜郭の建設などをおこなう。
左: 清水谷公考(きんなる)  江戸時代後期の公家 函館府知事として函館戦争の戦後処理を
  行った。



箱館奉行支配諸術調所教授役 武田斐三郎(あやさぶろう)



蝦夷地経営の拠点 五稜郭築造
1854 (安政元)年、箱館奉行の上申により箱館御役所(奉行所)の移転計画が決定し、
四方に西洋式土塁を巡らした役所を亀田の地に建設することとなった。
西洋式土塁の設計は、函館諸術調書教授役で蘭学者の武田斐三郎が担当しフランス軍人から
教授を受けた五稜星形をデザインした土塁を設計・提案した。最終的には、経費節減と
エ期短縮のために半月堡塁の数を減じた五稜星形からなる土塁とその中央部に配置する
御殿様式の役所建物が決定した。この後、1857 (安政4 )年春に武田斐三郎立ち会いのもとで
現地測量を開始し、五稜郭築造が着工となった。
築造工事の請負は、箱館御役所御用達の佐藤半兵衛、山田寿兵衛、杉浦嘉七および松川弁之助、
備前の喜三郎、中川伝蔵代人伊兵衛の6名で、主に、松川弁之助が掘割と土塁・石垣工事、
備前の喜三郎が石垣工事と上水道工事、中川伝蔵代人伊兵衛が役所および役宅建築工事などを
担当した。掘役所建物の建凱訳が決定した。堀割・土塁・石垣の工事に約3~4年を費して
1864(元治元)年4月にはほぼ完成し、同年6月15日に役所業務が開始となったが、
附属建物等の一部の追加工事は、その後1866 (慶応2 )年まで継続された。
五稜郭築造工事の総経費は、掘割・土塁・石垣工事が53,144両、役所建築が13570両、
役宅建築が26,860両、その他工事が4,426両の合計98,000両であった。」



五郭目論見図
郭内中央部に箱館奉行所庁舎および20数模の附属建物が配された最終設計図。


武田斐三郎(あやさぶろう)1827~1880
1827(文政10)年、伊予国喜多郡中村(現・愛媛県喜多郡)生まれ。
名は成章、斐三郎。号は竹塘。大阪で緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、江戸では伊東玄朴や
佐久間象山に兵学、砲学などを学んだ。1853(嘉永6 )年、ペリー提督浦賀来航の際に
出向き調査した。翌1854 (安政元) 3月に蝦夷地御用掛の堀織部正に随行し、函館に渡った。
幕府から箱館詰を命じられて、器械、弾薬製造の任に就き、弁天岬台場と五稜郭の設計に
携わった。1856 (安政3 )年に学問所の諸術調書を設置して.教授役に就く一方で、
和製大砲製造目的に古武井に溶融炉を建設した。さらには、門下生とともに西洋型帆船
「亀田丸」で航海測量の一方で露領ニコライスキーまで航海して交易を行うなど多方面に
わたり活躍した。この後、1864(元治元)年江戸に帰り、開成所教授に就き、
1871(明治4)年兵部省に出仕して、砲兵大佐、士官学校学科提理を歴任した。
1880(明治13)年に54歳で没した。」



中川伝蔵 代人 伊兵衛
五稜郭内の箱館奉行所庁舎の建築工事は、小普請方・鍛冶方・石方請負人中川(伊勢谷)伝蔵の
一手請負により実施された。中川伝蔵は江戸浅草橋場町在住の大工で、上野御霊屋御廟の普請の
功績により中川姓を許されたが、諸事情により、家督を息子に継がせて、自分は代人伊兵衛と
して箱館に渡って建築工事を実施したとされる。奉行所庁舎の建設に当たり、諸経費削減のため
秋田の能代で建築資材の下拵えを行い、その資材を能代から箱館に回漕して、1862 (文久2 )年
秋から建築工事が開始された。箱館奉行役宅を付設した総坪数800坪余りの御殿様式の奉行所
庁舎は、1864 (元治元)年4月に完成となった。なお、代人伊兵衛をは奉行所建築に併せて、
箱館奉行支配組頭以下の役宅建築や弁天橋台場の土塁築立も請負い、工事を実施した。



慶応4年に撮影された「函館奉行所」。



松川 弁之助 1802~1876
1802 (亨保2 )年、越後国蒲原郡井栗村(現・新潟県三条市)にまれ。1855 (安政2 )年、
北方開拓を目指して江戸へ出て、幕府から蝦夷地御用方を拝命した。
翌年配下の者を数10名引き連れて箱館へ渡り、箱館御用取扱を命じられた。
当初は、谷地頭に御用畑や箱館近郊の石川に官営の御手作場を開くなどに携わった。
この後、1856 (安政3 )年からは弁天岬台場および亀田御役所土塁(五稜郭)築造工事を請負い、
主に掘割り、土塁、石垣工事を担当した。特に、五稜郭築造時には、物資運搬用の道路を
自費で完成させ、後世には「松川街道」との呼び名が付けられた。また、樺太漁場開拓や
箱館の埋立工事なども計画・実行に移すが、後に差配人元締を辞退し、1862 (文久2 )年帰郷。
1876 (明治9 )年に75歳で没した。」



最後の箱館奉行 杉浦 兵庫頭誠



開港場箱館の象徴、五稜郭の完成
1864(元治元)年4月、五稜郭内の箱館御役所(奉行所)建設工事が完了し、同年6月15日に
箱館山麓(現在の元町公園)の箱館奉行所から箱館奉行小出大和守(こいでやまとのかみ)が
移転して、五稜郭での業務が開始された。徳川幕府にとって、開港場箱館および蝦夷地統治の
中心的役割を担う待望の新役所の誕生であった。また、同年9月には諸外国からの軍事的脅威に
対する備えとなる要塞の弁天岬台場も完成となった。さらには、蝦夷三官寺の東樹院
(とうじゅいん)の願いを受けた箱館奉行が、翌年4月17日に上山(神山)村の地に、
徳川家康を祀る鎮守府の東照宮を建立して、箱館の防御計画は完成をみた。
こうして、五稜郭は名実ともに開港場箱館の象徴としての存在となった。1866(慶応2 )年、
小山大和守が遣露使節団代表正使となり、代わりに杉浦兵庫頭が箱館奉行に赴任した。
杉浦は、課題の一つであった岩内炭鉱開発に成功したものの慶応3年の大政奉遠により
幕府崩壊となり、新政府に五稜郭を引き継ぐ役割を託された。
1868 (慶応4 )年閏4月27日に、箱館奉行杉浦兵庫頭から新政府総督へ引き継ぎが行われ、
五稜郭完成から僅か4年弱で徳川幕府の箱館御役所(奉行所)の役割を終えることとなった。」



杉浦 兵庫頭誠 1826~1900
1826(文政9)年、幕臣久須美家に生まれ、後0に杉浦家の養子となり家督を継ぐ。
名は勝静、誠、通称は正一郎号は梅潭。
鉄砲玉薬奉行、洋書調所頭取から、1862 (文久2 )年に目付となった。翌年、長崎奉行へ
転じたものの直後に再び目付に任命され. 1864 (元治元)年に辞職し非職となった。
1866(慶応2 )年、箱館奉行に任命され箱館に赴任し、翌年9月からは勘定奉行兼務となった。
大政奉還による募府崩壊の後も、新政府に対抗して箱館に止まっていたが、1868(慶応4 )年
閏4月27日に、新政府総督清水谷公考に引き継ぎを終えて、江戸へ帰任した。箱館戦争終了後の
1869 (明治2 )年7月、開拓使が設置され、同年末に函館の開拓使出張所に主任宮(開拓権判官)
として着任した。後に開拓使判官となり、1877(明治10 )年に開拓使を退官し東京に帰着した。
1900(明治33)年に75歳で没した。」



小出 大和守 1834~1869
1834(天保5)年幕臣旗本の土岐家に生まれ、小出家の養子となる。名は秀実、佐衛門尉、修理、
実など。1861(文久元)年に使番、目付に登用。翌年9月箱館奉行に任命され、箱館に赴任した。
箱館では、1864 (元治元)年6月15日に箱館山麓の奉行所庁舎から、五稜郭内の奉行所庁舎に移り、
業務を開始した。翌慶応元年には、徳川家康を祀る鎮守府の東照宮を上山村に建立した。
また、イギリス領事館職員によるアイヌ人盗骨事件の解決に奔走した。1866 (慶応2)年8月に
外国奉行を兼務し、10月に樺太国境画定交渉の遣露使節団の代表正使としてロシアに派遣された。
日露間樺太島仮規則を仮調印し、1867 (慶応3 )5月に帰国した。後に、勘定奉行、金銀座調締役
から留守居となり、1868 (慶応4 )年に江戸北町奉行を辞職し、翌1869 (明治2 )年に没した。」



1868(慶応4)年の函館御役所(奉行所)名簿



松岡 徳次郎 1826~1869
1826 (文政9 )年、駿河国(現・静岡県)生まれ。1854(安政元)年に蝦夷地に渡り、
問宮鉄次郎の樺太東海岸探検に同行した。同年に開設された箱館奉行所に調役下役として
勤務し、1863 (文久3 )年に調役並、1866(慶応2)年に調役に昇進した。
その後、新政府の箱館裁判所引き継ぎ時点まで一貫して奉行所役人を努めた。
写真は、箱館裁判所へ引き継ぎされる直前の慶応4年閏4月21日に、五後郭北側の役宅で
損影された。調役の正装姿(素袴)のものである。1869(明治2 )年に43歳で没した。」



函館裁判所総督 函館府知事 清水谷公考 (きんなる)



徳川幕府の箱館奉行から新政府の箱館裁判所・箱館府へ
1867 (慶応3 )年10月、徳川慶喜が朝廷に大政奉還の上表を提出し、12月に朝廷が王政復古の
大号令を発して徳川幕府が倒壊した。幕閣から新政府への蝦夷地引き継ぎ指令が出されて、
箱館奉行杉浦兵庫頭は平穏に引き継ぎすることを決断した。新政府は、蝦夷地経営のため
箱館裁判所を設置し、総督に清水谷公考、実務責任者の判事に井上長秋(石見)、実務担当の
権判事に岡本監輔、山東一郎、小野淳輔、堀真五郎、宇野監物らを任命した。
1868 (慶応4 )年閏4月26日に杉浦奉行と小野淳輔の間で五稜郭の管理引き継ぎを終え、
翌4月27日には新政府の役所となった五稜郭へ杉浦兵庫頭が出頭して、清水谷公考総督との
引き継ぎに臨んだ。この後、5月1日には五稜郭で箱館裁判所の開庁が宣せられ、蝦夷全島の
政務が開始となった。
なお、「箱館裁判所」は直ぐに「箱館府」と改称され、総督清水谷公考は箱館府知事となった
一方、旧箱館奉行所の上級役人の大半は、旧幕府が差し向け軍艦回天丸で江戸へ帰府し、
下級役人のうち希望者については、そのまま箱館裁判所に雇用され箱館に止まった。
また、幕府が行ってきた蝦夷地政策は基本的にそのまま継続されたが、約半年後には箱館戦争へ
突人し、五稜郭の庁舎は旧幕府脱走軍が占拠するところとなった。」


箱館裁判所への引き継ぎ直後に、軍艦回天丸が箱館入港
1868(慶応4)年5月4日、旧幕府軍艦回天丸が箱館に入港した。箱館奉行所から箱館
裁判所への引き継ぎ直後であり、裁判所側は大いに警戒したが、旧箱館奉行の杉浦兵庫
頭が箱館裁判所判事の井上長秋に対し、粗暴の問題はない旨を弁解し事なきを得た。
その夕方、旧幕府海軍荒井郁之助と甲賀源吾が杉浦を訪問し、勘定奉行からの要望書
(蝦夷地の米・金等の江戸への回付要望)を届け、軍艦回天丸を差し向けた理由が
判明した。また荒井・甲賀の両名は、江戸表や戊辰戦争の状況等の情報を杉浦に伝達した。
3日後の5月7日、回天丸に旧箱館奉行支配組頭も山村惣三郎以下。22名の役人達が乗船して
江戸へ向けて帰帆した。回天丸はこの約半年後に箱館戦争の中心的役割を担って再び函館港に
入港する。なお、杉浦と面談した荒井・甲賀の両名が、箱館の実態を情報として江戸へ持ち
帰ったかは定かではない。ただ、箱館戦争の展開に極めて大きな役割を果たしたことは
疑いない。」



清水谷公考(1845~1882)箱館裁判所総督 函館府知事 
1845(弘化2 )年、京都生まれ。公卿清水谷家の家督を継ぎ、1861(文久元)年正五位下に
叙され侍従を申しつけられ、1866(慶応2 )年には正四位下に叙された。1868 (慶応4)年の
戊辰戦争勃発により、蝦夷地鎮撫を朝廷に進言したことに伴い、函館裁判所設置時に、新政府から
副総督に任命された。また函館裁判所から箱館府への変更時には箱館府知事となった。
その後、10月に旧幕府脱走軍か蝦夷地上陸し、函館戦争が開始となった際に、清水谷は側近らと
共に青森へ撤退した。翌年5月に箱館戦争が終了し、箱館府知事として再任され、7月に
開拓使次官に就任した。9月に次官を辞職し、1871(明治4 )年にロシア留学となり、4年後に
帰国して家督を継いだ。1882 (明治15 )年に従三位に叙され、同日37歳で没した。」

小野淳輔 1842~1898 
1842 (天保13 )年、土佐郷士・高松家に生まれる。母は坂本龍馬の姉千鶴で、龍馬の甥にあたる。
1861 (文久元)、土佐勤王党に加盟し尊皇攘夷運動に奔走後、勝海舟の門下生となり、海軍術を
学んだ。1867(慶応3 )年に小野淳輔と改名し、維新後は新政府に出仕した。
翌慶応4年閏4月26日に箱館奉行杉浦兵庫頭との事務引き継ぎを行い、5月1日に開庁した
函館裁判所の権判事に就任して、外国方を担当した。同年t0月の函館戦争勃発により、新政府軍の
一員として参戦し、翌年戦争終結後に再び箱館府に勤務したが、12月に免職となった。
また、明治4年には朝廷の命で坂本龍馬の跡目を相続し、坂本直と改名した。
この後、東京府典事、宮内省雑掌、舎人などを歴任するも、明治22年に宮内省を免職となり
高知に帰郷した。1898(明治31)年に56歳で没した。」



岡本監輔 1839~1904
1839 (天保10 )年、阿波・穴吹(現・徳島県美馬市)の医薬家に生まれる。通称は文平。
1863 (文久3 )年、樺太を探検し、1865(慶応元)年には丸木舟で樺太一周に成功した。
慶応4年5月1日開庁した箱館裁判所権判事に就任し、樺太経営を担当した。この後、明治2年に
開拓判官となったが、黒田清隆と意見が合わすに翌年辞任し、東大予備門御用掛、一高講師、
台湾総督府国語学校教授などを歴任した。明治25年に千島義会を設立し、択提島などを探検し
「千島見聞録」などを著した。1904(明治37 )年に65歳で没した。」

堀 真五郎 1838~1913
1838 (天保9 )年、萩の堀家に生まれる。長州藩士であったが、脱藩して尊皇攘夷活動に加わった。
戊辰戦争時に徴土内国事務局判事となり、後に箱館府兵事取扱役に就いた。
1868(慶応4 )年5月1日開庁の箱館裁判所権判事に就任し、文武方を担当した。同年の箱館戦争
勃発時に清水谷府知事とともに青森へ逃れ、東京へ状況報告後に免職となった。
この後、東京始審裁判所長や大審院判事などを歴任し、1913 (大正2 )年に76歳で没した。」



井上長秋 1831~1886
1831 (天保2 )年、鹿児島生まれ。通称は石見(いわみ)。鹿児島諏訪神社神職の家出身で、
1860 (万延元)年に上京し、兄とともに岩倉具視ら倒幕派公家と藩との連絡役を務めた。
1868(慶応4 )年、新政府から西郷降盛、大久保利通らとともに参与に任命、箱館府判事を
命ぜられた。箱館府五稜郭庁舎(旧箱館奉行所庁舎)では、実務の筆頭として民政方を担当した。
同年9月、井上長秋一行は択捉・根室の視察に向かい、帰途に道難し行方不明となった。
箱館府の実質的な政務の責任者を失ったことにより、その後の開拓施策は停滞を余儀なくされた。
特に、箱館奉行杉浦兵庫頭が開発に成功した岩内炭鉱の継続に意欲を持っていたといわれる。」
甲賀源吾

荒井郁之助




そして反対側にも3人の「掲示塔」があった。
中央:榎本武揚(えのもと たけあき)
   箱館戦争での幕府側首脳
右:ジュール・フリュネ
  江戸幕府の榎本武揚を支援して箱館の防衛を指示したフランス人軍人、
  幕府側が降伏したさいは、フランス船に逃れていた。
左:中川嘉兵衛
  静岡県出身の実業家、箱館の天然水を「函館水」として売り出す。
  彼の創った横浜氷会社は、ニチレイとなっている。



榎本武揚 」。



旧幕府脱走軍蝦夷地を平定、仮政権を樹立
1868 (慶応4 )年8月、旧幕府軍艦開陽を旗艦とした8隻の艦隊が品川沖を脱走し、仙台を経由の後、
10月20日に蝦夷地森村鷲ノ木へ到着し箱館戦争が開始となった。蝦夷地上陸後に、旧幕府脱走軍
陸軍隊は二手に分かれて箱館に進攻し、10月26日に蝦夷地統治の中心地五稜郭を占拠して箱館を
制圧した。この後、11月5日に海陸軍の共同作戦により松前福山城を陥落させるなど、蝦夷地の
平定に成功した。こうして、12月15日には、旧幕府脱走軍の士官以上の人れ札(選挙)が行われ、
総裁榎本武揚、副総裁松平太郎、陸軍奉行大鳥圭介、陸軍奉行並土方歳三、箱館奉行永井玄蕃、
箱館奉行並中島三郎助、海軍奉行荒井郁之助などの役職が決定し、蝦夷地仮政権が樹立となった。」



麦叢録附図 十ニ月十五日於函港祝砲之図 」。



榎本軍旧幕府軍の函館政権時の組織編成


   【http://www.town.kikonai.hokkaido.jp/tourism/history/boshin4/】より

榎本武揚 1836-1908
蝦夷地仮政権総裁
1836(天保7)年、江戸生まれ。通称は釜次郎。号は梁川。
1854(安政元)年、蝦夷御用地掛堀利煕の小姓として蝦夷地・樺太を巡検。1856(安政3)年に
長崎海軍伝習所に入所し、後に築地軍艦操練所教授に就任した。1862(文久2)年、オランダ留学に
派遣され、兵制・法律・器械学を修め、1867(慶応3)年に幕府がオランダに発注した開陽丸で
帰国し、海軍副総裁に任命された。旧幕府艦隊を率いて1868(明治元)年10月に蝦夷地へ上陸し、
五稜郭占拠や松前方面攻略の後、旧幕府脱走軍の蝦夷地仮政権総裁に選出された。
翌2年5月、新政府軍に降伏して東京で入獄したが、1872(明治5)年に特赦で出獄後に
開拓使へ出仕した。2年後には海軍中将となり、ロシア特命全権公使を務めた。
この後、逓信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任して、子爵となり、1908(明治41)年に
73歳で没した。」



永井玄蕃 1816~1891
1816(文化13)年、三河奥殿藩藩主松平家に生まれ25歳の時に旗本永井尚徳の養子になった。
名は志志(なおゆき)。1853(嘉永6)年、幕府から目付に登用され、翌年には長崎海軍伝習
所総監理に就任した。1858(安政5)年に岩瀬忠震と共に、外国奉行となり、後に軍艦奉行に
転進したが、罷免されて失脚した。
この後、1862(文久2)年に京都町奉行、1864(元治元)年に大目付、1867(慶応3)年には
若年寄を歴任するなど、高い交渉能力を発揮して幕府に貢献した。1868(慶応4)年、
榎本武揚と共に蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地平定後の仮政府では箱館奉行となり
函館の統治および外国との交渉を行った。翌年の新政府軍函館総攻撃時には弁天台場で
陣頭指揮をとって戦うが、5月15日に新政府の勧告を受けて降伏した。その後投獄されたが
1872(明治5)年に特赦で出獄して明治政府に出仕、開拓使御用係、左院小議官を経て、
元老院権大書記官を歴任した。1891(明治24)年に76歳で没した。」

荒井郁之助 1836~1909
1836 (天保7 )年、幕府御家人新井家に生まれる。14歳で昌平坂学問所に入学し、20歳で
幕府に出仕して軍艦操練所教授、軍艦操練所頭取を勤めた。1868 (慶応4 )年に軍艦頭に任命
された。その後、榎本武揚らと共に江戸を脱出し、蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。
蝦夷地仮政権で海軍奉行となり、宮古湾の甲鉄艦奪取作戦に奮闘した。1869 (明治2 )年
5月11日の新政府軍箱館総攻撃の際に、陣頭指揮で箱館湾海戦で奮戦したが敗退し、
一本木関門上陸後に五稜郭で降伏して、5月18日に榎本武場らと降伏調印に臨んだ。
1872(明治5 )年釈放後に開拓使へ出仕し、1890 (明治23 )年に初代中央気象台長に
就任した。1909 (明治42 )年74歳で没した。」



甲賀源吾 1839~1869
1839 (天保10 )年、掛川藩の江戸藩邸生まれ。1858(安政5)年、築地軍艦教授所教授頭の
矢田崛鴻の下で航海術を学んだ後に幕府に出仕し、軍艦操練方手伝出役、軍艦操練授方出役、
御軍艦組出役を歴任した。
1863(文久3)年の下関戦争で朝陽丸艦長、1866(慶応2)年に奇捷丸艦長、1868(慶応4)年に
軍艦頭並となり、回天丸艦長に就任した。同年5月4日に荒井郁之助とともに回天丸で函館に
入港し新政府引き継ぎした旧函館奉行所役人の江戸帰還に尽力した。
3ヵ月後に旧幕府軍艦回天丸艦長として品川を脱出し、再ひ蝦夷地へ向かい、箱館戦争に参戦した。
1869 (明治2 )年3月、宮古湾に集結した新政府軍務隊の甲鉄艦奪取作戦に、旗艦回天丸が突入を
図ったが、甲賀は甲鉄艦からの銃撃を受けて戦死した。享年31歳。」



物記船之図宮古奇襲 」。
この絵の中で船が10艘描かれています。
船の上にうっすらと文字が書かれていますが、右上から時計回りに朝陽、ストンモール、回天艦、
亜米利加、春日とあります。
「ストンモール」は「甲鉄」のことで、もともとは「ストンウォール・ジャクソン」という
名前です。
「春日」は薩摩の軍艦です。「亜米利加」は新政府軍がアメリカから雇った船「ヤンシー」だと
思われます。
「回天」は脱走軍の軍艦で、当初「回天」「蟠龍」「高雄」の3艦で奇襲をかける作戦でしたが、
途中「蟠龍」と「高雄」が暴風で離散し、「回天」のみで決行しました。



フランス軍士官隊体調 ジュール・ブリュネ 」と「 蝦夷地仮政権 副総裁 松平太郎 」。



箱館の救出と一本木関門奪回のため、五稜郭を出撃
1869 (明治2 )年5月11日、早朝から新政府軍は箱館総攻撃を開始して、弁天台場を孤立させ、
箱館市中を制圧した。これに対して、五稜郭の旧幕府脱走軍本営地では、弁天台場と箱館の
救出に向かうべく、直ちに出撃を開始した。副総裁松平太郎、陸軍奉行並土方歳三以下、
額兵隊、見国隊、神木隊、彰義隊などにり、五稜郭から千代ケ岡に向い、箱館への分岐点で
ある一本木関門の奪還を目指した。しかしながら、一本木関門での戦闘は激しく、出撃隊は
五稜郭方面に敗走した。土方歳三は関門突破の後、箱館方面への途中で銃弾を受けて
戦死した。土方戦死の報を受けて、松平太郎は再度、一本木関門の突破を試みたが、叶わずに
五稜郭へ引き揚げすることとなった。」

大島圭介 1832-1911
1832 (天保3 )年、援磨国赤穂郡赤松村(現・兵庫県赤穂郡上郡町)生まれ。
大仮の緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学び、1865 (慶応元)年に陸軍所に出仕した。
戊辰戦争では、旧幕府陸軍伝習隊を率いて北関東・会津を転戦し、仙台で榎本武揚率いる
旧幕府海軍と合流後に蝦夷地へ渡った。1868 (明治元)年10月20日、森村鷲ノ木に上陸後に、
大鳥圭介隊は大野・七重での戦闘の後、箱館に進攻して10月26日に五稜郭を占拠した。
蝦夷地平定後に仮政権の陸軍奉行に就任し、五稜郭の軍事的強化の指揮にあたった。
翌年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時に、七重浜での戦闘指揮に当たるも敗北し、五稜郭で
降伏した。東京で投獄となり、1872 (明治5 )年に釈放され北海道開拓使に出仕した。
後に、工部大学校校長、元老院議官、学習院院長兼華族女学校校長、駐清国特命全権公使、
枢密願問官などを歴任し、1911 (明治44 )年に78歳で没した。」

土方歳三 1835-1869
1835 (天保6 )年、武州多摩郡石田村(現・東京都日野市)生まれ。1863(文久3 )年、
幕府兵の募集に参加し上京。同郷の近藤勇と新撰組を結成し、副長を動めた。
会津藩の指揮下、京都の警備に活躍したが、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、会津や仙台を転戦の後、
旧幕府脱走軍に合流し、蝦夷地で箱館戦争に参戦。
1868 (明治元)年11月の松前・江差攻略を果し、蝦夷地仮政権陸軍奉行並となり、翌1869年の
宮古湾奇襲攻撃や大野ニ股ロの戦闘に奮戦した。同年5月11日、弁天台場救助のためー本木関門
(現・若松町付近)の突破をはかり、箱館市中へ赴く途中で銃弾を受けて戦死した。享年35歳。」


函館大戦争之図
1869『明治2)年5月11日、新政府軍箱館総攻撃により箱館市中が新政府軍の制圧下に置かれた。
副総裁松平太郎と陸軍奉行並土方歳三が、一本木関門の奪還を目指して新政府軍との激戦と
なった。」





箱館戦争図
1869(明治2)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃時の、函館港、函館市中での戦闘の様子が
描かれる。」



ジュール・ブリュネ 1838~1911
フランス軍士官隊隊長
1838年フランス・ベルフォール生まれ。1867(慶応3)年に幕府の要請で、フランス軍事
顧問団の副団長として来日し、幕府伝習隊の訓練に当たった。
その後、1868(明治元)年10月に、カズヌーブ、マルラン、フォルタン.ブッフィエなどの
フランス人下士官と共に旧幕府脱走軍に加わり、箱館戦争に参戦した。箱館戦争では、
海岸線防御や陣地の指導、陸軍の再編と訓練を行った。1869 (明治2 )年、旧幕府脱走軍が
敗北し、五稜郭明け渡しの直前にフランス軍艦で日本を離れ、フランスに帰還した。
帰国後はフランス陸軍に復帰し、リヨン防衛軍司令官を最後に退官し、1911年に
73歳で没した。」

松平太郎 1839・1909
蝦夷地仮政権副総裁
1839(天保10)年、幕臣松平家に生まれる。文久年間に奥右筆、後に外国奉行支配組頭を勤めた。
1868(慶応4)年、歩兵頭から陸軍奉行並となり、大鳥圭介や、榎本武揚らとともに戊辰戦争に
参戦した。会津戦争の後、蝦夷地へ渡り、旧幕府脱走軍の蝦夷地仮政権の副総裁に就任した。
主に民政・外交面で活動し、人望は厚かったとされる。
1869(明治2)年5月11日の新政府軍箱館総攻撃の際には、一本木関門奪還に陣頭指揮で
出撃したが敗退し、5月18日には榎本武揚らと共に降伏調印に臨んだ。東京で投獄の後、
1872(明治5)年に釈放され開拓使出仕したが早々に退職し、1909(明治42)年に
71歳で没した。」

伊庭八郎 1844~1869
1844 (天保15 )年、江戸に生まれ。「幕末江戸四大道場」の一つとされた御徒町の剣術道場
「練武館」開祖の心形刀流宗家・伊庭家の長男。1864 (元治元)年、江戸幕府に大御番衆として
登用され、奥詰となり、後に奥詰が改編されて遊撃隊となり、伊庭も一員となる。
将軍の護衛として鳥羽伏見の戦いに敗退し、その後遊撃隊として各地に転戦した。
戦闘で負傷し治療後に、榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊に投じ蝦夷地へ渡った。
箱館では、仮政権の歩兵頭並、遊撃隊隊長を勤めた。隻腕で有りながらも軍を率いて徹底抗戦を
続ける中、木古内の戦いで重傷を負し、五複郭内で治療を続けた。しかしながら、1869 (明治2 )年
5月12日、新政府軍艦甲鉄からの艦砲射撃が五稜郭内に多数飛弾するようになり、敗北が決定的と
なったことを悟って、モルヒネを飲み干し自決したとされる。享年26歳。」



函館戦争図幅
四稜郭の南側1kmには、1865 (慶応元)年に五稜郭の鎮守府として神山に設置された東照宮が
存在した。大鳥圭介の記録には四稜郭は「神山の砲台、小堡」などと記されている。

東照宮守備の台場、四稜郭
1869 (明治2 )年4月頃に、五稜郭の北東側3kmの高台に急造された西洋式土塁の砲台で、
四偶の稜堡塁の特徴から四稜郭と呼ばれる。5月11日の新軍攻撃時には半日ほどで陥落し、
兵は五稜郭へ敗走したとされる。」



軍備強化に五稜郭改造、
東照宮守備に四稜郭を築造
1868 (明治元)年10月、蝦夷地に上陸した旧幕府説走陸軍は、ニ手に分ガれて函館に
進攻した。大鳥圭介の隊は、大野・峠下方面から、土方歳三の隊は川汲峠方面から、
共に箱館府兵との戦闘に勝利してほぼ無人の箱館府五稜郭を占拠した。五稜郭は役所が
置かれていたが、軍事的防御施設がほとんどなく、要塞として極めて不十分な状態に
あったため、土塁を強化して砲台を設置する改造に着手した。改造工事は冬期間を通して
行われ、翌年春頃に工事が完了して、土塁上の10か所に24ポンド長カノン砲が配備された。
また、五稜郭の北東側鬼門の方角に置かれた鎮守府の東照宮を守備するため、東照宮の
さらに北側の高台に、砲台を2か所に備える西洋式土塁の四稜郭が築造された。
稜郭の設計・指導には、フランス士官隊隊長のジュール・プリュネがあたったとみられ、
短期間の工事でフランススタイルの砲台が完成し、5月初めには松岡四郎次郎隊が守備に
就いた。新政府軍の反撃に対する五稜郭の要塞化と四稜郭の急造であったが、軍の攻撃に
対しては効力を発揮することなく、旧幕府脱走軍は敗退し戦争が終結した。」



「後役十一日戦争五弼より 発砲応援の団」
1869 (明治2 )年5月11日の新政府軍箱館攻撃時に、五稜郭土塁上設置の大砲から
七重浜方面の援護射撃の様子を描いたとされるが、24ポンドカノ冫砲は到達距離
に乏しく、砲弾の大半は途中の亀田周辺に落下した。」



「函館氷」の創始者 中川嘉兵衛



五稜耶の上水と函館氷
五稜郭への上水道の設置については、箱館御役所(奉行所)の亀田移転計画時に
「赤川の清流を引き入れ」と亀田川から取水することが決定された。
五稜郭の北側を流れる亀田川から箱樋を延長し、8か所の溜桝で中継する形で、
役宅、堀、郭内の役所に配水する上水道であって、請負工事は石工の備前の喜三郎が
担当した。
役宅および堀までの工事は、1860 (万延元)年中までに終了し、五稜郭内への工事は、
奉行所庁舎建築前の文久年間初め頃までに完了したようで、所要経費は6,000両余りであった。
導水した亀田川の水は、箱館奉行所、箱館裁判所(函館府)、函館戦争時の旧幕府脱走軍本営地に
とって、貴重な飲料・生活用水としての利用がなされていた。
1865(明治2)年5月に函館戦争が集結した後も、五稜郭は役所としての利用はなくなったが、
上水道の通水経路は継続され、水質は良好に保たれていた。各地で製水を試みていた
中川嘉兵衛が、この五稜郭の堀水に着目し、1871(明治4)年に結氷670トンの切り出しに
成功し、「函館氷」として商品化した。切り出された氷は、馬ソリで港の氷室に蓄えられた後、
外国商船により横浜方面に輸送され販売された。
「函館水」はアメリカからの輸人氷より品質が良く、函館の特産品として高く評価されていた。
その後も、五稜郭の製氷は大正期まで継続されたが、1953(昭和28)年の亀田川改修工事に
より取水路が断たれて製氷は姿を消すこととなった。」



「大日本物産圖會」



中川嘉兵衛
「函館水」の創始者
1817 (文化14 )年、三河国額田郡伊賀村(現・愛知県岡崎市)生まれ。
16歳で京都の厳垣松苗翁のもとで漢学を修めた後、江戸へ出て、英国公使の料理方となった。
牛乳店や衛生・食品などの新事業を手がける中、製氷事業にも着目した。
1861 (文久元)年に国内最初の採氷を富士山麓で試みたが失敗し、その後、信州諏訪湖、
日光山中、奥州釜石、青森県堤川と失敗続きとなった。1863 (文久3 )年函館に渡り、
上磯有川で採氷池を設けたが失敗となった。
ようやく、1868 (明治元)年、五稜郭の外濠で天然氷約500トンの採氷に成功した。
1871 (明治4 )年から、五稜郭で採氷され、函館港の氷室に蓄えられて、横浜に輸送し、
「函館氷」として函館名産品となった。その後は、亀田郡神山村に製氷池を新設し、事業を
拡張してい晩年まで採氷を継続した。1869(明治29)年、北原鉦太郎に事業を譲り東京に
移住した。1897(明治30 )年に80歳没した。」



五稜郭の製氷(明治~大正期) 」、
五稜郭の採氷の運搬(明治~大正期) 」、
1871 (明治4 )年頃設立の中川氷室


五稜郭の製氷(明治~大正期)



備前の喜三郎 
弁天橋台場および五稜郭の土塁、石垣工事は松川弁之助が請負い進められ、1857(安政4)年
には備前の喜三郎が加わった。喜三郎は、備前国(現・岡山県)の大工であったが、品川台場の
五番と六番の普請を下請けして築造に当たる他、江戸や遠国の石垣工事を講け負っていた。
弁天台場と五稜郭の工事が急がれたために、急遽、江戸から呼び寄せられたとされる。
喜三郎は、石垣工事に加えて亀田川から導入する上水道工事も請負い、短期間で完成させたと
伝えられる。生没年は不詳とされるが、一説には1881(文久元)年に死去してその後ニ代目
喜三郎が家督を相続したとされる。明治期に井上喜三郎を名乗ったのはニ代目喜三郎とされる。
なお、備前の喜三郎は、五稜郭と弁天岬台場の石垣工事・上水道工事の他に、神山東照宮の
鳥居、亀田八幅宮の狛犬など、多くの仕事をてがけた人物であった。」



箱館亀田一円切絵図(五稜郭部分)
五稜郭の北側を流れる亀田川から取水し、五稜郭の堀に至る上水道の経路図」



五稜郭内の上水道経路図
発握調査で確認された五稜郭内の上水道経路で、ほぼ計画段階の通り上水道木桶と水溜桝が
設置されたことか明らかとなった。」



五稜郭外に設置の上水道木樋(長さ約4m、幅45cm)
亀田川から五稜郭までの間(約1km)を導水する上水道木樋。継ぎ手を使わずに凸型と凹型を
繋ぐ。内面には銅板が葺かれていた。」


「函館奉行所」前から「五稜郭タワー」を紅葉越しに再び。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.12.15 01:50:14
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