JINさんの陽蜂農遠日記

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オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 予約時に保養所から確認の電話があるけど…
JINさん@ Re:再び大涌谷へ(05/16) Dさんが申し込んで下さいましたが、朝食を…
オジン0523 @ Re:再び大涌谷へ(05/16) 朝食の食べそこないとは? 深酒? であれ…

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2022.06.23
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カテゴリ: JINさんの農園
「本丸跡」碑。
城内で最大規模を誇る「本城曲輪(本丸)跡」が、政治と生活の中心施設が置かれた場所。
秀吉は、小田原攻めの間ここで生活をしていたことになる。



中央奥に見える小山が「天守台跡」。



天守台は、本城曲輪の南西隅から西曲輪へ張り出すように造られていた。
本城曲輪から約4m、西曲輪からは10mほど高くなっていた。天守台の石垣は、ほとんど
崩(くず)れ落ちていたが、東西に長い長方形をしていたと考えられていると。
崩れた石垣の間には、数えきれないほどの瓦(かわら)が見つかっており、天守が瓦で
葺(ふ)かれていたことが確実であると。この中に「天正十九年」と書かれた瓦が見つかていると。




天守台から本丸(本城曲輪)を見る。



前方に神社が。



石祠?



本丸の神社に参拝。



前方に案内板。



近づいて。



「小田原合戦と一夜城伝説
小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣秀吉は、天正18年(1590) 3月1日に京都を発し、
4月3・4日には小田原城の攻囲を開始しました。そして、4月6日には早雲寺(箱根町)を本陣とし、
その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。周囲9畑にわたり、壮大な堀と
土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えで
この場所に城を築城することを決めました。
普請は急ビッチで進み、秀吉は5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に
差し掛かる段階にあったことを、妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。6月9・1 0日には
奥州の雄、伊達政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候します。その時政宗は、前日には無かった
白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に称賛されています
(「木村宇右衛門覚書」)。
そして6月26日、秀吉は石垣山に本陣を移しました。これを期に、秀吉は小田原城へと一斉に
鉄砲を撃ちかけさせ、小田原北条氏方を脅かしました。このような秀吉の行動や政宗と白壁の
逸話が、「小田原城を遮る大樹を悉く斬る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に
成就せるに驚く」(「大三川志」)や「面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢肝をつぶし、
こはかの関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる館出来けるぞや」(「北条記」)との、
後の一夜城伝説を生んだのです。
一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員した築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原
北条氏が降伏する決定打となったのです。」



「豊臣方の布陣」
小田原城布陣 出陣した諸将
【豊臣秀吉軍】

 主力部隊

 「豊臣秀吉」「徳川家康」「織田信雄」「蒲生氏郷」「黒田孝高」「豊臣秀次」「宇喜多秀家」
 「細川忠興」「小早川隆景」「吉川広家」「石田三成」「宮部継潤」「堀秀政」「池田輝政」 「浅野長政」「長束正家」「立花宗茂」「大谷吉継」「石川数正」「増田長盛」「高山右近」
 「筒井定次」「蜂須賀家政」「大友義統」「加藤清正」「福島正則」約17万。

 水軍部隊

 「長宗我部元親」「加藤嘉明」「九鬼嘉隆」「脇坂安治」約1万。

 北方部隊

 「前田利家」「上杉景勝」「真田昌幸」約3万5千。

総計約21万。

【北条軍】

 小田原城部隊

 「北条氏直」「北条氏政」「北条氏照」「成田氏長」「垪和康忠」「松田憲秀」「笠原政晴」 「笠原政尭」

その他諸城部隊

 山中城「松田康長」

 忍城「成田泰季」

 韮山城「北条氏規」

 松井田城「大道寺政繁」

 鉢形城「北条氏邦」

総計約5.6万。

秀吉の出陣から概ね1か月後の4月3日。

秀吉は小田原に着陣し、豊臣軍による小田原包囲網が出来上がりました。

豊臣軍21万vs北条氏5万6000。」

その差は実に15万4000であったと。



「伊達政宗像」。
馬上少年過     
世平白髪多      世平らかにして白髪《はくはつ》多し
残躯天所赦      残躯《ざんく》天の赦《ゆる》す所
不楽是如何      楽しまずして是《これ》を如何《いか》にせん

『戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。
今や天下は泰平。俺の髪の毛はすっかり白くなった。生き残ったこの身の処し方くらい、どうしようと天は許してくれる。
楽しまないでどうするというのだ。』と。




城の東側には展望台が築かれていた。説明板などもここにある。
展望台横にあった「史跡 石垣山」石碑。







説明パネル。
注目すべきは下部「一夜城からプレート境界を見る」。
一夜城の目の前にはフィリピン海プレートと北米プレートのまさに境目がある。
これが数千年にも亘る大噴火によって富士山を形成し、箱根を作り出し、そして関東大震災を
引き起こしたのだ。



かなり横長なので左右を分けて掲載。まずは左半分。
「小田原城に立て籠もる小田原北条氏を攻めるため、箱根火山外周の尾根上に豊臣秀吉が、
築いた総石垣の城で、国の指定史跡となっています。石垣は小田原城とは異なり、自然石や
矢穴のない、荒割りした安山岩を用いた野面積みで造られており、井戸曲輪や南曲輪の石垣の
様子は見事です。また、ここからは、小田原の市街地が広がる足柄平野から大磯丘陵、そして
その境界に位置すると考えられている国府聿ー松田断層の地形を一望できます。」



パネルの右側には小田原合戦攻防図。
真ん中に色違いで書いてある「天下分け目(プレート境界)の戦い」という表現。



展望台ができる前から、ここは海が一望の絶好の眺望スポットだったのだろう。



ズームして。



標識柱の上には瓢箪(ひょうたん)が。
戦国武将の馬印と言うと、まず豊臣秀吉の「千成瓢箪」が思い出されます。
ここ石垣山一夜城にも「秀吉の出世」にあやかりたいという思いの「願掛けの出世ひょうたん」が。



「西曲輪跡」に向かって進む。



史跡石垣山実測図(『史跡石垣山(石垣山一夜城)早川石丁場群関白沢支群』
2012 小田原市教委)。
度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されているのであった。
この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されている。
近年、城跡の樹木が伐採され、城の様子が非常に見やすくなったのだと。


「西曲輪」の石垣跡。



この後に下った「東口城道」を左手に見ながら進んで行った。



ここにも標識柱があった。「左 西曲輪跡」に従い進む。



「西曲輪」の正面口であった「西曲輪東門」跡は、石垣がかなり崩落し、原型が失われていたが。



「西曲輪東門」跡には「門の基台跡」と。



そして前方に姿を現したのが「西曲輪跡」。



標高250m、敵地小田原城から隠れ本曲輪の西側にある曲輪。
かなり広い曲輪で、有浦図では「長四十九間横八間」約89x14.4mとあり、
実測では30~45x90m、1200㎡の面積を有していると。



「西曲輪跡」碑。



そして次に訪ねたのが「南曲輪跡」。
大手門の手前にあり、大手筋を防衛する重要な曲輪。
有浦図では「長二十間 横十三間」約36x23m、現況では25~47x30m、
面積は1200㎡と。
「東口城道」から侵入してくる敵を攻撃するための役割が考えられていると。
この曲輪の最大の見どころは、最初に見た南面と東面に残されている石垣であると。



「南曲輪跡」碑。



「東口城道」を下って行った。
元の通路を覆(おお)うように石材が散乱(さんらん)していた。
石垣に使われた石材がかなりの大きさだったことがよく解るのであった。



石材が散乱(さんらん)していた「東口城道」を下り終えて振り返る。



駐車場を縦断して奥にあった「石垣用石材」の展示場所に。



「移設された石垣用石材
国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面の一帯には、17世紀前半の江戸時代初期に江戸城修築
のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があり、早川石丁場群関白沢
支群の遺跡名が付されています。
平成17~18年(2005~06 )に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390 )建設に伴って
発掘調査が実施され、石を割って石垣用石材に加工する作業が行われていた跡が多数確認され
ました。ここに置かれている石垣用石材は、この時の発掘調査によって発見されたものです。
​これらの石垣用石材には、石を割るために彫られた「矢穴」が一列に並んでいます。また、
石材の面のひとつには、「◯に ​+​ 」の刻印が刻まれていますが、これは石を切り出した石工の​
集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられています。
これらの石垣用石材は、事業者である神奈川県及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力に
よって移設されたものです。」



石を割るために彫られた「矢穴」が一列に並んでいた。



「寄贈 あずまや建立」と。



「一夜城Yoroizuka Farm」。



約2,000坪のファームでは柑橘類やベリー類、野菜、花などを栽培していたのであった。
馬の親子の姿であろうか。



ファームの奥の海を見下ろす静かな場所にあったのが「川島なお美慰愛碑」。
2015年9月24日に胆管がんのため54歳の若さで亡くなられた女優の川島なおみさん。
生きていれば昨年で還暦を迎えました。彼女の生きていた証は今でもご主人の経営している
ヨロイズカファームに記念碑として残されていた。



川島なお美さんが最後に書いた直筆の遺言が慰愛碑に刻まれていました。
「私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い
毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らしたわわに実る果実となってあなたの作品として
美味しくお皿の上にのります
美しく生き生きしたファームガーデンは私の夢です
その夢をかなえて下さい
今までありがとう
なお美より」と。



在りし日の鎧塚俊彦ご夫妻の姿。



慰霊碑の傍らにはハグ蛙の像が。
良縁成就、夫婦円満の守り神だそうです。



畑にはブルーベリーの実がタワワに。



近づいて。



アジサイ「ブルースカイ」に似て。



「石垣山城ブルー」か?



そしてこの日の予定を全て完了し、帰路に。
途中、「茅ヶ崎西IC」出口の近くにあった「かつや茅ヶ崎今宿店」に立ち寄ったのであった。



                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・​ ​​





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Last updated  2022.06.24 11:29:52
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