JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.12.17
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は2025年11月29日(土)、
卒業した会社の元同僚との新宿駅南口での昼呑み会13:30~に参加した。
昼呑み会の前に、神宮外苑のいちょう並木、そして新宿御苑の黄葉散策を決断して、
9時過ぎに家を出発し、小田急線・地下鉄を利用して青山1丁目駅に向かう。
10:30前に青山1丁目駅から外苑東通りに出る。



この横断歩道を渡り、青山2丁目方向に向かう。



「外苑いちょう並木 240m」案内板。



地図に近づいて。



進んでいくと、左手前方の青山通りに面した「POLA青山ビルディング」 に設置された、

東京都港区南青山2丁目に建つ地上16階、地下2階、高さ86.50mの超高層ビル。
立地は、青山通りに面して建っていた地上14階、地下1階、高さ51.4m、1973年竣工の
「ポーラ青山ビル」跡地に位置。



ズームして。
建物のガラス面からニュッと “飛び出している” ように見える白い形状は、

足を止める名物にもなっているのだ。



「POLA青山ビルディング」は青山1丁目駅から徒歩2〜3分、青山通り沿いに立つ商業ビルで、
2010年に竣工。
この白い“曲がった形”のオブジェはアーティスト・建築家が手がけた立体アートで、
以下のような特徴を持つ と。
・建物のガラスカーテンウォールから突き出すように見える。見る角度によって形が変わる
・風になびく布や、未来的な翼のようにも見えるデザイン
・ビルの象徴的アイコンとして設計段階から組み込まれたもの

私には、昔の缶ジュースにあったプルタブに似ていると感じたが。



作品名:「 SHIMURAbros《Sigillaria/ シギラリア》 」 
作者:SHIMURAbros。
1976年生まれのユカさんと、1976年生まれのケンタロウさんの、実の姉弟からなるユニット。
当初は映画作家として活動をしていたが、のちに、アーティストへと転身。
第13回文化庁メディア芸術祭アート部門で優秀賞、TERRADA ART AWARD 2015で最優秀賞を
受賞するなど、国内外で高い評価を受けているアート界最強姉弟。
2014年からは、拠点をベルリンへと移し、現在は、あのオラファー・エリアソンのスタジオで
研究員を務めている。以前は映像インスタレーションを発表していたが、近年は、光学ガラスを
用いた作品を多く制作。
このPOLA青山ビルディングに設置された作品も、やはり一部に、強い色彩を帯びる光学ガラスが
使用されているとのこと。



振り返って。



ズームして。
時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品で、
青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置されているのであった。



そして「青山2丁目」交差点に到着すると、右手に「明治神宮外苑のいちょう並木」が
姿を現した。 



「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。
手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。
なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。
カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。
英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。
パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界に
よってさまざまな呼称があるのだ。
西側のいちょう並木は既に多くが葉を落としていたが。



横断歩道を渡りながら。
黄金色のいちょうが左右からそびえ立ち、まっすぐ伸びた道を優しく包み込んでいた。
光を透かした葉は、空の青と溶け合いながら、まるで季節がここに宿っているかのように
輝いていたのであった。



横断歩道を渡り終えて。
東京に秋が訪れたことを、誰よりも早く知らせてくれるのがこの外苑のいちょう並木。



大きな石碑には「 明治神宮外苑之記 」と。
昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。



明治神宮外苑之記
明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額
明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を
知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日
遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の
至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、
更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、
委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御
あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、
然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、
以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然
として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の
地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の
凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を
置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を
購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、
葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の
重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の
献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居
に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に
賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁
伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり
而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、
但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の
盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に
仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間
粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふもの
あらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、
玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾
  大正十五年十月
   明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 

現代文に直してみました。
【明治神宮外苑の記明治神宮奉賛会
総裁・元帥陸軍大将・大勲位功二級載仁(ことひと)親王が題字を書かれた
明治45年(1912年)7月、明治天皇が突然ご病気になられ、まもなく容体が悪化された。
国中の人々は深く心配し、二重橋前には昼夜を問わず多くの市民が集まり、ただひたすら
天皇のご回復を祈り続けた。しかし、7月30日、ついに明治天皇は崩御された。
国中の人々は深い悲しみに沈み、天地さえも暗く曇ったかのようであった。8月の初め、
東京市民は真心を込めて、天皇の御陵(お墓)をぜひ帝都(東京)に設けていただきたいと
願い出た。その結果、御陵は京都・桃山と決定されたが、市民はさらに「神宮を創建し、
その御神霊を東京にお祀りしたい」と強く望んだ。帝国議会もこれに賛成し、政府は
**神社奉祀調査会(じんじゃほうしちょうさかい)**を設け、神宮をどこに建てるべきかを
審議した。その結果、東京郊外の代々木が鎮座地として選ばれた。大正3年(1914年)4月には
昭憲皇太后も崩御され、両御祭神をともに祀ること(合祀)が決定された。政府は明治神宮
造営局を設置し、社殿の建設が始まった。しかし、国民の「明治天皇を慕う心」はそれだけでは
収まらなかった。そこで人々は**明治神宮奉賛会(ほうさんかい)**を作り、神宮の外側に、
永遠に記念の事業として残る「外苑」を造ろうとした。この願いは天皇陛下のお耳にも届き、
畏れ多くも内帑金(ないどきん)30万円の下賜を受けた。国民はこれに応えて競うように
寄付をし、海外在住の日本人からも多くの寄付が寄せられた。こうして、旧青山練兵場を
外苑の地として定めることが決まった。この場所は、明治天皇がしばしば観兵式を行われ、
憲法発布の式典、日露戦争の凱旋式など重要な儀式が行われた由緒ある地であり、
また御大葬の際には葬場殿が設けられた場所でもあった。奉賛会はまず政府からこの土地の提供を
受け、さらに周囲の土地を買い足して、全部で15万5千坪の広大な敷地を確保した。
工事は明治神宮造営局が担当し、地形を整え、庭園を築き、葬場殿跡地には記念の樹木を植えた。
敷地の中心部には聖徳記念絵画館を建設し、天皇・皇太后両陛下のご生涯の重要な出来事を
描いた80枚の絵画(多くはご縁ある人々や団体の献納)が展示された。これらは当代一流の
画家による作品である。外苑の東側には憲法記念館を置いた。これはかつて赤坂仮皇居に
あった建物で、明治天皇が伊藤博文らとともに、帝国憲法と皇室典範の制定について議論を
重ねられた歴史的な建物である。また西側には、競技場・野球場・相撲場などを造り、
国民が広く利用できる施設とした。工事着手から10年が経ち、その間に初代総裁・伏見宮
貞愛親王が薨去され、後を継いだ閑院宮載仁親王が事業を完成させた。この事業には、
「国民として恩に報いたい」という人々の真心があふれていた。労働奉仕に励む者、寄付を
する者など、誰もが遅れまいと協力し、まるで仁徳天皇の時代(民が豊かでかまどの煙が
絶えなかった)を思わせるほどであった。ああ、明治天皇の徳の深さ、業績の偉大さを、
慕わずにいられる者があろうか。昭憲皇太后の立派なお心を、仰ぎ敬わずにいられる者が
あろうか。この外苑の造営は、国民の「追慕のまごころ」を形にしたものである。これから
神宮を参拝する人々は、内苑の厳かさに触れれば自然と身が引き締まり、外苑の広々とした
景色の中にあっては、両陛下の恩徳を深く思うに違いない。>内苑と外苑がそろって初めて、
神域としての規模が完成し、神と人とが共に国の繁栄を願う場となるのである。ここに
外苑工事の成ったことを記念し、その経緯を後世に伝えるため、この碑文を記す。
大正15年(1926年)10月明治神宮奉賛会 会長
正二位・勲一等・公爵 徳川家達(とくがわ いえさと)】



繰り返しになりますが
明治神宮外苑の記
石碑の題字 「明治神宮外苑之記」
      明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ)
撰文    明治神宮奉賢会 会長 徳川家達
石材    東北仙台産の板岩
      高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル

碑文の大意
明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、
大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。
これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し
上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、
明治神宮の御創建となったのであります。
明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき
躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な
御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになり
ました。
これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、
又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく
全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六)
十月に、明治神宮外苑は完成しました。
苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が揚げられて
いる白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が
設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの
苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に
残されるものであります。
外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の
人々に伝えるものであります。
   大正十五年十月
      明治神宮奉質会 会長 徳川家達」



東側の外苑いちょう並木を聖徳記念絵画館方向に進みながら見上げて。



見上げれば、黄金の塔が空へ向かってまっすぐ伸び、青空を背景に光を受けて揺れていた。
その並びの奥には、絵画館へと続く道が伸び、歩を進めるたびに秋の色がさらに深く
染みこんでくるのであった。



銀杏並木
いちょう(銀杏・公孫樹)
銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、
巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その
化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、
多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を
続けて現在に至っております。
日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく
植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど
植えられておりません。
並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本)
四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の
絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年に
わたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年
(一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線
主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することに
なりました。
これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ち
つつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの
考えによるものです。
この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園
主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑
在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の
明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数
一六〇〇本にもなりました。
外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、
これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきた
ものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。
直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に
植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル
目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられて
おります。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。
この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように
雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、
その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。
樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、
よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられて
きた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら
兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、
我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。
   平成御大礼の日 之を建つ
        平成二年十一月十一日  明治神宮外苑」



明治神宮外苑案内図
案内図右中央付近に伸びる直線。
外苑の名物である 黄金のいちょう並木 がここに描かれています。
約300mの並木道。秋には黄金のトンネルに。
聖徳記念絵画館へまっすぐ続く美しい遠近法。
東京を代表する景観のひとつ。



・聖徳記念絵画館へと続く黄金の尖塔。
・見上げるほどに高く、風の音さえ染める外苑の秋。
・青空に突き刺さるような、いちょうのシルエット。



左側のいちょう並木は既にこの年の役目を終え、エピローグへと。



ゆっくり歩けば、落ち葉の絨毯が足音をやわらかく包み、振り返るたびに別の美しさが
現れるのであった。



見上げながら歩を進める。



秩父宮ラグビー場入口手前 を望む。



秩父宮ラグビー場への並木道。



ズームして。



一面に広がる黄金色の絨毯は、まるで 秋そのものが静かに舞い降りて地上に身を横たえた
かのよう。
いちょうの葉は一枚一枚が小さな光を宿し、落ち葉でありながらも、なおあたたかい生命の余韻を
放っていたのであった。
足もとに広がるこの風景は、木々が長い季節を終え、最後に贈ってくれた柔らかな金色の祝福。
踏みしめれば、かさりと音を立て、その音さえも秋の詩(うた)として耳に届くのであった。
淡い黄色から濃い琥珀色まで、色の重なりは自然が描いたグラデーション。
そして、ただ落ちているだけなのに、見る者の心をそっと包み込むような静けさと温もりを
持っているのであった。



秋と人の気配が溶け合う道。
まるで 人々の歩みと秋が寄り添っている かのように。
足もとに広がるいちょうの落ち葉は、黄金の薄絨毯となって道行く人をそっと迎え、
踏みしめるたびにやわらかい音を返す。
その上を大人も子どもも並んで歩く姿は、季節の移ろいの中にある日常の温かさを映して
いるのであった。
黄金色の落ち葉が、人の気配を優しく包み込み、静けさとにぎわいが同時に漂う不思議な空間
をつくり出していたのであった。



さらに見上げながら。



絵画館へ向かう道は、まるで秋が編んだ金色の回廊。



外苑の東側を絵画館へ向けて歩くと、頭上には、ほとんど天に触れてしまうのではないかと
思うほど、高く伸びたいちょうの木が並んでいるのであった。



多くの観光客が黄金の回廊の下を。



御観兵榎(ごかんぺいえのき)について
この外苑の数地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇の親臨のもとにしばしは観兵式が行われ、
なかでも明治ニ十三年(一ハ九〇)ニ月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年
(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の
壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。
明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎を
「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令
(樹令ニ百余年)の為台風十ニ号余波の強風により倒木しました。
遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、
「ニ代目御観兵榎」として植え継ぎました。
平成ハ年一月吉日 明治神宮外苑

右の榎の大木は、柵内五〇メートル先の中央地点に在ります。



「初代 御観兵榎」
榎   にれ科えのき属、樹齢ニ百余年と推定される。
        幹廻り、二・ニメートル 高さ、九メートル
        技張り、十六メートル
碑石  石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字  東郷平八郎書
        明治三十ハ年日本海海戦にあいてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、当時の連合艦隊
    司令長官 東郷神社の祭神



さらに北に向かって歩く。



黄金色の葉が空へ向かって弧を描くように伸び、両側からそっと包み込むように道を
覆っているのであった。



青空の澄んだ色が、いちょうの金色をいっそう際立たせ、まるで光のトンネルをくぐって
いるかのよう。
人々の頭上で、秋が静かに、しかし確かに満ちてゆくのであった。



落葉と紅葉が交錯する境界線のような並木道。
左側には葉を落とし始めた木々の渋い表情、右側にはまだ黄金をまとった豊かな姿。
二つの季節が並んで立ち、訪れた人を優しく迎えてくれていたのであった。


右側の黄金をまとった豊かな姿をズームして。








                  ・・・​ つづく ​・・・











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Last updated  2025.12.18 14:43:30
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