JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.04.02
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カテゴリ: 国内旅行
展示室をさらに進み​ 「江川家の至宝」 👈️リンクを鑑賞する​

江川邸(韮山役所跡)

宿場への助成 」。 



江川家関連の江戸町絵図。
に江川?の文字が。南側には「つがるゑっ中」の文字が 。
「つがるゑっ中」とは、「弘前藩主・津軽越中守の上屋敷」のことか?
詳細は不明。



近づいて。




江川太郎左衛門屋敷跡



ネットから。
江川太郎左衛門屋敷跡前
江川太郎左衛門は、伊豆韮山を木拠地とした幕府の世襲代官て、太郎左衛門とは
江川家の代々の当主の通称です。なかでも有名だったのが、三十六代の江川英龍
(一八〇一~五五)てす。
彼は洋学の中でも、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、日本に
西洋戦術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸内に数カ所あった
砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だともいわれてます。
この屋敷は、代官の役所も兼ねていて、土佐国中濱村の漁師で、嵐て遭難し、米国の捕鯨船に
救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱萬次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたと
いわれています。」 



江川家の東京の菩提寺「本法寺」
江川坦庵(太郎左衛門)は幕末に海防の先駆者として、韮山に反射炉を設置し、
大砲を鋳造した砲術家として、在世の時代から日本全国に名を轟かせた人物として
よく知られています。
江川太郎左衛門は、韮山代官として駿河、伊豆、甲州、武州、相模にわたる天領を支配した
豪族でしたが、江戸に出府の機会が多く、本所南割下水、津軽藩公の屋敷の前に役宅と屋敷が
ありました。
江川太郎左衛門の菩提所は、韮山の本立寺ですが、小西法縁の縁(ゆかり)もあって
江戸出府のさいに生じた法要その他の儀式、江戸詰めの臣下の葬儀は、浅草本法寺がすべてを
執り仕切っていました。
そのようなことから、江川家の墓所が本法寺にあることは当然であり、五塔の下には、江川家の
親族や臣下の霊が納められています。代官として有能な江川太郎左衛門は、また蘭学者、
軍学者、外交官、教育者、芸術家でもあり、剣客としても神道無念流の免許皆伝の腕前を
もった一流の人でした。
このように多芸、多能な先覚者でもあることもあってその交際も広く、ちょっと数えても
渡選華山、高島秋帆、谷文晃、土田士豊、桂小五郎、高野長英、佐久間象山、間宮林蔵、
ジョン満次郎その他多くの優れた人々の名をあげることができます。



江川太郎左衛門 終焉の地 」。



ネットから。
幕末の韮山代官・江川太郎左衛門(坦庵)は、静岡県伊豆の国市の江川邸(重要文化財)を
本拠としながら、江戸の両国(現在の墨田区緑町公園周辺)に屋敷を構えていました。
36代英龍は、この地で安政2年(1855年)に55歳で没したとされ、周囲は海防技術の


ゆかり 英龍

火伏せの曼荼羅
弘長二年(一二六二)、江川家を訪れた日蓮上人が火防のため棟札にしたためたものです。
そのご利益二より火災に遭わず現在に至っています。棟札を木版で摺ったもののコピーです。」 



大和源氏宇野氏略系図
大和源氏(宇野氏)の血を引く江川家は、清和源氏の流れを汲み、大和国(奈良県五條市)
宇野庄を拠点としていた。約850年前の保元の乱(1156年)以降、伊豆国田方郡韮山
(静岡県伊豆の国市)へ定着し、江戸時代には世襲代官として名を馳せた家系。
特に幕末の江川英龍(坦庵)は韮山反射炉建設や海防で知られる

大和源氏宇野氏~伊豆江川家 略系譜(主要人物)
・源頼親(大和源氏の祖、源満仲の次男)
・…(宇野氏)
・宇野親弘(保元の乱で敗れ、伊豆へ下向、江川氏の祖となる)
・…
・江川英長(江戸幕府の代官として活躍)
・…
・江川英毅(文人・風流人、江川英龍の父)
・江川英龍(坦庵、幕末の代官、反射炉建設) 
・江川家は「江川氏秘記」という家伝系図を伝えており、宇野氏から韮山の地で代官を
 世襲するまでの流れが系譜化されている と。



江川家系図



江川氏略系図 」 



江川家略史
江川家の祖先は源満仲の次男宇野頼親といわれる。  
■平安時代
 6代 宇野七郎親治 保元の乱(一一五六)にて崇徳上皇のもと参戦、敗れる
 9代 宇野太郎親信 従者13人と伊豆国八牧郷に。源頼朝に従い戦功あり。
 10代   宇野太郎治信 9代同様頼朝に仕え選考あり、よって江川荘を賜る。
■鎌倉時代
 15代   宇野右衛門英治 北条時頼に造酒を献上、時頼大いにその美味を賞す。
 16代   英親(英久と改める)弘長元年(一二六一)日蓮聖人伊東に流罪のとき、深くその教養を
     信じ帰依する。弘長2年聖人、江川家に遊び、たまたま家屋修復の英親に自筆の
     防火妙符となる棟札を贈る。法名を日久と言う。
■室町時代
 21代   英信  姓を江川に改める。
 23代   英住  北条早雲伊豆進出に際し、早雲の配下となる。
■戦国時代
 26代 英元 北条早雲に造酒を進献する。早雲これを江川酒と名付ける。
 27代 英吉 豊臣秀吉の小田原攻めに対し、韮山城を守る。
■江戸時代
 28代   英長 徳川家康の配下となり、韮山城の開城に尽力。慶長元年、代官になる。
 30代   英利 明暦の大火(一六五七)で江戸城焼失のおり、江川家の棟木を献上。
 35代   英毅 支配治内の殖産に功績。布衣を申しつけられる。
        歴史、法華経に精通し、多くの文化人と交流、測量、天文学に長け、坦庵の
        名声は英毅の遺伝という。
 36代   英龍(坦庵)  業績は別置
 37代   英敏  英龍の残した反射炉を完成。若くして亡くなる。
■明治時代
 38代   英武  最後の代官。韮山県知事を勧め、その後岩倉使節団で渡米。
       土木工学を修めて帰国後、丹那トンネルの献策などを行う。
       県立韮山高校の前身である私立伊豆学校初代校長として
       地方文化の育成に尽くす。
■昭和時代
 39代    英文 東京大学法学部教授を務め、国際私法学体系の確立に貢献した。
 40代    英晴 株式会社東芝代表取締役副社長を務め、半導体技術開発に貢献した。
■平成時代
 41代    滉二 東京大学医科学研究所教授を務めた。がん免疫学の基礎研究と臨床応用を行う。
 42代  洋      一級建築士。東京都内に建築事務所。



壁に「 坦庵公書「忍」 」 
手前右に「 「井桁菊」の家紋 」 



坦庵公書「忍」
江川坦庵(えがわ たんなん)公が座右の銘とした「忍」の一字。
この「忍」はただ耐え忍んで我慢することではなく、大きな志をなすために物事に動じない
精神の涵養であり、チャンスを逃さず大きく飛躍するための準備とエネルギーを蓄えることで
ある と。



「井桁菊」の家紋 」に近づいて。



馬印
馬印は江戸時代の軍隊の標識として使われました。展示しているものは慶応元年(1865)の
進発(長州征伐、のときに使われたものです。つけられた「井桁菊」の家紋は徳川家康に
賜ったものです。家康が北条(江川邸から西の場所)で鷹狩りに来たとき、江川酒を献上
しました。その時、咲いていた野菊を摘んで、「これを家紋にせよ」と言われました。
この時から江川家の家紋となりました。」 



奥儀誓詞
佐久間象山(吉田松陰の先生)が書いた奥儀誓詞(ちゃんと学ぶことを誓いますという誓約書)。
英龍は佐久間象山の先生でもあるのだ」と。



さらに進む。



韮山反射炉 ​👈️リンク の写真。
■ 基本情報
 静岡県伊豆の国市にある西洋式製鉄炉
 幕末に建設された日本唯一現存の反射炉
 2015年、世界遺産
  👉 明治日本の産業革命遺産 に登録
■ 建設の背景
 主導者:江川英龍
 ペリー来航(1853年)による危機感から
 海防強化(大砲製造)が目的
■ 反射炉とは
 炉の天井で炎を反射させて鉄を溶かす仕組み
 鉄に直接火を当てないため不純物が少ない
 高品質の鋳鉄(大砲)を製造可能
構造の特徴
 写真のように4本の煙突(双炉式)
 炉体は石と耐火レンガで構築
 内部に溶解炉+鋳型設置空間
 外側は鉄骨で補強(後世の補修も含む)
■ 技術的な意義
 日本初の本格的西洋製鉄技術の導入
 佐賀藩の反射炉技術を参考に改良
 幕府直轄事業として建設
■ 製造されたもの
 主に青銅・鉄製の大砲
 江戸湾防備(品川台場など)に使用
■ 歴史的役割
 幕末の「開国と防衛」の象徴
 日本の近代工業化の出発点の一つ
 武士の時代から技術国家への転換点



江戸時代末期(1853年以降)に
江川英龍(韮山代官)が 建設した
品川台場・第三台場 ​👈️リンク
幕末の1853(嘉永6)年、アメリカのペリー提督が率いる4隻の軍艦が浦賀沖に
突然姿をあらわした。日本の歴史の大転換点となった「黒船来航」。
ペリーは、鎖国を長く続けていた日本に開国を強く迫った。
あわてた江戸幕府は江戸湾の防備強化のため、大砲をそなえた砲台場を海上に築くことを決断。
砲台場は「御台場」と呼ばれ、その1つが現在のこの台場公園。
・海に突き出した五角形に近い台形状
・石垣で囲まれている
・中が公園(樹木がある)
・奥に見える建物
 ・👉 フジテレビ本社ビル
・韮山反射炉 → 大砲を作る場所
・お台場 → その大砲を置く場所



品川第三台場の北西側にある「 レインボーブリッジ 」。



●上中央の肖像画
 ・江川英龍の肖像
 ・烏帽子姿 → 武士・官人としての正装
 ・公的立場を示す公式的な肖像 
●右の掛け軸
 ・「韮山代官 江川太郎左衛門」の書
● 左の木札(高札)
 ・江戸時代の法令掲示板
 ・村民・領民への通達
●中央の衣装
 ・陣羽織(じんばおり)
 ・武士が戦陣で着る上着
 ・指揮官クラスの装備
●下部
 ・武具・道具
 ・鉄砲・槍・箱類



上:「江川太郎左衛門源英龍先生像」 
下:江川英龍が残した自画像の1枚
  英龍自身をデフォルメして、大きな目と鼻の特徴をそのまま描いた自画像である 。
  どの絵もこの特徴が表現されている。英龍は1855(安政2) 年1月16日に没する 。
      57(同4)年1月16日 、英龍の3回忌に合わせ 、外国掛・ 岩瀬忠震
  (1817〜61年)が江戸の画家松本亀岳に描かせ 、自身で賛を入れたものがある 。
  やはり 、同じ志を持って外国に対峙しようと 頑張った姿を描き、残したかった
  のではないか。



振り返って。

2026年 江川邸 - 出発前に知っておくべきことすべて

正面から。



マリナー号退帆のときに英龍が着用した蜀江錦
(中国の蜀で生産された錦織物)の野袴.

マリナー号事件って何? - まゆと伊豆

2種類の銃
が並ぶ



左:ゲベール銃
 👉 フランス系の前装式銃
 有効射程:約300m
 口径:約18mm
 火縄銃より大幅に性能向上
 幕末の西洋式歩兵装備の基礎
 👉 近代軍事の入口

右: シャープス銃
 👉 アメリカ製の後装式銃
 全長:約120cm
 口径:約14mm
 弾を後ろから装填できる
 連射性・命中精度が高い
 👉 当時としては最先端兵器



雷管式・ゲベール銃(後方に展示)
                 全長139crn・口径18mm
                 江川家 蔵
ゲべール銃は、1777年にオランダが軍用式銃いとして採用した先込式の銃で、幕末日本に
数多く輸入された。また、国内でも輸入品をコピーした倣製ゲべール銃が大量に生産
されている。発火方式は本来燧石式だが、安政年間(1854 ~ 1859)以降は、ほとんどが
雷管式に改造されている。
ゲべール銃は銃身内部に溝(ライフル)がなく、丸形弾薬を使用しているため、命中率は
あまり高くない。こうした銃で角打ちの小さな的を射抜くには、かなりの腕前を要したと
考えられる。」

以下ネットから
燧石式(フリントロック) ​👈️リンク は17世紀に火縄式から進化した摩擦点火方式、
雷管式(パーカッション) ​👈️リンク は19世紀に発明された衝撃点火方式です。
燧石式は火石で火花を散らし火薬に着火しますが、雷管式は雷汞(らいこう)の
衝撃発火を利用するため、雨風に強く確実に点火できるのが最大の特徴

シャープス銃(前方に展示) 
            全長120crn・口径14mm
                 江川家 蔵
江川家に伝来した元込式銃。
この小銃の銃床には「壬申百七十六番」という刻印がなされているが、これは明治5年(壬申年)
に取り調べを受けたことを示すものである。また、銃身の刻印によって、1859年以降に
製造・輸入されたものであることがわかる。」



奉納 八幡大神御寶前 」 
角打扁額
小銃の訓練標的には丸と角があった。これは江川家家臣の奉納角打の結果を扁額にして
奉納したもの。

韮山反射炉建造に尽力した韮山代官、江川英龍の「江川邸」 - ふじ・ふじブログ

こちらも同じ。

江川家住宅

江川家の帝王学
江川家36代当主で9代目山代官でもあった江川英龍は、絵を谷文晁、詩を大窪詩仏、
書を市河米庵に学びました。英龍の家族についての芸術記録は祖父・英征公が竹花
入れの制作、雅号を寿梁と言い、「蛭島連」の俳諧組織を作りました。英征公の妻も
花盟の俳号で多くの投句をしております。英龍公が水戸斉昭に琴の演奏を命ぜられたとき、
祖母の琴を思い出して演奏したという逸話が残っています。子息・英毅公はたくさんの
雅号を持ちましたが、俳号はなく、金次郎の名で投句をしております。英毅公は書を
残し、天文学に長けていました。英龍公と早世した兄・英虎公合作で数学の問題集を
作りました。
英龍公の妻・北条越は翠雲の雅号を持ち、書、画を残しました。子どもたちも父から書画の
手ほどきを受け、作品を残しています。
江川家の子女は藩校や寺子屋では学ばなかったので、家庭教育において読み書きなどを
行っていましたが、代官という身分で行き届いた教育がどれだけできたかということに
なります。
英武公が岩倉使節団に加わってアメリカ留学を果たします。そのとき、同行したのが
森田留蔵です。森田家は代々江川家に仕えた手代ですが、江川家の執事のような役割も
担っていたようです。江川家の当主が江戸参府するとき残した記録はすべて代々の森田家が
記録しています。身の回りの世話、幼児教育を森田家が行っていたことがうかがい知れます。
             展示期間:令和7年12月18日~令和8年3月17日」 



松鷹図 江川英龍(坦庵)
妻の越(翠雲)の鷹はやさしい鷹。英龍の鷹は雄々しく描かれています。
英龍公はサクラを良く描きました。サクラは雛屏風でご確認ください。



翠雲(北条越)画「桜に鷹」
英龍公は妻である北条越に書画の手ほどきをしました。
越は雅号を「翠雲」と名乗り、書画ともに作品が残っています。」 



江川睦 画「波上双鶴図」
荒波の上を舞う二羽の鶴を描いた掛幅。
本作は完成品で、制作の過程をうかがわせる習画も伝わっています。
仕上げにあたっては、父・英龍公の添削を受けて完成したとされています。
波の白さと鶴の気配が静かに迫る一幅です。」 と。



榊原三幾書  



榊原三幾書
英瀧公の長女・はのち三幾を名東り榊原鏡次郎の許に嫁ぎました。鏡次郎は韮山塾の
門人となり、江川家に親しく出人りしていた関係で、榊原に嫁いだ後にも書を残しました。」 



各種のテレビ放送ドラマの撮影の場となった「江川邸」
「江川邸」は、江戸時代の代官屋敷として知られ、NHK大河ドラマ『篤姫』『西郷どん』の
ロケ地として有名。約400年以上前の建物が残る貴重な屋敷で、荘厳な主屋や土間が
歴史ドラマの撮影に頻繁に利用されて来た と。



一番奥の部屋・​ 韮山塾の座敷 ​👈️リンク。

江川邸|築400年!土間から見上げる天井架構がすげ~のよ | 伊豆ログ

様々な展示品が所狭しと並ぶ。



上:
大砲製造の様子
重要文化財江川家住宅(江川宅)には、英龍が反射炉について研究を重ねた文献や図面、
建造経過を記した日記 、写真などの多数の史料が残されおり、それらは国の重要文化財に
指定されています。」 
下:「世界遺産 韮山反射炉 幕末の万能人! 江川英龍 」 



同時代人の坦庵評
福沢諭吉は「福翁自伝」に「江川太郎左衞門と云ふ人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ている」
という話を兄から聞いて「私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着て敷蒲団も敷かず畳の上に
寝ることを始めた。」「一冬通したことがあるが、是れも十五六歳の頃、唯人に負けぬ
気で遣ったので、身体も丈夫であったと思われる」と書いています。勝海舟は『氷川清話』の
なかで「嘉永・安政の頃に、海防の為に尽力したことは、誰でも知っているだろう」と書いて
います。」 



右: 江川太郎左衛門英龍の業績 👈️リンク
中央: 江川英龍をめぐる人脈やエピソード
   江川文庫所蔵の資料からは、江戸幕府の旗本で、世襲代官を勤めていた江川家の日常が
   読み取れます。
   中でも、第三十六代当主・江川英龍は、黒船来航、欧米による開国要求に直面した
   時代にあり、探究心や、改革心をもって、積極的に幕政に関わり、近代日本の礎となる
   様々な功績を残していることがわかるのであった。
   江川英龍を中心にした江川家を巡る人脈の一部をあげるだけでも、その多彩さに
   驚かされます。
左 : 韮山塾
   坦庵は代官としての職務を全うする傍ら、藺書を読み解き、海防政策の研究にも力を
   注いでいました。
   アヘン戦争で大国「清」がイギリスに敗れるなど対外危機が高まる中、幾度となく
   海防の重要性や西洋式砲術の導入を幕府に進言しています。また、自ら西洋式砲術を
   学ぶため、先駆者であった高島秋帆に師事し、免許皆伝を受けるまでに至ります。
   さらに、その知識や技術を広く普及するために坦庵は江川邸内に「韮山塾」を開講。
   全国から集まった入門者の中には、佐久問象山のような幕末を代表する知識人も
   いました。また、坦庵の死後は、江戸の芝新銀座大小砲習練場に「縄武館」と
   呼ばれる塾が設けられ、韮山塾出身の坦庵の高弟が、維新から明治時代にかけて
   活躍した黒田清、大山巌らに教授しています
   坦庵の知識・技術はこうして受け継がれ、韮山塾の門をくぐった多くの門人たちが、
   明治日本の近代化に寄与しました。動乱の幕末期、日本の未来を見つめ、本気で
   日本の未来を考えた場所「韮山塾」が、ここ江川邸にあります と。



一方長城 」。
「水府烈公所贈 坦庵江川君之語録為令嗣春緑君雅属 古梅巌谷修」と。
水戸藩主・徳川斉昭が江川英龍を『一方を守る長城のような人物』と称えた言葉を、
後に書として残したもの」と。
「一方長城」は実は
👉江川英龍が担った「関東・江戸湾防衛」そのものを指している
とも読めます。
つまり
・品川台場
・韮山反射炉
・海防政策
👉 これら全部を含めて
「江戸を守る長城」=江川英龍 という評価。



江川邸の 主屋内部(上段・座敷)から表門を見る



ディアナ号とへダ号
安政元年(一八五四)十一月、マグニチュード8クラスの巨大地震が日本をを襲いました。
「安政の大地震」です。
折しも下田では、ロシア使節プチャーチンと日本側との間で、日露和親条約締結のための
交渉が行われていました。地震に伴う津波によって、下田の町と湊は壊滅し、プチャーチンの
乗艦ディアナ号も船底を損傷。修理のために曳航する途中で沈没してしまいます。
プチャーチン以下乗組員数百名は助かりましたが、ロシアに帰るための代船が必要と
なりました。幕府の命を受け、この代船建造の指揮を執ったのが、韮山代官江川英龍でした。
船の建造は、戸田村(現沼津市戸田)で行われました。
ロシア人の設計に基づき、日本の船大工たちが協力して造り上げたのが、ニ本マストの
スクーナーでした。この、日本初の本格的洋式帆船は、建造地の名を取って
「へダ号」と名付けられました。
※写真はディアナ号の模型。※べイステージ下田所蔵。」 



上:入門起證文
  幕末の伊豆韮山代官・江川英龍(担庵)が、兵学者・高嶋秋帆から砲術を学ぶ際に
  提出した起請文。
  弟子入りするにあたり、教えを守ること、秘密を漏らさないことなどを神仏に誓う書面。
下:奥義誓詞
  江川邸(静岡県伊豆の国市)は、幕末の韮山代官・江川英龍(太郎左衛門)が砲術や
  軍学の教えを広めた拠点であり、高嶋流砲術に関連する「奥義誓詞(門弟が誓いを
  立てる文書)」などの資料が伝えられています。江川英龍は幕府の海防強化のため、
  芝新銭座調練場などで高嶋流をはじめとする西洋砲術を指導しました。
  韮山代官・江川英龍は、高嶋秋帆から西洋砲術を学び、その普及に努めた と。



再び
棟札箱と日蓮の曼荼羅
楝札箱と日蓮の曼陀
屋根裏の一番高い所に取り付けられている木箱は「棟札箱」と呼ばれています。
その中には、弘長ニ年(一ニ六ニ)に江川邸を訪れた日蓮上人直筆の曼荼羅(南妙法蓮華経の
題目の周囲に神仏の名前を配したもの)が棟札として納められています。
この棟札の霊験によって、江川邸はこれまでに一度も火災にあったことがない、と
伝えられています。」   

江川邸と火伏のお札
江川邸は、母屋・書院・仏間・門・蔵など多くの建物が、国の重要文化財に指定されて
います。また、江川邸の敷地一帯は韮山役所跡として史跡に指定されています。
江川家は、9代親信の時、大和国から伊豆国八牧郷(現在の場所)に移り住みました。
16代英親(日久)の時、伊東に配流された日蓮の信徒となり、真言宗から日蓮宗に転じました。
この時、母屋改築のため日蓮より自筆の曼陀羅が火伏のお礼として贈られました。
そのおかげで、江川邸は火事にあわず現在に至っています。この火伏のお札の震験は、
江戸時代に広く知られており、明暦年間い(1655 ~ 1657)、火災にあった江戸城の
修復の際には、棟木1本を献上しました。また、このお札の版木が作られ、無料で
頒布されました。」


再び土間に降り、 竃(かまど)、大砲 を見る。



「森林(もり)づくり伊豆の會」の作品・竹灯籠。
「里はまだ 夜深し 富士の あさひ影」



再び 「パン祖の碑」



パン祖の碑
江川英龍は、天保十三(一八四ニ)年、この韮山屋敷において、兵が携行する兵粮として
乾パンを製造しました。このことは、パン食の普及していなかった当時の日本においては、
画期的なことでした。
昭和二十七年(一九五ニ)、「全国パン協議会」および「静岡県パン協同組合」は、英龍に
「パン祖」の称号を贈るとともに、この「パン祖の碑」を建立して功績をたたえました。

パン祖江川坦庵先生邸  蘇峰正敬書
江川坦庵先生ハ、維新期ノ先覚者ナリ。
材ハ文武を兼ネ、識ハ東西ニ通ジ、百藝皆該ヌ。
乃チ製麺麭ノ術モ亦、本邦ノ開祖ナリ。
      昭和後学 蘇峰正敬識 」 



役所跡
役人が執務した建物のあった場所。



役所跡
韮山代官所の役人が執務した建物の跡地。
江川邸の周辺には、役人たちの住む長屋や番人小屋、厠、牢屋など様々な建物があり、
代官役所として一体的に機能していました。
維新後の明治時代の中頃まで、
韮山県庁→足柄県韮山支庁→静岡県韮山出張所として地方行政を担っいました。」


そして「裏門」。



「博打の木」の横にある門は「 裏門 」。
代官屋敷「江川邸」⑨―裏門の傷跡 l 自然と歴史の中を歩く!

裏門
裏門は、文政六年(一八ニ三) も建築です。ただし門扉はずっと古く、豊臣秀吉の軍勢が
韮山城を包囲した天正十八年(一五九〇)当時のものだといわれています。門扉に残る多数の
穴は、激しい戦闘の様子を物語る、鉄砲玉や矢じりの痕だとされています。
また、寛政四年(一七九ニ)に当地を訪れた老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに
見た富士山の美しさに感嘆し、御用絵師として谷文晁に命じて、それを絵に描かせたと
いう逸話も伝えられてます。」 



老中松平定信(白河楽翁)が、この裏門越しに見た富士山。




                               ・・・​ もどる ​・・・



                 ・・・​ つづく ​・・・



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