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「 E8 江戸の美
」。
「 名所江戸百景
」は、歌川広重の代表作として位置づけられる名所絵のシリーズです。
1856年(安政3)から広重が亡くなった翌年の1859年(安政6)まで、刊行が続けられました。
拡大した近景から遠景を描く革新的な手法や、極端に遠近を強調するなどの斬新な構図を
特徴とし、彫り・摺りの点でも優れた、完成度の高い作品です。江戸名所を100枚シリーズで
出版する企画は本邦初で、これまで名所として取り上げられていない場所を多数描く点を
みても、意欲のほどがうかがえます。
江戸の多彩な都市景観と風俗を描いたこの作品は、後期印象派の画家ゴッホに影響を与えた
ことでも知られ、国内外で最も有名な浮世絵の一つです。
このたび、常設展示室のリニューアルを記念し、
「名所江戸百景」全120枚(2代広重作画、目録を含む)を前期と後期に分けて展示いたします。
全点公開は貴重な機会となります。幕末期江戸の名所周遊を存分にお楽しみください と。
『名所江戸百景』は、広重最大の名所揃物。
広重の晩年安政3年(1856)に制作がはじまり、没後に追加された二代広重の作品を含めて
119枚の揃いとして完結。
名所江戸百景 の展示リスト(作品一覧)
。
●
春の部:42作品
●
夏の部:31作品
●
秋の部:26作品
●
冬の部:20作品
合計 :119作品
名所江戸百景 の「作品位置マップ」
。
●
春の部
●
夏の部
●
秋の部
●
冬の部
「 はるの部 春
」。
「 日本橋雪晴(にほんばし ゆきばれ)
Clear Morning After Snow at Nihonbashi Bridge
作者:歌川広重
制作:安政3年(1856)5月
五街道の起点である日本橋の晴れた雪の朝の情景を描く。空には深い藍色が夜の名残を
とどめつつも、赤く染まりはじめた空からは、間もなく日が昇り、積もった雪を輝かせる
であろう気配が感じられる。早朝のひんやりとした空気までも伝わってくるようだ。
手前には活気ある魚河岸が広がり、川面には押送舟(おしおくりぶね)の往来盛んな様子が
描かれる。舟がくぐろうとすのは日本橋。すやり霞の奥には静かにに佇む江戸城。
そして遠くの後景には富士山が描かれる。江戸を象徴する三景物が収められた一図である。
現在の所在地:中央区日本橋室町」
以下に続く浮世絵の説明【】内のキャプションは、
浮世写真家 喜千也氏の「名所江戸百景」
👈️リンク
についての詳細な説明文の一部を
私の学習用に転記させていただきました。
【この絵は『名所江戸百景』目録の第1景である。江戸時代の初めに幕府は、幹線道として
東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の「五街道」を整備した。
その全ての起点を日本橋と定めたので、まさに最初の1枚に相応しい場所だ。
広重が自身の人気を不動のものとした『東海道五十三次(保永堂版)』(1833-34年)、
渓斎英泉との合作シリーズ『木曽街道六十九次』(35-42年)もこの地からスタートする。
旧暦の正月、雪がやんだ後の晴天の朝に、日本橋北詰東寄りの河岸から西の方を、お得意の
鳥の視線「鳥瞰(ちょうかん)」で望んでいる。天下を治める将軍が暮らす江戸城、
日本一の山・富士を画内に収めることで、正月らしい縁起の良さを演出しつつ、日本橋が
全国の中心地であることを見事に表現した。
橋の上や道に人が多いのは今の日本橋と同様だが、川面にたくさんの船が浮かんでいるのが
江戸時代ならではだ。橋の奥、南詰の西側には商家の蔵が密集し、水路においても要所だった
ことが分かる。
絵の下側、沢山の舟が接岸し、雪化粧した店の屋根が並ぶのは「日本橋魚河岸」だ。店の前を
棒手振(ぼてふり)と呼ばれる魚や青物の行商人たちが行き交う。名所江戸百景では夏の景の
1枚目「日本橋江戸ばし」でも、棒手振の桶に乗った初鰹を描いている。当時の日本橋は
「朝千両」とも言われ、朝だけ開く魚河岸なのに1000両もの売り上げがあったという。
現在の豊洲市場が「日本の台所」ならば、当時の日本橋は「江戸っ子の台所」で、
「魚=日本橋」だったのだ。】
写真はネットから、以下同様。
「 霞かせき
Kasumigaseki
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)1月
霞が関の正月の風景を描く。この辺には見附番屋通の門があり、周囲を霞む景趣からその名が
名付けられた。古くから親しまれる名所(などころ)であった。江戸時代には大名屋敷が、
現在は官公庁が立ち並ぶ。道の右側には福澤諭吉や陸奥宗光らが通った旧開成学校
(現在の東京大学)や旧文部省があり、門前に門松が見える。
江戸庶民にとっては、三万石級の一行や青海波(せいがいは)を望む人々など、正月の
足音が描かれる。
現在の所在地:千代田区霞が関」 
【第2景となる『霞かせき(かすみがせき)』。
現在は官庁街の霞が関だが、江戸時代には海が望める大名屋敷街であった。
霞が関の地名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、蝦夷(えぞ)の襲撃に
備えて、湾からの雲霧が漂うこの地に関を築いたのが由来だという。徳川家康が江戸に
入府した時(1590年)には、日比谷まで江戸湾が広がっていたそうなので、それ以前は
霞が関の下が海辺だったことは間違いなさそうだ。
広重の時代には、右側にある福岡藩黒田家の上屋敷(現・外務省)と左側の広島藩浅野家の
上屋敷(現・中央合同庁舎2号館、3号館)の間を通る坂を霞が関と呼んでいたことが古地図
などからうかがえる。元絵では、黒田家の門前に大きな門松が飾られ、中央の空には
名所江戸百景の版元・魚屋栄吉の「魚」の文字が書かれた凧(たこ)が揚がる。
通りの真ん中を歩くのは太神楽(だいかぐら)の集団、左にはそれを眺める三河万歳
(まんざい)も登場し、なんとも正月らしい光景だ。】
「 山下町日比谷外さくら田
Yamashitachō, Hibiya, Soto Sakurada
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)12月
山下町から外桜田を望んだ正月の風景。手前には芝生地の汐溜が見え、左右には羽子板を
あげる凧が見えることから、「凧のよし原」とも呼ばれていたようだ。正面の毛槍を
従える行列は備前岡山藩池田家の行列で、左手前には大きな門松と注連縄(しめなわ)が
飾られる。新年を祝う正月の趣が描かれた一図である。凧中で凧が上げられ、糸が絡んだ
凧などなんとも芸が細かい。
現在の所在地:千代田区内幸町」 
【第3景となる『山下町日比谷外さくら田』。今はなき江戸城の堀端から、正月を感じさせる
縁起物を印象的に描いた一枚である。
正月にふさわしい一枚は、題箋(だいせん)を読むと「山下町から眺めた日比谷と外桜田」と
いうことになる。今では聞き慣れない山下町とは、現在の銀座・数寄屋橋近くにある中央区立
泰明小学校(銀座5丁目)の付近にあった町で、江戸城の外堀に面していた。
その堀端から、西方向の日比谷、外桜田を望んだ絵だ。
広重は門松の葉、2つの羽子板と羽根、奴凧(やっこだこ)を手前に配し、江戸城の堀、
大きな門松を立てた赤門の大名屋敷、そして富士山を描いている。同じ正月の風景を
題材にした『霞かせき』では、めでたい雰囲気を演出するために、三河万歳(まんざい)や
太神楽(だいかぐら)の集団など、多くの人物を登場させた。しかし、この絵は正月の
アイテムを強く印象付けるために、羽子板で遊ぶ2人組や凧を揚げる子どもらを枠から
わざと外している。
堀の向こうの大名屋敷は、現在の日比谷公園敷地内にあった肥前佐賀藩(松平肥前守)の
上屋敷だ。赤い門は将軍家から姫君を迎えた証しで、当時の藩主・鍋島直正(当時・斉正)は
11代将軍・徳川家斉(いえなり)の第十八女・盛姫を正室に迎えている。】
「 永代橋佃しま
Tsukudajima Island from Eitaibashi Bridge
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)2月
永代橋の下から、深夜の下弦の月を眺める景。
橋脚と船留杭がそびえ、沖に見える佃島の灯りには闇夜に浮かぶ。橋のたもとには釣り人
らしき姿も見えている。空に浮かぶ細かな星空が美しく描かれている。
現在では、早朝に船上するために船宿が並ぶ風景が再現されていた。
現在の所在地:中央区日本橋箱崎」
【第4景となる『永代橋佃しま』。江戸の春の風物詩だった隅田川の篝火(かがりび)と、
不思議な形に描かれた月が印象的な一枚である。
隅田川(大川)に架かる4番目の橋として、1698(元禄11)年に造られた「永代橋」。
長さは120間余り(約220メートル)で、中央区日本橋箱崎町の南部にあった北新堀町と
深川の佐賀町を結んだという。現在の永代橋よりも130メートルほど上流に架かって
いたことになる。広重は永代橋の下から、河口方向の夜景を描いている。
元絵中央の遠方に浮かぶのが佃島(つくだじま)で、右手に見える大型船の船だまりは
日本橋川につながる辺りだ。
海上で篝火をたくのは、白魚漁(しらうおりょう)をする佃島の漁船であろう。佃島は、
隅田川河口の中州・石川島の南にあった干潟を、江戸時代初期に埋め立てた。徳川家康と
知己の間柄だった摂津国・佃村(現・大阪府西淀川区佃)の漁師らが移住したことが、
「佃島」の名の由来となった。家康が入府するまでは江戸に高度な漁業技術がなく、
発展する城下町の胃袋を満たすために、古くから卓越した技術を持つ佃村の漁師を
呼び寄せたのではないだろうか。
この島の漁師には、江戸湾全域での漁業権や税の免除など特権が与えられ、捕った魚を
徳川家に納めさせたという。特に白魚は家康の大好物で、透けて見える脳部分が徳川家の
家紋「三つ葉葵」に似ていたことから、将軍家では代々珍重したと伝わる。
佃島の漁師たちは毎年春になると、白魚を献上するために寒空の下で篝火をたいて
魚群を寄せ集めた。】
「 両ごく回向院元柳橋
Eko-in Temple in Ryogoku and Motoyanagibashi Bridge
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)閏5月
手前の高い櫓は、相撲興行が行われていた両国の回向院の境内に組まれたもので、現在の
両国側から西岸の元柳橋を見た光景である。回向院は、明暦3年(1657)の明暦の
大火による死者の供養のために創建された。対岸の元柳橋はかつて柳橋の親口にあったが、
明治36年(1903)の埋め立てとともに姿を消した。
現在の所在地:墨田区両国」 
【第5景となる「両ごく回向院元柳橋(りょうごくえこういんもとやなぎばし)」。
相撲興行を知らせる櫓(やぐら)太鼓越しに、隅田川と江戸の町、富士山を望んだ
春を告げる1枚である
幕末の江戸っ子は、境内の様子が描かれていなくても、この巨大な櫓太鼓を見れば、すぐに
両国の浄土宗寺院「回向院」(現・墨田区両国2丁目)だと分かった。勧進相撲の開催を
知らせる太鼓で、高さ5丈7尺(約17メートル)もある櫓の上で打ち鳴らされるため、江戸中に
響き渡ったという。
回向院は明暦の大火の犠牲者を追悼するため、1657(明暦3)年に創建。今回の絵には登場
しないが、枠外のすぐ右(北)には、同じく明暦の大火をきっかけに両国橋が架けられている。
それまで隅田川には千住大橋しかなかったが、両国橋を皮切りに、新大橋や永代橋などが
誕生し、東岸の本所・深川・向島が一気に発展していく。
両国橋には延焼を防ぐため、両端に火除(ひよけ)地が設けてあった。夏の川涼みの時期には、
仮設の芝居小屋や茶屋が立ち並び、西詰には江戸一番の繁華街「両国広小路」が形成される。
回向院の参道は、両国橋の東詰めから真っすぐ続いていたため、山門前はにぎわい、交通の
要所となっていった。
隅田川の両岸から人が集まりやすいという地の利を生かし、回向院は江戸中期頃から
「出開帳」を頻繁に開催した。信州の善光寺を筆頭に、全国の名刹(めいさつ)から秘仏を
運んで特別公開するもので、江戸時代を通じて総計160回を超え、毎回大盛況だったという。
江戸庶民からは「イベントの多い寺」として親しまれたが、その印象を決定付けたのが
相撲興行である。】
「 馬喰町初音の馬場
Hatsune Riding Ground, Bakurochō
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)9月
ここは馬場があり、牛馬の売買などを行う博労(ばくろう)がいたためこの名が付いた。
また近くの稲荷神社の名から初音の馬場と呼ばれるようになる。
手前の布は染物屋が干した張り物である。その奥のしだれ柳は芽吹いており、雅な
初音の名とともに春を伝える図である。
現在の所在地:中央区日本橋馬喰町」

【第6景となる「馬喰町 初音の馬場(ばくろうちょう はつねのばば)」。
問屋街近くにあった江戸で最も古い馬場を描いた、平和な春を象徴する1枚である。
この絵が描かれたのは現在の中央区日本橋馬喰町(ばくろちょう)。南隣の横山町と
併せて「馬喰横山」と呼ばれ、衣類や繊維を中心とする問屋街として名が通っているので、
反物がたなびく情景には合点がいくだろう。ただ「初音の馬場」の方は文字通り、初めて
聞いたという人が少なくないはずだ。
初音の馬場は、徳川家が初めて江戸に造営した馬場である。豊臣秀吉による小田原征伐の後、
徳川家康は江戸入りし、城郭の整備を進め、堀の周囲を埋め立てて家臣を住まわせた。
いつ戦が起きてもおかしくない時代だけに、城下の日本橋付近に軍事教練施設の馬場も設置。
その傍らには初音稲荷があったため、初音の馬場と呼ばれるようになったという。
町名は、馬労(ばろう)頭の高木源兵衛と富田半七が管理を任されたことに由来する。
牛馬に精通した馬労は「博労(ばくろう)」とも呼ばれたので、当初は博労町になり、
正保年間(1645-1648)に馬喰町の字に改められた。】
「 大てんま町木綿店
Cotton Goods Stores at Ōdenmachō
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
現在の中央区日本橋本町あたりにあったのが大伝馬町である。木綿問屋が多く並んでいたため、
木綿店と呼ばれるようになった。画面右側に並ぶ暖簾はそれぞれ田端屋、升屋、嶋屋のもので
ある。そのうち一つだけたくし上げられ、店内で売り買いする様子が見て取れる。
現在の所在地:中央区日本橋大伝馬町」
【第7景となる「大てんま町木綿店(おおてんまちょうもめんだな)」。
江戸の流行発信地・大伝馬町で、軒を連ねていた木綿生地屋の店先を描いた春の一枚である。
大伝馬町(現・中央区大伝馬町と日本橋本町の一部)は、江戸で最も古い町の一つ。
徳川家康が日本橋を基点として街道の整備を始めた際、公用で使用する「伝馬」を
つなぐための宿駅として日光・奥州街道沿いに誕生した。後に江戸近郊の宿場町が発展した
ことで、宿駅の機能が千住に移されると、全国からの物資が集まる大伝馬町は商業の町へと
変貌する。江戸一番の繁華街・日本橋から程近く、呉服屋や繊維問屋が軒を連ねたことから、
ファッション発信地としてにぎわった。
広重は大伝馬町一丁目を、西隣の本町(ほんちょう)から眺めている。右手中央の暖簾
(のれん)越しには、生地が積み上げられた横で商談する姿が見えるので、木綿店だと分かる。
右手前から「たばたや」「ますや」「しまや」と、藍染めの暖簾に染め抜かれた屋号を
しっかりと描いていることから、第78回『大伝馬町こふく店』の「大丸」同様に
広告主なのは明白だ。
町を区切るための木戸と芸者を近景の枠とし、建物に遠近法を用いる広重お得意の構図だが、
「棟梁(とうりょう)送り」の行列が登場して色鮮やかな「こふく店」と比べると、少し
地味で面白みに欠ける。広重は『名所江戸百景』シリーズを手掛ける前に、今回の絵とは
反対側から大伝馬町一丁目を描いている。『東都大伝馬街繁栄之図』という3枚綴(つづ)り
の作品で、富士山も登場する壮大な作品だ。その一大パノラマを知る広重ファンにとって、
今回の絵はどこか物足りない。そのため、研究者の中には、広告要素が強い絵にうんざりと
していた広重が、皮肉として辰巳芸者を登場させたという説を唱える人もいる。】
「 する賀てふ
Surugachō
作者:歌川広重
年代:安政3年(1856)9月
駿河町を中心に記して、その活気ある様子を誇張している。道の両側には「丸に井桁三」の
家紋の暖簾が掛けられた三井越後屋が並んでいる。駿河町という名は富士山が駿河の国に
あることから付けられたものである。その名に違わず、道の先の開いた空間から富士山の
山頂部分をのぞかせ、堂々たる姿を見せている。
現在の所在地:中央区日本橋室町」
【第8景となる「する賀てふ(するがちょう)」。
シリーズ中、最も大きく富士を描いた華やかな1枚である。
北斎の富嶽(ふがく)三十六景、江戸名所図会でも描かれた駿河町の風景を、広重の時代の
江戸っ子で知らぬものはいなかっただろう。『名所江戸百景』と題したからには外せない
場所だが、越後屋から宣伝費が出ていたと考える方が自然だろう。
広重も『冨士三十六景』や『東都名所 駿河町之図(佐野喜版)』、『絵本江戸土産 第5篇
駿河町』などでも駿河町を描いているが、いずれも通行人の目線で越後屋の軒を見上げる
写実的な構図で、富士の大きさも控えめだ。それが、大胆な構図を売りにする
『名所江戸百景』では、駿河町の通りを俯瞰(ふかん)で眺め、上半分を巨大な富士が
占めている。日本一の山がドーンとあるため、文字がなくても「日本一の呉服店・
三井越後屋」と訴えかけ、広告ポスターとしては秀逸といえる。】
「 筋違内八ツ小路
Yatsukōji Square inside Sujikai Gomonryō
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)11月
往来の人物の様子から場所の広々とした様子がよく伝わる。筋違の名称は、日本橋からの道と
下谷方面に向かう道が交差することから付けられた。また、八ツ小路という名も八つの道が
通じていたことに由来する。
現在の所在地:千代田区神田須田町」 
【第9景となる「筋違内八ツ小路(すじかいうち やつこうじ)」。
江戸時代に交通の要所であった、神田川沿いの火除(よ)け地を描いた一枚である。
余白を生かした鳥瞰ではあるが、広重にしては面白みがない構図だと感じる人もいるだろう。
しかし、実に多様な人々を描いている点は興味深い。手前に見える行列は、腰元や女中らに、
赤屋根の立派なかごが続いているので、大名の奥方であろう。昌平橋辺りに目を移すと、
親子連れ、中元を伴った武士、駕籠舁(かごかき)、てんびん棒を担いだ魚屋、大きな
風呂敷包みを背負った商人、かさをかぶった旅人などが見受けられる。
「外桜田弁慶堀糀町」で江戸の町割りについて触れるが、この場所は、ちょうど武家屋敷街と
町家の境目で、左に見える白壁の屋敷から左奥には旗本・御家人が住む屋敷が連なり、
絵の右手、見えない筋違御門側には町家が広がる。また、五街道の起点・日本橋の真北に
ある八ツ小路は、板橋宿へ向かう中山(なかせん)道や、将軍家が上野の寛永寺へ向かう際の
御成道(おなりみち)が通る。広重は、多彩な身分の人々が行き交うこの火除け地で、
生き生きとした江戸の姿を描きたかったのではないだろうか。】
「 神田明神曙之景
Dawn at Kanda Myojin Shrine
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)9月
神田明神は平将門を祭神とする神社で、現在では大手町2丁目に鎮座する。
山王祭と1年交代で執り行われた神田祭は、共に天下祭とされ、将軍も上覧した。
画面は境内の開け方の様子が描かれる。神主や巫女が朝の支度めき、日の出の瞬間を
待っている。
現在の所在地:千代田区外神田」 
【第10景となる『神田明神曙之景(かんだみょうじんあけぼののけい)』。
天下祭(てんかまつり)で知られる神田明神の日の出を、あえて太陽を隠して描いた
広重らしい一枚である。
江戸時代、「江戸総鎮守」として江戸っ子たちの尊崇を集めた神田明神。
2年に一度開催される「神田祭」では、40本以上の豪華絢爛な山車(だし)や神輿(みこし)が
市中を練り歩いたという。行列は江戸城内にも入り、将軍も見物したことから「天下祭」と
呼ばれるようになり、全国的に知られる祭りであった。
神田祭は、江戸城の鎮守社であった日枝神社の「山王祭」と交互に隔年開催される。
広重は名所江戸百景で山王祭の江戸城への練り込みを描いているので、神田明神でも夏の
神田祭のにぎわいを題材にしてもよさそうだが、静寂を感じさせる春の曙を描いた。
境内がある本郷台地から、東側の神田の町、両国(現在の東日本橋)、隅田川、深川、本所
あたりの町並みまでを見渡す構図である。当時、高台にある神田明神は見晴らしが良く、
朝日の名所として人気があったようだ。この絵が描かれる直前の江戸は、安政2(1855)年の
大地震、安政3年の台風によって甚大な被害が出た。広重は復興を願う気持ちで、夜明けを
象徴する曙の景を選んだともいわれている。
構図には広重の巧妙な演出が施されている。境内に植えられていたサワラ(ヒノキの一種)の
木を中央に配しているため、太陽が昇る様子を見ることはできない。神官、巫女(みこ)、
仕丁(しちょう)の目線やしぐさによって、幹の向こう側にある美しい朝日を想像させると
いう仕掛けだ。】
「 上野清水堂不忍ノ池
Kiyomizudo Temple and Shinobazu Pond, Ueno
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
寛永寺は1631年に徳川家光により、江戸城の鬼門除けの寺として建立された。
清水堂は京都の清水寺の舞台を模したもので、眼前に広がる不忍池を望む。
画面には桜花爛漫の山内の様子が描かれ、花見客でにぎわう春景色となっている。
現在の所在地:東京都台東区上野公園」
【第11景。桜の季節には花見客であふれる上野公園。西郷隆盛像近くに建つ清水観音堂では、
桜の薄紅色と舞台の朱色、松の緑が美しいコントラストを描く。
寛永寺の清水観音堂は、彰義隊らの旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が衝突した
幕末の上野戦争でも焼け残った建物。現在は、重要文化財に指定されている。
その舞台前に植えられているのが、枝が曲がって円を描く「月の松」。
明治初期の台風被害で一度失われたが、2012年に復活を遂げた。
広重の絵は、桜に囲まれた清水堂と月の松を俯瞰(ふかん)した構図になっている。
背景には不忍池が描かれ、奥行き感のある素晴らしい1枚だ。】
「上野山した
Yamashita Quarter, Ueno
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)10月
「伊勢屋しんみせ」は藤堂家屋敷内「練塀」を呼ばれた料理屋である。
奥に寛永寺内の鳥居が見える。現在は東京大学のみが残存し伝えている。
現在の所在地:台東区上野公園」
【第12景となる「上野山した(うえのやました)」。
桜が登場しなくても、花見のにぎわいを連想させるユニークな春の一枚である。
江戸時代の上野公園(台東区上野公園)は、徳川将軍家の菩提(ぼだい)寺だった
「東叡山寛永寺」の境内で、その東側の平地は「山下」と呼ばれていた。
今回の絵が描かれたのは山下の南西に接した寛永寺の門前町で、現在の中央通り「上野公園前」
交差点辺りから北東を望んでいる。交番がある公園入口の風景は見覚えある人も多いだろう。
「伊勢屋 しそ(志楚)めし」という大きな暖簾(のれん)を掲げた料理屋が目立ち、
広告であることは一目瞭然だ。つり下げたヒラメ、薄紅色の大きなマダイなどの高級魚や、
多くの客が出入りする様子、2階の座敷での宴会まで細かく描きこみ、いかにもはやりの店と
いった雰囲気を演出している。同じく春の上野山が舞台の「上野清水堂不忍ノ池」では、
境内に咲く満開の桜が描かれているが、「上野山した」には桜は一切登場しない。それでも、
花見のにぎわいを描いた一枚だとされる。鍵となるのは、石垣の手前に立つ人々が遠巻きに
眺める、そろいの蛇の目傘を差す行列の存在だ。
上野山は江戸で最も古くからの花見の名所であったが、四代将軍・家綱の霊廟(れいびょう)が
寛永寺に完成した後は、花見の際の風紀の乱れを厳しく取り締まった。ただ、江戸っ子も
おとなしくはしていない。宴会が禁止になった時期には、酒が飲めないならばと、派手な
衣装で人目を引こうとするやからが現れ、今度は仮装が禁じられた年もあったそうだ。
江戸後期になると、芸事の師匠が弟子たちとそろいの傘や着物で練り歩くのが流行し、
花見の名所は次第にアピール合戦の場となっていく。当時の江戸っ子は同じ装束で東叡山へ
向かう集団を見るだけで、にぎやかな花見風景を連想できたのだ。】
「 下谷広小路
Hirokoji Avenue, Shitaya
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)4月
上野広小路と呼ばれ、一年を通じてにぎわいを見せた。画面左奥には不忍池が広がる。
軒を連ねる店先には暖簾が掛けられ、道行く人々で活気に満ちている。奥の山並みには
うっすらと富士が見えている。」 
【第13景となる「下谷広小路(したやひろこうじ)」。
上野寛永寺の参詣者が利用した大通りと、いとう松坂屋の店先を描いた春の景である。
現在の東京で「広小路」といえば、ほとんどの人が東京メトロ銀座線の「上野広小路」駅を
想起し、同時に駅直結の百貨店「松坂屋上野店」を思い浮かべるのではないだろうか。
松坂屋から上野公園に至る中央通り一帯は、江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。
元々は徳川将軍家が東叡山寛永寺(現・上野公園)へ参詣する際に通った御成道
(おなりみち)で、明暦の大火(1657年)後に拡幅されて、延焼を避けるための
火除(よ)け地を兼ねる「広小路」となった。下谷は、上野山から南西の湯島にかけての
丘陵の下に広がっていた平地を指していたが、現在はJR上野駅の北東にある町の名として
残っている。
広重は、下谷広小路の南端から北の寛永寺方向を得意の俯瞰(ふかん)で描いている。
奥に見える森が上野の山で、右手前に建つ大店(おおだな)の暖簾(のれん)には、今でも
おなじみの松坂屋の商標「いとうまる」が染め抜かれ、両脇に「いとう」「まつさかや」と
仮名文字が添えられている。
「いとうまる」と呼ばれている松坂屋の商標は、 創業家である伊藤家の「藤」の文字を、
組織と団結を表す「井桁(いげた)」と完全を意味する「円」で囲んだもの
である。】
「 日暮里寺院の林泉
Temple Gardens at Nippori
作者:歌川広重
年代:安政4年(1857)2月
かつて花見寺と呼ばれ、桜の名所として愛された寺院があった。画面はその一つ、西日暮里
3丁目の清雲寺近くの景色である。今は失われた江戸時代当時の情景が描き出されている。
崖には桜が咲き誇り、花見の客を楽しませている。
現在の所在地:荒川区西日暮里」
【歌川広重『名所江戸百景』目録では第14景となる「日暮里寺院の林泉
(にっぽりじいんのりんせん)」。花見寺と呼ばれた寺院の庭園を描いた春の1枚である。
『日暮里寺院の林泉』では手前に枝垂(しだ)れ桜を配し、広場の周りには美しく剪定
(せんてい)されたツツジやツゲが並ぶ。奥の斜面では、木々の間で咲き誇る桜を眺めながら、
花見客が坂を上っていく。
画題には特定の寺の名がないため、広重の立ち位置がしばしば話題になる。特徴的な
アイコンといえば、「広重画」の落款(らっかん)上にある帆掛け船のような
灌木(かんぼく)と、中央付近に描かれた坂道であろう。船形の植木は『江戸名所図会』の
5ページ目(上の図版の右ページ下部)にも登場するので、修性院のものなのは間違い
ないだろう。
坂道は、今も残る富士見坂と考える人も多いが、位置的には妙隆寺の南側にあったので、
船形の植木の左手に描かれるはずがない。広重は『絵本江戸土産』の「日暮里
(ひぐらしのさと)諏訪の台」で、今回の絵とほぼ同じ場所の雪景を4ページで描いている。
修性院にあった「番神」の堂宇や、船形の灌木の位置で照らし合わせると、坂道も同じ境内に
あった名もなき坂だと考えるのが妥当だ。広重は、縦構図に林泉のエッセンスを凝縮するため、
修性院境内を斜めに描き、奥行きを出したと考えられる。】
「 日暮里諏訪の台
Suwa Heights at Nippori
作者:歌川広重
年代:安政3年(1856)5月
諏訪の台の名は、この地に鎮座する諏訪神社に由来する。ご覧のとおり、桜の名所である。
高台には床几(しょうぎ)が並べられ、花見の客でにぎわっている。遠くにのぞむ山々と
あわせて、春の絶景を満喫しているようだ。
現在の所在地:荒川区西日暮里」
【第15景となる「日暮里諏訪の台(にっぽりすわのだい)」。
桜咲く崖の上から、田園風景の奥に筑波山と日光連山を望む春の1枚である。
諏訪の台という名は、1205(元久2)年創建の「諏訪明神社」(現・諏方神社、西日暮里3丁目)
に由来する。鎌倉殿の御家人として武蔵国豊島郡を治めた豊島(としま)氏が、
信州(長野県)の諏訪大社から勧請したと伝わっている。尾根状の台地は天然の要害なので、
当時「関より東(関東)の軍神」とたたえられていた諏訪明神を祀(まつ)ったのだろう。
15世紀半ばには、江戸城を築いた太田道灌も諏訪明神社に社地を寄進し、台地に出城を築いた。
道灌に仕えた新堀玄蕃が、後に日暮里となる「新堀村(にいほりむら、にっぽりむら)」の由来
という説があるので、諏訪の台の地名の方がより古いとも考えられる。
天下泰平の江戸時代になると、高台の軍事的な必要性は薄れていく。明暦の大火(1657年)後に
多くの寺院が移転してきたことで、風流人が好む自然豊かな土地となった。18世紀半ばからは
桜の木が数多く移植され、花見の名所として江戸っ子の人気を博した。
広重は諏訪明神社を管理する南隣の別当寺・浄光寺付近から、北東方向を望む。花見客が
登ってくる切り通しの道は、今も残る地蔵坂で、崖下には「下日暮里」と呼ばれた新堀村の
農家と満開の桜が並んでいる。その向こうには、三河島から尾久にかけての田園地帯が横たわり、
地平線には筑波山と日光連山のシルエットが浮かぶ。】
江戸東京博物館へ(その20) 2026.06.06
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