JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.09.03
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カテゴリ: JINさんの農園
この日は7月10日(金)、神田での仕事の帰りに再び、「江戸東京博物館」を訪ねた。 
前回は4月21日(火)に訪ねブログアップしたが、見学できたのは「 E・江戸ゾーン 」のみで
T・東京ゾーン 」まで廻れなかったので、この日に「 T・東京ゾーン 」の見学に
訪ねたのであった。併せて、前回に訪ね逃した「 E・江戸ゾーン 」とこの日の特別展
洋館 明治の夢と挑戦 」も訪ねたのであった。

まずは「​ T-1 文明開化東京 ​」👈️リンク へ
江戸東京博物館の東京ゾーン(Tゾーン)は明治時代から現代までの東京の歴史や暮らしを

服部時計店の模型や、近代の街並み、生活の移り変わりを学ぶことができるのであった。



まずは「 服部時計店
1881年(明治14)に服部金太郎(1860-1934)が創業した服部時計店(服部商店)は
、輸入時計の卸売・販売によって発展を遂げ、1894年(明治27)には、銀座四丁目の角地に
あった旧朝野新聞社社屋を購入しました。二階建ての煉瓦造りの建物に、巨大な時計塔を重ねる
増改築を行い、翌年に同地での営業を開始しました。
時計塔は、スイスから輸入された時計を東西南北4面に備え、毎時と30分ごとに鐘の音が鳴る
仕組みでした。銀座に集う人々に時を伝えた時計塔は、「服部の時計塔」と呼ばれ、
ランドマークとして人々に親しまれました。」
東京都江戸東京博物館に服部時計店初代時計塔の原寸大模型が登場 | SEIKO HOUSE | 銀座 | セイコーグループ

正面から。
正面上部の文字は。
「K. HATTORI」
「服部商店」
さらに1階正面には、右から左へ読む当時の表記で、
時計眼鏡寶石品類
と掲げられている。文字を語として区切って読むと、「時計・眼鏡・宝石品類」という意味。

原寸大「服部時計店」再現も 江戸東京博物館が4年ぶり再開、展示と施設を刷新 - Yahoo! JAPAN

見上げて。
高さ約26メートルの時計塔 は、現在の2代目時計塔SEIKO HOUSEと同様に、
東京の「時」をつなぐ象徴であった。

現存する資料が少ない中、セイコータイムクリエーションが長年培ってきた経験と
技術力で4面の時計塔を再現。

約100年の時を超えて現代によみがえったのだと。
江戸東京博物館 | 納入事例-セイコータイムクリエーション株式会社 タイムシステム事業

正面部分の
K. HATTORI
服部商店
も鮮明。 「K」はもちろん、創業者服部金太郎(Kintaro Hattori)の頭文字

江戸東京博入口近くの原寸大服部時計店。しかし国産時計製造の始まりが服部金太郎からと言うのは、また面白い。半蔵門もそうだが、何かと気になる服部氏。  #江戸東京博物館 #服部時計店 #歌舞伎座

「東京ゾーン」展示案内。
T1 文明開化東京
明治時代に入った東京では、新政府の主導で近代国家にふさわしい首都の建設が進められました。
1872年(明治5)の大火の後には、火災に強い洋風都市を目指した「銀座煉瓦街」が建設
されました。また、1883年(明治16)には、欧化政策のシンボルとして鹿鳴館が落成し、
在留の外国人を招いた舞踏会が盛んに開催されました。人々の暮らしにも「ザンギリ頭」や
洋食文化などが、徐々に浸透しました。
このコーナーでは、江戸をもとにして東京がどのように変化していったのか、現代へと
連なる首都東京の誕生と経過について展示していた。」



T1-1武都から首都へ



武都から首都へ
天下の総城下町・江戸は、百数十万の人口を抱える大都市として栄えてきたが、徳川政権の
崩壊とともに、その繁栄も失われた。とくに都市の約70パーセントを占めた旧武家地の
荒廃が甚だしく、1868年(慶応4・明治元)の東京は、雑草が生い茂り、「夜中は別けて
往来少し。また強盗多し」といわれたほどの寂れようであった。
一方、都市開発とは逆行するように桑・茶畑の奨励が行われたが、そうした政府の試行錯誤も
一時期で終わった。
江戸城改め皇城に連なる官庁街が整備され、日本橋を中心とする市街地に再び活況が戻るのには、
明治維新よりさらに10年以上の歳月を要した。
その後、首都東京が急速に発展したのは、西洋技術の速やかな導入や、大貿易港横浜と海陸で
結ばれたこと、旧武家地を利用した都市整備が広まったことなどによるものであった。」 

特に印象的なのは、
・江戸は明治維新と同時にすぐ東京として発展したわけではない。
・むしろ維新直後は、旧武家地が広大な空き地となり、荒廃した都市になっていた。
・「夜中は別けて往来少し。また強盗多し」という当時の記録が、その状況を物語っている。
・その後、官庁街の整備や横浜港との連携、西洋技術の導入によって、現在の首都東京へと
 成長していった。
という点。



東京府の誕生
Birth of the Tokyo Prefecture
1868年(慶応4)7月17日、江戸が東京へと改称された。9月2日には現在の千代田区内幸町に
あった旧郡山藩邸を東京府庁舎とし、正式に「東京府」が誕生。同年9月8日、「明治」に改元された。
Edo was renamed Tokyo on the 17th day of the seventh month of 1868 (Keiō 4), and
on the second day of the ninth month, the former Kōriyama domain residence in
present-day Uchisaiwaichō, Chiyoda ward, was designated as the Tokyo Prefectural Office building. This marked the official birth of the "Tokyo Prefecture." On the eighth day of


東京府の行政区画と人口統計
1871年(明治4)の廃藩置県から1893年(明治26)まで
・1871年(明治4)11月
 大区小区制
 総人口 882,222人(1872年〈明治5〉)
・1878年(明治11)7月
 15区6郡制(郡区町村編制法の制定)
 総人口 957,121人(1880年〈明治13〉)
・1889年(明治22)5月
 15区に「東京市」の誕生(市制・町村制)
 総人口 1,719,508人
・1893年(明治26)
 三多摩地区の移管
 総人口 1,884,885人
この展示で 興味深いのは、「東京」と「東京市」は異なるという点 です。
・1868年 江戸が「東京」と改称され、東京府が誕生。
・1889年 15区をもって東京市が誕生。
・1893年 神奈川県から三多摩地域(現在の八王子市・立川市・青梅市・町田市などを含む地域)
      が東京府へ編入され、現在の東京都の骨格がほぼ整いました。
この流れを見ると、「東京」という都市は一度に完成したのではなく、行政制度の整備や
区域の拡大を経て、現在の姿へと発展していったことがよく分かるのであった。


東京府庁舎(旧郡山藩上屋敷) をネットから。
1894年(明治27)に麹町通りの新庁舎が現在の千代田区丸の内に建てられるまで使用された。

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官庁の建設
Construction of Government Offices
明治政府の方針により、各官庁が皇居周辺に建設され、丸の内には官庁や陸軍の練兵場など
が配置された。
In accordance with the policy of the Meiji government, various government offices were
built around the Imperial Palace, and government offices and army training camps were
placed in Marunouchi.」 
丸の内における各施設の所在場所
1876年〈明治9〉の官庁・軍事施設)
地図中には、次のような施設が示されている。
地図上から
・大蔵省
・紙幣寮
・文部省・教部省
・内務省
・製作寮出張所
・文庫司添局
・工兵営
・紙幣寮活版局
・陸軍武庫司
・鎮台兵営・第十三大隊営
・内務省(勧業土木省・警保局・衛生局・勧商局)
・大審院・上等裁判所
・輜重兵営
・司法省
・警視庁
・東京鎮台騎兵隊
・東京裁判所
・陸軍裁判所
・陸軍省
・練兵場
・教導団工兵第一大隊・中山忠能邸
・神宮教院
・松平忠和



明治後期の丸の内・明治後期 の丸の内 三菱一号館、三号館(左)
1890年(明治23)に払い下げを受けた三菱がオフィスビル(三菱一号館など)を建設し、
一帯は丸の内のオフィス街へと変貌していった。

3:丸の内の『一丁倫敦』 ~ 丸の内・大手町 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産

「書役徳兵衛日記」より天盃頂戴の記事
Diary with an Entry on the Occasion where the Emperor Distributed Sake to the
Townspeople of Tokyo
1868年(慶応4~明治1)
四谷塩町一丁目 書役 徳兵衛/作成
四谷塩町一丁目の書役(町名主などを補助し文書作成などを行う町役人)、原徳兵衛が
書き残した日記には天盃頂戴の記述がある。
同町は11月4日に東京府から酒36樽を拝領し、翌日派手に御神酒開きを行った。
6日には将棋駒型の山車3基を製作し、内藤新宿辺りまで曳き回した。」

この展示は、明治維新という「国家の大きな出来事」を、一人の町役人の日記を通して
紹介している点が興味深い。
ここでいう「天盃頂戴(てんぱいいただき)」とは、天皇から下賜された酒をいただくことで、
明治政府の誕生を町人たちが祝ったことを意味。
展示によれば、
・11月4日 東京府から酒36樽を拝領
・11月5日 町を挙げて御神酒開き
・11月6日 将棋の駒の形をした山車を3基作り、内藤新宿方面まで曳いて祝賀。


東京府中橋通街之図」。



東京府中橋通街之図
Illustrations of Nakabashi-dori Street in Tokyo
1868年(明治1)
[月岡]芳年/筆
[金木]年景/画
明治天皇が品川を出発し、江戸城(現皇居)へと向かった1868年(明治1)10月13日の様子を
描いた錦絵。
行列の先頭を長州藩の兵士たちが進み、沿道には新たな時代の幕開けを一目見ようと、大勢の
民衆があふれている。
天皇が京都から東京へと移動する「東幸(とうこう)」の様子は当時多くの錦絵に描かれ
流布した。
視覚メディアを通じた発信は、身近でなかった天皇の存在を広くアピールする契機となった。」


横浜枡屋茶箱紙  駿河美保之松原 」 



横浜枡屋茶箱紙
駿河美保之松原
Tea Box Wrapping Paper of Masuya Store in Yokohama: Pine Grove in Miho, Suruga
明治時代前期
明治時代、「絹糸」と同様に日本の重要な輸出品目であった「お茶」の木箱に貼られた、
色鮮やかなデザインが特徴的な「茶箱絵(ちゃばこえ)。
絵は木版多色刷りの技術を持つ浮世絵師が手掛けていた。
本資料の左下には、横浜の業者名とともに、「BOX」を「ROX」と誤記されている。」


桑茶政策
The Mulberry and Tea Policy
明治維新直後の東京では、旧武家地の荒廃が進んだ。これを活用するため、東京府知事
大木喬任(おおき たかとう)は桑畑・茶畑への転用を奨励した。
当時の主要輸出品目の生糸と茶の増産を目指したが、わずか2年後の1871年(明治4)に
この政策は廃止となった。
In Tokyo immediately after the Meiji Restoration, former samurai lands continued to
deteriorate.
To utilize such lands, the Tokyo Governor Ōki Takatō encouraged the conversion of these
lands into mulberry and tea fields.
The aim of this policy was to increase the production of raw silk and tea, the main export commodities at the time; however, it was abolished only two years later in 1871 (Meiji 4).」 
写真・図版の説明
・市ヶ谷園辺の桑茶畑(緑色の部分)
 『永福東京総絵図』1871年(明治4)
・旧大名屋敷(長岡藩牧野家中屋敷)の耕地化
 屋敷が撤去され、耕地が整備された様子がわかる。
・愛宕山からみた幕末の江戸
 1865(慶応元)~1868頃(東京都写真美術館/所蔵)
・愛宕山からみた明治初年の東京
・明治10年代の青山周辺の桑畑・茶畑
 (緑=茶畑 橙=桑畑)
 ※ 主要な現代の施設や場所を重ねて表示 している。
地図中には、
JR信濃町駅
国立競技場
神宮外苑
秩父宮ラグビー場
地下鉄外苑前駅
地下鉄青山一丁目駅
青山霊園
国立新美術館   などが示されている。



旧武家地と桑茶政策
旧武家地を返上させたものの、その処理に困った新政府は、1869年(明治2)、殖産興業と
窮民授産の見地から旧武家地での桑と茶の植え付けを奨励した。当時の輸出の主要品目が
生糸と緑茶だったことによる政策である。
青山の15万9千余坪を筆頭に、小石川、千駄ヶ谷、麻布、市ヶ谷、下谷、浅草などの約100万坪が、
たちまち桑畑や茶園に変わっていった。
しかし、東京の首都機能の整備とは逆行する対策であったことと、払い下げ条項や税制上の
優遇措置が悪用されて混乱を招いたことなどから、この桑茶政策は失敗に終わり、
1871年(明治4)に廃止となった。」 

特に重要なのは次の3点か。
1.政策の目的
・旧武家地の有効利用
・殖産興業(産業振興)
・窮民授産(仕事を失った人々への就業対策)
2.規模
・青山だけで約15万9千坪
・東京全体では約100万坪もの土地が桑畑・茶園へ転換された
3.失敗した理由
・首都建設の方向性と矛盾していたこと
・土地の払い下げ制度や税制優遇が悪用され、混乱を招いたこと
この展示を読むと、「桑茶政策」が単なる農業政策ではなく、維新直後の東京再建を模索した
試行錯誤の一つであったことがよく分かるのであった。



東京新橋蒸気車往復図 
1872年に開業した初代新橋駅は、1914年に東京駅が開業するまで首都・東京の玄関口として
活躍した。 西洋風の駅舎とイギリス製蒸気機関車は、人々に文明開化の到来を強く印象づけ、
日本の近代化を象徴する風景として錦絵にも数多く描かれた。」



東京新橋蒸気車往復図
Illustration of the Steam Locomotive Making a Round Trip Between Tokyo and Shimbashi
1873年(明治6)
歌川国貞(3代)/画
ゑびや林之助/版
1872年、築地居留地近くの汐留に新橋駅が建設された。
新橋駅は1914年(大正3)に東京駅が開業するまで、首都の玄関口として機能した。
当時は珍しいモダンな西洋建築の駅舎は、アメリカ人建築家ブリジェンス(Bridgens,
Richard P. 1819–1891)の設計により建設された。
イギリスから輸入された蒸気機関車が、煙を上げて滑り込む様子は、日本の近代化と文明開化を
象徴する光景だった。」 



双頭レール(汐留遺跡出土)  



双頭レール(汐留遺跡出土)
A rail used at the Shimbashi station, an excavated article
明治時代前期(1868~1888)
新橋ステーションがあった汐留遺跡より出土した双頭レール。
双頭レールとは、底部に平らな部分がなく、上下とも走行用に使用可能なI字形の形状を
していたレール。
摩耗した場合は、上下逆さまに敷設し直し、使用 していた。
新橋・横浜間の開業当時は、国産はまだなく、イギリスの双頭レールを輸入 していた。」


双頭レール 」をネットから。

双頭レール

四民平等と「解放令」
1869年(明治2)6月の版籍奉還に際して、公卿・諸侯(旧藩主)を華族、旧幕臣・藩士
などを士族とし、封建的な主従関係が廃止された。また、農工商は平民となり、さらに、
1871年には、いわゆる「解放令」が布告され、旧来の穢多・非人などの称を廃して、
身分・職業とも平民と同じとした。
平民も名字を許され、華族・士族との通婚ができるようになり、職業の選択、居住地の移動
などの自由も認められた。いわゆる〈四民平等〉の世である。しかし、〈基本的人権〉など
市民としての諸権利がすべて確立されたわけではない。そのためには、その後の自由民権運動を
はじめとする、民衆の長く粘り強い運動の展開が必要であった。
とりわけ、被差別部落の住民への差別を生み出す社会的・経済的土壌は容易には無くならず、
結婚や就職などへの差別は根強く残った。そのため真の自由と平等を求めて、部落解放を
目指した運動が本格的に展開することになった。」 

この展示は、明治政府が進めた身分制度の廃止と、その後の社会の現実を、バランスよく
説明していた。
ポイントは二つ。
1.法制度上の平等
・華族・士族・平民という新しい身分制度へ移行し、封建的な主従関係は廃止された。
・「解放令」により、穢多・非人という身分呼称も廃止された。
・名字を名乗ることや、職業・居住地の自由なども認められた。
2.現実の差別は残った
 法律で身分制度は廃止されても、社会の差別意識はすぐにはなくならなかった。
 特に被差別部落の人々への差別は、結婚や就職などに長く残り、その解消にはその後の長い
 社会運動が必要であった。
この展示は、「制度は変わっても、社会の意識が変わるには時間がかかる」という明治維新の
一面を伝える内容に。



T1-2 欧米文化の受容 」。



欧米文化の受容
1871年(明治4)11月より岩倉使節団は米欧各国へ出発し、アメリカとヨーロッパの各都市を
歴訪して文物や制度を視察した。帰国後、大久保利通らを中心とする開明派政府首脳は、
欧米先進国と同等の国力を持つ近代国家建設を旗印に、西洋の制度や技術の輸入に努めた。
西洋の知識や技術はすでに幕末の開港期から入っていたが、明治期には政府主導で積極的に
摂取された。鉄道・郵便・電信・電話など西洋の交通・通信手段が新たに移植され、
人や物資・情報の流れは格段に速くなり、その量も増加した。
諸制度や科学技術にとどまらず、衣服や住宅、文学や演劇など生活や文化の面にも欧米文化の
導入が推しすすめられた。
同時に、〈文明開化〉という言葉が、「 散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする 」という
文句もあったように、さかんに人々の口にのぼっていた。」 

この展示は、 明治政府が単に西洋の「物」を取り入れたのではなく、国家そのものの仕組みや
生活文化まで広く導入したことを説明 していた。
特に 岩倉使節団(1871~1873 )は、日本の近代化を考える上で極めて重要な出来事。
彼らは欧米で
・政治制度
・教育制度
・産業
・軍事
・都市計画
・文化
などを視察 し、その成果が帰国後の政策に大きく反映された。
展示にもあるように、
・鉄道
・郵便
・電信
・電話
は人や情報の流れを劇的に変えたのだ。
さらに、
・洋服
・洋館
・文学
・演劇
など生活文化にも西洋化が広がり、「文明開化」という言葉が時代を象徴する流行語と
なったのだ。



第一国立銀行 」を再現した模型。
第一国立銀行は、1873年(明治6)に創設された日本最初の国立銀行
渋沢栄一が設立の中心人物 となり、日本の近代金融制度の礎を築いた。
建物は和風の瓦屋根を取り入れながら洋風建築の要素を融合した擬洋風建築で、文明開化を
象徴する建築物。
この銀行は後に 第一銀行 → 第一勧業銀行 → みずほ銀行 へとつながる、日本近代銀行史の原点
でもあるのだ。



模型解説 / Explanations of the models
第一国立銀行(部分)
復元年代:明治初期(1872~77)
縮尺(部分):1/25
第一国立銀行は、近代銀行制度の導入に伴い、殖産興業への資金調達を主な目的として、
兜町に設立された。
日本橋界隈の、地の利が良い兜町には、株式取引所・保険会社などが集まり、やがて日本を
代表する金融街を形成するにいたった。
この建物は、もともと三井組の本拠地として1872年(明治5)に建てられたが、翌年、
渋沢栄一らが出資して設立した第一国立銀行の社屋となった。
建物の構造は江戸時代からの伝統技法によっているが、外観は西洋建築の意匠を取り入れた
〈擬洋風建築〉である。
設計・施工を担当した清水喜助(二代)は、横浜居留地で洋館の建造に従事して西洋建築を
学び、日本人として築地ホテル館や駿河町の三井ハウスなどの洋風建築を手がける先駆者と
なった。」 



開花新名所
New Famous Places in the Era of Enlightenment
写真・名称
・鹿鳴館
 Rokumeikan
 1893年(明治26)撮影
・為換バンク三井組
 Mitsui Bank
 1874年(明治7)頃 撮影
・第一国立銀行
 First National Bank
 1873年(明治6)頃 撮影
・ニコライ堂
 Holy Resurrection Cathedral in Tokyo (Nicholai-dō)
 1893年(明治26)撮影
・新富座
 Shintomi-za Theater
 1875年(明治8)頃 撮影
・銀座煉瓦街
 Ginza "Bricktown"
 1873年(明治6)頃 撮影」 



開化新名所
官庁や官営工場・軍用施設を擁する首都東京では、明治政府による開化政策が積極的に
推しすすめられた。そのシンボルの一つが鹿鳴館で、国際親善と外国の賓客に日本をアピール
する場として建設された。
第一国立銀行のような〈擬洋風建築〉をはじめ、西洋風の街並みが出現した銀座煉瓦街、
開港場横浜との間を結ぶ汽車が発着する新橋ステーションなどは、東京の新名所として脚光を
浴びた。加えて石造二連アーチ橋の万世橋(のちの万世橋)、近代的設備を備えた新劇場の
新富座なども、錦絵の格好の画題となり、〈東京みやげ〉として人気となった。
なかには、駿河台にそびえるニコライ堂のように、東京のランドマークとして今日もなお
親しまれているものもある。」


東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図 」。
この錦絵の題名にある「 鉄道馬車 は、蒸気機関車ではなく馬が客車を引く軌道馬車
明治15年頃の銀座では、煉瓦街の大通りを鉄道馬車が行き交い、文明開化を象徴する
風景として多くの人々の注目を集めたのだ と。
 


東京名所之内 銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図
The view of brick construction of Ginza Street
1882年(明治15)7月
歌川広重(3代)/画
安藤徳兵衛/画工
大倉孫兵衛/版
1872年(明治5)2月、銀座や築地一帯が大火の被害を受けた。鉄道の起点であることから、
政府は火災に強い都市の建設を目指し、同年3月にレンガでの一帯の再建を決定した。
設計はお雇い外国人のイギリス人建築家ウォートルス
(Walters, Thomas James 1842–1898)が担当した。
翌年には拡張された銀座大通り沿いに洋風2階建の街並みが完成し、この新風景を伝える錦絵も
売り出された。」 



「東京で刊行された主な新聞
Major Newspapers Published in Tokyo
竣工したばかりの銀座煉瓦街には数多くの新聞社が集まり、銀座はジャーナリズムの
中心地となった。
The newly completed Ginza Bricktown attracted numerous newspaper companies,
and Ginza became the center of journalism.
地図
当時の銀座煉瓦街
(銀座煉瓦街に所在した新聞社の位置を示した地図)
中央には
東京銀座街日報社
 1876年(明治9)頃
 小林清親 画 が掲載されている。
銀座で活躍したジャーナリスト
成島 柳北(1837–1884)
『朝野新聞』社長・主筆
末広 鉄腸(1849–1896)
『東京曙新聞』編集長・『絵新聞』編集長
岸田 吟香(1833–1905)
『東京日日新聞』記者
福地 桜痴(1841–1906)
『東京日日新聞』主筆
沼間 守一(1844–1890)
『東京横浜毎日新聞』社長
黒岩 涙香(1862–1920)
『絵入自由新聞』主筆

下部の一覧表
銀座煉瓦街に所在した主な新聞社(明治10年代)
No.・新聞名 ・・・・・・ 社名 ・・・・・・・ 創刊年月 ・・・・・・・ 廃刊年月(継続紙
1 ・・ 東京日日新聞 ・・・ 日報社 ・・・・ 1872年(明治5)2月 ・・・・ 現・毎日新聞
2 ・・ 朝野新聞 ・・・・・ 朝野新聞社 ・・ 1874年9月(公文通誌 )・・・ 1894年12月
3 ・・ 読売新聞 ・・・・・ 日就社 ・・・・ 1874年11月 ・・・・・・・・ 現・読売新聞
4 ・・ 東京曙新聞 ・・ 曙新聞社→朝陽社 1875年6月(あけぼの新聞) 1882年3月(東洋新報)
5 ・・ 仮名読新聞 ・・・ 仮名読新聞社 ・・ 1875年11月 ・・・・・・・ 1877年3月(かなよみ新聞)
6 ・・ 東京絵入新聞 ・・ 絵入新聞社 ・・・ 1876年3月(平仮名絵入新聞) 1889年2月(東京新報)
7 ・・ 問答新聞 ・・・・・ 四通社 ・・・・ 1876年6月 ・・・・・・・・・ 1882年11月
8 ・・ 絵入日曜新聞 ・・ 絵入日曜新聞社 1877年6月 ・・・・・・・・・ 1877年10月
9 ・・ 新聞集誌 ・・・ 新聞集誌社→皐莢社1877年10月 ・・・・・ ・・・ 1878年12月
10 東京毎夕新聞 ・・・ 日昌社 ・・・・ 1877年11月 ・・・・・・・・ 1878年11月(真砂新聞)
11 /// 憂国護憲新聞/ ////// 真権社 ///////// 1878年4月 //////////////////// 1878年10月以降
12 /// 真砂新聞 ///////// 東京真砂新聞 ///// 1878年7月(東京毎夕新聞) / 1878年9月(東京真砂新聞)
13 /// 東京新聞 ////////// 東京新聞社 ////// 1878年11月(東京さがけ) //// 1880年5月
14 /// 東京横浜毎日新聞/毎日新聞社 ////// 1879年11月(横浜毎日新聞) // 1886年5月(毎日新聞)
15 /// いろは新聞 ///////// 京文社 ////////// 1879年12月(あづま新聞) //// 1884年11月(勉強新聞)
16 /// 鈴木田新聞 ///////// 美喜屋 ////////// 1880年12月 /////////////////// 1881年12月
17 /// 東洋自由新聞 ///// 東洋自由新聞社 /// 1881年3月 //////////////////// 1881年4月
18 /// 明治日報 /////////// 忠愛社 ////////// 1881年4月 //////////////////// 1885年11月
19 // 東京ふりがな新聞 /// 明新社 ////////// 1881年11月 /////////////////// 1882年2月
20 // 東洋新報 ////////// 東洋新報社 //////// 1882年3月 //////////////////// 1882年12月
21 // 時事新報 /// 慶応義塾出版社→時事新報社1882年3月 ///////////// 1936年12月(東京日日新聞)
22 // 日の出新聞 ////////// 旭光社 ////////// 1882年4月 //////////////////// 1883年2月
23 // 自由新聞 //////////// 自由社 ////////// 1882年6月 ///////////////////// 1885年3月
24 // 絵入自由新聞 ///// 絵入自由新聞社 //// 1882年9月 //////////////////// 1890年11月(富新聞)
25 // 内外政党事情 ////// 四通社→政党事情社 / 1882年10月 ////////////////// 1883年2月
26 // 官令日報 /////////// 官令日報社 //////// 1882年10月 //////////////////// 不明
27 // 同盟改進新聞 ///// 同盟改進新聞社 ///// 1882年11月 ////////////////// 1882年12月以降
28 // 絵入朝野新聞 ///// 絵入朝野新聞社 ///// 1882年11月 ////////////////// 1889年5月(江戸新聞)
29 // 自由燈 //////////// 見光新聞社 ///////// 1884年5月 //////////////////// 1886年1月(絵新聞)
30 // 今日新聞 //////////// 毎夕社 //////////// 1884年9月 //////////////// 1888年11月(みやこ新聞)
31 // 日本たいむす // 日本たいむす本局 京文社 / 1885年9月 /////////////////1 885年12月以降
32 // 毎日新聞 ////////// 毎日新聞社 ////////// 1886年5月 /////////////// 1906年7月(東京毎日新聞)
33 // やまと新聞 /////// やまと新聞社 ///////// 1886年10月 //////////////// 1900年10月(日出新聞)


郵便報知新聞 第576号」。
錦絵新聞は単なるニュースではなく、実際の新聞記事を読みやすく、絵入りで一般庶民に
伝えるための「ビジュアル・ニュース」として人気を集めていた。



郵便報知新聞 第576号
1875年(明治8)
月岡芳年/画 朝野新聞社/発行
「郵便報知新聞」への掲載記事をもとに、新たな文章を記した錦絵新聞。同じ錦絵新聞である
「東京日日新聞」が赤枠であるのに対して、紫色の枠を採用しているのが特徴となっている。
本図は、往来で馬に乗った二人の芸妓が、老人と出会い頭にぶつかって転倒させてしまった
事件を描く。芸妓たちは、居合わせた巡査に見とがめられ、駐在所へ連行された。」 



旧第一国立銀行所在地」 と「 海運橋為換坐之図 絵図 」。   



旧第一国立銀行所在地
この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図(国土基本情報)
電子国土基本図(地図情報)及び数値地図(国土基本情報)電子国土基本図(地名情報)を
使用した。
(承認番号 平27情使、第23号)」 



海運橋為換坐之図 絵図 」。
「海運橋為換坐之図」=「海運橋にある為替会社(第一国立銀行)を描いた図」
描かれている建物は、 第一国立銀行(旧第一国立銀行)



                                 ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2026.09.03 00:00:10
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