JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.09.04
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カテゴリ: JINさんの農園
和洋折衷の風俗 」 



和洋折衷の風俗
欧米の最先端の文化を直接導入し、全面的に享受したのは、ごく限られた上流階級の人々
だったが、東京の庶民も開化の文物を見聞し、しだいに生活のなかに採り入れていく
こととなった。
文明開化の風俗でもっとも早く庶民に浸透したのは、「ザンギリ」と呼ばれた男子の断髪で
ある。1871年(明治4)の断髪令で政府が髷(まげ)を切ることを奨励して以来、
ザンギリ頭は文明開化のシンボルとなった。また、洋傘などの比較的安価な輸入品を扱う
雑貨店が各所にでき、西洋好きの人々でにぎわった。
一方、「牛鍋食わねば開化けぬ奴」(仮名垣魯文『安愚楽鍋』)といわれた牛鍋を
はじめとして、あんパン、あるいは女性の髪型の束髪(そくはつ)など外来文化の
和風化もすすんだ。新しがり屋の東京人の庶民意識も手伝って、生活に溶け込んでいった
ものも少なくない。」


ねじり棒(理髪店看板) 」。



ねじり棒(理髪店看板)
A sign of a barber shop
1882年(明治15)頃
理髪店(床屋)の看板で、木製で宝珠(ほうじゅ)の頭が付き、赤と白の捩(ねじ)り模様に、
青の横縞が入る。この配色とねじり模様は、現代の理髪店の看板にも通じる。
1871年(明治4)に「断髪令」が出て以降、手入れのわずらわしさがない「ザンギリ頭」は、
文明開化で導入されたものの中でもいち早く庶民の間に普及した。」 



正面に「 座敷ランプ 」と 2基の「卓上ランプ」



座敷ランプ
A lamp used on the floor (Tatami)
1882–1892年(明治15~25)頃
輸入されたテーブルに置く卓上の石油ランプを改良したもの。わが国の暮らしに合わせ、
畳の上で使用できるようにした。
高さは約80cm。」 



ズームして。



卓上ランプ
Table lamp
1897年(明治30)
石油は江戸以前から日本でもわずかに使われていたが、本格的な採掘・利用が始まるのは
明治以降だった。石油を使うランプも明治に入り輸入されるようになり、従来のろうそくや
菜種油の灯りよりはるかに明るいその光は、日本人の夜の暮らしを大きく変えていった。」



ズームして。



この背景の絵は、文明開化のさまざまな風俗を一枚一枚に描いた錦絵を、掛軸風に並べて
展示したもの
左側:洋楽を奏でる婦人たち
・ドレス姿の二人の女性がバイオリンを演奏。
・フリルの付いた洋装や西洋の椅子から、上流階級の家庭や鹿鳴館のような社交界の雰囲気
 が感じらる。
・音楽も文明開化とともに急速に普及し、西洋音楽の教育が始まったことを象徴。
中央:洋装の婦人と学生
・帽子をかぶり、洋装をまとった女性が立ち、その前には学生服姿の少年が描かれていた。
・明治になると、女性の洋装や学生服も徐々に広まり、新しい時代の象徴となった。
・背景には洋風建築や大きな花瓶が描かれ、近代都市・東京の雰囲気を演出。
右側:海軍少年と模型船
・セーラー服姿の少年たちが帆船の模型を手にしていた。
・明治政府が海軍の近代化を進めた時代を反映し、西洋式の海軍教育や科学技術への憧れを
 表している。
右上:洋風庭園
・桜や松、提灯のある庭園を洋装の人物が散策。
・日本の庭園文化と西洋風の服装が共存する様子が描かれ、まさに「和洋折衷」の
 時代を象徴。



開化好男子(かいかこうだんし) 」。
この作品は、明治23年(1890)頃の「文明開化を象徴する男性たち」を描いた錦絵。
描かれている人物は、それぞれ当時の最先端の洋装を身に着けている。
・大礼服の文官
 明治政府の高級官僚。宮中儀式などで着用した最も格式の高い礼服です。
・外套姿の法学博士
 西洋式のオーバーコートをまとった知識人。当時の大学教授や法律家を象徴しています。
・フロックコートの代議士
 帝国議会議員が着用した正式な洋装で、政治家の代表的な服装でした。
・詰め襟の学校生徒
 現在の学生服(学ラン)の原型となる制服で、文明開化とともに普及しました。
 説明板にもあるように、1890年頃はまだ洋服を着る人は少数派であった。
 洋装は官僚・政治家・知識人・学生など、新しい時代を担う人々の象徴であり、一般庶民の
 多くはまだ和服を着て生活していた。



開化好男子(かいかこうだんし)
Handsome Men of the Age of Enlightenment
1890年(明治23)
水野年方/画  大倉孫兵衛/版
明治中期の男性の代表的服装が描かれている。大礼服の文官、外套姿の法学博士、
フロックコートの代議士、詰め襟の学校生徒は、当時は少ない洋装である。」


東京百事流行案内 完
okyo Hyakuji Ryūkō Annai (Complete Guide to All Trends in Tokyo)
1894年(明治27)5月
大川新吉/編
詳細な図を用いて、欧米文化の影響を受けながら変化をしていった服装・日用品・髪型の
流行が紹介されている。

・貴人用(きじんよう)
・婦人用(ふじんよう)
・女人用(じょにんよう)
などの洋傘が図入りで紹介され、さらに折りたたみ傘や洋傘の各種形状も描かれている。



パラソル
Parasol
明治後期19 ~ 20世紀
赤木清士コレクション」



明治の文明開化をテーマにした錦絵を並べた展示。
左から順に見ていくと、文明開化によって人々の暮らしがどのように変わったかを表現していた。
1.ミシンを使う女性
・洋服を縫うための足踏みミシンを使っている。
・椅子に座って作業する様子も、従来の和式生活との違いを表している。
・洋裁・洋装の普及を象徴する場面。
2.街を走る馬車
・人力車と並んで馬車が行き交い、洋館が立ち並ぶ街並みが描かれている。
・文明開化による都市交通の発達を表現。
3.ガス灯(または洋式街灯)のある街
・洋装の人々と和装の人々が混在している。
・明治初期特有の「和洋折衷」の風景。
・夜にはガス灯が街を照らし、近代都市の象徴となった。



ダルマ自転車 」と「 黒ポスト(複製) 」。



ダルマ自転車」 をズームして。



ダルマ自転車
This bicycle was created imitating the Western Ordinary bicycle (penny-farthing) and
made by swordsmiths
1891年(明治24)
国友/製造
1877年(明治5)頃に日本に伝わったオーディナリー型自転車を模写して作られた
日本製自転車。銘から、鉄砲鍛冶職人により製造されたと判明している。
オーディナリー型は、車輪の1回転で進む距離が長く、スピードが出たが、操縦に高度な技術を
必要とした。日本では、その形から「ダルマ自転車」と呼ばれた。」



黒ポスト(複製) 」をズームして。



黒ポスト(複製)
Mailbox, or Postbox, from 1872 to 1904 (replica)
1872年(明治5)
1871年(明治4)、日本で郵便制度がはじまった。最初に使用されたポストの書状集箱に
替わって登場したのが角柱型の郵便ポストであった。
正面に書かれる「郵便箱」を「たれべんばこ」と誤読し、公衆便所と勘違いした人の話が、
当時の新聞に掲載された。」 



ドレス(複製) 」。
明治時代の上流階級の女性が舞踏会などで着用した「バッスルドレス」の復製。
このようなドレスは、鹿鳴館で開かれた舞踏会など、明治政府が欧米諸国との外交を進める
ための社交の場で着用された。文明開化の象徴ともいえる洋装であり、日本の上流階級の
女性たちは、このような西洋式の礼装を身にまとって外国の賓客を迎えた と。



ドレス(複製)
A bustle dress worn for dance parties and other occasions (replica)
明治時代(1867~1912)
資料は、1866年(慶応2)多摩地域の裕福な家に生まれた女性が、早稲田に住んでいた頃
手に入れたもの。内側には鯨の骨がコルセットのように縫い付けてあり、スカートの
腰の後部にはボリュームを出すための詰め物が入っている。
このようなドレスをバッスルドレスと呼び、上流階級の女性が舞踏会などで着用する衣裳
として普及した。」 



アイスクリームグラス
Glass for Ice Cream
1907年(明治40)
1869年(明治2)、横浜で日本最初のアイスクリーム店が開業した。同時期に北海道の函館で
氷の生産および流通がはじまったのも追い風となり、各地の洋食店などでもデザートとして
供されるなど普及が進んでいった。」 

あんパン(複製)
Anpan: bread with bean paste in the center (replica)
明治時代(1867~1912)
明治時代に入り、パンも文明開化の象徴として知られるようになった。
あんパンは、洋食文化のパンに日本的な要素を工夫して取り入れたもので、人々にも広く
親しまれ、今日にいたっている。」 



ズームして。



金魚鉢
Goldfish Bowl
1877年(明治10)頃
日本製 赤木清士コレクション
江戸時代の庶民は、金魚を金魚玉(きんぎょだま)というガラス製の器に入れて軒先に吊るし、
目で涼を楽しんでいた。やがて、庶民の間にも金魚鉢が浸透していくが、金魚とガラス製の
器という涼しげな組み合わせは、明治期においても庶民の夏の風物詩として好まれた。」  



紙調琴(しちょうきん) 」 
紙調琴(しちょうきん)は、明治時代に西洋の自動演奏オルガンを手本として日本で考案された、
自動演奏楽器。
正面のハンドルを手で回すと、左右の大きな巻き取り軸の間を穴の開いた紙の楽譜(紙曲譜)が
送られる。
穴の位置に合わせて空気が流れ込み、内部のリード(簧)が振動して音を出す。
仕組みは現在のオルガンや手回しオルガンにも似ているが、音色は説明板にもあるように
アコーディオンに近い柔らかな音。
展示品は黒漆塗りに金蒔絵が施された美しい外観で、前面には孔雀、天板や側面には松や草花の
蒔絵が描かれており、実用品であると同時に工芸品としても高い価値を感じさせる。



紙調琴(しちょうきん)
Shichô-kin (Japanese old musical box)
1884年(明治17)以降
琴声館/製
西洋の自動演奏装置を真似てつくられた楽器。ハンドルを回すと紙製の曲譜が進み、
孔のあいた部分に空気が通って演奏されるしくみで、音色はアコーディオンに近い。
戸田欽堂が考案し、1884年(明治17)に銀座の十字屋が販売して大人気となった
「紙腔琴」の類品である。」 



掛け時計」。



掛け時計
Wall clock
1870年(明治3)
政府は明治のはじまりとともに江戸以来の様々な制度を改廃した。その一つに、時・分・秒で
時間を刻む定時法の採用があった。定時法の浸透により時計は各地に普及し、駅や郵便局などの
公的機関には掛け時計が設置された。」



時計の街、東京
Tokyo : The City of Clocks
1872年(明治5)11月、明治政府はこれまで採用していた太陰太陽暦から太陽暦への改暦を
公布、翌年から太陽暦へと移行した。この時、時刻制度も季節によって時の長さが変わる
不定時法から現行の定時法へと変更された。それにともない、海外から機械式の掛け時計や
懐中時計が輸入されるようになった。まだ高価だった時計はおもに官公庁や駅などに設置
されたが、のちに商店建築にも取り入れられた。東京には時計塔を備えた建物が多数建てられる
ようになった。」 



鹿鳴館(ろくめいかん) 」の模型。 



鹿鳴館(ろくめいかん) 」の写真をネットから。
建設: 1883年(明治16年)に東京・内幸町に完成。
目的: 不平等条約の改正を目指し、外国の要人を接待するための国家的社交場。
特徴: 華やかな舞踏会が開かれ、文明開化・欧化政策の象徴とされたが、1940年に解体。

新建築(明治16年)▷鹿鳴館(1883~改築・移築~1940) | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives

明治期の銀座煉瓦街(ぎんざれんががい)の街並み復元模型
昼景と夜景を照明で切り替えて展示しており、文明開化の銀座がどのような姿だったかを
体感できる人気の展示で。
・中央には路面電車(東京市電)が走っています。
・道路の両側には、二階建ての煉瓦造り洋風建築が整然と並んでいます。
・通りには人力車、馬車、自転車、歩行者が行き交い、明治の活気ある街の様子が
 再現されています。
・街路樹やガス灯も整備され、近代都市へ生まれ変わった銀座の姿が表現されています。

昼景
昼間の銀座は人通りが多く、買い物客や紳士・淑女、人力車夫などで賑わっています。
煉瓦造りの商店が軒を連ね、文明開化の象徴ともいえる洋風都市の景観が広がります。



夜景
照明が青みを帯びた夜景に切り替わると、ガス灯が街を照らし、昼とは異なる幻想的な
雰囲気になります。当時はガス灯そのものが文明開化の象徴であり、人々は夜でも安心して
街を歩き、買い物や社交を楽しめるようになりました。



ニコライ堂 」の模型。



ニコライ堂
(重要文化財・明治29年〈1896〉)
神田駿河台の丘の上に建つニコライ堂では、今はビルの谷間に建っているが、かつては
広範囲の町並みを見渡すことができた。
「東京ハリストス復活大聖堂」という正式な名称 があるが、東京の人々には、明治初期の
日本・ロシアの交流に尽くした宣教師ニコライにちなむ「ニコライ堂」という名で
親しまれている。
ミハイル=シチュールポフが原案を担当し、ジョサイア・コンドルが設計、長郷泰輔が施工、
1891年(明治24)に竣工した。
建物はビザンチン様式のなごりをとどめ、異国情緒あふれる偉容は、独特な鐘の音とともに、
よく文学や絵画の題材となった。
関東大震災によってドームと鐘楼が崩れたが、ドームなどは岡田信一郎の設計によって
再興され、現在にいたる。
ニコライ堂から撮影したパノラマ写真
写真中の主な施設
・懲兵工営
・通信省用地
・女子高等師範学校(のちのお茶の水女子大学)
・理科大学(のちの東京大学)
・医科大学時計台(のちの東京大学)
・霊雲寺
・湯島小学校
・湯島天神
・湯島聖堂
・不忍池
・神田神社
・富士山
写真下部
・東京高等師範学校(のちの東京教育大学)
・太田姫神社」



ロシア正教会の神学校(神学教育施設)や教会関係者の施設 を再現したもの。
この付属建物は現存していない と。



映像で紹介。
ニコライ堂の大型模型に、時間の経過を映像で重ねて見せる演出の場面。



背景スクリーンには「三崎町練兵場」と表示され、ニコライ堂から見えた当時の東京の景観を
解説していた。
「三崎町練兵場」とは
三崎町練兵場(みさきちょうれんぺいじょう)は、現在の東京都千代田区神田三崎町
(水道橋駅周辺)にあった陸軍の練兵場(兵士の訓練場)。
明治初期、この一帯はまだ市街地ではなく広大な空き地で、
・歩兵の訓練
・観兵式
・軍事演習
などが行われていた。



背景は、ニコライ堂の鐘楼から眺めた明治東京の実際のパノラマ風景が。
ニコライ堂は駿河台の高台に建てられていたため、
・神田
・皇居方面
・丸の内
・三崎町方面
まで見渡すことができ、東京有数の展望地点 でもあった。



ニコライ堂内部を見せるために、正面入口側の外壁部分が自動的に下降する仕掛けになっていた。
写真では、入口部分が下がったことで、通常は見ることのできない礼拝堂(聖堂)内部が
一望できるのであった。



下降した外壁越しに見たニコライ堂内部の精密模型を拡大したもの。
細部まで非常によく作り込まれているのであった。
写真左側の壮麗な金色の壁は、 イコノスタシス(Iconostasis・聖障)
イコノスタシスは正教会を象徴する設備で、
・キリスト
・聖母マリア
・聖ニコライ
・使徒や諸聖人
などのイコン(聖画像)が何段にも並んでいる のが確認できた。
この奥が至聖所(祭壇)であり、通常は司祭だけが立ち入ることのできる神聖な場所



銀座煉瓦街
復元年代:明治10年代後半(1882~86) 縮尺:1/25
銀座煉瓦街は、1872年(明治5)2月の銀座から築地一帯を焼き尽くす大火の後、近代国家に
ふさわしい街づくりとして、明治新政府によって計画、建設されたものである。
計画の中心は、新橋ステーションから築地居留地や諸官庁を結ぶ銀座地域に、不燃家屋
(煉瓦造り)を建設し、道路を拡張・改良しようとするものであった。
大火の後、英国人トーマス=J=ウォートルスが設計を担当、建設には大蔵省建築局があたり、
翌年には、西洋を模した街区が姿をあらわした。
煉瓦街の各家屋は、はじめ買い取りであったが、その後、賃貸契約になった後も、高額な
家賃のために空き家が目立った。やがてウィンドウディスプレイなどの近代商法が根づいたり、
思潮をリードする新聞社・雑誌社が次々に集まったことも手伝って、文明開化を象徴する
街としてにぎわった。」 



「銀座煉瓦街」大型模型(縮尺1/25) を少し高い位置から撮影。
左側の大きな洋風建築
写真左手前の二階建ての堂々とした建物は、銀行や商社、新聞社などの大型店舗をイメージした
建物。
・列柱(コロネード)
・バルコニー
・西洋風の切妻破風
・左右対称の外観
など、英国風建築の特徴が表れていた。



右側の建物をズームして。
・2階建て煉瓦造商店の列柱(アーケード)
・店舗の暖簾や看板
・店先の商品や荷物
・路面電車の軌道
・人力車・馬車
・行き交う人々の様子 を。



一番右側の建物をズームして。
・白い漆喰風の外壁
・2階のベランダ
・緑色の鎧戸(よろいど)
・1階のアーケード(列柱)
・入口脇の丸い時計のような看板   などが確認できた。



銀座煉瓦街模型に登場する 建物や、人々・乗り物・商店を解説した鳥瞰イラスト



こちらも。
江戸東京博物館の銀座煉瓦街模型を鑑賞するための索引図で、
「この建物は何か」「この人は何をしているのか」が一目で分かるように作られていた。



移動して。



銀座煉瓦街ガス灯  明治期(1874~1912)」
明治7年(1874)12月、銀座の大通りに85基のガス灯が登場。夕暮れになると「点灯夫」が
一基ずつ火を入れて歩き、その姿も銀座の名物になったという。



銀座煉瓦街ガス灯
明治期(1874~1912)
1874年(明治7)12月、銀座の大通りにガス灯85基が設置され、夜の煉瓦街を照らしはじめた。
夕暮れになると火を入れて歩く点灯夫(てんとうふ)の姿は、当時、銀座の名物になった。」 
明治20年代から電気が普及するにつれ、ガス灯から電灯へ移り変わっていき、大正半ばには
ガス灯はほとんど見られなくなった。



煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構  明治初期(1872~77) 」 



煉瓦壁 銀座煉瓦街遺構
明治初期(1872~77)
明治新政府は開化政策の一つとしてロンドン、パリにならう「不燃都市」を企図し、
1872年(明治5)2月、銀座から築地一帯を焼き払った大火を契機に、煉瓦造家屋の建設に
着手した。イギリス人建築家ウォートルスの設計によるもので、日本の近代都市計画の先駆を
つけたといわれる。
この煉瓦壁はその遺構で、1988年(昭和63)、中央区銀座8丁目のビル工事現場から偶然に
発見された。」 



銀座煉瓦街遺構」が1988年(昭和63)に発見された際の記録写真
ビル工事中に発見された煉瓦壁。
Brick Walls Discovered during Building Construction
写真は2枚 あり、
左:上方から見た発掘・工事現場。地中から現れた煉瓦壁が細長く残っている。
右:煉瓦壁を正面から見た状態。かなり大きな面積で壁体が残存していたことが分かる。」 






                                 ・・・もどる・・・






                 ・・・つづく・・・









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Last updated  2026.09.04 05:14:06
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