hongming漫筆

hongming漫筆

PR

Comments

背番号のないエース0829 @ 松谷みよ子】(04/22) 「私のアンネ = フランク」に、上記の内…
hongming @ Re:ブルーレイが再生できない(11/30) 随分遅くなりましたが、やっと試しました…

Keyword Search

▼キーワード検索

2004.02.27
XML
カテゴリ: 近代文学


 前に読んだのは二十年以上まで、大まかなところ以外はすっかり忘れていた。
 「先生」と出会った時のことを語った文章ですでに「先生が亡《な》くなった今日になって」(p15)とあり、読者には、この「先生」はいずれ死ぬのだ、ということが提示されている。
 小説の中での「現在」は、主人公が列車の中で手紙を読んでいる時であるようだ。
 以前は、なんとなく、「私」は「K」を失うことをおそれて「お嬢さん」に求婚したのかと思っていたが、読み直すとそうではない。純粋に「お嬢さん」を自分のものにしたかったのだ。

 内容もさることながら、言葉が興味深い。
 その代表が「寂しい」。
 「ちっとも寂《さむ》しくありません」「うちほど寂《さむ》しいものはありません」(p23)
 「家《うち》はまた寂《さみ》しくなる」(p112)
 「寂《さむ》しいからもっといてくれ」(p115)

 「無人で寂《さむ》しくって困るから」(p158)
 「無人で寂《さむ》しいから」(p169)
 「一人で寂しくってしかたがなくなった結果」(p256)
 という具合で、「さみしい」「さむしい」はあっても「さびしい」はないようだ。最も、どこまで漱石自身がルビを振ったのかはわからないが。

 「その言葉の耳ざわりからいうと」(p45)では「耳ざわり」が「耳障り」とは違う意味で使われている。

 主人公は漱石と同じく、近代的自我を持ち、前近代的な自我の持ち主とは合わない。
 「父の無知から出る田舎《いなか》臭いところに不快を感じだした。」(p94)
 「私は田舎の客がきらいだった。(中略)私は子供の時から彼らの席に持するのを心苦しく感じていた。」(p99)
 「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」(p100)という父親の、主人公への不満は自我のありかたの違いによるものだ。
 「私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよくわかるかと聞き返してやりたかった。」(p128)というところに、自分と同じように教育を受けた兄が、前近代的な自我の持ち主であることへのいらだちがあらわれている。

 「ページさえ切ってない」(p173)は、洋本は袋とじになっていて、自分で切らなくてはならなかったということだろう。



 「自分の愛人とその母親」(p241)の「愛人」は現代とは意味が異なる。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2005.04.01 21:23:19
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: