hongming漫筆

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2004.03.12
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カテゴリ: 近代文学




 たしか十年以上前に一度読んでいるのだが、ほとんど忘れてしまっている。
 また、その間にいろいろほかの本を読んでいるので、ほかで得た知識とあいまって「ほう」と思うこともあった。
 成立過程は巻末の「編録者の言葉」に詳しい。
 漱石の死後十年がたち、晩年に漱石のもとに出入りしていた松岡譲が、未亡人に話を聞いてまとめたもの。
 「家庭における漱石」「妻の見た漱石」、つまり、作家としてではなく、家庭人としての実像である。
 漱石に幻想を抱いている人からは批判もされたらしい。
 親しく出入りしていながら、漱石の一面しか知らなかった人も多かったろう。
 解説で、次男の夏目伸六が、小宮豊隆の『夏目漱石』を評して、「著者のこの消化不良と頭の悪さとが」と述べている。
 家庭での姿のみ見ていたものとしては、はたから見ていたものの書くものには、腹立たしい思いさえしたことだろう。


 結婚前の逸話として、漱石が、ありもしない縁談を断ったと言って怒った話(p10)が語られている。今なら、人格障害か、統合失調症というところだ。
 ロンドン時代も、「だれかが監視しているような追跡しているような、悪口をいっているような気が」(pp108)したそうだ。
 脳を病んでいる夫・父を持つ家族も大変だが、本人も苦しかったろう。
 泣きやまない末子に、「皆にいじめられ、そのうえ父からもかわいがられなかった」(p309)自分を重ね合わせてあやすところなどは哀れである。

 以下、印象に残ったところ。

 「新し橋のところの丸木|利陽《りよう》で写真を撮《と》って送り」(p19)
 新橋の間違いかと思ったら「新し橋」という地名があったのだ。

 夫人は朝寝坊で「時々朝のご飯もたべさせないで学校へ出したような例も少なくありませんでした。」(p34)明治でも朝寝坊の人はいたのだ。

 「藤島さんののが」(p45)、「また例ののが」(p139)はそれぞれ、今なら、「藤島さんのが」「例のが」というところ。
 「一人ののが二人ふえて」(p329)というのもある。

「いったい夏目は生家のものに対しては、まず情愛がないと申してもよかったでしょう。あるものは軽蔑《けいべつ》と反感ぐらいのもので」(p47)と、漱石の長じてからの態度を語ってから、それまでの生い立ちが語られる。



 漱石は、徴兵免除のため一時、北海道に籍を移していたことがあった。(p63)
 もし軍隊にいたらそれこそ発狂してどうにもならない状態になっていたのではないだろうか。

 鈴木三重吉はもとは子供嫌いだった。(p192)

 修善寺での大病の時、ワラブトン(p225)に寝ていた。

 三三九度の練習で「座敷に二人が向かい合って坐っていると」(p271)とある。今なら横に並ぶところだが、江戸の風習がまだ残っていたようだ。



 大阪から帰った後痔の手術をしているが、「翌年になってもまだ膿《のう》が出たりして」(p277)ということで、痔瘻だったようだ。

 「駄洒落《だじゃれ》や皮肉をかっ飛ばして」(p279)の「かっ飛ばす」は江戸弁か。

 通夜僧が「何でもかっかじめるような話をいたします」(p285)の「かっかじめる」も江戸弁か。

 「菊五郎はたしか長谷川時雨《はせがわしぐれ》さんがお連れになって」(p323)。ほう、長谷川時雨とも交際があったのか。江戸の人同士、話が合ったのかもしれない。森茉莉は確か長谷川時雨から何かもらったことがあったはず。文人同士、広くつきあった人なのだろう。

 教師としての漱石。「おれはできない生徒にはどこの学校でも仇敵《かたき》のように思われたもんだが、そのかわりできる生徒からは非常にうけがよかったもんだ」(p340)





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Last updated  2005.04.01 21:22:53
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